県の南東部に位置し、北アルプス(飛騨山脈)の北部にあたる。雄山(三〇〇三メートル)・大汝山(三〇一五メートル)・富士ノ折立(二九九九メートル)で立山本峰を構成する。また立山本峰・浄土山(二八三一メートル)・別山(二八八五メートル)を総称して立山三山という。狭義では雄山神社の峰本社がある雄山あるいは最高峰の大汝山をさす場合もあるが、広義では劔岳(二九九八メートル)をはじめ周辺の山を含んだ立山連峰の中心部、ひいては連峰全体をさした。日本三霊山の一。
〔山名〕
富山平野の東に屏風を立てたようにして重畳と連なる大山脈の総称がタチヤマであった。後世タテヤマとなったが、「万葉集」はじめ古い文献はすべてタチヤマである。タテヤマのかたちで仮名書きされた確実な例は室町時代からである。中世以降、音読してリュウサンともよばれた。天文一七年(一五四八)の運歩色葉集(静嘉堂文庫)では「り」の項に立山を載せる。慶長年間(一五九六―一六一五)加賀藩主前田利長も「りう山」と書き、利長室玉泉院の侍女の奉書にも「りうさん」とある。近代に入り、ウォルター・ウェストンの「日本アルプス登山と探検」でも立山下温泉をリュウザンジタと記している。しかしリュウサンは一般化せず、多くタテヤマとよんできた。タチヤマは太刀山の意というのが通俗的解釈であるが、むしろ、そびえ立ちたる山、切立ちたる山の意で、これに神の顕現を意味するタツの意も最初から加わっていたのであろう。太刀のイメージが加わるのは後世と考えられる。ほかに入山禁止の断ち山、神の宿る館山などの説がある。
立山と人間生活の関係を示す最古の史料は立山町美女平から出土した縄文土器で、同時に石鏃も出土したという。他の山の例でみると、山岳の一角にわざわざ祭祀用の土器を埋納したものがあり、生活に適しない標高一〇〇〇メートルの美女平の土器も立山に対する信仰的遺物であろう。その土器は行方知れず、形状・出土状況も不明である。なお立山町芦峅寺堂の本尊である尊は黒ずんだ怪異な相貌で、縄文時代の土偶を思わせる。縄文人の造型感覚を伝えたものとする見解もある。
〔立山と万葉集〕
立山が文献に表れた最初のものは「万葉集」である。天平一八年(七四六)秋、越中守となって赴任した大伴家持は、天を突いてそびえ立つ立山連峰に感動した。国府(現高岡市)からその壮観を望んだ家持は、翌一九年四月に「立山賦」(巻一七)長歌一首・短歌二首を歌った。そのなかで「すめ神の領き坐す多知夜麻」、すなわち尊い神の領有支配したまう神山と歌い、「常夏に雪降り敷き」清浄壮麗なことを取上げ、「帯ばせる加多可比河の清き瀬」が立山と密接不可分の聖なる川と強調した。反歌では立山の常夏の雪が「神から」、すなわち立山の神格の発現であろうと賛嘆した。この歌に越中掾大伴池主が唱和した(巻一七)。池主は、生き生きと具体的に歌った。「朝日さしそがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し分け 天そそり高き多知夜麻」と歌い出し、すべて立山にかかる重層的構成の長歌となっている。朝日が射すとき、富山平野の東に連なる立山連峰は逆光線で煙ってみえ、「そがひに見ゆる」、うしろ向きにみえるとその様子を示した。「神ながら御名に帯ばせる」とは、神のまま尊い名をもっていらっしゃる立山ということで、立山を神山とし、敬語を用いている。そして白雲を押分けて天高くそそり立つと歌ったが、「天そそり」という語は「万葉集」中、池主がただ一回立山に使用しただけである。池主は続いて「冬夏と 分くこともなく 白妙に 雪は降り置きて」と万年雪を歌い、「こごしかも 巌の神さび」、岩がゴツゴツとして神々しいと険阻なことに感動し、「たまきはる 幾代経にけむ」と悠久感に浸っている。そして「峰高み 谷を深みと 落ち激つ 清き河内」と大きな落差で落ちる谷川に場面を転じ、その川沿いの地に朝夕ごとに雲霧のかかることを歌い、この山谷を「万代に言ひ継ぎ行かむ」として一首を結んだ。壮大な立山賛歌、同時に最古の日本アルプス賛歌といえよう。
天平二〇年春、家持は越中国内を巡視し、延槻河(早月川)を馬で渡り、「立山の雪し消らしも延槻の川の渡瀬あぶみ浸かすも」と歌った(巻一七)。早月川が立山の雪解けで増水し、馬の鐙まで水に浸ったと詠んでいる。「万葉集」中、雪解け増水を歌った作はわずか三首で、うち二首は射水河、一首がこの延槻河である。日本アルプスの谷川で「万葉集」に登場するのは片貝川と早月川の二川だけで、いずれも立山との関連で歌われた。また標高三〇〇〇メートル以上の高山で「万葉集」に登場するのは不尽(富士山)と立山のみで、白山の名も出るが、山の景観ではなく、シラヤマカゼすなわち白山から吹下ろす風の寒さを歌ったものである。なお家持は越中で雨乞の長歌を作り、「山のたをりにこの見ゆる天の白雲」と歌った(巻一八)。「山のたをり」は山の鞍部のことで、「万葉集」のなかでは家持の二首だけである。先の歌は立山連峰の大鞍部大窓やブナクラ乗越から雲の立つ景観を思わせる。
〔熊と白鷹―立山開山伝承〕
