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  11. 弥彦神社

弥彦神社

ジャパンナレッジで閲覧できる『弥彦神社』の日本歴史地名大系のサンプルページ

弥彦神社
やひこじんじや

[現]弥彦村弥彦

弥彦山の東麓に鎮座する越後一宮。正式には「いやひこ」とよばれ、伊弥彦・伊夜比古などとも記される。旧国幣中社。祭神は現在は天香語山命だが、「万葉集」巻一六の歌などから本来は弥彦山を神体とする伊夜比古神であろうか。明神・弥彦明神と記す例もある。

最も早くに成立したとされる弥彦神社縁起断簡(高橋文書)によれば、和銅二年(七〇九)八月上旬明神が降臨したとある。文明三年(一四七一)の弥彦神社古縁起写(同文書)では、和銅二年に明神が「米水ノ浦」に七日間浮んだのち「太子之浦」に上陸、霊地をたずねて鎮座したという。天平勝宝年中(七四九―七五七)金智大徳の時弥彦明神の本地阿弥陀如来が垂迹したと伝える。元禄元年(一六八八)橘三喜写の奥書のある伊夜比古神社記(弥彦神社叢書)以降の縁起類は、祭神を天香語山命、別名高倉下命とし、紀伊熊野から天鳥舟で米水よねみず(現寺泊町野積)に上陸、民に製塩と手繰網の漁法を教えたことから手繰彦命の名を受けたとする。

文献上の初見は「続日本後紀」天長一〇年(八三三)七月三日条で、前年来の疫病と干害による餓死から人々を救うため、神験のある「越後国蒲原郡伊夜比古神」を名神としたと記される。承和九年(八四二)一〇月二日には無位から従五位下に(同書)、貞観三年(八六一)八月三日には「弥彦神」が従五位上から従四位下に叙せられた(三代実録)。「延喜式」神名帳には名神社二八五座のうちに「伊夜比古神社一座越後国」とみえ、越後国五六座のうちに唯一の名神大社として「伊夜比古イヤヒコノ神社名神大」とある。平安期に居多こた神社(現上越市)とともに一宮になったと伝える。弥彦神社縁起断簡には天喜三年(一〇五五)の造営の頃、源義家が安倍貞任攻撃の戦勝祈願をしたと記され、いつの頃からか武神として崇敬されるようになったらしい。「義経記」巻七には大風で寺泊てらどまり(現三島郡寺泊町)に上陸した義経一行が国上くがみ(現分水町)を経て弥彦明神に参拝したとする。嘉暦元年(一三二六)九月五日には奥山おくやま中条なかじよう(現北蒲原郡中条町)の住人相次郎孝基が鉄仏餉鉢(国指定重要文化財)、応永二二年(一四一五)一二月には古志こし夏戸なつど(現寺泊町)城主源(志駄)定重が大太刀付革鐔(国指定重要文化財)を奉納した。また当社蔵鏡鞍付壺鐙(県指定文化財)は八幡太郎義家奉納と伝えられている。宝徳三年(一四五一)守護上杉房定は三月一五日府中ふちゆう(現上越市)を出発し、一七日に当社に参拝する予定であった(同年三月一二日「平子政重書状」三浦和田黒川氏文書)。永禄七年(一五六四)六月二四日上杉輝虎は願文(弥彦神社文書、県指定文化財)を社前に捧げ、上杉憲政より関東管領職を譲り受けてさらに関東静謐に力を尽し北条氏康を討つこと、信州川中島以来の宿敵武田晴信を討つことなど祈り、さらに同時に晴信の悪行を訴えている(「上杉輝虎願文」堀田文書)。御館の乱の最中の上杉景勝も黒滝くろたき城の山岸秀能らの要望を入れて、国内平定ののち遷宮を挙行することを約束した(天正八年五月三日「上杉景勝安堵状写」安部氏所蔵文書)

