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  11. 浜松城

浜松城

ジャパンナレッジで閲覧できる『浜松城』の国史大辞典・日本大百科全書・日本歴史地名大系のサンプルページ

国史大辞典

浜松城
はままつじょう
静岡県浜松市元城町にあった城。平山城。三方原洪積台地の最東南端に徳川家康が築城し、浜松城と称え、この地を引馬から浜松に改称した。引馬旧城主飯尾連竜は今川氏真に謀殺され、その留守を預かる老臣間の内紛を平定した家康が、元亀元年(一五七〇)、遠江経営と武田信玄・今川氏真の侵攻に備えて新たに築城したものである。家康は天正十四年(一五八六)十二月の駿府転進まで居城とした。結構は本丸・二ノ丸と五つの曲輪を構えた「当時隣国ニ稀ナル営構」(『武徳編年集成』)で、江戸幕府成立後は譜代大名(老中)の居城となった。明治政府は徳川家達の領地の一部に浜松藩領を与えたので、藩主井上正直は上総鶴舞に移封され、明治六年(一八七三)廃城となった。
[参考文献]
『浜松市史』二、木下忠「家康の遠州攻略と浜松宿」(大塚克美編『浜松の歴史』所収)
(岩崎 鐵志)


日本大百科全書(ニッポニカ)

浜松城
はままつじょう

戦国期~江戸期の城。静岡県浜松市中区元城 (もとしろ)町にある。城は三方原 (みかたはら)から天竜川の沖積平野へ移る河岸段丘の傾斜面に位置する。1570年(元亀1)徳川家康は、戦国期に今川氏の支城であった曳馬(引馬) (ひくま)城に入り、77年(天正5)それを取り込んだ形の新しい城を築き、名を浜松城とした。家康が駿府 (すんぷ)に移ったあと城代に菅沼定政 (すがぬまさだまさ)が入り、関東移封後は堀尾吉晴 (ほりおよしはる)が12万石で入った。江戸期を通じて大名10家22代が交替しているが、幕閣への登竜門として著名。現在の天守閣は復興模擬天守である。

[小和田哲男]



日本歴史地名大系

静岡県:浜松市浜松城下 > 浜松城跡
浜松城跡
はままつじようあと

[現]浜松市松城町・元城町・元目町・神明町・紺屋町・下池川町・鹿谷町

三方原台地の南東端にあたる河岸段丘上に築かれた平山城。東海地方の要衝、徳川家康ゆかりの城として重視された。城域は南北五一〇メートル・東西五〇〇メートルほどに及んだ。北側には断崖と低湿地が広がり、東から南側には水堀が巡っていた。標高約四〇メートルの天守曲輪から東に向かって階段状に本丸・二の丸・三の丸が配されていた。

〔築城〕

永禄一二年(一五六九)秋から見付みつけ(現磐田市の城之崎城跡か)を普請していた徳川家康は、元亀元年(一五七〇)六月(「家忠日記増補追加」は一月とする)、織田信長の意見もあって当地引馬ひくま(曳間城)に移り城普請に着手、惣廻りに石垣を築き、長屋を建てて遠江・三河両国の家臣団が移住、家康は九月一二日に入城したという(「当代記」、「浜松御在城記」内閣文庫蔵など)。引馬城は蔵屋敷や侍屋敷として取込まれた(「遠州浜松城」蓬左文庫蔵など)。同年七月、家康は上杉輝虎に太刀と浜松城図を贈ったといわれる(武徳編年集成)。初期の築城は倉橋宗三郎・木原吉次・小川家次などが普請奉行であったとされる(寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)。翌元亀二年八月には当城に観世宗雪入道元忠・同左近大夫を招き、家康の長男信康の元服を祝い能が興行された(当代記)。その後「家忠日記」天正五年(一五七七)一〇月二二日条などに浜松普請とみえるのをはじめ、同九年九月にかけて増改築が繰返された(同書)。同一四年一二月に徳川家康は駿府城に移るが、この間当城は徳川領国の政治・経済の中心地となった。家康が駿府城に移ると当城は土岐(菅沼)定政の預かりとなった。同一八年に入城した堀尾吉晴が大規模な改修を行ったことは、近年の調査から判明した。

