日本古典の最高傑作――光源氏の波瀾万丈の生涯を描いた大長編
主人公・光源氏の恋と栄華と苦悩の生涯と、その一族たちのさまざまの人生を、70年余にわたって構成。王朝文化と宮廷貴族の内実を優美に描き尽くした、まさに文学史上の奇跡といえる。藤原為時の女(むすめ)で歌人の紫式部が描いた長編で、「桐壺(きりつぼ)」から「夢浮橋(ゆめのうきはし)」までの54巻からなる。
[中古][物語]
校注・訳:阿部秋生 秋山 虔 今井源衛 鈴木日出男
〔一〕桐壺帝譲位後の源氏と藤壺の宮
〔一〕 御代が改まってから後、源氏の君は、何かにつけてお気が進まず、それにご身分の尊さも加わったせいか、軽率なお忍び歩きもはばかられるので、こちらの女(ひと)もあちらの女(ひと)も君を待ち遠しく心もとない嘆きを重ねておられる、その報いであろうか、君ご自身としても、やはり自分につれないお方のお心をどこまでも恨めしくお嘆きになっていらっしゃる。その藤壺の宮は、帝(みかど)がご譲位あそばした今は、以前にもまして、常に、まるで臣下の夫婦のようにおそばに付ききりでいらっしゃる、それを、このたび皇太后になられた弘徽殿(こきでん)はおもしろからずおぼしめすのか、始終宮中にばかりいらっしゃるので、院の御所では、藤壺の宮と肩を並べて競う人もなく、気がねのいらぬご様子である。院は、何かの折々につけて、管絃(かんげん)のお遊びなどを世間の評判になるくらい趣向をこらして盛大にお催しになっては、今のお暮しのほうが、ご在位のころよりもかえって申し分なくお幸せな有様とお見えになる。ただ、おそばにおられぬ東宮をまことに恋しくお思い申しあげあそばす。東宮の御後見がないのを気がかりに思い申しあげて、大将の君に万事ご依頼あそばすにつけても、君は、気が咎(とが)めはするものの、うれしく思っていらっしゃる。〔二〕 それはそうと、あの六条御息所(ろくじようのみやすどころ)を御母
〔二〕伊勢下向を思案する御息所と源氏の心境
まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫宮、斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいと頼もしげなきを、幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし、とかねてより思しけり…
〔三〕朝顔の姫君の深慮、葵の上の懐妊
かかることを聞きたまふにも、朝顔の姫君は、いかで人に似じと深う思せば、はかなきさまなりし御返りなどもをさをさなし。さりとて、人憎くはしたなくはもてなしたまはぬ御気色を、君も、なほこ…
〔四〕新斎院御禊の日、葵の上物見に出る
そのころ、斎院もおりゐたまひて、后腹の女三の宮ゐたまひぬ。帝、后いとことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋異になりたまふをいと苦しう思したれど、他宮たちのさるべきおはせず、儀式など、…
〔五〕葵の上の一行、御息所の車に乱暴をする
日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。隙もなう立ちわたりたるに、よそほしうひきつづきて立ちわづらふ。よき女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めてみなさし退けさする中…
〔六〕見物の人々源氏の美しさを賛嘆する
ほどほどにつけて、装束、人のありさまいみじくととのへたりと見ゆる中にも、上達部はいとことなるを、一ところの御光にはおし消たれためり。大将の御仮の随身に殿上の将監などのすることは常の…
〔七〕源氏、葵の上と御息所の車争いを聞く
祭の日は、大殿には物見たまはず。大将の君、かの御車の所争ひをまねびきこゆる人ありければ、いといとほしううしと思して、なほ、あたら、重りかにおはする人の、ものに情おくれ、すくすくしき…
〔八〕祭の日、源氏、紫の上と物見に出る
今日は、二条院に離れおはして、祭見に出でたまふ。西の対に渡りたまひて、惟光に車のこと仰せたり。源氏「女房、出でたつや」とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするをう…
〔九〕源氏、好色女源典侍と歌の応酬をする
今日も所もなく立ちにけり。馬場殿のほどに立てわづらひて、源氏「上達部の車ども多くて、もの騒がしげなるわたりかな」とやすらひたまふに、よろしき女車のいたう乗りこぼれたるより、扇をさし…
〔一〇〕車争いのため、御息所の物思い深まる
御息所は、ものを思し乱るること年ごろよりも多く添ひにけり。つらき方に思ひはてたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむはいと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならんことと思す。さり…
〔一一〕懐妊中の葵の上、物の怪に悩まされる
大殿には、御物の怪めきていたうわづらひたまへば、誰も誰も思し嘆くに、御歩きなど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。さはいへど、やむごとなき方はことに思ひきこえたまへる人の…
〔一二〕源氏、物思いに乱れる御息所を訪問
かかる御もの思ひの乱れに御心地なほ例ならずのみ思さるれば、他所に渡りたまひて御修法などせさせたまふ。大将殿聞きたまひて、いかなる御心地にかと、いとほしう思し起こして渡りたまへり。例…
〔一三〕御息所、物の怪となり葵の上を苦しめる
大殿には、御物の怪いたう起こりていみじうわづらひたまふ。この御生霊、故父大臣の御霊など言ふものありと聞きたまふにつけて、思しつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに人をあしかれなど…
