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ジャパンナレッジで閲覧できる『蔵王山』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
蔵王山
ざおうさん

蔵王山という山名の単独峰はなく、宮城・山形両県にまたがる火山群の総称である。行政上は、宮城県では白石しろいし市、刈田かつたしち宿しゆく町・蔵王ざおう町、柴田郡川崎かわさき町に属し、宮城蔵王・表蔵王とも称し、山形県では山形市・上山かみのやま市に属し山形蔵王などともよぶ。連峰中の高峰は山形県側の熊野くまの(一八四〇・五メートル)と、県境の刈田岳(一七五八メートル)、宮城県側の不忘ふぼう(一七〇五・三メートル)などだが、ほかにも一七〇〇メートル級の山々をはじめ四方に高山がそびえる。刈田岳をおもな水源とするすみ(松川)は白石川に合流するが、刈田岳と澄川を結ぶ線で北蔵王・南蔵王とに区分され、一般に北蔵王を蔵王山という。刈田岳と北の熊野岳の間を馬の背うまのせという稜線が延び、その東は中央火口丘の五色ごしき(一六七四メートル)で、五色岳のすぐ南東に火口湖の御釜おかま(五色沼)があり、紺碧の水をたたえる。この御釜を中心に蔵王連峰を五つに分ける場合もある。すなわち中央蔵王として熊野岳・五色岳・刈田岳、東蔵王は青麻あおそ山、南蔵王はすぎヶ峰・屏風びようぶ岳・後烏帽子うしろえぼし岳・前烏帽子岳・不忘山・かみ岳など、北蔵王は地蔵じぞう山など、西蔵王は横倉よこくら山などとなる。このように高峰が聳立するためか、歴史文献にみえる蔵王山関連の山が、現在の山のどれをさすものか確定しがたいものが多い。「観蹟聞老志」では不忘山を蔵王嶽とするが、不忘山は歌枕「わすれずの山」とされる。

みちのくのあふ隈川のあなたにや人忘れずの山はさかしき  喜撰法師(古今六帖)

〔信仰〕

当山は修験信仰の山であり、ここに蔵王権現が勧請され祀られたことによって、蔵王山の名があると伝える。その中心となったのは、現在刈田岳の頂上に祀られている刈田嶺かつたみね神社とされ、里宮はまつ川沿いの遠刈田温泉とおがつたおんせん(蔵王町)にある。刈田嶺神社は、「延喜式」神名帳に刈田郡一座とみえる「苅田嶺カムタミネ神社名神大」と伝えるが、それより南東のみや(蔵王町)にも同名社が鎮座する。宮の刈田嶺神社の縁起によれば、日本武尊の東夷征伐のとき日本武尊を祀り、延暦二〇年(八〇一)坂上田村麻呂の東征の折「西宮」に移し、白鳥明神と同殿に祀ったと伝え、同社を白鳥明神とも称するゆえんだという。前九年合戦には源頼義が戦勝祈願し、のち平泉藤原氏も尊崇したと伝える。「続日本後紀」承和一一年(八四四)八月一七日条によれば、霊験があったとして従五位下を授けられ、同一五年に正五位下(同書同年五月一三日条)、貞観一一年(八六九)には従四位下が与えられている(「三代実録」同年一二月八日条)。この一連の昇位は、蝦夷経営を進める中央国家にとって、同社が宗教上および政治上の拠点の一つであったことをうかがわせる。

刈田嶺神社の別当は真言宗の蓮蔵れんぞう(現蔵王町)であるが、「宮村安永風土記」によれば、同寺の由緒は古く役小角の叔父という願行が宮村の「蔵王岳」を開いて以来と伝える。その草庵跡を願行がんぎよう寺とし、藤原秀衡の時代には四八坊の支院を擁するほど盛んであったが、応仁の乱のころ兵火にかかり、わずかに嶽之たけの坊・宮本みやもと坊・山之やまの坊が残った。のち宮本坊が聖光しようこう院となり、さらに蓮蔵寺と寺号を改めたという。山之坊は延宝年間(一六七三―八一)に廃止されるが、嶽之坊は真言宗金峰山蔵王寺と称し、蔵王権現社の別当となった。この嶽之坊が当山派修験の拠点の一つであったと考えられ、蔵王権現社の別当としてほかに「安楽院」「三乗院」が出羽側にあったが、嶽之坊(蔵王寺)の指揮によって社務を行ったという(封内風土記)。これら別当は、口ノ宮と称して登拝口の潔斎所・祈祷所となっており、岳の三道とよばれた。嶽之坊がつかさどったのは表口の遠刈田口で、安楽あんらく院は裏口の上山口(現山形県上山市)三乗さんじよう院は脇口の宝沢口(現山形市)という。のち宝暦年間(一七五一―六四)頃松尾院の管轄する半郷口(現上山市)が加わり、四口となった(同書など)。近年の研究によれば、宝沢口は当山派、上山口・半郷口は本山派が利用し、登拝の先達をして一人当り銅銭四八文を徴収したという。登拝者数は文化・文政期(一八〇四―三〇)には年間一万数千人を数えている(「蔵王堂古来記録」安楽院蔵)。嘉永五年(一八五二)半郷口松尾院の僧栄寿が嶽之坊の名を使うなどしたあげく、嶽之坊の支配からの分離独立をはかり、入山先達料を納めなかったことから訴訟沙汰になり、表口別当所ならびに寺社奉行に訴え出る事件に発展した(「蔵王修験訴訟記録」清光院蔵)。なお「片倉代々記」によれば、元禄八年(一六九五)白石城主片倉氏が藩命で刈田岳に蔵王権現堂を造営したとき、嶽之坊が諸事にわたりほかの三別当に指図するよう証書が出されており、仙台藩の威力もあってか、陸奥側の主導が知られる。しかし蔵王登拝は、近世を通じて出羽のほうが活発で、蔵王祭祀のかたわら里山伏として祈祷呪法に従った。ただし出羽側には羽黒派修験の影響もあり、前述松尾院の訴訟問題も背後に羽黒修験の動きがあったという。明治初年の神仏分離に際し、蔵王権現社は水分みくまり神社と改め、さらに明治八年(一八七五)刈田嶺神社と改称した。なお「刈田郡地誌」には蔵王嶽の項があるが、あるいは不忘山・刈田嶽と記され、明治前期には地元でも名称が確定していなかったと考えられる。

