[現]一の宮町宮地
信仰の内容は火山神と地域祖霊社の合体したものである。火山信仰の初見は、七世紀前期に唐の魏徴が編纂した「隋書」倭国伝に「有阿蘇山、其石無故火起接天、俗以為異、因行祷祭」とみえ、阿蘇山の噴火を異変として、山麓の住民が祭祀を行っていることを示し、遣隋使から伝聞したのであろう。次いで、「釈日本紀」引用の「筑紫風土記」は次のように述べる。
「日本書紀」の注釈書である「釈日本紀」は鎌倉末期の卜部兼方の著作だが、この記事は奈良時代の「風土記」によると判定されており、八世紀の阿蘇火山信仰の対象が明らかにされているとみてよい。すなわち阿蘇神宮とは、頂上の水をたたえた火口湖(霊沼)で、さらにはこの霊沼を有し、四郡にまたがり、群川の源を生んでいる中岳をさすというのである。したがって火口湖・火山を神とする日頃の信仰があり、噴火は神の意志が表される異常な事態として受けとめられていたということができよう。「日本書紀」景行天皇紀に、天皇が阿蘇に至り、広漠として人跡がないため、人はいるかといったところ、阿蘇都彦・阿蘇都媛の二神が顕現したという話があり、これは阿蘇の地名由来説話として重視されてきた。しかし二神が夫婦の形で現れていることは、生産・生育を象徴するもので、また「人なきか」という外部政治勢力の進出に対抗して、先住権・領有権を主張しているのであるから、この夫婦神は阿蘇の地の開発神・土地神として理解されるべきである。これら二神は土地とともに、そこに生活する人間集団を生んだ祖神であるという、地域共同社会の側の説話に結びつくといえよう。景行天皇の事績は四世紀前半とされ、神話・伝承のなかにあるが、「書紀」の成立は八世紀前半で、阿蘇都彦・阿蘇都媛の説話は八世紀以前に成立していたとみてよい。火山の祭祀と併存して、地域農耕社会の成長による、祖神・開発神への祭祀が存在し、さらに自然神(火山)と人格神(祖神)が合体した形で阿蘇社の神々が成立したと思われる。現在の地に社殿が建設され、山上火口を上宮、社殿を下宮とよぶようになった時期は、その完成された姿であるというべきであろう。阿蘇谷の開発は、東北部の一隅である
火山神の祭祀と祖霊神の祭祀が緊密に結びついた契機については、大和朝廷の氏姓制度の下でも従来の支配権を温存していた阿蘇国造家が、律令制度の地方行政組織のなかで、従来の小国家の王権の伝統を否定され、評督・郡司という末端の行政官人の地位に甘んじなければならなくなった状況に追込まれたゆえと考えられる。旧国造家郡司には伝統的な氏の祖神祭祀権が認められる場合が多かったが、阿蘇国造家がこれをてこに中央への発言力を得る方向を見いだそうとし、超地域的な火山神を祖神信仰と合体させたと考えられ、その時期は七世紀後半から、八世紀前半のことであろう。中世の阿蘇社神事のうち、一二月初卯の駒取祭は、火口の上宮より神霊を下宮に迎え取る神事で、神宮権官在庁らは鞍に幣帛をさした神馬を引いて上宮(火口)へ登山し、下宮に至れば百日精進の大宮司家の息女が神を迎えて奉仕し、これより新年に備えて下宮の神霊は充実される。後述のようにこの神事に在庁役人も参加していることは、地域の神から国家の神への地位を認めさせる神事でもあったことを示している。八世紀末から九世紀にかけて、律令中央政府の阿蘇社に対する施策がみられ、阿蘇社の宗教的権威を中央が受入れていく過程がわかる。延暦一三年(七九四)の
