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丹沢

ジャパンナレッジで閲覧できる『丹沢』の日本歴史地名大系のサンプルページ

日本歴史地名大系
丹沢
たんざわ

県北西部にあり、東西約四〇キロ、南北約二〇キロに及ぶ山地。厚木市、愛甲あいこう愛川あいかわ町・清川きよかわ村、津久井つくい城山しろやま町・津久井町・相模湖さがみこ町・藤野ふじの町、伊勢原市、秦野はだの市、足柄上あしがらかみ松田まつだ町・山北やまきた町、山梨県南都留みなみつる郡にまたがる。北は相模川・かつら川の谷を境に小仏こぼとけ山地(関東山地)へ連なり、南西では酒匂さかわ川の谷を境に箱根火山と相対する。地形はほぼ標高六〇〇メートルの等高線を境にこれより高い本体部とこれを取巻く前山からなり、前山は北部の道志どうし山地、東部の中津なかつ山地、南西の足柄山地に分けられる。山地本体部には標高一〇〇〇メートルを超える峰六三座があり、うち八座が一五〇〇メートルを超える。本体中央部には主峰が連なり、最高峰のひるヶ岳(一六七二・七メートル)は県の最高峰でもあり、山頂に薬師如来・毘盧遮那仏が祀られることから毘盧びる岳・薬師やくしヶ岳ともいわれる。ここから三方へ山稜が延び東南には丹沢山(一五六七・一メートル)とうノ岳(一四九〇・九メートル)・大山(一二五一・七メートル)の山稜が続き、塔ノ岳からは西へ鍋割なべわり(一二七二・五メートル)ひのき(一一六六・八メートル)が分れて秦野峠(八六八メートル)に至り、蛭ヶ岳から北へは姫次ひめつぐ黍殻きびがら(一二七二・八メートル)やけ(一〇五九・六メートル)が続き、さらに西へは檜洞丸ひのきぼらまる(一六〇一メートル)から犬越路いぬこうじ(一一六八・六メートル)を経て道志川沿いに大室おおむれ(一五八七・六メートル)加入道かにゆうどう(一四一八・四メートル)じよう(一一九九・一メートル)菰釣こもつるし(一三四八・二メートル)と山稜が続き、三国みくに峠に至る。大室山は大群山とも記し、「富士隠し」ともいわれる(甲斐国志)。全体として起伏が少なく、高い標高の稜線が屏風のように続き、相模川左岸の愛甲台地、同下流域の相模平野から一気に盛上った山容をもつ。

「風土記稿」にみえる「丹沢山」は現在の丹沢山一峰をさすのでなく、丹沢山地の本体部を総称したものと思われ、また「万葉集」巻一四に「相模嶺さがむねの小峰見隠し忘れ来る妹が名呼びて我を音し泣くな」と詠まれる「相模嶺」も、大山など丹沢山地の峰々の総称であろうか。

地形的区分とは別に東丹沢ひがしたんざわ・西丹沢・表丹沢おもてたんざわ・裏丹沢という地域区分も行われている。東丹沢は東部の秦野市・伊勢原市・厚木市・清川村域、西丹沢は松田町・山北町域、表丹沢は山地南面の秦野市・伊勢原市域、裏丹沢は北面の津久井郡側をさす。東丹沢には中津川・早戸はやと川・小鮎こあゆ川・すず川、複合扇状地である秦野盆地へ入る金目かなめ川・水無みずなし川・葛葉くずは川・四十八瀬しじゆうはつせ川の谷、西丹沢には酒匂川支流の鮎沢あゆさわ川・河内こうち川・中川なかがわ川・玄倉くろくら川・世附ゆづく川・皆瀬みなせ川・中津川の谷、裏丹沢には道志川・かみノ川の谷がある。谷の多くは流路が短く、渓谷をなし、支流部はいずれも険しい岩場で始まり滝や早瀬をつくり下流へ多量の砂礫を押出している。山麓にある村落はほとんどがこれらの谷沿いに形成される。おもな峠には、表丹沢と裏丹沢の間にヤビツ峠・菩提ぼだい峠・物見ものみ峠、東丹沢・裏丹沢間に土山つちやま峠、西丹沢・表丹沢間に秦野峠・中山なかやま峠、西丹沢・裏丹沢間に犬越路・城ヶ尾峠・二本杉にほんすぎ峠などがある。河内川には昭和五三年(一九七八)山北町神尾田かみおだ三保みほダムができ丹沢湖がつくられ、また中津川でも昭和六二年を目標に愛川町石小屋いしごやみやダムの建設が予定され、完成時には清川村落合おちあい・宮ヶ瀬の集落が水没する。