〔噴火の記録〕

蔵王山の噴火は活発であり、記録上は三四回とも四七回ともする。伝承のたぐいを別にすれば、寛喜二年(一二三〇)一〇月に柴田郡に雨のごとく石が降り、降石範囲は二〇余里に及んだという「吾妻鏡」同年一一月八日条の記事が当山噴火の初見とされる。観応年間(一三五〇―五二)の「都のつと」に「これなんあぶくま川也けり(中略)水上とをくみわたせば、かさなる山の中に煙のたちのぼるところありしを」とみえ、これも当山の描写という。近世には「片倉代々記」元和九年(一六二三)四月一六日条に「此日より刈田嶽不忘山焼初むる」とある。この噴火は翌寛永元年(一六二四)まで続き、仙台藩は当時来仙していた明人の王翼を登山させ、鎮静を祈らせたりしているが、昔から噴火が多かったものの、今度のは大噴火で「砂石雨」のため田畑の被害が大きいと記される(貞山公治家記録)。元禄七年の大噴火は約三年間断続し、山形・上山方面にも被害をもたらした(「肯山公治家記録」、上山城旧記「白石市史」所収)。寛政六年(一七九四)より二ヵ年にわたった噴火では、天童てんどう(現山形県天童市)尾花沢おばなざわ(現同県尾花沢市)方面まで降灰をみたという(蔵王堂古来記録)。下って文政三年から同五年にかけて、御釜から沸騰した濁水が白石川に押出し大被害となり、慶応三年(一八六七)には御釜が爆発し、山麓の峨々がが温泉(現川崎町)に入湯中の四人が死に、同温泉は一時閉鎖している(白石市史年表)。明治以後も御釜からのガス噴出をはじめ小噴火・地震群発などを繰返している。

一帯は蔵王国定公園の指定を受け、火山活動によって造られた自然景観や、山頂付近のミネズオウ、ガンコウランの低木はじめハイマツ群落などの植生、またカモシカ、イタチ、ツキノワグマなどの動物をみることができる。温泉には峨々温泉ほか遠刈田温泉、青根あおね温泉(川崎町)があり、遠刈田はこけしの里として知られる。同所からはふるさと緑の道が整備され、山頂までは蔵王エコーラインが開通し、ライン道沿いには別荘地・公園・休養の村・自然の家・野鳥の森・スキー場など諸施設が造られている。こうした観光施設は蔵王山を通俗にした面もあるが、名物の霧氷の壮観だけは昔と変わらない。



日本歴史地名大系
蔵王山
ざおうさん

山形・宮城両県にわたる火山群の総称で、蔵王山という山名の単独峰はない。山域は山形県側は山形市・上山かみのやま市、宮城県側は白石市、刈田かつたしち宿しゆく町・蔵王町、柴田しばた川崎かわさき町などに及ぶ。山形県側では山形蔵王、宮城県側では宮城蔵王・表蔵王とも称するが、県境の刈田岳(一七五八メートル)付近を境に北を北蔵王、南を南蔵王ともよび、また連峰中央の火口湖御釜おかま(五色沼)を中心に中央・東・西・南・北の五地域に区分する場合もある。この五区分に従っておもな峰をあげると、中央蔵王に熊野くまの(一八四〇・五メートル)・刈田岳・五色ごしき岳、北蔵王に地蔵じぞう(一七三六メートル)名号みようごう峰・雁戸がんど山、西蔵王に横倉よこくら山・りゆう山、南蔵王に不忘ふぼう(一七〇五・三メートル)すぎヶ峰・屏風びようぶ岳・後烏帽子うしろえぼし岳、東蔵王に青麻あおそ山などがある。山形県側で蔵王連峰を水源とするおもな河川には馬見まみさき川・蔵王川(酢川)川などがあって、いずれも最上川水系に属し、宮城県側ではまつ川など阿武隈あぶくま川水系の諸河川があげられる。

蔵王の名称は熊野岳や刈田岳の山頂に祀られる蔵王権現によるとされるが、同権現が勧請される以前に連峰を総称して何とよんでいたかは明らかではない。また高峰が聳立するためか、史料上にみえる蔵王山系に関連する山が、現在のどの山にあたるかを確定しがたいものも多い。しかし、一〇世紀末頃に編纂された「古今六帖」に「みちのくにあぶくまがはのあなたにや人わすれずの山はさかしき」と詠まれ、「枕草子」(山はの段)にも「わすれずの山」がみえ、蔵王連峰は歌枕として中央貴族にも知られていた。なお現在の不忘山は、以前はみなみ森とか御前ごぜん岳とよばれていたもので、のちに蔵王信仰といわれるような体系化された山岳信仰が形成される以前の連峰の総称は「わすれずの山」であった可能性がある。山並連なる「わすれずの山」の山麓には祖霊がやどり、かつ水神・作神が鎮座する中小の霊山(ハヤマ、モリヤマがこれにあたる)があって、やがてこれらの複数の霊山を前立(前山)として、さらに奥の山岳が開かれ、大規模な山岳信仰である蔵王信仰が形成されていった。

〔古代の蔵王信仰〕

古くには陸奥国側では、現在刈田岳山頂に祀られる刈田嶺かつたみね神社が信仰の中心であった。大同元年(八〇六)には封戸二戸が刈田嶺神に与えられている(「大同元年牒」新抄格勅符抄)。承和一一年(八四四)には霊験があって無位勲九等から従五位下の神階が授けられ、さらに嘉祥元年(八四八)には正五位下が与えられている(続日本後紀)。その後も神位の加授があったようで、貞観一一年(八六九)五月に陸奥国が大地震によって甚大な被害を受けると、この地震を鎮めるのに功があったのであろうか、同年一二月刈田嶺神は正五位上勲九等から従四位下に昇叙された(三代実録)。「延喜式」では刈田郡には苅田嶺神社一座のみが載り、名神大社。ただし、当初は青麻山(刈田嶺山ともいう)を刈田嶺と称していたともいわれる。康和五年(一一〇三)六月一〇日の神祇官奏(朝野群載)によれば、天皇が卜部らを率いて占いを行う神の一つに数えられ、永万元年(一一六五)六月日の神祇官諸社年貢注文(永万文書)によれば藤原清衡が同社の「年貢金」を神祇官に奏進している。火山の神、また作神信仰を基本にもつ地主神である刈田嶺神は、古代国家・王朝国家から保護を受け、陸奥国内の重要な神の一つとして位置づけられていた。一方出羽国内では、貞観一五年に現在山形市蔵王温泉にある酢川温泉すかわおんせん神社に比定される酢川温泉神の神位が正六位上から従五位下に昇格しており(三代実録)、温泉の源泉に対する信仰が厚かったことがうかがえる。同じ蔵王連峰内のこととはいえ、古代においては陸奥国側と出羽国側では信仰の対象内容が異なっていたといえる。