〔社領〕

縁起断簡によれば元明天皇の勅願で「東限信濃河、南限大河津・七石曾利榎渋田橋加津毛河、西限塩海、北限赤塚・角田・佐鴻尻」を神領として寄進された。そのほか「伊豆井村」「松森」の散在社領、寺泊津、「蒲原郡内湊」よりの上分料があった。造営の材木は佐渡で調達されたという。本地供養法田・心経会田など計一二三町三段小のほか神宮寺免田が記される。元暦元年(一一八四)一一月二三日の後白河院庁下文写(国上寺文書)には弥彦社と国上こくじよう(現分水町)の本領として「庄内七箇条」があげられ、うち中条半分、矢作やはぎ条、船越ふなこし(現岩室村)、下条が大明神供領とされている。神領は現西蒲原郡域に広がっていた弥彦庄内に含まれていたらしい。文明三年(一四七一)二月二二日の日付をもつ伊弥彦神条式写(高橋文書)には庄内神田一九七町六段小・内神田六八町五段・庄内散在田五町八段・御神田一二三町三段小とあり、ほかに神宮司免田一八町五段、国中散在祈祷田が「曾智」「吉井保」「荒井保」「桑橋保」「粟生田」に計六〇町六〇歩、祈祷田が「金王丸」「庄社」「守清」「寺村」「太田上条」「長橋新保」などに九町七段があると記される。

明応五年(一四九六)四月一二日の越後守護代長尾能景遵行状写(高橋文書)によれば、守護上杉氏は社人の過失の連帯責任により差押えられたり勝手に売却した神領は返却することを決め、船宮ふなみや(現岩室村)平野ひらの名など一六ヵ所を返付したとある。永正一〇年(一五一三)二月二七日にも先の決定をうけ、永代・年季売を問わず一〇〇年前後知行していた所領の返還をも命じている(「上杉氏(定実)老臣連署奉書写」同文書)。そのほか元亨二年(一三二二)の惣神官知行名職帳写、正応三年(一二九〇)の社領并社人知行覚、永正一五年(一五一八)・天文三年(一五三四)・永禄八年(一五六五)の社領注文写および大永七年(一五二七)の検地日記(いずれも高橋文書)などが残るが、社領の全貌を記すものではない。天正九年(一五八一)五月二二日上杉景勝は神領と弥彦町に対して印判を所持しない者への伝馬・宿の提供を禁じ、さらに神領への郡司不入を認めている(「上杉景勝印判状」上杉家譜)。同二〇年とも推定される辰六月の弥彦神領注文(弥彦神社叢書)には弥彦村・矢作村・黒滝麓くろたきふもと村から三島さんとう郡・苅羽かりわ郡内に及ぶ一九村、計二千一九三石九斗余が記され、うち一千八九石三斗余は社人七五人の抱分とある。慶長二〇年(一六一五)松平忠輝より社領五〇〇石を寄進するという黒印状を受け、慶安元年(一六四八)には将軍徳川家光の朱印状を受けた。社領は弥彦村内にあり、幕末まで変化はない。

〔社殿の造営〕

縁起断簡によれば、元明天皇の勅願で社殿の造営は養老三年(七一九)から行われたのが始まりで、以後三一年に一度遷宮が行われたという。嘉元四年(一三〇六)・観応二年(一三五一)・明徳三年(一三九二)には火災にみまわれており、応永一四年(一四〇七)五月七日には正殿(不開宮)・中門・舞殿など造営費用などを書上げた造営并遷宮目録(高橋文書)が守護上杉氏に提出されたらしい。室町時代の作といわれる境内絵図(当社蔵)では、玉垣に囲まれた境内に北から南へと社殿が並ぶ様子が描かれている。造営について確実にわかるのは江戸中期からである。寛文八年(一六六八)以降神主左近光頼は造営願を何度も幕府あてに提出、元禄一三年に与板藩を通じて幕府検使派遣が伝えられ、同一五年には造営工事着手、翌一六年九月完成したという。しかし社殿のいたみが早く享保一七年(一七三二)にはすでに修復願(高橋文書)が出され、宝暦三年(一七五三)には拝殿のみ再建された。文政八年(一八二五)から天保二年(一八三一)には造営費用捻出のため信心講による富興行が開かれたという(文政七年「冨興行願書」同文書)。嘉永三年(一八五〇)に至りようやく本殿のみの造営が実現している。明治四五年(一九一二)三月一一日夜、約二町ほど離れた民家から出火し、北から南へ吹く強風にあおられて町並の南正面に位置する境内にも延焼し、本殿・拝殿・社務所などほとんどが焼失した。その後の再建では、本殿の位置を町並正面から西へずらし、弥彦山を背に東面させて建てることとして、境内を拡張、宝光ほうこう院や民家などを移転させた。また社殿の周囲に杉を植えた。現在の本殿は大正五年(一九一六)完成のものである。また同八年境内に弥彦陸上競技場(現弥彦競輪場)が建設された。