〔城郭の様子〕

近世前期の様子を示すといわれる浜松城絵図(浜松市博物館蔵)によると、城郭南に大手門が位置し、上級家臣の屋敷地を北に進むと東側に三の丸、西側に二の丸がある。二の丸の西奥に石垣が積まれた本丸、天守閣、西羽にしは城が続く。天守閣の南側は清水しみず谷で、二の丸の南側は御馬屋であった。三の丸の北方、侍屋敷を挟んだ城郭の北東端が古城(引間城)部分で、四郭に分れている。城の外周は堀と土居に囲まれる。安政年間(一八五四―六〇)の浜松城御普請方下絵図(浜松北高等学校蔵)では三の丸は御厩と侍屋敷になっているが、全体の縄張りは前掲城絵図と大きな相違はない。延宝八年(一六八〇)閏八月六日、強風と大雨により本丸以下各曲輪の櫓や塀が破損した(玉露叢)。安政地震では本丸の菱櫓下、富士見ふじみ櫓下、多聞たもん下、てつ門脇、天守曲輪天守台、本丸西方の石垣などが被害を受け、櫓四ヵ所、門一〇ヵ所、囲塀数ヵ所も倒壊したという(「地震ニ而損所之覚」浜松北高等学校蔵)

〔歴代城主〕

藩主(城主)の交替は頻繁で代々譜代大名が配置された。出世城と通称されるように、諸藩中最も多数の老中を出している。天正一八年豊臣秀吉方の大名である堀尾吉晴が入城して一二万石を領したが(寛政重修諸家譜)、領地は不明。慶長六年(一六〇一)桜井松平忠頼が五万石で入封、領地は長上ながのかみ郡・豊田とよだ郡・敷知ふち郡・麁玉あらたま郡にあった(松平忠頼領郷村帳)。同一四年遠江国は徳川頼宣領となり、頼宣の付家老水野重仲(重央)が二万五千石で城主となり(同一五年水野重仲知行割帳)、元和三年(一六一七)には一万石を加増された(水野重仲知行目録)。同五年高力忠房が浜松藩主として三万石で入封、寛永二年(一六二五)と同一一年に都合六千五〇〇石を加増された。同一五年大給松平乗寿(三万五千石)が入封。正保元年(一六四四)には太田資宗が入封し、寛文四年(一六六四)の領知目録(寛文朱印留)では三万五千三七石(長上郡六六村・敷知郡五三村・豊田郡二七村・引佐郡三村・麁玉郡三村)を領知、資次が継いだ。延宝六年青山宗俊(五万石)が入部、忠雄・忠重と続き、元禄一二年(一六九九)の青山忠重領知目録では敷知郡五七村・長上郡六八村・引佐いなさ郡三村・麁玉郡三村・豊田郡五五村・山名やまな郡一八村の五万石を領知、ほかに新田改出高九千四〇二石余があった。同一五年には本庄松平資俊(七万石)が入部、資訓が継いだ。

享保一四年(一七二九)大河内松平信祝(七万石)が入部、信復が継ぎ、寛延二年(一七四九)には本庄松平資訓(七万石)が入封、資昌が継ぎ、宝暦八年(一七五八)井上正経(六万石)が入封、正定・正甫と続いた。文化一四年(一八一七)には水野忠邦が肥前唐津藩より六万石で入封、大坂城代の就任などに伴い文政九年(一八二六)・同一三年、天保二年(一八三一)に一部領地替があった(元治元年「白川領村高帳」堀内家文書など)。天保五年に一万石を加増され、同一〇年の水野忠邦領知目録によると長上郡八二村・敷知郡七五村・豊田郡四六村・麁玉郡三村・引佐郡四村・山名郡一四村の六万石のほか、近江国三郡で一万石を領した。忠邦の後は忠精(五万石)が継いだ。弘化二年(一八四五)井上正春が六万石で入封、正直(文久二年に老中となる)の代に明治維新を迎え、明治二年(一八六九)上総鶴舞藩に転封、藩領は駿府藩(静岡藩)に組込まれた(以上「寛政重修諸家譜」「浜松市史」など)

