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日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
富士山
ふじさん

山梨・静岡両県にまたがってそびえる日本の最高峰。けんヶ峰が最高地点で、標高三七七五・六メートル。天空にそそり立ち、なだらかな裾野をもつコニーデ型の成層火山で、山頂部に火口をもつ。火口の直径は五〇〇―六〇〇メートル、深さ二四〇メートルほどである。古来火口は内院ないいんとよばれ、その外周には剣ヶ峰を基点として、三島みしまヶ岳・成就じようじゆヶ岳・伊豆いず岳・大日だいにち岳・久須志くすし岳・白山はくさん岳などの高所がめぐり、それらを富士山八葉と称してきた。山体は標高二五〇〇メートル以上は同心円状の等高線を描くが、それ以下の山腹には大室おおむろ(上九一色村)宝永ほうえい(静岡県御殿場市)など多くの側火山が北北西から南南東方向に集中するため楕円形となっている。南面は静岡県に属し、北面は山梨県に所属する。「甲斐国志」によれば、江戸時代においては富士山の東側の境界は、八合目大行合おおいきあいより東へ大天井おおてんじよう小天井こてんじようを経て、天神てんじん峠を見下ろして籠坂かごさか峠へ下る線であり、西は薬師やくしヶ岳より無間谷むげんだに三ッ俣みつまた、それより長山の尾崎おさきに下り三ヶ水・狐ヶ水、裾野に至って裂石われいしまでが国境をなし、八合目より頂上までは両国の境はなかったとある。今日においてもなお静岡県小山おやま町と富士吉田市との境界は未確定である。今日の山梨県側の行政区域では、富士吉田市、南都留みなみつる山中湖やまなかこ村・河口湖かわぐちこ町・勝山かつやま村・足和田あしわだ村・鳴沢なるさわ村と西八代郡上九一色かみくいしき村の範囲に及ぶ。

「甲斐国志」編纂当時の登山道は、北に吉田よしだ(現富士吉田市)、東の須走すばしり(現静岡県小山町)、南口にあたる村山むらやま(現同県富士宮市)大宮おおみや(現同上)の各々からの四道であった。須走道は八合目で吉田道と一緒になるので、そこを大行合という。村山道も途中で大宮道と合流するので、頂上に至っては南北二道のみであった。それ以前の古い登山道には須山すやま(現同県裾野市)船津ふなつ(現河口湖町)があった。須山口は聖護院道興の紀行文「廻国雑記」文明一八年(一四八六)条に「すはま口」として記録されている古道であるが、宝永四年(一七〇七)の大噴火のために廃道となった。明治一六年(一八八三)に御殿場登山道が開設されるにあたり、この道は須山口三合目に結び付けられた。北面の山梨県側では、御師集落である河口かわぐち(現河口湖町)から船津を通過して山頂へ向かう登山道があったが、山崩れによってすでに近世期には廃絶していたという。また五合目小御こみ岳から屏風びようぶ岩を経て白山岳へ直登する「ケイアウ道」と称する道が存在した。そのほか北西麓の精進しようじ登山道(現上九一色村)に加え、足和田村大嵐おおあらしからの登拝路もあったという。吉田登山道六合目を起点として、中腹を一周する御中道おちゆうどうという巡拝路があった。もっぱら中道巡りに用いられたが、今日では大沢おおさわ付近が通行不能である。富士山は古くは富士の山、富士の御山とよばれた。麓の吉田では、富士山のことを「オヤマ」あるいは「オヤマサマ」と呼称してきた。とりわけ馬返うまがえしから上位の部分をいう。南口の村山でも生活のなかでは「ヤマ」と称してきた。

〔富士山の生成〕

富士山はその構造上から小御岳・古富士・新富士の三つの火山に分けて考えられる。北麓の富士吉田市付近から富士山を望むと、御中道と西側の稜線とが交差する付近に肩がはったように突出している部分が認められる。その付近はほかとは植生が異なり細かい谷が沢山入っている。ここは古い火山体の北斜面にあたり、その後の噴出物に覆われずに残った個所である。この山は富士山の土台となっている小御岳で、津屋弘逵氏によって小御岳火山と命名された。山頂(噴火口)は、富士山有料道路(富士スバルライン)の終点、新五合目の富士吉田市の小御岳こみたけ神社からいずみヶ滝の辺りにある。山の形成年代は七〇万年よりは新しい。富士山がいつ誕生したのかははっきりしていない。おおむね八万年前にはすでに火山礫を噴出していたようである。八万年前から氷河時代が終わる一万五千年前までの火山活動を古富士火山とよび、多量の溶岩や火山灰を噴出した。東麓から南関東一円に厚い堆積をみせる火山砂礫および火山灰とを放出して関東ローム層を形成し、山麓に古富士泥流とよぶ集塊質泥流を流出した。桂川・相模川に沿って流下したものは富士相模川泥流といい(富士相模川泥流と最終氷期)、露頭の観察によれば旧石器時代の一万五千年前頃に比定される細石器文化層より下位に認められる。この泥流は古富士の噴火によって氷河氷や雪が解けて発生した可能性が高く、当時の山頂は最終氷期の雪線高度より高く三五〇〇メートル程度には達していたとみられる。

新富士火山は、古富士火山とほぼ同じ位置に古い火山を被覆して成立するが、この火山の活動はそれまでの爆発的なものから迸出的な活動に変化し、火山灰の降下とともに山体や裾野の割れ目火口から粘り気の弱い溶岩を流出する活動が主体を占めている。溶岩は三期に区分されている。まずこの火山活動の最初には多量の玄武岩質溶岩を噴出した。これを旧期溶岩といい、北麓では梨ヶ原・猿橋・桂等々の溶岩が認められる。猿橋溶岩は縄文時代草創期前半に現大月市猿橋さるはしまで、桂溶岩は同草創期後半に現都留市十日市場とおかいちばまでそれぞれ流下している。その後しばらくは静穏期が続く。富士黒土層がゆっくりと堆積した時代であり、縄文時代早・前期にあたる。該期は富士山麓の遺跡数が飛躍的に増加する時期である。縄文時代中期に入って、新富士火山は激しい火山活動を再開する。この時期、赤色スコリアIあるいは赤色スコリアII(曾利期の火山灰)などの火山灰の降下と、溶岩の噴出(中期溶岩という)を繰返した。そのうちの船津溶岩は縄文時代前期諸磯期と中期勝坂期の遺物を伴出する船津浜ふなつはま遺跡(河口湖町)を覆って、河口湖の南岸を堰止めた。晩期には側火山大室山の噴火(大室スコリアの降下)があり、さらにその後もその他の側火山を噴出源とする新期溶岩や火山砂礫が互層をなして、山麓の火山扇状地が形づくられた。とくに北麓では溶岩の上にそれ以降の火山性降下物を堆積していない新期溶岩を「丸尾まるび」と称し、たか丸尾・ひのき丸尾・つち丸尾・雁の穴がんのあな丸尾・けん丸尾・青木あおきはら丸尾などの溶岩流が北面の裾野を覆っており、それらの火山活動が富士五湖形成の要因ともなっている。なお檜丸尾第二溶岩の直下からは、奈良時代の土師器小型長胴甕が単独で出土(富士吉田市堰林遺跡)し、剣丸尾溶岩下の西丸尾にしまるび遺跡(富士吉田市)では溶岩の石切作業に伴って平安期の土師器・須恵器・灰釉陶器類が検出されている。

〔文献に記された火山活動〕

奈良時代の末期から平安時代にかけては、富士火山帯の活動期であったらしい。富士山の火山活動は、史料に残されたものだけでも十数回の噴火が記録され、そのうち延暦一九年(八〇〇)・貞観六年(八六四)・宝永四年の活動を三大噴火とよぶ。「万葉集」巻三雑歌にはすでに「不尽山を詠ふ歌一首」に「燃ゆる火を 雪もち消ち」の山あるいは「日の本の 大和の国の 鎮とも 座す神かも 宝とも 生れる山かも」として歌われてあがめられてきた。六国史にみえる富士山噴火の初見は、「続日本紀」天応元年(七八一)七月六日条の富士山が灰を降らせ、木葉が彫萎(ちぢれる)した旨を駿河国が言上したものである。次いで延暦一九年三月一四日から四月一八日までの噴火が駿河国から報告され(「日本紀略」同年六月六日条)、同二一年一月にも噴火した(同書同年正月八日条)。同年の噴火では噴石が東海道の相模国足柄あしがら路をふさいだため、同路の代りに箱根はこね路が開かれている(同書同年五月一九日条)。富士山北東麓に流下する鷹丸尾はこのときの噴火による火山活動であるといい、現在の山中湖はこの溶岩流が桂川の上流部を堰止めて成立した湖であるとされ、山中湖村山中の同溶岩の下からその流出年代を解く鍵ともなる和鏡やガラス玉が出土(北畠遺跡)している。

