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  11. 西郷従道

西郷従道

ジャパンナレッジで閲覧できる『西郷従道』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
西郷従道
さいごうつぐみち
一八四三 - 一九〇二
明治時代の政治家、軍人。天保十四年(一八四三)五月十四日薩摩藩の下級藩士(御小性与)西郷吉兵衛の第六子(三男)として鹿児島城下加治屋町に生まれる。母は同藩士椎原権右衛門の娘マサ。西郷隆盛は従道の長兄にあたる。幼名は竜助。幼くして両親を失い島津家の茶坊主として出仕し竜庵と号したが、のち還俗して信吾(慎吾)と名乗り、ついで隆興・従道と改めた。兄隆盛の影響のもとで若くから国事に奔走、同志とともに大老井伊直弼を襲撃する計画(突出事件)に加わるなど、急進的な尊王攘夷運動に投じた。文久二年(一八六二)寺田屋事件に連坐して藩庁より謹慎を命ぜられたが、まもなく赦されて薩英戦争・禁門の変にも薩軍の一員として参加した。明治元年(一八六八)鳥羽・伏見の戦にも従軍して重傷を負った。明治維新に際して新政府に出仕。明治二―三年山県有朋らとともにヨーロッパを視察、帰国後警察制度の確立に尽力した。兵部大丞・兵部少輔・陸軍大輔などを歴任、六年征韓論が容れられずに西郷隆盛はじめ多くの薩摩出身者が下野して郷里に引き揚げたが、従道は兄と袂を分かって政府に残留した。翌年陸軍中将となり台湾蕃地事務都督に任ぜられ強硬な出兵論を唱え大久保利通らの説得を振り切って台湾に出兵。八年米国費拉特費府(フィラデルフィア)万国博覧会事務副総裁となり翌年アメリカに渡った。帰国後まもなく明治十年西南戦争が勃発すると、政府軍の参軍となって反乱鎮圧の指揮を取った山県有朋に代わり、陸軍卿代理をつとめた。翌年参議となって台閣に列し、以後文部卿・陸軍卿・農商務卿などを兼任、十七年華族令制定とともに伯爵に叙せられた。翌年甲申の変の事後処理のため全権大使の伊藤博文に同行して清国に赴き、李鴻章らと会談。十八年十二月第一次伊藤内閣成立に際して陸軍中将のまま海軍大臣として入閣。以後、黒田・第一次山県両内閣に留任、二十三年五月内務大臣に転じたが、翌年五月大津事件に遭遇して引責辞職した。二十五年枢密顧問官に親任されたがまもなく辞し、同年六月品川弥二郎とともに国民協会を組織しその会頭に推された。しかし、二十六年三月第二次伊藤内閣の海相として再び入閣、以来、三十一年十一月まで第二次松方・第三次伊藤・第一次大隈の各内閣の海相をつとめた。薩派の重鎮として海相在任は通算十年に及んだが、その間山本権兵衛を登用して海軍の整備・改革にあたり、特に、部内の老朽化した人員を整理し、有為の人材の登用を進めたことはよく知られている。二十七年には海軍大将に昇進し、翌年日清戦争の功により侯爵に叙せられ、さらに三十一年には元帥府に列せられた。三十一年十一月―三十三年十月、第二次山県内閣の内相をつとめた。晩年は元老として遇せられた。従道は小西郷と呼ばれ、兄隆盛(大西郷)ゆずりの包容力に富んだ性格の持ち主で、実務には疎かったといわれるが、その細事に拘泥しない茫洋たる人柄により終始政府の要柱として広い徳望を集め、もっぱら藩閥勢力内部における調停役として貴重な存在であった。明治三十五年七月十八日胃癌のため死去。六十歳。墓は東京府中市の多磨墓地にある。
[参考文献]
安田直『西郷従道』、横山健堂『大西郷兄弟』、安田栄治『西郷従道』
(鳥海 靖)


改訂新版・世界大百科事典
西郷従道
さいごうつぐみち
1843-1902(天保14-明治35)

明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。海軍の基礎確立のために樺山資紀,山本権兵衛,安保清康らを抜擢重用した。90年山県内閣の内務大臣,92年枢密顧問官を歴任,また同年には国民協会の会長となった。翌年伊藤博文内閣の海相に復帰して海軍の整備拡充に尽力し,94年最初の海軍大将となり,95年侯爵,98年元帥府に列せられた。同年山県内閣の内務大臣,1902年大勲位菊花大綬章に叙せられる。諧謔,機知に富み,薩長間ならびに陸海軍間の軋轢(あつれき)の調停者として,貴重な役割を果たした。
[御厨 貴]

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検索コンテンツ
1. 西郷従道
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なし、1895年には侯爵に叙せられた。明治35年7月15日病死。田中時彦 東京・目黒にあった旧西郷従道住宅は国の重要文化財で、明治村に移築された。編集部 ...
