黒部川源流にそびえる岩山。標高二九八六メートル。地籍は大山(おおやま)町。黒(くろ)岳とも称する。後立山山脈の主稜から北へ分岐した黒岳山塊の主峰ともいうべき峨々たる岩山で、東側は東沢(ひがしさわ)谷、西側は雲(くも)ノ平に臨み、数個の氷食地形をちりばめる。水晶および柘榴石を産するところから山名を生じた。黒岳は山色からの命名で、信州側からの呼称であろう。元禄一三年(一七〇〇)の奥山御境目見通絵図および享和三年(一八〇三)の奥山御境目見通山成川成絵図(ともに県立図書館蔵)には中(なか)嶽の名で記載。東沢谷の古名も中嶽谷であった。文政八年(一八二五)石黒信由作製の越中四郡村々組分絵図、天保一〇年(一八三九)の上下新川郡一町五厘略絵図(ともに同館蔵)は中岳剣(なかだけつるぎ)と記し、新川郡組分見取絵図(同館蔵)は中剣岳と記載。立山・後立山両連峰の中間に位置する剣のごとく険阻な山の意であろう。同七年の新川郡大綱色分絵図(同館蔵)には六方石(ろつぽうせき)山の名で記される。六方石とは六角結晶体をなす水晶の別名である。明治四二年(一九〇九)辻村伊助が飛騨山脈縦走中、黒岳まで足を伸ばし、「ふみくづす砂利の中から柘榴石と水晶が多量に表はれる」「黒岳の頂上には巨岩が圧し重なって、イハブスマが透間もなく附着してゐる」と記した(「山岳」五―一)。翌四三年には小島烏水が登り、その記録を「日本アルプス」に収めた。現在も登山路は辻村・小島両氏のとったコースと同じく、南側の後立山連峰主稜からの分岐点にある水晶小屋から岩尾根をたどる。大悟法利雄は槍(やり)ヶ岳頂上から遠望し、「黒部薬師・黒部水晶・立山と教へられつつ心は燃ゆる」と詠んだ。
©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo
ページの上に戻る
©2024 NetAdvance Inc. All rights reserved.