古代の最も大規模な噴火は貞観六年のもので、精進登山道一合目付近の側火山長尾ながお(一四二四・一メートル、現鳴沢村)の噴火であったというから、北面甲斐国側の大噴火であった。同年五月二五日の駿河国からの報告では溶岩流が甲斐との国界に達したとしている(三代実録)。一方七月一七日の甲斐国からの報告では、溶岩流が本栖もとす〓の両湖を埋め魚鼈は皆死に、さらに人や家に甚大な被害を与えながら東の河口湖方面へ向かったという(同書)〓の海はこのとき溶岩で埋没し、残った部分が現在の西さい湖と精進湖となった。この大噴火は卜筮の結果、駿河浅間明神(現富士宮市)の神職の祭祀怠慢によるものとされ、同年八月五日駿河国と同様甲斐国司にも奉幣解謝が命じられた(同書)。この間八代郡擬大領伴直真貞に浅間明神が神がかりした。すなわち自分は甲斐国で斎祀されたいと思いいろいろ不吉な現象を起こしたが、いっこうに悟られないためこの大噴火を起こしたのであり、早く神社を定め、祝・禰宜を置き、自分を奉斎せよと託宣したという。これにより八代郡の「郡家以南」に浅間明神が祀られたが、異変はやまないため、甲斐国司からの申請により同七年一二月九日官社に列せられた(同書)。それから一一日遅れて同月二〇日山梨郡にも八代郡と同じように浅間明神が祀られた(同書)。このとき八代郡に建てられた神社は「三代実録」同年一二月九日条によれば「埋〓海千許町、仰而見之、正中最頂飾造社宮、垣有四隅、以丹青石立、其四面石高一丈八尺許、広三尺、厚一尺余、立石之門、相去一尺、中有一重高閣、以石〓営、彩色美麗」と記される。この社が現在のどの神社に当たるかは諸説があって一定していない。ただ現一宮町一の宮いちのみやに鎮座する浅間神社は、当時は明らかに山梨郡内であって当たらない。そのほか河口湖町河口に鎮座する浅間神社を当てる説、現市川大門いちかわだいもん高田の一宮浅間たかたのいちのみやあさま神社を当てる説などがある。八代郡に遅れて山梨郡に建てられた浅間神社が現一宮町の浅間神社である可能性が大きい。

承平七年(九三七)一一月には神火によって湖が埋まったと甲斐国が報告している(日本紀略)。甲斐国の言上であるので、おそらくこの火山活動も甲斐側のどこかの湖水を埋没させるような溶岩の流入が推定される。これ以外にも「本朝世紀」長保元年(九九九)三月七日条、「日本紀略」長元六年(一〇三三)二月一〇日条(噴火は前年一二月一六日)、「扶桑略記」永保三年(一〇八三)三月二八日条にも噴火があったことが記録されている。このように八世紀の終り頃から一一世紀にかけて、富士山は盛んに噴火活動を続けていた。この後、中世に入ってからも何度か噴煙をあげ、また「勝山記」永正八年(一五一一)の条にみられる「富士山カマ岩モユルナリ」と記されるなどの活動を断続的に繰返し、やがて宝永四年の大爆発につながっていくのである。

〔浅間大神から浅間大菩〓へ〕

富士山にかかわる神の古いものは、「常陸国風土記」の筑波つくば郡の条にみえる福慈神や、「万葉集」巻三の歌にみえる「不尽の高嶺」の不尽神などである。「常陸国風土記」には、新嘗の晩に富士山を訪ねた祖神尊に対し富士(福慈)の神が物忌中であることを理由に宿を断ったので、祖神の呪詛により富士山には常時雪があって人が登ることができなくなり、祖神尊の宿を断らなかった筑波山は大勢の人が登り集まる歌垣や飲食の場となったという話をのせている。「万葉集」には「なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は(中略)石花の海と 名づけてあるも その山の つつめる海そ(後略)」の歌があり、甲斐国と駿河国との中間にそびえる不尽の高嶺とその神不尽神、北麓の大湖である石花の海〓の海)が詠まれている。この時代にあっては富士山は白雪の絶えることのない崇高な山であり、その山神は福慈神・不尽神と称されていた。

平安時代になると、山神の名は浅間大神とか浅間明神という神名へ変化する。それまで比較的静穏であった富士山の火山活動が、奈良時代末期から始まり、平安時代に至ってますます激しさを増す。神名の変化は噴火や火山活動にかかわる神の意識化であったといえよう。浅間大神は「アサマノオオカミ」とよみ、「アサマ」とは長野県の浅間あさま山や伊勢の朝熊あさまヶ岳のように火山を意味する言葉であるという。火山活動に対応して、富士山の山神福慈神が、噴火鳴動し荒ぶる岳神として浅間大神・浅間明神へと変化していったものと考えられる。「延喜式」神名帳には駿河国富士郡にあげられる三座の一つが「浅間アサマノ神社名神大」、甲斐国八代郡にも同様に「浅間アサマノ神社名神大」と記され、富士山を挟んで南北に名神大社が祭祀され、その地位は確立する。富士山の噴火を鎮め祀ることが中央の政府にとってもきわめて重要であったことがわかる。浅間神社は通常山岳信仰にみられるように、標高の高い山中に祀られた山宮と、集落の発達した所に鎮座する里宮とが対をなして祀られている。現富士宮市の富士山本宮浅間ふじさんほんぐうせんげん神社は同市山宮やまみやに鎮座する山宮浅間神社とかつては一体であった。山梨県下の浅間神社も、一宮町の浅間神社や河口湖町の浅間神社では山宮御幸や山宮祭などの祭祀を伝えている。山宮は本来そこに立って神体である富士山の鎮火を祈る場所であった。里宮は湧水池や湖沼の周辺に鎮座する。これは噴火を水の威力で鎮める五行相剋の思想などに基づくものであるといい、そのためのちに水得の神、勧農の神としての信仰を獲得していくことになる。

鎌倉時代になると、「吾妻鏡」には富士浅間宮(承久元年三月二六日条)という呼称とともに富士大菩薩(治承四年八月一八日条)、浅間大菩薩(建仁三年六月四日条)という呼称が現れる。このような菩薩号の出現に続いて、南北朝期の「詞林采葉抄」、室町期の「覧富士記」には富士権現という呼称も現れてくる。これらの菩薩や権現の呼称が盛んに使用されるようになったことは、旧来の浅間神社の信仰が仏教と習合していった事実を示している。「吾妻鏡」に呼称がみえるから、平安時代末から鎌倉時代初期の段階で、習合が行われたのであろう。

〔北面の修験拠点としての御室〕

「梁塵秘抄」巻二霊験所歌には「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか。土佐の室生門、讃岐の志度の道場とこそ聞け」の歌があり、霊験著しい寺社、修験の道場の一として、伊豆山いずさん権現(現静岡県熱海市)とともに富士山があげられている。平安末期には浅間神の信仰に修験道が習合して、富士山が霊験所の一として広く知られていたことを示す。富士修験の信仰拠点は南口の駿河の村山であるが、北面の二合目、御室浅間おむろせんげん神社が鎮座する御室の地も山内の信仰拠点として整備されたようである。文治五年(一一八九)七月二八日日本武尊像が造られ、この地に納められた。背面の刻銘(甲斐国志)には「奉造立勧進走湯山住金剛仏子覚実覚台坊二十度仏子興福寺運珍円浄作」とある。高さ三尺二寸五分、髪は左に垂れて左腋に入り、右手は欠損していて、容貌は不動尊に似ていた。建久三年(一一九二)四月九日には女体合掌の神像が造られ、その背面刻銘(同書)には「奉造立勧進走湯山住金剛仏子覚実覚台坊廿五度仏師興福寺住定海宝月坊作」とある。両像ともに現在所在不明。銘文の真贋を見極めるのは難しいが、両像の勧進者覚実坊・覚台坊は伊豆山(走湯山)に住する人物で、伊豆山権現と富士の修験との交流が示されている。御室には近世初期頃までに現御室浅間神社の西側に役行者を祀る役行者堂が建てられていた(「勝山記」天文二四年条)。「甲斐国志」にも、二合目の役行者堂は右左口うばぐち(現中道町)円楽えんらく寺の兼帯する堂で、同寺はもと山伏の住山だったので像をこの地に祀ったのだろうとしている。円楽寺は近世を通じて富士修験者の拠点としての地位を保った。現在本堂の左脇に祀られている役行者自刻と伝える役行者および前鬼・後鬼像、伝役行者老母像は、昭和三六年(一九六一)の大風で倒壊した役行者堂に安置されていたものである。役行者像の胎内には延慶二年(一三〇九)五月修理の墨書銘があり、一二世紀末から一三世紀初頭の特色を示すという。円楽寺は平安時代後期頃にはすでに富士修験の拠点として栄え、二合目御室の役行者堂は同寺の富士山における信仰施設であった。御室に富士山中最古の社として浅間神社が鎮座するのは、修験道と結合して成立した垂迹の神である浅間大菩薩を祀る場として整備されたからにほかならない。

