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新版 日本架空伝承人名事典

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新版 日本架空伝承人名事典
聖徳太子
しょうとくたいし
?‐622(推古30)
 六世紀末~七世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人あなほべのはしひと皇后(欽明天皇皇女)。生年は『上宮聖徳法王帝説』に甲午年(五七四)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳うまやどのとよとみみ皇子といい、のちに上宮聖王、聖徳王、法大王のりのおおきみ、法主王などとも呼ばれた。聖徳太子の称は『懐風藻』の序文(七五一)が初見。初め上宮うえのみやに住み、のちに斑鳩宮いかるがのみや(いまの法隆寺東院の地)に移ったというが、一四、一五歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち、そのとき四天王に祈念して勝利を得たので、のちに難波に四天王寺を建立したという。『日本書紀』によれば、五九二年(崇峻五)一一月に馬子が崇峻天皇を殺すと、翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し、翌年(推古一)四月に太子を皇太子にして万機を摂政させたというが、この時期はまだ大兄おおえの制が行われており、単一の皇位継承予定者である中国的な皇太子の制がすでに存在したかどうかは疑わしく、『日本書紀』以前に太子のことを太子と記した確かな史料もほとんどない。また太子の執政をもって積極的な皇権回復策とする見方もあるが、推古天皇の即位は崇峻天皇の暗殺という異常な事態の下で行われたことであり、女帝即位の初例であったためとみるのが妥当である。この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり、推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、『天皇記』『国記』以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。
 しかし太子は若くして高句麗僧慧慈えじに仏典を、博士覚哿かくかに儒学等の典籍を学び、その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。みずから十七条憲法の文章を作ってその第二条に「篤く三宝を敬え」と述べ、仏典を講説して法華・維摩・勝鬘三経のいわゆる『三経義疏ぎしょ』を著したと伝えられ、また四天王・法隆・中宮・橘・広隆・法起・妙安の七寺を興したと伝えられるなど、当時の仏教文化の興隆に大きな役割を果たしたことを物語る所伝が少なくない。ただしそのためか、太子はひじりであったとか、中国南岳の慧思禅師の後身であるとか述べて、超人間的存在であったごとく説くことが、主として仏家の間に早くから生じた。太子の伝記は『書紀』に劣らず古いとされる『上宮記』『上宮聖徳法王帝説』などから始まって、数多く作られた。九一七年(延喜一七)成立の『聖徳太子伝暦』に至って、太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく、以後平安時代から鎌倉時代にかけて、太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹うじのかいだこ皇女、膳加多夫古かしわでのかたぶこの女の菩岐岐美郎女ほききみのいらつめ、蘇我馬子の女の刀自古郎女とじこのいらつめ尾治おわり王の女の猪名部橘いなべのたちばな女王などを妃とし、山背大兄やましろのおおえ王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが、六二二年二月二二日に斑鳩宮で病死し、河内の磯長墓しながのはか(大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。
