飛鳥(あすか)時代の政治家、また宗教的思想家。厩戸(うまやど)皇子、豊聡耳(とよとみみ)、上宮(かみつみや)王ともいう。父は橘豊日(たちばなのとよひ)皇子(用明(ようめい)天皇)。母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が、池辺雙槻宮(いけのへのなみつきのみや)の庭を歩いているとき、厩戸の前で皇子を出生したので「厩戸」の名がつけられたという。明治時代の歴史学者久米邦武(くめくにたけ)は、キリストの生誕に類似することに注目し、唐の都長安(ちょうあん)に流行していたキリスト教の一派景教(けいきょう)(ネストリウス派)の知識を天智(てんじ)・天武(てんむ)天皇のころ大唐学問僧が日本に持ち帰り、太子の誕生説話に付会したのであろうと推定した。「豊聡耳」の名は、太子が聡明(そうめい)で訴訟裁定に優れた能力をもつことにちなみ、「上宮」の名は、その宮が父用明天皇の宮の南、上宮の地にあったことによる。なお「聖徳」の名は、もっともポピュラーであるが、仏法を興隆した太子賛仰の意味を込めて、太子の死後用いられたもので、法起寺(ほっきじ)塔の露盤(ろばん)銘に「上宮太子聖徳皇」とあるのが初見である(706年造営)。
593年(推古天皇1)に、聖徳太子は推古(すいこ)女帝の皇太子となった。大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、さらに崇峻(すしゅん)天皇を殺して、権力を振るっていた。皇太子は通例、次期皇位継承者であるが、聖徳太子の場合、天皇家の危機にあたり、国政を担当する任務が与えられており、したがって「摂政(せっしょう)」に比重が置かれていたと解される。聖徳太子は政治をゆだねられて執政の座につき、一方推古天皇は、不執政の座に上った。「天皇」の称号が、これまでの「大王(おおきみ)」にかわって用いられるのは、推古朝のころとされているが、自らは動かず、しかも天界のもろもろの星の中心に位置する北極星をさす「天皇」の称号は、不執政の座を表すのに適切であったと考えられる。
2017年8月21日
蘇我馬子の建立にかかる飛鳥の法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)は、596年に完成し、高句麗(こうくり)僧の慧慈(えじ)(?―623)、百済(くだら)僧の慧聡(生没年不詳)をはじめ、多くの僧が入った。仏法興隆について、聖徳太子と馬子とは協力することができた。こうして太子は大和(やまと)の斑鳩(いかるが)に法隆寺を建てるが、蘇我氏の建てた法興寺と、「仏法興隆」の文字を分かち合っていたことが注意される。
太子には3人の側近があった。高句麗の慧慈、百済系と思われる覚哿(かくか)(生没年不詳)、それに新羅(しらぎ)系渡来氏族である秦河勝(はたのかわかつ)であった。慧慈は仏教の、また覚哿は儒学の師であったが、秦河勝を含め3人の側近は、東アジアの国際情勢について太子に説明することができたであろう。高句麗、百済、新羅の朝鮮半島の三国は互いに争っていたが、聖徳太子の側近としてこの3人はバランスがとれていた。
執政の座にある聖徳太子にとって、蘇我馬子との関係には少なからぬ困難があった。601年に斑鳩に宮をつくり、ついで磐余(いわれ)の上宮から斑鳩に移ったのは、馬子の本拠である飛鳥から離れ、しかも難波(なにわ)(大阪)に通ずる新しい拠点を確保することにより、独自の外交、内政を展開するためであったと考えられる。
589年(崇峻天皇2)に隋(ずい)は中国大陸を統一したが、太子は、600年、607年、608年、614年の4回、隋に使者を送った。使者の任務は、辞を卑(ひく)くして中国の皇帝から政治支配権の確認を求めた5世紀の倭(わ)の五王とは異なり、文物、文化の移植にあった。したがって長期留学の学生、学問僧も同行したが、大陸文化の本格的な移植はこれらの留学生に負うところが多かった。
603年に冠位十二階が制定された。家柄によって身分が決まる氏姓制度にかわり、個人の力量、才能によって地位を決める冠位十二階制は、昇進も可能であり、後の官人の位階制の始まりとなった。冠位十二階の施行に続いて憲法十七条を制定した。冠位十二階が、天皇制の下での官人貴族の序列化であるとすれば、憲法十七条は、官人貴族の服務規律であり、道徳規範であった。