〔末社と神宮寺〕

境内の末社十柱じゆうはしら神社はかつては五所ごしよ宮とよばれた。初めは大己貴命を祀る小社であったが、元禄七年長岡藩主牧野忠辰の願により同氏に関係する四神を合祀、五所宮と改められたという。翌八年鴻巣こうのす(現吉田町)内の開発地一〇石が寄進された(「牧野氏寄進状」高橋文書)。明治八年大河津おおこうづ分水工事が中止されたのち、渡部わたべ(現分水町)の十柱神社のうち九柱を合祀して牧野家四神を除き、十柱神社と改めたという。社殿は国指定重要文化財。そのほか弥彦明神六王子のうち船山ふなやま神社を除く五王子の摂社、二十二所にじゆうにしよ神社、八所はつしよ神社がある。また末社のうち火宮ひのみや神社・住吉神社・上・下諏訪神社・祓戸はらいど神社・くすり神社(石薬師大明神)が境外にある。

本地阿弥陀如来を本尊とする神宮寺は明治初年までは境内鹿苑北側にあった。創建年代は不明だが、弥彦神社縁起断簡に「神宮寺免田」の記載があることなどから、鎌倉期にはすでに存在していたらしい。神宮寺を弥彦神のお告げにより僧禅朝が建てたとされる龍池りゆうち寺に比定する説もあるが、同寺は多宝たほう山麓に寺跡が残る、別の寺である。末寺宝光院・真言しんごん院があった。延宝六年(一六七八)吉田神道の学者橘三喜が当社を訪れた。当社神主高橋光頼は三喜に傾倒して廃仏策をとり、縁起の改訂、神宮寺の廃止と霊璽殿奉祀、社家を旦那寺から絶縁させ神祇宗と改めること、真言院内の護摩堂撤去などを行った。また国上寺による勤行なども同九年には停止されたとされる。間瀬西蓮まぜさいれん(現岩室村)旧蔵の明応四年(一四九五)一〇月一五日銘梵鐘もこの時神宮寺から西蓮寺へ移されたものという。元禄九年宝光院住職快詠は幕府寺社奉行に光頼の不法を訴え出、光頼は縁起類の改訂、神葬式の採用、仏像仏具の売却などをとがめられ、翌一〇年越後・江戸追放に処せられた。光頼の後を継いだ神主光隆は神宮寺の復旧など仏教色の復活を誓う請書(弥彦神社叢書)を提出している。しかしその後弥彦神社と神宮寺のかかわりは希薄になったらしい。明治初年の神仏分離により神宮寺は取払われて吉田よしだ(現吉田町)観音堂へ移され、本尊の弥彦神の本地仏阿弥陀如来はのち国上寺、さらに石瀬いしぜ(現岩室村)青竜しようりゆう寺へ移されたのち、明治二九年宝光院脇に阿弥陀堂を新築し安置された。また真言院本尊大日如来は宝光院、護摩堂本尊は上和納かみわのう(現同上)楞厳りようごん寺に納められた。

〔社家〕

弥彦神社縁起断簡には大宮司について「昔大国ニノ大明神ノ御をや也、仍弥彦うちト申ス」と記す。古縁起写は明神の御供に三姓があったとする。元禄の神仏分離以降はこの三姓を尾張連を祖とする弥彦・新保・長橋の三氏とし、長橋氏はのち高橋氏と改めたと伝えるようになる(「尾張連家譜」高橋文書など)。元亨二年二月一一日付の伊夜彦惣神官知行名職帳写(同文書)では左座分として大宮司高橋膳正大夫以下、殿内司四名・神官一〇名・祠官九名と八乙二名・大工・宮仕が、右座分として妻戸司三郎左衛門以下、殿内司四名・神官一〇名・祠官七名と土師・宮仕・八乙四名・官使を列挙する。近世には神主・老官・祠官・中老官・下官・八乙の家格に分けられ、世襲制で、神勤席順も決められていた。社家の数は二四家で変動はなかった。神主を勤めた高橋家所蔵の中世から近世の弥彦神社関係を中心とする文書一千二〇〇点余は、弥彦神社文書として県文化財に指定されている。