[関 晃]
聖徳太子の伝承
 『日本書紀』がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は、奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。法隆寺では天平年間(七二九‐七四九)に行信によって上宮王院(東院)が創建され、太子をかたどった観音像(救世ぐぜ観音)が八角円堂(夢殿)に安置された。当時の太子伝承は「上宮聖徳法王帝説』に記され、太子が一時に八人の言をわきまえた聡敏な人であったこと、『維摩経』や『法華経』の疏を製作中、夢に金人が現れて解答を与えたことなどを記す。この説話は、『上宮皇太子菩薩伝』に夢堂の禅定、『上宮聖徳太子伝補闕記』に大殿の三昧定という形を経て、一〇世紀に成立した編年体の『聖徳太子伝暦』で夢殿にこもって金人より妙義を聴き、また夢殿入定中に唐へ渡り前生所持の法華経を持ち帰るという説話となる。このような説話の発展が示すように、太子は日本における仏教の伝来と流布を象徴する貴種であった。『伝暦』が百済の阿佐王子の敬礼文として「救世大慈、観音菩薩、妙教流通、東方日国、四十九歳、伝灯演説、大慈大悲、敬礼菩薩」を伝えるように、太子は救世観音、また如意輪観音の化身とされ、あるいは聖武天皇に再誕して大仏を造ったともいう。真言宗では、平安時代に弘法大師や聖宝に再誕したという説が生まれ、天台宗では、最澄がすでに太子を聖人としてたたえ、『伝暦』などにみえる『七代記』逸文によれば、太子の前生に天台宗の祖である南岳慧思禅師をあて、こう山で達磨大師とめぐり会いともに日本に転生して仏法を流布しようと誓ったという。すでに『書紀』にみえる、「太子が片岡に遊行した際、飢者に遇って衣食を与え、哀れんで歌を詠む。飢者は死んで葬られ、太子が命じて墓を調べるとその屍は消えていた」という説話は神仙譚的な性格をもち、以降『日本霊異記』『補闕記』などに記され、『伝暦』ではさきの説話と結びつき、慧思は太子、達磨は飢人であるとする。
 一方、『法王帝説』には、太子が蘇我馬子とともに物部守屋と戦ったとき、四天王像を挙げて、守屋を滅ぼせば四天王の寺を造ろうと誓い勝利を得たという、四天王寺創建の縁起が含まれる。この太子と守屋の合戦譚は、『補闕記』『伝暦』『四天王寺御手印縁起』等、四天王寺の縁起を中心に、古代における仏教の勝利を代表するものとなり、やがて中世には寓意と霊験に満ちた合戦物語として太子伝唱導の中心となった。『善光寺縁起』にも、この説話は、物部氏が難波の堀江にはらい捨てた、天笠の月蓋長者の造ったという一光三尊阿弥陀如来像を、本田善光が信濃国まで運んでまつるという、本尊一光三尊阿弥陀如来の将来をめぐる記述のなかに含まれ、太子伝とも重なって絵解きされていた。四天王寺にはすでに奈良時代に聖霊院と絵堂が建立され、当時『障子伝』と呼ばれる絵解きのための伝記が作られたらしい。一二世紀には『台記』に絵解きの消息が知られる。一〇六九年(延久一)には法隆寺東院絵殿に障子絵伝が描かれ、一一二一年(保安二)には西院に聖霊院が造立されたのは四天王寺の影響があろう。
 中世には、橘寺、広隆寺など周辺の太子にかかわる天台寺院、そして、太子創建と伝える京都の六角堂に参籠した親鸞が夢告を受け回心したと伝える(聖徳太子内因曼荼羅)ことを契機とする、親鸞の太子信仰を継承する高田専修寺派を中心とする浄土真宗寺院によって太子伝の絵解き唱導が広く行われ、大量の絵伝と物語化した太子伝記が生みだされた。その典型は、一三二〇年(元応二)ころに四天王寺で製作された『正法輪蔵』で、それは中世に醸成された太子をめぐる豊かな秘事口伝を含む。たとえば太子の乗る黒(烏)駒は、『補闕記』に烏斑の駒に乗り富士や北国に遊行したことを記すが、『伝暦』以降、これを甲斐の黒駒として、最愛の妃かしわで大娘をめとる事跡とともに二七歳の条に記される。『正法輪蔵』ではこれを輪王の七宝中の馬宝と女宝であると解釈し、黒駒に乗る太子は、諸国の霊山を巡行して熊野や伊勢などの神々の本地垂迹ほんじすいじゃくの相を明らかにし問答して結縁する。それは、東北に多い黒駒太子像が示すように山岳宗教と結びついて生まれた伝承だろう。黒駒とともに太子に随行する舎人とねりの調子麿(丸)は、太子没後も墓を守ったというが、一三世紀に法隆寺の顕真がその子孫と称して太子伝の秘事口伝『聖徳太子伝私記』を集成したように、太子伝承を担う存在として意識されていた。その秘事口伝は、『上宮菩薩秘伝』を作った叡尊門下の律僧集団にも伝えられ、また絵解きの展開と深く結びついている。
