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  11. 良寛

良寛

ジャパンナレッジで閲覧できる『良寛』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

良寛
りょうかん
 - 一八三一
江戸時代後期の越後の禅僧。幼名栄蔵、のちに文孝。字を曲という。薙髪して良寛と称し大愚と号した。越後国三島郡出雲崎町で宝暦八年(一七五八)に生まれたとされるが、宝暦七年生誕説もある。家は出雲崎町の名主を務めていた橘屋山本氏で、慶長三年(一五九八)に秋田から敦賀への御用杉輸送を請け負ったことが『秋田家文書』(東北大学所蔵)にみえる旧家。父新左衛門は三島郡与板町新木家から入った養嗣子で、処世の才には欠けていたが、以南と号し、俳諧を好んで加藤暁台に師事、「北越蕉風中興の棟梁」と称された。母は橘屋の分家である佐渡相川町橘屋の女。名は長く秀子とされていたが、近時おのぶであることが知られた。良寛は長男。ただし兄があり夭折したともいわれる。明和五年(一七六八)ころ、江戸の古学派滝鶴台らに学んで帰り地蔵堂(新潟県西蒲原郡分水町)の私塾三峰館で教えていた大森子陽の門に入る。修学すること六年という。帰郷して名主見習役を務める。俗事になじめず、安永四年(一七七五)十八歳の時に出家したといわれるが、二十二歳出家説もある。同八年二十二歳で、尼瀬(新潟県三島郡出雲崎町)の曹洞宗光照寺に巡錫した備中玉島(岡山県倉敷市)円通寺の国仙について得度、随従して円通寺に入る。国仙のもとで修行、寛政二年(一七九〇)冬、「良也如愚道転寛、騰々任運得誰看」という印可の偈を受ける。翌三年三月国仙が示寂すると、間もなく円通寺を去って諸国を遍歴。土佐の古庵で荘子を読んでいたとか、京都桂川に入水した父以南の跡を弔ったとか伝えられる。寛政八年ころ帰国、国上山(分水町)中腹にある真言宗国上寺境内の五合庵や郷本(三島郡寺泊町)の空庵などを転々とした後、文化元年(一八〇四)ころ五合庵に定住。名利にとらわれぬ乞食生活を送り、托鉢の途次子供と戯れるなど気ままな言動の一方、詩歌に優れ書を善くし、阿部定珍・解良叔問・鈴木文台ら地元の文人や来越した亀田鵬斎らと交遊した。文化十三年ころ、老齢となって薪水の煩にたえず国上山麓にある乙子(おとご)神社境内の小庵に移る。文政九年(一八二六)には島崎村(三島郡和島村)木村家の勧めにより、同家邸内の木小屋を改修した庵室に入った。この地で、来訪した貞心尼を知り多くの和歌を贈答。天保元年(一八三〇)夏ころに病を得、同年十二月下旬に至って悪化、翌天保二年正月六日示寂した。年七十四(一説に七十五)。墓は、木村家の菩提寺和島村浄土真宗隆泉寺にある。自筆の著作としては、漢詩集『草堂集』、和歌集『布留散東(ふるさと)』などがあるが、作品の一部にすぎない。のちに各種資料が次第に集成され、現在その大体は大島花束編『良寛全集』、東郷豊治編『良寛全集』などに収められている。良寛の墨跡は生前から珍重されていたが、現在、分水町阿部家・解良家所蔵の『良寛遺墨』がそれぞれ重要文化財。和島村木村家所蔵『良寛遺墨』が新潟県指定文化財。また出雲崎町橘屋跡が「良寛生誕地」、分水町五合庵境内・乙子神社境内がそれぞれ「良寛修行地」、和島村木村家邸域・隆泉寺墓地がそれぞれ「良寛終焉地」として県指定史跡。
[参考文献]
西郡久吾『(北越偉人)沙門良寛全伝』、谷川敏朗編『良寛伝記・年譜・文献目録』(『良寛全集』別巻一)、宮栄二編『良寛研究論集』、田中圭一『良寛』
(井上 慶隆)