〔祭礼・神事と周辺の旧跡〕

文明三年二月二二日の日付をもつ伊弥彦神条式写には正月三十ヶ日御供神事から春秋二季の御長祭、節分祭、一〇月の臨時祭、一二月晦日の御祭などが記され、五月五日の神事の役者は庄内七ヵ条地頭が勤めるとある。しかし祭礼・神事などについては近世に記録の改変などが行われたこともあり、はっきりしない。当社に伝わる特殊神事として一月一―三日の夜宴神事、一月七日の弓始神事、一月一一日・一〇月一一日の日神祭(御日待)、一月一一日の斧始式、一月一五―一六日の粥占炭置神事、二月一―四日の神幸神事、三月二七日―四月六日と一〇月二七日―一一月六日の鎮魂祭(御長祭)、四月一八日(旧三月一八日)の妃神妻戸大神例祭、七月二五日(旧六月一四―一五日)の灯籠神事・神輿渡御祭がある。鎮魂祭は前月二七日に神職が野積のづみ(現寺泊町)で海水で禊を行って海藻をとり、麓の桜井ふもとのさくらい神社に参拝したのち本社へ戻るもので「浜出」「御玉祭」ともよばれた。灯籠神事は七月一八日に神輿が社殿内に移され、二五日夜に灯籠多数を持つ行列を従えた神輿が町内の末社などを巡るもので、国指定無形民俗文化財となっている(弥彦神社特殊神事)。また神幸神事には小神楽、妃神妻戸大神例祭には大々神楽、灯籠神事には神楽歌・天犬舞が奉納される。この四種は弥彦神社舞楽と総称され、国指定無形民俗文化財。小神楽は「おかぐら」ともよばれる巫女舞で六―一〇歳の幼女により奉納される。神楽歌は旧社家の、天犬舞はかつては旧神領農家から、現在は氏子中からの九歳前後の男児により奉納される。大々神楽は延宝八年まで国上寺の稚児が奏していたと伝え、現在は神職・旧社家・地元氏子の子弟の小学生男子により奉納される。当社蔵の文化財はすでに挙げたもののほか、県指定文化財の砧青磁袴腰大香炉一口・天保一四年作大太刀(拵とも)一振がある。

周辺には弥彦神社にかかわる旧跡が多い。弥彦明神六王子のうち、第一王子の武呉たけくれの神廟が境内の三笠みかさ山とよばれる丘の頂、第二王子船山の神廟と船山神社が現まき福井ふくい、第三王子草薙くさなぎ・第五王子すぐるの神廟が外苑弥彦公園内の御殿ごてん山、第四王子今山いまやまの神廟が現岩室村樋曾ひそ、第六王子乙子おとごの神廟が旧社殿地の神木椎の大樹脇にある。弥彦明神の神廟は弥彦山頂にある。矢作の赤崎あかさき神社は当社の灯籠神事とかかわりがあり、麓の桜井神社は弥彦神の旧跡と伝える。国上寺は当社の別当寺で、当社までは通称稚児ちご道で結ばれる。弥彦・角田かくだ山塊の西側には弥彦神の上陸地野積、弥彦神の旧地を称する大宮おおみや神社、弥彦神の妃を祀る妻戸つまど神社、女釜めがま男釜おがまの洞窟などが点在する。また石瀬には、弥彦神がウドで片目を刺したので以後弥彦山にはウドが生えないという片目神の伝承があり、弥彦神と鍛冶集団とのかかわりをうかがわせる。