 その過程で成立した代表的な説話が、膳妃に関するものである。太子行幸の際、三輪川の辺で老母を養うため芹を摘み礼をなさぬ少女を見とがめて問答し、かえってその孝心を賞して住居の陋屋を訪れ婚儀をなす。これは漢籍『蒙求』などの採桑妃説話などを換骨奪胎したものだが、同時に膳妃は勢至菩薩が月輪として降った化人であるという。それは、太子を観音、母后間人妃を阿弥陀とするのに応じ、やがて磯長しながの太子廟(叡福寺)は、三骨一廟としてこの三人を葬り、弥陀三尊をかたどる浄土教の聖地となる。四天王寺も、太子が西門は極楽の東門である(御手印縁起)といい、また日想観も太子が始めたとして浄土教の中心となり、太子と浄土信仰は不可分の関係にある。
 『伝暦』には、太子が周囲の人々と自身の運命や過去の因果、また遷都や寺院建立について、さまざまな予言をすることが述べられる。それは中世に『聖徳太子未来記』という形で盛んに意識された一種の歴史的認識ともかかわり、太子が、神仏ならびに聖界と人間世界との媒介者であることを物語ると思われる。また『伝暦』以降の太子伝は、仏教とともに半島から諸技芸などの移入を太子に結びつけて記すが、中世を経て現代まで、寺院の周辺で活動していた大工や猿楽(能楽)などの諸芸能は太子を開祖とする縁起をもつ。金春禅竹の『明宿集』などはその好例であるが、それは、中世に諸職人や諸道の人々が王権と結びついて活動していたこととかかわるものだろう。
秦河勝、→物部守屋
[阿部 泰郎]
皇太子イカルガの岡本の宮に居住いましし時に、えに有りて宮より出で遊観に幸行す。片岡の村の路の側に〓カタヰ有りて、病を得て臥せり。太子見て、〓ミコシより下りて、倶に語りて問訊ひ、著たる衣を脱ぎ、病人に覆ひて幸行しき。遊観既にはりぬ。〓を返して幸行すに、脱ぎ覆ひし衣、木の枝にかかりて彼の乞〓无し。太子、衣を取りて著る。臣有り、白して曰はく「賤しき人に触れて穢れたる衣、何の乏びにか更に著る」といふ。太子詔りたまはく「佳シ、汝知ら不」とのたまふ。彼の乞〓他処ことどころにして死ぬ。太子聞きて使を遣してもがりし、岡本の村の法林寺の東北うしとらの角に有る守部山に墓を作りて収め、名づけて人木墓と曰ふ。後に使を遣し看しむるに、墓の口開か不して、入れし人无く、唯歌を作り書きて墓の戸に立てたり。歌に曰はく、
鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ
使還りて状を白す。太子聞き嘿然もだありて言は不。
日本霊異記上巻「聖徳皇太子異しき表を示す縁」
(九歳、土師連八嶋が蛍惑星の歌を奏す)太子云。……他国より夷、競来るべし、と仰せらる。果して次年、都に乱入す。(中略)
十六歳御年、……(守屋)朝敵になりて、河内国弓削鞍作と云所にて、城〓を構。其勢、二十万余騎。太子の御勢、二百五十余騎也。太子は、三箇度寄給えども、負て逃て、むくの木、八に割れて、其木の中へ逃かくれ給。仍、神妙〓と賞め給。神妙椋の木とて、今にこれ有。彼辺に寺を建。(中略)
二十七歳御時、甲斐黒駒、出来いできたる。調使丸舎人、異国御舎人として、九月に之に乗給。天皇に暇を申て、三日三夜に、日本国を廻見給。……調使丸をくつわに之を付、虚空を飛て、富士山に到給。浅間大菩薩、本地観音。富士山頂にも地獄池有り。中に太子入給。善光寺如来、地より出給て、太子共に語う。日本国の神々に合い奉て、物語し給しを、雲上記として十二巻、天皇に奏給。又、仏閣建立すべき所々、見知し給。
