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  11. 志賀潔

志賀潔

ジャパンナレッジで閲覧できる『志賀潔』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
志賀潔
しがきよし
一八七〇 - 一九五七
明治から昭和期にかけての細菌学者。志賀赤痢菌の発見者。医学博士。貴洋史と号す。明治三年(一八七〇)十二月十八日仙台に生まれる。父は旧仙台藩士佐藤信。母の生家志賀家を嗣いだ。明治十九年東京に出、同二十九年帝国大学医科大学卒。伝染病研究所に入り北里柴三郎に師事し細菌学を専攻する。同三十年赤痢流行に際し、同症患者の糞便中より一種の新桿菌を分離することに成功、同年末「赤痢菌病原研究報告(第一)」(『細菌学雑誌』二五)を発表し、翌年にはドイツの雑誌にも発表したが当時国外でも国内でもただちにこれが認められるところとはならず、二年後にクルーゼが別に赤痢菌を発見したとした。しかしこれは志賀の菌と同様であることが判明し、志賀の名を入れたShigella dysenteriaeが学名として用いられ、その後発見の他の赤痢菌族にもShigellaが冠せられるところとなった。この赤痢菌の発見により彼の名は世界に知られた。同三十四年、ドイツに行きエールリッヒのもとで免疫学・化学療法の研究に従事、彼とともに、化学療法剤の最初に位置づけられるトリパンロートの発見に成功した。同三十八年帰朝するが、大正三年(一九一四)伝染病研究所の移管問題がおこるや、彼は率先北里と行動をともにし、翌四年成った北里研究所に移り、その部長(血清・ワクチン製造)となり、赤痢ワクチンのほか結核やライの研究に努めた。同九年慶応義塾大学医学部教授となるが、同年中にこれを辞し、朝鮮総督府医院長を経て、昭和四年(一九二九)京城帝国大学総長に就き教育面で尽くすところが多かった。同六年退職し、北里研究所顧問となる。昭和十九年文化勲章受章。日本学士院会員、仙台市名誉市民、文化功労者、勲一等瑞宝章受章。東南アジアや欧州の国際学会にしばしば出席し、諸国から数多くの栄誉を受けた。専門書・教科書があるほか随筆にも秀でた。晩年は郷里の仙台で過ごし、昭和三十二年一月二十五日没。八十六歳。仙台市北山の輪王寺に墓がある。
[参考文献]
志賀潔『或る細菌学者の回想』、高橋功『志賀潔』
(長門谷 洋治)


日本大百科全書(ニッポニカ)
志賀潔
しがきよし
[1870―1957]

細菌学者。仙台藩士佐藤信の子として生まれ、幼名は直吉。1878年(明治11)母の生家で藩医の志賀家に入り、潔と改名。1896年12月帝国大学医科大学を卒業、大日本私立衛生会の伝染病研究所、北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)所長の門に入った。1897年12月「赤痢病原研究報告第一」を発表、これが赤痢菌属に関する最初の論文であり、翌1898年、その要点をまとめた論文(ドイツ語)を発表、世界の細菌学専門書はこれを掲げた。1899年、伝染病研究所の内務省移管により、北里は所長に、志賀は内務省技師伝染病研究所第一部長となった。1901年(明治34)ドイツに留学、同年、コッホが委員長を務めた赤痢菌調査委員会は、赤痢菌を一名「志賀‐クルーゼ菌」と命名した。なお現在、赤痢菌の学名は発見者志賀にちなんでShigella dysenteriaeという。
1901年10月、志賀はフランクフルト・アム・マインのエールリヒに師事、以後、生物化学、免疫学、化学療法を研究した。そしてマウス体内のアフリカ睡眠病トリパノソーマを殺滅する色素類の研究で、ついにベンチジン系赤色色素の治療効果を証明、これをトリパンロートと命名し、エールリヒとの共著論文で発表した(1904)。化学療法はここから始まる。1905年帰国、医学博士の学位を受け、1912年(大正1)ふたたびヨーロッパに渡りエールリヒの下で研究、帰国後も伝染病研究所で活動したが、伝染病研究所の文部省移管に際して北里所長と行動をともにして辞職し、1914年北里研究所創立とともに第四部長となった。1920年慶応義塾大学医学部教授となったが、同年、朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長兼任となり、以後、京城帝国大学教授、同医学部長、同総長を歴任し、1931年(昭和6)退任、東京に戻った。1936年錦鶏之間祗候(きんけいのましこう)(勅任官待遇)となり、1944年文化勲章受章、1948年(昭和23)日本学士院会員となった。ほかにイギリス王立熱帯病学会名誉会員、パスツール研究所賛助会員、ドイツ学士院自然科学会特別会員、ハーバード大学名誉博士号などの栄誉を受け、郷里仙台市の名誉市民に推された。著書には『細菌学及免疫学』(1923)、『貴洋翠荘閑話(きようすいそうかんわ)』(1950)、『ある老科学者とせがれとの対話』(1953)、『或(あ)る細菌学者の回想』(1966)などがある。なお、土井晩翠(つちいばんすい)とは中学生時代からの親友であり、志賀が学士院会員に選ばれたとき、晩翠は「三日のあやめ 十日のしょうぶ 何だ今頃(いまごろ)へぼなすび」の色紙を贈って祝福した。
[藤野恒三郎]



世界大百科事典
志賀潔
しがきよし
1870-1957(明治3-昭和32)

細菌学者。仙台藩士佐藤信の次男に生まれる。1886年東京にでてドイツ語学校に学び,翌年大学予備門に入学,この年母の生家志賀家を継いだ。96年東京帝国大学医科大学を卒業後,直ちに北里柴三郎の伝染病研究所に入り,細菌学・免疫学の研究に従事し,赤痢の病原の研究を開始した。折から赤痢は関東地方に伝播して,東京でも空前の大流行となった。この罹患病者の糞便中から一種の杆菌を発見,これを赤痢病原菌と断定し,97年12月細菌学雑誌に発表した。この発見者としての栄誉のため現在赤痢菌属は,彼の名にちなんでシゲラShigellaと命名されている。1901年から05年までドイツに留学。フランクフルト・アム・マインの実験治療研究所でP.エールリヒについて生物化学,免疫学を研究し,さらに11年ローマで開かれた万国結核予防学会に出席の帰途,ふたたびエールリヒのもとで半年ほど結核の化学療法の研究に従事した。帰国後も伝染病研究所で腸内伝染病,結核治療の研究のほか,脚気,発疹チフス,癩などに関して業績を残した。14年内務省伝染病研究所の文部省移管に際して,北里と行を共にして辞職し,新設の北里研究所に移った。19年朝鮮総督府医院長,京城医学専門学校教授に就任し,同校長をへて,25年創設された京城帝国大学の初代医学部長となり,ついで同大学総長に任ぜられた。44年文化勲章を受章。
[松田 武]

[索引語]
赤痢菌 シゲラ Shigella
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