[現]三島市大宮町二丁目
旧東海道(県道沼津―三島線)に南面して鎮座。祭神は大山祇神・事代主神の二神。旧官幣大社。古代は式内社、中世は伊豆国一宮として武士の崇敬を受け、近世は三島町の発展とともに庶民の信仰を集めた。本地仏は薬師仏(「新千載集」「北条記」など)であった。
伊豆国三嶋神主家系図(筑波大学附属図書館蔵)によれば、大化五年(六四九)
「延喜式」主税寮によれば三嶋神料として二千束が下されており、同神名帳によれば「伊豆三
「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月一七日条に「三嶋社」とみえ、挙兵を目前にした源頼朝は当社の神事が始まる以前に、安達藤九郎盛長を使者として戦勝祈願の奉幣をしている。佐々木兄弟の遅参で暁には挙兵できなかったが、同日夜三嶋神事のため人が衢に満ちている中、
文治三年(一一八七)一二月二七日、源頼朝は明春の二所参詣のための供奉人を定め、翌四年一月二〇日に「伊豆・箱根・三嶋社」参詣のため源範頼・足利義兼ら随兵三〇〇騎を従えて鎌倉を立っている。このことから史料上には二所とのみあっても、参詣の際は当社も含まれていることは確実である。建久元年(一一九〇)一月一五日頼朝は二所参詣に出発したが、伊豆山(伊豆山神社)へ行く途中
しかし最も多く当社に参詣したのは嘉禄二年(一二二六)一月に将軍となった藤原頼経であった。安貞二年(一二二八)一月一三日二所奉幣使として三浦義村が進発を命じられたが、その直後頼経の直参が決定され、二九日には延引となり義村に再び参詣が命じられた。しかし頼経はなお自らの参詣を希望していたらしいが、二月二日に起きた走湯権現(伊豆山神社)の火災により正式に頼経の参詣が中止され、一三日義村が二所奉幣使として進発している。嘉禎三年(一二三七)一一月九日、延応元年(一二三九)一月二五日、仁治元年(一二四〇)八月四日に頼経が当社に参詣し、また同年七月一三日には二所と当社に神馬を送っている。さらに頼経は同年八月五日参詣して延年舞におよび、一二月には二所・三嶋および大和春日社等において毎日神楽を行うことを立願したが、莫大な用途が必要となるので、所領一ヵ所の寄進が幕府の評定によって決議された。しかし寄進に適当な場所がないため功銭を定め毎月神楽を奉納することとなり、翌春一月一七日より開始された。寛元二年(一二四四)一月二三日頼経は当社に奉幣し、供奉の人々とともに千度詣をした後、管弦・詠歌などの遊びに及んでいる。しかし頼経は同年四月執権北条経時の強要により将軍職を子頼嗣に譲り、同三年鎌倉久遠寿量院で出家させられた。翌四年二月二二日、頼経は「殊御願」のため二所参詣の精進を七日間行い、二八日二所参詣に出発しているが、付き従ったのは名越光時・三浦光村ら数輩の側近のみであったという(以上「吾妻鏡」)。五月には執権北条時頼により光時ら側近は処断され、頼経も京都に追返された(「葉黄記」同年六月六日条など)。しかし頼経はその後も権力の回復に努めており、たびたびの三嶋社参詣の裏には執権北条氏との間で権力をめぐる確執があったと思われる。
頼経の跡を襲った頼嗣は、宝治二年(一二四八)四月二〇日当社奉納のための百番小笠懸を鎌倉
