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日本歴史地名大系

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日本歴史地名大系
鳥海山
ちようかいさん

鳥海火山帯の主峰で、秋田・山形の県境にまたがるが、山頂部分は山形県に属する。

二つの円錐状成層火山からなり、一つはしようヶ岳(一六三五メートル)月山がつさん(一六四〇メートル)などの外輪山から形成され、西鳥海山と通称される。外輪山に囲まれた南西に開口する長径約二・二キロの爆裂口があり、火口内になべ森・扇子せんす森などの中央火口丘ととりうみがある。西麓の観音かんのん森・猿穴さるあなの小火丘および北方の稲倉いなくら岳(稲村いなむら岳、一五五四メートル)も寄生火山群である。この東のやや高く新しい火山は、その秀麗な山容のため、鳥海富士、出羽富士の名がある。標高二二三〇メートルの七高しちこう山(七五しちご山)や伏拝ふしおがみ岳・蟻戸渡ありのとわたりを外輪山とする長径約三キロの爆裂口が北に開口する。火口内には荒神こうじん岳および享和元年(一八〇一)の噴火による標高二二三〇メートルのしん山(享和きようわ岳)がある。

暦応五年(一三四二)七月二六日の日付のある山形県飽海あくみ遊佐ゆざ吹浦の鳥海山大物忌ふくらのちようかいさんおおものいみ神社口之宮くちのみや所蔵の鍔口銘に「奉懸鳥海山和仁口一口 右意趣者藤原守重息災延命如右 敬白」とみえる。古来、鳥海山は優れた山容とその独立性のため神の山とされ、大物忌神として国からも厚く遇され、山頂には大物忌神社が現存する。山名の由来は、山頂の鳥ノ海湖からとする説と、鳥海弥三郎の誕生地とその領地に関係するとの説がある。

〔古代〕

「続日本後紀」承和五年(八三八)五月一一日条に「奉〓〓出羽国従五位上勲五等大物忌神正五位下〓」とあり、鳥海山の大物忌神は正五位下の神階を授けられた。同七年七月二六日条では、従四位下の神階と、封戸二戸が寄進された。その理由を述べた宣命に、

詔曰、天皇詔旨坐、大物忌大神申賜波久、頃皇朝〓〓物恠〓卜詢、大神為〓崇賜倍利、加以、遣唐使第二舶人等廻来申、去年八月南賊境漂落〓相戦時、彼衆我寡〓力甚不〓奈利、儻而克〓留波、似〓〓神助〓申、今依〓此事〓〓臆量、去年出羽国言上太留、大神〓雲裏〓〓、十日間作〓戦声〓石兵零利止世利之月日、与〓彼南海戦間〓、正是符契世利、大神威稜令〓遠被〓太留、且奉〓驚異〓、且奉〓歓喜〓、故以従四位爵〓授、両戸之封奉〓良久乎申賜波久止

とある。「石兵零利止申」とは、前年の承和六年に田川郡西浜(現山形県)の砂地に隕石が多数落下したことをうけるもので、それと遣唐使が南海で賊を破ったこととの結付きは不自然だが、この時期、なお蝦夷の不穏な動向を前に、辺境の神として大物忌神の神威に注目したものであろうか。

大物忌神は「三代実録」にも度々記される。貞観四年(八六二)一一月には朝廷の祭事にあずかる官社に引き上げられ、同六年には二度神階が授けられて従三位上、同一五年四月五日条では正三位が授けられた。鳥海山の神が重んじられた背景について、貞観一三年五月一六日条は、

〓是、出羽国司言、従三位勲五等大物忌神社在〓飽海郡山上〓、巌石壁立、人跡稀〓到、夏冬戴〓雪、禿無〓草木〓、去四月八日山上有〓火、焼〓土石〓、又有〓声如〓雷、自〓山所〓出之河、泥水泛〓、其色青黒、〓気充満、人不〓〓聞、死魚多浮、擁塞不〓流、有〓両大〓〓、長各十許丈、相連流出、入〓於海口〓、小〓随者不〓〓其数〓、縁河苗稼流損者多、或浮〓濁水〓、草木〓〓而不〓生、聞〓于古老〓、未〓嘗有〓〓此之異〓、但弘仁年中山中見〓火、其後不〓幾、有〓〓兵仗〓、決〓之蓍亀〓、並云、彼国名神因〓〓〓〓賽、又〓墓骸骨〓〓其山水〓、由〓是発〓怒焼〓山、致〓此災異〓、若不〓鎮謝〓、可〓〓〓〓、是日下〓知国宰〓、賽〓宿〓〓、去〓旧骸〓〓〓鎮謝之法〓

と記し、大物忌神社が鳥海山上にあり、四月八日の噴火と兵乱を結び付けていることがわかる。その例証として、弘仁年間(八一〇―八二四)に噴火があり兵乱が起こったとあるが、この噴火は記録にない。大物忌神は出羽国の名神で、鎮謝報祭をしないと天変地異や兵乱が起きるとし、国守に命じて報祭を行わせ、神田を汚す墓や骨を除かせた。