この神階上昇の根拠は神霊池の涸渇と祭神の性格にあった。火口に水をたたえる神霊池は、旱雨にも増減ないことが普通であったが、この涸渇・沸騰・溢水現象を異変に対する神の予告・警鐘と崇め、神階・奉幣・読経・封戸が捧げられるのであって、中世のように、噴火を異変の予告としていることとは少し相違している(これは火山活動の相違ともみられる)。またこの神霊池は祭神健磐龍命の名の起りである竜神の性格と結びつけて、旱天祈雨の霊験ある護国救民の神であるという説明がなされ、さらに水神として、遣唐使の航海安全祈願という国家事業への協力を宇佐・宗像両社とともに果すことが求められたと思われる。本来の健磐龍神とは、「三代実録」貞観六年一二月二六日条の阿蘇山嶺にある四丈ほどの三石神を表現する「タテイワタツ(竪岩立)」のタツの音を龍の字に当てて作り出された神名であろうが、阿蘇開拓神の阿蘇都彦・阿蘇都媛の夫婦神を火口神と合体させることにより、火口と一体であった石神を分離し、神威を強調しやすい神霊池を健磐龍神に、石神(山嶺)を第二神比神の夫婦神とする神格に作り変えたと考えられる。中世に至り、山嶺や石神が忘れられ、火口湖が三つに分れると、それぞれ中ノ御池を健磐龍神、北ノ御池を比神、
「阿蘇社神系図」は、阿蘇社内の社家としてかかわる大宮司家・権大宮司家・祝家の祖と結びつき、現世における社会的序列と相応している。すなわち、健磐龍神直系の子孫が大宮司家であり、比神の父である国龍神(吉見神)の子孫が権大宮司家、さらに国龍神の弟(または子)とされる新彦神系の子孫が祝家とされる。九世紀以来阿蘇社祭神として中央にも知られ、「延喜式」などの記録にも示されるのは健磐龍命と比神・国造神の三神で、これが根幹となったであろうが、完成した一二の祭神系図は一〇神まで奇数男神・偶数女神の夫婦神の形を基本に、一宮健磐龍神系・三宮国龍神系・七宮新彦神系・その他十二宮金凝神らの四グループに分類できる。また正平年間(一三四六―七〇)の神体寸法記録からみても、神格は数番の若いほうが上位にあると認められるが、神系図の尊卑順位と一致しない部分がみられ、これらの十二神は基本三神から幾度かの増補をもって完成したものと推測される。神系図に吸収された神々は、阿蘇郡の共同体の神でもあった。三宮国龍神は吉見神ともよばれる南郷谷の神であり、国造社はその祭神に雨宮・火(日)宮という阿蘇谷北外輪山麓の
阿蘇本社の本殿は、永享(一四二九―四一)頃作製されたとされるものを江戸時代に写した阿蘇社頭絵図写(阿蘇家文書)では、社殿は東面して中央南に一宮、北に二宮があり、一宮の南に奇数男神三―九宮四男神を祀る南四宮、二宮の北に偶数女神四―十宮を祀る北四宮があり、その両端に南面する十一宮と北面する十二宮が向かい合って鎮座する。十一宮国造神は健磐龍神の子で、大宮司家初祖とされる六宮の父にあたり、尊卑順位は高いのにかかわらず祭神順位が低く、その妃神は祭神順位に加わっていないこと、また十二宮金凝神(綏靖天皇)は、地域とも所縁のない中央の皇統第二代天皇である。これらからまず推測されることは、健磐龍神・比神を中心に形成されつつあった祭神構成に、十一宮・十二宮が追加されたものであるとみられる。また、東面する四つの本殿の構成からも、一宮・二宮本殿と北四宮・南四宮本殿の存在は祭神の成立の時間的前後を示している。また三宮―六宮は夫婦神としてととのっているが、祝家祖神の七―十宮各神の順位が他の夫婦神のようにととのわず、これら諸神の個性も乏しい。
