景行(けいこう)天皇の皇子で、仲哀(ちゅうあい)天皇の父。この皇子の像は『古事記』と『日本書紀』で大きな相違があり、われわれが悲劇的皇子の物語として感動を受けるのは前者であるが、後者では天皇支配の体制に適合する姿に修正されている。記では、皇子は臼(うす)を人格化した小碓命(おうすのみこと)の名で登場し、兄に食事に出席するように願えとの天皇の命令を取り違えて、兄を惨殺する。この豪勇を恐れた天皇は、熊襲建(くまそたける)の討伐に皇子を派遣し、16歳の皇子はおばの倭比売(やまとひめ)の衣装で女装して熊襲建に近づき、これを殺す。このとき倭男具那(やまとおぐな)と名のっていた皇子は、熊襲建から日本武尊の名を奉献される。そしてその帰途、出雲建(いずもたける)を偽刀(ぎとう)の計で倒し、山、川、海峡の神を服属させて帰還する。しかし帰京後まもなく今度は東征を命ぜられ、「天皇は私に早く死ねと思っておられるのか」と嘆きつつ伊勢(いせ)神宮に奉仕する倭比売を訪ね、剣と袋をもらって出発する。
東征では多くの困難が起こった。まず相模国造(さがみのくにのみやつこ)にだまされて野火の難にあい、また浦賀水道の神に航行を阻まれる。皇子は野火の難を倭比売から賜った剣で草を薙(な)ぎ、袋の中の火打石(ひうちいし)でこれに火をつけて逃れ、浦賀水道では愛する弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水(じゅすい)により死を免れる。だが東征の帰途、熱田(あつた)の宮簀姫(みやずひめ)のもとに伊勢の神剣を預け、素手で伊吹(いぶき)山の神に立ち向かった皇子は、神の正体を誤認したために大氷雨(おおひさめ)に打たれて深手を負い、伊勢の能煩野(のぼの)にたどり着いて死ぬ。物語はこのあたりから歌を交え、生と死の悲劇性を高めていくが、とくに、死後白鳥となって翔(かけ)り行く皇子を后(きさき)や御子(みこ)たちが追う終章は、この物語の白眉(はくび)である。
皇子がいくつかの名をもつことから理解されるように、この物語は多くの話がまとまって成立した東西平定の物語である。それは『古事記』のなかで、崇神(すじん)朝の国家体制の確立を受け、神功(じんぐう)皇后の朝鮮半島征服へと展開させる意味をもつが、われわれに与えるこの物語の感動は、父である天皇に遠ざけられて異域で死なねばならなかった皇子の死が語りかける、一人の人間の悲劇的生涯である。
《古事記》《日本書紀》《風土記》などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第3皇子,母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ,幼名に小碓(おうす)命,倭男具那(やまとおぐな)王がある。年少にして勇武人にすぐれ,諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが,長途の征旅,漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている。
《古事記》と《日本書紀》とでは叙述に相違があり,文学として後者は前者にはるかに及ばない。以下《古事記》にもとづいて物語を要約する。小碓命(ヤマトタケル)の兄の大碓(おおうす)命は父天皇の召し上げた乙女を盗み,ために朝夕の食事に参会しなかった。そのことを教えさとせと父から命じられたオウスは,兄が朝の厠(かわや)に入るところを捕らえ手足をひき裂いて菰(こも)に包んで投げ捨ててしまう。その勇猛に恐れをいだいた天皇は,オウスを西方の賊平定に派遣する。これがこの皇子の征旅と漂泊の生涯の発端である。まだ少年のオウスは女装して熊曾建(くまそたける)(熊襲魁帥)兄弟の宴席に入り,宴たけなわのときに兄弟を剣をもってあいついで刺し通した。虫の息のクマソが皇子をたたえてヤマトタケルの名を奉ったがオウスはそれを聞きおえるや否や,相手を熟苽(ほぞち)のように振りさいて殺したという。