「万葉集」に歌われた立山は遥かに敬い拝む神山であった。山麓には立山の神霊を祀る施設もあったとみられ、「立山賦」に片貝川が歌い込まれたのは立山信仰にかかわる有力な施設であったためであろう。後世まで片貝川は立山神のふるさとといわれ、片貝川の小石を持参して頂上に供える習俗は近代まで続いていた。伝説では、越中守に任命された佐伯有若が一子有頼を伴って赴任し、片貝川と布施川とが落合う地点に館を定め、政務を担当したという。有頼が父有若愛育の白鷹を持出し、鷹狩したところ鷹は放逸した。有頼が鷹のあとを追うと、片手に剣、片手に珠数を持った老翁が現れ、鷹の行方を教えた。これは地主神の刀尾天神であったという。ようやく鷹を見付けたとき熊が現れて有頼を襲う。そのはずみで鷹はまたもや飛去ってしまう。有頼は怒り弓を射ると、矢は熊の胸に突立ち、熊は山奥へ逃げ、有頼はこれを追跡した。このとき草をかみ元気を回復した坂を草生坂、妖気迫り、抜刀して切払った坂を断截坂、称名念仏の声に励まされてやすやすと登った坂を刈安坂といい、念仏の声は滝の音だったので、その滝を称名滝といい、滝を伏拝んだ地を伏拝みというなどの地名説話が続く。岩穴に逃込んだ熊を仕止めようとすると、岩穴は明るく輝き、仏の姿がみえ、仏の胸に有頼の矢が突立ち、血は蓮台にまで滴っていた。驚きひれ伏す有頼に仏の声が「地獄も極楽も兼ね備わったこの霊山を開くべし」と響く。有頼はその場で弓矢を切り、髪を剃り仏門に入り、僧名を慈興と称したという。慈興は山を下って修行し、立山を開くため生涯を捧げ、山麓に芦峅寺・岩峅寺(現立山町)など山岳信仰の基地を築いた。八三歳になって死期を悟った慈興は芦峅寺の地下に入り没した。以上が「和漢三才図会」巻六八、「立山縁起」などに記された標準的な立山開山伝承である。
立山開山伝説の最古の姿は「類聚既験抄」で立山権現は大宝元年(七〇一)の建立とされ、立山の狩人が熊を射て追跡したところ、その熊は阿弥陀如来であったという簡単な筋で、山を開いたのは無名の狩人とされる。これが転じて鎌倉期増補の「伊呂波字類抄」十巻本収録のかたちになったとみられる。「類聚既験抄」のほうが成立は早いが、伝承内容の新古は逆であろう。「伊呂波字類抄」巻四の立山大菩薩の項では越中守佐伯有若が鷹を追い、熊を追って高山に登ったところ、射殺した熊は阿弥陀如来であった。有若は僧となり慈興と改名。山麓薬勢の弟子となり、師弟協力して立山を開いた。大河(常願寺川)の南の本宮・光明山・報恩寺(現大山町)は薬勢が、大河の北の芦峅寺根本中宮・岩峅寺などは慈興が開いたと伝える。立山開山伝承は無名の狩人から国守有若、有若からその子有頼へと三転して成長した。なお有若は架空の人物とされていたが、延喜五年(九〇五)七月一一日の佐伯院付属状(随心院文書)の署名に「越中守従五位下佐伯宿禰有若」とみえ、実在が立証された。
山麓の狩人が霊異に感じて立山を開いたとき、国守有若が積極的に支援したことから有若開山というかたちになったとも推測される。「今昔物語集」巻一四に立山信仰を援助した国司の話の出てくるのが参考になろう。有若は宿禰という姓をもち、大伴氏の支族の家柄であるが、山麓の狩人は土着民だったのではなかろうか。江戸時代、若衆組の立山登山の慣習が反映して国守からさらに国守の息子の少年の開山へと転じていったのであろう。なお大伴家持の愛鷹の放逸したことを歌った長歌が「万葉集」巻一七にあり、立山開山伝説に影響していると思われる。また狩人の射殺した熊が仏であったという話の筋は紀州の熊野縁起にもあり、両者は関係を有していたのであろう。なお南北朝時代成立の「神道集」巻四の越中国立山権現事は、「越中国ノ一宮ヲハ立山権現ト申ス」とし、十二所権現王子の霊験を詳述し、大宝三年教興上人の開山としている。
「伊呂波字類抄」十巻本にすでに岩峅寺根本中宮・芦峅寺・本宮の名がみえ、「和漢三才図会」は岩峅寺を麓大宮と記す。本宮はのち衰微したが、大宮・本宮・中宮と並ぶ重要な名称で、本宮には立蔵神社がある。用字は異なるが、アシクラ、イワクラ、タチクラと鼎立するかたちであったことを思わせる。「師資相承」坤に天台宗の近江園城寺座主の康済が昌泰二年(八九九)に没した記事とともに「越中立山建立」とみえており、園城寺との関係を有していたと推測される。ちなみに芦峅寺の不動山の岩壁はエンジョウジカベと称される。
〔立山の祭神〕
立山は「万葉集」には「すめ神の領き坐す」山と歌われた。すめ神とは尊い神聖な神の意である。「日本紀略」寛平元年(八八九)八月二二日条に雄山神、「延喜式」神名帳に新川郡雄山神社がみえ、立山権現にあたるとするのが通説であるが、それを裏付ける確実な史料はない。「越中国式内等旧社記」に「雄山神社 式内一座 岩峅村鎮座 所謂立山之神霊也 今謂小山明神 或云立山権現」とあるのが同一視した最古のものである。また桑名光時奉納額に「立山雄山宮」と書かれ、戦国時代の史料として重視されてきたが、近年、光時は江戸中期の人であったことが判明した。岩峅寺多賀坊に保管されている峰本社棟札のうち天明三年(一七八三)のものには「北国之鎮守越中国立山雄山宮」と明記され、立山を雄山神とすることを加賀藩も承認していた。山名は江戸時代の絵図などに「立山」「立山御前」あるいは「峯本社」などと記され、「雄山」と記したものは皆無である。紀行文などでも文化九年(一八一二)の野崎雅明の「立山記」が雄山と記すのみである。このように江戸時代中期から立山・雄山同視史料が時折見受けられる程度であったが、明治初年の神仏分離に際し立山権現は雄山神社に改称された。
雄山神社は標高三〇〇三メートルの雄山絶頂に峰本社を築き、山麓芦峅寺に中宮(雄山神社祈願殿)、岩峅寺に麓大宮(雄山神社前立社壇)を設け三社一体であった。日光の二荒山神社や加賀白山宮も同じような構成であるが、日光や白山では本社は山麓で頂上は奥宮扱いであるのに対し、立山では頂上の社を峰本社と称するように頂上を重視しており立山信仰の大きな特色となっている。またほかの霊山ではおおむね一合目・二合目と数え一〇合目に至るのに対し、立山では一ノ越・二ノ越と数え五ノ越に至る独得の呼び方を伝承した。この呼称は古く「伊呂波字類抄」十巻本に山容を仏の姿に見立て、「躰厳石之山、膝名一輿、腰号二輿、肩字三輿、頸名四輿、申頭烏瑟五輿」とある。