〔物産〕

山地は全体として壮年期の山容を示し、その地質はおもにグリーンタフ(緑色凝灰岩)、石英閃緑岩および変成岩からなり、植生は標高七〇〇―八〇〇メートルを境に暖温帯林と冷温帯林に分れ、最高所はブナ林を中心とした落葉広葉樹帯(冷温帯林)となっている。グリーンタフは石仏・石塔の素材、樹木は材木や薪炭などに使われている。丹沢山地に産する岩石を使って石造物が作られるようになったのは江戸時代中期以降で、現在の厚木市七沢ななさわ、伊勢原市日向ひなた、清川村すす周辺を拠点に信州高遠たかとおの出稼石工によって石材の切出し・加工が行われ、高遠石工の銘のある石造物が残る。また七沢や日向にはのちに高遠石工が定住し、これらの地には現在も石材業を営む家が数多く、また七沢・日向周辺から産する石を七沢石とよぶ。炭の産出はこれより古く、天正元年(一五七三)一二月付の北条家伝馬手形(県史三)によれば清川村煤ヶ谷から「すゝかき炭五十俵」が小田原まで届けられている。また現厚木市中荻野なかおぎのには御炭おすみ山といわれる山があり、江戸時代にはここで茶の湯用の御用炭が焼かれていたという(風土記稿)。当時の炭はすべて白炭で、黒炭に変わったのは明治末から大正時代である。木材の産出も戦国期までさかのぼり、天正二年正月二四日の北条家朱印状(県史三)によれば井楼道具として津久井から五六(角材)二一三丁・幡板三〇九枚、七沢から五六を一二五丁、須賀すか(現平塚市)まで運び出したことがみえる。

〔御林〕

天正一八年徳川家康関東入封以降丹沢一帯は分国内の直轄林として徳川氏の統治下に置かれた。御林に設定されるのは寛永元年(一六二四)とみられる。同年幕府は田所助二郎に命じて江戸花水はなみず橋の普請用材を煤ヶ谷村周辺より伐出した(寛永一八年五月「大住郡菩提・寺山村丹沢御林伐荒につき煤ヶ谷村訴状ならびに対決差紙」県史六)。田所は周辺山林を改め、栂・欅・樅・杉・榧・栗を留木とし、村方四人による山方管理を煤ヶ谷村に命じている(寛永元年一〇月一七日「すゝかや山とめの事」清川村山田文書)、同様の田所発給の文書は大住おおすみ横野よこの(現秦野市)(寛永元年一〇月二五日「よこの山とめ申事」秦野市今井文書)、同郡菩提村(現秦野市)(同年一〇月二六日「ほたい山とめ申事」同文書)にも出され、田所により山改が広範囲にわたって実施され、山管理は村へ負わされた。

御林の範囲は「小田原領境より津久井領迄」(延享元年「横野村明細帳」秦野市史二)とされるだけで明確ではなく、寛政期(一七八九―一八〇一)に至っても反別や木数は把握されていない(「諸伺・船中御条目押切帳・御林並木御用留」静岡県江川文庫蔵)。丹沢御林は深山で嶮岨、しかも広域のため材種別の数量や運送路を記した御林改帳が作製されなかったらしい。延宝三年(一六七五)の評定所より丹沢山内御林守方申渡につき横野村等五ヵ村誓紙(県史六)には御林内の字名として「たらいこや・とうほら・長尾やせを・あしから尾・野々川・山崎・しほ水」などがみられ、大住郡の村一六ヵ村余は、御林の裾野の一部、「大野平・ちごく沢・ちんかさ・きかすころはし・くなかい・浅木山・水沢」を運上野とすることを認められていた。

