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ジャパンナレッジで閲覧できる『赤神神社』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
赤神神社
あかがみじんじや

[現]男鹿市船川港本山門前 祓川

ほん山の南麓に位置し、南に日本海を望む。祭神は天津彦火甕甕杵尊・誉田別命など。旧村社。

古来本山赤神神社と称され、本山中腹の五社ごしや堂を本縁とする。開基年代は明らかではないが、当社に残る木造十一面観音菩薩立像などの推定年代から、信仰の上限は平安末期を下らないものと考えられる。別当を勤めた本山日積につしやく寺の本坊永禅ようぜん院は貞観二年(八六〇)円仁の開創とも伝え、明徳二年(一三九一)天台宗から真言宗に改宗したという。五社堂の中央堂には赤神を祭祀する。堂の内厨子は鎌倉期のものと推定され、国指定の重要文化財。

菅江真澄の「男鹿の島風」に収める赤神山大権現縁起には「山を名附て赤神山といふ。寺号は日積寺、本坊は永禅院坊といふなり」とあり、安倍貞任をはじめとし、貞任の子孫と称す安東一族が保護の手を伸べている。伝記(絹篩)によれば、藤原清衡・基衡・秀衡の寄進も受けており、建保(一二一三―一九)の頃には「華表之内謂御坂十里寺院四十八坊。其余堂社不勝計当山以此時為盛」と伝える。天正(一五七三―九二)の頃、安東氏と羽黒山衆徒との間の戦いに本山・しん山の衆徒が加わったという(奥羽永慶軍記)。天正一八年安東(秋田)実季は日積寺別院真遍しんぺん寺において護摩妙供祈願を行った(「不動明王護摩妙供奉修祈願文」秋田藩家蔵文書)。翌一九年の秋田実季分限帳に「本山前神山 日精寺」とあり、寺領七二二石三斗五升二合が記録される。文禄三年(一五九四)の秋田実季神田寄進状(秋田藩家蔵文書)には次のように記される。

神田之事    小鹿嶋之内
一 六石四斗壱升八合 本山
一 拾参石壱斗九升六合 祓川
一 六石七斗九升八合 小浜村
一 弐拾石八斗六升七合 四五六村
一 七拾七石四斗壱升六合 椿村
一 四拾六石壱斗四升四合 台嶋村
一 百卅五石壱斗 尾名河村
一 百卅三石弐斗六升七合 鱒川村
一 七石七斗八升四合 平沢村
一 弐百七拾五石四斗五升弐合 山田村
都合七百弐拾弐石参斗五升弐合
右領知 赤神権現奉寄進於後代不可有相違者也仍如件
 文禄三年菊月吉日      安倍実季(花押)
謹上 日積寺権大僧都法印円尭

佐竹氏入部後も神領を与えられ、寛永四年(一六二七)の窪田配分帳に「百石 本山ノ内 本山」とみえる。宝永元年(一七〇四)の「覚」に「男鹿

新山
本山
(中略)右拾弐社大破候に付、為建立之宝鏡院より御領内勧進之願被申立候」とあり、正徳四年(一七一四)頃整備されたとみられる藩内十二社の一に定められていた。

永禅院は毎年一月五日には城下の真言宗諸寺院とともに御目見をならわしとした(国典類抄)。文化七年(一八一〇)菅江真澄が訪れた時は「四十八箇坊」のうち「たゝおや寺は永禅院、小寺は長楽寺、吉祥院のみぞはつかに残れり」という。寺院が宿泊所となり、真山へのお山かけが行われていたとも伝える(南秋田郡史)。九月上旬永禅院では南磯みなみいそ村々の漁師を集め、鰰供養が行われ(絹篩)、末寺や社家は南磯の諸村をかすみとしていた。

正月三日に油餅祭が行われ「六郡祭事記」に、

この日一山の僧徒酉刻に柴燈堂に集りて勤行あり、院主導師後夜の行法終りて壇を下れは塔中の泉光院壇に上り油餅の加持す、この時乱声といふ事あり。油餅は糯米三升を丸餅とし、其上へ紙を敷油を入れて火を点大衆一同に勤行繞行して後、泉光院法衣の上へ襷をかけてこの餅を堂の窓を開きて外へ投出し、窓の戸を閉つ。窓の明たて尤速にする也。この間大鼓笛法螺なんと鳴らし立、参籠の大勢同音に声をあけ林木もふるふはかりなり、是を乱声と云。

とある。六月には五社祭が行われ、同書六月一六日条に「この日祭式十三日より十五日まて神楽あり、十五日の夜は巫女四人にて疫神まつり舞あり、これをオセウ遊ひと云。又剣舞も有。この日は神輿宮巡りの事あり」とみえる。

赤神神社には平安末期の木造十一面観音菩薩立像・木造観音立像、室町時代の石造狛犬一対が残り、いずれも県有形文化財。永禅院は明治に至り廃寺となり、絹本着色金剛胎蔵両界曼荼羅などが門前の長楽もんぜんのちようらく寺に引き継がれた。

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