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弥彦神社の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 114
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検索コンテンツ
1. 弥彦神社(いやひこじんじゃ)
日本大百科全書
新潟県西蒲原(かんばら)郡弥彦(やひこ)村に鎮座。「やひこじんじゃ」ともいわれるが、「いやひこ」が正式名称。越後(えちご)平野の中央にそびえる弥彦山の麓(ふもと ...
2. 弥彦神社[百科マルチメディア]
日本大百科全書
弥彦山(やひこさん)東麓にある古社。越後国(えちごのくに)一宮(いちのみや)で、古来より地域の文化・産業の始祖神として、人々の尊崇を集めてきた。社殿は1912年 ...
3. 弥彦神社
世界大百科事典
弥彦神社(やひこじんじゃ) ...
4. いやひこ‐じんじゃ【弥彦神社】地図
デジタル大辞泉
新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村にある神社。祭神は天香山命(あまのかぐやまのみこと)。越後国一の宮。やひこじんじゃ。  ...
5. いやひこ‐じんじゃ【彌彦神社】
日本国語大辞典
新潟県西蒲原郡彌彦村にある神社。旧国幣中社。祭神は天香山命(あまのかぐやまのみこと)。越後国一宮。伊夜比古神社。やひこじんじゃ。彌彦明神。 ...
6. 弥彦神社
世界大百科事典
多く焼失したが,旧社家高橋氏伝来の文書はなお多く現存。また舞楽も伝承されている。鎌田 純一 弥彦神社 伊夜比古(いやひこ)神社 高倉下(たかくらじ)命 お弥彦さ ...
7. やひこ‐じんじゃ【弥彦神社】
デジタル大辞泉
⇒いやひこじんじゃ  ...
8. やひこ‐じんじゃ【彌彦神社】
日本国語大辞典
新潟県西蒲原郡彌彦村にある神社。祭神は天香語山命(あめのかごやまのみこと)。越後国の一宮。いやひこじんじゃ。 ...
9. やひこじんじゃ【弥彦神社】
国史大辞典
一月七日の弓始神事、七月十二日から十五日間にわたる燈籠神事などが著名で、「弥彦神社燈籠おしと舞楽」は国の無形民俗文化財。 [参考文献]弥彦神社編『弥彦神社叢書』 ...
10. やひこじんじゃ【弥彦神社】新潟県:西蒲原郡/弥彦村/弥彦村
日本歴史地名大系
明神・弥彦明神と記す例もある。最も早くに成立したとされる弥彦神社縁起断簡(高橋文書)によれば、和銅二年(七〇九)八月上旬明神が降臨したとある。文明三年(一四七一 ...
11. 彌彦神社(やひこじんじゃ)【篇】
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 995ページ ...
12. 彌彦(やひこ)神社
デジタル大辞泉プラス
かごやまのみこと)(伊夜彦神)。弥彦山麓に位置する。越後国一之宮。7月に行われる灯籠神事は「弥彦神社燈篭おしと舞楽」として国の重要無形民俗文化財に指定。「いやひ ...
13. やひこじんじや【弥彦神社】北海道:札幌市/中央区/南十四条西
日本歴史地名大系
札幌在住の新潟県出身者たちが明治四五年(一九一二)に伊夜日子神社崇敬会を結成し、大正二年(一九一三)に同県弥彦神社の分霊を勧請して南七条西一丁目に仮拝殿を設けた ...
14. 弥彦神社(やひこじんじゃ)
日本大百科全書
弥彦神社 ...
15. 弥彦神社燈篭おしと舞楽
デジタル大辞泉プラス
新潟県西浦原郡弥彦村に伝わる民俗芸能。弥彦神社で7月に行われる神事で、神輿渡御のほか県内各地や地域の氏子から献燈された大小の燈篭の奉納が行われる。1978年、国 ...
16. 六王子(ろくおうじ)[彌彦神社末社]
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 999ページ ...