雄山神社の祭神は伊邪那岐命が主神、手力雄命が副神で、仏教的には両神の本地は阿弥陀如来と不動明王である。天和三年(一六八三)大淀三千風が立山に登ったとき悪天候だったので、「相殿の手力男」に歌を捧げて回復を祈っており(立山路往)、これが手力雄の神名が立山に関して記された最初であろう。「和漢三才図会」巻六八は立山権現の祭神として伊弉諾尊、刀尾権現社の祭神として手力男命をあげる。一方、芦峅寺泉蔵坊本「立山大縁起」には「立山禅定ノ濫觴トハ神祇五代ノ開基、伊弉冉・伊弉諾命ノ霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元、衆生流出ノ本土也」とあり、国初の男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。岩峅寺の「立山略縁起」の一つにも「立山大権現は伊弉諾・伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(「越中国立山禅定名所附図」石川県金沢市立図書館蔵)。明和七年(一七七〇)京都の公卿町尻兼久が従臣を遣して岩峅寺の立山権現に参詣させた時も、岩峅寺の社僧は立山は国初の男女両神を祀ると明言している(岩峅寺文書)。元禄九年(一六九六)橘三喜は立山に登拝し絶頂の社図を描いているが、それは祠を三間に仕切り、伊弉諾・伊弉冉・瓊瓊杵三尊を祀ったかたちである(諸国一宮巡詣記)。このように女神イザナミを祭神とする伝承があったことは無視できない。立山曼荼羅図中数点には、劔岳の一角に女神が描かれており、これもイザナミ祭神伝承と併せて考察すべきであろう。
〔生き地獄としての立山〕
「万葉集」に絶賛された立山は、平安時代の和歌集にはまったく歌われなくなる。代わってシラヤマ(白山)が登場する。男性的な立山よりも女性的な白山が平安貴族の好みにあったのであろう。立山権現が他地に進出しなかったのに対し白山宮は積極的に都周辺へ進出し、大きな政治勢力をもっていたことも関係しよう。平安末期になってにわかに立山が脚光を浴びる。山中に熱湯・熱煙を噴出している火山活動の余燼、これを仏教に説くところの地獄がこの世に出現したもの、「生き地獄」として恐れたのであった。立山の地獄説話は、まず「本朝法華験記」巻下に記され、続いて「今昔物語集」に幾編も収録された(巻一四・巻一七)。「今昔物語集」巻一四(修行僧、至越中立山会小女語第七)には「日本国ノ人、罪ヲ造テ、多ク此ノ立山ノ地獄ニ堕ツ」と記されている。このほか「康頼宝物集」上・「三国伝記」などにも類話が載るが、ほぼ修行僧が立山山中で女の亡霊に遭遇し、女は堕地獄の苦しみを訴えて遺族への伝言を請う。遺族の営む法要・写経などによって亡霊は救われるという筋である。越中国の書生の妻が地獄に落ち、これを救うための写経に対して国司が積極的に協力し、隣国にまで働きかけてついに千部の写経を完成させたという話もある(「今昔物語集」巻一四)。住吉慶恩作「地蔵菩薩霊験縁起絵巻」中には、「今昔物語集」の堕地獄娘と修行僧延好と地蔵代受苦の説話が描かれており、立山を描いたものでは現存する最古のものとされる。平安時代の立山地獄の亡霊はすべて女人であったが、室町時代の謡曲「善知鳥」に初めて男の亡霊が現れ、能として上演もされた。地元でも同様の伝説が幾編も伝えられ、立山といえば亡者の山、地獄の山というのが社会通念となり、立山は浄土信仰の山となっていった。なお芦峅寺の雄山神社祈願殿は古くは芦峅寺と称されたが、戦国期以降中宮寺と称され、岩峅寺の雄山神社前立社壇は中世には立山寺、近世には岩峅寺と称した。
〔衆徒と立山曼荼羅〕
芦峅寺・岩峅寺に住着いた衆徒が立山を護持し、その信仰を広げてきた。寺坊の数は時代によって増減があったが、江戸時代後期に岩峅寺二十四坊・芦峅寺三十三坊五社人に落着いた。岩峅寺は主として地元の越中・加賀・能登に布教し、芦峅寺はそのほか全国各地に布教した。岩峅寺ものち他国へ教圏の拡大を図り、芦峅寺との争論も起こった。加賀藩はおおむね両峅の住分けを認め、勝手な進出は許さなかった。秋の末になると、芦峅寺の衆徒は担当の国へ出かけた。日光坊は尾張、善道坊は三河というように坊によって担当地区は決まっていた。担当の村で有力者の家などを会場にして村人を集め、立山曼荼羅の掛図を掛けてその絵解きをした。衆徒は独得の節付けで有頼開山の由来をはじめ多くの地獄説話、芦峅寺堂の大灌頂・女人禁制にまつわる伝説等々を語り聞かせた。立山に参詣すれば堕地獄の罪も許されると説き、感銘を受けた人々は翌年夏、はるばる立山登拝に来るのであった。同時に立山の護符・経帷子・略絵図・立山の霊薬などを頒布した。この霊薬頒布が富山の配置売薬行商を特色づけたともいわれる。諸国へ出かけての絵解き布教は回国とも回檀ともいった。
本来の曼荼羅は仏教(とくに密教)の宇宙観を示し、仏・菩薩を秩序整然と配列した静止的なものであるが、立山曼荼羅は開山由来などの連続的絵物語を描いたもので、いわば絵巻物が一図面に圧縮されたようなものといえよう。立山曼荼羅という名称はほぼ明治以後で、江戸時代には立山御絵伝・立山絵図とよばれていた。立山曼荼羅には芦峅寺系・岩峅寺系のほか、どちらにも属さない系統のものがある。芦峅寺系の曼荼羅は上部中央に立山、その右に浄土山、左に別山と劔岳を描いた大きな構図で、浄土山の上空に日輪、劔岳の上空には月輪を描き、立山の聖界に一定の秩序を与えている。浄土山には三尊二十五菩薩の来迎、劔岳・別山の下部には地獄の凄惨な場面を大きく描き出し、浄土と地獄を対照させている。劔岳の下半分は地獄の針の山で、罪人が鬼に追われよじ登っていく。図のほぼ中央には称名の滝が落下している。図の下部左が佐伯有若の館で、開山伝説の発端とされる有頼が登場し、鷹と熊を追い、立山頂上直下の玉殿窟で仏前にひれ伏す場面までが描かれている。しかし地獄の場面が強調されて描かれているため、有頼開山の物語は目立たない。下部左側には岩峅寺の社堂、右側には芦峅寺の社堂を記載。芦峅寺の閻魔堂・布橋・堂は大きく描かれ、この一橋二堂を舞台に布橋大灌頂の行事が描き出されている。絵解きの際、力を入れて解説する場面である。ほか女人禁制を犯した女が美女杉・禿杉・姥石になっていく伝説、材木坂・鏡石の伝説などが登拝路沿いに点々と描かれる。一ノ谷に巣食う悪天狗と、これを調伏する弘法大師も描き込まれ、画面は多彩を極める。ただし岩峅寺系の曼荼羅では、芦峅寺の一橋二堂とこれを舞台とする行事は通常描かれない。なお劔岳は立山信仰に大きな位置を占め、立山曼荼羅などによれば死界の山・冥界の山と観念され、遥拝する山であった。