御林管理は中原代官・江川代官などの指揮のもとに山麓東側の村々が御林守村に設定され従事した。延宝三年の御林守村は寺山てらやま(現秦野市)・宮ヶ瀬・煤ヶ谷・菩提・横野の五ヵ村(前出五ヵ村誓紙)、享保元年(一七一六)には寺山・煤ヶ谷・宮ヶ瀬の三ヵ村(同年一一月「丹沢山御林山守愛甲郡二ヵ村・大住郡一ヵ村にて致度儀に付願書」県史九)、寛政六年には寺山・煤ヶ谷・宮ヶ瀬・横野の四ヵ村(同年六月「横野村外四ヶ村一同丹沢御林守助役願」秦野市史二)、文久二年(一八六二)には寺山・煤ヶ谷・宮ヶ瀬・横野・七沢の五ヵ村(同年四月「丹沢山御林木数改書」秦野市今井文書)である。御林守村は一ヵ月に一村から人足五人ずつ出し、三里半から四里余の所を巡回するというような御林の見回りを通常の役務としたが(宝永五年一月「富士山噴火後宮ヶ瀬村極困窮につき扶食拝借願」県史六)、ほかに山火事の際には消火、盗伐などの諸事件の際は連絡を行った。とくに寺山村は運上野入会村々一六ヵ村余からの運上米一九石余・永二貫七〇〇文余の徴収・上納の役を負っていた(寛延二年六月「丹沢山御林運上野の儀尋方につき寺山村名主返答書」県史九)。このため御林守村には全体で扶持米一人半を支給されるとともに助郷役・日光社参人馬役などを免除された。一方御林守村による盗伐も多く、延宝二年には江戸町人が御林守村四ヵ村の盗伐を訴え、六人の者が籠舎に処せられるという事件が起きている(前出五ヵ村誓紙)

文久二年の改(今井文書)によれば、留木は目通り一尺から二丈二尺、長さ一間から一〇間の樅六万九千四七四本、椴三万五千一六七本、栂二万一千三〇二本、杉七千一五三本、槻三千八二四本、柏一千九〇六本、檜一一三本であった。

一方、雑木は薪や御用炭生産に用いられた。御用炭は江戸時代前期から煤ヶ谷村などで小規模に生産されていたが、文化二年(一八〇五)以降広範囲、大規模に生産された(同年「御用留」山田文書)。御炭掛に任じられた幕府普請役のなかには最上徳内もいる。生産は幕府前借による村方請負仕出で行われ、御用炭は相模川を利用して須賀まで運び、船で江戸新橋しんばし炭会所に納められた。生産総量は不明だが、寺山村では文化三年から文政二年(一八一九)までに、幕府前借金と他借金一万三千五三二両余を用い、炭三二万一千八〇八俵余を生産し(文化三年「立合勘定仕上差引覚」秦野市武文書)、村方の五〇〇両余の赤字であった。村方赤字は横野村でも同様であり、両村では各々小前百姓が中心となって幕府に対し御用炭の生産中止を求める直訴を行っている(文化九年九月「差上申詫一札事」今井文書、文政二年「公事方御用留」江川文庫蔵)。また天保(一八三〇―四四)頃から原野開発が本格的に進められている。丹沢新開は代官江川氏手代町田亘などが担当した。手代町田が二宮尊徳の指示なども得ながら入植百姓を募り、五町歩余を開発、一〇軒の百姓を入植させた(「願書控」江川文庫蔵)。生産物は椎茸・山葵で、入植時作付費用などはすべて丹沢新開場融通金によって賄われた(「丹沢新開場融通金諸御勘定仕上帳」同文庫蔵)