〔山内の奉納物〕

北口の古道「ケイアウ道」より出土の鰐口には長久二年(一〇四一)の刻銘があったという(甲斐国志)。富士山内出土の金石資料としてはこれが早い時期のものである。鎌倉時代初頭、前述のように文治五年と建久三年の背銘を有する神像が御室に奉納された。山頂の三島ヶ岳の麓から「承久」の墨書を有する経筒(現東京国立博物館蔵)が発見されている。この経筒は富士上人の埋納と結び付けて論じられるが、同上人による埋納は久安五年である(本朝世紀)。乾元二年(一三〇三)には山頂初穂打場の地蔵菩薩が造られた。この地蔵像は初穂打場にあった左近小屋に祀られていたもので、背面に「富士禅定 乾元弐年癸卯七月日 大施主益頭庄沙弥光実、同比丘尼」の銘がある。南北朝期のものとしては、須走口六合目で発見された至徳元年(一三八四)の懸仏があり、「相州糟矢庄大竹郷 富士浅間大菩薩 至徳元年甲子六月十九日 願主来賢」の銘がある。

室町時代になっても山内への神仏などの奉納は継続し、吉田登山道二合目定善じようぜん院の薬師如来像の台座には永享一二年(一四四〇)六月一二日の銘があった。定善院は吉田西念さいねん(現富士吉田市)の塔頭である。文明一四年六月には山頂八体(八葉)の仏をそれぞれ鋳出した八枚の懸仏が鋳造・奉納された。ただし現存するものは薬師(三島ヶ岳出土)と不動(吉田口七合五勺出土)の二点のみである。いずれも同一人「総州菅生庄木佐良津郷 大工和泉守光吉」によって製作され、本願源春により奉納された。そのほか山頂への奉納物は斎の河原に鉄造十一面観音像(明応二年五月一六日)・大日如来像(大永八年五月一三日)おもて大日堂の鉄造大日如来像(明応四年五月二六日)釈迦しやかヶ岳付近岩窟中の大日如来懸仏(文亀三年八月吉日)、剣ヶ峰の鉄造大日如来像(延徳二年五月一二日)・大日如来像(天文一二年五月一六日)、薬師ヶ岳の懸仏(天文一二年六月吉日)などがある。吉田口登山道の途中のものとして、五合目(中宮か)の懸仏(永禄三年四月一二日)、五合五勺砂篩すなふるい小屋の懸仏(天文四年六月一日)、六合目あな小屋の鉄首銅身の地蔵像(天文二年)・地蔵菩薩像(天文二二年五月吉日)が知られる(以上「甲斐国志」など)

〔文学に現れた富士山〕

富士山は詩歌・物語・紀行文などの文学にしばしば登場する。古くは一般に「駿河なる富士」と認識されており、駿河側から記したものがほとんどである。奈良時代には前述のように福慈岳、不尽の高嶺などと記された。平安時代初期には都良香の富士山記(本朝文粋)が生れた。同書は都にあって記され、都人の富士山の認識を示すものであるが、実際に見分した者に取材して記されたようで、頂上の噴火口の記述などは具体性をもつ。この頃には聖徳太子や役行者が富士山へ登ったという伝説はよく知られていた。役行者の富士登山については「日本霊異記」以降諸書に記されるが、伝説の域を出ない。実際に登頂したことが確実なのはおそらく久安五年(一一四九)の富士上人末代が最初であろう(「本朝世紀」同年四月一六日条)。「竹取物語」は不死の薬を捨てた山として「その山をふじの山とは名づけゝる」という山名の語源を説き、「伊勢物語」第九段東下りでは五月末に雪を冠した富士山を見て「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらん」の歌が詠まれた。「更級日記」には寛仁四年(一〇二〇)上総国から帰京の途次駿河国を通過する場面に「富士の山はこの国也」として、「雪の消ゆる世もなく積りたれば、色濃き衣に、白きあこめ着たらむやうに見えて、山の頂の少し平ぎたるより煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立も見ゆ」と記している。その後も「海道記」や「東関紀行」などの作者が東海道を下る途中で富士山を見て歌を詠んだ。また時宗二世他阿真教も御坂みさか峠を越えて河口から富士山麓を通過した(一遍上人絵詞伝)。他阿は御坂峠付近の山路で「雲よりもたかく出たるふしのねの月にへたゝるかけやなからん」と詠んだ。これは甲斐側から富士を見た数少ない作品の一つである。なお「富士晴」は甲斐八景の一。

〔富士山禅定〕

富士山などの霊山に信仰登山することを禅定といい、それを中心的に行うのは修験者たちであった。また登拝の最終的な到達点である頂上のことを禅定と称する場合もある。室町時代には、先達に引率されて一般の人々も盛んに登山するようになる。そのような登山者を道者(導者)という。「勝山記」によれば明応九年(一五〇〇)六月には「富士へ道者参ル事無限」であったが、関東の戦乱のために本来北口へ到着するはずの道者がみな須走へ着いて、そこから登山したとある。なおこの年は庚申年で富士山の縁年にあたる。縁年は富士山の全容が出現したのが孝安天皇九二年の庚申の年だとする縁起に由来し、この明応九年が庚申登山の初見である。同書永正一五年条には六月一日の夏山開きの初日の出来事として、富士山禅定(頂上か)に大嵐が吹荒れて道者一三人がたちまちに死に、そのうちに内院(噴火口か)から大きな熊が出てきて道者を三人食殺したという記事がある。夏山期には吉田・川口(河口)の御師宿坊は富士禅定を遂げようとする道者で賑わった。川口御師の宿坊は道者坊ともよばれ、おもに西関東から中部高地に檀那所を所持した。吉田御師は古くは東関東をおもな檀那所としていた。御師は北口きたぐちの浅間明神(現富士吉田市)まで道者を案内し、そこからは強力がついて荷物を担ぎ道案内を行った。吉田御師の各宿坊に宿泊した道者は翌日に山頂を目指して登山した。近世初期頃の記録「印むすび」(筒屋文書)によれば登拝は以下のようになされた。道者は登山に先立って水垢離を取り、着衣する。浅間明神に向かい、仁王に参拝、大鳥居をくぐり、随神に詣でる。鰐口を鳴らし、狛犬を拝んで社の石段を登り、扉の鍵を開け、扉を開く。奉幣して神楽を執行する。道者は登山道に踏出し、御師は登山門で見送る。下向の手始めに鐘を撞き、社の扉を閉じて神霊にいとまごいをする。その後下向の道順に従って、随身・大鳥居・仁王門を拝して自坊に帰り着く。このようにして御師は道者を送り出した。祈祷の随所で印を結び、真言を唱えている。延宝八年(一六八〇)の八葉九尊図(正福寺蔵)に表現された浅間神社付近の施設に対応し、この時代までこのような形で登拝が行われた。

吉田宿の南限に諏訪の森すわのもりがあり、そこに浅間明神(現北口本宮冨士浅間神社)が祀られる。登山道はここを基点として富士山頂へ延びる。ここから〓りゆう馬場ばば・馬返までが草山くさやま三里と俗称され、そこから先は灌木帯になるが、森林限界にあたる天地界てんちのさかいまでの林の中の道を木山きやま三里という。天地界は別称をオハマ(御浜)ともいい、海岸の浜に見たてられている。その先の頂上までの樹木のない焼石の道を焼山やけやま三里という。草山と木山の境に鈴原すずはら大日が、近接する御室に御室浅間神社が祭祀される。木山と焼山の境界天地界に中宮ちゆうぐう社・中宮大日が祀られ、そこに浅間大菩薩とその本地仏の大日如来が奉納された。須走口と合する大行合はのちの八合目である。そこより上位は富士山本宮浅間神社(現富士宮市)の神域とされ、昔から信仰上の大きな境界とみなされていた。吉田口を中心としてみた富士山は、本地垂迹の山として、信仰上の各境界ごとに大日如来とその神変浅間大菩薩が祀られる空間を構成していた。道者の登山は御山を汚さないように垂直的に区切られた信仰空間を素早く登って禅定を遂げ、そのまま下山する形態をとっていた。近世になると、信仰を横に展開する富士行者の修験行(富士行)をとりこみながら、整えられていった。一ヵ所に滞留しながら修行を重ねたり、御中道巡りに象徴される荒山を踏む回峰行が行われるようになる。また登山の大衆化とともに、登拝の目安とし旧来の信仰地を基礎として合目が設定されていく。

