日本古典の最高傑作――光源氏の波瀾万丈の生涯を描いた大長編
主人公・光源氏の恋と栄華と苦悩の生涯と、その一族たちのさまざまの人生を、70年余にわたって構成。王朝文化と宮廷貴族の内実を優美に描き尽くした、まさに文学史上の奇跡といえる。藤原為時の女(むすめ)で歌人の紫式部が描いた長編で、「桐壺(きりつぼ)」から「夢浮橋(ゆめのうきはし)」までの54巻からなる。
[中古][物語]
校注・訳:阿部秋生 秋山 虔 今井源衛 鈴木日出男
〔一〕源氏、乳母を見舞い、女から扇を贈られる
〔一〕 六条のあたりにお忍びでお通いになるころ、宮中からお出ましになる途中のお立寄り所として、大弐(だいに)の乳(めの)母(と)がひどくわずらって尼になっていたのを見舞おうとして、五条にあるその家を訪ねておいでになる。 お車を引き入れられる門は錠(じよう)をおろしてあったので、従者に命じて惟光をお呼びになり、お待ちになっていらっしゃる間、いかにもむさ苦しい大路の様子を見渡しておいでになると、この家の傍らに、檜垣(ひがき)というものを新しく作って、上の方は半蔀(はじとみ)を四、五間ばかりずうっと上げて、簾(すだれ)なども白く涼しげにしてある、そこに美しい額(ひたい)のみえる女の影が、簾をすかして何人もこちらをのぞいているのが見える。立ったままあちこちしているらしいが、その下半身を想像すると、むやみに背丈が高いという感じである。どんな女たちが集まっているのだろうと、珍しくお感じになる。 お車も目だたぬよう略式のものをお使いになっているし、先払いをおさせになっているわけでもないのだから、自分を誰と知るわけはないと気をお許しになって、少し顔を出してごらんになると、門は蔀(しとみ)のような扉を押し上げてあって、奥行も浅く、頼りなく粗末な住いなのを、しみじみと胸迫る思いで、この世はどこでも仮の宿なのだとお考えになると、金殿玉楼であろうとこ
〔二〕源氏、心から老病の乳母を見舞い、慰める
引き入れて下りたまふ。惟光が兄の阿闍梨、婿の三河守、むすめなど渡り集ひたるほどに、かくおはしましたるよろこびをまたなきことにかしこまる。 尼君も起き上がりて、「惜しげなき身なれど、…
〔三〕源氏、歌に興をおぼえ、返歌を贈る
修法など、またまたはじむべきことなどおきてのたまはせて、出でたまふとて、惟光に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、もて馴らしたる移り香いとしみ深うなつかしくて、をかしうすさび書きたり…
〔四〕源氏、六条邸を訪れ、夕顔の宿を意識する
御心ざしの所には、木立、前栽などなべての所に似ず、いとのどかに心にくく住みなしたまへり。うちとけぬ御ありさまなどの気色ことなるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。つとめ…
〔五〕源氏、惟光の報告をうけ、関心を強める
惟光、日ごろありて参れり。惟光「わづらひはべる人、なほ弱げにはべれば、とかく見たまひあつかひてなむ」など聞こえて、近く参り寄りて聞こゆ。惟光「仰せられし後なん、隣のこと知りてはべる…
〔六〕源氏、伊予介の訪問をうけ、空蝉を思う
さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、この世の人には違ひて思すに、おいらかならましかば、心苦しき過ちにてもやみぬべきを、いとねたく負けてやみなんを、心にかからぬをりなし。かやうの並…
〔七〕秋、源氏、六条御息所の御方を訪れる
秋にもなりぬ。人やりならず心づくしに思し乱るることどもありて、大殿には絶え間おきつつ、恨めしくのみ思ひきこえたまへり。 六条わたりも、とけがたかりし御気色をおもむけきこえたまひて後…
〔八〕惟光、夕顔の宿を偵察、源氏を手引する
まことや、かの惟光が預りのかいま見はいとよく案内見取りて申す。「その人とはさらにえ思ひえはべらず。人にいみじく隠れ忍ぶる気色になむ見えはべるを、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋…
〔九〕源氏、名も知れぬ夕顔の女に耽溺する
女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下り立ち歩きたまふはおろかに思されぬなるべしと見れば、わが馬をば奉りて、御供に走…
〔一〇〕源氏、中秋の夜、夕顔の家に宿る
八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋残りなく漏り来て、見ならひたまはぬ住まひのさまもめづらしきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まして、「あはれ、い…
〔一一〕源氏、夕顔の女を宿近くの廃院に伴う
いさよふ月にゆくりなくあくがれんことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲がくれて、明けゆく空いとをかし。はしたなきほどにならぬさきにと、例の急ぎ出でたまひて、軽らか…
〔一二〕物の怪、夕顔の女を取り殺す
宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上にいとをかしげなる女ゐて、「おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして時めかしたまふこそ、い…
〔一三〕惟光参上して、夕顔の遺骸を東山に送る
からうじて惟光朝臣参れり。夜半、暁といはず御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、召しにさへ怠りつるを憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でんことのあへなきに、ふとものも言はれ…
〔一四〕源氏、二条院に帰る、人々あやしむ
人々、「いづこよりおはしますにか、なやましげに見えさせたまふ」など言へど、御帳の内に入りたまひて、胸を押さへて思ふに、いといみじければ、などて乗り添ひて行かざりつらん、生きかへりた…
〔一五〕源氏、惟光に案内され、東山におもむく
日暮れて惟光参れり。かかる穢らひありとのたまひて、参る人々もみな立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、源氏「いかにぞ、いまはと見はてつや」とのたまふままに、袖を御顔に押し…
〔一六〕源氏、東山より帰邸後、重くわずらう
まことに、臥したまひぬるままにいといたく苦しがりたまひて、二三日になりぬるにむげに弱るやうにしたまふ。内裏にも聞こしめし嘆くこと限りなし。御祈祷方々に隙なくののしる。祭、祓、修法な…
〔一七〕源氏、病癒え、右近に夕顔の素姓を聞く
九月二十日のほどにぞおこたりはてたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなかいみじくなまめかしくて、ながめがちに音をのみ泣きたまふ。見たてまつり咎むる人もありて、御物の怪なめりな…
〔一八〕源氏、空蝉や軒端荻と歌を贈答する
かの伊予の家の小君参るをりあれど、ことにありしやうなる言づてもしたまはねば、うしと思しはてにけるをいとほしと思ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち泣きけり。遠く下りなんと…
〔一九〕源氏、夕顔の四十九日の供養を行う
かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめてさるべき物どもこまかに、誦経などせさせたまふ。経、仏の飾りまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨いと尊き人にて、二な…
〔二〇〕その後のこと—源氏、夕顔の夢を見る
かの夕顔の宿には、いづ方にと思ひまどへど、そのままにえ尋ねきこえず。右近だに訪れねば、あやしと思ひ嘆きあへり。たしかならねど、けはひをさばかりにやとささめきしかば、惟光をかこちけれ…
〔二一〕空蝉、伊予国に下向、源氏、餞別を贈る
伊予介、神無月の朔日ごろに下る。源氏「女房の下らんに」とて、手向け心ことにせさせたまふ。また内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、幣などわざとがましく…
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