阿蘇十二神の形は、健磐龍神と比神を核に、まず最初に比神の父国龍神夫婦神(三宮・四宮)と大宮司家始祖彦御子神夫婦神(五宮・六宮)を加えた神系図が作られ、次に祝家祖神ら(七―十宮)が形成され、さらに国造神・金凝神(十一宮・十二宮)が加わって十二神となったとみられる。この十二神は一年一二月と対応している故に、完成された数としてこれ以上の本祭神の増加がなく、ほかに政治配慮もからんで、十一宮・十二宮は夫婦神の組合せで祭神に納める形をとれずにまとめられたと考えられる。これら十二神の成立は一三世紀とする見方があるが、治承二年(一一七八)三月一三日の阿蘇社宮師僧長慶譲状案(阿蘇家文書)に「三御宮免 八段」「金凝宮御供田」とあり、さらに阿蘇社領の成立が一一世紀後半(承暦年間)であることよりみて、一〇世紀から一一世紀前半にかけて形成された可能性が大きい。一一世紀の阿蘇社に関する中央の史料は四件にとどまるが(百錬抄・後二条師通記・続左丞抄・中右記)、いずれも「阿蘇社御正躰」と、祭神を問題としていることは、きわめて象徴的であるといわねばならない。
弘仁一四年(八二三)健磐龍命に封戸「二千」戸が与えられている(「日本紀略」同年一〇月二二日条)。これは「二十」戸のあやまりとされるが、阿蘇社には律令政府によって二〇戸分の調庸のすべてと田租の半分が保証され、これにより日常の社殿の修理・造営や神用調度の補給の財源が増加したことを示す。もちろん本格的な造営や神宝造替は三三年に一度国の正税をもって行われた。これら神戸の口分田はやがて神用田として固定していったであろう。元亨元年(一三二一)三月三日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)のなかの肥後国初米進納所々注文によれば、社領外の肥後国内に初米進納地一七ヵ所・春冬神主祭進米五ヵ所・霜宮進米一ヵ所・御嶽進米二ヵ所があげられ、これらは律令行政下の国衙貢進祭料米田の伝統が中世まで存続したのであろう。建久六年(一一九五)二月日の肥後国司庁宣(阿蘇家文書)によれば、
元弘三年(一三三三)一一月四日、建武新政権は元弘の変における博多合戦参加、さらに
律令行政下の阿蘇郡は「和名抄」で
阿蘇大宮司家は平安末より南郷を本拠とし、未開の地に小村を開発して私領を増やし、在地領主としての側面をみせ、源平争乱にも加わっている。鎌倉幕府が成立し北条氏が阿蘇社領の預所職・地頭職の地位を得ると、私領安堵の下文を受け、あるいは地頭代・預所代としてその下風に立つことを余儀なくされた。阿蘇本社領をはじめ、健軍・甲佐・郡浦各社の地頭職を得たのは北条得宗家であったが、同家は元寇以降その地位を時定・随時・定宗ら近親に預けた。時定は阿蘇郡小国に
戦国末の島津氏の肥後国進出によって阿蘇氏の政治勢力は衰え、続く豊臣秀吉の九州出兵において旧来の地位はほとんど否定され、阿蘇社の祭祀も衰退した。加えて秀吉は梅北の乱後の処理のついでに、郡中不穏の責任を幼少の大宮司惟光の罪として自殺せしめ、阿蘇氏の政治勢力は消滅した。加藤清正は、慶長六年(一六〇一)惟光の弟惟善に三五八石余の知行を与えて阿蘇神社神主の地位を認めた(同年一〇月一四日「加藤清正所領充行目録」阿蘇家文書)。惟善は下宮の地宮地に移り、近世における阿蘇社の社家と祭祀が復活した。細川藩政も前代の方針を継承して阿蘇社の祭祀興行を保証し、神主三五八石・社家一六六石・衆徒一八九石・行者一六〇石・神領一〇〇石・その他を含め九八九石余の知行を与えた(寛永一〇年一月七日「細川忠利判物」同文書)。貞享四年(一六八七)さらに一〇〇石追加されたが(同年一二月二八日「細川綱利判物」同文書)、社殿は幕末の再建で面目を改めるまで仮殿にとどまった。明治四年(一八七一)国幣中社と定められたが、同一八年頃より官幣社昇格運動が起こり、同二三年官幣中社、さらに大正三年(一九一四)には官幣大社として由緒相応の社格を得、第二次世界大戦後の神道指令による国家神道の廃止、宗教法人化への変更まで保った。