高力忠房の時、城下の本格的な町割が行われ、寛永年間には領内検地や新田開発を実施した。大給松平乗寿は寛永一九年から老中を勤めた。一七世紀後半の太田・青山氏時代に藩制や城下町の整備が進んだ。青山忠雄は城下の町検地を実施、弟忠重は組別支配制(領内を数組に分け、代官を置く)を取入れた。大河内松平信祝は享保一四年に大坂城代、翌一五年から老中を勤めた。本庄松平資訓は京都所司代、井上正経は京都所司代・老中を勤めた。水野忠邦は老中首座として天保改革を断行したが、領内においても勤倹・節約を説き、農業を奨励して義倉・社倉と称する貯穀庫を設置、凶作に備え農学者大蔵永常を招聘した。また人材の登用や藩制機構の合理化を進めるなど藩政改革を行い、さらに海防体制を整備すべく軍事改革に着手した。一方これらの改革や幕閣における政治活動のため膨大な資金を必要とし、領民からの収奪強化が図られた。そのため領民の不満が爆発し、弘化二年に忠邦は失脚、その子忠経(のち忠精)は出羽山形藩へ転封となり、井上正春が入封したが、翌三年に浜松藩領打毀が起こった(以上「寛政重修諸家譜」「浜松市史」など)。浜松藩領打毀は閏五月に有玉ありたま役所支配下の農民が蜂起し、六月には三島みしま役所支配下の農民が米津よねづ浜、次いで龍禅りゆうぜん寺に結集し、勧農長庄屋宅などを襲った。藩主井上氏は兵を出して鎮圧、水野氏方と一揆勢の調停にもあたった(「遠州浜松騒動記」浜松市博物館蔵、「破地士等〓」など)。井上氏のもとで引続き藩政改革は行われたが、明治二年に廃藩となった。なお藩校は水野忠邦が経誼けいぎ館を、井上正春が克明こくめい館を置いた(「浜松市史」など)

〔近代・現況〕

明治五年当城の払下げが決定し、浜松県令林厚徳による布達によれば一九の建物と石垣がその対象となっている(新居町役場所蔵文書)。翌六年から九年に払下げに並行して浜松学校、浜松女紅場、浜松県立瞬養学校、浜松区裁判所が設けられ、城郭は破壊された。現在の模擬天守閣は昭和三三年(一九五八)の建築。城跡の本格的な発掘調査は実施されていないが、数度の立会調査が行われている。この時の出土遺物から、天守や石垣が築かれたのは天正一八年に入城した堀尾吉晴の時であることが判明した。徳川家康の居城時代は石垣も瓦葺建物も存在していなかったと考えられる。天守台内部地階で井戸が確認されており、堀尾氏時代の天守には滋賀県安土あづち町の安土城のように穴蔵があったと考えられている。