2. 西郷従道[百科マルチメディア]
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国立国会図書館所蔵 ...
3. 西郷従道
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1843-1902(天保14-明治35) 明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山 ...
4. さいごう‐つぐみち【西郷従道】
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明治時代の政治家、軍人。侯爵。元帥、海軍大将。薩摩藩出身。隆盛の弟。明治二年(一八六九)ヨーロッパを歴訪し、帰国後兵制の制定に尽力した。同七年台湾蕃地事務都督と ...
5. さいごうつぐみち【西郷従道】
国史大辞典
死去。六十歳。墓は東京府中市の多磨墓地にある。 [参考文献]安田直『西郷従道』、横山健堂『大西郷兄弟』、安田栄治『西郷従道』 (鳥海 靖)  ...
6. さいごう-つぐみち【西郷従道】
日本人名大辞典
1843−1902 明治時代の軍人,政治家。天保(てんぽう)14年5月4日生まれ。西郷隆盛の弟。もと薩摩(さつま)鹿児島藩士。明治2年渡欧し,兵制を調査。7年陸 ...
7. 西郷従道[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:8件 【逐次刊行物】:2件 『続当世活人画及続々』佐瀬得三『西郷従道』安田直『西郷従道侯』徳富猪一郎『明治功臣録 黄』朝比奈知泉(編) ...
8. 旧西郷従道住宅[百科マルチメディア]
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明治時代の軍人・政治家、西郷従道(さいごうつぐみち)が東京上目黒の自邸内に建てた洋館。明治10年代の建築。おもに在日の外交官などとの応接に用いられた。明治初期の ...
9. 青木周蔵自伝 284ページ
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其の甲鉄戦艦二隻を霜に我に売却せんとの事に有レ之候故、当時外相〔陸奥宗光〕を経て我海軍大臣〔西郷従道〕に勧奨したるも、「艦質旧式に属するを以て之を要せず」とのこ ...
10. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 231ページ
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に海軍少将になったが、時に三十二歳であった。その年に台湾征討軍に加わって陸軍少将谷干城と共に西郷従道陸軍中将(台湾事務都督)を補佐して征討 ...
11. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 276ページ
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(天茜) 四月五日、台湾蕃地事務参軍。陸軍少 将谷干城とともに西郷従道(陸軍中将 台湾事務都督)を補佐し、征討に ...
12. あさかそすい【安積疏水】福島県:郡山市
日本歴史地名大系
社前で安積疏水完工式典が行われた。右大臣岩倉具視・宮内卿徳大寺実則・大蔵卿松方正義・農商務卿西郷従道をはじめ、中央顕官・各県県令・関係官僚などが参列、盛大な祭典 ...
13. アメリカ彦蔵自伝 2 211ページ
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くわだてた。士族の不 満のはけ口を、そこに見いだそうとした のであった。四月四日には西郷従道を出 征軍の都督に任命した。そして外国から の干 ...
14. いとうとしよし【伊藤雋吉】
国史大辞典
海軍省第二局長。翌年五月に、海相樺山資紀の下で海軍次官となり、その九月中将に進んだ。この職のまま仁礼景範・西郷従道の三代の海相を補佐した。三十一年十一月、後輩の ...
15. いぬやまし【犬山市】愛知県
日本歴史地名大系
保った。昭和四〇年入鹿池に面した丘陵地一平方キロの敷地に財団法人博物館明治村が建設され、国宝の旧西郷従道住宅・旧日本聖公会京都聖約翰教会堂・旧山梨県東山梨郡役所 ...
16. 栄典制度
世界大百科事典
あげうる。これら栄典の制度化は日本近代化と密接不可分の関係にある。まず最初の叙勲者が台湾出兵の功労者西郷従道だったことに,近代日本のアジア進出が象徴される。次に ...
17. 大岡育造
日本大百科全書
薩閥(さつばつ)系機関紙と目された。また同年山口県より代議士に当選、初め大成会に属し、1892年には西郷従道(つぐみち)らを擁して国民協会を結成した。1900年 ...
18. おおくぼとしみち【大久保利通】
国史大辞典
鎮定・処刑に冷徹果断の面目を発揮した。四月佐賀から帰京した利通は休む間もなく長崎に行き、台湾蕃地事務都督西郷従道と協議して、台湾出兵の実施を決断し、その跡始末の ...