〔蔵王修験と登拝口〕

当山が密教化した修験者たちによって開発・整備がなされ、蔵王修験が確立していった時期は、中世末から近世初頭の間と考えられる。蔵王修験の中心となったのは刈田岳・熊野岳で、熊野岳山頂には蔵王権現のほか熊野権現・白山権現が勧請されている。登拝口は奥州側に遠刈田とおがつた(現蔵王町)、羽州側に半郷はんごう(高湯口ともいう)宝沢ほうざわ(現山形市)・上山口(中川口)の計四口が確認される。

遠刈田口は、役行者の叔父願行が開発して願行がんぎよう寺を建立、境内には四八坊が立並んでいたというが、のち兵火にかかり嶽之たけの坊・宮本みやもと坊・山之やまの坊の三坊が残ったという。嶽之坊(本山派)は近世には金峰山蔵王寺と称し、刈田岳山頂にある蔵王権現の別当を勤めた。元禄八年(一六九五)上山口の安楽あんらく(院)から嶽之坊へ出された一札(写、月光文書)によれば、刈田岳山頂にある蔵王権現が座する殿舎の修造は、伊達氏家臣の陸奥白石城主片倉氏が行い、社殿の鍵が嶽之坊を通じて安楽坊へ配付されていて、安楽坊は嶽之坊の指揮下に属していたようである。宝沢口では、最盛時には一二坊があったといわれる。三乗さんじよう(刈田嶺神社別当)宝蔵ほうぞう(太子宮別当)吉蔵きちぞう(住吉神社別当)三明さんみよう(賀茂神社別当)などが確認できる。三乗院(当山派)は宝沢出身の覚山が霊地を開いて麓に寺を建立、万福山と号したのが始まりだと伝え(「蔵王権現本縁并覚山行者伝記」三乗院蔵)、高さ三六四センチの蔵王大権現木像が安置されている。同木像の製作年代は不明であるが、のちに取付けられたものらしい前方の御拝柱・虹梁には安永二年(一七七三)の銘がある。近世にはこれら四社別当に、合せて三石八斗の朱印地が宛行われていた。

半郷口には松尾まつお(本山派)があり、現在同院観音堂内には平安後期の作とされる観音・勢至両菩薩像が安置されている。上山口は北の中川なかがわ口と南の大門だいもん(現上山市)の総称で、寛元元年(一二四三)廻立まつたて(現同上)の地に建立されたと伝える安楽院(本山派)が支配した。延享四年(一七四七)段階ではいずれも現上山市域の周辺地域に文性院(永野村)・清学院(薄沢村)・善良坊(高野村)・隆善院(小倉村)の四院が散在、「蔵王山安楽院覚書」によれば、鎌倉初期にすでに「け里い」と称される霞場も存在していたというがこれは疑わしい。安楽院は近世には上山藩羽黒派修験の触頭清光院の支配下に属していた(「年中日記帳」清光院蔵)置賜おきたま方面からの参詣者は柏木かしわぎ峠から楢下ならげ・大門(現上山市)と進み、六合目にあたる清水おすずで中川口からの登拝者と合流して仙人せんにん沢の不動ふどう滝で心身を清めたあと、姥神・御田神を拝して刈田岳・熊野岳へと登拝していった。清水に行人小屋を設置して大門口をも安楽院側が支配し始めたのは戦国期といわれる。したがって、中世最末期までこの方面には、大門口・中川口の二つの登拝口が独立して存在していたが、両口を総称して上山口ともいわれる。

〔蔵王山碑と信者の分布〕

山麓には登拝した人々や講中によって「蔵王山」の供養碑が多く建てられている。当山には大和吉野よしのの水分神も勧請されているという信仰も手伝って、羽州側でも五穀豊穣を祈る農民たちの参拝が盛んであったらしく、各村々に蔵王山碑が建てられ、現在山形市全域で八〇余基確認されている(いずれも一八世紀以降のもの)。刈田岳や熊野岳の山頂には金の神である金日命も祀られていることから、農民のみならず商人たちも多く参拝していたことが知られる。また刈田岳・熊野岳両山頂は陸奥金華きんか山の遥拝所にもなっていて、登拝路には金華山碑をしばしば見かける。明治元年(一八六八)に出された神仏分離令により、各登拝口の別当は口之宮刈田嶺神社(現蔵王町)の神職となり、神祇官の支配下に入った。さらに同五年に修験宗(道)の廃止が強行されたため、蔵王修験も衰退へと向かった。

しかし、下宝沢しもほうざわ(現山形市)賀茂かも神社社殿内に明治三三年奉納人三名・人名取調世話人三四名によって奉納された大絵馬(縦一四八センチ、横三〇八センチ)から、ほぼ当時の参拝の様相がうかがえる。これは防原ぼうばら(現同上)の石鳥居(現在は刈田嶺神社に移されている)をくぐったところから、熊野岳山頂に至るまでの登拝路に沿って五〇〇名を超える参拝者の人名・住所と参拝姿を詳細に描いたもので、参拝者の居住地は東村山・西村山両郡と山形市に集中し、少数であるが西置賜郡や宮城県・福島県・東京市などもみえる。山形市銅町信徒講中という呼称などもあって講組織の存在がうかがえる。この絵馬は宝沢口からの登拝者だけを描いているが、蔵王山碑など石碑の分布からも羽州側における蔵王信仰圏は村山・置賜各地方を大きく越えることはないと思われる。村山地方には湯殿山碑が圧倒的に多いが、この湯殿山碑と蔵王山碑が並べて建てられていたり、さらに上山(中川)口から蔵王温泉へぬける登拝路にあたる現上山市権現堂ごんげんどう両所りようしよ神社境内には蔵王湯殿両所宮碑(宝永八年銘)があり、また同地の正中二年(一三二五)の板碑が残る釈迦堂跡にも蔵王湯殿両所碑があることから、蔵王信仰と三山(湯殿)信仰との結合ないしは後者による前者の吸収も十分考えられよう。

