安死術またはオイタナジーEuthanasie(ドイツ語)ともいう。この語源はギリシア語のエウタナーシャeuthanasia(「良き死」または「楽な死」の意)にある。安楽死とは、死期の切迫した不治の傷病者を死苦から解放するために死なせることをいう。安楽死には、傷病者の自然の死期を早める場合(積極的安楽死)と、これを早めない場合(消極的安楽死)とがあり、このうち人の生命の短縮を伴う積極的安楽死については、宗教、哲学、文学、医学、法学などさまざまな分野でしばしば論じられてきた。たとえば文学作品では、トマス・モアの『ユートピア』、R・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』、D・H・ローレンスの『息子と恋人』をはじめ、日本でも森鴎外(おうがい)の『高瀬舟』が安楽死のテーマを扱っている。
[名和鐵郎]
歴史的にみると、ヨーロッパでは、安楽死の是非は自殺の問題と同様に、キリスト教との密接なかかわりをもっている。中世キリスト教社会では、生命は神のたまものであり、自殺であれ、安楽死であれ、人間が人の生命を奪うことは神の意思に反するという考え方(これは聖アウグスティヌスに始まり、トマス・アクィナスにより集大成された)を前提として、安楽死も殺人の一種として処罰の対象とされた。ルネサンス時代になると、個人の自由を尊重する思想がおこり、前記トマス・モアはカトリック教徒ではあるが、1516年の『ユートピア』において、ユートピア、すなわち非キリスト教社会では、本人の意思による安楽死(任意的安楽死)も是認されうることをアイロニックに述べている。フランシス・ベーコンは『ノウム・オルガヌム』(1620)において、ユーサナジアeuthanasiaということばを用いて安楽死肯定論を展開している。このような一連の安楽死肯定論にもかかわらず、やはり自殺や安楽死を罪悪視する考え方が支配しており、とくにキリスト教的倫理観の根強い国々では、安楽死を殺人の一種とするとともに、自殺をも厳しく処罰する立法が広くみられた。
これに対して、近代になると、法と宗教の分離が強く叫ばれ、たとえば近代啓蒙(けいもう)思想の流れをくみ、「近代刑法学の始祖」とも称されているC・B・ベッカリーアは『犯罪と刑罰』(1764)のなかで、自殺は神のみが裁きうるとして、自殺を処罰することに強く反対した。ここにみられるような近代的合理主義と人道主義の台頭のもとに、また近代医学の発達が契機となって、18世紀末には死苦から解放するための積極的安楽死を是認しようとする考え方がおこってきた。20世紀に入ると、安楽死合法化を求める動きが広がり、1930年代には、イギリスやアメリカで「安楽死協会」が相次いで発足し、安楽死合法化法の制定を要求する運動が活発に展開されるに至った。ところが、ナチス・ドイツにおいて、「国民の敵」「劣等者」とされた数百万にのぼる人々(ユダヤ人、同性愛者、精神障害者など)が「安楽死」の名のもとに虐殺されるという不幸な事態が発生した。このような苦い経験を経て、第二次世界大戦後は、安楽死を安易に肯定しようとする考え方は深刻な反省を迫られ、安楽死肯定論者も、ナチスによる大量虐殺に道を開いた「強制的安楽死」を否認し、安楽死も本人の意思に合致する場合(任意的安楽死)だけに限定すべきことを主張することとなった。2014年時点で、国家の法律で安楽死を認めているのはスイス(1942年)、オランダ(2001年)、ベルギー(2002年)、ルクセンブルク(2008年)で、いずれも本人の自発的な意思が容認条件にあげられている。なお、オランダとベルギーでは一定の要件を満たしたうえでの子供の安楽死も認めている。
[名和鐵郎]
1907年(明治40)に制定された現行刑法は、殺人の罪について、被害者の意思に反するか否かを区別して、殺人罪(199条)のほか自殺関与及び同意殺人罪(202条)を規定している(なお、自殺は不可罰)。したがって、強制的安楽死は被害者の意思に反する場合であるから、殺人罪に該当しうることは疑問の余地がない。これに対して、任意的安楽死は被害者の意思に反しない場合であるから、202条の罪が成立するか否かが問題となる。かつては任意的安楽死であっても人命を短縮する以上202条として処罰すべきであるとする見解があったが、今日では、202条には該当するが一定の要件をみたせば違法または責任が阻却され、犯罪とはならないと解されている。
ところで、安楽死として違法阻却となるための一般的要件を示したリーディング・ケースとして、1962年(昭和37)の名古屋高裁判決がある。これによれば、安楽死として違法阻却となるためには、(1)不治の病であり、死が目前に迫っていること、(2)苦痛が甚だしく、何人(なんぴと)も見るに忍びないこと、(3)死苦緩和の目的があること、(4)意思表明ができる場合には、患者からの真摯(しんし)な嘱託または承諾があること、(5)医師の手によるか、医師によりえない特別の事情があること、(6)方法が倫理的に容認しうることの6要件をみたす必要がある(なお、本件には違法阻却が認められなかった)。これ以降の安楽死に関する判決は、行為者と被害者が近親関係にある場合がほとんどであるが、医師の行為が裁かれたケースとしていわゆる東海大学安楽死事件に関する1995年(平成7)3月の横浜地裁判決がある。この判決では、医師による安楽死の要件として「苦痛の除去・緩和のためほかに医療上の代替手段がない」ことを要求するが、本件については肉体的苦痛および患者の意思表示がいずれも認められないとして有罪とした。このように日本の判例には、安楽死として無罪としたケースは存在しない。
[名和鐵郎]
リーディング・ケースである1962年の名古屋高裁判決に関連して、安楽死について医療現場では次のような点がとくに問題となる。(1)生命の短縮を伴わなければ、医療行為として適法である。(2)死期に影響するとしても、患者の死苦を長引かせないため延命措置をとらない場合(消極的安楽死)や鎮痛剤などの使用による副作用として結果的に生命が短縮される場合(間接的安楽死)でも、患者の承諾があれば適法となろう。(3)「安楽死から尊厳死へ」といわれるように、今日におけるペイン・クリニックの発達によって、モルヒネなどの鎮痛剤を使用すればほとんどの死苦が解消されうるし、植物状態の患者は肉体的苦痛は存在しないから、医療現場では安楽死より尊厳死がより重要である。(4)患者自身の明示的な意思に基づくことを要するから、患者の推定的承諾で足りるとする見解もあるが妥当ではない。(5)安楽死は濫用の危険が大きいから、特別の事情がないかぎり医師の手によるべきである。したがって、医師以外の者は医師に依頼して安楽死をしてもらうことが要求されるが、再三の懇願にもかかわらず医師が安楽死を拒否したため、看護をしていた夫が末期癌(がん)の妻を包丁で刺殺したという事案について、1977年の大阪地裁判決は、医師によりえない特別の事情には当たらないとした。(6)末期患者には、死苦とはいえないとしても、さまざまな肉体的苦痛や精神的苦悩を伴うのが一般的であるから、このような末期患者の希望によって、温かく看護し、安らかな臨終に導くためのホスピスや緩和ケア病棟を普及するとともに、これを保障するための医療制度を確立することが急務であろう。
[名和鐵郎]
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