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藤原鎌足

ジャパンナレッジで閲覧できる『藤原鎌足』の新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
藤原鎌足
ふじわらのかまたり
614‐669(推古22‐天智8)
大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連なかとみのむらじ鎌足。父は弥気みけ御食子みけこ御食足みけたりとも)といい、推古・舒明朝に仕えた神官で、地位は大臣おおおみ大連おおむらじに次ぐ大夫まえつぎみ。母もやはり大夫の大伴連囓おおとものむらじくい咋子くいことも)の娘で智仙娘ちせんじょう/ちいさこといい、大連の大伴金村かなむらの孫。生まれたのは推古天皇の朝廷のあった小墾田おはりだ宮に近い藤原。『大鏡』に常陸の生れとするのは後世の伝説。はじめ鎌子、後に鎌足と改めたというのも後世の解釈で、本名は鎌であり、子や足は敬称にあたる語尾。幼名は仲郎とも伝えられるから、早世した兄がいたのであろう。
早くから儒教の古典や兵法に親しみ、青年時代には『日本書紀』によれば南淵請安みなぶちのしょうあん、『大織冠伝たいしょくかんでん』によれば僧みんら、唐からの帰国者について学び、官途にはつかなかった。飛鳥寺の蹴鞠の会で脱げた皮鞋かわぐつを捧げ、中大兄なかのおおえ(後の天智天皇)と親しくなった逸話は有名。その中大兄を中心にして蘇我大臣家の打倒を計画し、六四五年(大化一)、これに成功して孝徳天皇のもとに皇太子中大兄を首班とする新政権を樹立、国政の改革に着手した(乙巳いつしの変)。この政変に際して、蘇我一族を分裂させるために蘇我同族の石川麻呂いしかわのまろの娘を中大兄に嫁がせたり、蘇我入鹿いるかを油断させて暗殺したり、叔父の孝徳を天皇に推戴しながら実権は甥の中大兄に掌握させておくなどは、みな鎌足の立案によるといわれ、そののち鎌足の子孫が平安時代にかけて政権を掌握してゆく過程でも、皇室との婚姻政策をはじめとするこのような策略は繰り返し用いられている。新政権内部でも鎌足は内臣として中大兄の側近となり、冠位は改新後に大錦(後の正四位相当)、孝徳朝末年に大紫(正三位相当)を授けられ、そのたびに巨額の封戸ふこ功田こうでんを賜って、後の藤原氏の世襲財産の基礎をつくった。次の斉明・天智朝でも引き続き政権内部にあって補佐し、中大兄と弟の大海人おおあま(後の天武天皇)とが不和になると、その仲裁に努めたという。また『大織冠伝』によれば「律令の刊定」を命じられて六六八年(天智七)ころに「旧章を損益し、ほぼ条例を為」したといい、後世これを近江令おうみりょうと呼んでいるが、実際には完成しなかったようである。翌六六九年一〇月、近江の大津京の邸で病が重くなり、その一五日には大織冠(後の正一位相当)・内大臣、そして藤原という氏を賜ったが、翌一六日に没した。平生から仏教に心を寄せていたので、嫡妻の鏡女王かがみのおおきみは大津京の南西の山科やましなにあった別邸を寺とし、翌六七〇年閏九月の本葬もこの山階寺やましなでら(興福寺の前身)で行われた。また、二人の息子のうちで長男の貞慧じょうえ(定恵とも。六四三‐六六五)は僧とし、一一歳で唐に留学させたが、帰国後まもなく病死。次男が不比等ふひとである。鎌足の生前か没後か不明だが、娘のうちでは氷上ひかみ五百重いおえの二人が天武天皇に嫁し、それぞれ但馬たじま皇女、新田部皇子を生んでいる。なお『万葉集』は二首、『歌経標式かきょうひょうしき』は一首の、鎌足作という歌を収めている。
[青木 和夫]
伝承
