鳥海火山帯の主峰で、秋田・山形の県境にまたがるが、山頂部分は山形県に属する。
二つの円錐状成層火山からなり、一つは
暦応五年(一三四二)七月二六日の日付のある山形県
「続日本後紀」承和五年(八三八)五月一一日条に「奉授出羽国従五位上勲五等大物忌神正五位下」とあり、鳥海山の大物忌神は正五位下の神階を授けられた。同七年七月二六日条では、従四位下の神階と、封戸二戸が寄進された。その理由を述べた宣命に、
とある。「石兵零利止申」とは、前年の承和六年に田川郡西浜(現山形県)の砂地に隕石が多数落下したことをうけるもので、それと遣唐使が南海で賊を破ったこととの結付きは不自然だが、この時期、なお蝦夷の不穏な動向を前に、辺境の神として大物忌神の神威に注目したものであろうか。
大物忌神は「三代実録」にも度々記される。貞観四年(八六二)一一月には朝廷の祭事にあずかる官社に引き上げられ、同六年には二度神階が授けられて従三位上、同一五年四月五日条では正三位が授けられた。鳥海山の神が重んじられた背景について、貞観一三年五月一六日条は、
と記し、大物忌神社が鳥海山上にあり、四月八日の噴火と兵乱を結び付けていることがわかる。その例証として、弘仁年間(八一〇―八二四)に噴火があり兵乱が起こったとあるが、この噴火は記録にない。大物忌神は出羽国の名神で、鎮謝報祭をしないと天変地異や兵乱が起きるとし、国守に命じて報祭を行わせ、神田を汚す墓や骨を除かせた。
大物忌神への期待は、元慶の乱に際してもなお大きく、元慶二年(八七八)八月四日には勲三等、同四年二月二七日には従二位の神階が授けられた。さらに「三代実録」仁和元年(八八五)一一月二一日条に「去六月廿一日出羽国秋田城中、及飽海郡神宮寺西浜雨石鏃、陰陽寮言、当有凶狄陰謀兵乱之事、神祇官言、彼国飽海郡大物忌神、月山神、田川郡由豆佐乃売神、倶成此恠、崇在不敬、勅令国宰、恭祀諸神兼慎警固」とあり、蝦夷対策と兵乱に備える祭祀を命じている。この記事にある神宮寺は吹浦にあり、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった。九世紀末には鳥海山に神仏混淆の信仰が入っていたことがわかる。
中世に入り、修験道の発達に伴い、鳥海山は出羽地方の修験道場として発展した。また古代以来の国家鎮護の社としての役割ももち続け、承久二年(一二二〇)には鎌倉幕府の命による大物忌神社の修造が伝えられ(吾妻鏡)、元徳三年(一三三一)六月「羽州由利郡津雲出郷」(矢島地方)の豪族が銅器識文を鳥海山に寄進したと伝えられる(大泉叢誌)。正平一三年(一三五八)八月三〇日北畠顕信は「天下興復、別而陸奥出羽両国静謐」を祈願して鳥海山に「由利郡
修験としての鳥海山の登山口は、現在の秋田県側に
文禄三年(一五九四)一〇月二三日秋田実季の上洛に際しての秋田実季家臣誓詞(秋田藩家蔵文書)に「当国之鎮守羽黒、月山、鳥海」とある。慶長五年(一六〇〇)八月二〇日の戸沢政盛・最上義光起請文(戸沢文書)にも同様にあり、秋田氏・最上氏ともに
近世にも、由利郡内の鳥海山修験の中心は矢島口であった。天明元年(一七八一)の矢島郷寺院控(鳥海山史)によると、修験寺院は学頭の
現矢島町城内字
滝沢口は
修験道の発達に伴い、天台系の本山派(順峰)と真言系の当山派(逆峰)の間に対立が生じ、山頂の支配権、嶺境争論に発展した。慶長一九年に滝沢口と矢島口は、鳥海山登山の順逆の出入りについて争い、滝沢口が敗訴した(由利十二頭記)。元禄一四年(一七〇一)に矢島口は山頂の社殿の支配権と鳥海山の嶺境に関して蕨岡口を三宝院に訴えた。三宝院は山頂社殿の支配権について矢島側の主張を退け、嶺境については不問とした。不問にされた鳥海山の境界は、矢島藩・荘内藩にとって重大な問題であり、解決は幕府の手にゆだねられた。宝永元年(一七〇四)幕府は「西ハ笙野嶽腰ヨリ稲村嶽之八分ニ至リ東ハ女郎嶺之腰迄不毛之地由利飽海両郡ニ相定」(飽海郡誌)との裁断を下し、鳥海山の北麓八合目以南は飽海郡となった。
現鳥海村に伝わる本海番楽は、江戸初期に醍醐寺三宝院の本海が伝えたといわれる獅子舞で、本海系には鳥海山日立舞(象潟町)、冬師番楽・釜ヶ台番楽・伊勢居地番楽(
昭和三八年(一九六三)象潟海岸などを含み鳥海国定公園に指定された。
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山形・秋田県境に位置する火山で、標高は二二三七メートル、山頂は山形県域にある。二つの円錐状成層火山から構成され、
古くは
現在山頂には大物忌神社本殿が置かれ、山麓の
