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  11. 本能寺

本能寺

ジャパンナレッジで閲覧できる『本能寺』の日本歴史地名大系のサンプルページ

本能寺
ほんのうじ

[現]中京区下本能寺前町

寺町てらまち通に西面して総門を開く。法華宗(本門流)の大本山。卯木山と号し、本尊十界大曼荼羅。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開創〕

応永二二年(一四一五)日隆があぶら小路高辻たかつじと五条坊門ぼうもんの間(現京都市下京区)に建立、当初本応ほんのう寺と号した。日隆は妙本みようほん(現妙顕寺)第四世日霽に師事したが、その跡を継承した月明と相いれず、妙本寺を去り当寺を建立した。しかしまもなく月明の衆徒によって破却され、日隆は南都北嶺に遊学、摂津・河内を伝道した。永享元年(一四二九)六角室町ろつかくむろまち(現中京区)の豪商小袖屋宗句の帰依を得て、大内裏の跡にあたる内野うちの(現京都市上京区)に本応寺を再建(両山歴譜)。さらに同五年、信者の如意王丸より六角通以南、四条坊門以北、櫛笥くしげ以東、大宮おおみや以西方一町の地(現中京区)を寄進され、日隆は内野の伽藍をここに移建、寺号を本能寺と改めた。永享一〇年足利義教は寺地の北東の角、六角小路に面する東西一三丈・南北一五丈の地を召上げ、ここに非人風呂を設置した(同年一一月二日「室町幕府奉行人奉書」本能寺文書など)

〔本門法華宗〕

この頃日隆は本勝迹劣の宗義を説き本門法華宗を興して、北陸・畿内・瀬戸内一帯を伝道し、顕本けんぽん(現大阪府堺市)本蓮ほんれん(現岡山県牛窓町)などを創立した。とくに日隆の弟子日典・日良は当時海外貿易の中継地であった種子たねが島・屋久やく島・永良部えらぶ島まで教線を伸ばし、末寺を建て、この地域を本能寺門流の有力基盤とした。種子島に伝来した鉄砲を本土へ普及させるのに本能寺が関係し、天文一八年(一五四九)に細川晴元が鉄砲を直接種子島より入手したことも本能寺の斡旋によった(四月一八日「細川晴元書状」本能寺文書)。一方日隆は宝徳三年(一四五一)法華信行の根幹として信者に対し信心法度事一三ヵ条(京都妙蓮寺蔵)を定め、寺僧には本能寺条々法度・定本能寺之法度(本能寺蔵)などを定め、教団組織の基本を確立。四代日明・六代日与などは本末関係のあり方を示した当門流尽未来際法度(本興寺蔵)を制定した。応仁の乱の前後、京都法華宗は繁栄し、本能寺・妙覚みようかく寺・妙本寺など洛内に法華宗二十一ヵ寺本山が建立され、京都町衆の帰依をうけていた。本能寺が瀬戸内一帯へ教線を伸ばした背景にも、洛内有力町衆・商人の塩屋・小袖屋あるいは茶屋一族などの大檀那の存在があった。町衆の自衛と自治にも法華寺院が関係し、本能寺も構と称する堀や土塁の防衛施設、さらには自衛的武力を備えていた。

〔天文法華の乱と本能寺の変〕

天文五年近江比叡山(延暦寺)衆徒が法華衆徒を攻め、本山二一ヵ寺が焼失するという天文法華の乱が起こった。叡山衆徒が七月二三日未明下山、一方法華宗側では妙見寺御霊ごりよう(現上京区)を守衛したのをはじめ、本能寺も約二万の兵で四条口を固めた(西山歴譜)。しかし法華宗は敗れ、本能寺も灰燼に帰して堺顕本寺に難を逃れた。同一一年後奈良天皇の綸旨を得て法華寺院は帰洛、再興を試みた。しかし延暦寺は日蓮宗徒帰住勅許に抗議し、叡山末寺になるべしと訴えた。そこで法華宗側は六角定頼に調停を依頼し、六角定頼の被官平井加賀守・進藤山城守あてに、調停成立後は二万疋の礼をする旨申出(本能寺文書)、同一六年に和議が成立した。本能寺も堺より帰洛し、四条坊門西洞院に再興された。天文一六年・同一七年頃と思われる。この再興には八世日承が努力した。日承は伏見宮邦高親王の子で本能寺中興といわれる。天正一〇年(一五八二)六月二日早暁、当寺に宿泊中の織田信長が明智光秀の襲撃に遭い、その兵火によって焼失した(「信長公記」、フロイス「日本史」)。当寺が現在地に移ったのは再建途中の豊臣秀吉の都市計画によるものであった(京都古町記録)。同二〇年には本堂・大書院・客殿・祖師堂・開山堂・塔頭十数院が完成した。

〔近世の推移〕

元和元年(一六一五)七月二七日の徳川家康黒印状(本能寺文書)には「山城国鴨川村之内四拾石之事、全可〓寺納〓者也」とあるように朱印寺領四〇石、寺地は「東西六拾七間四尺、南北百四拾五間五尺四寸五分」であった(京都御役所向大概覚書)。江戸中期には寺門の人材・子弟育成のため伏見大亀谷ふしみおおかめだに(現京都市伏見区)隆閑りゆうかん寺学室を建立して本能寺学問所を開設したが、明治維新の際廃仏毀釈によって廃校となった。また天和―元禄期(一六八一―一七〇四)には塔頭の大住院日甫(以信)が立華に優れ、本能寺未生流を興した。天明八年(一七八八)の大火で堂宇の大半は焼失し、さらに元治元年(一八六四)長州軍の木屋きや(現中京区)薩摩屋敷砲撃で灰燼と帰し、現在の建物は昭和三年(一九二八)の造営。この間は隆閑寺学室を移して仮本堂とした。

〔伽藍・塔頭と文化財〕

境内には本堂のほか方丈・客殿・講堂・総門、子院の恵昇えしよう院・蓮承れんじよう院・定性じようしよう院・高俊こうしゆん院・本行ほんぎよう院・源妙げんみよう院・竜雲りよううん院・日承王墓・信長本廟がある。平安時代の伝藤原行成筆書巻一巻(国宝、京都国立博物館寄託)、鎌倉期の梅樹雉雀の文様のある銅鏡一面(国指定重要文化財、同館寄託)、暦応二年(一三三九)の紙本墨書花園天皇宸翰御賀札一幅(国指定重要文化財)などがある。

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