藤原鎌足は、その官職名をとって大織冠たいしょくかん/たいしょかんの名で親しまれているが、多武峰とうのみねの聖霊院(現在の談山たんざん神社)にまつられている。『談峯記』によると、定恵和尚が阿威山から談峯(多武峰)へ改葬して、墓上に十三重塔を建て、その東に御殿を造り、父鎌足の霊像を安んじたのが聖霊院の始まりとされる。後に聖霊院が改造され、妙楽寺と称されたが、この寺は藤原氏の祖神として、鎌足の聖霊をまつる聖地となり、中世まで事があるとその墓が鳴動し、尊像が破裂すると信じられた。また興福寺中金堂の本尊は、鎌足が蘇我入鹿誅伐のために発願したと伝える(『興福寺濫觴記』)。興福寺、春日社では、本来、鎌足夫人の鏡女王が夫の病気平癒のために発願した維摩会ゆいまえが、鎌足をまつる法会となり、この維摩会に用いられる大織冠画像供養の講式『三国伝灯記』(覚憲著、一一七四成)では、鎌足が維摩居士の化現、垂迹であると説かれている。このようにして、鎌足の伝説が徐々に形成されてくるが、『聖徳太子伝暦』でもその末尾に鎌足らの入鹿誅伐が記されているところから、中世の聖徳太子伝の展開にしたがって、鎌足伝説もまた展開してゆく。『正法輪蔵』(文保年間(一三一七‐一九)までに成立)では、まず、春日社縁起とともに鎌足が常陸国で誕生したとする。これは古く『大鏡』などにも見られる説であるが、鎌足と鹿島明神とのつながりを示そうとしたものらしい。その誕生の際に白狐(荼枳尼だきに天)が鎌を与えたので鎌足と称し、王の摂政となったという説話が加えられる。これは、中世神道説のなかの東寺即位法に含まれる説話『天照大神口決』(一三二八)で、やがて呪詞などをあわせて中世春日社の縁起『春夜神記』(一四三七以前成立)のなかにも記された。そこでは鎌足がいやしい土民(都よりの流人)の子で内裏の塵取男として京上りしたとも伝える。また『正法輪蔵』では、入鹿が中大兄皇子を位につけぬように、法興寺の蹴鞠の庭で、皇子の沓が脱げて地に足をつけようとはかったとき、鎌足が右手で足を受け、それより出世したという。そして、皇子と鎌足らが入鹿を討つためひそかに談じ合ったのが多武峰であったという。さらに、『伝暦』などに記される、鎌足の提案として行われた蘇我山田石川麻呂の娘と皇子との婚姻は、『正法輪蔵』では入鹿の娘と皇子とのことになり、また、疑い深い入鹿の心を解くため、鎌足は三年の間盲目を装ったという。これらは、室町時代の『旅宿問答』では鎌足自身が入鹿へ婿入りしたことになり、さらに偽盲目となってみずからの子を火中に落として入鹿を信用させる形に展開する。また『神道相伝聞書』では、まず盲目を天下に披露して、鎌足が入鹿を婿にとり、孫を火に落とすという形になり、やがて幸若舞『入鹿』の物語を生みだした。また鎌足の名が狐より与えられた鎌に由来するという理解は、その鎌で入鹿の首を打ち落としたという、中世太子伝以来の説と首尾呼応する。なお興福寺中金堂の本尊にこめられた面向不背の珠をめぐって、志度寺の縁起ととりあわせて脚色されたのが幸若舞の『大織冠たいしょかん』である。
蘇我入鹿
[阿部 泰郎]
字を鎌子という事は。鎌子の親の中臣、入鹿の讒言に依りて、常陸国、鹿嶋の宮中に流さる。二年を送り、誕生の砌に、狐、鎌をくわえて来りていわく。この鎌を以って四海を治むべし。この瑞相に任せて、鎌子と号す。中臣、不思議の思いを成して、この鎌を身より離さず。その秋の暮、中臣は卒したまう。
然るに、上代は、国々より内裏へ傍仕を勤む。鎌子、十六歳の時、傍仕の任に当たりて参内す。その時、母のいわく。汝が亡父の中臣は、元は禁中に於いて宮仕え申したり。入鹿が讒言に依りてこの国に流さる。入鹿は汝が為には親の敵なるべし。その意を得べし、と教ゆ。また、この鎌は、幼少の時、かくのごとき霊鎌なり、と懇ろに語りてこれを与え、上洛せしむ。
然るに、入鹿、天下を恣にする故に、中大兄皇子、入鹿を誅さんと擬す。何の叡覧ありけるやらん。鎌子に密議を勅されたまいて、鎌子、元より心懸ける故に、速に返答つかまつり、時節を伺う。
入鹿も権化の者なれば、心霊なき者と奉聞して、位に直りしその色を見て、引き寄せて聟と成し、一子を生ず。鎌子、謀に盲目と化す。入鹿、ある時に、聟の盲目の実否を試みんが為に、炎の上より、当方の子を懐きたまえ、とて与える。(鎌足)態と取りはずして炎の上に落す。その時、入鹿、急ぎ孫を取り上げて思う様。人倫は申すに及ばず、鳥類・畜類に至るまで、子を思わぬ物はこれ無し。さては実に盲目に成りけるよ、哀れなり、とて心をゆるす。然れば、入鹿、酒宴に戯るる時を得て、件の霊鎌にて、入鹿を誅す。この賞に酬いて、藤原の姓をたまわれり。鎌足の大臣、大織冠と号す。意のごとく思いを達す。故に足の字を与う。
旅宿問答
年号の初め鎌にて鹿を切り
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):44‐27甲
