7世紀の政治家。藤原氏の祖。中大兄(なかのおおえ)皇子(天智(てんじ)天皇)の側近として、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)を打倒。内臣(うちつおみ)となって大化改新を主導し、以後その死まで政界の重鎮として律令(りつりょう)国家体制の基礎を築いた。本姓は中臣連(なかとみのむらじ)。推古(すいこ)・舒明(じょめい)朝の前事(ぜんじ)奏官(大夫(まえつきみ))兼祭官であった小徳冠(しょうとくかん)中臣連御食子(みけこ)の長子で、母は大徳冠大伴囓(おおとものくい)の女(むすめ)の大伴夫人。名を鎌子にもつくり、字(あざな)を仲郎という。定恵(じょうえ)、不比等(ふひと)、氷上娘(ひかみのいらつめ)(天武(てんむ)天皇夫人)、五百重娘(いおえのいらつめ)(天武天皇夫人)らの父にあたる。鎌足の伝記の『大織冠(たいしょくかん)伝』(『藤氏(とうし)家伝』上、藤原仲麻呂撰(なかまろせん))によれば、614年(推古天皇22)に大倭(やまと)国(奈良県)高市(たけち)郡藤原の第(だい)(邸宅)に生まれたとあるが、後世の『大鏡』のように出生地を常陸(ひたち)国(茨城県)鹿島(かしま)の地とする説もある。『大織冠伝』に、舒明朝の初め、良家の子を簡(えら)び錦冠(きんかん)を授け宗業を嗣(つ)がしめたが、鎌足だけは固辞して三島(みしま)(摂津(せっつ)国)の別業(なりどころ)(別邸)へ退いたとあり、『日本書紀』はこれを644年(皇極天皇3)のこととする。兵法書の『六韜(りくとう)』を暗記し、僧旻(みん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の門に周易や儒教を学んだ。蘇我氏専制体制打倒の意志を固め、まず軽(かる)皇子(孝徳(こうとく)天皇)に接近、ついで中大兄皇子の知遇を得た。ただその間の経緯について『書紀』や『大織冠伝』の伝える話には誇張や潤色がみられ、かならずしも信用できない。
644年、蘇我一族内部の対立に乗じて蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を味方に引き入れ、翌年謀略をめぐらし飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)内において入鹿を暗殺、大臣(おおおみ)蝦夷を自邸に誅(ちゅう)した。このクーデター成功の功労者を上記2書はいずれも鎌足とするが、政界での地位を考慮すると鎌足よりもむしろ石川麻呂の役割を重視すべきであろう。大化の新政府では内臣に任じたが、「内臣」は寵幸(ちょうこう)の臣、帷幄(いあく)の臣を意味する語で、正式の官職ではない。鎌足は改新推進派の皇太子中大兄皇子のブレーンとして守旧派の左・右大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、蘇我石川麻呂と対立する立場にあり、この間の動向は不明であるが、645年(大化1)の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子、649年の蘇我石川麻呂の謀殺にも荷担していたと推測される。647年の新冠位制により大錦冠(だいきんかん)を授与されたとみられ、654年(白雉5)には大臣の位である紫冠を授かり、さらに大紫冠(だいしかん)に昇進した。651年に没した右大臣大伴長徳(おおとものながとこ)の後を襲ったものか。『大織冠伝』に、このとき増封され、前後1万5000戸の封戸を賜ったとある。664年(天智天皇3)百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅうじんがん)の使者郭務悰(かくむそう)のもとに沙門智祥(しゃもんちじょう)を派遣し物を賜り、668年には新羅(しらぎ)使金東厳(きんとうごん)に付して新羅の上臣金庾信(きんゆしん)に船一隻を賜るなど、白村江(はくそんこう)敗戦後の対唐・新羅和平策を進めた。
