NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 卑弥呼

卑弥呼

ジャパンナレッジで閲覧できる『卑弥呼』の新版 日本架空伝承人名事典・世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
卑弥呼
ひみこ
二世紀末から三世紀前半にかけて、倭国すなわち当時の日本を統治したとされる邪馬台国の女王。しかし、彼女は日本にまだ文字がなかった時代の人物であり、日本の史料にはいっさい登場しない。忽然とその姿を登場させるのは、三世紀に中国で成立した『魏志』東夷伝倭人条(通称『魏志倭人伝』)の中である。
二世紀後半、倭国は男王が統治していたが、戦乱が止むことはなかった。そこで倭国の首長たちが相談し、一人の女王を共立した。卑弥呼である。すると戦乱は収まり、平和が訪れた。卑弥呼は鬼道をよくし、年老いても未婚のままで、弟が国政を助けた。王となってからは人々の前に姿を見せることはなく、顔を見た者はまれであった。千人の婢が侍し、一人の男性だけが女王の宮殿に出入りできた。二三九年(景初三)六月、卑弥呼は魏の皇帝に対して使節を派遣し、奴婢を含む数多の品を献上した。これにより、魏の皇帝は卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬と銅鏡一〇〇枚などの品を与えることを決めた。二四〇年(正始一)、魏の使節が邪馬台国を訪れ、それらの品を贈った。一世紀の半ば、倭の国が後漢に朝貢し、光武帝から「漢倭奴国王」印を授かって以来のことであった。その奴国は、今や邪馬台国の統治下にあった。
『魏志』東夷伝倭人条によれば、卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」とあるので、呪術力をもった巫女的な存在であったらしい。しかし、単なる巫女とは違い、七万余戸を数えたという邪馬台国に君臨し、三〇に及ぶ倭の国々を従えて大陸とも往来した。まさに女王であった。しかし二四七年、狗奴くな国の男王と不和となって戦争となり、そのさなかに没したという。『魏志』東夷伝倭人条を信じるなら、八〇歳を優に超えていたと思われる。人々はその死を悼み、大きな墳墓を造り、奴婢一〇〇人が殉葬されたという。しかし、その卑弥呼の墓も、また邪馬台国がどこにあったかも、現在なお不明である。
[高橋 千劔破]
その国では、もともと男子が王位についていたが、そうした状態が七、八十年もつづいたあと、〔漢の霊帝の光和年間に〕倭の国々に戦乱がおこって、多年にわたり互いの戦闘が続いた。そこで国々は共同して一人の女子を王に立てた。その者は卑弥呼ひみこと呼ばれ、鬼神崇拝の祭祀者として、人々の心をつかんだ。彼女はかなりの年齢になっても、夫はなく、その弟が国の統治を輔佐した。王位に即いて以来、彼女に目通りした者はほとんどない。千人の侍女を自分のまわりにはべらせ、男子がただ一人だけいて、飲食物を運んだり、命令や言上の言葉を取り継いでいた。起居するのは宮室や楼観たかどのの中で、まわりには城壁や柵が厳しくめぐらされ、兵器を持った者が四六時中、警護に当った。
三国志烏丸鮮卑東夷伝第三十


世界大百科事典
卑弥呼
ひみこ
?-247?

《魏志倭人伝》に見える邪馬台国の女王。178-183年(後漢霊帝の光和年間)ごろに倭国で戦乱があり,卑弥呼が倭国内の諸小国の首長によって邪馬台国の王に共立された結果,邪馬台国をふくむ倭国の戦乱は,いちおう終息した。卑弥呼は,呪術的宗教の司祭にたけ,民衆を心服させる能力を備えていた。卑弥呼は,結婚適齢期に達していたが,夫はおらず,現実的な政治の面は,弟に助力をあおいで国を治めていた。卑弥呼は,王となって以来,人々の前に姿をあらわすことがなく,ただ1人の男子が,卑弥呼に飲食を給し,事柄の伝達のために,卑弥呼の居室に出入りしていた。こうした卑弥呼の姿は,まさに〈幽閉された原始的国家の王〉そのものである。卑弥呼は,239年6月に,難升米(なんしようまい)らを帯方郡に派遣し,さらに魏の朝廷に朝貢することを願い出させた。帯方郡の長官劉夏(りゆうか)は,役人を遣わして難升米らを魏の都洛陽に送りとどけた。この年の12月,魏の皇帝は,卑弥呼に詔書を出して,卑弥呼を〈親魏倭王〉とし,金印紫綬を仮に授け,卑弥呼の献上した男女の生口10人,斑布2匹2丈に対する返礼の品物として銅鏡100枚,5尺刀2口などを贈ることを明らかにした。この詔書と品物は,翌240年に魏使によって卑弥呼のもとにもたらされた。卑弥呼は,さらに243年にも使者を魏へ派遣し,生口,倭錦,丹,短弓矢などを魏の皇帝に献上した。このころから,邪馬台国とその南に位置していた狗奴(くな)国とが対立し,この戦乱の状況を,卑弥呼は,247年に魏へ報告するため使者を帯方郡へ送った。この戦乱は,卑弥呼にとって厳しいものであったらしく,戦いの最中に卑弥呼はその生涯を閉じる。《魏志倭人伝》には,大きな墳墓を作り,奴婢100余人を殉葬したとある。死後,男王を立てたが国中服さず,卑弥呼の宗女臺與(とよ)を王とし国中が定まったという。
→邪馬台国
[佐伯 有清]