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
「年号の初め」は大化元年、「鎌」は鎌足、「鹿」は入鹿で、謎句仕立て。
大しよくわん中納言よりなまぐさい
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):桜‐1
刊行/開き:1761(宝暦11年)(開き)
「大織冠」は鎌足、「中納言」は在原行平で塩汲み女と契った。鎌足は海女と契りをかわし、海女の犠牲によって竜宮より宝珠を取り返す(幸若舞『大織冠』)。


日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原鎌足
ふじわらのかまたり
[614―669]

7世紀の政治家。藤原氏の祖。中大兄(なかのおおえ)皇子(天智(てんじ)天皇)の側近として、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)を打倒。内臣(うちつおみ)となって大化改新を主導し、以後その死まで政界の重鎮として律令(りつりょう)国家体制の基礎を築いた。本姓は中臣連(なかとみのむらじ)。推古(すいこ)・舒明(じょめい)朝の前事(ぜんじ)奏官(大夫(まえつきみ))兼祭官であった小徳冠(しょうとくかん)中臣連御食子(みけこ)の長子で、母は大徳冠大伴囓(おおとものくい)の女(むすめ)の大伴夫人。名を鎌子にもつくり、字(あざな)を仲郎という。定恵(じょうえ)、不比等(ふひと)、氷上娘(ひかみのいらつめ)(天武(てんむ)天皇夫人)、五百重娘(いおえのいらつめ)(天武天皇夫人)らの父にあたる。鎌足の伝記の『大織冠(たいしょくかん)伝』(『藤氏(とうし)家伝』上、藤原仲麻呂撰(なかまろせん))によれば、614年(推古天皇22)に大倭(やまと)国(奈良県)高市(たけち)郡藤原の第(だい)(邸宅)に生まれたとあるが、後世の『大鏡』のように出生地を常陸(ひたち)国(茨城県)鹿島(かしま)の地とする説もある。『大織冠伝』に、舒明朝の初め、良家の子を簡(えら)び錦冠(きんかん)を授け宗業を嗣(つ)がしめたが、鎌足だけは固辞して三島(みしま)(摂津(せっつ)国)の別業(なりどころ)(別邸)へ退いたとあり、『日本書紀』はこれを644年(皇極天皇3)のこととする。兵法書の『六韜(りくとう)』を暗記し、僧旻(みん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の門に周易や儒教を学んだ。蘇我氏専制体制打倒の意志を固め、まず軽(かる)皇子(孝徳(こうとく)天皇)に接近、ついで中大兄皇子の知遇を得た。ただその間の経緯について『書紀』や『大織冠伝』の伝える話には誇張や潤色がみられ、かならずしも信用できない。
644年、蘇我一族内部の対立に乗じて蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を味方に引き入れ、翌年謀略をめぐらし飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)内において入鹿を暗殺、大臣(おおおみ)蝦夷を自邸に誅(ちゅう)した。このクーデター成功の功労者を上記2書はいずれも鎌足とするが、政界での地位を考慮すると鎌足よりもむしろ石川麻呂の役割を重視すべきであろう。大化の新政府では内臣に任じたが、「内臣」は寵幸(ちょうこう)の臣、帷幄(いあく)の臣を意味する語で、正式の官職ではない。鎌足は改新推進派の皇太子中大兄皇子のブレーンとして守旧派の左・右大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、蘇我石川麻呂と対立する立場にあり、この間の動向は不明であるが、645年(大化1)の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子、649年の蘇我石川麻呂の謀殺にも荷担していたと推測される。647年の新冠位制により大錦冠(だいきんかん)を授与されたとみられ、654年(白雉5)には大臣の位である紫冠を授かり、さらに大紫冠(だいしかん)に昇進した。651年に没した右大臣大伴長徳(おおとものながとこ)の後を襲ったものか。『大織冠伝』に、このとき増封され、前後1万5000戸の封戸を賜ったとある。664年(天智天皇3)百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅうじんがん)の使者郭務悰(かくむそう)のもとに沙門智祥(しゃもんちじょう)を派遣し物を賜り、668年には新羅(しらぎ)使金東厳(きんとうごん)に付して新羅の上臣金庾信(きんゆしん)に船一隻を賜るなど、白村江(はくそんこう)敗戦後の対唐・新羅和平策を進めた。