ヤマトタケルとなった皇子はさらに各地の山の神,河の神,海峡の神を征し,出雲の出雲建を詐術で討ち,西方平定をしとげて天皇に復命した。しかし天皇は重ねて追い立てるように,東方十二道の荒ぶる神,王化に従わぬ者を征討せよと命じる。ヤマトタケルは出発にさいし伊勢の大神に参り,斎宮であるおばの倭比売(やまとひめ)命(倭姫命)から草那芸剣(くさなぎのたち)(草薙剣)と袋を授かるが,そのとき〈天皇はこの私に死ねというのだろうか,西方のいくさから帰りまだ時をへぬうちに軍勢も賜らずなお東国に遣わそうとする〉と述べ,憂い泣いたという。東国においてもまつろわぬ神・人をことごとく平らげる。その間,相模国では国造(くにのみやつこ)に欺かれて野火に囲まれるが草那芸剣と袋の中の火打石によって難を逃れた。また走水(はしりみず)の海(浦賀水道)では,渡りの神の妨害にあい,后の弟橘比売(おとたちばなひめ)(弟橘媛)が皇子に代わって入水し神の心をなごめて船を進めることをえた。足柄の坂でヤマトタケルは三たび嘆いて〈あづまはや〉(わが妻よああ)といい,それが〈あずま〉の地名の起りとなったとされる。そこより甲斐,信濃を経て尾張に至り,往路に婚約した美夜受比売(みやずひめ)(宮簀媛)と結婚する。だがミヤズヒメのもとに草那芸剣を置いて伊吹山の神を討ち取りに出かけた皇子は,神の降らす氷雨に惑わされ,以後,当芸野(たぎの),杖衝坂(つえつきざか)と進むにつれて疲れを増し,三重についたときは足が三重に曲がるほどの状態になる。やがて能煩野(のぼの)より大和の国をしのんで,〈倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美(うるわ)し〉など3首の思国歌(くにしのびうた)をよむが,ここから病状があらたまり間もなくして世を去る。死後の皇子は〈八尋白智鳥(やひろしろちどり)〉(大きな白鳥)と化して天がけり,葬を営む后や御子たちがその後を泣いて追った。白鳥は河内国の志幾(しき)にまで飛び,そこにヤマトタケルの墓,白鳥陵を築いたところ,さらに白鳥は天のかなたへ飛び去ったと伝える。
記紀の天皇記はまず神武天皇による大和の平定にはじまり,崇神天皇における祭祀の確立,垂仁代の部(べ)の設置などを経て,景行記に至り王権支配の全国的拡大を扱っていると見られる。ヤマトタケルの西征・東征譚はそうした枠組みに含まれており,諸方に設けられていた建部(たけるべ)なる軍事的部民の存在よりすれば,国内の政治的統一の過程における戦闘の諸経験がここに物語的に集約され,大和の勇者の意にほかならぬヤマトタケル像に典型化されたとすることもできる。ただ《日本書紀》のヤマトタケルはそうだとしても,《古事記》のそれはもっと独自な物語の主人公として造形されている。《古事記》はこの皇子を勇猛なるがゆえに天皇から疎外されたという父と子の対立緊張関係のもとにおいて描き,そこからヤマトタケルを一個の悲劇的英雄として形象する。皇子のヤマトヒメに述べた述懐は自己の運命に対する痛切な自覚を示しており,以後の皇子の足どりは征討というより,死によってしか終えることのできない流離・漂泊の旅となってゆく。その終焉近くよまれた思国歌の情調,また天空に飛び去る白鳥の姿はいずれもこの皇子の物語にふさわしい結末となっている。ヤマトタケルの漂泊と死には国家のもとにおける英雄的個人の運命を強く暗示するものがあり,そうした体制と人間の相克・矛盾をとらええている点に《古事記》ヤマトタケル譚の傑作たる理由があろう。
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