嘉祥四年(八五一)出羽国に陰陽師が設けられた。その任務は夷狄の動きを陰陽師の占いによってあらかじめ察知し、いち早く対処するもので、仁和二年(八八六)飽海郡の諸社に降った石鏃の異変について、陰陽師は「蝦夷の乱に備えよ」と占っている。この陰陽師が、正月の追儺の節会において読んだ祭文とは、穢く悪しき疫神の住む所を千里の外(東は陸奥、西は九州志賀島、南は土佐、北は佐渡の外)に決めて、五色の宝物を手土産に国家の外に追放しようとするものであったが、出羽国府の置かれた酒田市
古代国家の守護神としての鳥海山大物忌神社は、「本朝世紀」天慶二年(九三九)四月一九日条にみえる蝦夷の反乱に際して噴火してその騒乱を知らせたという記事を最後にしてその歴史的使命を閉じる。一一世紀から一二世紀にかけて、当山の北と南の平野部では在地領主の開発が進み、領主は開発した私領の一部を大物忌神社に寄進し、神田(給免田)としたと思われる。こうした在地の変化に対応するように大物忌神社は出羽国一宮になっていった。正平一三年(一三五八)八月三〇日の北畠顕信寄進状(大物忌神社文書)に「出羽国一宮両所菩薩」とあるが、大物忌神社が一宮になったのは、他国の例からして一三世紀のことと考えられる。一宮として出羽国の神祇体系の中核的な存在となり、留守氏による羽州地下管領権の統括下に置かれた。承久二年(一二二〇)一二月三日の関東御教書(同文書)は、「出羽国両所宮」の修造を出羽国新留守所に命じている。
中世を通じて大物忌神社に対する在地領主の寄進は続けられた。元徳三年(一三三一)源正光と滋野行家が大旦那となり、由利郡
鳥海山の山麓は古くから交通の要衝であった。古代出羽国の駅路は出羽国国府を通って
当山が辺境を守護する山や出羽国一宮として意識されたのは、このような都鄙往来がもたらしたものであった。能因が「世の中はかくても経けりきさ潟の海士の苫やをわが宿にして」と詠んだように、山麓は都人の歌枕にも登場する世界であった。一方、小滝熊野神社の平安時代中期の蔵王権現像は、紀伊国熊野神社につながる聖たちの活動の足跡であると同時に当山が修験の山となっていったことの表れでもあった。平安時代中期、山麓一帯には天台教学の教線が伸び、各地に拠点となる道場が成立する。吹浦とも小滝ともいわれる「大物忌神社神宮寺」、象潟
僧侶・聖たちの道場となった吹浦神宮寺には、暦応元年に仏師良覚によってつくられた阿弥陀如来坐像(松葉寺蔵)と永正三年(一五〇六)三月一八日の胎内墨書銘をもつ木造の薬師如来像(同寺蔵)が安置されていた。前者は月山の、後者は大物忌神の本地仏であった。同寺は成城坊・東福坊・千手坊などの子院を擁していたが、一方秋田県側の小滝にも神宮寺があり、観音菩薩(小滝金峰神社蔵)を本地仏としていた。鳥海山の二つの本地仏は当時の本地垂迹の体系が重層的な構造をもっていたこと、また鳥海山を取巻く地域の交流が重層的な構造であったことを物語る。仏教的世界・修験的世界が当山を取囲んでいく一方で、前出弘仁年中の噴火の原因が、「墓塚の骸骨が山水を汚したため」であったということ、小滝の金峰神社にみる立木観音が、鳥海山大権現の降臨の依代となる奈曾滝という霊的な場に立っていたことなどを併せ考えるならば、在地の人々にとっては古くから葬送の場、霊のこもる山、現世と来世の境界領域にある霊山と意識されていたと考えられる。
建武四年(一三三七)七月一〇日の足利直義御判御教書(円覚寺文書)で
中世から近世にかけて当山は全国有数の修験道場であった羽黒山との密接な関係のなかで、山岳信仰を保ち続けた。いわゆる出羽三山とは現在では羽黒山・月山・湯殿山の三山をさすが、戦国期には湯殿山に代わって当山が入り三山を構成していた。近世には修験の山として、大名の厚い保護と人々の信仰に支えられ、山麓には多くの修験の根拠地が栄えていた。現秋田県側では矢島口(一八坊)、
修験道の発達に伴い、天台系の本山派(順峰)と真言系の当山派(逆峰)の間で対立も生じた。慶長一九年には滝沢口と矢島口の間で入山の順逆をめぐって相論となり滝沢口が敗訴している(由利十二頭記)。元禄一四年(一七〇一)には山頂社殿の支配をめぐって蕨岡口と矢島口との間で争いとなった。これは矢島・庄内両藩境の問題ともなったために解決は幕府の手にゆだねられ、宝永元年(一七〇四)の裁許により、山頂北八合目以南は飽海郡域とされた(飽海郡誌)。修験者たちによって演じられた山伏神楽は山形・秋田県域では番楽ともよばれたが、鳥海山修験の手によって伝えられた番楽も、山麓の村々で演じられていた。現在も遊佐町
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