〔富士講の隆盛〕

戦国時代末期に現れた長谷川角行は修験系行者の一人で、この世と人間の生みの親はもとのちち・はは、すなわち富士山が根本神であるとし、江戸とその周辺の庶民の現世利益的な要求にこたえて近世富士講の基礎をつくった。正保三年(一六四六)に一〇六歳で人穴ひとあな(現富士宮市)で死んだというが、その信仰は弟子の日旺・旺心・月旺へと伝えられ、月心とその子村上光清(天和二年―宝暦九年)の光清派と、月行から食行身禄(寛文一一年―享保一八年)へと受継がれる身禄派の二派に分れた。光清は北口の富士浅間明神の修理をしたことにも示されるように、その財力によって身禄派を凌駕しており、吉田では「乞食身禄に大名光清」といったという。身禄は世直しの理想のため、享保一八年(一七三三)に富士山七合五勺の烏帽子えぼし岩で入定し、それに従ったのが田辺十郎右衛門である。身禄は入定にあたって信徒の登山本道を北口と定め、吉田の御師宿坊を山もとの拠点とした。これからのち身禄派が優勢となり、その教えは江戸時代後期にかけてしだいに呪術性を脱却して、筋道のたてられた教義をもとに独自な実践道徳をもつものとして発展していくこととなる。

さらにその信仰は身禄の三女花、参行、不二道を興した小谷三志などへと継承された。そのため幕府の弾圧の対象ともなった。一八世紀も半ばになると江戸市中にあっては禁制が出されるまでに組織化され、広がりをみせていた。寛保二年(一七四二)の御水の禁止に続いて、寛政七年(一七九五)には「富士講と号」して奉納物を建立し、行衣や数珠を用い、祭文を唱え、あるいは護符を出したりすることを禁止する触書が出されており(御触書天保集成)、その頃までに富士講が組織的に確立されたことがうかがわれる。「江戸は広くて八百八町、八百八町に八百八講」といわれるほどに数多くの講の分立をみた。これらの富士講道者の登拝口としての吉田とその御師宿坊の繁栄に対し、それとは一線を画して旧来の信仰を持伝えた川口御師坊は、中期以降しだいに衰微していくことになる。大衆化された道者が、信仰の拠点でまた地理的にも条件のよい吉田口へ直接向かうことになったためである。富士山縁年の庚申年には大祭が執行されて、いっそうの賑いを呈した。女人の登山は通常の年は二合目改所までに定められ、女人禅定場から山頂を拝するのみであったが、縁年には四合五勺の御座石ございし浅間社までの登山が許され、その場で遥拝した。

〔神仏分離と富士山〕

明治初年の神仏分離により山内の仏像・仏具は下山させられた。北口の浅間神社でも鐘楼・鐘・仁王門・護摩堂などが「混淆に付取除」かれた(「届書」小佐野倍彦家文書)。一合目鈴原大日堂は鈴原神社に再編され、二合目役行者堂は廃された。明治七年には富士山中の仏教的な地名の改称がなされ、山頂八葉などでは文珠ヶ岳が三島ヶ岳、釈迦ノ割石が割石、薬師ヶ岳が久須志岳、釈迦ヶ岳が志良山しらやま(白山岳)、阿弥陀ヶ久保が片瀬戸かたせと、観音ヶ岳が伊豆岳、勢至ヶ久保が荒巻あらまき、大日堂が浅間宮、東西(東斎)ノ河原が東安河原、西西(西斎)ノ河原が西安河原となった。九合目迎薬師むかえやくしは迎久須志、きようヶ岳は成就ヶ岳と変更された。近世的な富士講は富士山一山教会、富士北口教会などに再編され、そのなかから神道一三派に属する実行教・扶桑教・丸山教などの教派が出た。

〔富士山の自然〕

富士山の側面には八百八沢という語で表されるほど多数の谷があり、その代表的なものとして、西側の大沢と北東側の吉田大沢がある。とくに大沢は現在でも浸食が進む富士山内最大の谷で、山頂火口西縁のあり戸渡とわたりに始まり、西側面をほとんど真西に直線的に下り、標高七八〇メートルの大沢尻で、山麓に上井出かみいで扇状地を展開する。吉田大沢は山頂久須志岳の外側の断崖下に始まり、標高二四〇〇メートル地点の吉田登山道六合目を経て胎内たいない堀に連なる。北麓の山梨県側には山中・河口・西・精進・本栖の富士五湖があり、静岡県側の西麓には田貫たぬき(富士宮市)がある。富士五湖は富士山とその北側を囲繞する道志・御坂両山地との間の谷を富士山から噴出した溶岩が堰止めてできた堰止湖である。田貫湖も同様の沼沢地に堤防を築いて人造湖としたものである。富士山の山体に降った雨、または解けた雪は、富士山の地下水を涵養し、一部は湧泉となって地表に流出している。西麓の富士宮市北部の猪之頭いのがしら白糸しらいとの滝など、東麓では三島溶岩末端や柿田かきた川周辺の湧泉が知られる。北麓では泉瑞せんずい、富士吉田市月江げつこう寺の湧泉、忍野おしの村の忍野八海、都留市南部の湧水群がある。南麓においては富士宮市富士山本宮浅間神社の湧玉池をはじめとする豊富な湧水群が数多くあり、それらの水は上水・工業用水・農業用水・養鱒など多方面に利用されている。富士山は噴火のたびにおびただしい溶岩を流出したが、これらの溶岩流はその生成の過程で多数の溶岩洞穴と溶岩樹型とをつくり、そのおもなものは国の天然記念物に指定されている。山梨県側では一二件が指定を受け、とくに鳴沢なるさわ(鳴沢村)の溶岩樹型は国指定特別天然記念物となっている。雁の穴丸尾には雁ノ穴(富士吉田市)、剣丸尾には吉田胎内樹型(同上)、船津胎内樹型(河口湖町)が、青木ヶ原丸尾には前述の鳴沢溶岩樹型・鳴沢氷穴・神座じんざ風穴(付蒲鉾穴および眼鏡穴)・大室洞穴(以上鳴沢村)、西湖蝙蝠穴およびコウモリ・竜宮りゆうぐう洞穴(足和田村)、富士風穴・富岳ふがく風穴・本栖風穴(以上上九一色村)がある。なお富士山は昭和二七年国の特別名勝に指定され、山梨県側では富士吉田市・鳴沢村・河口湖町・山中湖村・忍野村にわたって、主として御中道以下五〇〇メートル線以上と各登山道とが対象となっている。なおそれ以前昭和一一年には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。

〔富士山の植物〕

富士山は独立の高山であるため、植物の垂直分布を知るには格好の場所である。吉田登山道に沿って植生区分をみると、浅間神社から馬返付近まで(標高約八五〇―一五〇〇メートル)が低山帯にあたり、ミズナラ、コナラ、ブナの卓越する地域である。馬返から木立にかかり、そこから五合目の森林限界まで(標高一五〇〇―二四〇〇メートル)が亜高山帯にあたり、おもにコメツガ、シラビソ、オオシラビソ、カラマツ、ダケカンバの林相となる。それより上位は林相を示していないが、岩場を中心にオオタデ、メイゲツソウ、フジアザミなどの草本植物の生育がみられる。年ごとに標高の高い方へそれらの植物の分布が遡上しており、その付近の土壌の安定化とともにミヤマヤナギなどの木本植物が進出してきている。富士山植物では青木ヶ原溶岩上の富士山原始林(鳴沢村・上九一色村)、鷹丸尾溶岩上の山中のハリモミ純林(山中湖村)、吉田登山道なかノ茶屋から大石おおいし茶屋にかけての躑躅つつじ原のレンゲツツジおよびフジザクラ群落(富士吉田市)が、それぞれ国の天然記念物の指定を受けて保護されている。

〔富士八湖〕

富士講道者の霊場で、富士八海ふじはつかいともいわれる(甲斐国志)。河口湖・山中湖、明見あすみ(現富士吉田市)、精進湖・本栖湖・西湖、志比礼しびれ(四尾連)(現市川大門町)須戸すど湖の八湖をいう。須戸湖は駿河国富士郡・駿東すんとう(現富士市・沼津市)浮島うきしま沼とする説が有力であるが、長峰ながみねの池(現上野原町)とする説もある(甲斐名勝志)。また初め浮島沼が入っていたが、同湖が涸れたために仙水せんずい(泉瑞)が代わって加わったともいう。富士登山は通常六―七月の二ヵ月の間百日の行を済ませた者が許された。行は開祖角行が行った水行にちなんで、幾つかの湖水が選ばれ、そこを訪ねて垢離を取ることが行われた。これを八海巡りとよび、富士八湖を巡る内八海と、琵琶びわ(現滋賀県)二見ふたみヶ浦(現三重県)あしノ湖(現神奈川県)・諏訪湖(現長野県)かすみヶ浦(現茨城県)中禅寺ちゆうぜんじ(現栃木県)榛名はるな(現群馬県)さくらヶ池(現静岡県)などを巡る外八海があった。