本格的な曼荼羅は四幅で一画面を構成するが、三幅物・二幅物の簡略図もあり、礼拝用にしたらしい一幅物もあるなど多様である。立山曼荼羅は毎年衆徒がこれを持歩き、絵解きに使用したため破損しやすく、傷んでくると信者たちの寄進で描き直し更新を重ねたので、現存するものはおそらく江戸時代中期以降のものであろう。明治の神仏分離で回国絵解きもおおかた断絶(昭和一〇年代まで細々と続けられていたという一、二の例外もある)、坊ごとにあった曼荼羅も散逸し、現存の判明しているものは約三〇点で、なかには回国先の寺や檀家に預けたままになったものもあるという。曼荼羅中、最も古いおもかげをとどめているのは現富山市梅沢町の来迎寺本、最も精細なのは江戸末期に静寛院宮が寄進した吉祥坊本であろう。
〔岩峅寺の出開帳〕
岩峅寺では社堂修理の費用などを捻出するため、出開帳と称し神仏像を神輿に載せ村や寺を巡回し、人々に拝観させ、曼荼羅の絵解きもして賽銭を集めた。巡行道中、法螺貝を吹き、太鼓をたたくなど賑やかなものであったらしい。文久二年(一八六二)秋には魚津法善寺をはじめ明日・滑川・富山東岩瀬の四ヵ寺を回っており、一ヵ寺三日ないし五日間であった。翌三年春には富山城下中野来迎寺をはじめ、放生津(現新湊市)、氷見・小境(現氷見市)の四ヵ寺から能登へ越え、鳳至郡・珠洲郡・羽咋郡の七ヵ寺をめぐり、さらに加賀河北郡の一寺、計一二ヵ寺を約一ヵ月半かけて巡回した。同年秋には加賀金沢卯辰観音院で一四日以上、加賀小松誓円寺、本吉世尊院(現石川県美川町)で各七日間開帳といった具合に、加賀路では予定日数の日延べまで願出ており、参詣人の多かったことを物語っている(以上「開帳旧記宝物弘通旧記」加越能文庫)。藩主の家族なども参詣しているので岩峅寺の収入は膨大だったであろう。
岩峅寺はその出開帳を遠国にまで拡大しようとした。芦峅寺は多年の地盤を侵害されるとして争論となった。これについて加賀藩は岩峅寺側の申立も認め、「立山権現」「立山別当」などと称するのは岩峅寺の特権として、芦峅寺にはこれを禁じた。また芦峅寺が出開帳を願出たこともあったが、許可されなかった(「自他国寺庵宝物并法談願旧記」加越能文庫)。芦峅寺は諸国回檀、岩峅寺は地元出開帳といったかたちで両峅のバランスをとるよう藩は配慮していたのであろう。両峅の争いは激しく、芦峅寺の護符の包みを岩峅寺の僧が踏破ったとか、芦峅寺の祭礼に掲げられていた「立山大権現」の旗を岩峅寺僧がとがめ、踏汚したとかの事件もあった(「納経一件留帳」芦峅寺文書)。富山の寺で芦峅寺の衆徒が絵解きしている場へ岩峅寺の僧が踏み込み、曼荼羅を奪い去った事件もあったという。
〔立山禅定〕
信仰的登山を禅定といい、禅頂とも書いた。また霊山の頂上を禅頂と称した場合もあり、立山・白山・富士山を日本三禅頂と称した。夏期、芦峅寺・岩峅寺の宿坊はこれら禅定の人々で賑わった。諸国檀家の人を道者衆、それ以外の登拝者をマイレン衆とよび、宿坊での待遇もまるきり違っていたという。宿坊では登拝者に中語(仲語)をつけて案内させた。中語とは神仏と人々の仲介者の意とされる。中語は登拝者の荷を担ぎ、立山の伝説を語り聞かせながら登ったという。明治末期には芦峅寺八〇人・岩峅寺四〇人・上滝町(現大山町)三〇人の計一五〇人に限り中語の鑑札を交付して制限し、他地からの立山案内は認めなかった。大正一〇年(一九二一)中語の案内人組織を廃止し、立山案内人組合を設立、中語は近代登山のガイドに成長していった。古くは登拝時に修験者・禅定者は玉殿窟・虚空蔵窟で泊ったと伝えられるが、戦国時代には宿泊施設として室堂が建設された。元和三年(一六一七)二代加賀藩主前田利長の室玉仙院が再興し、その後加賀藩が改築した。日本最古の山小屋とされるが、堂の字が用いられているように信仰登山のための施設で、岩峅寺の社僧(明治以後は神職)が夏期に滞在した。室堂でコモをかぶり大炉に火を燃やして寒さをしのぎ、一夜を明かした登拝者は翌暁社僧に引率されて立山を登り、峰本社に至った。簡単な登山は雄山まで往復、本格的な登山はまず浄土山に登り、雄山・別山へ縦走(「三山かける」という)、大走り小走りを下り、玉殿窟を拝み、地獄谷のすざまじい有様を見て室堂に帰り着いた。
〔女人禁制〕
他の霊山同様、立山も女人禁制の掟を厳しく守り、これを冒した者の罰に関する伝説が語り継がれた。若狭の止宇呂尼(長良尼)が二人の侍女を連れて立山に推参したが、山麓の坂に積んであった神社建築用材をまたいだため材木は石に変じ、材木坂の材木石となった。一侍女は杉に変じ美女平の美女杉となり、さらに進むと、童の侍女も杉に変じ、禿杉となった。尼もついに力尽きて石と化して、姥ヶ懐の姥石となり、尼の投げた鏡も石と化し鏡石となったと伝える(「立山手引草」岩峅寺文書)。別の伝説では佐伯有若の母が登ってきて姥石になったという。また佐伯有頼の乳母や有頼の許嫁者が登場する伝説など様々の伝説があるが、いずれも女人禁制の侵犯者が石や木になったという筋である。女人禁制の山には女が立入ってもよいという地点に女人堂が設けられたが、芦峅寺の堂は立山におけるそれであった。