[索引語]
親魏倭王
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


卑弥呼の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 337
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 卑弥呼
日本大百科全書
人が侍するというように神秘的ベールに包まれていた。卑弥呼には男弟があり、卑弥呼の意(神の託宣)に従い政治的・軍事的政務を担当したという。卑弥呼は239年(景初3 ...
2. 卑弥呼
世界大百科事典
1人の男子が,卑弥呼に飲食を給し,事柄の伝達のために,卑弥呼の居室に出入りしていた。こうした卑弥呼の姿は,まさに〈幽閉された原始的国家の王〉そのものである。卑弥 ...
3. ひみこ【卑彌呼】
日本国語大辞典
王、名曰〓卑彌呼〓、事 ...
4. 卑弥呼
日本史年表
漢書東夷伝)。倭の諸国、 卑弥呼 を共立し女王とする.卑弥呼は鬼道にすぐれ、未婚で、弟が国政を助けたという(魏志倭人伝)。 239年〈己未〉 12・‐ 明帝、  ...
5. ひみこ【卑弥呼】
日本人名大辞典
?−247? 「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にみえる邪馬台国(やまたいこく)の女王。180年代の初めごろ王位についた。鬼道(呪術(じゅじゅつ))にすぐれ,政治 ...
6. ひみこ【卑弥呼】
日本架空伝承人名事典
戦乱が止むことはなかった。そこで倭国の首長たちが相談し、一人の女王を共立した。卑弥呼である。すると戦乱は収まり、平和が訪れた。卑弥呼は鬼道をよくし、年老いても未 ...
7. 卑弥呼[文献目録]
日本人物文献目録
笹谷良造『卑弥呼の遣魏使と田道間守』植村清二『卑弥呼考 1‐3』内藤虎次郎『卑弥呼と壱与について』重見辰馬『卑弥呼について』野口隆『卑弥呼の宮室を通して大社を思 ...
8. ひめこ【卑弥呼】
国史大辞典
奉じて倭国に至り、魏帝の詔書や賜与の物品を卑弥呼のもとにもたらした。同四年、卑弥呼は大夫の伊声耆ら八人を魏へ派遣し、生口や倭錦などを魏帝に献上した。同八年、卑弥 ...
9. 【卑弥(彌)呼】ひみこ*ひめこ*ひびこ
新選漢和辞典Web版
わが国古代の政治的中心地であった耶馬台(やまたい)の女王に対する、中国の呼称。姫子。〈魏(ぎ)志・倭人(わじん)伝〉  ...
10. ひみこ【卑弥呼】
国史大辞典
⇒ひめこ  ...
11. あまぎし【甘木市】福岡県
日本歴史地名大系
)などもある。南部では歴史文化公園の甘木丸山公園・平塚川添遺跡公園などが整備され、毎年五月の卑弥呼祭は市をあげて取組んでいる。ほかに県立甘木歴史資料館(九州歴史 ...
12. いざわ-もとひこ【井沢元彦】
日本人名大辞典
昭和55年ミステリー「猿丸幻視行」で江戸川乱歩賞。60年作家生活にはいる。愛知県出身。早大卒。作品はほかに「卑弥呼伝説」「逆説の日本史」など。 ...
13. 出雲国風土記(風土記) 261ページ
日本古典文学全集
昭和四十七年(一九七二)神原古墳(加茂町神原)で、景初三年(魏の年号、二三九)銘のある三角縁神獣鏡が出土し、卑弥呼との関係などで話題を呼んだ。風土記のこの伝承関 ...
14. 壹与
日本大百科全書
王。臺与(とよ)ともみえる。倭の女王卑弥呼(ひみこ)が3世紀の中ごろに死ぬと、男王がたったが、国中は服さず、内乱に発展した。そのような情勢のなかで、卑弥呼と同族 ...
15. 壱与
日本史年表
248年〈戊辰〉 この頃 卑弥呼の宗女 壱与 (または台与、13歳)、王となり国中定まる(魏志倭人伝)。魏使 張政 ら、檄をもって壱与に告喩する. 壱与 、掖 ...
16. いよ【壱与】
日本人名大辞典
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると,魏の正始8年(247)ごろ,卑弥呼(ひみこ)の死後にたった男王に国中がしたがわず争乱となったため,卑弥呼の同族の娘壱与 ...
17. 壱与[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『壱与・台与・台挙考』菟田俊彦『卑弥呼と壱与について』重見辰馬 ...
18. 雲南(市)画像
日本大百科全書
んじゃこふん)からは、景初3年(239)銘の鏡が出土し(出土品は一括して国指定重要文化財)、卑弥呼の鏡として注目をあびた。中世、三刀屋城に拠った三刀屋氏(諏訪部 ...