さらに『大織冠伝』によれば、668年、礼儀を撰述し、律令を刊定したとあり、近江(おうみ)令の編纂(へんさん)に携わったことを伝えており、同年正月の酒宴の席において天皇の怒りに触れた大海人(おおあま)皇子(天武天皇)を弁護し、その信任を得たという。669年(天智天皇8)10月16日、淡海(おうみ)の第に薨(こう)じたが、死に際して大織冠内大臣の位と藤原朝臣(あそん)姓を賜った。鎌足は仏教への信仰厚く、長子定恵を出家させたほか、657年(斉明天皇3)に維摩会(ゆいまえ)を開き、また白鳳(はくほう)(白雉(はくち))期以来、元興(がんごう)寺の『摂大乗(しょうだいじょう)論』講説の資とするため、家財を割いてこれを援助している。大阪府高槻(たかつき)市の阿武山(あぶやま)古墳はその墓とされる。
[加藤謙吉]



世界大百科事典
藤原鎌足
ふじわらのかまたり
614-669(推古22-天智8)

大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連(なかとみのむらじ)鎌足。父は弥気(みけ)(御食子(みけこ),御食足(みけたり)とも)といい,推古・舒明朝に仕えた神官で,地位は大臣(おおおみ),大連(おおむらじ)に次ぐ大夫(まえつぎみ)。母もやはり大夫の大伴連囓(おおとものむらじくい)(咋子(くいこ)とも)の娘で智仙娘(ちせんじよう)/(ちいさこ)といい,大連の大伴金村(かなむら)の孫。生まれたのは推古天皇の朝廷のあった小墾田(おはりだ)宮に近い藤原。《大鏡》に常陸の生れとするのは後世の伝説。はじめ鎌子,後に鎌足と改めたというのも後世の解釈で,本名は鎌であり,子や足は敬称にあたる語尾。幼名は仲郎とも伝えられるから,早世した兄がいたのであろう。早くから儒教の古典や兵法に親しみ,青年時代には《日本書紀》によれば南淵請安(みなぶちのしようあん),《大織冠伝(たいしよくかんでん)》によれば僧旻(みん)ら,唐からの帰国者について学び,官途にはつかなかった。飛鳥寺の蹴鞠の会で脱げた皮鞋(かわぐつ)を捧げ,中大兄(なかのおおえ)(後の天智天皇)と親しくなった逸話は有名。その中大兄を中心にして蘇我大臣家の打倒を計画し,645年(大化1),これに成功して孝徳天皇のもとに皇太子中大兄を首班とする新政権を樹立,国政の改革に着手した(乙巳(いつし)の変)。この政変に際して,蘇我一族を分裂させるために蘇我同族の石川麻呂(いしかわのまろ)の娘を中大兄に嫁がせたり,蘇我入鹿(いるか)を油断させて暗殺したり,叔父の孝徳を天皇に推戴しながら実権は甥の中大兄に掌握させておくなどは,みな鎌足の立案によるといわれ,そののち鎌足の子孫が平安時代にかけて政権を掌握してゆく過程でも,皇室との婚姻政策をはじめとするこのような策略は繰り返し用いられている。新政権内部でも鎌足は内臣として中大兄の側近となり,冠位は改新後に大錦(後の正四位相当),孝徳朝末年に大紫(正三位相当)を授けられ,そのたびに巨額の封戸(ふこ)や功田(こうでん)を賜って,後の藤原氏の世襲財産の基礎をつくった。次の斉明・天智朝でも引き続き政権内部にあって補佐し,中大兄と弟の大海人(おおあま)(後の天武天皇)とが不和になると,その仲裁に努めたという。また《大織冠伝》によれば〈律令の刊定〉を命じられて668年(天智7)ころに〈旧章を損益し,略(ほぼ)条例を為〉したといい,後世これを近江令(おうみりよう)と呼んでいるが,実際には完成しなかったようである。翌669年10月,近江の大津京の邸で病が重くなり,その15日には大織冠(後の正一位相当)・内大臣,そして藤原という氏を賜ったが,翌16日に没した。平生から仏教に心を寄せていたので,嫡妻の鏡女王(かがみのおおきみ)は大津京の南西の山科(やましな)にあった別邸を寺とし,翌670年閏9月の本葬もこの山階寺(やましなでら)(興福寺の前身)で行われた。