文応元年(一二六〇)一一月宗尊親王は二所参詣のための供奉人の催促を北条時宗らに命じたが、時宗らは供奉人注文を返却、ついで供奉を了承していた後藤基親らが支障を申出るなど将軍参詣に対する抵抗が強まるなか、二九日宗尊親王は当社に参詣した。翌二年二月には参詣前の精進供奉の人数も不足する状態で、一一日北条時村が二所奉幣使として派遣された(以上「吾妻鏡」)。またこの月二所参詣随兵役の費用を百姓に充て課すことが禁止されている(「関東新制条々写」近衛家本式目追加条々)。弘長三年(一二六三)一月二〇日二所参詣の随行者の供奉総人数が注進されたが、所労や鹿や鳥を食したことなどを理由に故障を申立てるものが続出、二五日にはいったん延期となり鶏肉の摂取が注意されたが、その後の催促にも後藤基政らが支障を申立て、四月になってようやく参詣が実施された。文永二年(一二六五)二月七日宗尊親王が二所参詣に出発した際には供奉人が牆をなしたが、翌年二月五日には奉幣使が派遣され(以上「吾妻鏡」)、同年七月には宗尊親王が将軍の地位を追われた。その後、建治二年(一二七六)一月二〇日の北条時宗邸の火災により惟康将軍の二所参詣精進が延期されたのを最後として(鎌倉年代記裏書)、将軍の二所参詣の記事はみえなくなる。永仁三年(一二九五)二月二四日には北条貞時が二所参詣のための精進を始めており(永仁三年記)、正安四年(一三〇二)三月一九日には北条貞時が二所参詣を行った(鎌倉大日記裏書)。文保二年(一三一八)二月一七日と嘉暦二年(一三二七)三月五日北条高時も二所権現と当社に参詣している(鎌倉年代記裏書)。これは北条得宗が将軍に取って代わったことを象徴するものではなかろうか。
東海道の本来の道は三島の直前で北上し足柄越をしたが、将軍が箱根権現、当社、走湯山の順に参詣する際箱根路を利用したことや、鎌倉幕府の成立に伴い鎌倉・京都間を往復する御家人らが箱根路を利用することが多かったため箱根路がしだいに整備され、京都から鎌倉へ下る文人貴族らの旅人も箱根越をするようになり、箱根路にかかる前に当社に参詣するものが増えていったと思われる。
仁治三年(一二四二)八月伊豆の国府に着いた「東関紀行」の作者は、三嶋社の「ミしめ」(御注連縄)を打ち拝み、「松の風、木くらくおとつれて、庭の気色も神さひわた」った様子をみて、この社は伊予国の三嶋大明神を移したと聞くが、能因が伊予守藤原実綱の命令によって歌を詠んだ所、炎干の天より雨がにわかに降り、枯れた稲の葉もたちまちに緑にかえったという現人神の名残であるとおそれおおく思い、「せきかけし苗代水の流きて又あまくたる神そこの神」と詠んで箱根に向かった。建治元年八月一〇日、肥後国の竹崎季長は戦功祈願のため鎌倉へ下る途中、三嶋大明神に参詣して一心に弓矢の祈りをしている(「蒙古襲来絵詞」上巻)。弘安二年(一二七九)一〇月二七日、訴訟のため鎌倉に下る途中箱根路を通ることとした阿仏尼(安嘉門院四条)は、宿に入る前に「三島の明神」へ詣り「あはれとやみしまの神の宮柱たゞこゝにしもめぐりきにけり」などと詠み(十六夜日記)、また同年当社に「たのもしな池の鏡をみしまなる神のちかひも万世のかけ」などの和歌を奉納している(夫木抄)。
