[現]中京区下本能寺前町
〈京都・山城寺院神社大事典〉
応永二二年(一四一五)日隆が
この頃日隆は本勝迹劣の宗義を説き本門法華宗を興して、北陸・畿内・瀬戸内一帯を伝道し、
天文五年近江比叡山(延暦寺)衆徒が法華衆徒を攻め、本山二一ヵ寺が焼失するという天文法華の乱が起こった。叡山衆徒が七月二三日未明下山、一方法華宗側では妙見寺
元和元年(一六一五)七月二七日の徳川家康黒印状(本能寺文書)には「山城国鴨川村之内四拾石之事、全可寺納者也」とあるように朱印寺領四〇石、寺地は「東西六拾七間四尺、南北百四拾五間五尺四寸五分」であった(京都御役所向大概覚書)。江戸中期には寺門の人材・子弟育成のため
境内には本堂のほか方丈・客殿・講堂・総門、子院の
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