日本大百科全書(ニッポニカ)

良寛
りょうかん
[1757/1758―1831]

江戸後期の歌人、漢詩人。越後 (えちご)出雲崎 (いずもざき)町(現新潟県出雲崎町)の名主兼神職の橘 (たちばな)屋山本左門泰雄 (やすお)の長子として生まれた。母は佐渡相川 (あいかわ)山本庄兵衛の女 (むすめ)。幼名栄蔵、のち文孝 (ふみたか)、字 (あざな)は曲 (まがり)、剃髪 (ていはつ)して良寛、大愚 (たいぐ)と号した。18歳のとき一時家を継いだが、同年、突如、隣町尼瀬 (あまぜ)町曹洞 (そうとう)宗光照 (こうしょう)寺の玄乗破了和尚 (げんじょうはりょうわじょう)の徒弟となり出家して良寛と称した。1775年(安永4)7月備中 (びっちゅう)国玉島 (たましま)(岡山県倉敷市)円通寺 (えんつうじ)の国仙 (こくせん)和尚が光照寺滞在中感銘し、随行して玉島に赴き十数年間師事する。中国、四国、九州を行脚 (あんぎゃ)し、京都から高野山 (こうやさん)に上り40歳を過ぎてから越後に帰った。

 越後へ帰国後は郷本 (ごうもと)(現長岡 (ながおか)市寺泊 (てらどまり)郷本)、中山、寺泊を転々し、それよりさらに国上 (くがみ)山山腹の草庵五合 (そうあんごごう)庵にひとりで住み、ここで15、6年を過ごした。のち、69歳国上山麓 (さんろく)の乙子 (おとご)神社境内に庵 (いおり)をつくって移ったが、老衰のため、三島 (さんとう)郡島崎村(現長岡市島崎)の豪商能登 (のと)屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受けた。そのころ若い尼貞心 (ていしん)尼の来訪を受け、没するまで密接な交遊があった。5年目の天保 (てんぽう)2年正月6日ここで没した。墓は長岡市真宗大谷派隆泉 (りゅうせん)寺境内木村家墓地内にある。

 良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢 (たくはつ)生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子供を好み、手毬 (てまり)とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。無一物でありながら、震えている乞食 (こじき)に着物を脱いで与えたこともあるなど、自作の詩歌や『良寛禅師奇話』(解良栄重 (けらよししげ)著)などに伝える。

 彼は、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。どれも一流であるが、どれにも師がなかったらしい。歌人としての良寛がもっとも広く知られているが、和歌の師は『万葉集』で、人に借りてこれを愛読し、進んでその影響を受けた。越後へ帰国前のわずか十数首であるが残っている歌には『万葉集』の影響はみられない。帰国後の歌には『万葉集』の語句を多く使っているが、それは模倣したのではなく、『万葉集』を愛読のあまり、つい口をついてその語句が出るようになり、『万葉集』即良寛という境地になったのであろう。彼の歌は正直で純真である。人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させる。

 漢詩の才にも恵まれ、自筆の『草堂詩集』(未刊)、『良寛道人遺稿』がある。良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。歌集の自筆稿本はなく、没後に弟子貞心尼編『蓮 (はちす)の露』、村山半牧編『良寛歌集』、林甕雄 (かめお)編『良寛和尚遺稿』などがあるにすぎない。まとまった歌集としては、『良寛歌集』がようやく1879年(明治12)に出版された。多くの人から親しまれ愛された良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵、乙子神社の庵跡には良寛の詩と歌を刻んだ碑が建てられ、島崎の木村家邸内には遷化 (せんげ)跡の標示と良寛遺宝堂、出雲崎町に良寛記念館がある。

[辻森秀英]

 飯乞 (いひこ)ふと我 (わ)が来 (こ)しかども春の野に菫 (すみれ)つみつつ時を経にけり



世界大百科事典

良寛
りょうかん
1758-1831(宝暦8-天保2)