大物忌神への期待は、元慶の乱に際してもなお大きく、元慶二年(八七八)八月四日には勲三等、同四年二月二七日には従二位の神階が授けられた。さらに「三代実録」仁和元年(八八五)一一月二一日条に「去六月廿一日出羽国秋田城中、及飽海郡神宮寺西浜雨〓石鏃〓、陰陽寮言、当〓〓凶狄陰謀兵乱之事〓、神祇官言、彼国飽海郡大物忌神、月山神、田川郡由豆佐乃売神、倶成〓此恠〓、崇在〓不敬〓、勅令〓〓国宰〓、恭祀〓諸神〓兼慎〓警固〓」とあり、蝦夷対策と兵乱に備える祭祀を命じている。この記事にある神宮寺は吹浦にあり、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった。九世紀末には鳥海山に神仏混淆の信仰が入っていたことがわかる。

〔修験〕

中世に入り、修験道の発達に伴い、鳥海山は出羽地方の修験道場として発展した。また古代以来の国家鎮護の社としての役割ももち続け、承久二年(一二二〇)には鎌倉幕府の命による大物忌神社の修造が伝えられ(吾妻鏡)、元徳三年(一三三一)六月「羽州由利郡津雲出郷」(矢島地方)の豪族が銅器識文を鳥海山に寄進したと伝えられる(大泉叢誌)。正平一三年(一三五八)八月三〇日北畠顕信は「天下興復、別陸奥出羽両国静謐」を祈願して鳥海山に「由利郡小石(子吉)(小)友村」を寄進した(「北畠顕信寄進状」大物忌神社文書)

修験としての鳥海山の登山口は、現在の秋田県側に矢島やしま(現矢島町)滝沢たきさわ(現由利町)小滝こたき(現象潟町)、山形県側に吹浦・蕨岡わらびがおか杉沢すぎさわ(現山形県飽海郡遊佐町)で、そこに修験者が住み登拝の先達をした。矢島町の永泉えいせん寺は所蔵文書によると、明徳二年(一三九一)醍醐だいご三宝さんぼう院の末寺となったと伝え(鳥海山史)、室町時代には矢島の修験はかなり勢力を持っていたと考えられる。

文禄三年(一五九四)一〇月二三日秋田実季の上洛に際しての秋田実季家臣誓詞(秋田藩家蔵文書)に「当国之鎮守羽黒、月山、鳥海」とある。慶長五年(一六〇〇)八月二〇日の戸沢政盛・最上義光起請文(戸沢文書)にも同様にあり、秋田氏・最上氏ともに羽黒はぐろ山・がつ山・鳥海山を出羽国の鎮守として崇拝していた。

近世にも、由利郡内の鳥海山修験の中心は矢島口であった。天明元年(一七八一)の矢島郷寺院控(鳥海山史)によると、修験寺院は学頭の城内じようない(現矢島町)の鳥海山福王ふくおう寺を中心に、一八坊を数えた。明治二年(一八六九)の矢島郷別当復飾之控(鳥海山史)では、現矢島町一四ヵ寺、現鳥海村一四ヵ寺、現東由利町二ヵ寺を数えた。矢島の修験寺院の多くは真言宗に属している。

箸の王子はしのおうじ(現矢島町荒沢針あらさわはりおかを起点に七高山に達する登山道の各所に修験にちなむ地名が残り、明徳年間(一三九〇―九四)に醍醐寺三宝院の二乗(仁条)が名付けたと伝える(鳥海山史)。三合目の駒の王子こまのおうじ、四合目の十六善神じゆうろくぜんしん、五合目の祓川はらいかわ、六合目の懺悔さんげ坂・賽の河原さいのかわら行者戻ぎようじやもどし・舎利しやり坂などがある。

現矢島町城内字木境の山伏長根きざかいのやまぶしながね(二合目)にある木境神社を、矢島側では大物忌神社と主張しており、山伏の行場の中心であった。この神社を中心に一年を通じて斎灯(柴灯)、山神祭、春の入峰(笈取おいとり)、虫祭、秋の入峰など修行の行事や五穀豊穣を祈る諸行事が行われていた。

滝沢口は子吉こよし川中流の森子もりこ(現由利町)付近にあり、川に沿った台地にある大物忌神社の参道が登山口で、矢島登山道と木境神社の手前で合流する。滝沢口は羽黒系の修験といわれ、慶長以前は別当として天台宗滝洞りゆうどう寺があり、三三坊を配下に数えたという。滝洞寺は慶長年間に前郷まえごう(現由利町)に移転したという。小滝口は象潟の南東、奈曾なそ川が白滝となり、滝に相対して蔵王権現(現金峰神社)が祀られる。近世には鳥海山竜山りゆうせん寺が別当、醍醐寺三宝院の末で、一八ヵ寺の修験を配下にもった。