〔堂と尊〕
岩峅寺の雄山神社の境内摂社に刀尾神社があって、立山・劔岳一帯の古来の地主神とされる刀尾天神が祀られている。雄山・刀尾両社は立山・刀尾両権現などとも称された。これは岩峅寺の大きな特色とされる。これに対し芦峅寺の宗教的施設として重要な特色を示すのが堂であった。村の東の外れ、鬱蒼と茂る杉の中に閻魔堂があって閻魔王以下冥官を祀っていた。閻魔堂を出て明念坂を下ると姥ヶ谷(姥堂川とも、常願寺川の支谷)があり、丹塗の布橋(天ノ浮橋)が架かる。この橋は此岸(現世)と彼岸(冥界)との境目を意味した。冥界側に建っていたのが堂で、入母屋造、五間に七間の丹塗の建物であった。堂正面には三尊が祀られ、その左右には国数六六州にちなみ六六体の尊が祀られていたという。縄文時代の土偶を思わせる怪異な老女姿であるが、天地開闢の始め、片手に稲・麦など五穀の種、片手に衣料のもととなる麻の種を持って高天原から芦峅寺に天降り、万民に衣食を与え万物の母となったと伝える。「峅」の字と同様、「」字もまた芦峅寺で創作されたものという。尊は死後は「冥府の惣政所」、すなわち死の世界の主宰神になったといい、記紀神話のイザナミノミコトと同様の神格であった。
尊には春の初めの二月九日(現在三月一三日)村の老女が一ヵ月かかって織上げた新しい白布を着せ、古衣と取替える儀式を行う。秋の彼岸の中日には布橋大灌頂が行われた。少ない年でも三千人を下らなかったという大勢の信女が押寄せ、死装束を着けてまず閻魔堂に参入し、閻魔大王の裁きを受け、目隠しをされ僧に導かれて明念坂を下り、布橋を渡って堂へ向かう。道筋には一千三六〇反の白布が敷詰められた。これは仏教の二河白道の譬喩になぞらえたものである。心の悪い者が橋を渡ると踏外して下の谷に転落し、竜に食われるとして恐れられた。堂に入ると戸が閉められ、暗闇の中ですし詰めとなって念仏読経が行われた。のち戸が開かれると真正面に立山・大日岳・浄土山の峰々が出現し、人々は浄土に生れたかのような感激を味わい、宗教的恍惚に浸ったという。この体験をした者は死後の成仏を保障され、擬死再生の一大行事であった。大和当麻寺(現奈良県當麻町)の迎講も似た形式を有するが、立山では信女たちが自ら橋を渡り堂に入るのに対し、当麻寺では中将姫の像が渡るのを見物するだけである。
布橋大灌頂の行事は明治の神仏分離で廃絶した。堂・閻魔堂も破却され、布橋もやがて廃された。約六〇体の尊像は魚津実相院に引取られた。芦峅寺に残っていた数体のうち一体には、永和元年(一三七五)の墨書銘が施されていた(立山博物館展示)。昭和四五年(一九七〇)に立山風土記の丘が設立されたおり、布橋は復元され、堂はその基壇が発掘された。現在の閻魔堂は昭和三年に再建されたもので、南北朝時代の巨大な閻魔像や三体の尊像などが安置されている。堂の周辺から明念坂にかけて石仏群が並ぶ。石仏には尾張・三河などと刻まれたものが多い。堂の本尊は三尊で異例であるが、これは日本古来の造化三神・宗像三神・住吉三神などのかたちが残ったものか。三尊について、延宝三年(一六七五)芦峅寺から加賀藩へ提出した書上には、一尊は文武天皇またはニニギノミコト、一尊はイザナギノミコト、一尊はイザナミノミコトとある(「一山旧記控」芦峅寺文書)。これは元禄九年(一六九六)橘三喜が立山絶頂の社図で記したものとほぼ同じである。立山開山伝説では、文武天皇の大宝元年(七〇一)有頼が開き、天皇の勅許勅願を得たと古来主張してきたため、文武天皇を祭神(尊の神道上の本地)としたのであろう。
〔武将と立山〕
立山は武将によって保護されてきた。正平八年(一三五三)五月二五日の桃井直信書下状(芦峅寺文書、芦峅寺一山会蔵)によれば、直信は味方についた「葦峅寺」僧の寺家年貢を免除している。室町期には守護代神保氏の管理を受けつつ一山組織が芦峅寺を中心に編成されていった。文正元年(一四六六)六月三日には神保長誠が芦峅寺に一〇貫文を寄進し、祖母堂(堂)・炎魔堂(閻魔堂)などを造営させ、文明七年(一四七五)五月二一日にも立山権現社殿造営の用材を寄進している(ともに「神保長誠寄進状」同文書)。ほか神保氏の被官寺嶋氏なども芦峅寺に深くかかわった。芦峅雄山神社伝来の三個の黄銅製仏餉鉢(県指定文化財)には天文一六年(一五四七)の年号と神保氏被官寺嶋職恵の名が刻まれている。永禄一一年(一五六八)寺嶋職定が芦峅寺へ宛てた書状(芦峅寺文書)は、立山を山越えして信州へ越える者を厳しく取締るよう命じている。
天正九年(一五八一)織田信長の部将佐々成政は越中に入国したが、成政も立山信仰を保護した。同一一年には立山権現勧行料として四五〇俵を寄進(同年八月二〇日「佐々成政寄進状」岩峅寺文書)、翌一二年一一月には芦峅寺に対して「堂之威光承届候」として寺領を安堵し、諸堂伽藍の造営、仏供灯明を怠らぬよう厳命している(「佐々成政書状」芦峅寺文書)。同年末、成政は浜松(現静岡県浜松市)の徳川家康・織田信雄の再起を促すため冬の佐良佐良越を決行したと伝えられるが(→佐良峠)、おそらく山中に精通した芦峅寺の者が全面的に協力したのであろう。佐良佐良越の伝説は信州側にも残り、現長野県大町市の西正院大姥堂に祀られる姥尊は、成政が村人に与えたものという。ただし厨子に記された銘文には元和元年(一六一五)立山から飛来とある。芦峅寺の堂が他界信仰の特色を濃くもち、女人救済を主眼としているのに対し、西正院の大姥堂は現世利益的で、子供の保護に重点を置き、両国の宗教的風土の相違を示し興味深い。天正一三年羽柴秀吉は大軍を率いて越中を制圧、成政は降伏した。その際秀吉は「立山うはたうつるきの山の麓迄令放火候処」と記している(同年閏八月一日「羽柴秀吉書状」北徴遺文など)。翌一四年八月降伏した成政は常灯・護摩供養のため芦峅寺日光坊に宛て扶持を与えている(同月二日「佐々成政寄進状」芦峅寺文書)。佐々氏のあと越中を支配した前田利家は、天正一六年に岩峅寺・芦峅寺にそれぞれ米一〇〇俵を寄進するなど(岩峅寺文書・芦峅寺文書)、成政と同様に立山信仰を保護し、以後加賀藩前田氏に代々引継がれた。二代藩主前田利長の室玉泉院は堂に参詣したと伝えられる。岩峅寺には玉泉院寄進の石の狛犬がある。室堂も元和三年に玉泉院が再興したとされ、玉泉院が岩峅寺へ宛てた書状は一五、六通も現存しており(岩峅寺文書)、玉泉院の立山に対する信仰は並々ならぬものがあったことが推測される。年頭には岩峅寺・芦峅寺の役僧が金沢城まで赴き供物を献上する慣例で、また藩主の病気・藩主の子の出産などの折には祈祷を執り行った。