17. あかつかむら【赤塚村】新潟県:新潟市/旧西蒲原郡地区
日本歴史地名大系
寺文書)に「赤塚」とあり、弥彦社本地国上寺(現西蒲原郡分水町)の寺領とされる。同様に年未詳の弥彦神社縁起断簡(高橋文書)では同社神領四至の北限に「赤塚」の名がみ ...
18. 秋山記行・夜職草 17ページ
東洋文庫
標高九九三材。八石山は刈羽郡小国町にあり、標高五一七材。弥彦山は西蒲原郡弥彦村にあり、山麓に越後一宮弥彦神社が鎮座する。頂に御神廟を祀る。標高六一二八材。 ...
19. 秋山記行・夜職草 286ページ
東洋文庫
字日二孔方一、失レ之則貧弱、得レ之則富昌、無レ翼而飛、無γ足而走」とある。三伊弥彦詣越後国一の宮弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦鎮座)。延喜式内、名神大にあず ...
20. あねくらひめじんじゃ【姉倉比売神社】富山県:富山市/旧婦負郡・射水郡地区/小竹村
日本歴史地名大系
社頭には上杉輝虎(謙信)の永禄七年(一五六四)二月二六日願文奉納額が掲げられているが、宛名以外の内容は越後国弥彦神社(現新潟県弥彦村)奉納額と同文である。 ...
21. いしぜむら【石瀬村】新潟県:西蒲原郡/岩室村
日本歴史地名大系
」とみえるのはこの地か。行忍は同地に三重の塔婆を造立している。大永七年(一五二七)八月二日の弥彦神社領検地日記(高橋文書)には「いしせノ又五郎」とみえる。近世は ...
22. いだむら【井田村】新潟県:西蒲原郡/弥彦村
日本歴史地名大系
[現]弥彦村井田 西川左岸の井田丘陵西麓にあり、北西に楊枝潟が広がる。大永七年(一五二七)八月二日の弥彦神社領検地日記(高橋文書)に「いた七十苅 四百文 さへも ...
23. いまみぞのしょう【今溝庄】長野県:長野市
日本歴史地名大系
重阿に先立って死去したため、取り返して息女大萱小太郎入道後家に一期を限って譲与し、幕府の外題安堵を得た(弥彦神社文書)。以後の相伝関係を明らかにしないが、嘉暦四 ...
24. いやひこじんじゃ【伊夜比古神社】
国史大辞典
弥彦神社(やひこじんじゃ)  ...
25. いわふねがた【岩船潟】新潟県:村上市/岩船町
日本歴史地名大系
町)へ(「堀主膳寺領寄進状」乙宝寺文書)、二町が羽黒山神領に寄進された(「堀主膳寺領寄進状」弥彦神社文書)。耕作や新堤の築造は寺社側の負担とされた。文政四年(一 ...
26. うおぬまじんじゃ【魚沼神社】新潟県:小千谷市/土川村
日本歴史地名大系
きから、旧社地を吉谷の郡殿ノ池付近とする説もある。安永九年(一七八〇)に現社号となる以前は上弥彦神社と称し、藪川の宇都宮社・諏訪社、土川の天王社・白山社、小千谷 ...
27. えびじましんでん【海老島新田】新潟県:南蒲原郡/中之島村
日本歴史地名大系
旧高旧領取調帳に「海老島勇次新田」とみえ、高五八石一斗余。字勇治にあった文政五年(一八二二)創建という弥彦神社は、天香語山命を祭神としたが、大正元年(一九一二) ...
28. おおかわづむら【大川津村】新潟県:西蒲原郡/分水町
日本歴史地名大系
一月二三日の後白河院庁下文写(国上寺文書)には弥彦神社領の一つとして「大河津」とみえ、国衙の押妨を停止する命令が出されている。また年未詳の弥彦神社縁起断簡(高橋 ...
29. おおだち【大太刀】
国史大辞典
『応仁記』にも一宮入道勝梅が「七尺三寸ノ棟ニ銭ヲ伏程ノ大太刀」の所用を伝え、文飾でないことは、新潟の弥彦神社や愛媛の大山祇神社、栃木の二荒山神社などに伝来する大 ...
30. おおつかむら【大塚村】新潟県:北蒲原郡/中条町
日本歴史地名大系
胎内川原野手米・山手船頭米・請売酒役・筒役鉛駄賃入木刈干縄代米を負担している。鎮守は家ノ腰の弥彦神社。村名の由来となった塚は水田の中にあり、直径約二五メートル・ ...