江戸後期の禅僧にして歌人,書家。本名は山本栄蔵,のち文孝。字は曲(まがり)。号は大愚(たいぐ)。現在の新潟県,越後の出雲崎で代々名主と神官を兼ねる旧家の長男として生まれた。屋号は橘屋,父泰雄(通称次郎左衛門)は俳号を似南と号する近在では知られた俳人であった。長じて名主見習役になったが,1775年(安永4)18歳の年に隣村尼瀬の曹洞宗光照寺に入って剃髪,良寛を名のり,大愚と称した。79年光照寺に来た備中国玉島(現,岡山県倉敷市)円通寺の国仙の得度を受け,国仙に従って円通寺へ赴いた。以降11年間,同寺で修行し,90年(寛政2)に国仙より〈附良寛庵主〉の偈を受けた。翌年国仙が入寂したため,良寛は諸国行脚の旅に出,以降6年間,各地を経巡った。父似南が京都桂川に身を投げて死んだのはこの行脚の旅の最中(1795)であったが,良寛は上洛して七七日の法会に参列している。行脚の旅を切り上げて越後に帰郷したのは,父の死の年,あるいはその翌年かとされる。帰郷した良寛は,出雲崎近辺の草庵を転々とする。97年から1802年(享和2)までの5年間,および1804年(文化1)から16年までの12年間,合わせて17年は,国上(くがみ)山の真言宗国上(こくじよう)寺の五合庵に住んだ。農民と親しく接触し,子どもたちとの交流のエピソードを残したのは,帰郷後のこの時代のことである。その後,江戸に出たり,東北地方を行脚したりもした。26年(文政9)69歳の折,三島郡島崎の能登屋木村元右衛門方に移った(木村家は現在,土蔵を改造し,良寛記念館となっている)。そして翌年,70歳の年に29歳の貞信尼と出会った。貞信尼は越後長岡藩士奥村五郎兵衛の次女で,医師関長温と結婚したが死別,23歳で尼となっていた。短歌をよくし,良寛との贈答歌も多い。良寛没後も長生きし,1872年(明治5)に75歳で没した。貞信尼は弟子として,女性としてひたすらな愛を良寛にささげ,良寛もまた晩年の愛弟子を深く愛した。彼らの恋愛は,貞信尼が編んだ《〓(はちす)の露》(1835)に収められた2人の贈答歌によって知ることができる。貞信尼は長岡から5里の道を通ったのだった。けっして泊まることはなく,彼女が泊まったのは良寛が死去した晩だけだったという。貞信尼との出会いは,晩年の良寛の書や歌に,明るさと華やぎとをもたらしたのだった。1831年(天保2)1月6日,前年の秋にわずらった重い痢病(赤痢の類)がもとで,貞信尼らに介抱されながら円寂。

 良寛にはまとまった家集はなく,前述の《〓の露》のほかに自選自筆歌稿《布留散東(ふるさと)》があるだけで,両者合わせても200首ほどにしかならない。ただし,遺墨として多くの歌を知ることができ,現在1400首ほどの作が知られている。万葉風と評されるが,書と同様にその作風は自由自在である。
[佐佐木 幸綱]