〔せの海〕

古代富士山北西麓にあった湖。「万葉集」巻三の「不尽山を詠ふ歌」に「石花の海と 名づけてあるも その山の つつめる海そ」と詠まれる。原表記は「石花海」。「石花」を「せい」とよむことは「伊呂波字類抄」などにみえる。また「三代実録」の貞観六年七月一七日条には富士山の大噴火により「埋八代郡本栖并〓両水海」とあり、この「〓」の「水海」が「せの海」のことと考えられる。この噴火のため「せの海」は西湖と精進湖に二分されたという。その後「せの海」に限らず富士五湖のいずれもが和歌に詠まれることはほとんどなかった。



日本歴史地名大系
富士山
ふじさん

静岡・山梨両県にまたがる本邦随一の高山。最高峰のけんヶ峰は標高三七七五・六メートル。美しい円錐火山の代表とされる。国指定特別名勝で、静岡県側の行政区域は小山おやま町・御殿場市・裾野市・富士市・富士宮市に及ぶ。

〔地形・地質〕

富士山の山容は完全無欠ではない。まず傾斜が頂上に行くほど急になる山腹(指数曲線に似る)、山麓に緩傾斜の裾野が展開すること。この裾野が古来、歴史の舞台となった。山腹は東側が西側より緩傾斜であること(空中噴出物が西風で運ばれ東側に落下する)。南東側からみた富士山は南西側からのそれよりとがってみえること(寄生火山が南東―北西の山腹に集中する)などがそれを示している。富士山の地質は単純ではない。いまの火山(新富士火山)の下に古い火山が二つも潜むことがわかっている。古い方が小御岳こみたけ火山、新しいほうが古富士こふじ火山とよばれる。小御岳火山はその頂上が山梨県側の富士スバルラインの終点の小御嶽こみたけ神社近く(標高二四〇〇メートル)に頭を出すが、本体はみることができない。七〇万年前より新しいことはわかっているが、正確な誕生期は不明。古富士火山は八万年から一万五千年前に活動し、多量の火山灰と泥流を噴出した。火山灰は東方に飛んで山麓の山肌を数十メートルの厚さで覆い、さらに遠く関東地方まで達し、関東ローム層の最上部を構成する。泥流は西麓の富士宮市内や東麓の小山町一帯にみられ、富士宮登山道二合目の市兵衛沢いちべえざわ(標高一三〇〇メートル)宝永ほうえい山第一火口壁(標高二七〇〇メートル)でも確認され、標高が少なくとも二七〇〇メートル、規模が新富士火山に匹敵する大火山だったと想定される。新富士火山はこれらの火山を覆い隠す。一万二千年前から始まった活動初期は流動性に富む玄武岩質溶岩が多量に流出し、三島市や富士市(火口から約三五キロ)にまで達した。八千年前から四千五〇〇年前の休止期を挟んで活動が再開し、多量の溶岩、火山砂礫を噴出して山頂を高めた。約二千年前以降は寄生火山からの溶岩・火山砂礫の噴出が主体となり、約一千年前まで続いた。以後は静穏期に入って、宝永四年(一七〇七)に宝永山を形成した爆裂が唯一、目立つだけである。

〔駿河なる富士〕

富士山は「万葉集」以来、一貫して「駿河なる富士」と認識されていた。同書巻三に収める高橋虫麻呂の「不尽山を詠ふ歌一首」は冒頭で「なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる」と双方の真中にそびえ立つとしながら、「駿河なる 不尽の高嶺は 見れと飽かぬかも」と結んでいる。一方、富士が三国にまたがるとの考えも根強く、一四世紀前半の「玉葉集」には「みくにをさかふふじのしば山」と詠む歌が収められている。五山僧の詩偈にも「山跨三州白雪堆」(攸叙承倫)・「根蟠伊駿相」(横川景三)などとあり、伊豆・駿河・相模の三国にあてることが多かった。「富士」の称について、都良香の「富士山記」(本朝文粋)は富士郡の郡名より起こるとする。これに対し、「竹取物語」は不死の薬を頂上で焼いたから、あるいはそのための勅使が士(つわもの)を数多く引連れて登ったがゆえに士に富む山で富士山とする両説をあげて物語を結んでいる。なお般若はんにや山や芙蓉ふよう峯など異名も数多く、辞書によっては数十種を載せるものさえ見受けられる。

火口は内院ないいんあるいは内陣ないじん御鉢おはちと称された。一方、その外周の高所は八葉の蓮華に見立てられ、八葉はちようあるいは八朶はちだ峯とよばれたが、各高所の称には定説がなく、一二の高所を数え上げる場合さえあったという(「修訂駿河国新風土記」など)。現在では最高地点の剣ヶ峰のほか、三島みしまヶ岳(神仏分離以前は文殊ヶ岳)成就じようじゆヶ岳(同経ヶ岳)・伊豆岳(同観音ヶ岳)大日だいにち岳・久須志くすし(同薬師ヶ岳)白山はくさん(同釈迦ヶ岳)の呼称が伝わっている。山体は標高二五〇〇メートル以上は同心円状の等高線を描くが、これ以下では北西から南東方向の山腹に長尾ながお(一四二四・一メートル、山梨県鳴沢村)大室おおむろ(同県上九一色村)、さらには宝永山など数多くの側火山をもつため、等高線は楕円形を呈する。「駿河志料」は江戸時代の駿河・甲斐両国の国境について、西側は根原ねばら(現富士宮市)と甲斐本栖もとす(現上九一色村)の境の「みけ水」から富士山頂を見通す筋の無間むげんヶ嶽、東側は籠坂かごさか峠往還から天神てんじん峠、さらには「天神々木」「檜枯木」を経て山頂を見通す筋と記している。これは寛文九年(一六六九)・元禄一五年(一七〇二)などに重ねられた公裁に基づくものという。富士・駿東すんとう両郡境は須山すやま(現裾野市)登山道の九合目付近に所在した「御馬乗石」「駒ヶ嶽」を見通す筋とされているが、八合目より上は大宮おおみや浅間(富士山本宮浅間大社)が管轄するため富士郡に属すと述べられている。「甲斐国志」も駿甲国境についてほぼ同様の筋を引くが、八合目から頂上にかけては境はないと記すのみで、認識の相違をみせている。なお今日でも小山町と山梨県富士吉田市、富士宮市と山梨県鳴沢なるさわ村の境界は未確定である。

〔登山道〕

「駿河志料」は「登山道路」として、南口は富士郡村山むらやま(現富士宮市)、東南口は駿東郡須山、東口は同郡須走すばしり(現小山町)、北口は甲斐国都留つる吉田よしだ(現山梨県富士吉田市)からの四道をあげている。このうち村山口は大宮おおみや(現富士宮市)から登山する場合に必ず通過すべき地点であることから、大宮口と称される。須山口は聖護院道興の「廻国雑記」文明一八年(一四八六)条が「すはま口」と記す古道だが、宝永四年の噴火に伴い廃道となっている。須走道は吉田道の八合目に合流するので(大行合)、最終的には南北両面からそれぞれ一筋となって頂上を目指していた。このほか甲斐国側には、河口湖畔の船津ふなつ(現山梨県河口湖町)から小御岳を経て吉田口に合流する道や、大嵐おおあらし(現同県足和田村)からの登山道があった(前掲新風土記)。明治一六年(一八八三)には御殿場からの登山道が、旧須山道の三合目に連結する形で新たに開設されている。山内の道として吉田口の六合目を起点に山腹を一周する御中道おちゆうどうがあり、この巡拝を中道廻りと称したが、大沢おおさわの崩壊(大沢崩れ)のため現在では通行が禁止されている。

〔文献にみる火山活動〕

富士山の噴火を伝える記録としては、「続日本紀」天応元年(七八一)七月六日条が最も古い。これによると駿河国は麓に降灰があり、降灰地点では木の葉に穴があき、萎れた旨が報告されている。しかし「万葉集」のなかには前述の巻三の「燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ」をはじめ、巻一一の「吾妹子に逢ふ縁を無み駿河なる不尽の高嶺の燃えつつかあらむ」など、富士の噴煙を詠む歌が散見され、奈良時代には活発に活動していたらしい。次いで延暦一九年(八〇〇)三月一四日から四月一八日にかけて続いた頂上からの噴火の模様が駿河国から報告されている(「日本紀略」同年六月六日条)。同二一年一月八日、駿河・相模両国からの噴火の報に接した朝廷は、卜筮に「干疫」と出るや、両国に対しこれを鎮めるために読経を行うよう命じている(同書)。この噴火に伴う「焼砕石」が足柄あしがら路を塞いだため、「筥荷途」(箱根路)が開設された(同書同年五月一九日条)