31. おしあい‐まつり[おしあひ‥]【押合祭】
日本国語大辞典
〔名〕氏子や参詣人が互いに押し合うことを特色とする祭礼。新潟県彌彦村の彌彦神社、同大和町浦佐の毘沙門天、秋田県大森町の波宇志別神社の祭礼などが著名で、他にも類例 ...
32. おしあい‐まつり【押(し)合い祭(り)】
デジタル大辞泉
氏子や参詣人が、互いに押し合いをする祭礼。新潟県の弥彦神社、大阪市の四天王寺などのものが有名。  ...
33. おぢやし【小千谷市】新潟県
日本歴史地名大系
、「延喜式」神名帳魚沼郡五座のなかの魚沼神社が土川に、伊米神社が桜町にある。魚沼神社はもと上弥彦神社を称して、川西地区の広い範囲にわたって一八の末社を有する。こ ...
34. おゆみのしんじ【御弓神事】
国史大辞典
名古屋市の熱田神宮(一月十五日)と福岡市の志賀海神社(同日)、弓始神事の名では、新潟県西蒲原郡弥彦村の弥彦神社(一月七日)、武射祭の名では、栃木県日光市の二荒神 ...
35. 風祭
世界大百科事典
したり,風止め籠りなどと称して村の神社にお籠りをするなど,簡単な神祭りの形式をとる。新潟県の弥彦神社の二百二十日の風祭や,兵庫県の伊和神社の二百十日の7日前の風 ...
36. 神歌
世界大百科事典
うたう。この神歌は,花祭などの神降しの歌がとり入れられたものであろうといわれている。また,新潟県弥彦神社の灯籠神事では,かつて旧6月7日,15日の神輿渡御還御の ...
37. からす【烏】
国史大辞典
嶋・厳島・住吉・諏訪などの神社にあり、特に熊野の牛王宝印には、三足の烏が描かれている。新潟の弥彦神社では、毎年十二月二十日に、一羽の烏が、神使として佐渡の度津( ...
38. かわいむら【川合村】島根県:大田市
日本歴史地名大系
漢女神は当地に鎮座したと伝える。浅原に鎮座する伊夜彦神社はもと物部神社の枝宮。岩谷権太夫が越後国蒲原郡弥彦神社(現新潟県弥彦村)より勧請したとされ、元弘元年(一 ...
39. かんばらぐん【蒲原郡】
国史大辞典
郷名では勇礼・日置・青海・小伏・桜井(以上蒲原郡)、沼垂・足羽・賀地(以上沼垂郡)の諸郷がある。桜井郷にある弥彦神社の宮司高橋祝は蒲原郡大領で、阿倍比羅夫や高志 ...
40. かんばらのつ【蒲原津】
国史大辞典
が領有。永享十一年(一四三九)には奥州の白川氏朝領となる。文明―大永ごろ、港の上分(雑務)は弥彦神社が徴収を安堵された。天文―永禄ごろ、沼垂津・新潟津とあわせて ...
41. きぼく【亀卜】
国史大辞典
があり、以後、登極令により斎田卜定が行われることになった。地方では鹿島神宮・宇佐神宮、越後の弥彦神社、伊豆の白浜神社や大島(八丈島)・壱岐・対馬などで行われたが ...
42. 義経記 402ページ
日本古典文学全集
「これは只者にあらず。八幡の御計らひと覚ゆるぞ。いざこの道へ行かん」と仰せられければ、弁慶申しけ を祀る弥彦神社がある。西蒲原郡の五十嵐浜とも。新潟市沼垂東・ ...
43. 義経記 2 204ページ
東洋文庫
かづき(刈羽の浜、勝見)、しらさきを漕いで過ぎ、寺おとまり(寺泊)に船を着け、くりみやいし(国上寺や弥彦神社)を拝んで九十九里の浜を経て、沼垂、蒲原、八十里の浜 ...
44. こおりどんのいけ【郡殿ノ池】新潟県:小千谷市/吉谷村
日本歴史地名大系
おの離散して、池中に遊ぶが如し。日入れば池のまん中に集まりて一ツの島となる」と記す。土川の上弥彦神社(現魚沼神社)は池の近辺に鎮座していたとする説があるが、確証 ...
45. こくじょう‐じ【国上寺】地図
デジタル大辞泉
新潟県燕市にある真言宗豊山派の寺。山号は雲高山。8世紀初頭の創建と伝える。もと弥彦神社の別当寺で、境内に良寛が住んだ五合庵がある。  ...
46. こくじょうじ【国上寺】
国史大辞典