三輪大明神は、氏神にてわたらせ給えば、御参詣あるに、高橋の下に、芹つむ小女あり。諸人は、太子の御行をみるに、此女は、見奉らず。太子、使を遣わし、御尋有ども、女、答えず、ただ落涙す。太子、自ら立寄給て問給に、多武峯下、かしわでと云所に、化生の人にて、かしわでの里に翁が子と成る女人也。……八月十五夜の月、二に割れて、多武峯音羽山の傍に落。翁、行て見ば、三歳女子、かしわの葉を敷きて御座おわします。翁にいだかれて帰給。十余日養ば、六七歳に成。三ケ年を歴ては、十四五歳に成給て、芹を摘て、父母二人を養給う。二人共に、飢に依て死去せんとす。彼女、悲歎極まりなし。太子の御尋によて、之を申す。
太子の女御は三人。一人は推古天皇御女。一人は蘇我大臣女。一人は今の芹摘の后、是也。其中に、殊に芹つみは太子の御最愛也。(中略)
さて、太子、黒駒に召して、日本国を三日三夜に廻り御覧せられけるに、大峯の善鬼も召出されて、山内の有様ども、御尋ありけり。富士山計こそ、馬の足には触りけれ。其外は、虚空をそ、黒駒、雲に乗て飛行しけり。
堂本家本聖徳太子絵伝詞書
二十九年辛巳春二月に、太子、斑鳩の宮にいまして、妃に命じて沐浴せしめ、太子もまた沐浴したまいて、新しく潔き衣袴をて、妃に謂いて曰く。「吾、今夕こよい遷化すべし。なんじ、共に去るべし。妃、また新潔の衣裳を服たまいて、太子のそいの床に臥したまいぬ。
伝暦巻下
その後、御葬礼の儀式あり。先ず御入棺ありければ、ふたつの屍の軽きこと、只衣のみ。……貴賤群集して市を成し、悲泣する声、野も山も響くばかりなり。……殊に哀れを留めたるは黒駒、御棺を見奉らんと欲して……虚空に二三丈躍り上り、つらつら御棺を見奉りて大地に下り、前足を折りて御陵を拝すること三度、両眼より血の涙を流して……実に悲歎に堪えざる気色にて死す。……
御舎人調使丸、大に愁歎して……独り御廟の前に平臥して起きず。……鬢髪を剪り、飲食を断じて、丹精に祈請して……一心不乱に称名念仏すること七日七夜……往生極楽の本懐を遂ぐ。
醍醐寺本聖徳太子伝
御厩へ取りあげ婆ゝアかけ付る
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):80‐10
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
厩戸の皇子へのこが大キそう
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):蓮‐2
刊行/開き:1788(天明8年)(開き)
御厩の前で出生し、厩戸皇子と称した。第一句、厩の縁で「駈付る」といった。第二句、馬並みかと。
聖徳太子酒呑みと下女思ひ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):79‐1
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
「生得大酒」と聞こえたため。
まづ耳のはやひがもりや気にくはず
編者/評者:編者未詳
出典:『柳多留拾遺』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):5‐8
刊行/開き:1796~97(寛政8~9)(刊)
八耳やつみみの皇子と称されるほどの聡明さが、物部守屋を敵に回す因となった。
達磨の尻に片岡の土が付き
編者/評者:五世川柳(編か)
出典:『新編柳樽』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):36‐月‐8
片岡山に飢者と歌の応答をした説話は、のちにこの乞食が達磨大師であったということに発展、末期の狂句にこの達磨説が多い。
根を掘って聞けば芹摘稀な孝
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):120‐21
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
芹摘の妃。「根を掘って」は深く立ち入っての意。
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検索コンテンツ
1. 厩戸皇子・聖徳太子
日本史年表
。 593年〈推古元 癸丑〉 4・10 厩戸皇子(聖徳太子) を皇太子に立て、摂政とする(紀)。 596年〈推古4 丙辰〉 10・‐ 聖徳太子 、慧慈・葛城臣と ...