建久七年(一一九六)六月一九日の阿蘇社領家下文(阿蘇神社文書)は、宇治惟次を大宮司に補任することを「三社中司氏人祝部供僧」に宛て、正治二年(一二〇〇)四月一五日の阿蘇社領家下文(阿蘇家文書)も「三社沙汰人祝供僧等」に宛てて、任満了により他人に補任するも、供僧・祝の訴えにより本職に還補するとしている。これはすでに平安時代に後世の神官・権官・供僧の存在が確認され、また律令制下の大宮司については六年の任期制が原則であったが、阿蘇社の場合もその痕跡が鎌倉初期にみられ、平安時代には一族のなかから選任されたことをさしているとみられる。阿蘇社年中神事次第写(阿蘇家文書)の「人料次第」と「御田殖神事」とされる部分の記載には、完成された中世阿蘇社家の構成が網羅されているとみてよい。これによれば、(一)大宮司(惣官)一人、(二)社家のうち(イ)神官(祝)一二人、(ロ)権官八人、(三)供僧、(イ)天上供僧六人、(ロ)その他九人、(四)御灯三人、(五)神人、(イ)本神人一〇人、(ロ)下神人七人、(六)御供添神人三人、(七)御供添御灯二人、(八)楽所、(イ)別当など一座四人、(ロ)その他楽人一二人、(九)田楽、(イ)別当一人、他楽人八人、(一〇)添祝、(イ)一宮・二宮・北宮添祝三人、(ロ)他一人となっている。このうち大宮司の下で社の祭祀・行政の中枢となっているのは、十二神の祝である神官と、権大宮司ら社の行政職員および摂社の祝よりなる権官八人、計二〇人の社家で、これに準ずるものとして、神宮寺供僧のなかから、天上供僧六人が本社の祭祀に参加する。
大宮司職は健磐龍命直系五宮の彦御子神(惟人命)の子孫とされる阿蘇氏が宇治氏を称し、その惣領家が中世以降世襲するようになったが、その初見は平安時代末と思われる大宮司宇治惟宣解(阿蘇家文書)である。神官は「経」や「宗」などをおもな通字とする山部氏に独占され、各宮と各祝家は固定されず、十二祝より一祝まで、順次昇任していくことを原則としていた。彼らは神系図の七宮(新彦命)・九宮(若彦命)の子経末を祖とするとされるが、「百錬抄」によれば、寛治元年(一〇八七)阿蘇社祝恒富が神体を負って逃脱するという事件があり、「恒」と「経」は同音であるところから、神官山部一族の存在は、一一世紀末をその初見とすると推定される。権官のうち、権大宮司は草部・下田氏を称し、三宮(国龍神)の直系であるとされ、権官の筆頭として社の行政実務の総責任者であった。権官にはほかに社の事務系統に属する修理職・擬大宮司・権擬大宮司と、十二神以外の神の祝である年禰祝・諸神祝・天宮祝・北宮祝が属していた。年禰社は神官山部氏一族の社であり、諸神社は日本名社二二社を祀り、天宮とは阿蘇山上の社をさし、重要神事には天宮祝は座の中央に着座するとされ、この祝は笠氏に世襲されていた。北宮社は本社に祀られた国造神の旧地手野の国造社をさしている。これらは本社十二神のうちには加えられなかったが、地域的・政治的配慮から、これらの祝は権官として本社の祭祀・行政に参加しているのである。また神仏習合により阿蘇社にも供僧があり、とくに殿上供僧は、社家とともに祭祀に参加することが認められる。いっぽう阿蘇山上には、天台系修験の衆徒・行者が住坊を営み、健磐龍命の本地を十一面観音とする信仰を形成していた。建久六年七月二八日の北条時政のものとみられる平某下文(阿蘇家文書)は阿蘇御峯住僧等に宛てて、天宮祝との争いを裁定している。彼ら