明治二二年(一八八九)御林一帯は帝室林に編入。昭和六年県へ払下げられ、同二九年に始まる保安整備事業により国有林となった。

〔信仰〕

山麓や山中には修験など山岳宗教にかかわる社寺・峯・集落が数多くある。東丹沢では、現愛川町八菅山はすげさんは修験集落で現在もその遺風を残し、伊勢原市日向に日向薬師(宝城坊)浄発願じようほつがん寺、大山に阿夫利あふり神社・大山たいさん寺がある。また西丹沢の山北町共和きようわ地区には修験道儀礼を芸能化したと考えられるお峯入という民俗行事が伝承されている。八菅山・日向・大山はいずれも江戸時代には一山組織ができており、八菅修験・日向修験は本山派修験として丹沢山地の峰々で峯入修行を行った。八菅修験は八菅山を起点に大山に至る七宿三〇ヵ所を行所として明治時代になるまで峯入修行が続けられた。おもな行所はへい山・屋形やかた山・塩川しおかわ滝・宝珠ほうじゆ(通称ぼうず山)経石きようせき(経ヶ岳山頂の西峰)華厳けごん(華厳山、六〇二メートル)仏生ぶつしよう谷・不動ふどう岩屋・ちごはか(辺室山山頂南西)金剛童子こんごうどうじ嶽・釈迦しやか(通称ケチ山)阿弥陀あみだ(通称風吹き山)妙法みようほう(三峰山)大日だいにち(三峰山の南峰)・不動嶽(通称カシボッコ、札カシの山)聖天しようてん(仙人ヶ岩)涅槃ねはん嶽・金色こんじき嶽・十一面じゆういちめん嶽・千手せんじゆ嶽・空鉢からはち(通称地蔵平)明星みようじよう嶽・雨降うこう(大山山頂)・大山寺(大山不動堂)などである。これに対し日向修験の行所は、常連坊の「峯中記略控」によれば春の峯入は八菅修験の空鉢嶽から大山・問答もんどう(門戸口)烏尾からすお山・前尊仏まえそんぶつ山・行者ぎようじや岳・大日・とうノ峰(塔ノ岳)りゆう馬場ばば弥陀みだはら・不動ノ峰・仙人せんにんの岩・釈迦ヶ岳を経て現津久井町青根あおねへ出る丹沢山地主峰部を縦走する経路で峯入修行が行われた。修験者の峯入のほか江戸時代には大山・塔ノ岳へ参詣者や近在の人々が登ったが、これらの登山、山稜の縦走はいずれも信仰によるものであった。

〔近代登山〕

丹沢が近代登山の場となったのは、日本山岳界の先駆者の一人である岡野金次郎が明治二七年四月、あるいは小島烏水とともに翌二八年三月に塔ノ岳に登り、同三八年九月に武田久吉・高野鷹蔵が植物・昆虫調査で現山北町玄倉から塔ノ岳に登って以後とされている。入山拠点は昭和二年小田急電鉄が敷設されるまでは津久井郡の中央線与瀬よせ(現相模湖駅)、東海道線の平塚、御殿場線の山北であった。同一五年塔ノ岳山頂に尊仏そんぶつ小屋ができ、戦後登山者が増え始め、同三〇年に第一〇回国民体育大会の登山部門が丹沢で開かれてからは登山者・山小屋が急増した。同三九年には丹沢山地に三七の宿舎(ロッジ、山小屋)があった。同三五年五月丹沢山地の過半(三万八七二六ヘクタール)が県立自然公園に指定され、同四〇年三月にそのうちの二万六三四五ヘクタールが丹沢大山国定公園に指定された。なお現在、丹沢山地一帯のカモシカは国指定の特別天然記念物に、山北町中川の箒スギは国指定天然記念物になっており、さらに清川村煤ヶ谷内の丹沢札掛の樅林、山北町皆瀬川のシダ類植物群落とその生育地など九件が県指定天然記念物となっている。

