西郡久吾『(北越偉人)沙門良寛全伝』、谷川敏朗編『良寛伝記・年譜・文献目録』(『良寛全集』別巻一)、宮栄二編『良寛研究論集』、田中圭一『良寛』
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
江戸後期の歌人、漢詩人。越後 (えちご)出雲崎 (いずもざき)町(現新潟県出雲崎町)の名主兼神職の橘 (たちばな)屋山本左門泰雄 (やすお)の長子として生まれた。母は佐渡相川 (あいかわ)山本庄兵衛の女 (むすめ)。幼名栄蔵、のち文孝 (ふみたか)、字 (あざな)は曲 (まがり)、剃髪 (ていはつ)して良寛、大愚 (たいぐ)と号した。18歳のとき一時家を継いだが、同年、突如、隣町尼瀬 (あまぜ)町曹洞 (そうとう)宗光照 (こうしょう)寺の玄乗破了和尚 (げんじょうはりょうわじょう)の徒弟となり出家して良寛と称した。1775年(安永4)7月備中 (びっちゅう)国玉島 (たましま)(岡山県倉敷市)円通寺 (えんつうじ)の国仙 (こくせん)和尚が光照寺滞在中感銘し、随行して玉島に赴き十数年間師事する。中国、四国、九州を行脚 (あんぎゃ)し、京都から高野山 (こうやさん)に上り40歳を過ぎてから越後に帰った。
越後へ帰国後は郷本 (ごうもと)(現長岡 (ながおか)市寺泊 (てらどまり)郷本)、中山、寺泊を転々し、それよりさらに国上 (くがみ)山山腹の草庵五合 (そうあんごごう)庵にひとりで住み、ここで15、6年を過ごした。のち、69歳国上山麓 (さんろく)の乙子 (おとご)神社境内に庵 (いおり)をつくって移ったが、老衰のため、三島 (さんとう)郡島崎村(現長岡市島崎)の豪商能登 (のと)屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受けた。そのころ若い尼貞心 (ていしん)尼の来訪を受け、没するまで密接な交遊があった。5年目の天保 (てんぽう)2年正月6日ここで没した。墓は長岡市真宗大谷派隆泉 (りゅうせん)寺境内木村家墓地内にある。
良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢 (たくはつ)生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子供を好み、手毬 (てまり)とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。無一物でありながら、震えている乞食 (こじき)に着物を脱いで与えたこともあるなど、自作の詩歌や『良寛禅師奇話』(解良栄重 (けらよししげ)著)などに伝える。
彼は、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。どれも一流であるが、どれにも師がなかったらしい。歌人としての良寛がもっとも広く知られているが、和歌の師は『万葉集』で、人に借りてこれを愛読し、進んでその影響を受けた。越後へ帰国前のわずか十数首であるが残っている歌には『万葉集』の影響はみられない。帰国後の歌には『万葉集』の語句を多く使っているが、それは模倣したのではなく、『万葉集』を愛読のあまり、つい口をついてその語句が出るようになり、『万葉集』即良寛という境地になったのであろう。彼の歌は正直で純真である。人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させる。
漢詩の才にも恵まれ、自筆の『草堂詩集』(未刊)、『良寛道人遺稿』がある。良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。歌集の自筆稿本はなく、没後に弟子貞心尼編『蓮 (はちす)の露』、村山半牧編『良寛歌集』、林甕雄 (かめお)編『良寛和尚遺稿』などがあるにすぎない。まとまった歌集としては、『良寛歌集』がようやく1879年(明治12)に出版された。多くの人から親しまれ愛された良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵、乙子神社の庵跡には良寛の詩と歌を刻んだ碑が建てられ、島崎の木村家邸内には遷化 (せんげ)跡の標示と良寛遺宝堂、出雲崎町に良寛記念館がある。
飯乞 (いひこ)ふと我 (わ)が来 (こ)しかども春の野に菫 (すみれ)つみつつ時を経にけり
世界大百科事典
江戸後期の禅僧にして歌人,書家。本名は山本栄蔵,のち文孝。字は曲(まがり)。号は大愚(たいぐ)。現在の新潟県,越後の出雲崎で代々名主と神官を兼ねる旧家の長男として生まれた。屋号は橘屋,父泰雄(通称次郎左衛門)は俳号を似南と号する近在では知られた俳人であった。長じて名主見習役になったが,1775年(安永4)18歳の年に隣村尼瀬の曹洞宗光照寺に入って剃髪,良寛を名のり,大愚と称した。79年光照寺に来た備中国玉島(現,岡山県倉敷市)円通寺の国仙の得度を受け,国仙に従って円通寺へ赴いた。以降11年間,同寺で修行し,90年(寛政2)に国仙より〈附良寛庵主〉の偈を受けた。翌年国仙が入寂したため,良寛は諸国行脚の旅に出,以降6年間,各地を経巡った。父似南が京都桂川に身を投げて死んだのはこの行脚の旅の最中(1795)であったが,良寛は上洛して七七日の法会に参列している。行脚の旅を切り上げて越後に帰郷したのは,父の死の年,あるいはその翌年かとされる。帰郷した良寛は,出雲崎近辺の草庵を転々とする。97年から1802年(享和2)までの5年間,および1804年(文化1)から16年までの12年間,合わせて17年は,国上(くがみ)山の真言宗国上(こくじよう)寺の五合庵に住んだ。農民と親しく接触し,子どもたちとの交流のエピソードを残したのは,帰郷後のこの時代のことである。その後,江戸に出たり,東北地方を行脚したりもした。26年(文政9)69歳の折,三島郡島崎の能登屋木村元右衛門方に移った(木村家は現在,土蔵を改造し,良寛記念館となっている)。そして翌年,70歳の年に29歳の貞信尼と出会った。貞信尼は越後長岡藩士奥村五郎兵衛の次女で,医師関長温と結婚したが死別,23歳で尼となっていた。短歌をよくし,良寛との贈答歌も多い。良寛没後も長生きし,1872年(明治5)に75歳で没した。貞信尼は弟子として,女性としてひたすらな愛を良寛にささげ,良寛もまた晩年の愛弟子を深く愛した。彼らの恋愛は,貞信尼が編んだ《(はちす)の露》(1835)に収められた2人の贈答歌によって知ることができる。貞信尼は長岡から5里の道を通ったのだった。けっして泊まることはなく,彼女が泊まったのは良寛が死去した晩だけだったという。貞信尼との出会いは,晩年の良寛の書や歌に,明るさと華やぎとをもたらしたのだった。1831年(天保2)1月6日,前年の秋にわずらった重い痢病(赤痢の類)がもとで,貞信尼らに介抱されながら円寂。
良寛にはまとまった家集はなく,前述の《の露》のほかに自選自筆歌稿《布留散東(ふるさと)》があるだけで,両者合わせても200首ほどにしかならない。ただし,遺墨として多くの歌を知ることができ,現在1400首ほどの作が知られている。万葉風と評されるが,書と同様にその作風は自由自在である。
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