〔入峰修行と山開き〕

蔵王修験の入峰修行のなかで、春の峰では修験者が霊山りようぜん(現福島県伊達郡霊山町)を中心とする霊山へ向かい華供行をした。この修行中に霊山の山中や麓へ杉・松・ヒバ・桜などの苗を植えて山の神に供え、またヤマツゲ、コケモモ、ガンコウランなどの小枝を持帰り、氏子や信者に配布した。信者はその小枝を田の水口に立て、田の神に供えて虫除けと豊作を祈った。夏の峰では蔵王の峰々で峰駆・沢駆の修行が行われ、秋の峰では再び霊山へ向かい、山中からコケモモ・ナツハゼ・コメツガなどの実を採り、無病息災で新春を迎えるようにと護符代りに一粒ずつ村人へ配った。霊山寺は奥州南部における天台宗勢力の一大拠点となっていたが、同寺の支配下に蔵王修験も属していたのであろうか。

近世には四月八日はトビラキ(戸開)と称して遠刈田にある蔵王権現の里宮(嶽之坊)から刈田岳山頂の奥院に神体を移し、また一〇月八日はトタテ(戸閉)と称して山頂より神体を里宮に移していた。種蒔頃から六月頃まで南蔵王の真ん中の残雪は、その形から雪入道といわれ、また宮城県白石地方ではこれを種蒔入道とか入道坊主とよび、これを目安にして苗代に種籾をまいたという。

〔瀧山〕

西蔵王に属する山形市の瀧山(一三六二・一メートル)は古くは龍山と記したと思われ、早くから独自の水神・作神信仰を基底とする信仰が存在し、また古代には同山麓一帯に一つの仏教文化圏が形成されていたと考えられる。この仏教文化圏の中核となったのが神尾かんのう(現山形市)にあった龍山りゆうざん(現山形市中桜田瀧山寺の前身)という山岳寺院であったとの伝承が残る。前出半郷の松尾院観音堂の十一面観音菩薩立像と勢至菩薩立像は瀧山麓からもたらされたと伝え、西麓の山形市上桜田かみさくらだにある熊野神社に四体ある仏像はいずれも一二世紀頃の造立とされる。また同市成沢なりさわの八幡宮と同市鳥居とりいおか元木もときには平安期の建築といわれる石鳥居が現存している。龍山寺僧房群に供給する土器を焼いたとも思われる窯跡が西蔵王三本木さんぼんぎ沼東側丘陵斜面から幾つか発掘されている。

貞観九年に「最上郡霊山寺」が定額寺に列せられ(「三代実録」同年一二月二九日条)、天養年中(一一四四―四五)には西行が「瀧の山と申山寺」にて「類ひなき思ひいではの桜かなうすくれなゐの花のにほひは」と詠じ(山家集)、応保元年(一一六一)には学僧信阿が「最上郡〓山寺」において「和漢朗詠集私注」六巻を完成させている。これら史料にみえる「霊山寺」「瀧の山と申山寺」「〓山寺」を瀧山麓の龍山寺とする説がある。もちろん断定することはできないが、定額寺「霊山寺」は天童市の水晶すいしよう山麓にあったとする説、「瀧の山と申山寺」を山形市長谷堂はせどう滝の山たきのやまとする説なども有力である。しかし、信阿が「和漢朗詠集」の私注を瀧山麓の龍山寺で著述したのならば、私注を書けるほどの関係書物が多数所蔵されていたのであろうし、それらを駆使して私注を著述できる一級の文化人が僧侶のなかにいたことになる。したがって、龍山(霊山)(天台宗)は八宗兼学の寺院で、寺僧(学問僧)が構成員の中心にあり、その下に瀧山を中心舞台に活躍する聖(修験・山伏など)が存在したのであろう。のちに山麓の仏教文化の拠点となった山形市岩波いわなみ石行しやくぎよう寺や同市平清水ひらしみず平泉へいせん寺・万松ばんしよう寺などは、龍山寺の数多くあった末寺の一つであったと考えるべきであろう。また西行が立寄ったのもここだとすると、出羽の山里ではあるが、漂泊の歌人が引寄せられるほどの魅力をもつ仏教文化が栄えていたと考えることも可能である。

瀧山への参道は三口あり、まず表参道は北西麓、元木惣門の石鳥居をくぐって小立おだち・岩波・八森はちもり土坂つちざかへ至るものである。裏参道は前田神尾口といい、西麓の成沢なりさわ口は裏別口参道とされて、成沢・沢田さわだ空清水うつぼしみず塔前とうのまえ・日なくぼ・神尾へ至る道である。龍山寺一山の聖・山伏たちによって開かれたのであろうか。鎌倉時代北条時頼が廻国してきたとき、瀧山の山伏が反抗したため、朝日あさひ山・御所ごしよ山などとともに瀧山も閉山させられ、瀧山権現を瀧山神社とし、龍山寺を瀧山寺と改めて神尾より桜田へ移建したといわれる。これは瀧山を庄域内に含んでいた大山おおやま庄が北条得宗領になったことと関連するものであろう。閉山されたか否かの真偽は別として、龍山寺が十分に中世的寺院として転換ができなかったために、一三世紀以降しだいに龍山(瀧山)仏教文化の勢力は衰えていったようである。しかし、その後においても成沢登拝路には板碑・層塔・六面幢などが建てられていることから、龍山(瀧山)信仰が消え去ったわけではなく、龍山塔碑や蔵王上野ざおううわのにある地蔵寺入口に建つ堀田瀧山八十八所碑の存在からも、同信仰の根強さを示している。前述のように龍山仏教文化・龍山信仰の基底には水神・作神信仰が存在する。地域的には瀧山を源流とする小河川(犬川=はずかし川、瀧山川=岩波川、大坊川=鳴沢川、坂巻川、松尾川など)を農業用水として利用して田地を開発し維持している瀧山麓を中心とする。信者たちによって建てられた瀧山塔碑の分布範囲は瀧山地区に限定されており、文政一〇年(一八二七)に記された「瀧山縁起」の内容にも水神信仰などが反映している。旱魃のときは雨乞も行われ、安永七年(一七七八)の銘をもつ請雨塔(羽竜沼岸にある)によれば、万松寺宗叟俊が瀧山の霊水請雨を祈願している。

