[現]伏見区深草藪之内町
稲荷山の西麓に鎮座。式内社で「延喜式」神名帳の
〈京都・山城寺院神社大事典〉
「二十二社註式」は「元明天皇和銅四年辛亥、始顕坐伊奈利山三箇峰平処、是秦氏祖中家等、抜木殖蘇也、秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭、依其霊験有被奉臨時御幣」と、和銅四年(七一一)のこととするが確定できない。秦氏が稲荷山に祭祀した理由について「山城国風土記」逸文に、秦中家忌寸らの遠祖伊呂具が稲を積んで富裕となり、そのため餅を用いて的としたところ、餅が白鳥となって山峰に飛去り、稲がなって子を生む「伊禰奈利生之」になったため、それを社名としたとある。餅が新たな稲を生むというところに稲荷神の農耕神たる神格が浮び上がるが、これをいっそう明確に物語るのは、先の逸話に続いて「而抜社之木殖家祷祭之、其木蘇者得殖(福)、木枯者不移(福)」という「
「山城国風土記」の逸話にもあるように、稲荷社が最初に鎮座した地は、稲荷山の山頂三ヶ峰であり、上中下の三社あった。それが山上から現在地に移ったのは、永享一〇年(一四三八)と伝える。「稲荷谷響記」に「当社下山ノ年紀未詳也、或記云、永享十年正月五日、依将軍義教公之命、稲荷社ヲ自山上今ノ地ニ被遷云々」と述べ、「花洛名所図会」「都名所図会」など江戸時代の案内書もこれを踏襲する。
農耕神であるにもかかわらず、平安京の住人によって支えられてきた。これは当社の氏子圏が、平安京の五条以南に設定されていたことと深い関連があろう。稲荷社がなぜ京内に氏子圏を設定し、それがいつ頃からのことであるのかは不明だが、一つには稲荷社が鎮座する一帯は、古くから
こうして平安京の尊崇を集めた当社は、平安時代以来、二月の初午の日に参詣する人々で賑わった。この日は稲荷神が稲荷山の三ヶ峰に降臨した日といわれ、初午祭として今に伝えられるが、先の「今昔物語集」巻三〇や、さらに巻二八(近衛舎人共稲荷詣、重方値女語)にある「今昔、衣曝ノ始午ノ日ハ、昔ヨリ京中ニ上中下ノ人稲荷詣トテ参リ集ノ日也」とあるものや、「枕草子」の「うらやましげなるもの」の段などは、そうした初午の日の稲荷参詣を物語るものであろう。この日には稲荷山の杉を持帰り、自庭に植えて吉凶を占う「験の杉」の風習があり、「蜻蛉日記」にも「いなりやまおほくのとしぞこえにけりいのるしるしの杉をたのみて」の歌が記されている。当社は東寺の鎮守神として特別な関係をもっていたが、これは天長四年(八二七)からのことで、前年、造東寺別当空海は塔造営の用材を稲荷社の神木に求めたが、神木伐採の祟りで天皇が病気となり、朝廷は当社に従五位下の神階を贈り謝した(同年正月一九日「詔」類聚国史)。御旅所が東寺の近くにあるのも、このことと無関係ではあるまい。
稲荷詣は時代を経るとともに盛んとなっていったが、都の人々と当社をよりいっそう結び付けたのは稲荷祭であった。祭は三月中の午の日に御旅所への神幸があり、四月上の卯の日に当社へ遷幸する(ただし四月に三卯ある時は、中卯を遷幸日とする)。祭礼行列の道順は、神幸の時には稲荷社を出て伏見街道を北上し、鴨川を渡って七条通を西行し、
御旅所は現在は
これによれば七条油小路に御旅所が設けられたのは東寺との密接な関係があったわけだが、「山槐記」仁安二年(一一六七)四月二三日条に「今夜為御方違行幸鳥羽北殿、先々幸八条堀河顕長卿家、而彼近辺有稲荷旅所」とあるのは、この御旅所をさしてのことであろう。二つの御旅所がいつ頃現在地に移されたのかはつまびらかでないが、社伝によれば天正年間(一五七三―九二)豊臣秀吉の願によって移座されたという。この稲荷祭は華麗な行装に身を固めた馬長とともに、都人の注目を集めたが、「雲州消息」はその祭の様子を
と記す。