[索引語]
国上(こくじよう)寺 良寛記念館 貞信尼
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検索コンテンツ
1. 良寛画像
日本大百科全書
林甕雄かめお編『良寛和尚遺稿』などがあるにすぎない。まとまった歌集としては、『良寛歌集』がようやく1879年(明治12)に出版された。多くの人から親しまれ愛され
2. 良寛
世界大百科事典
っていた。短歌をよくし,良寛との贈答歌も多い。良寛没後も長生きし,1872年(明治5)に75歳で没した。貞信尼は弟子として,女性としてひたすらな愛を良寛にささげ
3. りょうかん[リャウクヮン]【良寛】
日本国語大辞典
江戸後期の禅僧。歌人。越後国(新潟県)出雲崎の人。俗名山本栄蔵。号は大愚。諸国を行脚し各地に漂泊転住、寛政九年(一七九七)故郷の国上山五合庵に身を落ち着ける。書
4. りょうかん【良寛】
国史大辞典
[参考文献]西郡久吾『(北越偉人)沙門良寛全伝』、谷川敏朗編『良寛伝記・年譜・文献目録』(『良寛全集』別巻一)、宮栄二編『良寛研究論集』、田中圭一『良寛』 (井
5. りょうかん【良寛】
日本人名大辞典
1757/58−1831 江戸時代中期-後期の僧,歌人,書家。宝暦7/8年生まれ。曹洞(そうとう)宗。越後(えちご)(新潟県)出雲崎の名主の子。備中(びっちゅう
6. りょうかん【良寛】
日本架空伝承人名事典
いう。良寛は喜んですぐに書いて与えたという。新潟大学に凧を持つ子供と良寛の像がある。 また、良寛が子供に手鞠をせがまれている像が、岡山県倉敷市の新倉敷駅、円通寺
7. 良寛[文献目録]
日本人物文献目録
良寛』相馬御風『良寛和尚尺牘』相馬御風『雲水良寛』大坪草二郎『一茶と良寛と芭蕉』相馬御風『良寛』松田青針『良寛坊物語』相馬御風『少年良寛和尚の生涯』高野盛義『
8. 良寛歌集
東洋文庫
万葉風ともいわれる自在な歌によって多くの人に親しまれる僧良寛。「良寛の歌は,人間即歌である」__歌人・吉野秀雄が敬愛する良寛の歌境を解説し,その歌心・考証力のす
9. 良寛詩集
東洋文庫
「私の詩は〈詩〉ではない」と自ら言う良寛。遊戯三昧の境涯を詠じた漢詩231首を収録。平明かつ破格な詩句にひたすら耳を傾けた現代語訳。詩を通じてその人間像を浮き彫
10. りょうかんかしゅう【良寛歌集】
国史大辞典
全集にも和歌が集成されている。 [参考文献]渡辺秀英『良寛歌集』、横山英編『未刊良寛歌集五種』、宮栄二編『良寛研究論集』、松永克男「新発見の良寛歌集」(『良寛
11. りょうかんししゅう【良寛詩集】
国史大辞典
十余首を収集して『良寛道人遺稿』を上梓。活字本は明治二十五年(一八九二)小林二郎編『僧良寛詩集』が最初。ついで大宮季貞・西郡久吾らが集成に努めた。 [参考文献]
12. 良寛と子守
世界大百科事典
1929年6月東京帝国劇場初演。良寛を13世守田勘弥が演じた。作曲3世常磐津文字兵衛,3世常磐津松尾太夫。振付7世藤間勘十郎。舞台は越後の国の村はずれの地蔵堂。
13. りょうかんとこもり【良寛と子守】
歌舞伎事典
昭和四(1929)年六月東京・帝国劇場初演。良寛=一三世守田勘弥。作曲三世常磐津文字兵衛・三世常磐津松尾太夫。振付七世藤間勘十郎。舞台は越後の国の村はずれの地蔵
14. 良寛詠歌(著作ID:532752)
新日本古典籍データベース
りょうかんえいか 良寛(りょうかん) 和歌 
15. 良寛和尚訓語(著作ID:4377734)
新日本古典籍データベース
りょうかんおしょうくんご 良寛(りょうかん) 
16. 良寛和尚草庵集(著作ID:1835161)
新日本古典籍データベース
りょうかんおしょうそうあんしゅう 良寛(りょうかん) 和歌 
17. 良寛句幅(著作ID:4387318)
新日本古典籍データベース
りょうかんくふく 良寛(りょうかん) 