弘安三年飛鳥井雅有は鎌倉下向の途中伊豆国府に至り、伊予の三嶋(現愛媛県大三島町大山祇神社)は当社を本神といい、当社は伊予の三嶋を本社といっていることを聞いてその奥ゆかしさをめでたがっている。一〇首述懐歌を詠じて報恩しようと詠んでいたところ、この家の主が非常に占いを言当てる童巫がいるというので、神下ろしをさせて尋ねたところ、やがてかなう官達の訴訟があるが少し遅れるであろうなどと託宣があった(春のみやまち)。同五年七月一六日一遍が参詣し、当社の社官らがこれを忌むことなく結縁を願ったがまったく祟りはなかったという(一遍上人絵伝)。正応二年(一二八九)三月初旬頃後深草院二条は鎌倉へ赴く途中当社に参詣し、千早という衵のようなものを着た乙女子が三、四人入れ違いながら離れて舞う神楽を興味深く夜が明けるまで見ていた(とはずかたり)。同五年冷泉為相・公朝・京極為兼・飛鳥井雅有・二条為道・法眼慶融らによって和歌が奉納されている(夫木抄)。永仁元年一二月蓮愉(宇都宮景綱)は当社に奉納された北条貞時一〇首に寄せて、「神まつるこころにはあらぬさかきはにゆふしてかけてふれるしら雪」などと詠んでいる(沙弥蓮愉集)。元弘二年(一三三二)一〇月、元弘の乱の罪により下総に配流される途中の花山院師賢は「契有りてけふはみしまのみたらしにうき影うつすすみ染の袖」との和歌を奉納している(新葉集)。
貞治三年(一三六四)三嶋大明神に藤原友行より太刀が奉納され(三嶋大社旧蔵太刀銘)、応永五年(一三九八)八月には善凝らによって法華経方便品が奉納された(「妙法蓮華経方便品跋文」光長寺蔵)。同七年六月一五日、鎌倉公方足利満兼は上杉憲定の諫言に従って挙兵を諦めた旨の願文を納めている(「鎌倉公方足利満兼願文」三嶋大社文書。以下断らない限り同文書)。正長元年(一四二八)七月当宮に参籠していた良海らは「日本書紀」三巻を書写して施入し(同書第一奥書)、同年九月八日には酉楠御子らより「中臣祓訓解」が施入されている(同書奥書)。長禄元年(一四五七)一二月二四日足利政知が鎌倉公方として下向する途中に神前において元服した際、冷泉持為の門弟で無双の歌人であったという木戸孝範は「我が君の初もとゆひの黒髪にちよふる霜のしらかなる迄」と詠じて献上し、政知の運を祈ったという(鎌倉大草紙)。文明一八年(一四八六)一〇月箱根に参詣した聖護院道興は引続き当社に参詣し、軍陣へ出る武士が矢立の杉という大木に矢を射たてて吉凶をみることを聞いて、「ものゝふのためしにひける梓弓やたての杉やしるし成らん」などと詠んでいる(廻国雑記)。天文一四年(一五四五)二月宗牧は関東歴覧に赴く途中当社に参詣し、えも言われぬ水の流れは神の御心も汲みしられたるような潔さであるとし、八ヵ国の鎮守であるということを聞き、行く末の無事を祈念し小神楽を奉納した(東国紀行)。
前述のように治承四年源頼朝は挙兵の直前に当社に奉幣、一〇月には平家軍を迎え撃つため伊豆国府に入り三嶋大明神を伏拝んでおり、いずれも戦勝祈願であった。また文治元年五月捕虜となった平宗盛が鎌倉に護送される途中において、当社で能因が「天くたるあら人神の神ならは雨下し給へ天くたる神」と詠んだところ、にわかに雨が降ったという(「源平盛衰記」巻四五内大臣関東下向附池田宿遊君歌の事)。