2. 聖徳太子画像
日本大百科全書
次期皇位継承者であるが、聖徳太子の場合、天皇家の危機にあたり、国政を担当する任務が与えられており、したがって「摂政(せっしょう)」に比重が置かれていたと解される ...
3. 聖徳太子[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「上宮太子画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写 ©東京大学史料編纂所 ...
4. 聖徳太子
世界大百科事典
遣隋使 聖徳太子伝暦 太子信仰 磯長墓 叡福寺 救世(ぐぜ)観音 上宮皇太子菩薩伝 上宮聖徳太子伝補闕記 善光寺縁起 障子伝 親鸞 正法輪蔵 甲斐の黒駒 黒駒太 ...
5. しょうとく‐たいし[シャウトク‥]【聖徳太子】
日本国語大辞典
【一】用明天皇の第二皇子。母は穴穂部間人王。名は厩戸豊聰耳皇子。聖徳太子は諡名。上宮王ともいう。推古天皇の摂政として蘇我馬子とともに内政・外交に尽力した。六〇三 ...
6. しょうとくたいし【聖徳太子】画像
国史大辞典
位(じゅうにかいのかんい),→太子信仰(たいししんこう) [参考文献]聖徳太子研究会編『聖徳太子論集』、坂本太郎『聖徳太子』(『人物叢書』一七八) (坂本 太郎 ...
7. しょうとくたいし【聖徳太子】
日本人名大辞典
574−622 飛鳥(あすか)時代,用明天皇の皇子。敏達(びだつ)天皇3年生まれ。母は穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女。推古(すいこ)天皇の皇太子,摂政と ...
8. しょうとくたいし【聖徳太子】
日本架空伝承人名事典
(大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。[関 晃]聖徳太子の伝承 『日本書紀』がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は、奈良時代には法隆寺や四天王 ...
9. 聖徳太子[文献目録]
日本人物文献目録
雪ぐ』村上専精『聖徳太子』-『聖徳太子』赤堀又次郎『聖徳太子』境野黄洋『聖徳太子』境野黄洋『聖徳太子 』志田延義『聖徳太子』薗田宗恵『聖徳太子』友松円諦『聖徳太 ...
10. 聖徳太子(著作ID:232973)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいし 近藤清春(こんどうきよはる) 赤本  ...
11. しょうとくたいし【聖徳太子】[標準語索引]
日本方言大辞典
しょうとくたいし:聖徳太子をたたえ、一月四日、材料を持ち寄って料理し、飲食する集まりたいしこー ...
12. 【聖徳太子】しょう (しゃう) とく たいし
新選漢和辞典Web版
用明天皇の第一皇子。推古天皇の摂政となり、十七条憲法の制定、仏教の奨励、法隆寺の建立(こんりゅう)、遣隋(けんずい)使の派遣等、政治・文化の上に大きな功績をあ ...
13. 聖徳太子絵伝
日本大百科全書
聖徳太子一代の伝記を絵画化したもの。誕生から薨去(こうきょ)に至る生涯のさまざまの事跡を描き、あるいは詞書(ことばがき)や色紙(しきし)形などの文字で説明を加え ...
14. 聖徳太子絵伝
世界大百科事典
書銘をもち,これらの作品が聖徳太子七百年忌にあたると考えられていた1322年(元亨2)直後,太子信仰の機運の高まりの中で制作されたことは興味深い。田口 栄一 聖 ...
15. しょうとくたいし‐えでん[シャウトクタイシヱデン]【聖徳太子絵伝】
日本国語大辞典
【一】〔名〕聖徳太子の伝記を絵画化したもの。障子絵、掛絵、絵巻物などの種々の形式をもつ。【二】もと法隆寺東院絵殿障子絵。現二曲屏風五双。綾本着色。延久元年(一〇 ...
16. しょうとくたいしえでん【聖徳太子絵伝】
国史大辞典
を含む。伝説化・神格化が著しい。 [参考文献]田中重久『聖徳太子絵伝と尊像の研究』、奈良国立博物館編『聖徳太子絵伝』、菊竹淳一「聖徳太子絵伝の図像的系譜」(『美 ...