酢川温泉神社は現在瀧山を本宮、熊野岳を離宮とした三位一体の神社だと主張している。瀧山頂には酢川温泉神社が祀られているが、本来は瀧山山頂には神室かむろ堂があり、薬師如来像を安置し、祭神は龍山権現とされていた。したがって酢川温泉神社側の主張は、それほど時代をさかのぼるものではなく、明治一一年高湯たかゆ(蔵王)温泉側が瀧山山頂を酢川温泉神社の奥院と主張し、強引に神室堂を酢川温泉神社と改称したためである。むろんこの強引な態度には背景があったはずで、龍山信仰がしだいに衰退していくなかで、蔵王信仰(修験)に包摂・吸収されてしまった結果生じたものではなかろうか。岩波に文政三年の蔵王・瀧山供養碑が建っている。これは両信仰の結合ないしは蔵王信仰による龍山信仰の吸収を示す好例であろう。登拝も蔵王信仰の一部として、高湯温泉口から行われることが多くなっていたものと思われる。

岩波の石行寺は行基が開基し、慈覚大師が中興したとされる天台宗の古刹であり、いわゆる閉山後は龍山寺に代わって龍山仏教文化の中核に立つようになったと思われる。明治四年の石行寺境内建物明細帳(寺蔵)によると、中桜田に移建された瀧山寺が石行寺の末寺とされている。同寺では文和二年(一三五三)から応安八年(一三七五)にわたる写経事業がなされて現在一一四巻が保存され、一巻は近くの平清水にある平泉寺に所蔵されている。奥書をみていくと写経にたずさわった人物として大和坊朝尊・覚阿法師・密蔵坊準(准)海・安玄などの名がみえ、料紙の旦那として、粟生田あおた(青田)(現山形市)の若松正法房などの名が出てくる。写経奥書にいずれも現山形市域の粟生田(青田)・蒔田(前田)・桜田各郷がみえるが、これらの地は瀧山川が小扇状地を形成する地で、上桜田・青田・元木などには条里の遺構が確認される。瀧山を源流とする小河川を利用して、早くから田地が開かれて村落も形成されたのであろう。これらの村落は写経事業や修理造営の例にみるように、龍山の仏教文化・同信仰を支える山麓の宗教集落として存在していたのである。

〔噴火の記録〕

蔵王火山群は北西部の瀧山火山、中央部の蔵王火山および南部の南蔵王火山の三火山群に分けられ、各火山群はその中央部に大規模な爆裂火口をもっている。瀧山火山群には南部の爆裂火口と北西部にカルデラ状の陥没地、南蔵王火山群には、屏風びようぶ岳東方に開口した大規模な爆裂火口があり、中央部の蔵王火山群では熊野岳と刈田岳を結ぶ山稜「馬の背」の東側に馬蹄形に爆裂火口を形成し、御釜はその底部の火口湖である。有史以来の蔵王火山の火山活動の記録は数多く、そのほとんどはこの御釜を中心にしたものであるが、御釜の火山活動は昭和一四年(一九三九)を最後に停止し、その後活動の中心は丸山まるやま沢に移った。「吾妻鏡」寛喜二年(一二三〇)一一月八日条によれば、同年一〇月に柴田郡に雨のごとく石が降り、降石範囲は二〇里に及んだとするが、この記事が当山の噴火の初見とされる。観応年間(一三五〇―五二)の「都のつと」にも当山の噴火のことを記したと思われる記載がある。元禄三年の大噴火は約三年間にわたり、現山形市・上山市方面にも被害をもたらし(「上山城旧記」白石市史など)、寛政六年(一七九四)の噴火では天童・尾花沢おばなざわ方面まで降灰があったという(「蔵王堂古来記録」安楽院蔵)。火山活動によって造られた自然景観や山麓の温泉群は現在多くの観光客を引きつけている。

蔵王温泉はかつて最上高湯温泉とよばれて、村山地方の代表的な湯治場として繁盛した。源泉は標高八八〇メートル、蔵王山の北西斜面の高湯爆裂火口の底部にあって自然湧出し、しかも湧出量が豊富で高温(摂氏四二―六二度)であることが特色。マグマ発散物や硫化水素ガスを伴っているので強い酸性を示し、多くの塩類を含み、湿疹・水虫などに特効があるとされている。蔵王温泉を基地として、蔵王登山やスキーが行われるようになったのは大正期以降で、昭和二五年には全国観光地百選に第一位当選してから全国的に有名になり、とくに樹氷が喧伝された。山腹から上部にかけてはアオモリトドマツを主とする亜高山性の針葉樹林に覆われており、それに過冷却水蒸気を多量に含んだ冬の季節風が当たって結氷する。また熊野岳周辺に群生するコマクサも蔵王のシンボルとして知られる。同三七年の蔵王エコーラインの開通によって観光地としての開発が進み、またスキー場の開発整備も進み、同三八年には国定公園に指定され、通年型の総合観光地として発展しつつある。