18. 良寛上人伝(著作ID:4382594)
新日本古典籍データベース
りょうかんしょうにんでん 小林 敬甫(こばやし けいほ) 撰 伝記 明治二八
19. 良寛禅師歌集(著作ID:1835218)
新日本古典籍データベース
りょうかんぜんじかしゅう 林 甕雄(はやし みかお) 編 歌集 天保頃刊
20. 良寛尊者詩集(著作ID:4329366)
新日本古典籍データベース
りょうかんそんじゃししゅう 良寛(りょうかん) 漢詩 
21. 良寛短冊(著作ID:4384847)
新日本古典籍データベース
りょうかんたんざく 良寛(りょうかん) 俳諧 
22. 良寛道人遺稿(著作ID:532763)
新日本古典籍データベース
りょうかんどうにんいこう 良寛(りょうかん) 著 謙巌 蔵雲(けんがん ぞううん) 編 曹洞 慶応三序
23. 良寛法師/和歌抄(著作ID:4377743)
新日本古典籍データベース
りょうかんほうし/わかしょう 和歌 
24. 僧良寛歌集(著作ID:850500)
新日本古典籍データベース
そうりょうかんかしゅう 良寛禅師歌集 村山 恒二郎(むらやま つねじろう) 編 歌集 明治一二
25. いわもと-りょうかん【岩本良寛(初代)】
日本人名大辞典
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26. いわもと-りょうかん【岩本良寛(2代)】
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27. ほんだ-よしひろ【本田良寛】
日本人名大辞典
地区(釜ケ崎)で医療活動にあたる。45年発足の大阪社会医療センター付属病院長となる。「釜ケ崎の良寛(りょうかん)さん」として知られた。55年吉川英治文化賞。昭和
28. 或日の良寛(著作ID:4370593)
新日本古典籍データベース
あるひのりょうかん 若松 若太夫 一世(わかまつ わかたゆう 1せい) 浄瑠璃 説経 昭和一五
29. たいぐ-りょうかん【大愚良寛】
日本人名大辞典
良寛(りょうかん)
30. 会津八一
世界大百科事典
壇の選者になったり,当時北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手をつとめたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりした。早稲田大
31. あいづ‐やいち[あひづ‥]【会津八一】
日本国語大辞典
号は秋艸道人、渾斎など。早稲田大学教授。中国の古美術、大和の文化に造詣が深い。正岡子規に傾倒。万葉調、良寛調の独特の歌風をもつ歌集「鹿鳴集」「南京新唱」などがあ
32. あいづやいち【会津八一】
国史大辞典
、のち短歌に転じ、大正十三年(一九二四)第一歌集『南京新唱』を出版した。その歌風は『万葉集』、良寛、子規を継承し、独自の歌格をなしている。以後『鹿鳴集』を編み、
33. 会津 八一
日本近代文学大事典
うけた。新潟中学の五年生のころには『略解』『古義』などの古注によって『万葉集』を読み、郷土の先覚良寛の歌にも親しんだ。一方「ホトトギス」「日本」を愛読して正岡子
34. あかぎむら【赤木村】和歌山県:海草郡/美里町
日本歴史地名大系
されている(同月二一日「大法師実能御影堂陀羅尼田寄進状」同集)。延慶三年(一三一〇)にも阿闍梨良寛によって「神野庄赤木村字門田」の地が(同集)、元弘二年(一三三
35. あから‐ひく【赤引】
日本国語大辞典
・二三八九「ぬばたまの此の夜な明けそ朱引(あからひく)朝行く君を待たば苦しも〈人麻呂歌集〉」*良寛歌〔1835頃〕「あからひく 昼はしみらに 水鳥の 息つき暮ら
36. あがた‐つかさ【県司】
日本国語大辞典