聖徳太子が目ざしたところは、天皇を中心とする中央集権国家体制の確立であった。推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである。それだけに太子と馬子との対立は不可避であった。
2017年8月21日
太子の父用明天皇は、仏教帰依(きえ)を表明した最初の天皇であったが、その願望は実現しなかった。用明天皇の仏教受容は、病気の平癒を期待したのであり、いわば現世利益(げんぜりやく)を仏教に求めたのであるが、太子の仏教受容には、現世利益を求める傾向も、鎮護国家を求める呪術(じゅじゅつ)的要素もなく、仏教を人間の個人の内面的・精神的なものとの関連において理解しようとするものであった。太子の仏教理解を示すものに憲法十七条があり、太子のことばとして伝えられる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に載せられた「世間虚仮(せけんはこけなるも)、唯仏是真(ただほとけのみこれまことなり)」と、舒明(じょめい)即位前紀に記された「諸悪莫作(もろもろのあしきことをばなせそ)、諸善奉行(もろもろのよきわざをおこなへ)」とがある。また推古天皇のために経典を講義したときにできたという法華(ほけ)、維摩(ゆいま)、勝鬘(しょうまん)の『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があるが、この『三経義疏』については、太子の著作であるか否か、また太子の著作であるとして、どの部分が太子の独自の解釈であるかは、なお検討を必要とする。
2017年8月21日
622年(推古天皇30)2月22日に、聖徳太子は斑鳩宮で亡くなった(紀は前年2月5日没)。49歳であった。遺体は河内(かわち)の磯長(しなが)の墓地に葬られた。墓は大阪府南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ)境内に現存する。太子を思慕する人々により聖徳太子信仰が形づくられるが、半跏思惟(はんかしい)像が亡き太子のイメージを表した。釈迦(しゃか)の前身である悉達(しった)太子の像であった半跏思惟像は、聖徳太子像と重なった。そして8世紀には、太子は「日本の釈迦」と仰がれることとなる。鎌倉時代およびそれ以前に成立した太子の伝記・絵伝は、現存のものだけでも20種を超える。それらは、時代を下るにしたがって内容を豊富にし、伝記としての体裁を整えるが、統一的完結的なまとまりをもつ最初の伝記である藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)の『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』において、その太子像は荒唐無稽(こうとうむけい)な異聞奇瑞(きずい)で満たされている。
2017年8月21日
6世紀末~7世紀前半の政治家,仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は《上宮聖徳法王帝説》に甲午年(574)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子といい,のちに上宮聖王,聖徳王,法大王(のりのおおきみ),法主王などとも呼ばれた。聖徳太子の称は《懐風藻》の序文(751)が初見。初め上宮(うえのみや)に住み,後に斑鳩宮(いかるがのみや)(いまの法隆寺東院の地)に移ったというが,14,15歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち,そのとき四天王に祈念して勝利を得たので,のちに難波に四天王寺を建立したという。《日本書紀》によれば,592年(崇峻5)11月に馬子が崇峻天皇を殺すと,翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し,翌年(推古1)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させたというが,この時期はまだ大兄(おおえ)の制が行われており,単一の皇位継承予定者である中国的な皇太子の制がすでに存在したかどうかは疑わしく,《日本書紀》以前に太子のことを太子と記した確かな史料もほとんどない。また太子の執政をもって積極的な皇権回復策とする見方もあるが,推古天皇の即位は崇峻天皇の暗殺という異常な事態の下で行われたことであり,女帝即位の初例であったためとみるのが妥当である。この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。
しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。みずから十七条憲法の文章を作ってその第2条に〈篤く三宝を敬え〉と述べ,仏典を講説して法華・維摩・勝鬘3経のいわゆる《三経義疏(ぎしよ)》を著したと伝えられ,また四天王・法隆・中宮・橘・広隆・法起・妙安の7寺を興したと伝えられるなど,当時の仏教文化の興隆に大きな役割を果たしたことを物語る所伝が少なくない。ただしそのためか,太子は聖(ひじり)であったとか,中国南岳の慧思禅師の後身であるとか述べて,超人間的存在であったごとく説くことが,主として仏家の間に早くから生じた。太子の伝記は《書紀》に劣らず古いとされる《上宮記》《上宮聖徳法王帝説》などから始まって,数多く作られた。917年(延喜17)成立の《聖徳太子伝暦》に至って,太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく,以後平安時代から鎌倉時代にかけて,太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,膳加多夫古(かしわでのかたぶこ)の女の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ),蘇我馬子の女の刀自古郎女(とじこのいらつめ),尾治(おわり)王の女の猪名部橘(いなべのたちばな)女王などを妃として,山背大兄(やましろのおおえ)王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが,622年2月22日に斑鳩宮で病死し,河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。
《日本書紀》がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は,奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。法隆寺では天平年間(729-749)に行信によって上宮王院(東院)が創建され,太子をかたどった観音像(救世(ぐぜ)観音)が八角円堂(夢殿)に安置された。当時の太子伝承は《上宮聖徳法王帝説》に記され,太子が一時に8人の言をわきまえた聡敏な人であったこと,《維摩経》や《法華経》の疏を製作中,夢に金人が現れて解答を与えたことなどを記す。この説話は,《上宮皇太子菩薩伝》に夢堂の禅定,《上宮聖徳太子伝補闕記》に大殿の三昧定という形を経て,10世紀に成立した編年体の《聖徳太子伝暦》で夢殿にこもって金人より妙義を聴き,また夢殿入定中に唐へ渡り前生所持の法華経を持ち帰るという説話となる。このような説話の発展が示すように,太子は日本における仏教の伝来と流布を象徴する貴種であった。《伝暦》が百済の阿佐王子の敬礼文として〈救世大慈,観音菩薩,妙教流通,東方日国,四十九歳,伝灯演説,大慈大悲,敬礼菩薩〉を伝えるように,太子は救世観音,また如意輪観音の化身とされ,あるいは聖武天皇に再誕して大仏を造ったともいう。真言宗では,平安時代に弘法大師や聖宝に再誕したという説が生まれ,天台宗では,最澄がすでに太子を聖人としてたたえ,《伝暦》などにみえる《七代記》逸文によれば,太子の前生に天台宗の祖である南岳慧思禅師をあて,衡(こう)山で達磨大師とめぐり会いともに日本に転生して仏法を流布しようと誓ったという。すでに《書紀》にみえる,〈太子が片岡に遊行した際,飢者に遇って衣食を与え,哀れんで歌を詠む。飢者は死んで葬られ,太子が命じて墓を調べるとその屍は消えていた〉という説話は神仙譚的な性格をもち,以降《日本霊異記》《補闕記》などに記され,《伝暦》ではさきの説話と結びつき,慧思は太子,達磨は飢人であるとする。