祭礼の日には人々は七条大路に桟敷を設けて見物したが、同書が語るように、行列の一方の主役は先頭を行く馬長であり、彼らは「十家之産」に及ばんとするほどの財を傾けた金銀ちりばむ衣装をまとい、華麗さを競った。馬長とは、朝廷や院からの仰せによって殿上人が献じ、小舎人童などが務めたものであって、祇園会などにもみることができる。ところが一方では民間からひそかに出す馬長もあり、同書の語る馬長はどの馬長であったのかは判然としないが、「十家之産」を傾けるほどのものであったところをみると、舎人の身分を獲得していた市中の商工業者であったと考えられる。そしていつしか馬長(馬上)を一定地域の者に限定して勤仕させるようになった。「明月記」寛喜元年(一二二九)三月一四日条に「稲荷祭馬頭、毎年五月五日、指六条以南富有下郎云々」とみるごとく、少なくとも鎌倉時代初頭から六条以南に住む富有の下郎から、馬頭(馬上)を選び勤仕させるようになっていたのである。六条以南の住人が馬上役差定の条件になっていたことは、「天台座主記」寛元五年(一二四七)の「惣持院楽器寄人、以謂六条以南之住人、依点定稲荷社馬上役」との記述によっても明らかである。
祭礼には馬長のほかに鉾や山があり、それらには風流の構えが施されていた。本来農耕祭として出発したと思われるこの祭は、都市住民と深い関係を結んだことで都市の祭礼へと変貌し、御霊会へと変化していったものと思われる。「中右記」寛治八年(一〇九四)四月九日条には「今日稲荷御霊会也」とみえる。平安時代中期の藤原明衡の「新猿楽記」には、御旅所近辺での
しかし応仁の乱によって京の町々が破壊されたことにより、氏子は祭礼役を負担しきれなくなり、稲荷祭は衰微していく。やがて江戸時代には従前の華麗さとは比較にならないが「山口幸充日次記」延享四年(一七四七)四月八日条に「稲荷祭礼也、従午刻出歩、路次所々ニ而練物・造物見之会悦目」とあるように、造物などが再び人々の目を楽しませ、また新たに練物などが行列に付き従うようになっていた。年中行事としては、このほか一月五日に催される大山祭がある。山上の神跡七ヵ所に注連縄を張るため「注連縄張神事」ともよばれる。また一一月八日には御火焚祭ともよばれる鞴祭がある。「日次紀事」によると一条天皇の時、三条小鍛冶宗近が刀剣を鋳る時、稲荷神が出現してこれを助けた故事にちなむといわれ、古い年中行事の一つで、現在も火を使う職業の人々によって信仰されている。
「三代実録」貞観七年(八六五)四月一七日条に「稲荷三段(中略)並以山城国愛宕・紀伊・乙訓・葛野等郡、得度除帳田充之」とあるのを初めとして、洛中散在田・加賀国・備後国などに社領をもっていたが、その全貌については不明。加賀国については稲荷神社古文書に建武元年(一三三四)九月四日の雑訴決断所牒があり、「味智郷内水田二十町」が寿永二年(一一八三)九月日の院庁下文などに任せて管領が認められている。また同国
社殿の造営について「二十二社註式」は、「相次延喜八年、故贈太政大臣藤原朝臣修造件三箇社者也」と記し、この延喜八年(九〇八)修造説は、「国花万葉記」など、のちの書物にも踏襲されている。しかし平安時代における社殿については明らかではない。文治三年(一一八七)八月、修造のための具体的方策が練られたのをはじめとして(吾妻鏡)、鎌倉時代にはしばしば記録上に遷宮などの記事が現れるが、修造についての具体的な様子は、「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)二月一〇日条に載せる安田義定申状によって知られる。
その後、寛元三年(一二四五)一一月二九日焼失し(百錬抄)、翌年造営があったものの、応仁の乱によって焼失した。「山科家礼記」応仁二年(一四六八)三月二〇日条に「稲荷社焼上、西方ヨリ沙汰、近所近郷在家寺社一宇無之、子細者細川殿ヨリ今度道見ト申目付ニ下京ヲヤカセラルヘキトテ、稲荷社取陣手衆五六百人在之、然処、西方ヨリ道見所押寄合戦也、道見則落行、道見被打、其外数十人如此候、言語道断次第也」と記され、骨皮道賢が陣として稲荷社に拠ったために罹災したことが知れる。
「稲荷社事実考証記」は「明応八年十一月、上下御殿造営成畢、同月廿三日遷宮也、按此時造営、依為用脚不足、始而為下中上社相殿」と、同年一一月二三日に遷宮が行われたことを述べているが、ここで留意されるのは、この再興によって、本来別殿であった三社が合殿となったことである。そして新たに田中大神・四大神が合祀され、今にみる五社合殿となった。これが現在の本殿(国指定重要文化財)であり、五間社流造の、世にいう稲荷造である。天正一七年豊臣秀吉による修復や回廊などの再興が行われ、