17. しょうとくたいしおよびじしゃぞう【聖徳太子及び侍者像】 : 法隆寺
国史大辞典
聖徳太子及び侍者像(しょうとくたいしおよびじしゃぞう)  聖霊院の本尊。像高は太子像八四・三センチ、侍者像五二・五~六四・〇センチ。『聖徳太子伝私記』によると ...
18. 聖德太子忌(しょうとくたいしき)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 223ページ ...
19. しょうとくたいしぞう【聖徳太子像】
国史大辞典
、太子像として特定はできない。 [参考文献]小倉豊文『聖徳太子聖徳太子信仰』、田中重久『聖徳太子絵伝と尊像の研究』、石田茂作『聖徳太子尊像聚成』 (林 幹弥) ...
20. しょうとくたいしぞう【聖徳太子像】 : 法隆寺
国史大辞典
聖徳太子像(しょうとくたいしぞう)  東院絵殿の相殿に安置される聖徳太子の坐像。像高五七・九センチ。髪を美豆良に結い、闕腋袍をつけ、右手に団扇を執って坐る童子 ...
21. 『聖徳太子伝私記』
日本史年表
1245年〈寛元3 乙巳〉 この頃 法隆寺僧顕真, 『聖徳太子伝私記』 を著す(同書)。  ...
22. 聖徳太子伝私記
世界大百科事典
中世の太子信仰,法隆寺に関する史料として重要。《鵤叢刊》《大日本仏教全書》《聖徳太子全集》所収。飯田 瑞穂 聖徳太子 顕真 ...
23. しょうとくたいしでんしき【聖徳太子伝私記】
国史大辞典
法隆寺の寺誌・聖徳太子伝の秘伝の集大成。上下二帖。別称は『古今目録抄』(諸書に「提波羅惹寺麻訶所生秘決」などと記されている四天王寺の『古今目録抄』と呼ばれるもの ...
24. 聖徳太子伝暦
日本大百科全書
平安時代の聖徳太子伝。通称、伝暦。数多くの聖徳太子伝承・伝記は、すべてここに集大成され、ふたたびここから流布していった。917年(延喜17)に藤原兼輔(かねすけ ...
25. 聖徳太子伝暦
世界大百科事典
聖徳太子の事績を編年体に記した伝記。藤原兼輔が,917年(延喜17)に撰したとみるのが通説であったが,近時これを疑う説もある。2巻。《平氏伝》とも呼ばれる。先行 ...
26. しょうとくたいしでんりゃく【聖徳太子伝暦】
国史大辞典
古写本も多い。『大日本仏教全書』、『続群書類従』伝部、『聖徳太子全集』などに収められる。 [参考文献]聖徳太子奉讃会編『(復原)聖徳太子伝暦』、藤原猶雪『日本仏 ...
27. しょうとくたいしのはか【聖徳太子墓】大阪府:南河内郡/太子町/太子村地図
日本歴史地名大系
内部主体については発掘調査が行われておらず不詳であるが、中・近世には廟内への出入りが許されていたらしい。聖徳太子は推古天皇三〇年二月二二日に没し(法隆寺釈迦三尊 ...
28. しょうとくたいしへいしでんざっかんもん【聖徳太子平氏伝雑勘文】
国史大辞典
えられよう。『大日本仏教全書』所収。 [参考文献]阿部隆一「室町以前成立聖徳太子伝記類書誌」(聖徳太子研究会編『聖徳太子論集』所収) (林 幹弥)  ...
29. しょうとくたいしみらいき【聖徳太子未来記】
国史大辞典
聖徳太子に仮託した予言の書。太子の予言については、『四天王寺御手印縁起』『栄花物語』にみえる。その後、天喜二年(一〇五四)河内国磯長叡福寺の太子の墓の近辺から ...
30. 聖徳太子絵伝
日本史年表
1069年〈延久元(4・13) 己酉〉 2・‐~5・‐ 秦致貞、 「聖徳太子絵伝」 を描く(法隆寺別当次第)。  ...