鎌倉時代には病気平癒がおもに祈願されている。文治三年七月一八日江尻渡で船が転覆し、当社に参詣途中の新田忠常の妻のみが溺死した。同年一月夫の病を救うため自らの命を縮めて欲しいと当社に願書を捧げており、三嶋明神が誓願を納受して船を覆したのであろうかと噂されている(吾妻鏡)。建久五年頼朝は娘大姫の病気平癒祈願のため神馬を奉納(同書一一月一〇日条)、建仁三年(一二〇三)頼家の病悩祈願のため自ら書写した般若心経(三嶋大社蔵)を奉納、安貞元年一一月二四日には将軍藤原頼経の病気平癒祈願のため当社のほか走湯山・箱根権現に剣が奉納されている(吾妻鏡)。寛元二年将軍藤原頼嗣の病気平癒のため当社などに神馬が奉納され(五月二九日条)、建長四年(一二五二)八月一七日には宗尊親王の病気平癒を祈願して当社などに神馬が、二五日にはさらに剣・馬、また当社と二所にて大般若経転読と神楽が奉納されている。弘長三年には北条時頼の病気平癒祈願のため尊海が等身薬師画像を帯びて七日間参籠のため当社に赴いている(一一月八日条)。建仁三年一〇月一四日幕府は世上静穏を報謝して、当社をはじめ鶴岡八幡宮・走湯・箱根権現など関東の諸社に神馬を奉納している。なお、建長三年二月より当社壇で起請していた隆弁に夢告があり、そのとおり五月一五日に男子(北条時宗)が誕生したというが(以上、同書)、これは時宗の誕生を神秘化する「吾妻鏡」編纂者の意図的な寓話であると考えられる。弘安一〇年六月一〇日、当社南門付近にあった小社の戸が南西の角に向き、七月二九日に元にもどるということがあったという(鎌倉年代記裏書)。
南北朝の内乱期になると当社への祈願は圧倒的に戦勝祈願が多くなる。まず建武二年(一三三五)一一月二六日、足利氏討伐のため東海道を下ってくる新田義貞軍を迎え撃つ足利直義より祈祷を命じられ(足利直義御教書)、同四年八月九日にはおそらく
文和二年(一三五三)三月一〇日義詮は当社東大夫よりの祈祷巻数を受取っている(「足利義詮御教書」保阪潤治氏所蔵文書)。同年八月七日京都へ向かう途中の尊氏より当宮盛実・盛倫に祈祷が命じられている(足利尊氏御判御教書)。同四年一月八日当社正神主盛実よりの祈祷巻数が受取られている(修理亮某奉書写)。同月一七日盛実は尊氏より前日に入京した凶徒(南朝方桃井直常)退治の祈祷を(足利尊氏御判御教書)、同年四月三日には足利義詮より天下静謐の祈祷を命じられている(足利義詮御教書)。応安三年(一三七〇)六月一五日当宮神主盛直は鎌倉府より天下安全の祈祷を命じられている(「関東管領上杉能憲奉書」矢田部文書)。同年一一月当宮東大夫は鎌倉公方足利氏満の病気平癒の願文を神前で敬白するように依頼された(同月一三日「関東管領上杉能憲書状」同文書)。応永一六年三月より病にふせっていた鎌倉公方足利満兼のため、当社など関東の諸社に祈祷が命じられている(足利治乱記)。文明三年三月二七日には飯尾宗祇が東常縁の子息の病気平癒祈願のため連歌千句を奉納している(「連歌百韻千句集」など)。永正元年(一五〇四)一〇月二五日より三日間、宗長は今川氏親の関東戦勝報賽のため連歌千句を奉納している(「新三島千句」静嘉堂文庫蔵)。同一三年七月二一日伊勢長氏(北条早雲)は相模制圧を謝して指刀を奉納した(伊勢長氏判物)。またこれ以前長氏は当社へ参籠し、鎌倉幕府執権北条氏を継いで関東の権を取ることを一心に祈り、翌年一月二日大平原にある大杉二本を食い折った鼠が虎となった夢をみて、両上杉氏を滅ぼし子孫が東国の主になる夢だと悦び種々の捧げ物を奉納したという(「北条記」三嶋参籠付霊夢の事)。同年九月一日には同年八月の今川氏親による遠江国制圧と前年七月の自らによる相模制圧を謝して、長さ三丈の唐錦小袖五など十二単を奉納している(「伊勢長氏奉納物注文案」矢田部文書)。