立山諸社堂のうち、頂上の峰本社、室堂、両峅の主要施設は藩費で造営された。布橋大灌頂に要する白布も藩から寄進され、当日は藩士を出張させて取締らせたという。岩峅雄山神社本殿境内に据えられた大釜は弘化二年(一八四五)に一三代藩主前田斉泰が寄進したもので、高岡鋳師金森彦兵衛の作である。藩は成政が越えたという立山裏の間道、佐良佐良越には神経をとがらせ、慶安元年(一六四八)芦峅の十左衛門・十三郎父子を案内役として調査隊を出し(国事雑抄)、以後奥山廻役を常設して、毎年立山背後の国境地帯を巡検させた。当初は軍事的意味合いが強かったが、やがて資源保護に重点を移し、信州の杣が黒部奥山で(標準和名ネズコ)などの良材を伐採するのを取締った。
〔立山の紀行と文学〕
「今昔物語集」などに修行僧が立山に登って亡霊に出会った説話、鎌倉時代の「妻鏡」には僧が俗人を引率して立山の岩場をよじ登り転落して畜生道に落ちた説話などが記されているが、登山者自身の書付けたものでは、聖護院道興の「廻国雑記」がある。しかし立山禅定の記述はごく簡単である。江戸時代になってようやく本格的な登山記が現れた。大淀三千風が天和三年(一六八三)に著した「立山路往」である。所々に登頂の実感が込められており、頂上で奇霊光を見たとあるのは、立山のブロッケン現象を書留めた最初であろう。橘三喜の「諸国一宮巡詣記」には、頂上で小鼬・ライノ鳥(雷鳥)を見たとある。池大雅一行の宝暦一〇年(一七六〇)立山登山の記録は「三岳記行」と題され、小遣帳に簡単なスケッチを添える。福光の人石崎古近の寛政九年(一七九七)の「立山禅定」は、立山で採集した高山植物が岩峅寺の宿坊で紛失した一件を記し、山神の怒りに触れぬよう立山権現が取返したものと感じ、「身の毛もよだつてぞ貴く覚えぬ」と述べている。祟る山神と慈悲の立山権現を分けて考えている点も興味深い。佐藤月窓は寛政一〇年和歌を混じえ、「立山紀行」を書いた。野崎雅明は文化九年(一八一二)「立山ノ記」を書いた。「立山ノ記」、和文の「立山紀行」の両書は「肯泉達録」に収められた。日向の修験者野田成亮の立山登山は文化一三年で、修験者らしい神秘的な体験を書付け、興味深い(日本九峰修行日記)。尾張藩士某は文政六年(一八二三)白山・立山・富士の三山を次々に踏破して「三山廻」を書いた。富山藩の漢学者大塚敬業は天保一一年(一八四〇)立山に登り、その漢文紀行を「登立山記」と題して弘化二年に刊行した。小冊子ながら立山に関する最初の単行本で、名文で登山の喜びが綴られている。
以上は登山記であるが、山麓から立山の眺望を記したものでは、まず寛正六年(一四六五)加賀の社僧尭恵が著した「善光寺紀行」がある。「かくて立山の千巌に雪いと白く見えたり」と立山新雪の印象を記している。同じく尭恵の文明一七年の「北国紀行」も立山に言及。万里集九は長享三年(一四八九)滑川で「立山独有雪」と記し、漢詩のなかで「越中六月雪粘山」と歌った(梅花無尽蔵)。葛巻昌興は元禄三年に藩主前田綱紀に従って越中路を通過、紅葉の葉ごしに新雪の立山を眺め(北陸紀行)、旅行家橘南谿は天明五年(一七八五)に来越、富山で越年し、のち「東遊記」を著したが、その巻末の「名山論」は立山連峰の景観論として白眉。加賀の金子鶴邨の「能登遊記」(文化一三年成立)は能登海上から立山連峰を見た感動を記し、スケッチも添えている。和歌では越中潜伏中の宗良親王の作「ふるさとの人に見せばや立山のちとせふるてふ雪のあけぼの」が伝承され、現高岡市牧野に江戸時代になって歌碑が建てられた。荒木田久老・僧海量・富士谷御杖・岩雲花香らは越中路を旅して立山の歌を詠み、地元の国学者五十嵐篤好も立山に関する数々の長歌・短歌を残した。俳諧発句では句空の「草庵集」(元禄一三年成立)に弥陀ヶ原での旭江の句「春夏の草咲き並ぶ花野哉」、三千風の「笈さがし」(同一四年成立)に「月ひとり涼しさうなり地獄谷」などがあり、山上・山中の風景を題材にしており注目を引く。漢詩人では大窪詩仏・亀田鵬斎・中嶋棕隠・広瀬旭荘らが立山遠望の作を残し、海保青陵は立山に登山して作詩したほか、立山の経済開発を論じた。また十返舎一九は「金草鞋」第一八編を越中立山をおもな内容として文政一一年に刊行した。地獄信仰を茶化した個所もあるが、阿波の人が立山へ釣鐘を寄進したとき道中の人々がリレー式に運搬した話を絵入りで書留めた。一九には「越中立山幽霊村仇討」の作もある。山東京伝の「善知鳥安方忠義伝」(文化三年成立)も立山を舞台にしている。
〔立山の雷鳥〕