古代で最も大規模な噴火とされているのが貞観六年(八六四)のものである。五月二五日に届いた駿河国からの報告によれば、最初の噴火から十余日を経過しながらなお活動は衰えず、溶岩流は「本栖水海」(現山梨県の本栖湖)を埋め、さらに駿河・甲斐の国境に迫ったという(三代実録)。七月一七日にもたらされた甲斐国からの報告によれば、溶岩流は本栖・〓の両湖を埋め、魚類を焼殺し、さらに人命・人家を害しながら、東方の「河口海」(現山梨県の河口湖)にまで達したという(同書)〓の海はこれにより埋没し、現山梨県の西さい湖・精進しようじ湖はその名残とされる。こうした被害の状況から、この噴火は北西麓の側火山長尾山の噴火と考えられている。この噴火は卜筮により浅間名神(富士山本宮浅間大社)の禰宜・祝らの祭祀怠慢によるものとされ、翌貞観七年一二月に甲斐国八代やつしろ郡にも浅間明神が祀られた(同書同六年八月五日条・同七年一二月九日条)。その後も承平七年(九三七)一一月・長保元年(九九九)三月・長元六年(一〇三三)二月(噴火は前年一二月)と、噴火の報が都に届けられたが、後二者はともに駿河国からの言上である(日本紀略・本朝世紀)。一一世紀の前半に菅原孝標女が残した「山の頂のすこし平ぎたるより、煙は立ちのぼる、夕暮れは火の燃え立も見ゆ」の一文は、まさに彼女の目に映じた富士の姿であった(更級日記)

「扶桑略記」永保三年(一〇八三)三月二八日条の記事をもって、富士山の噴火に言及する記録は中断する。しかし中世に富士山が完全に活動を休止したわけではないことは、東海道を往来した多くの人々が綴った詩文の数々が教えてくれる。一二世紀の半ば、東国へ下った西行は「けぶり立つ富士におもひの争ひてよだけき恋をするが辺ぞ行く」と詠んでいる(山家集)。富士から立上る噴煙を詠込んだ歌は、以後も「海道記」や「東関紀行」などに散見される。弘安二年(一二七九)に鎌倉へ向かった阿仏尼は「十六夜日記」のなかで、「富士の山を見れは、煙もたゝす」と述べるとともに、暦仁年間(一二三八―三九)に父平度繁とともに遠州へ旅した頃には噴煙を上げていたと回想している。一三世紀の後半には活動を休止したらしい。以後は噴煙を上げたり休んだりといった状態を三度ほど繰返し、宝永四年の大噴火に至る。

宝永四年一一月二三日、東南山腹の標高二六〇〇メートル付近から突如噴煙が上がった。貞観の噴火のように溶岩を噴出すことはなかったが、一二月八日(一説には九日)に終息するまで、麓の人々を恐怖させたばかりでなく、噴出した焼砂は須走村をはじめ、駿東郡の村々を埋尽した。西風に乗って運ばれた火山灰の被害は、相模国から遠くは武蔵国にも及んでいる(以上「小山町史」など)。これ以後は目立った活動は知られていない。なお延暦一九年・貞観六年・宝永四年の三度の活動を三大噴火とよんでいる。

〔文学・絵画に残された富士山〕

富士山を描く文学作品が多岐にわたることは、これまでにあげた諸事例が示している。富士山の煙が「燃える」「消える」「絶える」といった表現は、恋愛感情の比喩として用いられ、前述の「吾妹子」の歌などすでに「万葉集」にも認められる。これは「古今集」に至って定型化され、多くの歌に詠込まれることとなった。「五代集歌枕」や「八雲御抄」などは「富士の山」「ふじのたかね」を駿河の歌枕としている。平安時代、観念化した和歌に対し、物語や紀行文が描く富士山は実にリアルである。残雪を「鹿の子まだら」と描写し、山容を「塩尻のやう」と表現する「伊勢物語」は、実景に基づく記述であろう。鎌倉時代にはこうした傾向はますます顕著となり、「東関紀行」は田子たごの浦から見上げた富士を「青して天によれるすかた、絵の山よりもこよなうミゆ」と表現する。絵のなかの富士が実景と大きく隔たるとの指摘は、絵画批評としても興味深い。和歌にも変化が訪れ、「万葉集」以来の叙景歌が復活すると、富士山は名所として一般化する。室町時代には、将軍や公家・連歌師が相次いで下向し、多くの和歌・連歌が詠まれた(「富士御覧日記」「覧富士記」「正広日記」など)。なお一六世紀前半までには成立していたと考えられている御伽草子に「富士の人穴」がある。建仁三年(一二〇三)六月三日、将軍源頼家の命で人穴(現富士宮市)を探検した仁田四郎忠常が、一日一夜を経て郎従四人を失い帰還したと伝える「吾妻鏡」の記事と同源の説話に題材を採ったものと考えられている。忠常が死を決して出発したとの記述や、穴中で遭遇した種々の奇跡の記事からは、人穴が草子成立時に畏怖の対象となっていたことがうかがえる。寛永四年(一六二七)に初めて版行され、以後も「富士の人穴草子」「富士人穴物語」などの名により版を重ねたが、これは「浅間大菩薩御在所」(「吾妻鏡」建仁三年六月四日条)とされ、藤原角行が修行の場に選んだ人穴が、富士信仰の広まりのなかで一つの信仰拠点としての地位を獲得していった過程をも示している。

絵画では「聖徳太子伝暦」推古六年九月条が伝える太子が甲斐の黒駒に乗って富士山上を飛翔したとのくだりを絵画化した延久元年(一〇六九)の秦致貞の聖徳太子絵伝障子絵(東京国立博物館蔵)が古いが、切立った山容は実景にはそぐわない。頂上は不規則な峰に分れている。こうした特徴は後代の「太子絵伝」に引継がれていくが、鎌倉期から室町期にかけて頂上を四峰あるいは三峰に、山容を左右対称にややなだらかに表現する図様が現れる(「一遍上人絵伝」「一遍上人絵詞伝」「山王霊験記」など)。やがて一五世紀の中頃に雪舟により富士美保清見寺図(永青文庫蔵)が描かれると、探幽をはじめとする狩野派の画家たちに継承され、山頂を三峰に描く定型が広く流布した。定型から脱した個性的な表現は、池大雅や与謝蕪村に代表される南画や葛飾北斎・歌川広重の風景版画が登場する近世後半を待たねばならない。

〔富士に対する信仰〕

富士を霊山と崇めたのは原始にさかのぼる。現富士宮市上条かみじよう千居せんご遺跡からは縄文中期の遥拝祭祀の遺構が見つかっている。「万葉集」巻三に収める山部赤人の歌は、富士山に対する古代人の畏敬の気持ちを表したものとしてつとに知られている。赤人は「天地の 分れし時ゆ 神さひて 高く貴き」とその神神しさを讃えたが、前述の高橋虫麻呂も同様の思いを「言ひもえす 名つけも知らす くすしくも」と詠じている。二人は「白雲も い行きははかり」「不尽の嶺を高みかしこみ天雲もい行きははかりたなひくものを」とそれぞれ詠んだが、これらは「常陸国風土記」筑波つくば郡の条で「福慈の岳は、常に雪ふりて登臨のぼることを得ず」と表現した近づきがたい富士山のイメージと重なり合う。