修験道の発達に伴い、天台系の本山派(順峰)と真言系の当山派(逆峰)の間に対立が生じ、山頂の支配権、嶺境争論に発展した。慶長一九年に滝沢口と矢島口は、鳥海山登山の順逆の出入りについて争い、滝沢口が敗訴した(由利十二頭記)。元禄一四年(一七〇一)に矢島口は山頂の社殿の支配権と鳥海山の嶺境に関して蕨岡口を三宝院に訴えた。三宝院は山頂社殿の支配権について矢島側の主張を退け、嶺境については不問とした。不問にされた鳥海山の境界は、矢島藩・荘内藩にとって重大な問題であり、解決は幕府の手にゆだねられた。宝永元年(一七〇四)幕府は「西ハ笙野嶽腰ヨリ稲村嶽之八分ニ至リ東ハ女郎嶺之腰迄不毛之地由利飽海両郡ニ相定」(飽海郡誌)との裁断を下し、鳥海山の北麓八合目以南は飽海郡となった。

現鳥海村に伝わる本海番楽は、江戸初期に醍醐寺三宝院の本海が伝えたといわれる獅子舞で、本海系には鳥海山日立舞(象潟町)、冬師番楽・釜ヶ台番楽・伊勢居地番楽(仁賀保にかほ町)があり、いずれも県無形民俗文化財。

昭和三八年(一九六三)象潟海岸などを含み鳥海国定公園に指定された。



日本歴史地名大系
鳥海山
ちようかいさん

山形・秋田県境に位置する火山で、標高は二二三七メートル、山頂は山形県域にある。二つの円錐状成層火山から構成され、しようヶ岳(一六三五・三メートル)、月山森などの外輪山で形成される西鳥海は、南西に開口する長径約二・二キロの爆裂口があり、この火口内にはなべ森・扇子せんす森などの中央火口丘や火口湖のとりうみなどがある。西鳥海西麓の観音かんのん森・猿穴さるあななどの小火丘、および北方の稲倉いなくら(稲村岳、一五五四・二メートル)なども寄生火山群である。西鳥海の東方(東鳥海)には七高しちこう(七五岳)伏拝ふしおがみ岳などを外輪山とする長径約三キロの爆裂口が北に開口し、火口内には享和元年(一八〇一)に噴火したしん(享和岳ともいう、最高峰)荒神こうじん岳などがある。

古くは飽海あくみ岳とも称された。暦応五年(一三四二)七月二六日銘のある大物忌おおものいみ神社吹浦ふくら口之宮(現飽海郡遊佐町)の鰐口に「奉懸鳥海山」とみえる。山名は火口湖の鳥ノ海にちなむなど諸説あるが、鳥ノ海は歌名所として古くから都人にも知られ、「能因歌枕」には「とりのうみ」が出羽国の歌枕として載る。日本海側においては北アルプス連峰、はく山などに次ぐ標高を誇り、山裾を直接日本海に落す秀麗な姿は古来より出羽富士ともよばれ人々に畏敬の念を与えてきた。また有史以来幾度となく噴火を続けており、噴火を神意とみた古代の人々にとっては、まことに神の宿る神聖なる山であった。

〔大物忌信仰〕

現在山頂には大物忌神社本殿が置かれ、山麓の蕨岡わらびおか・吹浦(現飽海郡遊佐町)矢島やしま(現秋田県由利郡矢島町)には同社の口之宮があるが、古代には大物忌神が宿る神の山であり、「延喜式」神名帳には名神大社として大物忌神社が載る。「続日本後紀」承和五年(八三八)五月一一日条によれば、大物忌神は従五位上から正五位下に昇叙されている。六国史では東北地方の他の神々の神階が大半は五位止りなのに対して、大物忌神は元慶四年(八八〇)には従二位にまで昇った(「三代実録」同年二月二七日条)。また「延喜式」主税寮諸国出挙正税公廨雑稲条によると、大物忌神と月山神に合せて二千束の祭料があてられている。これは元慶の乱の頃、大物忌神社に月山神社も勧請され、両所神社と称されていたためであろう。大物忌神は北方の蝦夷の侵入を事前に察知し、噴火などの変異によって事の次第を中央に告げる神だったとされる。「続日本後紀」承和七年七月二六日条によると、遣唐使が南海において賊に襲われたとき、大物忌神が一〇日間にわたって戦いの声をあげ、石兵を降らして遣唐使を守ったといい、同じ日、都で盛んに物の怪が出没する原因を占わせたところ、大物忌神の祟りであるという占いが下され、中央の貴族たちは従四位の神階と神封二戸を同神に授けている。この記載は大物忌神の力が単に北に住む蝦夷に対して向けられたものだけではなかったことを物語る。大物忌神の最大の性格は、何よりも極端にケガレを嫌うことであった。神名そのものが、物忌(ケガレ―キヨメ)であり、「三代実録」貞観一三年(八七一)五月一六日条によれば同山は噴火によって泥水が麓の方まで流れ、その色は青黒く、臭気を放ち、死魚が浮び、八方に広がった泥流で苗が全滅し、草木腐れて臭くなったという。まさしくケガレの状況を記したものである。また弘仁年間(八一〇―八二四)の噴火では墓塚の骸骨で山裾がけがされたことに対して、大物忌神が怒ったのだとされている。このケガレを嫌うありかた、ケガレ―キヨメの観念は、天皇―皇都―畿内―諸国と、国家の中心から外へと広がり、国家の境界域に及んでいく国家観念のなかから生じている。古代の神祇体系において、辺境地帯における災異異変は異民族の侵入として意識され、その神異は直ちに中央政府に報告されて、他の辺境の防備態勢への警告となる。大物忌神もこのような連動し合う神々の体系のなかに位置づけられていた。同神が国家辺境の守護神となりえたのは、当山が古代国家の北の端に位置すると意識されていたからである。当時、秋田県側にも雄勝おがち平鹿ひらか山本やまもとの諸郡が置かれていたが、そこは賊地に近く、ややもすれば間隙に乗じて「腹心の病」をなす蝦夷の世界であった。前出雄勝以下三郡を山北三郡と通称するが、山北の山とは当山のことで、九世紀頃、日本海側の国家の北端は当山、陸奥国北端は衣川ころもがわ(現岩手県胆沢郡衣川村)であったと中央貴族は意識していた。今も執り行われる鳥海山の山頂、七合目御浜おはま、口之宮がある吹浦西浜にしはまとび島とをつなぐ壮大な火合せ神事(出浜神事)は、飛島と鳥海山との緊密な関係を物語るが、弘仁一四年以降のものと考えられる行基菩薩図(集古図)によると日本海の北方に浮ぶ島は「止之島」と記され、ことのほか大きく描かれている。伊豆や佐渡も同様に大きく描かれているが、これは当時の国家観念において、辺境地帯にある島に対して、中央の人間が特別の関心を寄せていたことを意味する。止之との島は飛島のことで、同島が日本海の北の辺境地帯に位置する島と意識され、飛島に宿る神は小物忌神で、物忌という当山と同じ神性を付与された神であった。

