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国史大辞典・日本大百科全書・日本人名大辞典

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国史大辞典
後亀山天皇
ごかめやまてんのう
 - 一四二四
一三八三―九二在位。南朝第四代の天皇。父は後村上天皇。母は阿野実為の女であることはほぼ確実で、吹上本『帝王系図』の付紙にもこの事実がみえる。実為女は嘉喜門院らしいが、確かなことはわからない。諱は煕成。弘和三年(北朝永徳三、一三八三)末ごろ、兄長慶天皇の譲りをうけて践祚、翌年元中と改元、元中九年(北朝明徳三、一三九二)閏十月南北両朝合一によって退位した。在位九年間、行宮にあって衰退の南朝を支えた。これより先、同年十月十三日足利義満より両朝媾和についての条件の提示があり、天皇はついにこれを受諾、同二十八日神器を奉じ、還御の儀式を整え、行宮を出発、この日橘寺に一泊、翌二十九日奈良興福寺東室に宿泊、閏十月一日同所に滞留、同二日夜嵯峨大覚寺に到着した。同五日神器が大覚寺より禁裏に渡御、また翌年十二月に至り、二間御本尊が禁裏に返進された。ここに南北両朝対立の時代は終り、北朝後小松天皇の一統に帰し、明徳の年号が存続、南朝は滅亡し、元中の年号は廃絶するに至った。応永元年(一三九四)二月六日、後亀山天皇は天竜寺においてはじめて義満に面接のことが行われた。その結果、同月二十三日天皇に太上天皇の尊号が贈進された。しかしその当時廷臣間に、登極せざる帝に尊号を贈進することの可否につき議論のあったことが『荒暦』にみえる。同四年十一月二十七日尊号および兵仗を辞退し、その後出家を遂げ、金剛心と号した。これよりもっぱら隠棲生活に入り、側近に阿野実為・公為父子らわずかの者があるにすぎず、ときおり吉田兼煕・兼敦父子が参候して神道を進講することがあった。ところが応永十七年十一月二十七日、突如法皇は嵯峨を出奔、吉野山に入り、爾来ここに数年を過ごし、同二十三年九月広橋兼宣らの仲介で帰還した。この事件について当時の日記に、法皇は窮困と号して吉野に出奔し、将軍家が所領の本復について保証したとみえており、生活上の窮迫によるもののようではあるが、なお合一条件に定められた皇位継承の不履行についての不満と憤りが潜むものと解せられる。応永三十一年四月十二日崩御。年齢については確証を得ない。嵯峨小倉陵に葬られる。
[参考文献]
菅政友『南山皇胤譜』(『菅政友全集』)、村田正志「後亀山天皇の御事蹟」(『南北朝史論』所収)
(村田 正志)

嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)

 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にある。陵域の中央に南面(旧くは西面)する総高二・三メートルの五輪塔があり、基壇の四隅に接して東側に宝篋印塔二基、西側に五輪塔二基の小塔がある。当所は小倉山の東麓に位置し、旧福田寺跡にあたるので、小倉陵・福田寺陵とも称された。天皇奉葬の当時の文献はないが、近世の地誌類は当所を陵としてあげている。幕末修陵の際もここを陵所と定めて、福田寺陵と称したが、明治十二年(一八七九)現陵名に改定した。
[参考文献]
谷森善臣『山陵考』(『(新註)皇学叢書』五)、上野竹次郎『山陵』下
(中村 一郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
後亀山天皇
ごかめやまてんのう
[?―1424]

第99代(南朝第4代)天皇(在位1383~92)。名は煕成(ひろなり)。法名金剛心。大覚寺(だいかくじ)殿と称した。後村上(ごむらかみ)天皇の皇子。母は未詳であるが、阿野実為(あのさねため)の女(むすめ)であろう。1383年(弘和3・永徳3)のころ、兄長慶(ちょうけい)天皇の後を受けて皇位につき、南朝の行宮(あんぐう)にあったが、92年(元中9・明徳3)閏(うるう)10月、北朝後小松(ごこまつ)天皇との間に合一の和議が成立して帰京し、嵯峨(さが)の大覚寺に入り、神器を後小松天皇に譲った(南北朝合一)。これからのちは同寺に隠棲(いんせい)し、出家を遂げたが和議の条件が守られなかったため、1410年(応永17)同地を出奔し、吉野に数年を過ごした。その後また大覚寺に帰還し、応永(おうえい)31年4月12日没。75歳という。御陵は同寺近くにあり、嵯峨小倉(おぐら)陵と称する。
[村田正志]



日本人名大辞典
後亀山天皇
ごかめやまてんのう
?−1424
南北朝時代,第99代(南朝第4代)天皇。在位1383-92。
後村上天皇の第2皇子。母は嘉喜門院。同母兄長慶天皇の譲位をうけて即位。第3代将軍足利義満の南北朝合一の提案をうけいれて,明徳3=元中9年京都にかえり神器をわたした。これにより北朝の後小松天皇一統が実現,南朝の年号は廃された。のち合一の条件が履行されず不満をしめす。応永31年4月12日死去。墓所は嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は煕成(ひろなり)。法名は金剛心。別名に大覚寺殿。
【格言など】いかがせむしぐれて渡る冬の日のみじかき心くもりやすきを(「後亀山院千首和歌」)
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19. あまのさんこんごうじ【天野山金剛寺】大阪府:河内長野市/天野山村地図
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20. あんていき【安定期】 : 室町幕府
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21. 伊勢国
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23. いなかむら【井中村】兵庫県:氷上郡/氷上町
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25. えいざんじもんじょ【栄山寺文書】
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30. 嘉吉の乱
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日本人名大辞典
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日本人名大辞典
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国史大辞典
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日本人名大辞典
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38. きたやまのみや【北山宮】
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39. きたやまのみや【北山宮】奈良県:吉野郡/上北山村/栃本村
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47. くしひきはちまんぐう【櫛引八幡宮】青森県:八戸市/八幡村
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