中世に最も整備された阿蘇社の組織は、戦国末期の阿蘇大宮司家の政治的衰退、秀吉の旧勢力否定の政策により壊滅し、加藤清正によって復活・再編成された。江戸時代に存続した組織は、大宮司の下に社家二一人、その下に神人一五人、その下に巫一八人、さらに俗人若干をもって構成された。大宮司は阿蘇氏、社家は宮川氏を称し、神人は社家の一族、巫は神人の一族の黒田氏や岩下氏が勤めたとされる。
阿蘇社と国造神社の年間神事は阿蘇の農耕祭事として国指定重要無形民俗文化財。古代における祭祀の実態は不明だが、その集大成は阿蘇社年中神事次第写(阿蘇家文書)にみられる。この史料は一月より一二月までの各神事につき、主担当者、祭祀内容と祭祀分担、神饌・下行物などについて述べているが、これらは古代以来の伝統をもつものに中世に発生したものを加えたもので、現在の神事は近世・近代におけるその取捨変容によるものと考えられる。年間神事を分類すると、月例の一日と卯の日の祭、宮廷儀礼、国衙の祈年祭、農耕神事、狩猟神事、火山神遷宮神事、仏教関係の祭、社家の祭、領主の祈願の祭などに分けられる。毎月初卯・中卯・乙卯と三回の卯の日の祭では、神楽が行われるが、なかには二月の初卯の春神主祭や下野狩、一二月の初卯の駒取祭と重なる場合もある。宮廷儀礼に由来するものに一月一三日の踏歌の節会があり、祭料は国衙より納められる。また二月の初卯春神主の祭も国衙より祭料が納められ、国の祭とも記されるが、国幣を受ける官社としての「延喜式」の「国司祭祈年神」にあたる。このような国衙の奉幣は踏歌祭・春神主祭のほかに一一月二〇日の新穀感謝の冬神主祭、一二月の駒取祭にみられる。
阿蘇社第一の大祭は田植の祭であるが、阿蘇信仰が、火口原開拓の祖霊神信仰を含み、その風土の農耕条件はきびしいこともあり、豊作の祈願は領主・領民の関心事であったといえる。二月亥日の田作祭・六月二六日の御田植祭・四月四日の風逐の祭・
二月の初卯に行われる下野狩は狩猟神事である。
火山神の遷宮由来神事ともいうべき一二月初卯の駒取祭は、国衙役人と社家一同が火口から神馬に主神健磐龍命を乗せ、下宮に迎えるもので、阿蘇下宮と火山神の関係を確認する意味をもつ。また二月初巳日より亥日まで続く歳神起しの神事は田作祭とも称し、年禰神が社家宅をまわって祀られ、大宮司や本社祭神の関与しないことに特色がある。社家宅に神輿を移す年禰祭では、四日目に近世「御前迎え」とよばれる妃神を迎えるため神木を求めに山へ出向く。最後の七日目には先述の稲作の模擬神事である田作りの神事が行われる。そのほか仏教系の神事に、桜会(三月)・蓮華会(七月)・放生会(八月)・菊会(九月)・紅葉会・薄紅会(一〇月)などがあり、供僧が関与する。また領主(大宮司)祈願として祭料を寄進されて執行していた臨時の祭(六月・一一月)があった。
