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インノケンティウス3世

ジャパンナレッジで閲覧できる『インノケンティウス3世』の世界人名大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

岩波 世界人名大辞典
インノケンティウス3世
Innocentius III
前名:Lotario de' Conti di Segni
1160~1216.7.16

ローマ教皇 [1198/1216].

グレゴリウス7世の教権統治思想を踏襲し,教皇庁の強化および教皇領の失地回復を図った.ドイツの帝位争いにおいては [1198-],オットー4世を助けて,ローマで戴冠させた [1209]が,同帝が約束に反してイタリア領を要求するとこれを破門した.またフランス王フィリップ2世の離婚問題に干渉し,さらにイングランド王ジョン(欠地王)を破門し,臣従を誓わせたのちようやくその罪を赦した.彼の首唱した第4回十字軍はビザンツ帝国を占領し [04],ラテン帝国を建設した.また第4ラテラノ公会議を開催し [15],ワルドー派およびアルビ派を排斥した.フランシスコ会およびドミニコ会創立を公認し,また旧修道会を改革した.

〖主著〗De contemptu mundi.



日本大百科全書(ニッポニカ)
インノケンティウス(3世)
いんのけんてぃうす
Innocentius Ⅲ 
[1160/1161―1216]

中世の代表的ローマ教皇(在位1198~1216)。本名ロタリオ・ディ・セニLotario di Segni。ボローニャ、パリ両大学で法学と神学を修め、37歳で教皇座に登位。カノニスト(教会法学者)としての素養と政治家としての現実的感覚を兼備した教皇として、多方面にわたる事績を残した。教皇権の基礎を固めるために中央イタリアのレクペラチオ(教皇領回復運動)を推進したが、これは、イタリア支配をうかがう神聖ローマ皇帝との対立に発展。教皇は、ハインリヒ6世急逝後の皇帝二重選挙(フィリップ対オットー)に乗じて優位にたった。イギリスのジョン欠地王とはカンタベリー大司教の任命問題をめぐって争い、イングランドにはインターディクト(聖務停止)を、王には破門を科した。王が自ら教皇の封臣たることを誓約するに至って赦免を与え、かつ、マグナ・カルタを無効と宣言した。王フィリップ2世(尊厳王(オーギュスト))の離婚問題のゆえにフランスに聖務停止を科したほか、シチリア、アラゴン、ポルトガル、ブルガリアなどにも勢力を振るった。
異端対策としては、取締り手段の法制化を図り、またアルビジョア十字軍をおこしたが、一方、可能な限り異端派の正統への復帰に努めた。フランシスコ会、ドミニコ会の両托鉢(たくはつ)修道会を認可したことは、内面からの異端問題解決の努力でもあった。1204年の第四次十字軍は教皇の意図に反する結果に終わったが、教皇主宰の第四ラテラン公会議(1215)は中世最大の公会議であった。翌1216年7月16日に没したが、公会議の会場となったラテランのサン・ジョバンニ教会に教皇の墓所が設けられている。
[梅津尚志]2017年11月17日



改訂新版 世界大百科事典
インノケンティウス[3世]
Innocentius Ⅲ
1160-1216

ローマ教皇。在位1198-1216年。ローマの貴族の出身。パリで神学,ボローニャで法学を学んだ後教皇庁に入り,1198年38歳の若さで教皇となる。フリードリヒ2世の後見人としてドイツ皇帝の選挙に干渉し,離婚問題でフランス王フィリップ2世を破門し,イギリス王ジョン(欠地王)には封臣の誓いをさせるなど,教皇中最大の権威を誇った。彼の招集した第四ラテラノ公会議(1215)は異端対策,教会刷新,十字軍の組織化に大きな役割を演じた。
[今野 國雄]