境内には多くの石塔があるが、本殿の南にある石灯籠は鎌倉時代のもので、数ある石灯籠のなかでも最古のもの。また境内社として熊野社・
当社は歌枕稲荷宮として「五代集歌枕」「八雲御抄」にあげられる。
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京都市伏見区に鎮座。伏見稲荷として知られ,単に稲荷大社ともいう。東に稲荷山を負い西に鴨川を控え,京都から伏見・淀方面に至る交通の要衝に位置する。全国3万余に上る稲荷神社の総本社で旧官幣大社。祭神は宇迦之御魂(うかのみたま)(下社),佐田彦大神(中社),大宮能売(おおみやのめ)大神(上社)の三柱を主神とし,相殿に田中大神と四大神(しのおおかみ)をまつる。もとは稲荷山上に下中上の三社があったが,のち山麓に神殿を造って移され,相殿の神とともに五座をまつることとなった。711年(和銅4)2月7日初午の日,秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)の遠祖秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が初めて社を創建したと伝える。《山城国風土記》逸文によると伊呂具は富裕で,ある時,餅を的として弓を射たところ,それが白鳥と化し飛び去って稲荷山の峰に止まり,そこに稲が生じた。その霊異により社を建ててまつるようになった。子孫の中家忌寸は伊呂具の過ちを神に謝し,稲荷山の杉を植えて祈りまつったという。以後秦氏が代々禰宜(ねぎ)・祝(はふり)となって仕えた。世に〈験(しるし)の杉〉と称し,この神に祈る者がその木を植えてつけば福を得,枯れれば福がないという。
942年(天慶5)ころ正一位の神階が授与され,《延喜式》では名神大社に列し,祈年・月次・新嘗の案上ならびに祈雨の官幣にあずかり,後三条天皇以降歴代天皇の行幸があった。平安初期には東寺の鎮守となり,中世以降,還幸祭には御旅所より神輿が一時同寺に立ち寄り,寺では法会,神供,獅子舞を行ったが,その費用は京都下京の氏子に地子銭として課されていた。応仁の乱に荒廃し,1499年(明応8)ようやく社殿は復興し,1589年(天正17)さらに豊臣秀吉は社領106石を寄せ,社殿の修理を行った。
神使の狐に対する信仰が中世より盛んで,さらに密教の荼枳尼(だきに)天とも習合したのは東寺の真言密教の影響とみられる。近世には商業神として町人の信仰をあつめ,全国津々浦々に勧請され,稲荷講信者の稲荷山登山は絶えず,山中いたるところに信者の守護神(御眷属)が数千ヵ所もまつられて壮観を呈する。現在,おもな祭礼には稲荷祭のほか1月5日の大山祭(注連張(しめはり)神事),同12日の奉射祭,2月の初午大祭,11月8日の火焚祭,12月初申の御煤(すす)払祭があるが,とくに初午の祭はすでに平安朝より有名である。
→稲荷信仰
毎年4月20日に最も近い日曜日に神幸祭があり,5月3日に還幸祭が行われる。神幸・還幸の両祭を称して稲荷祭というが,古くから還幸祭の方が重んじられた。もとは4月上卯日(3卯のときは中卯日)を祭日とし,まず3月中午日に御出とよばれる渡御祭がある。当日神霊を田中社,上社,中社,下社,四大神の5基の神輿に移し,神職や氏子が供奉して西九条の御旅所に着く。御旅所に20日間とどまったのち,4月上卯日,再び行列を組んで本社に向かう還幸祭が行われる。その途中,東寺の門前で僧侶による献供の儀式が行われ,神仏習合の儀礼を今日まで残している。
神輿渡御の神事として古くから都の人々によく知られ,行列の先頭に立つ馬上(馬長)役は中世には下京の裕福な町人がつとめ,七条大路には桟敷が設けられて人々はその華麗な行粧を見物した。行列は,江戸末期以後は現在に近い形に改められた。
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