1. 浜松城画像
日本大百科全書
った曳馬(引馬)(ひくま)城に入り、77年(天正5)それを取り込んだ形の新しい城を築き、名を浜松城とした。家康が駿府(すんぷ)に移ったあと城代に菅沼定政(すがぬ
2. はままつ‐じょう[‥ジャウ]【浜松城】
日本国語大辞典
静岡県浜松市にあった平山城。天正五年(一五七七)徳川家康が構築。三方原の台地斜面に本丸以下が並列、碁盤組(ごばんぐみ)の城壁で堅固さを誇った。家康が江戸に移って
3. はままつじょう【浜松城】
国史大辞典
静岡県浜松市元城町にあった城。平山城。三方原洪積台地の最東南端に徳川家康が築城し、浜松城と称え、この地を引馬から浜松に改称した。引馬旧城主飯尾連竜は今川氏真に
4. 浜松城[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
やまじろ)。出世城ともよばれる。現在の天守閣は1958年(昭和33)に建てられたもの。周辺は浜松城公園として整備されている。静岡県浜松市©静岡県観光協会
5. はままつじょうあと【浜松城跡】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
「浜松御在城記」内閣文庫蔵など)。引馬城は蔵屋敷や侍屋敷として取込まれた(「遠州浜松城」蓬左文庫蔵など)。同年七月、家康は上杉輝虎に太刀と浜松城図を贈ったといわ
6. はままつじょうか【浜松城下】静岡県:浜松市
日本歴史地名大系
引間に代わり浜松の名が定着し、家康による領国支配の拠点として「家忠日記」をはじめとする史料に頻出する。その後浜松城はたびたび増築がなされ(家忠日記)、城下町を含
7. 浜松城引渡一件(著作ID:4404837)
新日本古典籍データベース
はままつじょうひきわたしいっけん 記録
8. 遠州浜松城図(著作ID:4423027)
新日本古典籍データベース
えんしゅうはままつじょうず 遠州浜松城之図 城郭
9. 遠州浜松城之図(著作ID:4369753)
新日本古典籍データベース
えんしゅうはままつじょうのず
10. 遠州浜松城下絵図(井上氏時代城下絵図)[文献解題]静岡県
日本歴史地名大系
一一〇×八一センチ 成立 一九世紀中頃 原図 浜松市博物館 解説 弘化二年に浜松に入封した井上氏時代に作製された鳥瞰図。道・土手・堀川・神社・寺院が色付け
11. あきはさん【秋葉山】静岡県:周智郡/春野町/領家村
日本歴史地名大系
物等は焼失し、三尺坊権現宮・本地観音堂のみ残ったという(前掲略縁起など)。同二〇年一月一九日浜松城主堀尾吉晴の家臣堀尾宗光から秋葉寺再興の料足として鐚銭一五貫文
12. あさだむら【浅田村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
元禄二年(一六八九)当村の三郎左衛門、恩地村の彦太夫、富塚村の喜平次、丸塚村の勘太郎、有玉村の喜平次が浜松城下の上新町・下新町(新町)の両所に会所を建て助郷の仕
13. あらいじゆくむら【新井宿村】東京都:大田区地図
日本歴史地名大系
衛(吉次)に「新井村」を宛行っている。木原氏は今川氏旧臣で鈴木姓だったが、吉次は家康に仕えて浜松城(現静岡県浜松市)の普請奉行を勤め、山名郡木原村(現静岡県袋井
14. ありたまじんじゃ【有玉神社】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/有玉下村
日本歴史地名大系
と鞍を借用していた。八日に敷知郡米津村の遠州灘で塩垢離をした帰りに借り、一一日に神供をもって浜松城二の丸御殿へ返すことになっていた。祭礼は有玉組合七ヵ村が執行し
15. あんまごう【安間郷】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/安間村
日本歴史地名大系
える(「徳川家康判物写」鈴木重信氏所蔵文書)。同月一八日、安間村に陣を張っていた家康は、同日浜松城に入った(家忠日記増補追加)。
16. アーネスト・サトウ 神道論 157ページ
東洋文庫
(23)杉浦国頭は浜松城下の諏訪神社の神官で江戸で荷田春満に入門し、その姪を娶った。同じく浜松の五社明神の神官である森暉昌は国頭に続いて荷田に入門した。(24)
17. 井伊直政
世界大百科事典
井伊谷(いいのや)に生まれる。父直親の不慮の死のあと流浪し,1575年(天正3)15歳のとき浜松城下で家康の目に留まり取り立てられた。82年弱冠22歳で旗本一手
18. いけまち【池町】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