さらに『大織冠伝』によれば、668年、礼儀を撰述し、律令を刊定したとあり、近江(おうみ)令の編纂(へんさん)に携わったことを伝えており、同年正月の酒宴の席において天皇の怒りに触れた大海人(おおあま)皇子(天武天皇)を弁護し、その信任を得たという。669年(天智天皇8)10月16日、淡海(おうみ)の第に薨(こう)じたが、死に際して大織冠内大臣の位と藤原朝臣(あそん)姓を賜った。鎌足は仏教への信仰厚く、長子定恵を出家させたほか、657年(斉明天皇3)に維摩会(ゆいまえ)を開き、また白鳳(はくほう)(白雉(はくち))期以来、元興(がんごう)寺の『摂大乗(しょうだいじょう)論』講説の資とするため、家財を割いてこれを援助している。大阪府高槻(たかつき)市の阿武山(あぶやま)古墳はその墓とされる。
大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連(なかとみのむらじ)鎌足。父は弥気(みけ)(御食子(みけこ),御食足(みけたり)とも)といい,推古・舒明朝に仕えた神官で,地位は大臣(おおおみ),大連(おおむらじ)に次ぐ大夫(まえつぎみ)。母もやはり大夫の大伴連囓(おおとものむらじくい)(咋子(くいこ)とも)の娘で智仙娘(ちせんじよう)/(ちいさこ)といい,大連の大伴金村(かなむら)の孫。生まれたのは推古天皇の朝廷のあった小墾田(おはりだ)宮に近い藤原。《大鏡》に常陸の生れとするのは後世の伝説。はじめ鎌子,後に鎌足と改めたというのも後世の解釈で,本名は鎌であり,子や足は敬称にあたる語尾。幼名は仲郎とも伝えられるから,早世した兄がいたのであろう。早くから儒教の古典や兵法に親しみ,青年時代には《日本書紀》によれば南淵請安(みなぶちのしようあん),《大織冠伝(たいしよくかんでん)》によれば僧旻(みん)ら,唐からの帰国者について学び,官途にはつかなかった。飛鳥寺の蹴鞠の会で脱げた皮鞋(かわぐつ)を捧げ,中大兄(なかのおおえ)(後の天智天皇)と親しくなった逸話は有名。その中大兄を中心にして蘇我大臣家の打倒を計画し,645年(大化1),これに成功して孝徳天皇のもとに皇太子中大兄を首班とする新政権を樹立,国政の改革に着手した(乙巳(いつし)の変)。この政変に際して,蘇我一族を分裂させるために蘇我同族の石川麻呂(いしかわのまろ)の娘を中大兄に嫁がせたり,蘇我入鹿(いるか)を油断させて暗殺したり,叔父の孝徳を天皇に推戴しながら実権は甥の中大兄に掌握させておくなどは,みな鎌足の立案によるといわれ,そののち鎌足の子孫が平安時代にかけて政権を掌握してゆく過程でも,皇室との婚姻政策をはじめとするこのような策略は繰り返し用いられている。新政権内部でも鎌足は内臣として中大兄の側近となり,冠位は改新後に大錦(後の正四位相当),孝徳朝末年に大紫(正三位相当)を授けられ,そのたびに巨額の封戸(ふこ)や功田(こうでん)を賜って,後の藤原氏の世襲財産の基礎をつくった。次の斉明・天智朝でも引き続き政権内部にあって補佐し,中大兄と弟の大海人(おおあま)(後の天武天皇)とが不和になると,その仲裁に努めたという。また《大織冠伝》によれば〈律令の刊定〉を命じられて668年(天智7)ころに〈旧章を損益し,略(ほぼ)条例を為〉したといい,後世これを近江令(おうみりよう)と呼んでいるが,実際には完成しなかったようである。翌669年10月,近江の大津京の邸で病が重くなり,その15日には大織冠(後の正一位相当)・内大臣,そして藤原という氏を賜ったが,翌16日に没した。平生から仏教に心を寄せていたので,嫡妻の鏡女王(かがみのおおきみ)は大津京の南西の山科(やましな)にあった別邸を寺とし,翌670年閏9月の本葬もこの山階寺(やましなでら)(興福寺の前身)で行われた。