前(さき)に摂州の県司(アガタツカサ)となり、京鴨河より摂州平野郷に移住(うつりすみ)けるが」*良寛歌〔1835頃〕「遠ち近ちのあがたつかさにもの申すもとの心を
37. あき‐かた【明方・開方】
日本国語大辞典
〔名〕(1)物の開き具合。(2)物事の始まるとき。ひらきはじめのとき。*良寛歌〔1835頃〕「み仏の あれます国の あきかたの そのいにしへの 事なりし」[発音
38. 秋山記行・夜職草 226ページ
東洋文庫
た。年八十歳。『夜職草』によれば、天明三年の頃玉元とも号し、越後に来遊したことが明らかであり、良寛との書画寄書はじめ、中越地方に玉元落款の屏風などの作品がかなり
39. 秋山記行・夜職草 286ページ
東洋文庫
日本海岸の漁港。江戸時代を通じ、佐渡の金銀を陸揚げする要港のため、天領となり代官所がおかれた。良寛の生家橘屋はこの地の名主であった。北陸道の要衝として古来文人墨
40. 秋山記行・夜職草 326ページ
東洋文庫
還暦に当り『秋月庵発句集』を写す。九月、雪譜刊行を馬琴に断り、京山に依頼する。十二月、自筆山水画に良寛の賛を得る(良寛没する一ヶ月前)。七月、『秋山記行』を一九
41. あさくちぐん【浅口郡】
国史大辞典
った。玉島港は郡内第一の商港として江戸時代初期から栄え物資が集散された。同地の曹洞宗円通寺は僧良寛の修行した所として著名である。郡内の大島村(笠岡市に併合)には
42. あさくちぐん【浅口郡】岡山県
日本歴史地名大系
期を迎えたが、以後とくに郡西部を中心に衰退した。安永八年(一七七九)柏島村の円通寺に国仙を慕い良寛が来寺、約二〇年間修行した。安政六年(一八五九)大谷村(現金光
43. あさじ が 宿(やど)
日本国語大辞典
*徒然草〔1331頃〕一三七「遠き雲井を思ひやり、浅茅がやどに昔を偲ぶこそ、色好むとはいはめ」*良寛歌〔1835頃〕「夏草の田ぶせの庵と秋の野のあさぢが宿はいづ
44. あさで‐こぶすま【麻手小衾】
日本国語大辞典
」*散木奇歌集〔1128頃〕冬「君こばと埴生のこやのゆかの上にあさでこぶすま引きてこそをれ」*良寛歌〔1835頃〕「あらたまの長き月日をいかにして明かし暮らさむ
45. あさな‐けに【朝日】
日本国語大辞典
953頃〕雑二・一一七四「あさなけに世のうき事を忍びつつながめせしまに年はへにけり〈土佐〉」*良寛歌〔1835頃〕「うつせみの あが身を去らず あさなけに 持た
46. あさに‐けに【朝日】
日本国語大辞典
後〕四・六六八「朝爾日爾(あさニけニ)色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに〈厚見王〉」*良寛歌〔1835頃〕「あしひきの 国上の山の 山もとに 庵りをしつ
47. あしき 気(け)
日本国語大辞典
病気。*良寛歌〔1835頃〕「わくらばに 人となれるを なにすとか このあしきけに さやらえて」
48. あじさかのしよう【鰺坂庄】福岡県:小郡市
日本歴史地名大系
大友家宿老戸次道雪らが長増山城(現久留米市)勤番料所として庄内中村一五町など六ヵ所を高良社大宮司厨良寛に宛行っている(正月二五日「大友家老臣連署知行宛行状」筑後
49. あだ‐くらべ【徒比・徒競】
日本国語大辞典
*浮世草子・男色大鑑〔1687〕四・五「化競(アダクラベ)とや月のよの雨、花盛(さかり)の風」*良寛歌〔1835頃〕「ぬばたまの夜の夢路とうつつとはいづれ勝ると
50. あだ‐びと【他人】
日本国語大辞典
あだしびと。*有明の別〔12C後〕一「我さへに恨みやせましあだ人になびきそめぬるもとの契(ちぎり)を」*良寛歌〔1835頃〕「あだ人の心は知らずおほよそのものに
「良寛」の情報だけではなく、「良寛」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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