[索引語]
Innocentius Ⅲ 第四ラテラノ公会議
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1. インノケンティウス(3世)
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1160-1216 ローマ教皇。在位1198-1216年。ローマの貴族の出身。パリで神学,ボローニャで法学を学んだ後教皇庁に入り,1198年38歳の若さで教皇と ...
3. インノケンティウス3世(Innocentius III)
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7. アルビジョア十字軍
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8. 医学史
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それらはいずれも慈善施設であった。11世紀から13世紀にかけての十字軍と並行して、教皇インノケンティウス3世とその協力者ギイ・ド・モンペリエはヨーロッパ各地を勧 ...
9. イギリス史画像
日本大百科全書
失った。王はイングランドの内政に専念したが、かえって北部貴族らの反抗を招き、また教皇インノケンティウス3世の推すラングトンのカンタベリー大司教就任を阻止したため ...
10. オットー4世(Otto IV)
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11. カンタベリー(イギリス)
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13. 教皇画像
世界大百科事典
そのためローマ教皇とドイツ皇帝との対立が激化していった(叙任権闘争)。聖と俗との戦いから,インノケンティウス3世(1198-1216)による全西欧キリスト世界の ...
14. 教皇領国家
日本大百科全書
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15. キリスト教画像
日本大百科全書
その後ドイツとイタリアでは、教皇派と皇帝派の争いが続き、結局、教皇の権力は帝権を完全に抑え、教皇インノケンティウス3世(在位1198~1216)の代には、教皇は ...
16. キリスト教画像
世界大百科事典
その後教皇ウルバヌス2世のときに十字軍が発足し(1096),教皇権の絶頂期を迎える。インノケンティウス3世(在位1198-1216)はフランスとイギリスでも支配 ...
17. キリスト教文学
世界大百科事典
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18. ギラルドゥス(〔ラ〕Giraldus Cambrensis)
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19. グレゴリウス9世(Gregorius IX)
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di Segni〔1145~1241.8.22〕 ローマ教皇[1227/41].教皇インノケンティウス3世の甥.パリおよびボローニャに学び,教皇宮廷付司祭,つい ...
20. 検察
日本大百科全書
ッパにおいて、13、14世紀より16、17世紀にかけて糺問訴訟が行われた。ローマ教皇インノケンティウス3世は、1215年裁判官が訴えをまたず職権で秘密に犯罪を審 ...
21. 皇帝
日本大百科全書
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22. 古文書学
日本大百科全書
その左下に司祭、右下に助祭が証人として下署している。後者は、教皇の行政命令一般である。12世紀、インノケンティウス3世の黄金時代に教皇文書の書式も完成し、細部に ...
23. 裁判
日本大百科全書
ヨーロッパ大陸法の訴訟手続に大きな影響を与えた。佐藤篤士糾問訴訟から弾劾訴訟へ1215年にローマ教皇インノケンティウス3世は、裁判官が訴えを待たずに職権で秘密に ...
24. シチリア王国
日本大百科全書
その子フリードリヒ2世は、シチリア王国を教皇庁の封建臣下の位置にとどめておこうとする教皇インノケンティウス3世と争い、シチリア王国を足場に皇帝権の確立を企てた。 ...
25. シチリア王国
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26. 宗教会議
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27. 慈善事業
世界大百科事典
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28. 十字軍画像
日本大百科全書
別名「方向転換十字軍」とよばれる第4回十字軍(1202~04)は、教皇権の絶頂期を代表するインノケンティウス3世の提唱により、また西欧修道制の理念を標榜(ひょう ...
29. 十字軍史(年表)
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30. 十六世紀フランス文学 244ページ
文庫クセジュ
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31. ジョン(王)
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おい)を殺害してフィリップの怒りを買い、1204年大陸領の大部分を失った。さらに教皇インノケンティウス3世の推すスティーブン・ラングトンのカンタベリー大司教就任 ...
32. ジョン(欠地王)(John (Lackland))
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34. 選帝侯
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36. 破門
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37. バカリウス
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38. フィリップ(シュヴァーベンの)(Philipp von Schwaben)
世界人名大辞典
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39. フランシスコ会
世界大百科事典
るが,原文は散逸して伝わらない。10年,彼らの理想と誠実な説教活動を高く評価した教皇インノケンティウス3世により口頭の認可をうけて修道生活を開始したが,フランチ ...
40. フランチェスコ
日本大百科全書
奉仕と托鉢(たくはつ)の生活を始めた。この生き方に共鳴した若者が集まってくると、ローマに赴き、教皇インノケンティウス3世から修道会としての認可と説教の許可を受け ...
41. フランチェスコ(アッシジの)(Francesco d'Assisi)
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