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1. 浜松城画像
日本大百科全書
った曳馬(引馬)(ひくま)城に入り、77年(天正5)それを取り込んだ形の新しい城を築き、名を浜松城とした。家康が駿府(すんぷ)に移ったあと城代に菅沼定政(すがぬ
2. はままつ‐じょう[‥ジャウ]【浜松城】
日本国語大辞典
静岡県浜松市にあった平山城。天正五年(一五七七)徳川家康が構築。三方原の台地斜面に本丸以下が並列、碁盤組(ごばんぐみ)の城壁で堅固さを誇った。家康が江戸に移って
3. はままつじょう【浜松城】
国史大辞典
静岡県浜松市元城町にあった城。平山城。三方原洪積台地の最東南端に徳川家康が築城し、浜松城と称え、この地を引馬から浜松に改称した。引馬旧城主飯尾連竜は今川氏真に
4. 浜松城[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
やまじろ)。出世城ともよばれる。現在の天守閣は1958年(昭和33)に建てられたもの。周辺は浜松城公園として整備されている。静岡県浜松市©静岡県観光協会
5. はままつじょうあと【浜松城跡】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
「浜松御在城記」内閣文庫蔵など)。引馬城は蔵屋敷や侍屋敷として取込まれた(「遠州浜松城」蓬左文庫蔵など)。同年七月、家康は上杉輝虎に太刀と浜松城図を贈ったといわ
6. はままつじょうか【浜松城下】静岡県:浜松市
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引間に代わり浜松の名が定着し、家康による領国支配の拠点として「家忠日記」をはじめとする史料に頻出する。その後浜松城はたびたび増築がなされ(家忠日記)、城下町を含
7. 浜松城引渡一件(著作ID:4404837)
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9. 遠州浜松城之図(著作ID:4369753)
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10. 遠州浜松城下絵図(井上氏時代城下絵図)[文献解題]静岡県
日本歴史地名大系
一一〇×八一センチ 成立 一九世紀中頃 原図 浜松市博物館 解説 弘化二年に浜松に入封した井上氏時代に作製された鳥瞰図。道・土手・堀川・神社・寺院が色付け
11. あきはさん【秋葉山】静岡県:周智郡/春野町/領家村
日本歴史地名大系
物等は焼失し、三尺坊権現宮・本地観音堂のみ残ったという(前掲略縁起など)。同二〇年一月一九日浜松城主堀尾吉晴の家臣堀尾宗光から秋葉寺再興の料足として鐚銭一五貫文
12. あさだむら【浅田村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
元禄二年(一六八九)当村の三郎左衛門、恩地村の彦太夫、富塚村の喜平次、丸塚村の勘太郎、有玉村の喜平次が浜松城下の上新町・下新町(新町)の両所に会所を建て助郷の仕
13. あらいじゆくむら【新井宿村】東京都:大田区地図
日本歴史地名大系
衛(吉次)に「新井村」を宛行っている。木原氏は今川氏旧臣で鈴木姓だったが、吉次は家康に仕えて浜松城(現静岡県浜松市)の普請奉行を勤め、山名郡木原村(現静岡県袋井
14. ありたまじんじゃ【有玉神社】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/有玉下村
日本歴史地名大系
と鞍を借用していた。八日に敷知郡米津村の遠州灘で塩垢離をした帰りに借り、一一日に神供をもって浜松城二の丸御殿へ返すことになっていた。祭礼は有玉組合七ヵ村が執行し
15. あんまごう【安間郷】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/安間村
日本歴史地名大系
える(「徳川家康判物写」鈴木重信氏所蔵文書)。同月一八日、安間村に陣を張っていた家康は、同日浜松城に入った(家忠日記増補追加)。
16. アーネスト・サトウ 神道論 157ページ
東洋文庫
(23)杉浦国頭は浜松城下の諏訪神社の神官で江戸で荷田春満に入門し、その姪を娶った。同じく浜松の五社明神の神官である森暉昌は国頭に続いて荷田に入門した。(24)
17. 井伊直政