[現]浜松市池町・元城町 浜松城の東に位置する脇町。東西に延びる田町に直交し、北に延びる秋葉道に沿う。北は下垂町(井上氏時代城下絵図など)。延宝五年(一六七七)
19. いたやまち【板屋町】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
南能庵(現曹洞宗大聖寺)があった(旅籠町平右衛門記録)。日蓮宗法雲寺は天正年間(一五七三―九二)に浜松城内から当地に移されたという。住持の日豪は徳川家康と囲碁を
20. いなさぐん【引佐郡】静岡県
日本歴史地名大系
〔古代〕郡名は「和名抄」東急本に「伊奈佐」の訓がある。中世から近世には見付(現磐田市)および浜松城下から浜名湖北岸を通り本坂峠へと至る本坂通(姫街道)が通過し、
21. いなさちょう【引佐町】静岡県:引佐郡
日本歴史地名大系
そのうち当町域では井伊谷近藤家が井伊谷村に、花平(石岡)近藤家が花平村に、金指近藤家が金指村に陣屋を構えた。浜松城下と三河・信濃を結ぶ南北交通上の要所金指村には
22. 井上氏
日本大百科全書
き丹波国亀山(4万7000石)など城地を移し、1758年(宝暦8)正経(まさつね)のとき遠江浜松城主(5万石)となったが、水野忠邦(ただくに)の浜松襲封(しゅう
23. いのうえし【井上氏】画像
国史大辞典
同八年摂津・河内・播磨・近江の領地を、遠江国敷知・長上・豊田・引佐・麁玉・山名、近江国浅井・坂田の八郡に移され浜松城主。明和三年(一七六六)正経の遺領を正定がつ
24. いのうえ-はちろう【井上八郎】
日本人名大辞典
江戸で千葉周作にまなぶ。嘉永(かえい)6年(1853)幕臣となり,幕府講武所剣術師範,歩兵奉行,浜松城代などを歴任。明治11年浜松の第二十八国立銀行頭取となった
25. いばむら【伊場村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
碑がある。賀茂真淵は元禄一〇年に賀茂神社神職の分家である岡部与三郎家に生れた。享保一〇年には浜松城下伝馬町の本陣梅屋市左衛門家の婿養子となった(浜松市史)。杉浦
26. いまがわうじざね【今川氏真】画像
国史大辞典
誘って駿河に侵入し、たちまち府中城を攻略し、氏真は逃れて掛川城に移った。一方家康は遠江に侵入して浜松城をおとし、同十二年正月掛川城を包囲したが、信玄と和せずかえ
27. いもせむら【芋瀬村】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区
日本歴史地名大系
文政三年(一八二〇)掛塚村・鶴見村・芋瀬村などを浜松藩領とする動きがあったが、源太夫堀を使用し浜松城下への出入り荷物で利益をあげている者に不都合なことや、天竜川
28. いりでむら【入出村】静岡県:湖西市
日本歴史地名大系
釣って新居宿(現新居町)へ売る。当村では太田川河口の内浦(現在は干拓されて水田)で捕れた鯉や鮒を浜松城の徳川家康に献上することにより漁業の特権を得て、浜名湖漁業
29. いりのむら【入野村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
高潮時の通船禁止など一〇項目を要求した村方騒動があった(田中家文書)。幕末から明治初年にかけて浜松城下と浜名湖を結ぶ堀留運河が開削された。臨済宗妙心寺派龍雲寺は
30. いわたし【磐田市】静岡県
日本歴史地名大系
家康は初め見付の南西に城之崎城を築城するが、対抗していた武田氏との関係から元亀元年(一五七〇)引馬城(浜松城)を居城と定めた。同三年には徳川軍と武田軍との本格的
31. いわむらはん【岩村藩】
国史大辞典
郡二万石に封ぜられ岩村城に入った。同十九年父の遺領をついだ乗寿が寛永十五年(一六三八)遠江国浜松城三万六千五百石に移され、丹羽式部少輔氏信が三河国伊保一万石から
32. うしろみち【後道】静岡県:浜松市/浜松城下
日本歴史地名大系
[現]浜松市鍛冶町・千歳町 浜松城の南東方、南北に通る東海道の東側に位置する武家屋敷地。東海道に並行して西から上後道・中後道・下後道の三筋があり、東を新川が流れ
33. えがわむら【江川村】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区
日本歴史地名大系
延宝五年の浜松町村家数高間尺帳では家数一八ですべて役家。浜松宿諸職記録によると当村の源兵衛は浜松城下の屋根屋役頭で、源兵衛ほか四名は屋根屋役本役を勤めた。弘化三
34. えっちゅうのくに【越中国】富山県
日本歴史地名大系