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検索コンテンツ
1. 蔵王山画像
日本大百科全書
澄川(すみかわ)―難場(なんば)沢を境に、北蔵王と、生成のより古い南蔵王に大別され、一般には北蔵王を蔵王山とよぶ。北蔵王は、熊野岳、刈田岳(1758メートル)、 ...
2. 蔵王山[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
西側の馬ノ背(うまのせ)付近から見た御釜(おかま)。蔵王(ざおう)国定公園域。山形県山形市・上山(かみのやま)市/宮城県刈田(かった)郡蔵王町・七ヶ宿(しちかし ...
3. 蔵王山
世界大百科事典
仰ぎみることのできる地域にとどまっている。蔵王山の名称はここに蔵王権現が勧請されまつられたことに由来し,各地の修験道の山岳と同じように国嶽(くにみたけ)として展 ...
4. ざおうさん【蔵王山】宮城県:総論
日本歴史地名大系
蔵王山という山名の単独峰はなく、宮城・山形両県にまたがる火山群の総称である。行政上は、宮城県では白石市、刈田郡七ヶ宿町・蔵王町、柴田郡川崎町に属し、宮城蔵王・表 ...
5. ざおうさん【蔵王山】山形県:総論
日本歴史地名大系
口が独立して存在していたが、両口を総称して上山口ともいわれる。〔蔵王山碑と信者の分布〕山麓には登拝した人々や講中によって「蔵王山」の供養碑が多く建てられている。 ...
6. ざおうさん【蔵王山】愛知県:渥美郡/田原町
日本歴史地名大系
田原町の東北に位置し、標高二五二・五メートルの山で田原山脈に属する。全山松樹が密生し、東の小丘を臥竜山といい、東端丘陵に吉胡貝塚がある。西に衣笠(二七八・四メー ...
7. ざおう‐ざん[ザワウ‥]【蔵王山】
日本国語大辞典
(「ざおうさん」とも)宮城・山形両県境にある那須火山帯に属する成層火山群。最高峰の熊野岳(一八四一メートル)を中心とする北蔵王と、屏風岳(びょうぶだけ=一八二五 ...
8. 青根[温泉]
世界大百科事典
泉を経て連絡し,また仙台市からも釜房ダムを経て通じるため,近年は蔵王山の登山基地,保養地,観光地としての性格を強めている。蔵王山の火口湖御釜より発する濁川の谷底 ...
9. あか‐あきつ【赤蜻蛉】
日本国語大辞典
〔名〕(「あきつ」はトンボの古名)アカトンボ。*赤光〔1913〕〈斎藤茂吉〉蔵王山「赤蜻蛉(アカアキツ)むらがり飛べどこのみづに卵うまねばかなしかりけり」 ...
10. あつみぐん【渥美郡】愛知県
日本歴史地名大系
隔てて三重県志摩半島に対する。赤石山脈の南端弓張山脈が豊橋市の東部で台地となり、渥美郡に入って蔵王山から再び隆起し、渥美半島を東西に縦走する分水嶺となっている。 ...
11. 渥美半島
世界大百科事典
をいだいてほぼ東西方向にのびている半島。赤石山脈から紀伊山地へと続く中央構造線の外帯にあり,蔵王山(250m),大山(327.9m)などの古生層の山地と,渥美層 ...
12. あらさわむら【荒沢村】新潟県:岩船郡/朝日村
日本歴史地名大系
[現]朝日村荒沢 蔵王山の北方の山間にあり、荒沢川が南流して高根川に注ぐ。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分あら沢村」とみえ「□合弐間」とある。 ...
13. いおうじ【医王寺】広島県:福山市/旧深安郡地区/市村
日本歴史地名大系
[現]福山市蔵王町 蔵王山麓の丘陵上にあるが、創建時には蔵王山の中腹阿弥陀ヶ峯にあり、現に平安時代の軒瓦や布目瓦が出土し、墓石なども現存する。真言宗大覚寺派、も ...
14. いちむら【市村】広島県:福山市/旧深安郡地区
日本歴史地名大系
その数は数十基にのぼる。中世、蔵王山に山城が築かれ、蔵王山下城と称し、備中小田郡(現岡山県笠岡市)の大橋山城主高田河内守正重の臣小川大膳亮が居城したと伝え(備後 ...
15. いわわきでら【岩湧寺】大阪府:河内長野市/加賀田村地図
日本歴史地名大系
あたる。なお鎌倉時代初期の成立という「諸山縁起」の「転法輪山」の「宿の次第」では、法師品を石蔵王山(現岸和田市大威徳寺)にあてる。「葛嶺雑記」には「岩涌寺(中略 ...
16. うやまむら【宇山村】広島県:福山市/旧深安郡地区
日本歴史地名大系
[現]福山市春日町宇山 四方を山に囲まれ、わずかに南方市村から蔵王山の背後を山越しに安那郡下竹田村(現深安郡神辺町)に向かう道と、浦上村から谷をさかのぼって宇山 ...
17. うらむら【浦村】愛知県:渥美郡/田原町
日本歴史地名大系
[現]田原町浦 蔵王山東麓の田原湾に面し、吉胡村の北に隣接する。延享四年(一七四七)の田原領高根付並免付帳(田原町蔵)に「浦村分一、浮役高一石一斗三升三合塩浜高 ...
18. うわのむら【上野村】山形県:山形市/旧南村山郡地区
日本歴史地名大系
[現]山形市蔵王上野・表蔵王・白山・南半郷 半郷村の南東に位置し、瀧山西麓の丘陵上に立地。蔵王山・瀧山・高湯温泉の登山口にあたる。地内大坊清水に縄文前期の遺跡が ...
19. 奥羽山脈画像
日本大百科全書
ん)、八幡平(はちまんたい)、岩手山、栗駒山(くりこまやま)、駒ヶ岳、吾妻山(あづまやま)、蔵王山(ざおうさん)、安達太良山(あだたらさん)、那須岳などの火山が ...
20. 奥羽山脈
世界大百科事典
結んだ重力の急変帯付近がほぼ東日本火山帯のフロントにあたる。比較的活動の盛んな火山としては岩手山,蔵王山,吾妻山,安達太良山,磐梯山,那須岳の6峰がある。(4) ...
21. おおがわらむら【大河原村】宮城県:柴田郡/大河原町
日本歴史地名大系