嘉祥四年(八五一)出羽国に陰陽師が設けられた。その任務は夷狄の動きを陰陽師の占いによってあらかじめ察知し、いち早く対処するもので、仁和二年(八八六)飽海郡の諸社に降った石鏃の異変について、陰陽師は「蝦夷の乱に備えよ」と占っている。この陰陽師が、正月の追儺の節会において読んだ祭文とは、穢く悪しき疫神の住む所を千里の外(東は陸奥、西は九州志賀島、南は土佐、北は佐渡の外)に決めて、五色の宝物を手土産に国家の外に追放しようとするものであったが、出羽国府の置かれた酒田市城輪きのわ柵跡から南に約二キロ、当山の南西麓、飽海郡八幡やわた町の俵田たわらだ遺跡はまさにこの陰陽師の活躍した祭祀遺構であった。

〔一宮としての大物忌神社〕

古代国家の守護神としての鳥海山大物忌神社は、「本朝世紀」天慶二年(九三九)四月一九日条にみえる蝦夷の反乱に際して噴火してその騒乱を知らせたという記事を最後にしてその歴史的使命を閉じる。一一世紀から一二世紀にかけて、当山の北と南の平野部では在地領主の開発が進み、領主は開発した私領の一部を大物忌神社に寄進し、神田(給免田)としたと思われる。こうした在地の変化に対応するように大物忌神社は出羽国一宮になっていった。正平一三年(一三五八)八月三〇日の北畠顕信寄進状(大物忌神社文書)に「出羽国一宮両所菩薩」とあるが、大物忌神社が一宮になったのは、他国の例からして一三世紀のことと考えられる。一宮として出羽国の神祇体系の中核的な存在となり、留守氏による羽州地下管領権の統括下に置かれた。承久二年(一二二〇)一二月三日の関東御教書(同文書)は、「出羽国両所宮」の修造を出羽国新留守所に命じている。

中世を通じて大物忌神社に対する在地領主の寄進は続けられた。元徳三年(一三三一)源正光と滋野行家が大旦那となり、由利郡津雲出つくもで(現矢島町)で鋳造された十二神像を寄進しているが(大泉叢誌)、正光は由利郡地頭の大井氏である。暦応五年には藤原守重が息災延命を祈願して前出鰐口を、正平一三年には北畠顕信が由利郡小石郷乙友おとも(現本荘市)を天下興復と陸奥・出羽の静謐を祈願して寄進している(前掲北畠顕信寄進状)。在地領主制の進展とともに大物忌神の性格は国家守護神から農業神(勧農神)へと変化、「出羽国大社考」に「五月五日晩白粥を煮、中に五穀の名を付せる葦の管をさし置、是を出し管中に入れ、粥の多少を見て年穀の吉凶を卜う」とある大物忌神社の管粥神事は、五穀豊穣を祈る代表的な勧農の神事であった。これに対応していつしか当山は竜王の宿る山と意識されるようになった。秋田県側では当山のことを龍頭りゆうとう山ともよび、本地仏を祀る頂上の山寺は龍頭寺と称されていた。蕨岡の学頭寺も龍頭寺と称され、また秋田県側の北麓を流れる川を奈曾なそ川といって、小滝こたき(現由利郡象潟町)近くの奈曾滝を下って当山の大権現は降臨したと考えられていた。祭神も大物忌神から倉稲魂神へと変化していく。