慶安元年加賀藩三代藩主前田利常は立山一帯の「来鳥花松硫黄」などを盗む者がないように見回ることを命じている(「御制札旧記」加越能文庫)。これは高山植物・高山動物保護に関する日本最初の措置であろう。五代藩主前田綱紀は本草学を好み珍鳥を集めさせたが、雷鳥だけは捕獲させず、画家に写生させ、また立山・白山で雷鳥を実見した金沢町人を集め、その生態・形態を報告させている(国事雑抄・温故集録)。享保五年(一七二〇)には絵師梅田与兵衛が立山の雷鳥と白山の雷鳥とは種類が違うと述べたため、山廻役の斉木村(現魚津市)新左衛門を立山に登らせ、再調査したほどの熱心さであったが、やはり捕らえさせなかった。雷鳥が山神の眷属という宗教的理由に加えて下界ではすぐ死ぬという自然保護的見地からであろう。一一代藩主前田治脩も天明八年に絵師梅田陳和斎久栄を立山に登らせて雷鳥を写生させた。その絵に漢学者柴野栗山が解説文を添え、「眼上ノ赤眉、片霞ノ如シ」と記し、また「僅カモ山ヲ離ルレバ、スナハチオツ」と下界飼育の不可能を強調している(「雷鳥図記」栗山文集)。立山の衆徒は雷鳥の版画を鎮火護符として頒布し、雷鳥は立山神の使いをするカンコ鳥として大切にしたという。明治になって登山者が捕食した文献が現れる。竹中邦香が著した明治一八年(一八八五)の「越中遊覧志」などである。日本山岳会を創立した小島烏水なども、高山植物の保護は強く主張しながら雷鳥やカモシカは平気で捕食した。これら登山家が案内人として雇ったのが猟師であったことも一因であろう。現在、ライチョウ、カモシカは国の特別天然記念物に指定されている。
〔少年登山の風習〕
越中の男子は必ず立山詣をする慣習であった。立山登頂をすませてはじめて一人前の男子と認められ、村の集会にも参加を許され、結婚の資格も生じた。越中男子一生の重大な通過儀礼であった。少年は一五、六歳になると村から団体を組んで登拝した。出発に先立ち頂上に供える小石を用意し、真新しい下着を着用、氏神に参拝した。村人はこれを村境または山麓まで見送り、留守家族は身を慎しみ、息子の無事登頂を祈ったという。頂上で「立山大権現」と染抜いた赤旗を授かった少年は山麓から馬に乗って帰郷したが、村人は村境まで出迎え、家では赤飯を炊き、餅を搗き、近親近隣を招き、酒肴を調えて成人を祝った。この風習は若衆組の盛んとなった江戸時代から行われていたと考えられる。氷見の町役人田中屋権右衛門の日記「応響雑記」に嘉永四年(一八五一)倅八郎が立山登拝した記事がある。数名同行して出かけ、予定より一日早く帰宅したため、あわてて留守見舞に来ていた人々や近所・組合の人々をよび、有合せの酒肴で祝い、翌日には立山みやげを近所に配っている。少年登山は立山禅定の陰に隠れていたが、明治の神仏分離以後、にわかに脚光を浴びることになった。のち中学生の団体登山に引継がれ、第二次世界大戦後は自治体主催の成人記念登山となったが、近年は自治体も手を引くに至った。
〔神仏分離と立山〕
明治新政府の打出した神仏分離により仏僧姿で奉仕してきた立山衆徒は、半ば強制的に還俗させられた。芦峅寺の衆徒は東神職、岩峅寺の衆徒は西神職と名乗らされ、仏像・仏具はことごとく排除された。岩峅寺には仏の胸に矢が立っていたという開山伝説に基づき、矢疵如来と称して胸に矢疵をうがった独得の阿弥陀如来像が祀られていたが、これも排除された。論田村(現氷見市)の行商人が岩峅寺の明星坊に泊った際、汝の所へ連れて行けという夢告を坊主とともに受けたといい、同坊の矢疵如来像は同村に譲り渡され、共同管理で現在まで護持されている。このほか幾体もあった矢疵如来は各地に散失した。芦峅寺では堂・布橋の廃絶、尊六〇余体の散失、布橋灌頂会の断絶などがみられた。露坐の銅造大地蔵尊二体のうち一体は越前永平寺、一体は倶利伽羅峠の長楽寺(現廃寺)からさらに今石動町(現小矢部市)の観音寺に移され、それぞれの寺に現存する。この像は文政八年に信州松本の立山講から寄進されたものであった。芦峅寺の梵鐘は三河国豊橋(現愛知県豊橋市)在の信者衆から文政五年に寄進されたもので、「南無御大日如来」の銘があったが、本宮(現大山町)の念法寺に移され、同寺に現存する。仁王門は魚津長教寺へ移され、さらに京都某所へ転売されたという。芦峅寺講堂の本尊であったらしい阿弥陀如来像(高さ一・五メートル、木像)は能登羽咋の本念寺に移された。さらに北海道へ売られるはずであったが、船出の日になると海が荒れたため羽咋に安置されたままになったといい、同寺に現存する。
寛喜二年(一二三〇)在銘の銅造男神像(国指定重要文化財)には「立山禅頂」の銘があり、俗に立山神像とよばれ、頂上の神体であったとも、芦峅寺帝釈堂の本尊だったともいわれる。姿は帝釈天で、「今昔物語集」巻一四の地獄説話にみえる「天帝釈」を想起させ貴重である。同像も人手に渡っていたが、昭和四二年県によって買戻され、現在立山博物館が所蔵。このほか多数の仏像・仏具などが行方不明になった。立山の古文化財と信仰習俗はこうして徹底的に破壊された。立山曼荼羅も他国の檀家に預けたままで、回収不能になったものも多いという。山中地名も仏教色を払拭され、浄土山は浄山または日向山、大日岳は朝日岳、伽羅陀山は炎高山、地獄谷は火吹谷、賽ノ川原は斎ノ川原、懺悔坂は散米坂、室堂は室所などと改めさせられた。しかし無理な改称は長く続かず、わずかに現地発行の地図などに新山名で記載された程度で旧称に復した。
〔近代登山と立山〕
江戸時代の文人登山の後継者である小杉復堂は、近代登山家にも似た登高精神を有した。復堂は富山藩士で、明治以後富山中学校・富山師範学校などで教師を勤めた漢学者であった。富士・日光白根・乗鞍・御嶽・白山・大蓮華諸山の優れた登山記を書いたが、その最初は明治一一年の立山登山であった。戦国時代からの道は細々と信州から針ノ木峠・黒部川・佐良峠を越え立山温泉から富山平野へ下っていたが、明治初年旧加賀藩士と旧信州大庄屋とで開通社が結成され、切広げられた。越信連帯新道(越信新道)とも針ノ木新道とも立山新道ともよばれ、有料道路であった。イギリスの登山愛好者たちがこの道を利用して立山に入山した。日本アルプスの名付親ウィリアム・ガウランドもエドワード・ディランもこの道から立山に登り、続いて明治一一年イギリス領事館の書記官(のち公使)のアーネスト・サトウが信州から針ノ木峠・黒部川を越え佐良峠・立山温泉を経て弥陀ヶ原から室堂まで到達、悪天候のため登頂は断念して芦峅寺へ下った。翌一二年ロバート・ウィリアム・アトキンソンはサトウとは逆のコースで富山から立山へ登り、信州へ越えた。その紀行は「日本旅行案内」に活用され、英米人の登山の手引となった。越信新道は明治一五年に廃道となったが、その後は踏跡が利用された。