前述の都良香は「富士山記」で延暦二一年三月の噴火を取上げ、東麓に生じた小山について「神の造れるならむ」(原漢文)と述べたが、この山の神を浅間大神(アサマノオオカミとよむ)としている。浅間神の称が起こるのは、どうやらこの頃らしい。「アサマ」とは長野県の浅間あさま山に象徴されるように、火山を意味する言葉という。平安時代前半は噴火活動が最も活発な時期で、これを鎮め祀ることは朝廷にとって大きな課題となり、神階の授与や奉幣が繰返された。仁寿三年(八五三)七月五日に駿河国浅間神(富士山本宮浅間大社)は「名神」の一つとされたが、同月一三日にはとくに従三位を与えられた(文徳実録)。浅間神は貞観元年一月二七日には正三位に昇叙され、同六年の大噴火に立ち至ったが、駿河国からは「富士郡正三位の浅間大神の大山く」(原漢文)と報じられている(「三代実録」同年五月二五日条)。「延喜式」神名帳には富士山の南北、すなわち駿河国富士郡と甲斐国八代郡にそれぞれ「浅間神社名神大」の名がみえ、富士山の活動を鎮め祀る体制はここに整った。浅間神社は標高の高い山中の山宮と生活域の里宮とが対をなして祀られることが多い。現富士宮市の富士山本宮浅間大社は同市山宮やまみやに鎮座する山宮浅間神社とかつては一体であった。現山梨県一宮いちのみや町の浅間神社や同県河口湖かわぐちこ町の浅間神社では山宮御幸や山宮祭などの祭祀を今に伝えている。山宮とは本来その地に立って富士山を遥拝したり、あるいは鎮火を祈る場であった。一方、湧水や湖沼の近傍に鎮座する里宮は、水の力をもって噴火を鎮める五行相克の考えに基づくものといい、のちには水得の神、勧農の神として広い信仰を獲得していった。中世を迎えると仏教との習合が進んだ。「吾妻鏡」には「富士浅間宮」の称(承久元年三月二六日条)のほかに、「富士大菩薩」「浅間大菩薩」の呼称が現れる(治承四年八月一八日条・建仁三年六月四日条)。なお浅間大神の本地仏については、大日如来とするものが多い。さらに降ると「富士権現」の呼称も出現した(「詞林采葉抄」「覧富士記」など)

富士山への登拝が始まったのはいつのことだろうか。「聖徳太子伝暦」や「日本霊異記」の記す聖徳太子や役行者の伝承はともかく、前述した「富士山記」には頂上の実景が描込まれているから、平安前期にはすでに登山が行われていたと考えられる。北口の古道「ケイアウ道」から出土した鰐口には長久二年(一〇四一)の刻銘があったというから(甲斐国志)、一一世紀の半ばには山内に信仰施設が設けられていたとみられる。実際の登頂例としては、「本朝世紀」久安五年(一一四九)四月一六日条などが伝える末代(富士上人)の例が古い。同書によれば、末代は富士へ登山すること数百度に及び、山頂に仏閣を構え(大日寺)、鳥羽法皇以下衆庶の結縁による経典の書写と埋納を企画したという。昭和五年(一九三〇)頂上奥宮の参籠所建設に伴って三島ヶ岳の麓を削ったところ、木槨・経巻軸・銅器・土器などとともに経筒三点と多数の経巻および土器などが発見され、ここが経塚(三島ヶ岳経塚)であったことが確認された。経筒はとくに外筒に入れられているわけではなく、三個発見されたが、二個は銅片のみで、経筒の形状を知ることができるのは一点のみであった。それは直径二八・五センチほどであったが、高さを想定できるほどの破片などはみられなかった。中の経巻の幅がおよそ二五センチであったことから、それよりやや大きめのものであったろうと想像される。経筒の一点の底部には「承久」と墨書されたものがあり、これによれば鎌倉時代前半のものということになる。

北口二合目の御室おむろ浅間神社(現山梨県勝山村)には、それぞれ文治五年(一一八九)・建久三年(一一九二)の造立銘をもつ日本武尊像と女体合掌の神像がかつて伝わっていた(甲斐国志)。いずれも走湯山(伊豆山神社)に住した覚実坊・覚台坊の勧進による造立で、走湯山と富士山の修験の交流をうかがわせるものとして興味深い。後述するように乾元二年(一三〇三)七月には、かつて山頂初穂打場はつほうちばの小屋に祀られていた地蔵菩薩立像が益頭ましず(現藤枝市)の沙弥光実と比丘尼を大施主に鋳造されている。こうした奉納物は南北朝・室町と時代を経るにしたがって増える傾向にあり、その背景には登拝者の増加をうかがわせる。なお文明一四年六月には、上総菅生すごう木佐良津きさらづ(現千葉県木更津市)の大工和泉守光吉により製作された八枚の懸仏が、本願源春により山頂へ奉納された。このうち薬師と不動を刻む二面が、三島ヶ岳と吉田口七合五勺で出土。頂上を八枚の蓮弁に見立てる思想に通じる遺品である。なお薬師面は富士山本宮浅間大社、不動面は富士吉田市歴史民俗博物館が所蔵。

〔富士山禅定〕

富士山のような霊山に登拝することを禅定といい、それを中心的に行うのは修験者たちであった。また信仰登山の最終的な到達点である頂上のことを禅定と称する場合もある。頂上初穂打場の左近さこん小屋の本尊であった地蔵菩薩立像の背銘には「富士禅定 乾元弐年癸卯七月日 大施主益頭庄沙弥光実、同比丘尼」と鋳出される。室町時代には先達に引率されて一般の人々も盛んに登山するようになる。そのような登山者を道者(導者)という。「妙法寺記」によれば、明応九年(一五〇〇)六月には「富士へ道者参ル事無限」であったが、関東の戦乱のために吉田へ到着するはずの道者がみな須走へ着いて、そこから登山したという。なおこの年は庚申年で富士山の縁年にあたり、これが縁年登山の初見である。夏山期には大宮・村山・須山・須走などの宿坊は富士禅定を遂げようとする道者で賑わった。大宮の宿坊は道者坊とよばれ、富士浅間社(富士山本宮浅間大社)の社人がその住宅を宿坊として開放したものである。享禄―天文(一五二八―五五)頃には三〇余坊が存立したが、近世初期には六坊に統合され、最終的には五坊となった(「大宮道者坊記聞」案主富士氏文書)。道者坊は国・郡ごとに分れた道者場(檀那場)を所持し、御炊坊は駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・美濃・信濃に及ぶ道者をもっていた(「永正九年之古帳写」公文富士氏文書)。村山の宿坊は修験系の坊であり、大鏡だいきよう坊・池西いけにし坊・辻之つじの坊を村山三坊と称した。大宮と村山は近接することから道者の宿泊をめぐってたびたび係争を繰返した。

大宮・村山からの登拝の情景は富士参詣曼荼羅に詳細に描かれる。富士山本宮浅間大社は二本の曼荼羅図を所持し、それぞれ国と静岡県の文化財に指定されるが、県指定の図のほうがより古相とされる。県指定文化財の富士浅間曼荼羅図は画面上部に富士山、右に箱根三山を描く。富士川辺に本宮を配し、涌玉わくたま池が画面中央に大きく描写され、池で水垢離をとる人々の姿を描いている。社殿は単層で、随身門が池と社殿の間に描かれる。国指定重要文化財の絹本著色富士曼荼羅図は、右下隅に狩野元信の壺形朱印を捺す。同様に大宮・村山口の景観で、田子の浦から山頂までを描き、下段は田子の浦・美保みほの松原・清見きよみ関・東海道、中段には浅間社頭から山内にかかる山路、上段に秀麗な御山の姿とそこへの登拝を描いている。単層の社殿は慶長九年(一六〇四)以前の浅間本宮の状況を示し、村山浅間社・室堂・冠木門・行者堂・御室大日堂がほぼ直線状に描かれる。道者は涌玉池で水垢離をとり、着衣して山内へ向かう。金剛杖を手にし、中宮を過ぎると、男が松明を手渡している。それらを記録類によって補完すると、大宮に宿泊した登拝者はまず村山に行き、そこから村山口を登山することになる。村山浅間神社の脇から茅野に入る。この間は芝山と称される部分で、発心門・札打場がある。芝山を過ぎて木立に入るところが中宮ちゆうぐう八幡堂で、傍らに金剛杖を売る小屋がある。ここが馬返うまがえしで、女人の結界地ともなっていた。木立の中の山路をたどって岩屋不動・冠木門・役行者堂・御室大日がある。ここより上を毛無といい、樹木がない焦石の道である。一合・二合・三合・四合・五合の室に至る。五合の室は大室で、中道巡りの要所となっている。さらに六合・七合・八合に室がある。八合は胸突坂といい、道がとくに険しい。そこから上には休泊の施設はない。頂上には木造鳥居があり、大日堂が祀られる(以上、前掲新風土記)