また,2人の息子のうちで長男の貞慧(じようえ)(定恵とも。643-665)は僧とし,11歳で唐に留学させたが,帰国後まもなく病死。次男が不比等(ふひと)である。鎌足の生前か没後か不明だが,娘のうちでは氷上(ひかみ),五百重(いおえ)の2人が天武天皇に嫁し,それぞれ但馬(たじま)皇女,新田部皇子を生んでいる。なお《万葉集》は2首,《歌経標式(かきようひようしき)》は1首の,鎌足作という歌を収めている。
[青木 和夫]

伝承

藤原鎌足は,その官職名をとって大織冠(たいしよくかん)/(たいしよかん)の名で親しまれているが,多武峰(とうのみね)の聖霊院(現在の談山(たんざん)神社)にまつられている。《談峯記》によると,定恵和尚が阿威山から談峯(多武峰)へ改葬して,墓上に十三重塔を建て,その東に御殿を造り,父鎌足の霊像を安んじたのが聖霊院の始まりとされる。後に聖霊院が改造され,妙楽寺と称されたが,この寺は藤原氏の祖神として,鎌足の聖霊をまつる聖地となり,中世まで事があるとその墓が鳴動し,尊像が破裂すると信じられた。また興福寺中金堂の本尊は,鎌足が蘇我入鹿誅伐のために発願したと伝える(《興福寺濫觴記》)。興福寺,春日社では,本来,鎌足夫人の鏡女王が夫の病気平癒のために発願した維摩会(ゆいまえ)が,鎌足をまつる法会となり,この維摩会に用いられる大織冠画像供養の講式《三国伝灯記》(覚憲著,1174成)では,鎌足が維摩居士の化現,垂迹であると説かれている。このようにして,鎌足の伝説が徐々に形成されてくるが,《聖徳太子伝暦》でもその末尾に鎌足らの入鹿誅伐が記されているところから,中世の聖徳太子伝の展開にしたがって,鎌足伝説もまた展開してゆく。《正法輪蔵》(文保年間(1317-19)までに成立)では,まず春日社縁起とともに鎌足が常陸国で誕生したとする。これは古く《大鏡》などにも見られる説であるが,鎌足と鹿島明神とのつながりを示そうとしたものらしい。その誕生の際に白狐(荼吉尼(だきに)天)が鎌を与えたので鎌足と称し,王の摂政となったという説話が加えられる。これは,中世神道説のなかの東寺即位法に含まれる説話《天照大神口決》(1328)で,やがて呪詞などをあわせて中世春日社の縁起《春夜神記》(1437以前成立)のなかにも記された。そこでは鎌足がいやしい土民(都よりの流人)の子で内裏の塵取男として京上りしたとも伝える。また《正法輪蔵》では,入鹿が中大兄皇子を位につけぬように,法興寺の蹴鞠の庭で,皇子の沓が脱げて地に足がつくようにはかったとき,鎌足が右手で足を受け,それにより出世したという。そして,皇子と鎌足らが入鹿を討つためひそかに談じ合ったのが多武峰であったという。さらに,《伝暦》などに記される,鎌足の提案として行われた蘇我山田石川麻呂の娘と皇子との婚姻は,《正法輪蔵》では入鹿の娘と皇子とのことになり,また,疑い深い入鹿の心を解くため,鎌足は3年の間盲目を装ったという。これらは,室町時代の《旅宿問答》では鎌足自身が入鹿へ婿入りしたことになり,さらに偽盲目となってみずからの子を火中に落として入鹿を信用させる形に展開する。また《神道相伝聞書》では,まず盲目を天下に披露して,鎌足が入鹿を婿にとり,孫を火に落とすという形になり,やがて幸若舞《入鹿》の物語を生みだした。また鎌足の名が狐より与えられた鎌に由来するという理解は,その鎌で入鹿の首を打ち落としたという,中世太子伝以来の説と首尾呼応している。なお,興福寺中金堂の本尊にこめられた面向不背の珠をめぐって,志度寺の縁起ととりあわせて脚色されたのが幸若舞の《大織冠(たいしよかん)》である。
[阿部 泰郎]

[索引語]
中臣連(なかとみのむらじ)鎌足 中臣鎌子 中臣鎌足 大織冠伝(たいしよくかんでん) 蘇我入鹿 近江令 大織冠(藤原鎌足) 鏡女王 山階寺 興福寺 貞慧 定恵 大織冠 多武峰 聖霊院 談山(たんざん)神社 談峯記 妙楽寺 三国伝灯記 正法輪蔵 天照大神口決 春夜神記
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古事類苑
人部 洋巻 第1巻 791ページ ...