31. 聖徳太子童形坐像
日本史年表
1069年〈延久元(4・13) 己酉〉 2・5 仏師円快・絵師秦致貞、 聖徳太子童形坐像 を造る(法隆寺所蔵)(同銘文)。  ...
32. 聖徳太子画伝(著作ID:1058066)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしえでん 雲仙斎台谷(うんせんさいたいこく) 摸 絵巻 安永二刊 ...
33. 聖徳太子絵伝記(著作ID:1253276)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしえでんき 近松門左衛門(ちかまつもんざえもん) 浄瑠璃/義太夫 享保二初演 ...
34. 聖徳太子御歌外(著作ID:332105)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしおうたほか  ...
35. 聖徳太子憲法(著作ID:3001216)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしけんぽう 聖徳太子憲法玄恵注 玄恵(げんえ) 法制  ...
36. 聖徳太子憲法并制条(著作ID:3001283)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしけんぽうならびにせいじょう 法制  ...
37. 聖徳太子講式(著作ID:332149)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしこうしき 仏教  ...
38. 聖徳太子御一生記絵抄(著作ID:1058077)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしごいっしょうきえしょう 池田東籬(いけだとうり) 編 雲仙斎台谷(うんせんさいたいこく) 画 伝記 弘化二刊 ...
39. 聖徳太子御記文(著作ID:1253334)
新日本古典籍データベース
しょうとくたいしごきもん 漢文  ...
40. 聖徳太子御旧跡略記(著作ID:4366690)
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しょうとくたいしごきゅうせきりゃっき 伝記  ...
41. 聖徳太子五憲法(著作ID:35030)
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しょうとくたいしごけんぽう 五憲法 憲法本紀 法制  ...
42. 聖徳太子五十八ケ条制禁(著作ID:3001385)
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しょうとくたいしごじゅうはっかじょうせいきん 法制  ...
43. 聖徳太子御伝記(著作ID:1253367)
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しょうとくたいしごでんき 浄瑠璃  ...
44. 聖徳太子御廟窟磯長叡福寺之事実/附文徳陵其他四陵記(著作ID:4407434)
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しょうとくたいしごびょうくつしながえいふくじのじじつ/つけたりもんとくりょうそのたしりょうき 陵墓  ...
45. 聖徳太子三説之事(著作ID:4369409)
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しょうとくたいしさんせつのこと  ...
46. 聖徳太子讃歎式(著作ID:3001432)
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しょうとくたいしさんだんしき 仏教  ...
47. 聖徳太子出生事(著作ID:4392440)
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しょうとくたいししゅっせいのこと  ...
48. 聖徳太子勝鬘経御講讃縁起(著作ID:4357660)
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しょうとくたいししょうまんぎょうごこうさんえんぎ 真鏡(しんきょう) 真宗  ...
49. 聖徳太子職人鑑(著作ID:1253403)
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しょうとくたいししょくにんかがみ 並木正三一世(なみきしょうざ1せい) 文鐘軒(ぶんしょうけん) 吉川盛紅(よしかわせいこう) 浄瑠璃/義太夫 宝暦八初演 ...
50. 聖徳太子神軍秘伝(著作ID:4340072)
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しょうとくたいししんぐんひでん 兵法  ...
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真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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空海(新版 日本架空伝承人名事典)
774‐835(宝亀5‐承和2)弘法大師、俗に「お大師さん」と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが、後に不空三蔵(七〇五‐七七四)の生れかわりとする信仰から
最澄(新版 日本架空伝承人名事典)
767‐822(神護景雲1‐弘仁13)伝教大師。平安初期の僧侶。天台宗の開祖。三津首百枝の子という。幼名は広野。俗姓は三津氏で、帰化人の子といわれる。近江国滋賀郡古市郷(現、滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表の弟子となり
坂上田村麻呂(新版 日本架空伝承人名事典)
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきょ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も
道鏡(新版 日本架空伝承人名事典)
?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える。後者は『続日本紀』
鑑真(新版 日本架空伝承人名事典)
688‐763 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動、「江淮(こうわい)化主」と尊敬され
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