19. おおたわらし【大田原市】栃木県
日本歴史地名大系
下げを申請していた地域のうち、現大字加治屋と現西那須野町の駅周辺にあたる五〇〇町歩が大山巌と西郷従道に分譲された。この地は二人の出身地にちなみ加治屋開墾場と命名 ...
20. おおつじけん【大津事件】
国史大辞典
表明する勅語を発布し、まず北白川宮能久親王が天皇名代として医師団を随えて京都に急行、さらに青木周蔵外相・西郷従道内相らが続き、翌十二日朝天皇みずから京都へ向けて ...
21. 大津事件日誌 10ページ
東洋文庫
時に、国家三千年の生命は、此に至りて或は断滅の悲運に遭遇するものとして悲めり。当時の内相たる西郷従道伯が、露国の軍艦は江戸湾に来るべしと放言して悲嘆せしの一事を ...
22. 大津事件日誌 19ページ
東洋文庫
法理の一端をも解せざるかを知るに足るべし。而して当時の内閣を組織せる閣員が、首相兼蔵相松方正義、内相西郷従道、法相山田顕義、陸相大山巌、逓相後藤象次郎、海相樺山 ...
23. 大津事件日誌 202ページ
東洋文庫
京都へ出発した。 十五日、京都行在所に於て、御前会議が開かれた。列席者は伊藤博文、黒田清隆、西郷従道、大山巌、井上馨、青木周蔵、榎本武揚、野村靖の八名で(列席者 ...
24. おおやまいわお【大山巌】
国史大辞典
作戦に功をたてた。戦後陸相に戻ったが、二十九年九月に挂冠、三十一年一月、彰仁親王・山県有朋・西郷従道とともに、最初の元帥になった。三十二年五月参謀総長に補せられ ...
25. おおやまいわおもんじょ【大山巌文書】
国史大辞典
専門的なものが多い。法令草案には徴兵令・憲法草案が存し、日記は断片的ながら、薩藩出身軍人(たとえば仁礼景範・西郷従道)の出処進退、第一次松方内閣の動静を示唆する ...
26. 海軍省
日本大百科全書
大臣となった。初代海軍卿勝安芳(かつやすよし)は文官であり、内閣制度成立後の海軍大臣は、初代西郷従道(つぐみち)、2代大山巌(いわお)、3代西郷の再任、4代樺山 ...
27. かいぐんしょう【海軍省】
国史大辞典
海軍省は軍事部と総務・会計・主船・水路・兵器・水雷・調度の七局からなる)、初代の海軍大臣には西郷従道が就任したが、このとき各省官制通則とともに、海軍省官制も制定 ...
28. 海軍大学校
世界大百科事典
海軍士官に主として高等兵学に関する学術を教授する海軍の最高学府。日本の旧海軍大学校は,1887年海軍大臣西郷従道が招いたイギリスの海軍大佐イングルスJohn I ...
29. かいぐんだいがっこう【海軍大学校】
国史大辞典
かかり、十一月二十六日に海軍少将井上良馨を校長として開校された。これよりさき十九年に海軍大臣西郷従道は、時勢の進運に鑑み、海軍の教育方針刷新の急務を認め、将校な ...
30. かじやかいこん【加治屋開墾】栃木県:那須郡/西那須野町/那須野村
日本歴史地名大系
明治一四年(一八八一)、那須開墾社が追加貸下げを受けた九〇〇町のうち、五〇〇町が旧鹿児島藩士大山巌と西郷従道に譲渡されて成立。地名は二人の出身地鹿児島城下の加治 ...
31. かたおかなおてる【片岡直輝】
国史大辞典
主計副となり海軍省会計局統計課勤務。十四年にはニュージーランドに航海、十九年には大主計として西郷従道海相の欧米視察に随行、二十一年軍艦厳島の建造監督官としてフラ ...
32. 桂太郎自伝 350ページ
東洋文庫
いわゆる隈板内閣の成立、内部対立を顕在化させ崩壊するに至る間の、詔勅によって留任した陸海軍大臣の桂と西郷従道との行動、また政党内閣的な政権にたいする桂の考え方な ...
33. 加波山事件 民権派激挙の記録 32ページ
東洋文庫
かれは「前途なお遠し。喜ぶなかれ。」と同志に返電した。) 前日のこと、寺島宗則・山県有朋・伊藤博文・黒田清隆・西郷従道・井上毅・山田顕義の七参議は連署して、プロ ...
34. かばやますけのり【樺山資紀】
国史大辞典
た。十六年海軍大輔に転じ、在任中の十七年子爵授与、翌年海軍中将に昇進。十九年から二十三年まで西郷従道・大山巌両海相のもとで海軍次官を勤め、海軍部内の整備にあたっ ...
