コトバJapan! 池仁太 の 記事一覧

池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。


 「指月の地(伏見区にある観月橋周辺の宇治川河畔の地域)」は、平安期より月見の名所として知られ、平安貴族の著名な別荘地であった。この地に強く惹かれていた豊臣秀吉は、天下統一を果たしてまもなく「指月城」を最初の城として建造している。別名の「伏見城」や「伏見桃山城」は有名であるが、戦国時代の不思議な因果の中で「幻の城」とも呼ばれており、その理由を知る人は少ないだろう。実は2015(平成27)年に、指月の地において伏見城築城の前段階に建てられた指月城の遺構が発見され、その全貌が420年のときを超えてようやく解き明かされつつある。最新の情報をもとに、指月の地に始まる指月城の歴史を紐解いてみよう。

 まず、伏見城は築城から廃城までがわずか30年間という短い期間であったこと。そして、その間に4回も作りかえられているということが重要なポイントである。経緯が複雑なので、その歴史を4つに大別し、ひとつひとつを書き並べてみる。

(1)始まりは1592(文禄元)年のこと。豊臣秀吉は自身の隠居所として、「指月屋敷」の建設に着手した。

(2)翌1593(文禄2)年。秀吉は「指月屋敷」の建設半ばで、「指月城」の建設を新たに着手する。そのため、本格的な城郭を有する城として「指月屋敷」は改築された。1594年、「指月城」完成。だが、わずか二年後に京都を襲った「慶長伏見大地震」で「指月城」は全壊してしまう。

(3)秀吉は、「指月城」のあった「指月の地」から1キロほど離れた木幡山(こはたやま)に場所を移し、新たな城を築城する。これを「伏見城」という。秀吉は晩年をここで過ごし、生涯を閉じた。現在、京阪電鉄・伏見桃山駅近くにあるこの場所には、「伏見桃山遊園地跡」とし、「伏見城」の模擬天守閣がシンボルとして残されている。

(4)秀吉没後、1599(慶長4)年に徳川家康が「伏見城」へ入城する。城はその翌年に起こった「関ヶ原の合戦」の前哨戦で焼失。そこで、家康は1601(慶長6)年に三度めの再建を実現する。だが、その後の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。「伏見城」はついに廃城が決められる。1623(元和9)年、天守は二条城に移築され、一部の建築物や資材は淀城(伏見区)や福山城(広島県)に利用されたとされている。

 2015年に行なわれた発掘調査では、これまで所在地が不明で幻とされてきた指月城の金箔瓦をはじめ、石垣や巨大な堀などが出土している。これにより、実際にあった場所が初めて確認されたばかりでなく、秀吉らしい煌(きら)びやかさで、月の名所にふさわしく、様々な贅を尽くした城であったことがわかってきている。


伏見の町を見下ろす運動公園のシンボルとなっている、伏見桃山城天守閣と小天守閣。レジャー施設時代の残存物であるが、本格的な造りから映画の撮影などにも使用されている。


「コトバJapan!~ニッポンの“いま”を知る~」は本稿をもって終了いたします。
5年間、お付き合いいただき、ありがとうございました。
(編集スタッフ一同)
   

   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 「おとふ(豆腐)」がおいしい京都は、むろん「おあげ(油揚げ)」もおいしい。いろんなうどんや丼物、甘味などを提供する食事処では、豆腐店で特別に厚めに揚げてもらった「おあげ」を仕入れている店が多く、「おあげ」に出汁やカレーを吸わせたり、煮込んで「甘きつね」に仕上げたりして、じゅわっと肉感のある「おあげ」を献立の主役として扱っている。

 そのような「おあげ」自慢の京都で発祥した、といわれる独特の丼物が「衣笠丼」である。やや甘味を付けて炊いた「おあげ」を短冊に切り、刻んだ九条ねぎをたっぷり載せて卵でとじ、どんぶり飯のうえに載せてある。丼といえば、関西人は卵とじが本当に大好きで、一般的な親子丼やカツ丼をはじめ、薄く切った蒲鉾と九条ねぎを卵でとじた「木の葉丼」、出汁で溶いた卵だけの玉子丼などと種類が多い。どの丼にも、山椒をたっぷりかけて食べるが特徴だ。そういえば、卓上に用意されている薬味や調味料には、七味唐辛子ではなく、山椒だけが常備されている店も少なくないはずだ。

 「おあげ」とネギに卵が絡み合っている「衣笠丼」。一風変わった「衣笠」という名称は、こんもりとして淡い黄色の色合いが、衣笠山(北区)に由来する、といわれている。衣笠山とは、麓に金閣寺(北区)と龍安寺(右京区)などの名所旧跡を抱える標高202メートルほどの小山で、そのほとんどは松の木に覆われている。山の名は、平安期(899年)に出家して仁和寺に入った宇多法皇が、真夏の雪見を思い立ち、山全体に素絹(そけん、練っていない絹織物)をかけたという伝説に由来し、「絹笠山」や「衣掛山」とも呼ばれている。

 

   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 「おくどさん」は「お曲突さん」と書く。「くど」とは「火処(ほど)」を意味しており、前後に「お」と「さん」を付けた最高尊敬語といえるだろう。今日では、火を焚く「かまど」や「かまど」のある場所を意味することばとして使われ、「町家の台所」みたいなイメージで受け取られている場合が多い。だが、本来はかまど神信仰に基づく神様を表したことばである。かまど神とは、「荒神(こうじん)さん」が「かまど」に宿るという民間信仰に基づき、「三宝荒神」を意味している。京都における「三宝荒神」は火伏せ神であり、家の守り神としても大切にされている。

 実際の町家に残っている「おくどさん」では、「かまど」のうちの一つ(通常は大かまど)を「三宝荒神」とし、神棚のように祀っている家が多い。昔はこの「かまど」には、神様の依り代(しろ)となる「榊(さかき)」を欠かさず、火を絶やすこともなかったそうだ。また、「おくどさん」にある「かまど」の数は、縁起の悪い「四」の数を嫌い、「三つかまど」や「五つかまど」、「七つかまど」などの形態が多い。また、「おくどさん」の蓋の形や焚き口には、火難除けの魔除けとして「猪(い)の目」などの装飾が施されている場合が多く、これは家や地域独特の模様となっている。

 今でも薪で火を焚いている「おくどさん」というのは、本当に少なくなってしまったが、昔は焼けるとよい香りを発する栗の皮などを一緒にくべて、「荒神さんを喜ばせていた」というような話を聞いたことがある。京都の町家では「おくどさん」にある荒神棚の伏見人形の「布袋(ほてい)さん」を七体揃え、開運、厄除け、火防(ひぶ)せなどの願いを込めるという風習がある。


愛宕神社の一の鳥居脇にある、あゆよろし・平野屋のおくどさん。


   

京都の暮らしことば / 池仁太