世界大百科事典
井伊谷(いいのや)に生まれる。父直親の不慮の死のあと流浪し,1575年(天正3)15歳のとき浜松城下で家康の目に留まり取り立てられた。82年弱冠22歳で旗本一手
18. いけまち【池町】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
[現]浜松市池町・元城町 浜松城の東に位置する脇町。東西に延びる田町に直交し、北に延びる秋葉道に沿う。北は下垂町(井上氏時代城下絵図など)。延宝五年(一六七七)
19. いたやまち【板屋町】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
南能庵(現曹洞宗大聖寺)があった(旅籠町平右衛門記録)。日蓮宗法雲寺は天正年間(一五七三―九二)に浜松城内から当地に移されたという。住持の日豪は徳川家康と囲碁を
20. いなさぐん【引佐郡】静岡県
日本歴史地名大系
〔古代〕郡名は「和名抄」東急本に「伊奈佐」の訓がある。中世から近世には見付(現磐田市)および浜松城下から浜名湖北岸を通り本坂峠へと至る本坂通(姫街道)が通過し、
21. いなさちょう【引佐町】静岡県:引佐郡
日本歴史地名大系
そのうち当町域では井伊谷近藤家が井伊谷村に、花平(石岡)近藤家が花平村に、金指近藤家が金指村に陣屋を構えた。浜松城下と三河・信濃を結ぶ南北交通上の要所金指村には
22. 井上氏
日本大百科全書
き丹波国亀山(4万7000石)など城地を移し、1758年(宝暦8)正経(まさつね)のとき遠江浜松城主(5万石)となったが、水野忠邦(ただくに)の浜松襲封(しゅう
23. いのうえし【井上氏】画像
国史大辞典
同八年摂津・河内・播磨・近江の領地を、遠江国敷知・長上・豊田・引佐・麁玉・山名、近江国浅井・坂田の八郡に移され浜松城主。明和三年(一七六六)正経の遺領を正定がつ
24. いのうえ-はちろう【井上八郎】
日本人名大辞典
江戸で千葉周作にまなぶ。嘉永(かえい)6年(1853)幕臣となり,幕府講武所剣術師範,歩兵奉行,浜松城代などを歴任。明治11年浜松の第二十八国立銀行頭取となった
25. いばむら【伊場村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
碑がある。賀茂真淵は元禄一〇年に賀茂神社神職の分家である岡部与三郎家に生れた。享保一〇年には浜松城下伝馬町の本陣梅屋市左衛門家の婿養子となった(浜松市史)。杉浦
26. いまがわうじざね【今川氏真】画像
国史大辞典
誘って駿河に侵入し、たちまち府中城を攻略し、氏真は逃れて掛川城に移った。一方家康は遠江に侵入して浜松城をおとし、同十二年正月掛川城を包囲したが、信玄と和せずかえ
27. いもせむら【芋瀬村】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区
日本歴史地名大系
文政三年(一八二〇)掛塚村・鶴見村・芋瀬村などを浜松藩領とする動きがあったが、源太夫堀を使用し浜松城下への出入り荷物で利益をあげている者に不都合なことや、天竜川
28. いりでむら【入出村】静岡県:湖西市
日本歴史地名大系
釣って新居宿(現新居町)へ売る。当村では太田川河口の内浦(現在は干拓されて水田)で捕れた鯉や鮒を浜松城の徳川家康に献上することにより漁業の特権を得て、浜名湖漁業
29. いりのむら【入野村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
高潮時の通船禁止など一〇項目を要求した村方騒動があった(田中家文書)。幕末から明治初年にかけて浜松城下と浜名湖を結ぶ堀留運河が開削された。臨済宗妙心寺派龍雲寺は
30. いわたし【磐田市】静岡県
日本歴史地名大系
家康は初め見付の南西に城之崎城を築城するが、対抗していた武田氏との関係から元亀元年(一五七〇)引馬城(浜松城)を居城と定めた。同三年には徳川軍と武田軍との本格的
31. いわむらはん【岩村藩】
国史大辞典
郡二万石に封ぜられ岩村城に入った。同十九年父の遺領をついだ乗寿が寛永十五年(一六三八)遠江国浜松城三万六千五百石に移され、丹羽式部少輔氏信が三河国伊保一万石から
32. うしろみち【後道】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