23. 天智天皇與藤原鎌足蹴鞠 (見出し語:天智天皇)
古事類苑
遊戲部 洋巻 第1巻 1041ページ ...
24. あいじんじゃ【阿為神社】大阪府:茨木市/安威村地図
日本歴史地名大系
祀り、「延喜式」神名帳島下郡「阿為神社鍬靫」に比定される。旧村社。苗森明神ともいい、社伝によると藤原鎌足の勧請という。鎌足と当地の関係は「日本書紀」皇極天皇三年 ...
25. あかざしやかたあと【赤座氏館跡】福井県:南条郡/今庄町/今庄村
日本歴史地名大系
るが、現在は今庄駅構内となり、遺構をとどめない。赤座氏は同氏系図(「今庄村誌」所引)によると藤原鎌足より出て、鎌倉時代に赤座九郎なる者が将軍に仕え、のち北条氏を ...
26. 飛鳥浄御原令
世界大百科事典
伝えるものが,これにあたる。ただしこの《日本書紀》の記事については,古くはこれを,天智天皇が藤原鎌足らに編纂させたといわれる近江令を681年に修訂し,689年に ...
27. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
国文学の分野をみても、大化後になると斉明(さいめい)、天智(てんじ)、中皇命(なかつすめらみこと)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、額田王(ぬかだのおおきみ)ら ...
28. 飛鳥時代
世界大百科事典
形成しようとする動きが政界の一部に強まり,その中核となったのが中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)であった。2人は綿密に計画を練り,蘇我石川麻呂らを引き ...
29. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
衆は、専攻を同じくする僧侶のグループを指し、やがて宗におきかえられるが、特に法興寺の摂論衆には、藤原鎌足が家財を投じて援助し、ついで不比等・光明皇后も支持を惜し ...
30. 阿武山古墳
世界大百科事典
残り,絹布を筒状にまいてガラス玉を銀線で連ねた枕が用いられていた。被葬者を藤原鎌足とする説が強い。猪熊 兼勝 藤原鎌足 ...
31. あぶやま‐こふん【阿武山古墳】
日本国語大辞典
大阪府茨木市、高槻市を界する阿武山の丘陵を利用して築かれた終末期の古墳。横穴式石室の内部に乾漆棺をおく。藤原鎌足の墓ともいわれる。 ...
32. あぶやまこふん【阿武山古墳】
国史大辞典
棺台には乾漆棺が置かれ玉枕をなし、金糸の衣服をまとった遺骸が納められていた。また羨道には水抜溝があった。藤原鎌足の墓という説もある。 [参考文献]梅原末治『摂津 ...
33. あぶやまこふん【阿武山古墳】大阪府:高槻市/奈佐原村地図
日本歴史地名大系
玉枕・金糸など稀有な内容をもつ当墳の被葬者については、調査の時点以来「多武峯縁起」の記載をもとに藤原鎌足とする説もある。(「摂津阿武山古墓調査報告」大阪府史蹟名 ...
34. あべの-おたらしひめ【阿倍小足媛】
日本人名大辞典
阿倍倉梯(くらはしの)麻呂の娘。舒明(じょめい)天皇12年(640)有間皇子を生む。皇極天皇3年藤原鎌足が軽(かるの)皇子(孝徳天皇)の宮をたずねたとき,皇子の ...
35. あり‐か・つ【有─】
日本国語大辞典
・九四「玉櫛笥(たまくしげ)みもろの山のさな葛(かづら)さ寝ずは遂に有勝(ありかつ)ましじ〈藤原鎌足〉」*万葉集〔8C後〕四・六一〇「近くあれば見ねどもあるをい ...