〔山麓の交通路〕

鳥海山の山麓は古くから交通の要衝であった。古代出羽国の駅路は出羽国国府を通って遊佐ゆざ駅に至り、吹浦付近より鳥海山の西の裾野を通って蚶方きさかた駅に達し、秋田城を目指した。越後国から秋田城に至るルートも当山の裾の尾を通過していた。近世に入っても当山麓をはま街道が縦断している。水上交通においてもいわば灯台代りになる山であり、海を行交う人々にとって船の位置を知るうえで心強い存在だった。西麓の三崎山みさきやま遺跡(遊佐町)から発見された殷時代の青銅刀子(東京国立博物館蔵)は、わが国最古の青銅器であり、縄文時代の後期に渡来したものという。九世紀には度々渤海の使者が出羽国に着いているが、彼らも鳥海山を指針としたのであろう。また、若狭国小浜おばま(現福井県小浜市)・越前国敦賀つるが(現同県敦賀市)などの湊から津軽十三とさ(現青森県北津軽郡市浦村)、さらには蝦夷地まで伸びる中世の日本海海運は、「舟船都会之津也」といわれた「逆沱浦」(酒田浦、康正元年「玉漱軒記写」種月寺文書)や「北国三所の潤形」湊である金浦このうら(現秋田県由利郡金浦町)、さらには風待湊としての吹浦湊などの存在なくしてはありえなかった。

〔文化の交流〕

当山が辺境を守護する山や出羽国一宮として意識されたのは、このような都鄙往来がもたらしたものであった。能因が「世の中はかくても経けりきさ潟の海士の苫やをわが宿にして」と詠んだように、山麓は都人の歌枕にも登場する世界であった。一方、小滝熊野神社の平安時代中期の蔵王権現像は、紀伊国熊野神社につながる聖たちの活動の足跡であると同時に当山が修験の山となっていったことの表れでもあった。平安時代中期、山麓一帯には天台教学の教線が伸び、各地に拠点となる道場が成立する。吹浦とも小滝ともいわれる「大物忌神社神宮寺」、象潟蚶満かんまん寺はともに天台宗であったし、明応二年(一四九三)五月、慈光じこう坊など六院坊が協同して慈覚大師堂一宇を三崎(現遊佐町)に建立していた(「三崎神社大師堂棟札」竜厳寺蔵)。例年五月一日の祭礼に小滝金峰きんぼう神社に奉納されるチョウクライロ舞も天台系の舞楽で、おそらくは一一世紀から一二世紀にかけて、当山裾野一帯の天台宗の寺院に伝えられたものであろう。

僧侶・聖たちの道場となった吹浦神宮寺には、暦応元年に仏師良覚によってつくられた阿弥陀如来坐像(松葉寺蔵)と永正三年(一五〇六)三月一八日の胎内墨書銘をもつ木造の薬師如来像(同寺蔵)が安置されていた。前者は月山の、後者は大物忌神の本地仏であった。同寺は成城坊・東福坊・千手坊などの子院を擁していたが、一方秋田県側の小滝にも神宮寺があり、観音菩薩(小滝金峰神社蔵)を本地仏としていた。鳥海山の二つの本地仏は当時の本地垂迹の体系が重層的な構造をもっていたこと、また鳥海山を取巻く地域の交流が重層的な構造であったことを物語る。仏教的世界・修験的世界が当山を取囲んでいく一方で、前出弘仁年中の噴火の原因が、「墓塚の骸骨が山水を汚したため」であったということ、小滝の金峰神社にみる立木観音が、鳥海山大権現の降臨の依代となる奈曾滝という霊的な場に立っていたことなどを併せ考えるならば、在地の人々にとっては古くから葬送の場、霊のこもる山、現世と来世の境界領域にある霊山と意識されていたと考えられる。

〔鳥海山信仰の広がり〕

建武四年(一三三七)七月一〇日の足利直義御判御教書(円覚寺文書)北寒河江きたさがえ庄五ヵ郷のなかにみえる「両所」は、両所神社にちなむもので、鎌倉末までに鳥海山信仰が寒河江庄一帯に伝わっていたことを示し、現山形市みや町の鳥海月山両所ちようかいがつさんりようしよ宮は北寒河江庄の両所宮から勧請されたとされている(最上義光物語)。中世、陸奥国随一の都市的な場であった多賀たが府中域(現多賀城市)西端の東光とうこう寺近くに、羽黒神社とともに小物忌おものいみ神社が勧請されていたが、大物忌神社も勧請されていた可能性がある。また、陸奥津軽の岩木いわき山頂上や山形盆地の西側の白鷹しらたか丘陵の鳥海山にも勧請されていた。後者は万治三年(一六六〇)、大物忌神社の縁起を説くなかで自らの縁起を創造している(「大蕨邑鳥海山縁起草稿」山形大学附属博物館蔵)。各地に伝えられた鳥海山信仰は、戦国時代の起請文の世界からもうかがえる。永正七年一二月二日、常陸の佐竹義舜はその起請文(写、秋田藩家蔵文書)のなかで全国の諸神とともに鳥海大明神に誓っている。同様の起請文は、文禄三年(一五九四)一〇月二三日、みなと(現秋田市)の安東氏によっても書かれていたし(秋田藩家蔵文書)、慶長五年(一六〇〇)八月二〇日、最上義光から出羽角館かくのだての戸沢九郎五郎に宛てた起請文(戸沢文書)にもみられた。