一方,《法王帝説》には,太子が蘇我馬子とともに物部守屋と戦ったとき,四天王像を挙げて,守屋を滅ぼせば四天王の寺を造ろうと誓い勝利を得たという,四天王寺創建の縁起が含まれる。この太子と守屋の合戦譚は,《補闕記》《伝暦》《四天王寺御手印縁起》等,四天王寺の縁起を中心に,古代における仏教の勝利を代表するものとなり,やがて中世には寓意と霊験に満ちた合戦物語として太子伝唱導の中心となった。《善光寺縁起》にも,この説話は,物部氏が難波の堀江に攘(はら)い捨てた,天笠の月蓋長者の造ったという一光三尊阿弥陀如来像を,本田善光が信濃国まで運んでまつるという,本尊一光三尊阿弥陀如来の将来をめぐる記述のなかに含まれ,太子伝とも重なって絵解きされていた。四天王寺にはすでに奈良時代に聖霊院と絵堂が建立され,当時《障子伝》と呼ばれる絵解きのための伝記が作られたらしい。12世紀には《台記》に絵解きの消息が知られる。1069年(延久1)には法隆寺東院絵殿に障子絵伝が描かれ,1121年(保安2)には西院に聖霊院が造立されたのは四天王寺の影響があろう。
中世には,橘寺,広隆寺など周辺の太子にかかわる天台寺院,そして,太子創建と伝える京都の六角堂に参籠した親鸞が夢告を受け回心したと伝える(聖徳太子内因曼荼羅)ことを契機とする,親鸞の太子信仰を継承する高田専修寺派を中心とする浄土真宗寺院によって太子伝の絵解き唱導が広く行われ,大量の絵伝と物語化した太子伝記が生みだされた。その典型は,1320年(元応2)ころに四天王寺で製作された《正法輪蔵》で,それは中世に醸成された太子をめぐる豊かな秘事口伝を含む。たとえば太子の乗る黒(烏)駒は,《補闕記》に烏斑の駒に乗り富士や北国に遊行したことを記すが,《伝暦》以降,これを甲斐の黒駒として,最愛の妃膳(かしわで)大娘をめとる事跡とともに27歳の条に記される。《正法輪蔵》ではこれを輪王の七宝中の馬宝と女宝であると解釈し,黒駒に乗る太子は,諸国の霊山を巡行して熊野や伊勢などの神々の本地垂迹(ほんじすいじやく)の相を明らかにし問答して結縁する。それは,東北に多い黒駒太子像が示すように山岳宗教と結びついて生まれた伝承だろう。黒駒とともに太子に随行する舎人(とねり)の調子麿(丸)は,太子没後も墓を守ったというが,13世紀に法隆寺の顕真がその子孫と称して太子伝の秘事口伝《聖徳太子伝私記》を集成したように,太子伝承を担う存在として意識されていた。その秘事口伝は,《上宮菩薩秘伝》を作った叡尊門下の律僧集団にも伝えられ,また絵解きの展開と深く結びついている。
その過程で成立した代表的な説話が,膳妃に関するものである。太子行幸の際,三輪川の辺で老母を養うため芹を摘み礼をなさぬ少女を見とがめて問答し,かえってその孝心を賞して住居の陋屋を訪れ婚儀をなす。これは漢籍《蒙求》などの採桑妃説話などを換骨奪胎したものだが,同時に膳妃は勢至菩薩が月輪として降った化人であるという。それは,太子を観音,母后間人妃を阿弥陀とするのに応じ,やがて磯長(しなが)の太子廟(叡福寺)は,三骨一廟としてこの3人を葬り,弥陀三尊をかたどる浄土教の聖地となる。四天王寺も,太子が西門は極楽の東門である(御手印縁起)といい,また日想観も太子が始めたとして浄土教の中心となり,太子と浄土信仰は不可分の関係にある。
《伝暦》には,太子が周囲の人々と自身の運命や過去の因果,また遷都や寺院建立について,さまざまな予言をすることが述べられる。それは中世に《聖徳太子未来記》という形で盛んに意識された一種の歴史的認識ともかかわり,太子が,神仏ならびに聖界と人間世界との媒介者であることを物語ると思われる。また《伝暦》以降の太子伝は,仏教とともに半島から諸技芸などの移入を太子に結びつけて記すが,中世を経て現代まで,寺院の周辺で活動していた大工や猿楽(能楽)などの諸芸能は太子を開祖とする縁起をもつ。金春禅竹の《明宿集》などはその好例であるが,それは,中世に諸職人や諸道の人々が王権と結びついて活動していたこととかかわるものだろう。
→太子信仰
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