19. えきやく【掖邪狗】
日本人名大辞典
く)の大夫(たいふ)。卑弥呼(ひみこ)の使者として魏(ぎ)(中国)の正始(せいし)4年(243)魏に派遣され,率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬をうけ ...
20. 王
世界大百科事典
エント諸国からゲルマン諸民族の王まで共通している。また,《魏志倭人伝》にみえる邪馬台国の女王卑弥呼が,魏に使者を送り貢物を献じてその保護を求める〈外交〉を試みる ...
21. おおいちのはか【大市墓】 : 倭迹迹日百襲姫命
国史大辞典
大市墓(おおいちのはか) 奈良県桜井市大字箸中にある。考古学関係図書では「箸墓古墳」といい、卑弥呼の墓に擬する説もある。『日本書紀』崇神天皇十年九月条には、倭 ...
22. おおちのはか【大市墓】奈良県:桜井市/三輪・纏向地区/箸中村
日本歴史地名大系
が発見されている)。第二は、「魏志倭人伝」に記される邪馬台国の女王卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命と比定し、箸墓を卑弥呼の墓とする説があることによる。もちろん、この説に ...
23. おおつかやまこふん【大〓山古墳】
国史大辞典
一古墳から三十面以上の三角縁神獣鏡が出土し、それらが中国製の魏晋鏡であるとすれば、邪馬台国女王卑弥呼の「銅鏡百面」ともかかわる可能性があり、椿井大塚山古墳の歴史 ...
24. おおつかやまこふん【大〓山古墳】 : 大〓山古墳/(一)
国史大辞典
一古墳から三十面以上の三角縁神獣鏡が出土し、それらが中国製の魏晋鏡であるとすれば、邪馬台国女王卑弥呼の「銅鏡百面」ともかかわる可能性があり、椿井大塚山古墳の歴史 ...
25. おに【鬼】
国史大辞典
仏教で地獄や餓鬼道の亡者が鬼(き)であって、被害者としての死者の霊である。『魏志』倭人伝の中で、卑弥呼が鬼道(きどう)に仕えたというのは、スピリットを支配してい ...
26. 織物画像
世界大百科事典
《魏志倭人伝》には魏の景初2年(238),倭の女王卑弥呼が,男女生口(せいこう)10人と班布2匹2丈を持って魏へ朝貢し,魏王からは錦をはじめ多くの染織品や刀や鏡 ...
27. 鏡画像
世界大百科事典
にあっても,鏡面魔術の実例は多く,鏡を恐れるがゆえの迷信は数知れない。日本でも邪馬台国の女王卑弥呼が,魏王から銅鏡百面を贈られたのは,鏡面魔術を駆使するシャーマ ...
28. かもまち【加茂町】島根県:大原郡
日本歴史地名大系
文字が書かれた三角縁神獣鏡が発見された。これは景初三年(二三九)中国の魏王から邪馬台国の女王卑弥呼に青銅鏡一〇〇枚が下賜されたうちの一枚ではないかとされている。 ...
29. 神原神社古墳
日本大百科全書
とくに「景初三年」銘鏡は、大阪府黄金塚(こがねづか)古墳のそれとともに邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)に遣使した年(239)と一致する紀年鏡 ...
30. かんばらじんじゃこふん【神原神社古墳】島根県:大原郡/加茂町/神原村
日本歴史地名大系
「景初三年陳是作鏡」で始まる四一文字の銘文がある。景初三年(二三九)は邪馬台国の女王が魏に遣使した年であり、卑弥呼の鏡を出土した古墳として有名になった。主体部の ...
31. 神原神社古墳
日本史年表
239年〈己未〉 12・‐ 明帝、 卑弥呼 を親魏倭王として 金印紫綬 を与え、 難升米 を率善中郎将、 次使牛利 を率善校尉として 銀印青綬 を与える.また卑 ...
32. 画文帯神獣鏡
日本史年表
239年〈己未〉 12・‐ 明帝、 卑弥呼 を親魏倭王として 金印紫綬 を与え、 難升米 を率善中郎将、 次使牛利 を率善校尉として 銀印青綬 を与える.また卑 ...
33. 鬼道
世界大百科事典
拡大していったが,当時の史書は張魯の教法を鬼道と決めつけている。また《魏志倭人伝》には,女王卑弥呼が〈鬼道に事(つか)え,人心を惑わし〉ていたことが記されている ...
34. き‐どう[‥ダウ]【鬼道】
日本国語大辞典
妖術。魔術。*魏志‐倭人伝「名曰〓卑彌呼〓。事 ...
35. きどう【鬼道】
国史大辞典
乃ち共に一女子を立て、王と為す、名づけて卑弥呼と曰ふ、鬼道に事(つか)へ能く衆を惑はす」(原漢文)とある。この「鬼道」ということは、『後漢書』倭伝には卑弥呼につ ...
