日本古典の最高傑作――光源氏の波瀾万丈の生涯を描いた大長編
主人公・光源氏の恋と栄華と苦悩の生涯と、その一族たちのさまざまの人生を、70年余にわたって構成。王朝文化と宮廷貴族の内実を優美に描き尽くした、まさに文学史上の奇跡といえる。藤原為時の女(むすめ)で歌人の紫式部が描いた長編で、「桐壺(きりつぼ)」から「夢浮橋(ゆめのうきはし)」までの54巻からなる。
[中古][物語]
校注・訳:阿部秋生 秋山 虔 今井源衛 鈴木日出男
〔一〕源氏、瘧病をわずらい、北山の聖を訪れる
〔一〕 源氏の君は、瘧病をおわずらいになって、あれこれと手を尽してまじないや加持などおさせになるけれども、効験がなくて、たびたび発作をお起しになったので、ある人が、「北山でございますが、何々寺という所に、すぐれた修行者がおります。去年の夏も世間に流行して、さまざまの人がまじなったのですが効きめがなく、てこずっておりましたのを、即座になおした例がたくさんございました。こじらせてしまいますと厄介なことになりますから、早くお試しになるがよろしゅうございましょう」などと申しあげるので、お召しに使者をお遣わしになったところが、「年老いて腰もまがって室(むろ)の外にも出ませぬ」とお答え申したので、「それでは是非もない。ごく内密に出かけることにしよう」と仰せになって、お供には親しくお仕えする者四、五人ばかりを連れて、まだ夜の明けぬうちにお出ましになる。 その寺は少し山深く入った所なのであった。三月の末であるから、京の花はもうみな盛りを過ぎてしまっていた。山の桜はまだ盛りであって、だんだんと分け入っていらっしゃるにつれて、霞(かすみ)のかかった景色も興深く眺められるので、こうしたお出歩きはめったにないことだし、しかも窮屈なご身分のこととて、珍しくお思いになるのだ
〔二〕源氏、なにがし僧都の坊に女人を見る
すこし立ち出でつつ見わたしたまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる、ただこのつづら折の下に、同じ小柴なれど、うるはしうしわたして、きよげなる屋、廊などつづけて…
〔三〕ある供人、明石の入道父娘のことを語る
君は行ひしたまひつつ、日たくるままに、いかならんと思したるを、供人「とかう紛らはさせたまひて、思し入れぬなんよくはべる」と聞こゆれば、背後の山に立ち出でて京の方を見たまふ。はるかに…
〔四〕源氏、紫の上を見いだして恋慕する
日もいと長きにつれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出でたまふ。人々は帰したまひて、惟光朝臣とのぞきたまへば、ただこの西面にしも、持仏すゑたてまつり…
〔五〕源氏、招かれて僧都の坊を訪れる
うち臥したまへるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君もやがて聞きたまふ。僧都「過きりおはしましけるよし、ただ今なむ人申すに、驚きながらさぶらふべきを、なにがし…
〔六〕源氏、紫の上の素姓を聞き僧都に所望する
僧都、世の常なき御物語、後の世のことなど聞こえ知らせたまふ。わが罪のほど恐ろしう、あぢきなきことに心をしめて、生けるかぎりこれを思ひなやむべきなめり、まして後の世のいみじかるべき思…
〔七〕源氏、尼君に意中を訴え、拒まれる
君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて音高う聞こゆ。すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も所がら…
〔八〕暁方、源氏再び僧都と対座、和歌の贈答
暁方になりにければ、法華三昧おこなふ堂の懺法の声、山おろしにつきて聞こえくるいと尊く、滝の音に響きあひたり。源氏吹き迷ふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな僧都「さしぐみに袖ぬ…
〔九〕僧都らと惜別 源氏、尼君と和歌を贈答
御迎への人々参りて、おこたりたまへるよろこび聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。僧都、見えぬさまの御くだもの、何くれと、谷の底まで掘り出でいとなみきこえたまふ。僧都「今年ばかりの誓ひ…
〔一〇〕源氏、君達と帰還 紫の上、源氏を慕う
御車に奉るほど、大殿より、「いづちともなくておはしましにけること」とて、御迎への人々、君たちなどあまた参りたまへり。頭中将、左中弁、さらぬ君たちも慕ひきこえて、君達「かうやうの御供…
〔一一〕源氏、葵の上と不和 紫の上を思う