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日本大百科全書
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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日本国語大辞典
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33. あらはご[方言]
日本方言大辞典
)1916《あらは》 福島県岩瀬郡003日本樹木名方言集(農商務省山林局)1916 神奈川県西丹沢003日本樹木名方言集(農商務省山林局)1916《あらご》 武 ...
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39. いしぐるま に 乗(の)る
日本国語大辞典
石車にのりたるが如し」小石を踏んで滑り転ぶ。《いしぐるまに乗る》神奈川県丹沢山麓018 新潟県佐渡352 東蒲原郡368 長野県佐久493 静岡県志太郡535  ...
40. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
政期(一八一八―三〇)以降支配地全域に拡大した。椎茸は伊豆七島まで指導書とともに普及し、山葵も丹沢山系や武蔵国多摩郡檜原村(現東京都檜原村)などに根付いた。炭は ...
41. 伊勢原(市)画像
日本大百科全書
1971年(昭和46)市制施行。小田急電鉄が通じ、国道271号(小田原厚木(あつぎ)道路)、246号が通じる。丹沢(たんざわ)山地東部の大山(おおやま)(雨降山 ...
42. いせはらし【伊勢原市】神奈川県地図
日本歴史地名大系
二平方キロ 県のほぼ中央部に位置し、北・東は厚木市、南は平塚市、西は秦野市に接する。北西部には丹沢の険しい山岳が続く。西端には雨降山の別名で知られる大山(一二五 ...
43. いたいてらがたにいせき【板井寺ヶ谷遺跡】兵庫県:篠山市/旧西紀町地区/上板井村
日本歴史地名大系
遺構・遺物は、姶良丹沢火山灰上部の暗灰色火山灰層中とその上部、姶良丹沢火山灰下の黄色粘土および泥炭III最下部と暗灰色粘土上面の、上下関係を示す二層から確認され ...
44. いのおかむら【猪岡村】岩手県:一関市
日本歴史地名大系
・上場・真坂・宮田・滝野原・上ノ台・竹沢・外谷地・細倉・舟落・深立目、屋敷名七六をあげる。切支丹沢、夜飯米平(イルマンがキリシタンとなった者たちに夜食を与えた所 ...
45. イノシシ画像
世界大百科事典
忌む伝承も西日本には残っており,解体,分配についての慣行も多い。千葉 徳爾 料理 料理東京付近ならば丹沢,伊豆,秩父,関西ならば京都周辺などをはじめとして,冬に ...
46. いまいさんきどういせき・いまいみきりづかいせき【今井三騎堂遺跡・今井見切塚遺跡】群馬県:佐波郡/赤堀町/今井村
日本歴史地名大系
旧石器時代と古墳時代である。旧石器時代では四つの文化層が確認されている。とくに濃密な内容を示していたのは、姶良丹沢軽石層(二万五千年前降下とされている)下から見 ...
47. いめ【射目】[方言]
日本方言大辞典
隠しておく所。また、猟師小屋。 福島県南部155福島県方言辞典(児玉卯一郎)1935 神奈川県丹沢018山岳語彙(岩科小一郎)1942 熊本県球磨郡054方言( ...
48. い‐め【射目】
日本国語大辞典
獲物を待ち伏せして射るために身を隠しておく所。また、猟師小屋。《いめ》福島県南部155 神奈川県丹沢018 熊本県球磨郡054 イメ ...
49. いわじゅくいせき【岩宿遺跡】群馬県:新田郡/笠懸村/阿佐美村
日本歴史地名大系
、その上位の阿左美層から岩宿II石器文化が出土し層位的に検証された。岩宿I石器文化はほぼ姶良・丹沢パミスの降下時(二万一千年前)に位置づけられ、局部磨製石斧、削 ...
50. うばいしむかいにごうふん【姥石向二号墳】福島県:相馬郡/飯舘村/伊丹沢村
日本歴史地名大系
[現]飯舘村伊丹沢 姥石向 伊丹沢盆地を形成する丘陵の西側斜面中腹に立地する姥石向古墳群のうちにあり、北側の沖積地を新田川が東流する。七世紀の円墳で、木口積み胴 ...
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井伊谷村(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。現引佐町の南部、井伊谷川に神宮寺(じんぐうじ)川が合流する小盆地に立地する。「和名抄」にみえる引佐郡渭伊(いい)郷の中心をなしていたという。渭伊は井からの転化とされ、井水を神聖視する聖水祭祀を行ってきた豪族が栄えた地という
中京区(京都市)(日本歴史地名大系)
面積:一二三・三二平方キロ 京都市の中央部に位置し、北は丸太町通北及び二条城北側を回って千本通西側を境として上京区に接し、東は鴨川を境に東山区及び左京区に、南は四条通北及び大宮通以西では松原通を境に下京区に、西は北側が西小路通西、南側が西大路通東を境に右京区に接する。
大東町(静岡県小笠郡)(日本歴史地名大系)
面積:四五・九九平方キロ 小笠郡の西部にあり、南は遠州灘に面し、北は掛川市・袋井市、西は大須賀町、北東は菊川町、東は小笠町・浜岡町に接する。町の北西は小笠山丘陵、北東は牧之原台地丘陵部の一部から構成され、海岸部は天竜川の運んだ砂が堆積して砂丘地帯を形成している。
浜松市(静岡県)(日本歴史地名大系)
面積:二五六・七四平方キロ 県西部、遠州灘に面する。東は天竜川を挟み磐田郡竜洋町・豊田町、磐田市、北は浜北市、引佐郡引佐町・細江町、西は浜名郡雄踏町・舞阪町に接するほか、浜名湖に面する。市域西部から北部には洪積台地の三方原台地が広がる。南部は遠州灘に臨む海岸平野で
鳳来町(日本歴史地名大系)
面積:二六五・五五平方キロ 県の東部に位置し、北は北設楽郡設楽町・東栄町、東は静岡県磐田郡佐久間町・天竜市・引佐郡引佐町、南は引佐郡三ヶ日町、新城市、西は作手村に接する。町の東部、静岡県との境は、赤石山脈の支脈の弓張山脈で、西には木曾山脈の末端が連なる。町のほぼ中央の
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卒業(日本国語大辞典)
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