36. いえます【家増】
日本人名大辞典
?−1571 戦国時代の画家。土佐派。京都青蓮院(しょうれんいん)の藤原鎌足(かまたり),定恵(じょうえ),藤原不比等(ふひと)の三像一幅の絵をかいたという。元 ...
37. いおえのいらつめ【五百重娘】
日本人名大辞典
?−? 飛鳥(あすか)時代,天武天皇の夫人(ぶにん)。藤原鎌足(かまたり)の娘。氷上(ひかみの)娘の妹。新田部(にいたべ)親王を生む。「尊卑分脈」は後年,異母兄 ...
38. いちみやかとりじんじゃ【一宮香取神社】宮崎県:えびの市/今西村
日本歴史地名大系
古くは一之宮香取大明神社と称し、飯野郷の宗廟。「三国名勝図会」によると、天智天皇七年(六六八)藤原鎌足の命により勧請されたといい、祭神は斎主命。応保二年(一一六 ...
39. 乙巳の変
世界大百科事典
干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継 ...
40. いなぶちむら【稲淵村】奈良県:高市郡/明日香村
日本歴史地名大系
小丘上に龍福寺がある。天徳山和合院と号し、浄土宗。龍福寺の南方約一〇〇メートルの丘上に南淵請安の墓がある。藤原鎌足を祭神としていた談山神社(現在は飛鳥川上坐宇須 ...
41. いばらきし【茨木市】大阪府地図
日本歴史地名大系
宿久庄・郡山・上野・耳原などに比定する説がある。「日本書紀」皇極天皇三年正月一日条によると、中臣鎌子(藤原鎌足)は神祇伯に任命されたが固辞して三島(島上・島下両 ...
42. いもせやま【妹背山】
国史大辞典
妹山の実在を否定し、『紀伊国名所図会』は、大和説を否定している。近松半二らの『妹背山婦女庭訓』は、藤原鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼす事件を主題とし、男女の恋愛の葛 ...
43. 妹背山婦女庭訓
日本大百科全書
、三好松洛(みよししょうらく)合作。時代物。5段。1771年(明和8)1月大坂・竹本座初演。藤原鎌足(かまたり)の蘇我入鹿(そがのいるか)討伐に、大和(やまと) ...
44. 妹背山婦女庭訓
世界大百科事典
1771年(明和8)正月大坂竹本座初演。5段。角書に〈十三鐘絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ,大和に伝 ...
45. いもせやまおんなていきん[いもせやまをんなテイキン]【妹背山婦女庭訓】
日本国語大辞典
五段。近松半二を中心に、松田ばく、栄善平、近松東南らが合作。明和八年(一七七一)大坂竹本座初演。藤原鎌足(かまたり)が蘇我入鹿(そがのいるか)を討った事件を骨子 ...
46. いもせやまおんなていきん【妹背山婦女庭訓】
国史大辞典
歌舞伎には初演の年に大坂の小川座で、江戸では安永七年(一七七八)以来行われた。蘇我入鹿の暴虐と藤原鎌足の入鹿誅伐を主筋に、大和に伝わる采女の絹掛柳、神鹿殺しの十 ...
47. いもせやまおんなていきん【妹背山婦女庭訓】
歌舞伎事典
明和八(1771)年正月大坂・竹本座初演。五段。角書に〈十三鐘/絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ、大和 ...
48. 妹背山婦女庭訓(浄瑠璃集) 347ページ
日本古典文学全集
葡辞書)。おちぶれてみすぼらしい。「尾羽打カラス 牢人者なとの窶レたる貌を云」(俚言集覧)。藤原鎌足の子、藤原不比等。「淡海公」は死後の称。節日(季節の変り目な ...
49. 妹背山婦女庭訓(浄瑠璃集) 361ページ
日本古典文学全集
重ねる。→三四九ページ注一二。たやすく。奈良市登大路町にある法相宗の大本山。天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の妻・鏡女王が山城国山階に創建した山階寺にはじまり、和 ...
50. 妹背山婦女庭訓(浄瑠璃集) 433ページ
日本古典文学全集
乞ふものなり。今より臣下に属するの印.君の齢を東方朔にたとへ.この桃花酒を以て御寿を祝し奉る.内大臣藤原鎌足.謹んで申すと読み上ぐる.ハヽヽヽヽなまくら者の鎌足 ...
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「藤原鎌足」は日本の歴史に関連のある記事です。
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江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
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