また,2人の息子のうちで長男の貞慧(じようえ)(定恵とも。643-665)は僧とし,11歳で唐に留学させたが,帰国後まもなく病死。次男が不比等(ふひと)である。鎌足の生前か没後か不明だが,娘のうちでは氷上(ひかみ),五百重(いおえ)の2人が天武天皇に嫁し,それぞれ但馬(たじま)皇女,新田部皇子を生んでいる。なお《万葉集》は2首,《歌経標式(かきようひようしき)》は1首の,鎌足作という歌を収めている。
藤原鎌足は,その官職名をとって大織冠(たいしよくかん)/(たいしよかん)の名で親しまれているが,多武峰(とうのみね)の聖霊院(現在の談山(たんざん)神社)にまつられている。《談峯記》によると,定恵和尚が阿威山から談峯(多武峰)へ改葬して,墓上に十三重塔を建て,その東に御殿を造り,父鎌足の霊像を安んじたのが聖霊院の始まりとされる。後に聖霊院が改造され,妙楽寺と称されたが,この寺は藤原氏の祖神として,鎌足の聖霊をまつる聖地となり,中世まで事があるとその墓が鳴動し,尊像が破裂すると信じられた。また興福寺中金堂の本尊は,鎌足が蘇我入鹿誅伐のために発願したと伝える(《興福寺濫觴記》)。興福寺,春日社では,本来,鎌足夫人の鏡女王が夫の病気平癒のために発願した維摩会(ゆいまえ)が,鎌足をまつる法会となり,この維摩会に用いられる大織冠画像供養の講式《三国伝灯記》(覚憲著,1174成)では,鎌足が維摩居士の化現,垂迹であると説かれている。このようにして,鎌足の伝説が徐々に形成されてくるが,《聖徳太子伝暦》でもその末尾に鎌足らの入鹿誅伐が記されているところから,中世の聖徳太子伝の展開にしたがって,鎌足伝説もまた展開してゆく。《正法輪蔵》(文保年間(1317-19)までに成立)では,まず春日社縁起とともに鎌足が常陸国で誕生したとする。これは古く《大鏡》などにも見られる説であるが,鎌足と鹿島明神とのつながりを示そうとしたものらしい。その誕生の際に白狐(荼吉尼(だきに)天)が鎌を与えたので鎌足と称し,王の摂政となったという説話が加えられる。これは,中世神道説のなかの東寺即位法に含まれる説話《天照大神口決》(1328)で,やがて呪詞などをあわせて中世春日社の縁起《春夜神記》(1437以前成立)のなかにも記された。そこでは鎌足がいやしい土民(都よりの流人)の子で内裏の塵取男として京上りしたとも伝える。また《正法輪蔵》では,入鹿が中大兄皇子を位につけぬように,法興寺の蹴鞠の庭で,皇子の沓が脱げて地に足がつくようにはかったとき,鎌足が右手で足を受け,それにより出世したという。そして,皇子と鎌足らが入鹿を討つためひそかに談じ合ったのが多武峰であったという。さらに,《伝暦》などに記される,鎌足の提案として行われた蘇我山田石川麻呂の娘と皇子との婚姻は,《正法輪蔵》では入鹿の娘と皇子とのことになり,また,疑い深い入鹿の心を解くため,鎌足は3年の間盲目を装ったという。これらは,室町時代の《旅宿問答》では鎌足自身が入鹿へ婿入りしたことになり,さらに偽盲目となってみずからの子を火中に落として入鹿を信用させる形に展開する。また《神道相伝聞書》では,まず盲目を天下に披露して,鎌足が入鹿を婿にとり,孫を火に落とすという形になり,やがて幸若舞《入鹿》の物語を生みだした。また鎌足の名が狐より与えられた鎌に由来するという理解は,その鎌で入鹿の首を打ち落としたという,中世太子伝以来の説と首尾呼応している。なお,興福寺中金堂の本尊にこめられた面向不背の珠をめぐって,志度寺の縁起ととりあわせて脚色されたのが幸若舞の《大織冠(たいしよかん)》である。
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