〔鳥海修験〕

中世から近世にかけて当山は全国有数の修験道場であった羽黒山との密接な関係のなかで、山岳信仰を保ち続けた。いわゆる出羽三山とは現在では羽黒山・月山・湯殿山の三山をさすが、戦国期には湯殿山に代わって当山が入り三山を構成していた。近世には修験の山として、大名の厚い保護と人々の信仰に支えられ、山麓には多くの修験の根拠地が栄えていた。現秋田県側では矢島口(一八坊)院内いんない(一八坊、現秋田県雄勝郡雄勝町)滝沢たきさわ(一二坊、現由利町)小滝こたき口、山形県側は吹浦口(二五坊・三太夫)、剣社口修験(六坊)、蕨岡口(三三坊)黒川くろかわ村不動院(現飽海郡八幡町)升田ますだ滝本たきもと(現同上)、阿伽井坊護国院最勝さいしよう(現飽海郡平田町)上大内目かみおおうちのめ三蔵さんぞう(現遊佐町)などである。このうち蕨岡口は鳥海山登拝口の順峰口として学頭坊の龍頭寺を中心として、近世には門前町の景観をなすほどに栄えた。

修験道の発達に伴い、天台系の本山派(順峰)と真言系の当山派(逆峰)の間で対立も生じた。慶長一九年には滝沢口と矢島口の間で入山の順逆をめぐって相論となり滝沢口が敗訴している(由利十二頭記)。元禄一四年(一七〇一)には山頂社殿の支配をめぐって蕨岡口と矢島口との間で争いとなった。これは矢島・庄内両藩境の問題ともなったために解決は幕府の手にゆだねられ、宝永元年(一七〇四)の裁許により、山頂北八合目以南は飽海郡域とされた(飽海郡誌)。修験者たちによって演じられた山伏神楽は山形・秋田県域では番楽ともよばれたが、鳥海山修験の手によって伝えられた番楽も、山麓の村々で演じられていた。現在も遊佐町杉沢すぎさわの比山番楽、同町女鹿めがの日山番楽などが残り、最上郡真室川まむろがわ平枝ひらえだの番楽も近年まで演じられていた。なお日山(比山)とは月の山・月山に対しての日の山との意であるともいう。昭和三八年(一九六三)一帯は鳥海国定公園に指定された。