[現]浜松市鍛冶町・千歳町 浜松城の南東方、南北に通る東海道の東側に位置する武家屋敷地。東海道に並行して西から上後道・中後道・下後道の三筋があり、東を新川が流れ
33. えがわむら【江川村】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区
日本歴史地名大系
延宝五年の浜松町村家数高間尺帳では家数一八ですべて役家。浜松宿諸職記録によると当村の源兵衛は浜松城下の屋根屋役頭で、源兵衛ほか四名は屋根屋役本役を勤めた。弘化三
34. えっちゅうのくに【越中国】富山県
日本歴史地名大系
攻撃したが失敗し、当時羽柴秀吉と対立していた徳川家康の助力を得るため、冬の立山ザラ峠(佐良峠)を越え、遠州浜松城(現静岡県浜松市)に向かった。しかし、このとき家
35. えびつかむら【海老塚村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
[現]浜松市海老塚町・海老塚一―二丁目・砂山町 浜松城下の南に位置し、西は伊場村、東は龍禅寺村、南は浅田村。天正一八年(一五九〇)一二月二八日の豊臣秀吉朱印状(
36. 絵本江戸風俗往来 19ページ
東洋文庫
れるものに、元亀三年(一五七二)十二月、徳川家康は三方原において武田信玄と戦い大敗北を喫して浜松城へ逃げこんだ。武田勢は城を包囲して新年を迎えた。この時、武田方
37. 延宝五歳浜松町数村数家数田地高間尺之帳(浜松町村家数高間尺帳)[文献解題]静岡県
日本歴史地名大系
一巻 成立 延宝五年 原本 岡部家 解説 浜松城下各町の町の長さと家数、領内各村の高、家数・役屋数および浜松城からの距離などを記す。内山家に異本がある。
38. おおくぼむら【大久保村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
二七貫九一〇文を寄進し、諸役を免除した(「徳川家康判物写」徴古雑抄)。同一八年一二月二一日に浜松城主堀尾帯刀に宛てた増田長盛等連署状(鴨江寺文書)にみえる大窪寺
39. おおちばむら【大知波村】静岡県:湖西市
日本歴史地名大系
圦樋舟三・四板船一、御手当米八俵、山々の谷間に田地があり、猪鹿の被害が多かった。庄屋木村家は浜松城では古独礼で直接藩主と対面する特権をもっていた(「庄屋古独御礼
40. おぎのやすしげ【荻野安重】
国史大辞典
れる。父彦左衛門は上野国左氏城主荻野越後守安定の子孫と称し、上州白井の人。種子島流砲術を修め浜松城主本多豊後守に仕え、鉄砲足軽二十五人を預かり三百石を食む。安重
41. おたけのかた【お竹の方】
日本人名大辞典
永の娘とつたえられるが,出自には異説がおおい。天正(てんしょう)のころ家康の側室となり,8年浜松城で振姫を生む。のち家康にしたがい駿府(すんぷ)城,江戸城にうつ
42. おまんのかた【お万の方(1)】
日本人名大辞典
1548−1620* 織豊-江戸時代前期,徳川家康の側室。天文(てんぶん)17年生まれ。はじめ浜松城で家康正室築山殿(つきやまどの)につかえる。天正(てんしょう
43. かさいのいち【笠井市】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/笠井村
日本歴史地名大系
[現]浜松市笠井町 近世の笠井村に立った六斎市。浜松城下と二俣村(現天竜市)のほぼ中間にあたる。成立時期は不詳だが、川島家文書によれば慶安元年(一六四八)には市
44. かじまじゅうぶいちばんしょあと【鹿島十分一番所跡】静岡県:天竜市/西鹿島村
日本歴史地名大系
「十分一之目付」に任命している。当時、番所の少し下流から天竜川は二筋に分れ、番所側を小天竜川が流れ、同川は浜松城下の東から遠州灘に注いでいた。番所では北遠地方か
45. 可睡斎画像
日本大百科全書
11世の仙麟等膳(せんりんとうぜん)は、今川家の人質となっていた幼少の徳川家康を助けたことにより、のちに浜松城主となった家康の厚遇を受け、東海の大僧録司(そうろ
46. 甲子夜話三篇 1 83ページ
東洋文庫
なり。又この御謡初も近き御時よりとも聞こへず。『烈祖成績』に云。天正二年甲戌正月朔、将士登二浜松城一賀二元正司二
47. 甲子夜話三篇 1 84ページ
東洋文庫
日夜、浜松城謡初。圏『家忠日記本書』、謡初如レ例諸士参賀。既云レ如レ例、則亦非レ防二干此4『雑録岡崎事記』、詳載一松平氏謡初座次4則神祖在一一岡崎城4既有二此礼
48. 甲子夜話三篇 2 266ページ
東洋文庫