〔一四〕源氏、不意に御息所の物の怪と対面する
まださるべきほどにもあらずと皆人もたゆみたまへるに、にはかに御気色ありてなやみたまへば、いとどしき御祈祷数を尽くしてせさせたまへれど、例の執念き御物の怪一つさらに動かず、やむごとな…
〔一五〕葵の上、男子を出産し、御息所の苦悩深し
すこし御声も静まりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれしと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御物の怪…
〔一六〕源氏、左大臣家の人々、すべて参内する
若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつりたまへるを見たてまつりたまひても、まづ恋しう思ひ出でられさせたまふに忍びがたくて、参りたまはむとて、源氏「内裏などにもあま…
〔一七〕留守中に葵の上急逝、その葬送を行う
殿の内人少なにしめやかなるほどに、にはかに、例の御胸をせきあげていといたうまどひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく絶え入りたまひぬ。足を空にて誰も誰もまかでたまひぬれば、除…
〔一八〕源氏、葵の上の死去を哀悼する
殿におはし着きて、つゆまどろまれたまはず、年ごろの御ありさまを思し出でつつ、などて、つひにはおのづから見なほしたまひてむとのどかに思ひて、なほざりのすさびにつけても、つらしとおぼえ…
〔一九〕源氏と御息所和歌を贈答、ともに悩む
深き秋のあはれまさりゆく風の音身にしみけるかな、とならはぬ御独り寝に、明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり…
〔二〇〕時雨の日源氏・三位中将・大宮、傷心の歌
御法事など過ぎぬれど、正日まではなほ籠りおはす。ならはぬ御つれづれを心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことを…
〔二一〕源氏、時雨につけ、朝顔の姫君と歌を贈答
なほいみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、今日のあはれはさりとも見知りたまふらむと推しはからるる御心ばへなれば、暗きほどなれど聞こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文な…
〔二二〕女房ら、源氏との別離近きを悲しむ
暮れはてぬれば、御殿油近くまゐらせたまひて、さるべきかぎりの人々、御前にて物語などせさせたまふ。中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさやうなる筋に…
〔二三〕源氏参院、涙ながらに左大臣家を辞去
君は、かくてのみもいかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院へ参りたまふ。御車さし出でて、御前など参り集まるほど、をり知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風あわたたしう吹きはら…
〔二四〕源氏去って左大臣家の寂寥さらに深まる
うち見まはしたまふに、御几帳の背後、障子のあなたなどの開き通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き薄き鈍色どもを着つつ、みないみじう心細げにてうちしほたれつつゐ集まりたるを…
〔二五〕源氏、桐壺院並びに藤壺の宮に参上する
院へ参りたまへれば、院「いといたう面痩せにけり。精進にて日を経るけにや」と心苦しげに思しめして、御前にて物などまゐらせたまひて、とやかくやと思しあつかひきこえさせたまへるさま、あは…
〔二六〕源氏、二条院に帰り紫の上の成人を知る
二条院には、方々払ひ磨きて、男、女待ちきこえたり。上臈どもみな参上りて、我も我もと装束き化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み屈じたりつる気色どもぞあはれに思ひ出でられたまふ。御装…
〔二七〕源氏、紫の上と新枕をかわす
いとつれづれにながめがちなれど、何となき御歩きもものうく思しなられて思しも立たれず。姫君の何ごともあらまほしうととのひはてて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどにはた見…
〔二八〕源氏、三日夜の餅を紫の上に供する
その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことごとしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる檜破子などばかりをいろいろにて参れるを見たまひて、君、南の方に出で…
〔二九〕紫の上と新枕の後の源氏の感懐
かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく面影に恋しければ、あやしの心やと我ながら思さる。通ひたまひし所どころよりは、恨めしげにおどろかしきこえたまひな…
〔三〇〕源氏、参賀の後、左大臣家を訪れる
朔日は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたまふ。それより大殿にまかでたまへり。大臣、新しき年とも言はず、昔の御事ども聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、い…
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