行事は四月一六日の神事(「吾妻鏡」建暦元年四月一三日条)、六月二〇日の臨時祭、八月二六日の二宮八幡宮放生会(同書文治元年四月二〇日条など)、放生会と同日の流鏑馬(同書寛元元年八月二六日条)、一一月の大歳の祭礼(至徳四年一〇月一〇日関東管領上杉憲方奉書)などがあり、北条氏は伊豆国の在庁官人として一宮である当社の四月と一一月の神事に参加している(「吾妻鏡」建久五年一一月一日条など)。なお、「吾妻鏡」文治元年(一一八五)四月二〇日条にみえる二宮八幡宮については、源頼朝が当社の祭礼にあたって
社領としては、田方郡内に
三嶋社の職掌としては、東大夫(矢田部氏)が務める正神主職(「吾妻鏡」文治元年四月二〇日条)、同神主が兼帯する御師職(貞治六年七月二〇日足利義詮御教書)、同神主が補任する色掌人(治承七年三月一七日源頼朝下文)である戸帳と鎰取(元久二年二月二九日北条時政御教書)などのほか、西大夫が務める二宮八幡宮神主職(「吾妻鏡」文治元年四月二〇日条)などがあった。別当寺の
永正一七年五月六日北条氏綱によって三嶋社護摩堂への横合いの義が停止され飛脚役が免除されている(「北条氏綱判物」小出文書)。享禄二年(一五二九)五月一二日陣僧・飛脚などの諸役が免除され、茶園・竹木等に対する違乱が禁止された(「北条氏時判物」同文書)。天文一一年七月二七日には不法行為が禁止され飛脚役が免除されている(「北条氏康判物」同文書)。同一二年一二月一日護摩堂祈祷料一〇貫文を東大夫分より出すこととされた(「北条氏康判物」同文書)。同一四年と推定される一〇月四日護摩堂本坊に陣を取ることが禁じられている(「北条家禁制写」諸国文書)。永禄二年(一五五九)頃には
元久二年(一二〇五)五月一八日幕府は当社などの修理をしているが(吾妻鏡)、文永五年二月(「鎌倉大日記裏書」同月二日条)、永仁四年三月八日(鎌倉年代記裏書)、康永四年(一三四五)回禄している(「園太暦」貞和元年二月三日条)。翌貞和二年頃当社造営役などが走湯山
永禄一一年末に駿甲相の三国同盟が破綻すると、当社付近は小田原北条氏にとって対武田氏との最前線基地となり、しばしば武田氏の攻撃を受けたと思われる。元亀二年(一五七一)一月一一日、当社神主は北条氏政から
文禄三年(一五九四)二月社領三三〇石を田方郡内に寄進された(「徳川家康社領寄付黒印状写」矢田部文書)。地割は神主一〇〇石・護摩堂二五石・刑部大夫二〇石・在庁免二五石・惣社人五五石などであった(同年一〇月一二日「徳川家康寄進神領地割帳」同文書)。慶長九年(一六〇四)には二〇〇石が加えられ(「内田全阿書状」同文書)、内訳は
本殿・幣殿・拝殿は国指定重要文化財。境内のキンモクセイは国指定天然記念物。社蔵の伝北条政子奉納の梅蒔絵手箱は国宝。太刀(銘宗忠)・脇指(銘相模国住秋義伊豆三島大明神奉拝佐藤松千代貞成)・短刀、紙本墨書般若心経・三嶋大社矢田部家文書は国指定重要文化財。「日本書紀」並びに具書は県指定文化財。例大祭は中秋の時期に行われてきたが、現在は八月一五―一七日。一月七日の田祭、一七日の奉射祭などの特殊神事がある。八月の例大祭では一〇台ほどの山車が出て三島囃子が演奏される(三島囃子保存会の継承する囃子は県指定無形民俗文化財)。一月四日に行われるお田打は県指定無形民俗文化財。
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