君はまづ内裏に参りたまひて、日ごろの御物語など聞こえたまふ。いといたう衰へにけりとて、ゆゆしと思しめしたり。聖のたふとかりけることなど問はせたまふ。くはしく奏したまへば、帝「阿闍梨…
〔一二〕翌日、源氏北山の人々に消息をおくる
またの日、御文奉れたまへり。僧都にもほのめかしたまふべし。尼上には、 源氏もて離れたりし御気色のつつましさに、思ひたまふるさまをもえあらはしはてはべらずなりにしをなむ。かばかり聞こ…
〔一三〕藤壺、宮中を退出 源氏、藤壺と逢う
藤壺の宮、なやみたまふことありて、まかでたまへり。上のおぼつかながり嘆ききこえたまふ御気色も、いといとほしう見たてまつりながら、かかるをりだにと心もあくがれまどひて、いづくにもいづ…
〔一四〕源氏・藤壺の苦悩 藤壺懐妊、宮中に帰参
殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひつ。御文なども、例の、御覧じ入れぬよしのみあれば、常のことながらも、つらういみじう思しほれて、内裏へも参らで二三日籠りおはすれば、また、いかな…
〔一五〕尼君ら帰京、源氏訪れて紫の上の声を聞く
かの山寺の人は、よろしうなりて出でたまひにけり。京の御住み処尋ねて、時々の御消息などあり。同じさまにのみあるもことわりなるうちに、この月ごろは、ありしにまさるもの思ひに、ことごとな…
〔一六〕翌日、源氏尼君に消息 紫の上への執心
またの日も、いとまめやかにとぶらひきこえたまふ。例の小さくて、源氏「いはけなき鶴の一声聞きしより葦間になづむ舟ぞえならぬ同じ人にや」とことさら幼く書きなしたまへるも、いみじうをかし…
〔一七〕尼君死去 源氏、紫の上をいたわり弔う
十月に朱雀院の行幸あるべし。舞人など、やむごとなき家の子ども、上達部、殿上人どもなどもその方につきづきしきは、みな選らせたまへれば、親王たち大臣よりはじめて、とりどりの才ども習ひた…
〔一八〕源氏、紫の上の邸を訪れ、一夜を過す
忌など過ぎて、京の殿になど聞きたまへば、ほど経て、みづからのどかなる夜おはしたり。いとすごげに荒れたる所の、人少ななるに、いかに幼き人おそろしからむと見ゆ。例の所に入れたてまつりて…
〔一九〕源氏、帰途に忍び所の門を叩かす
いみじう霧りわたれる空もただならぬに、霜はいと白うおきて、まことの懸想もをかしかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。いと忍びて通ひたまふ所の道なりけるを思し出でて、門うち叩かせたま…
〔二〇〕父兵部卿宮、紫の上を訪ね、あわれむ
かしこには、今日しも宮渡りたまへり。年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うもの古りたる所の、いとど人少なにさびしければ、見わたしたまひて、宮「かかる所には、いかでかしばしも幼き人の過…
〔二一〕源氏、惟光を遣わし、父宮の意図を知る
君の御もとよりは、惟光を奉れたまへり。「参り来べきを、内裏より召しあればなむ。心苦しう見たてまつりしも静心なく」とて、宿直人奉れたまへり。女房「あぢきなうもあるかな。戯れにても、も…
〔二二〕葵の上と不和、紫の上を邸から連れ出す
君は大殿におはしけるに、例の、女君、とみにも対面したまはず。ものむつかしくおぼえたまひて、あづまをすが掻きて、「常陸には田をこそつくれ」といふ歌を、声はいとなまめきて、すさびゐたま…
〔二三〕紫の上を二条院に迎え、いたわる
二条院は近ければ、まだ明うもならぬほどにおはして、西の対に御車寄せて下りたまふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ。少納言、「なほいと夢の心地しはべるを、いかにしはべるべ…
〔二四〕源氏、紫の上に手習を教え、ともに遊ぶ
君は二三日内裏へも参りたまはで、この人をなつけ語らひきこえたまふ。やがて本にと思すにや、手習、絵などさまざまにかきつつ見せたてまつりたまふ。いみじうをかしげにかき集めたまへり。「武…
〔二五〕父兵部卿宮と、邸に残る女房たちの困惑
かのとまりにし人々、宮渡りたまひて尋ねきこえたまひけるに、聞こえやる方なくてぞわびあへりける。「しばし人に知らせじ」と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、切に口かためやりたり。た…
〔二六〕紫の上、無心に源氏と馴れむつぶ
やうやう人参り集りぬ。御遊びがたきの童べ、児ども、いとめづらかにいまめかしき御ありさまどもなれば、思ふことなくて遊びあへり。君は、男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮などばかりぞ…
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