攻撃したが失敗し、当時羽柴秀吉と対立していた徳川家康の助力を得るため、冬の立山ザラ峠(佐良峠)を越え、遠州浜松城(現静岡県浜松市)に向かった。しかし、このとき家
35. えびつかむら【海老塚村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
[現]浜松市海老塚町・海老塚一―二丁目・砂山町 浜松城下の南に位置し、西は伊場村、東は龍禅寺村、南は浅田村。天正一八年(一五九〇)一二月二八日の豊臣秀吉朱印状(
36. 絵本江戸風俗往来 19ページ
東洋文庫
れるものに、元亀三年(一五七二)十二月、徳川家康は三方原において武田信玄と戦い大敗北を喫して浜松城へ逃げこんだ。武田勢は城を包囲して新年を迎えた。この時、武田方
37. 延宝五歳浜松町数村数家数田地高間尺之帳(浜松町村家数高間尺帳)[文献解題]静岡県
日本歴史地名大系
一巻 成立 延宝五年 原本 岡部家 解説 浜松城下各町の町の長さと家数、領内各村の高、家数・役屋数および浜松城からの距離などを記す。内山家に異本がある。
38. おおくぼむら【大久保村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
二七貫九一〇文を寄進し、諸役を免除した(「徳川家康判物写」徴古雑抄)。同一八年一二月二一日に浜松城主堀尾帯刀に宛てた増田長盛等連署状(鴨江寺文書)にみえる大窪寺
39. おおちばむら【大知波村】静岡県:湖西市
日本歴史地名大系
圦樋舟三・四板船一、御手当米八俵、山々の谷間に田地があり、猪鹿の被害が多かった。庄屋木村家は浜松城では古独礼で直接藩主と対面する特権をもっていた(「庄屋古独御礼
40. おぎのやすしげ【荻野安重】
国史大辞典
れる。父彦左衛門は上野国左氏城主荻野越後守安定の子孫と称し、上州白井の人。種子島流砲術を修め浜松城主本多豊後守に仕え、鉄砲足軽二十五人を預かり三百石を食む。安重
41. おたけのかた【お竹の方】
日本人名大辞典
永の娘とつたえられるが,出自には異説がおおい。天正(てんしょう)のころ家康の側室となり,8年浜松城で振姫を生む。のち家康にしたがい駿府(すんぷ)城,江戸城にうつ
42. おまんのかた【お万の方(1)】
日本人名大辞典
1548−1620* 織豊-江戸時代前期,徳川家康の側室。天文(てんぶん)17年生まれ。はじめ浜松城で家康正室築山殿(つきやまどの)につかえる。天正(てんしょう
43. かさいのいち【笠井市】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/笠井村
日本歴史地名大系
[現]浜松市笠井町 近世の笠井村に立った六斎市。浜松城下と二俣村(現天竜市)のほぼ中間にあたる。成立時期は不詳だが、川島家文書によれば慶安元年(一六四八)には市
44. かじまじゅうぶいちばんしょあと【鹿島十分一番所跡】静岡県:天竜市/西鹿島村
日本歴史地名大系
「十分一之目付」に任命している。当時、番所の少し下流から天竜川は二筋に分れ、番所側を小天竜川が流れ、同川は浜松城下の東から遠州灘に注いでいた。番所では北遠地方か
45. 可睡斎画像
日本大百科全書
11世の仙麟等膳(せんりんとうぜん)は、今川家の人質となっていた幼少の徳川家康を助けたことにより、のちに浜松城主となった家康の厚遇を受け、東海の大僧録司(そうろ
46. 甲子夜話三篇 1 83ページ
東洋文庫
なり。又この御謡初も近き御時よりとも聞こへず。『烈祖成績』に云。天正二年甲戌正月朔、将士登二浜松城一賀二元正司二
47. 甲子夜話三篇 1 84ページ
東洋文庫
日夜、浜松城謡初。圏『家忠日記本書』、謡初如レ例諸士参賀。既云レ如レ例、則亦非レ防二干此4『雑録岡崎事記』、詳載一松平氏謡初座次4則神祖在一一岡崎城4既有二此礼
48. 甲子夜話三篇 2 266ページ
東洋文庫
参州岡崎城に於て、御嫡子三郎信康君を産せ給ふ。元亀二年〔辛未〕五月、信康君、信長公の姫君を以て、於二遠州浜松城一て御婚姻有て、御女子両人を産せらる。嫡女は小笠原
49. 甲子夜話三篇 2 267ページ
東洋文庫
丸裸にして、縛て浜松城二の曲輪樹木の問に捨置れしに、其頃本多作左衛門御留守在城し、夜中に女の泣声聞こゑしを怪み、尋得て彼女の縛を解き、様子を聞届、夫より作左衛門
50. かなさしせきしょあと【金指関所跡】静岡県:引佐郡/引佐町/金指村
日本歴史地名大系
[現]引佐町金指 浜名湖北岸の本坂通の要衝に立地した気賀関所(現細江町)に対し、浜松城下と三河・信濃を結ぶ南北交通の要所にあった関所。現在の天竜浜名湖鉄道金指駅