明治二一年五月アメリカ人パーシヴァル・ローエルも越信新道の踏み跡を利用して立山温泉まで達したが、積雪期のため引返している。英国山岳会員で教会牧師として来日したウォルター・ウェストンは、明治二六年サトウと同じコースで立山登頂を果した。ウェストンは大正三年(一九一四)には前回と逆コースで滑川・芦峅寺を経て登頂し、信州へ抜けた。芦峅寺では神職の好意を喜び、頂上社殿をたたえ、立山温泉で富山県庁役人の親切に感謝し、佐良峠で日本山岳会員二名と邂逅した。一名は黒部の登山家吉沢庄作であった。ウェストン第一回の立山行は「日本アルプス登山と探検」に収めて一八九六年、第二回の立山行は「極東の遊歩場」に収めて一九一八年にロンドンから刊行された。なお吉沢庄作は前述の小杉復堂の教え子であった。また田部重治も復堂の教え子で、吉沢庄作・田部重治は富山県登山家の草分として活躍し、多くの山岳書も著した。大正一二年一月槙有恒・三田幸夫・板倉勝宣一行は厳冬の立山登山を試み、猛吹雪に出会い、板倉は絶命、槙・三田は九死に一生を得た。立山冬山遭難史の第一ページを飾る事件で、これを書いた槙の文は著名である(「板倉勝宣君の死」、のち「松尾坂の思い出」と改題。「山行」に収録)。同年三月伊藤孝一は立山から針ノ木峠越に成功、これを映画フィルムに収めた。秩父宮雍仁親王は翌一三年五月槙を先導として立山スキー登山を敢行した。昭和五年一月東京帝国大学の四学生およびガイド二名が劔沢小屋に宿泊したところ雪崩のため小屋が倒壊し全員死亡した。この捜査と救出には富山の陸軍部隊まで出動している。
女人禁制のしきたりは明治五年の太政官布告によって廃止されたが、一挙には改まらなかった。明治六年、立山温泉経営者の利田村(現立山町)深見六郎右衛門(一二代)の妻チエ(五〇歳)が登頂した際には投石されたという(深見栄一著「深見家祖先の軌跡」)。同二四年オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケがその娘、一三歳のヤコバを連れて立山登山しているが、これは外国人でしかも富山県が迎えた技術者の娘であったから別格であろう。大井冷光は同四〇年夏、立山絶頂によじ登っていく一三歳の少女に会って、これを記録している(立山案内)。冷光は富山日報社の派遣社員として同四二年夏室堂に滞在し、立山登山の状況を報告した。その連載記事「天の一方より」三四回中、一〇回まで婦人の登山を報告しており、明治四〇年代では女性の登山は当然のこととなっていた。岩峅寺の若い女房衆二二名が登った記事もあり、芦峅寺村落六〇戸の女子は必ず盂蘭盆に立山詣をすることが新しい慣例になっていたともいう。しかし他所からの女性に対しては時として風当りが強かったらしく、廻国巡礼の女性が登ってきたのを室堂から追返した事件もあった。大正六年頃から富山県立女子師範学校生の団体立山登山が始まり(「山岳」一一―三)、同八年には富山県立女子師範学校・富山県立高等女学校合同の女学生登山隊一行四八名が、立山登山を試みて話題となった。
〔災害と立山〕
立山の東側には幾つもの氷河遺跡のカール地形が並び、内蔵助カールの頭部は今も氷河が生きているともいわれる。立山の西側にも典型的な山崎カール(国指定天然記念物)がある。立山・劔岳の頂稜部は火山ではないが山中から噴出した火山がこれにかぶさり、氷河地形と相まって複雑な地形を構成した。火口の中心は湯川谷であるが、噴出後陥没し、浸食されて一大カルデラを形成した。
天狗山・国見岳・鷲岳・鳶山がいわば立山火山の火口壁である。鷲岳・鳶山から東へは五色ヶ原、国見岳・天狗山から北へは室堂平・天狗平・弥陀ヶ原と溶結凝灰岩の大高原が広がり、弥陀ヶ原の末端はさらに壇ヶ原(段ヶ原、上ノ子平・下ノ子平・ぶな平・美女平からなる)となって材木坂の急坂に傾く。地獄谷は新しく噴出した火山活動の名残である。雄山・浄土山の鞍部から落ちる小渓浄土川は地獄谷付近で称名川となる。同川の浸食のため弥陀ヶ原の大高原が断ち切られ、北側は大日平となった。称名川が溶結凝灰岩の断崖にかかるのが四段、落差三五〇メートルの称名の滝である。地獄谷は音すさまじく、絶えず噴煙をあげ、亜硫酸ガスの臭気をみなぎらせるが、本格的な爆発は歴史時代にはない。
旧火口(立山温泉はその火口底にある)の大カルデラは地質脆弱で、安政五年(一八五八)二月二六日夜、越中・加賀・飛騨一帯を襲った大地震(推定震度五、マグニチュード六・九)の際、大鳶・小鳶両山が崩壊して常願寺川を塞止め、大きな泥水ダムを現出した。三月一〇日そのダムが決壊、新川平野は泥海と化した。四月二六日二回目の決壊、泥洪水で惨憺たる大災害となった。明治に入り、技師デ・レーケを迎えて明治二四年から常西合口用水の築造、常願寺川・白岩川の分離工事などが着手された。カルデラには同三九年から大砂防工事が国の直轄事業として開始され、現在も続けられている。
カルデラ内の孫池はそれまで冷池であったのが大鳶崩れによってにわかに熱池に変じたといわれ、新湯地獄とよばれて今も間欠熱泉を噴上げている。立山温泉は大鳶崩れで埋没したが、その後再建され、明治初年以来立山登山の重要基地として利用された。昭和四〇年代に再び壊滅し廃絶した。カルデラ内の湯川沿いに佐良峠に向かう道も立山温泉から弥陀ヶ原へ向かう松尾坂の道も通行不能となった。