日本古典の最高傑作――光源氏の波瀾万丈の生涯を描いた大長編
主人公・光源氏の恋と栄華と苦悩の生涯と、その一族たちのさまざまの人生を、70年余にわたって構成。王朝文化と宮廷貴族の内実を優美に描き尽くした、まさに文学史上の奇跡といえる。藤原為時の女(むすめ)で歌人の紫式部が描いた長編で、「桐壺(きりつぼ)」から「夢浮橋(ゆめのうきはし)」までの54巻からなる。
[中古][物語]
校注・訳:阿部秋生 秋山 虔 今井源衛 鈴木日出男
〔一〕源氏、須磨に退去を決意 人々との別れ
〔一〕 世の中の形勢が、源氏の君にとってまことにわずらわしく、居心地のわるいことばかり多くなってゆくので、自分としては、しいて素知らぬ顔でやり過していても、あるいはこれ以上に恐ろしい事態になるかもしれない、という思いになられた。 あの須磨は、昔こそ人の住いなどもあったのだったが、今はまったく人里離れてもの寂しく、漁師の家さえもまれであるなどとお聞きになるけれども、人の出入りが多くてにぎやかな所に住むのもまったく本意にもとるというもの、そうかといって都を遠ざかるのも、故郷(ふるさと)のことが気がかりであろうしと、あれこれと見苦しいくらいに君は思い困じていらっしゃる。 何につけても、今までのこと、これから先のことをお思い続けになると、悲しいことがじつにさまざまである。おもしろからぬものと見切りをつけておしまいになった世の中であるが、それでも、これで、いよいよ住み離れてしまうのだとお思いになると、まことにあきらめにくいことが多々あるが、その中にも、姫君が明け暮れ日を経(へ)るにつれていよいよ嘆き悲しんでいらっしゃるご様子が胸痛くいじらしく感じられるので、これがどこをどうさまよっても、必ずまた逢(あ)えることが分っていらっしゃるような場合であっても、ほんの一日二日の間
〔二〕源氏、左大臣邸を訪れて別れを惜しむ
二三日かねて、夜に隠れて大殿に渡りたまへり。網代車のうちやつれたるにて、女車のやうにて隠ろへ入りたまふも、いとあはれに夢とのみ見ゆ。御方いとさびしげにうち荒れたる心地して、若君の御…
〔三〕源氏、二条院で紫の上と別離を嘆く
殿におはしたれば、わが御方の人々も、まどろまざりける気色にて、所どころに群れゐて、あさましとのみ世を思へる気色なり。侍所には、親しう仕うまつるかぎりは御供に参るべき心まうけして私の…
〔四〕源氏、花散里を訪れて懐旧の情を交す
花散里の心細げに思して、常に聞こえたまふもことわりにて、かの人もいま一たび見ずはつらしとや思はんと思せば、その夜はまた出でたまふものから、いとものうくて、いたう更かしておはしたれば…
〔五〕旅立ちの準備 邸内の雑事や所領の処置
よろづのことどもしたためさせたまふ。親しう仕うまつり世になびかぬかぎりの人々、殿の事とり行ふべき上下定めおかせたまふ。御供に慕ひきこゆるかぎりは、また選り出でたまへり。 かの山里の…
〔六〕源氏、朧月夜と忍んで消息を交す
尚侍の御もとに、わりなくして聞こえたまふ。源氏「問はせたまはぬもことわりに思ひたまへながら、今はと世を思ひはつるほどのうさもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。逢ふ瀬なき涙の…
〔七〕藤壺の宮へ参上 故院の山陵を拝む
明日とての暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふとて、北山へ参でたまふ。暁かけて月出づるころなれば、まづ入道の宮に参でたまふ。近き御簾の前に御座まゐりて、御みづから聞こえさせたまふ。…
〔八〕東宮方の女房ら、源氏の悲運を嘆く
明けはつるほどに帰りたまひて、春宮にも御消息聞こえたまふ。王命婦を御かはりとてさぶらはせたまへば、その局にとて、源氏「今日なん都離れはべる。また参りはべらずなりぬるなん、あまたの愁…
〔九〕源氏、紫の上を残して須磨の浦へ出発
その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の夜深く出でたまふ。狩の御衣など、旅の御よそひいたくやつしたまひて、源氏「月出でにけりな。なほすこし出でて見だに送りたまへかし…
〔一〇〕須磨の家居の有様 都の人たちへ文を書く
おはすべき所は、行平の中納言の藻塩たれつつわびける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。垣のさまよりはじめてめづらかに見たまふ。茅屋ども、葦ふける…
〔一一〕紫の上、源氏の文を見て嘆き悲しむ
京には、この御文、所どころに見たまひつつ、御心乱れたまふ人々のみ多かり。二条院の君は、そのままに起きも上がりたまはず、尽きせぬさまに思しこがるれば、さぶらふ人々もこしらへわびつつ心…
〔一二〕藤壺・朧月夜・紫の上それぞれの返書
入道の宮にも、春宮の御事により、思し嘆くさまいとさらなり。御宿世のほどを思すには、いかが浅くは思されん。年ごろは、ただものの聞こえなどのつつましさに、すこし情ある気色見せば、それに…
〔一三〕六条御息所と文通、花散里への配慮
まことや、騒がしかりしほどの紛れに漏らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。かれよりもふりはへたづね参れり。浅からぬことども書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人よりことになま…
〔一四〕朧月夜、帝の寵を受けつつも源氏を慕う
尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを、大臣いとかなしうしたまふ君にて、切に宮にも内裏にも奏したまひければ、限りある女御、御息所にもおはせず、公ざまの宮仕と思しなほり、またか…
〔一五〕須磨の秋 源氏、憂愁の日日を過す
須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。 御前に…
〔一六〕大宰大弐、上京の途次、源氏を見舞う
そのころ大弐は上りける。いかめしく類ひろく、むすめがちにてところせかりければ、北の方は舟にて上る。浦づたひに逍遥しつつ来るに、外よりもおもしろきわたりなれば心とまるに、大将かくてお…
〔一七〕弘徽殿の意向を憚る人々と二条院の状況
都には、月日過ぐるままに、帝をはじめたてまつりて、恋ひきこゆるをりふし多かり。春宮はまして常に思し出でつつ忍びて泣きたまふを、見たてまつる御乳母、まして命婦の君はいみじうあはれに見…
〔一八〕須磨の源氏、流竄の思いに嘆きわびる
かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、わが身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、いかでかは、うち具してはつきなからむさまを思ひ返したまふ。所につけ…
〔一九〕明石の入道、娘を源氏に奉ることを思う
明石の浦は、ただ這ひ渡るほどなれば、良清朝臣、かの入道のむすめを思ひ出でて文などやりけれど、返り事もせず、父の入道ぞ、「聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」と言ひけれど、う…
〔二〇〕春めぐりくる須磨を宰相中将が訪問する
須磨には、年かへりて日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲きそめて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふをり多かり。二月二十日あまり、去にし…
〔二一〕三月上巳の祓の日、暴風雨に襲われる
弥生の朔日に出で来たる巳の日、「今日なむ、かく思すことある人は、禊したまふべき」と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐら…
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