36. 絹織物
世界大百科事典
くられていたことがしるされており,243年には倭王が〈倭錦〉〈絳青縑〉を魏に献じたこと,女王卑弥呼の死後には〈異文雑錦〉20匹を貢じたことを伝えている。また《日 ...
37. 紀年論
世界大百科事典
運)くりあげられていることを那珂は論証した(今日,この干支2運くりあげの紀年操作は神功皇后を卑弥呼に擬定するためと理解されている)。さらに那珂はいわゆる神武紀元 ...
38. 金印紫綬
日本史年表
239年〈己未〉 12・‐ 明帝、 卑弥呼 を親魏倭王として 金印紫綬 を与え、 難升米 を率善中郎将、 次使牛利 を率善校尉として 銀印青綬 を与える.また卑 ...
39. 魏(中国、三国の一つ)
日本大百科全書
丘倹(かんきゅうけん)が高句麗(こうくり)を討ち、領土を東方に拡張した。耶馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が朝貢の使者を派遣したのはこのころである。 明 ...
40. 魏(中国,曹魏)
世界大百科事典
239年(景初3)6月,倭の邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の使者が魏軍の占領まもない帯方郡に到着し,魏の皇帝への朝献を希望した。洛陽でこれを引見した明帝は,その ...
41. ぎ【魏】
国史大辞典
魚豢『魏略』や陳寿『三国志』魏書倭人伝にわが国に関する最古のまとまった記事(著名な邪馬台国の女王卑弥呼の所伝をはじめ倭人の風習などを含む)を残し、各地の古墳から ...
42. 魏志倭人伝
日本大百科全書
れている。またよく知られている邪馬台国(やまたいこく)やその国の女王卑弥呼(ひみこ)のことが、つぶさに記述されており、卑弥呼が「共立」されて王となったなど、当時 ...
43. 魏志倭人伝(読み下し)
日本大百科全書
倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰ふ。鬼道(きどう)に事(つか)へ、能(よ)く ...
44. 魏志倭人伝
世界大百科事典
の生活風俗などが,かなり詳細に記述されている。なかでも女王の卑弥呼が共立によって王となったありさま,邪馬台国の政治のあり方,卑弥呼の王としての姿が活写されており ...
45. 魏晋南北朝画像
日本大百科全書
それが支配者層や民衆に大きい影響を与えたこととがあげられる。なお、魏には邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)が使をやっており、倭(わ)の五王は南朝に交 ...
46. 牛利
日本史年表
239年〈己未〉 12・‐ 明帝、 卑弥呼 を親魏倭王として 金印紫綬 を与え、 難升米 を率善中郎将、 次使牛利 を率善校尉として 銀印青綬 を与える.また卑 ...
47. 銀印青綬
日本史年表
239年〈己未〉 12・‐ 明帝、 卑弥呼 を親魏倭王として 金印紫綬 を与え、 難升米 を率善中郎将、 次使牛利 を率善校尉として 銀印青綬 を与える.また卑 ...
48. くさかり-まさお【草刈正雄】
日本人名大辞典
中学生のときから新聞配達などをして苦学生活をおくる。昭和45年小倉西高在学中にCMタレントとなる。49年「卑弥呼(ひみこ)」で映画デビュー,「神田川」「あにいも ...
49. 久世光彦
日本大百科全書
広げ虚実皮膜(きょじつひまく)の間をつくりあげていく傑作だった。ほかにも『陛下』(1996)、『卑弥呼』(1997)、『謎(なぞ)の母』(1998)、『燃える頬 ...
50. 百済観音 141ページ
東洋文庫
朝鮮南部の古墳から従来漢六朝の鏡の発見が非常に少ないところがら考え、いっぽう三国の魏の明帝が景物二年に倭王卑弥呼に刀鏡を贈り、同じく廃帝の正始元年にも刀鏡等を贈 ...
「卑弥呼」の情報だけではなく、「卑弥呼」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

卑弥呼と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「卑弥呼」は日本の歴史に関連のある記事です。
その他の日本の歴史に関連する記事
長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
日本の歴史に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