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4. ちょうかい‐さん[テウカイ‥]【鳥海山】
日本国語大辞典
山形・秋田両県境にそびえる円錐火山。享和元年(一八〇一)噴出の新火山と、それよりも古い旧火山との二つの二重式火山が複合してできた。チョウカイフスマなどの高山植物 ...
5. ちょうかいさん【鳥海山】秋田県:由利郡
日本歴史地名大系
の日付のある山形県飽海郡遊佐町吹浦の鳥海山大物忌神社口之宮所蔵の鍔口銘に「奉懸鳥海山和仁口一口 右意趣者藤原守重息災延命如右 敬白」とみえる。古来、鳥海山は優れ ...
6. ちょうかいさん【鳥海山】山形県:総論
日本歴史地名大系
丘陵の鳥海山にも勧請されていた。後者は万治三年(一六六〇)、大物忌神社の縁起を説くなかで自らの縁起を創造している(「大蕨邑鳥海山縁起草稿」山形大学附属博物館蔵) ...
7. 鳥海山(ちょうかいさん)
古事類苑
地部 洋巻 第3巻 833ページ ...
8. 鳥海山
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 920ページ ...
9. 鳥海山噴火 (見出し語:鳥海山)
古事類苑
地部 洋巻 第3巻 878ページ ...
10. ちょうかいさんいせき【鳥海山遺跡】青森県:南津軽郡/平賀町/沖館村
日本歴史地名大系
沖館集落の南に張出した標高約六〇―七〇メートルの丘陵の北西斜面比山館にある平安時代の集落遺跡。北に隣接して鳥海山という小丘と小祠がある。昭和五〇年(一九七五)発 ...
11. 鳥海山大物忌神社
日本大百科全書
山形県飽海(あくみ)郡遊佐(ゆざ)町の鳥海山山頂に本殿、山麓(さんろく)の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)に口ノ宮(くちのみや)と称する里宮が置かれている。祭 ...
12. ちょうかいざん‐おおものいみじんじゃ[テウカイザンおほものいみジンジャ]【鳥海山大物忌神社】
日本国語大辞典
山形県飽海郡遊佐町にある神社。旧国幣中社。本社は鳥海山山頂にあり、ふもとに吹浦(ふくら)口之宮、蕨岡口之宮がある。祭神は大物忌神。景行天皇または欽明天皇のころの ...
13. 鳥海山縁起和讃(著作ID:4367641)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんえんぎわさん 仏教  ...
14. 鳥海山書入ニ付絵図御裏書之写(著作ID:4320154)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんかきいれにつきえずおうらがきのうつし 記録  ...
15. 鳥海山公事御裏書(著作ID:4367240)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんくじおうらがき 記録  ...
16. 鳥海山古書物扣(著作ID:4317128)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんこしょもつひかえ 神社  ...
17. 鳥海山鐘楼修覆寄進大寄(著作ID:4319373)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんしょうろうしゅうふくきしんおおよせ 雑俳  ...
18. 鳥海山図(著作ID:4323664)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんず 地図  ...
19. 鳥海山宝永元年御裏書絵図(著作ID:4323653)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんほうえいがんねんおうらがきえず 地図  ...
20. 鳥海山矢嶋ト境論御裁許墨引図(著作ID:4323697)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんやじまとさかいろんごさいきょすみびきず 地図  ...
21. 鳥海山由緒御改ニ付書上扣(著作ID:4317093)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんゆいしょおあらためにつきかきあげひかえ 神社  ...
22. 鳥海山湯殿山/御代拝扣(著作ID:4317139)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんゆどのさん/ごだいはいひかえ 神社  ...
23. 鳥海山由利郡象潟ヨリ見ル図(著作ID:4323686)
新日本古典籍データベース
ちょうかいさんゆりぐんきさかたよりみるず 地図  ...
24. 鳥海山焼之事(著作ID:4367243)
新日本古典籍データベース
ちょうかいやまやけのこと 災異  ...
25. 蕨岡宝物(著作ID:4367287)
新日本古典籍データベース
わらびがおかほうもつ 鳥海山より掘出之品  ...
26. ひがしちょうかいさん【東鳥海山】秋田県:湯沢市
日本歴史地名大系
西ニ当テ鳥海山有、依て当山も従是東鳥海山と可唱旨被仰出、従夫東鳥海山と唱居り申候」とあり、山名の由来を伝える。山頂付近に東鳥海神社があり、「雪の出羽路」には祭神 ...
27. 天保年中鳥海山公事(著作ID:4367378)
新日本古典籍データベース
てんぽうねんちゅうちょうかいさんくじ 記録  ...
28. 出羽国一宮鳥海山全図(著作ID:4323675)
新日本古典籍データベース
でわのくにいちのみやちょうかいさんぜんず 鳳斎子由(ほうさいしゆう) 画 地図  ...
29. あいかわむら【相川村】秋田県:湯沢市
日本歴史地名大系
の河岸段丘上にある。東は東鳥海山の尾根越しに宇留院内村、南は高松川を隔てて桑崎村(現雄勝郡雄勝町)、西は雄物川を隔てて泉沢村(現雄勝町)、北は上関村と接する。東 ...
30. 青森[県]画像
世界大百科事典
海道系の擦文土器や豊富な鉄器を伴い,いずれも平安時代。先述の岩木山麓から津軽平野にかけては,鳥海山遺跡(平川市)のようにこの時代の鍛冶集落が多く存在する。浪岡城 ...
31. あかはげむら【赤剥村】山形県:飽海郡/八幡町
日本歴史地名大系
杉板二〇間、下駄二〇足、藁莚六束余、炭三〇俵を産した。享和元年七月六日鳥海山大噴火の際、当村の喜十郎は草津村農民五人と参詣のため鳥海山に登っており、虫穴からの煙 ...
32. 秋田(県)画像
日本大百科全書
開している。出羽山地の西方、南部の山形県境に鳥海山が噴出、周囲一帯は鳥海国定公園をなす景勝地である。北部は白神山地によって青森県と境し、南部は鳥海山のほか丁岳山 ...
33. 秋田[県]画像
世界大百科事典