35. 〈華麗島〉台湾からの眺望 前嶋信次著作選3 402ページ
東洋文庫
消してしまった。それから間もなく日本から一軍が渡って来て、南部の蕃人〔台湾原住民〕部落を攻め、将軍西郷従道は粟酒を酌み、蕃人と共に踊ったりした。……更に二十年あ ...
36. かわむらすみよし【川村純義】
国史大辞典
榎本が部下の排斥によって辞任したので、十四年四月再び海軍卿となり、その任は十八年十二月の内閣制創始によって、西郷従道が海軍大臣になるまで続いた。川村は海軍省にあ ...
37. 木戸孝允
世界大百科事典
の追放に成功した(明治6年の政変)。74年文部卿兼任,しかし大久保との対立が再燃し,大久保,西郷従道らの台湾出兵強行に反対して辞任,宮内省出仕となった。75年伊 ...
38. きんだい【近代】
国史大辞典
陸海軍大臣以外は、憲政党員が閣僚を占める初の政党内閣であった。しかし留任の勅命をうけた桂太郎・西郷従道の陸海軍大臣は入閣にあたり、大隈から軍備拡充の約束を得てお ...
39. きんだい【近代】 : 近代/〔明治二十三―三十二年〕
国史大辞典
陸海軍大臣以外は、憲政党員が閣僚を占める初の政党内閣であった。しかし留任の勅命をうけた桂太郎・西郷従道の陸海軍大臣は入閣にあたり、大隈から軍備拡充の約束を得てお ...
40. ぎいんクラブ【議員〓楽部】
国史大辞典
初期議会における国民協会の院内団体。明治二十五年(一八九二)西郷従道・品川弥二郎は国民協会を組織、その多くはさらに集会条例に基づく国民政社を組織したが、同会に ...
41. くろおか-すえよし【黒岡季備】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)5年生まれ。明治4年清(しん)(中国)の上海に派遣されて中国語をまなぶ。7年台湾出兵の際,西郷従道(つぐみち)に随行。ついで事態収拾のため北京に派 ...
42. 元勲
世界大百科事典
91年山県有朋,98年松方正義がそれぞれ首相を辞任するにあたり同様の優詔をうけた。このほか,井上馨,西郷従道,大山巌が同じ待遇となり,1892年伊藤が政党勢力に ...
43. 元帥府
世界大百科事典
て元帥の称号を与えられた。このとき元帥府に列せられたのは,小松宮彰仁親王,山県有朋,大山巌,西郷従道の4人であった。元帥という名称はすでに1872年(明治5)の ...
44. げんすいふ【元帥府】
国史大辞典
於テ老功卓抜ナル者ヲ簡選」し、元帥府設置時には陸軍の小松宮彰仁親王・山県有朋・大山巌、海軍の西郷従道の四名が選ばれた。元帥府は明治時代、帝国国防方針の決定、戦時 ...
45. 元帥府条例
日本史年表
1898年〈明治31 戊戌〉 1・20 元帥府条例 公布.陸軍大将山県有朋・彰仁親王・大山巌・海軍大将西郷従道に元帥号授与。  ...
46. 元老
日本大百科全書
98年に松方正義(まつかたまさよし)が首相辞任に際して同様な詔勅を受けるが、この間に井上馨(かおる)、西郷従道(さいごうつぐみち)、大山巌(いわお)らも同様な待 ...
47. 元老
世界大百科事典
のまとめ役をつとめた特権政治家の一団。当初は伊藤博文,黒田清隆,山県有朋,松方正義,井上馨,西郷従道,大山巌で,いずれもいわゆる〈維新の功臣〉であったが,明治末 ...
48. げんろう【元老】
国史大辞典
これから内閣更迭にあたって天皇が薩長首脳に下問することが慣例となり、その顔触れは前記四名のほかに松方・西郷従道・大山巌が加わり、この七名が固定した。彼らは勅命で ...
49. 国民協会
日本大百科全書
政府が積極的に支援して当選させた代議士らよりなる中央交渉部が母胎となり、同年6月22日結成された。西郷従道(さいごうつぐみち)を会頭、前内相品川弥二郎(やじろう ...
50. こくみん‐きょうかい[‥ケフクヮイ]【国民協会】
日本国語大辞典
〔一〕明治中期、藩閥政府の擁護を唱えた政府系の団体。明治二五年(一八九二)創立。会頭西郷従道、副会頭品川彌二郎。同三二年帝国党に改編された。〔二〕昭和期の国家主 ...
「西郷従道」の情報だけではなく、「西郷従道」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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