蔵王山という山名の単独峰はなく、宮城・山形両県にまたがる火山群の総称である。行政上は、宮城県では
当山は修験信仰の山であり、ここに蔵王権現が勧請され祀られたことによって、蔵王山の名があると伝える。その中心となったのは、現在刈田岳の頂上に祀られている
刈田嶺神社の別当は真言宗の
蔵王山の噴火は活発であり、記録上は三四回とも四七回ともする。伝承のたぐいを別にすれば、寛喜二年(一二三〇)一〇月に柴田郡に雨のごとく石が降り、降石範囲は二〇余里に及んだという「吾妻鏡」同年一一月八日条の記事が当山噴火の初見とされる。観応年間(一三五〇―五二)の「都のつと」に「これなんあぶくま川也けり(中略)水上とをくみわたせば、かさなる山の中に煙のたちのぼるところありしを」とみえ、これも当山の描写という。近世には「片倉代々記」元和九年(一六二三)四月一六日条に「此日より刈田嶽不忘山焼初むる」とある。この噴火は翌寛永元年(一六二四)まで続き、仙台藩は当時来仙していた明人の王翼を登山させ、鎮静を祈らせたりしているが、昔から噴火が多かったものの、今度のは大噴火で「砂石雨」のため田畑の被害が大きいと記される(貞山公治家記録)。元禄七年の大噴火は約三年間断続し、山形・上山方面にも被害をもたらした(「肯山公治家記録」、上山城旧記「白石市史」所収)。寛政六年(一七九四)より二ヵ年にわたった噴火では、
一帯は蔵王国定公園の指定を受け、火山活動によって造られた自然景観や、山頂付近のミネズオウ、ガンコウランの低木はじめハイマツ群落などの植生、またカモシカ、イタチ、ツキノワグマなどの動物をみることができる。温泉には峨々温泉ほか遠刈田温泉、
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山形・宮城両県にわたる火山群の総称で、蔵王山という山名の単独峰はない。山域は山形県側は山形市・
蔵王の名称は熊野岳や刈田岳の山頂に祀られる蔵王権現によるとされるが、同権現が勧請される以前に連峰を総称して何とよんでいたかは明らかではない。また高峰が聳立するためか、史料上にみえる蔵王山系に関連する山が、現在のどの山にあたるかを確定しがたいものも多い。しかし、一〇世紀末頃に編纂された「古今六帖」に「みちのくにあぶくまがはのあなたにや人わすれずの山はさかしき」と詠まれ、「枕草子」(山はの段)にも「わすれずの山」がみえ、蔵王連峰は歌枕として中央貴族にも知られていた。なお現在の不忘山は、以前は
古くには陸奥国側では、現在刈田岳山頂に祀られる
当山が密教化した修験者たちによって開発・整備がなされ、蔵王修験が確立していった時期は、中世末から近世初頭の間と考えられる。蔵王修験の中心となったのは刈田岳・熊野岳で、熊野岳山頂には蔵王権現のほか熊野権現・白山権現が勧請されている。登拝口は奥州側に
遠刈田口は、役行者の叔父願行が開発して
半郷口には
山麓には登拝した人々や講中によって「蔵王山」の供養碑が多く建てられている。当山には大和
しかし、
蔵王修験の入峰修行のなかで、春の峰では修験者が
近世には四月八日はトビラキ(戸開)と称して遠刈田にある蔵王権現の里宮(嶽之坊)から刈田岳山頂の奥院に神体を移し、また一〇月八日はトタテ(戸閉)と称して山頂より神体を里宮に移していた。種蒔頃から六月頃まで南蔵王の真ん中の残雪は、その形から雪入道といわれ、また宮城県白石地方ではこれを種蒔入道とか入道坊主とよび、これを目安にして苗代に種籾をまいたという。
西蔵王に属する山形市の瀧山(一三六二・一メートル)は古くは龍山と記したと思われ、早くから独自の水神・作神信仰を基底とする信仰が存在し、また古代には同山麓一帯に一つの仏教文化圏が形成されていたと考えられる。この仏教文化圏の中核となったのが
貞観九年に「最上郡霊山寺」が定額寺に列せられ(「三代実録」同年一二月二九日条)、天養年中(一一四四―四五)には西行が「瀧の山と申山寺」にて「類ひなき思ひいではの桜かなうすくれなゐの花のにほひは」と詠じ(山家集)、応保元年(一一六一)には学僧信阿が「最上郡山寺」において「和漢朗詠集私注」六巻を完成させている。これら史料にみえる「霊山寺」「瀧の山と申山寺」「山寺」を瀧山麓の龍山寺とする説がある。もちろん断定することはできないが、定額寺「霊山寺」は天童市の
瀧山への参道は三口あり、まず表参道は北西麓、元木惣門の石鳥居をくぐって
酢川温泉神社は現在瀧山を本宮、熊野岳を離宮とした三位一体の神社だと主張している。瀧山頂には酢川温泉神社が祀られているが、本来は瀧山山頂には
岩波の石行寺は行基が開基し、慈覚大師が中興したとされる天台宗の古刹であり、いわゆる閉山後は龍山寺に代わって龍山仏教文化の中核に立つようになったと思われる。明治四年の石行寺境内建物明細帳(寺蔵)によると、中桜田に移建された瀧山寺が石行寺の末寺とされている。同寺では文和二年(一三五三)から応安八年(一三七五)にわたる写経事業がなされて現在一一四巻が保存され、一巻は近くの平清水にある平泉寺に所蔵されている。奥書をみていくと写経にたずさわった人物として大和坊朝尊・覚阿法師・密蔵坊準(准)海・安玄などの名がみえ、料紙の旦那として、
蔵王火山群は北西部の瀧山火山、中央部の蔵王火山および南部の南蔵王火山の三火山群に分けられ、各火山群はその中央部に大規模な爆裂火口をもっている。瀧山火山群には南部の爆裂火口と北西部にカルデラ状の陥没地、南蔵王火山群には、
蔵王温泉はかつて最上高湯温泉とよばれて、村山地方の代表的な湯治場として繁盛した。源泉は標高八八〇メートル、蔵王山の北西斜面の高湯爆裂火口の底部にあって自然湧出し、しかも湧出量が豊富で高温(摂氏四二―六二度)であることが特色。マグマ発散物や硫化水素ガスを伴っているので強い酸性を示し、多くの塩類を含み、湿疹・水虫などに特効があるとされている。蔵王温泉を基地として、蔵王登山やスキーが行われるようになったのは大正期以降で、昭和二五年には全国観光地百選に第一位当選してから全国的に有名になり、とくに樹氷が喧伝された。山腹から上部にかけてはアオモリトドマツを主とする亜高山性の針葉樹林に覆われており、それに過冷却水蒸気を多量に含んだ冬の季節風が当たって結氷する。また熊野岳周辺に群生するコマクサも蔵王のシンボルとして知られる。同三七年の蔵王エコーラインの開通によって観光地としての開発が進み、またスキー場の開発整備も進み、同三八年には国定公園に指定され、通年型の総合観光地として発展しつつある。
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