たんぽ〉とともに秋田の味の代表である。 秋田県は奥羽山脈,白神山地,丁岳(ひのとだけ)山地と鳥海山などによって三方を囲まれており,これらの山地は豊かな森林,地下 ...
34. 秋田富士
日本大百科全書
鳥海山 ...
35. あくみ【飽海】
日本国語大辞典
山形県の北西部の郡。鳥海山と最上川の間にあり、日本海に面する。*二十巻本和名類聚抄〔934頃〕五「出羽国 〈略〉飽海〈阿久三〉」和名・色葉・文明・易林 ...
36. あくみぐん【飽海郡】
国史大辞典
録』の記述が史籍上の初見に属する。平安時代末期のころ、鳥海山尾根を境界に、その北が由利郡になったために、中世以後は現在のように北は鳥海山、北東から東は丁岳(ひの ...
37. あくみぐん【飽海郡】山形県
日本歴史地名大系
〔原始・古代〕先史時代の遺跡の多くは、鳥海山麓と出羽山地に発する中小河川の河岸段丘上に立地し、一部は海岸砂丘部にある。弥生時代の遺跡は少なく、縄文時代との複合遺 ...
38. あさくさきさがたちよう【浅草象潟町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
明治五年(一八七二)旧出羽本庄藩六郷氏中屋敷の地に起立。町名は六郷氏の領国にある名勝の地、鳥海山西麓海岸の象潟(現秋田県象潟町)の地名を取ったもの。 ...
39. あぶたむら【虻田村】北海道:胆振支庁/虻田町
日本歴史地名大系
た。同二九年に浄土真宗本願寺派説教所が設置され、同三八年皇恩寺と寺号公称。明治三〇年四月には鳥海山大物忌神社(現花和大物忌神社)が建立された(以上「虻田町史」) ...
40. あゆかわごう【鮎川郷】秋田県:由利郡/由利町
日本歴史地名大系
立井地村・福田村の一三ヵ村がこれに属していた(「御裁許絵図裏書」由利町史)。鮎川郷の南に続く鳥海山麓は採草地・薪炭地として重要で、仁賀保領・矢島藩領の村々との入 ...
41. あわしま【粟島】新潟県:岩船郡/粟島浦村
日本歴史地名大系
によれば、船路では岩船町へ一二里、瀬波(現村上市)・新潟へ二五里のところにあり、島からは出羽鳥海山、飯豊山、粟ヶ岳、守門岳、弥彦山まで遠望できるという。戸数は一 ...
42. いしずむら【石辻村】山形県:飽海郡/遊佐町
日本歴史地名大系
四ッ興野に鎮守八幡神社、日向川の堤防近くには川上・琴平・三吉の三神を祀る小祠がある。四辻に「向右鳥海山、左ふく浦道」と刻した追分石がある。馬嘶の清水といわれる泉 ...
43. いち-がん【一眼】
全文全訳古語辞典
奥の細道・象潟〉この寺の広間に座って簾を巻き上げると、風景は一目ですっかり見わたせて、南には鳥海山が天を支えるようにそびえ、その影は入り江に映っている。 ...
44. いのおかむら【井岡村】山形県:鶴岡市/青竜寺川・内川流域地区
日本歴史地名大系
井岡堰を利用(享保一七年「熊出川用水組合高之覚」二口文書)。なお和田岡からは庄内平野・月山・鳥海山が一望でき、井岡城があったともいわれる。 ...
45. 岩木山画像
日本大百科全書
外輪山は山頂付近に発達し、その中に中央火口丘がそびえる。外輪山の西半部は爆発で欠損し、東半部に鳥海山(1502メートル)、巌鬼山(がんきさん)(1456メートル ...
46. 岩木山
世界大百科事典
野をのばすところから津軽富士の別名がある。山頂は三つの峰に分かれているが,巌鬼(がんき)山と鳥海山は外輪山の一部であり,岩木山はその後にできた中央火口丘で,標高 ...
47. いわきさん【岩木山】青森県:総論
日本歴史地名大系
山で、山頂は三峰よりなる。中央の峰は中央火口丘にあたり、標高一六二五・二メートル。南西の峰は鳥海山、北東の峰は巌鬼山とよばれ、外輪山の一部にあたる。東側の弘前市 ...
48. いわきさんじんじゃ【岩木山神社】青森県:中津軽郡/岩木町/百沢村
日本歴史地名大系
中央岩木山 別当真言五山寺領四百石岩木山百沢寺光明院左峯 十腰内村岩鬼山西方寺観音院右峯 松代村鳥海山永平寺景光院此二寺何時歟及退転、因之信牧公御代命而混集于百 ...
49. いわていじんじゃ【石手堰神社】岩手県:水沢市/黒石村
日本歴史地名大系
「黒石村安永風土記」には二ノ宮大明神の名で載り、地主別当修験威覚院(羽黒派)とある。当社の由緒に鳥海山に大物忌神を祀って奥州一宮と称し、当地に石手堰神社を奉遷し ...
50. うやむやのせき【有耶無耶関】宮城県:柴田郡/川崎町/今宿村
日本歴史地名大系
記す。「義経記」にみえる伊那の関を当関とする説もある(大日本地名辞書)。比定地は当地以外に、鳥海山の西麓、現山形県飽海郡遊佐町吹浦の字岩山、同町女鹿の大師崎(三 ...
「鳥海山」の情報だけではなく、「鳥海山」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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山梨・静岡両県にまたがる、玄武岩を主とする成層・円錐火山。かつての富士火山帯の主峰であるが、全国最高の標高(3776メートル)と美しい容姿のために、古来、日本の象徴として仰がれ、親しまれ、海外にもよく知られる活火山。その傾斜は山頂部で32~35度
宝登山(日本歴史地名大系)
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槍ヶ岳(改訂新版・世界大百科事典)
飛驒山脈南部,長野県松本市,大町市,岐阜県高山市の境界に位置する山。標高3180mは日本第4位の高さである。山頂付近は槍の穂先のように鋭い尖峰を呈し大槍と呼ばれ,その北西斜面には小槍,孫槍,曾孫槍などの尖峰が付随する。山頂からは東鎌尾根,西鎌尾根,槍・穂高稜線,北鎌尾根の
御嶽山(日本大百科全書(ニッポニカ))
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おお‐やま[おほ‥] 【大山】(日本国語大辞典)
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鳥海山(日本歴史地名大系)
鳥海火山帯の主峰で、秋田・山形の県境にまたがるが、山頂部分は山形県に属する。二つの円錐状成層火山からなり、一つは笙(しよう)ヶ岳(一六三五メートル)、月山(がつさん)森(一六四〇メートル)などの外輪山から形成され、西鳥海山と通称される
早池峰山(日本歴史地名大系)
北上高地のほぼ中央部にそびえ、標高一九一三・六メートルは同高地の最高峰。遠野市・稗貫(ひえぬき)郡大迫(おおはさま)町・下閉伊(しもへい)郡川井(かわい)村にまたがり、西に中(なか)岳(一六七九・一メートル)・鶏頭(けいとう)山(一四四五・一メートル)
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八幡平(日本歴史地名大系)
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