須山口の須山御師は東海道筋や関西方面をおもな檀那場にしていた。御師は須山浅間神社まで道者を案内し、そこから強力がついて荷物を担いで道案内を行った。道者は浅間神社の横から出発して、十文字じゆうもんじの辻を経て木立に入る。六合目で御中道に結節し、山頂へと向かい、頂上・浅間嶽へ出る。この道は宝永噴火によって大きく荒廃した。須走も御師集落で、戦国期には武田氏から文書を発給されており、近世には一九坊とそれに関係する百姓がいた(小山町史)。須走御師は西相模や伊豆方面を檀那場としており、須走口は東口登山道とも称される。須走浅間神社を出発してしばらくは草山をたどる。りゆう馬場ばば・馬返から大日堂を経て五合目に向かう。六合目で御中道と結び付いて八合目大行合おおいきあいで吉田登山道と行きあう。そこから上は富士山本宮浅間大社の神域とされ、昔から信仰上の大きな境界とみなされていた。大宮・村山両口と須山口は、本地垂迹の山として信仰上の各境界に大日如来とその神変である浅間大菩薩を祀る空間を構成していた。道者の登山は、御山を汚さないように垂直的に区切られた信仰空間を素早く登って禅定を遂げ、そのまま下山する形態をとっていた。近世になると、富士行者の修験行(富士行)を取込みながら整えられていった。灌木帯の木山きやまを回峰し、御中道巡りに象徴される荒山を踏む回峰行を盛んに行った。また登山の大衆化とともに、登拝の目安として旧来の信仰地を基礎として合目が設定されていく。

〔富士浅間講と富士峯修行〕

旧来の富士禅定は、近世には富士浅間講(富士講)として継承された。登拝者は登山に先立って精進潔斎を行わなければならず、六〇日間の潔斎を必要とした(「富士浅間宮物忌令」大宮司富士氏文書)。旧暦五月二五日から河原に出て禊をするが、それを富士垢離・富士籠という。京都には富士垢離のための小屋・行屋が存在し(「富士山室小屋建立古帳面写」村山浅間神社文書)、年中行事として富士垢離が行われた。富士籠がすむと富士参詣・富士行に出かける。先達に引率されて東海道を下っていく。道者は六月上旬に集中し、七月の登拝は記されていない(「鈴木甚左衛門道者付帳」公文富士氏文書)。大宮・村山に宿泊し、賽河原さいのかわら御室おむろ大日―中宮―不浄ふじようガタケ(不浄ヶ嶽)―スナバライ(砂払い)から八葉(頂上)に至り、大日ノタケ(大日嶽)―ケンガミネ(剣ヶ峰)―池(このしろ池)無限むげんケタニ(無間ヶ谷)を踏み、再び同じ道を下山している(「寺辺明鏡録」富士の歴史)。そこではカヤ原四〇里・深山四〇里・ハゲ山四〇里、合計一二〇里とし、概念的な里程であるが、茅原・深山(木立)・ハゲ山は俗界・山内・御山という信仰区分に対応するもので、登拝者の垂直的な登山の様子を示している。江戸時代も後半になると、西国方面の道者が年を追って少なくなり、表口を登る人がまれになったようだが(前掲新風土記)、それでも万延元年(一八六〇)の庚申縁年には裏薬師で二万二千七〇〇人、村山で八千六〇〇人前後の登山者があった(「袖日記」九集)

村山は村山浅間社と別当寺興法こうほう寺を中心に富士修験道の本拠地として栄えた。ここでの修験行に富士峯修行がある(駿河志料)。これは村山傘下の修験による富士山内での回峰行で、富士郡・駿東郡に及ぶ広大な回峰ルートを山仕舞の七月二二日から二六日間をかけて山駆けし、富士山興法寺別当の大鏡坊・辻之坊・池西坊の三坊下の修験が年番で入峯した。この行は役行者伝来のものとされ、修験者の入峯中は道者の登山を禁じていた。ルートは村山―発心門(札打)―不動(勤行)―中宮八幡(札打)―御室(一一日間山籠勤行)滝本たきもと不動―普浄ふじようヶ嶽行者堂(追込作法等)―宝永山―須山口中宮浅間(札打)―御室丹生にゆう明神(札打)―須山―北畑きたばたけ朝日あさひ観音堂―愛鷹あしたかどう金沢かなざわ浅間社―きようしま(橋渡作法)千福せんぷく十二所権現―三島明神―大畑おおはた熊野権現―沼津日吉山王社―吉原よしわら(現富士市)杉田すぎた礼拝石(現富士宮市)かみなりから再び村山に至る道筋で、おおむね標高二〇〇〇メートル以下の木立(樹林帯)の中を回っている。なお須山口頂上が内院の村山拝所になっていた。村山行者の夏峯修行は、昭和一五年(一九四〇)頃まで行われていた。

戦国末期に現れた長谷川角行は修験系行者の一人で、この世と人間の生みの親はもとのちち・はは、すなわち富士山が根本神であるとし、江戸とその周辺の庶民の現世利益的な要求にこたえて富士浅間信仰のなかから近世富士講の基礎をつくった。正保三年(一六四六)に一〇六歳で人穴ひとあな(現富士宮市)で没したというが、その信仰は弟子の日旺・旺心・月旺へと伝えられ、それに続く月心とその子村上光清の光清派と、月行〓〓から食行身禄へと受継がれる身禄派の二派に分れた。光清はその財力によって身禄派をはるかに凌駕していた。身禄は世直しの理想のため、享保一八年(一七三三)に北口七合五勺の烏帽子えぼし岩で入定。入定にあたって身禄は信徒の登山本道を北口と定め、吉田の御師宿坊を山もとの拠点とした。これからのち身禄派が優勢となり、その教えは江戸後期にかけてしだいに呪術性を脱却して、筋道のたてられた教義をもとに独自な実践道徳をもつものとして発展していくことになる。この時代に大衆化された道者が、山もとの拠点でまた江戸からの便のよい北口や東口に向かうことになったのである。

富士山縁年の庚申年には大祭が執行され、いっそうの賑わいを呈した。多くの道者を誘引するため、江戸とその周辺、東海道の要衝などに立札が立てられた。女人の登山は通常の年は表口が女人堂まで、南口が御室明神まで、東口が三合目・四合目まで認められた(裾野市史)。なお女人登山の全面的な解禁は明治五年(一八七二)になってからである。万延元年の縁年には英国公使のオールコックが村山口から富士登山し、それを著書「大君の都」に記している。それによると、神奈川(現横浜市神奈川区)の領事館を出発し、吉原宿から村山大鏡坊に至り、そこから登頂している。その後、大宮・吉原・沼津・三島を経て熱海で一〇日余り過ごして江戸に帰った。

〔神仏分離と富士山〕

明治初年の神仏分離により山内の仏像・仏具は下山させられた。山頂の仏像の多くは大宮に下山している。各登山口の浅間神社でも鐘楼・鐘・仁王門・護摩堂などが取除かれ、村山では大日堂と村山三坊が廃された。明治七年には富士山中の仏教的な地名の改称がなされ、山頂八葉などでは文殊もんじゆヶ岳が三島ヶ岳、釈迦しやか割石わりいしが割石、薬師やくしヶ岳が久須志岳、釈迦ヶ岳が志良山しらやま(白山岳)阿弥陀あみだ久保くぼ片瀬戸かたせと、観音ヶ岳が伊豆岳、勢至せいし久保くぼ荒巻あらまき、大日堂が浅間宮、東西(東斎)ノ河原が東安河原ひがしやすのかわら、西西(西斎)ノ河原が西安河原となった。東口九合目の迎薬師むかえやくし迎久須志むかえくすしきようヶ岳は成就ヶ岳と変更された。なお現在の富士山は富士箱根伊豆国立公園に指定されている。しかし近年、富士山の崩落や自然破壊などが問題視されており、平成八年(一九九六)富士山ナショナルトラスト協議会を設立。同一〇年には静岡・山梨両県が富士山憲章を制定し、その保全に努めている。

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(1)大きな山。また、山の美称。*万葉集〔8C後〕一二・三一五三「み雪ふる越の大山(おほやま)行きすぎていづれの日にか我が里を見む〈作者未詳〉」
しら‐やま 【白山】(日本国語大辞典)
〔一〕石川・岐阜県境にある白山(はくさん)の古称。*古今和歌集〔905〜914〕羇旅・四一四「きえはつる時しなければこしぢなるしら山のなは雪にぞありける〈凡河内躬恒〉」
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ソメイヨシノ(日本大百科全書・日本国語大辞典)
バラ科(APG分類:バラ科)の落葉高木。オオシマザクラとエドヒガンの雑種で、明治初年に東京・染井(現在の豊島(としま)区巣鴨(すがも)付近)の植木屋から売り出されたサクラである。初めはヨシノザクラとよんでいたが、奈良県吉野山のヤマザクラと混同されやすいので
鹿島槍ヶ岳(日本歴史地名大系)
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五龍岳(日本歴史地名大系)
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天城山(日本歴史地名大系)
伊豆半島中央の東部を占める火山。万三郎(まんざぶろう)岳(一四〇五・六メートル)を主峰とする連山で、古くは狩野(かの)山と称したとされるが、天城山は狩野山を含む呼称で、狩野山は現天城湯(あまぎゆ)ヶ島(しま)町と中伊豆町の境の嵩田(たけだ)山(竹田山)付近
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