参州岡崎城に於て、御嫡子三郎信康君を産せ給ふ。元亀二年〔辛未〕五月、信康君、信長公の姫君を以て、於二遠州浜松城一て御婚姻有て、御女子両人を産せらる。嫡女は小笠原
49. 甲子夜話三篇 2 267ページ
東洋文庫
丸裸にして、縛て浜松城二の曲輪樹木の問に捨置れしに、其頃本多作左衛門御留守在城し、夜中に女の泣声聞こゑしを怪み、尋得て彼女の縛を解き、様子を聞届、夫より作左衛門
50. かなさしせきしょあと【金指関所跡】静岡県:引佐郡/引佐町/金指村
日本歴史地名大系
[現]引佐町金指 浜名湖北岸の本坂通の要衝に立地した気賀関所(現細江町)に対し、浜松城下と三河・信濃を結ぶ南北交通の要所にあった関所。現在の天竜浜名湖鉄道金指駅
「浜松城」の情報だけではなく、「浜松城」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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大坂城跡(日本歴史地名大系)
日本歴史地名大系/平凡社/[現]東区大阪城。東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。
三岳城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町三岳・川名。三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷(いいのや)の井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは
姫路城(日本大百科全書(ニッポニカ))
南北朝期~江戸期の城。兵庫県姫路市本町にあり、白鷺(しらさぎ/はくろ)城ともよばれる。姫路平野の中央、高さ45メートルの姫山を本丸とした平山城の典型である。城の歴史は古く、1331年(元弘1)の元弘の乱のとき、播磨守護赤松則村が陣を構えたのに始まり、1346年(正平1・貞和2)則村の子貞範が築城したと伝えられる。
弘前城(国史大辞典)
青森県弘前市下白銀町に中心部のある城。築城当初は高岡城と呼ばれた。平城。津軽平野南部の盆地状地形の中の台地北端に位置する。慶長八年(一六〇三)に大浦(津軽)為信が起工し同十六年為信の子信枚の時に一応の完成を見た。為信はもと大浦城におり元亀二年(一五七一)ごろから津軽統一への歩みを開始したが
明石城下(日本歴史地名大系)
明石川河口に近い東岸の洪積台地(通称人丸山)上に築かれた明石城を扇の要とし、その南方に広がる明石海峡に至る東西約一二〇〇メートル・南北約七〇〇メートルの地域に開かれた城下町。〔城下町の成立と発展〕元和三年(一六一七)明石に入部して
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「浜松城」は寺・神社・城に関連のある記事です。
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浜松城(国史大辞典・日本大百科全書・日本歴史地名大系)
静岡県浜松市元城町にあった城。平山城。三方原洪積台地の最東南端に徳川家康が築城し、浜松城と称え、この地を引馬から浜松に改称した。引馬旧城主飯尾連竜は今川氏真に謀殺され、その留守を預かる老臣間の内紛を平定した家康が、元亀元年(一五七〇)、遠江経営と武田
鶴岡八幡宮(国史大辞典・日本歴史地名大系)
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月
遷宮(国史大辞典・世界大百科事典)
神社で、一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、また仮殿遷宮と対称して正遷宮とも称せられる。伊勢神宮の例が著明である。伊勢神宮に式年遷宮の制が立てられた年次については
橿原神宮(改訂新版・世界大百科事典)
奈良県橿原市に鎮座。神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命をまつる。社地は畝傍山の東南にあたり,神武天皇が宮居を営んだ橿原宮の跡という。当地はすでに元禄年間(1688-1704)に神武天皇の神廟を営もうとする動きがあったが,1888年橿原宮跡の考証ののち,民間より神社建設の請願があり
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