対岸南は大谷村、西は平村、北から東は沼辺村(現村田町)。白石川左岸沿いに奥州街道が通り、大河原宿があった。蔵王山を水源とする白石川は往時平村付近で本支流に分れ、 ...
22. おおだいらむら【大平村】新潟県:岩船郡/朝日村
日本歴史地名大系
[現]朝日村北大平 高根川右岸に位置し、北に蔵王山がある。北東は高根村、西南は関口村。高根村への道は高根川沿いに一段高い所を通る。元禄郷帳に関口村枝郷として村名 ...
23. おぐらむら【小倉村】山形県:上山市
日本歴史地名大系
[現]上山市小倉 蔵王山噴火による泥流台地にあり、西は権現堂村。小蔵とも書く。木地師の小椋氏の住んだ村といわれるが、当地には京都小倉山(現京都市右京区)に似てい ...
24. おぐらむら【小倉村】福井県:丹生郡/朝日町
日本歴史地名大系
)。八幡神社(小倉蔵王)・日吉神社・素盞嗚神社と、仏生寺(法華宗真門流)・蓮蔵寺(日蓮宗)・蔵王山(白蛇を祀る)がある。城跡も二ヵ所残る。 ...
25. おちあいむら【落合村】山形県:山形市/旧東村山郡地区
日本歴史地名大系
八幡神社は祭神応神天皇。康平五年(一〇六二)に源義家が堅穿大地神を祀ったと伝える。刈田神社は祭神金山彦命。蔵王山刈田嶺鎮座の蔵王権現社を宝暦七年(一七五七)に勧 ...
26. 小原[温泉]
世界大百科事典
で,現在は古湯と新湯に分かれる。いずれも発見は江戸時代で,温泉としての発展は中期といわれる。蔵王山の南東麓にはこの温泉のほかに鎌先温泉があって〈脚気鎌先,眼に小 ...
27. かこう‐こ[クヮコウ‥]【火口湖】
日本国語大辞典
〔名〕噴火口のあとに、雨水や地下水がたまってできた湖。多くはほぼ円形で小さい。霧島山の御池、蔵王山の御釜、吾妻山の五色沼、赤城山の小沼など。*日本風景論〔189 ...
28. 火山画像
日本大百科全書
進めるというものである。一方、火山への畏怖はそれへの敬称にも明らかである。浅間山(あさまやま)、蔵王山(ざおうさん)などの多くの火口が「御釜(おかま)」とよばれ ...
29. 火山帯
世界大百科事典
えさん),恐山,八甲田山,焼山(秋田),八幡平,岩手山,駒ヶ岳(秋田),栗駒山,鳴子火山群,蔵王山,吾妻山,安達太良(あだたら)山,磐梯山,那須岳,白根山(日光 ...
30. かたはまむら【片浜村】愛知県:渥美郡/田原町
日本歴史地名大系
[現]田原町片浜 蔵王山の北麓に位置し、波瀬村の西にあって、渥美湾に臨む。慶長六年(一六〇一)以来幕府領で、田原領主戸田氏が預っていたが、寛文四年(一六六四)よ ...
31. 花壇地錦抄・草花絵前集 91ページ
東洋文庫
一名フジマツ。また、冬期落葉するので、落葉松と呼ぶが、漢名の落葉松は別種、本州(中部地方、尾瀬地方及び蔵王山)の山地に自生する (三)植物学的にはヒメコマツはゴ ...
32. かつたぐん【刈田郡】宮城県
日本歴史地名大系
同三二年には七ヶ宿村が町制を施行。両町は同三八年蔵王山一帯が国定公園に指定されるに伴い観光が地域振興の一指標となった。同四三年永年の懸案であった蔵王山頂付近をめ ...
33. かつたみねじんじゃ【刈田嶺神社】宮城県:刈田郡/蔵王町/宮村
日本歴史地名大系
同八年現社名とした。社伝によれば、役小角の叔父願行が「不忘山」山頂に大和国吉野の蔵王権現を勧請し、山名を蔵王山、社号を蔵王大権現と称し、戦国期には出羽最上氏の尊 ...
34. かなやむら【金谷村】山形県:上山市
日本歴史地名大系
須川と蔵王川合流点南岸にあり、南西は小泉村。北にも金谷村(下金谷村)があるため、当村は上金谷村とよばれた。蔵王山登拝裏口参道の上山口にあたり、同口の別当は本山派 ...
35. 鎌先[温泉]
世界大百科事典
宮城県南部,白石市の温泉。蔵王山南東麓,JR東北本線白石駅の北西7kmにあって,バスの便がある。含ボウ硝食塩泉,32~49℃。慶長年間(1596-1615)には ...
36. かみなまいむら【上生居村】山形県:上山市
日本歴史地名大系
[現]上山市上生居 生居川の上流域にあり、西の下流は中生居村。古くは蔵王山の登拝口であった。腰王山の地名があり、腰王神社が祀られる。正保郷帳では田方四四三石余・ ...
37. 上山[市]
世界大百科事典
山形県南東部,山形盆地の南部に位置し蔵王山西麓部を占める市。1954年に上山町と西郷,本庄,東,宮生(みやおい),中川の5村が合体,市制。人口3万3836(20 ...
38. かみのやまし【上山市】山形県
日本歴史地名大系
町に接する。東端の蔵王山馬の背は刈田郡蔵王町との境界をなしている。北の山形盆地に続く小盆地地形の山間市街地で、やや東西に長い市域をなす。蔵王山馬の背より上山盆地 ...
39. かみほうざわむら【上宝沢村】山形県:山形市/旧南村山郡地区
日本歴史地名大系
斯波兼頼は社領一石余を寄せたという。江戸時代には社領三石五斗(古今夢物語)。別当は吉蔵院であった。ほかに蔵王山神社が鎮座する。曹洞宗養福寺は寛永八年平清水村万松 ...
40. カラマツ画像
世界大百科事典
球果は秋に熟し,長さ2~3cm,種鱗の上縁が外側に反る。各種鱗に2個の有翼種子がある。宮城県蔵王山東麓から石川県白山までの主として長野・山梨両県とこれを取り巻く ...
41. 川崎(町)(宮城県)画像
日本大百科全書
宮城県南部、柴田郡(しばたぐん)にある町。1948年(昭和23)町制施行。雁戸山(がんとやま)、蔵王山(ざおうさん)の東麓(とうろく)、名取(なとり)川の支流碁 ...
42. 峩々[温泉]
世界大百科事典
宮城県南部,柴田郡川崎町にある温泉。蔵王山東斜面中腹,松川の支流濁(にごり)川の谷底に位置し,周囲の渓谷美が名の由来となった。ボウ硝泉,58℃。とくに胃腸病に特 ...
43. 峩々温泉
日本大百科全書