神融(泰澄)の霊験譚や僧仏蓮の説話をのせている。国上は国つ神の転語ともいわれ、古来越後国一宮弥彦神社とのかかわりが深い。山頂に弥彦祭神の故地と伝える香児山・天神 ...
47. こくじょうじ【国上寺】新潟県:西蒲原郡/分水町/国上村
日本歴史地名大系
辺の世話を黒歯・華歯という二人の童子が現れて勤め、上人の入滅後姿を消したという説話も載せる。弥彦神社の本地で、三六坊寺を擁する別当寺であったともいわれる。元暦元 ...
48. 今昔物語集 157ページ
日本古典文学全集
である。「度々トヽ」。その土地を古くから領知する神。弥彦明神(伊夜日子の神)か。国上山の地は弥彦神社の本地であった。ここでは、仏法にさからう罪、の意。水利の便。 ...
49. さいしょうじ【西生寺】新潟県:三島郡/寺泊町/野積村
日本歴史地名大系
醸していたという。これを野積酒といい、新醸を出すときには南門の口明石に酒を供する習わしであった。弥彦神社の神職も口明石の辺りで神事を行うとある。本堂左に弘智法印 ...
50. さがた・みたらせがた【佐潟・御手洗潟】新潟県:新潟市/旧西蒲原郡地区/赤塚村
日本歴史地名大系
寺文書)に、弥彦社本地国上寺(現西蒲原郡分水町)の所領四至の北限に「左潟」とみえる。年未詳の弥彦神社縁起断簡(高橋文書)では同様に同社神領の北限に「佐鴻尻」とあ ...
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興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。
厳島神社(改訂新版・世界大百科事典)
広島湾南西部に浮かぶ厳島(広島県廿日市市,旧宮島町)に鎮座。市杵島姫命,田心姫命,湍津姫命をまつる。旧官幣中社。祭神〈伊都岐島神〉は,811年(弘仁2)名神に列し四時幣に預かり,神階は867年(貞観9)従四位上に昇叙。《延喜式》で名神大社に列し,のち安芸国の一宮となる。平安時代末
出雲大社(改訂新版・世界大百科事典)
島根県出雲市の旧大社町に鎮座。大国主神をまつる。《延喜式》では名神大社。旧官幣大社。杵築大社,杵築社,杵築宮ともいう。古代の出雲では熊野,杵築,佐太,能義の各社が〈大神〉とされていたが,中でも,出雲国造の本拠地である意宇平野の熊野大社と簸川平野の北西の杵築大社とが,厚い尊信をうけていた。
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浜松城(国史大辞典・日本大百科全書・日本歴史地名大系)
静岡県浜松市元城町にあった城。平山城。三方原洪積台地の最東南端に徳川家康が築城し、浜松城と称え、この地を引馬から浜松に改称した。引馬旧城主飯尾連竜は今川氏真に謀殺され、その留守を預かる老臣間の内紛を平定した家康が、元亀元年(一五七〇)、遠江経営と武田
鶴岡八幡宮(国史大辞典・日本歴史地名大系)
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月
遷宮(国史大辞典・世界大百科事典)
神社で、一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、また仮殿遷宮と対称して正遷宮とも称せられる。伊勢神宮の例が著明である。伊勢神宮に式年遷宮の制が立てられた年次については
橿原神宮(改訂新版・世界大百科事典)
奈良県橿原市に鎮座。神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命をまつる。社地は畝傍山の東南にあたり,神武天皇が宮居を営んだ橿原宮の跡という。当地はすでに元禄年間(1688-1704)に神武天皇の神廟を営もうとする動きがあったが,1888年橿原宮跡の考証ののち,民間より神社建設の請願があり
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