柴田(しばた)郡川崎町にある温泉。蔵王山(ざおうさん)の東斜面の標高800メートルに位置する。古来、胃腸病に卓効ありといわれ、湯治客が多い。泉質は塩化物泉。蔵王 ...
44. 月山
世界大百科事典
キソウ,コメバツガザクラなどの高山植物群落を形成させ,日本海に浮かぶ佐渡島や鳥海山,朝日岳,蔵王山などの展望とともに優れた高山景観となっている。《日本三代実録》 ...
45. きたいりそむら【北入曾村】埼玉県:狭山市地図
日本歴史地名大系
野々宮神社には建仁二年(一二〇二)三月の棟札がある。別当寺は修験宝泉寺(廃絶)。真言宗智山派常泉寺は蔵王山観音院と号し、寺蔵の当山沿革史考によると、天正年間の創 ...
46. きったむら【切田村】新潟県:岩船郡/荒川町
日本歴史地名大系
)。文政四年(一八二一)の村明細帳(富樫七兵衛氏蔵)によれば用水は雨俣堰から引くほか、溜池が蔵王山に二ヵ所、笹田山に二ヵ所、沢田に一ヵ所ある。神明宮がある。 ...
47. きんぷじんじゃ【金峰神社】新潟県:長岡市/長岡城下/蔵王
日本歴史地名大系
又倉(俣倉)とよばれていた。当地への勧請について栃尾の秋葉権現とともに楡原の岩野原(現栃尾市)の蔵王山から勧請されたという所伝がある。栃尾郷谷地の曹洞宗常安寺に ...
48. きんぷじんじゃ【金峰神社】新潟県:北蒲原郡/黒川村/蔵王村
日本歴史地名大系
する稜線先端に鎮座する。現在の社地は大正一二年(一九二三)三月に移したもので、それまでは通称蔵王山の釈迦ヶ嶽(約四六〇メートル)に鎮座していた。古くは蔵王堂また ...
49. くまぶちむら【熊淵村】石川県:七尾市
日本歴史地名大系
[現]七尾市熊渕町 石動山に源を発する熊渕川上流に位置し、東は山崎村。南の越中氷見郡境に蔵王山(五〇七メートル)がそびえる。同川沿いに上流から滝尻・水上・仏前・ ...
50. くらもとむら【蔵本村】宮城県:白石市
日本歴史地名大系
町 東は白石本郷、西南は鉢森山・花房山を結ぶ稜線で森合村・小原村、北は八宮村と接する。西北は蔵王山麓の高原、東南は白石川の形成する河岸段丘の平地。観応三年(一三 ...
「蔵王山」の情報だけではなく、「蔵王山」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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富士山(日本大百科全書(ニッポニカ))
山梨・静岡両県にまたがる、玄武岩を主とする成層・円錐火山。かつての富士火山帯の主峰であるが、全国最高の標高(3776メートル)と美しい容姿のために、古来、日本の象徴として仰がれ、親しまれ、海外にもよく知られる活火山。その傾斜は山頂部で32~35度
宝登山(日本歴史地名大系)
町境にそびえ、標高四九七・一メートル。山麓には宝登山神社・玉泉(ぎよくせん)寺、山頂には宝登山神社奥宮があり、古くから信仰の山であった。山名の由来は、弘法大師が山頂に宝珠の翻るのをみて名付けたとか、凹地・窪地をあらわすホドに因むなどといわれる。
槍ヶ岳(改訂新版・世界大百科事典)
飛驒山脈南部,長野県松本市,大町市,岐阜県高山市の境界に位置する山。標高3180mは日本第4位の高さである。山頂付近は槍の穂先のように鋭い尖峰を呈し大槍と呼ばれ,その北西斜面には小槍,孫槍,曾孫槍などの尖峰が付随する。山頂からは東鎌尾根,西鎌尾根,槍・穂高稜線,北鎌尾根の
御嶽山(日本大百科全書(ニッポニカ))
長野・岐阜県境にそびえる複式の成層火山。木曽御嶽ともいう。中央火口丘の剣ヶ峰(けんがみね)が最高峰で標高3067メートル。外輪山(摩利支天山、継母岳)、寄生火山(継子岳、三笠山)、噴火口跡(一ノ池~五ノ池)などが南北に連なり、これらを総称して御嶽山とよぶ。頂上周辺の一ノ池
おお‐やま[おほ‥] 【大山】(日本国語大辞典)
(1)大きな山。また、山の美称。*万葉集〔8C後〕一二・三一五三「み雪ふる越の大山(おほやま)行きすぎていづれの日にか我が里を見む〈作者未詳〉」
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ツルレイシ(日本大百科全書・世界大百科事典)
ウリ科(APG分類:ウリ科)の一年生つる草。熱帯アジア原産。果実を食用とするが、苦味があるためニガウリ(苦瓜)ともよばれる。茎は細く長さ2~5メートル、巻きひげで他物に絡みつく。葉は互生し、掌状に裂ける。雌雄異花。夏、葉腋に黄色の小花をつける
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ソメイヨシノ(日本大百科全書・日本国語大辞典)
バラ科(APG分類:バラ科)の落葉高木。オオシマザクラとエドヒガンの雑種で、明治初年に東京・染井(現在の豊島(としま)区巣鴨(すがも)付近)の植木屋から売り出されたサクラである。初めはヨシノザクラとよんでいたが、奈良県吉野山のヤマザクラと混同されやすいので
鹿島槍ヶ岳(日本歴史地名大系)
後立山連峰のほぼ中央、立山町・宇奈月(うなづき)町・長野県大町市の境界にそびえ、角閃石岩や輝石安山岩からなる。標高二八八九・七メートル。南槍・北槍の両峰が並び立ち、両峰間の吊(つり)尾根も美しい双耳峰で、しかも多くの岩場を有する
五龍岳(日本歴史地名大系)
後立山連峰のほぼ中央部、宇奈月(うなづき)町と長野県大町市との境界にそびえ立つ雄峻な岩山。標高二八一四・一メートル。五竜とも記される。割菱状の岩壁が山体の東面を構成しているので割菱(わりびし)ノ頭(あたま)とよばれたが
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