しかし近世に至り、離散の社家を集め、中世の規模を縮小・変容せざるをえなかったとみられる。踏歌節会の歌には御田植神事の田植歌の一部が歌われるようになり、年禰神の歳神の祭の妃迎えの神事には、現在「火振りの神事」とよばれている内容が現れている。現在の阿蘇社の神事は、「阿蘇神社年中行事表」によれば、一月、歳旦祭・成人祭・踏歌節会、二月、月次祭・節分祭と星祭・紀元節祭、三月、月次祭・卯の祭・田作祭、四月、月次祭・天長節祭・風祭、五月、月次祭、六月、月次祭・雷除祭・大祓式、七月、月次祭・御用田祭神幸式(例祭・献幣式)・風祭、八月、月次祭・柄漏流、九月、月次祭(風除祭)・田実祭、一〇月、月次祭・茱萸祭、一一月、月次祭(山王・庚申祭)・紅葉会(紐解・髪置祭)・行幸記念祭・新穀感謝祭、一二月、月次祭・門守社祭・大祓・除夜祭となっているが、明らかに中世の名称を残すものは、踏歌節会・卯の祭・田作祭・風祭・田実祭・紅葉会であり、内容的に継承しているのは、毎月一日の祭が月次祭にあたり、冬神主の祭は新穀感謝祭にあたるであろう。内容が変化しているのが紅葉会で、実質は紐解・髪置きの祭となっている。いっぽう明治以降行われるようになったとみられるものに、成人祭・紀元節祭・天長節祭・行事記念祭(新穀感謝祭)があり、戦後の成人祭以外は、戦前官幣社として執行されるようになった神事といえよう。したがって中世・近代を除いたものが近世独自の神事とみてよいであろう。
神事祭料役として広く国内より徴収されたものに最花米がある。阿蘇社年中神事次第写(阿蘇家文書)に「肥後国一国平均棟別并初最花米定事、神農官権現之御計也、棟別者三十三箇年ニ一度、社頭之御宝ヲ可替料、最花米者為祭礼足、毎年ニ可取、郡郷村々之名寄注目
原則として阿蘇社領以外の肥後国諸郡・庄から収納されていることになる。このような祭料の国内収取の伝統は、律令制下の肥後国内の阿蘇社神田のうち、のちに社領化しなかった部分の権利が、国衙在庁や郡司の保障の下に阿蘇社に収納されてきた部分を示しているとみられ、元亨元年をさかのぼる鎌倉期初期の建久六年の御花米までつながる可能性は大きい。阿蘇社年中神事次第写断簡は「一、彼最花米ヲ取規式之事(中略)一段ニ一斗宛ヲ三升ハ免損田定七升宛」とあり、所定の郡・庄の先例にしたがって反別七升徴収されていた。ところが文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に示される最花米の収取対象は阿蘇本社領である阿蘇郡内にかぎり、しかも、諸郷村内の小村や屋敷を対象に、その地の生産性に応じ豆・苧・銭・米と種々あること、また十二宮や霜宮各宮分ごとに地域が定められていて、最花米徴収使が直接各所を逐一収取していて、前述の収取状況と異なっている。この阿蘇本社領内の最花米が文明一六年段階で徴収されていたことは明らかで、肥後国各所より収納する最花米の源流が鎌倉初期から存在したであろうことも推測されるが、南北朝内乱期を経た室町期において、肥後国内各地から上進されたことを証明する直接の史料は見いだせないことは注意すべきであり、阿蘇本社領内の最花米はその時点で新たに徴収対象として編成された社役負担であった可能性が大きい。
社伝によれば、下宮は孝霊天皇の勅を受けて創建したというが、古代の造営については明らかでない。ただ上宮の成立と阿蘇社祭神である十二神の形成は、社殿造営上でも密接な事項であろう。阿蘇社内の建物の初見は、建久九年(一一九八)九月二九日の阿蘇社領家下文(阿蘇家文書)に「宝殿顛倒」の語がみられる。永享(一四二九―四一)頃作製されたとされるものを江戸時代に写した阿蘇社頭絵図写(同文書)によれば、東面して中央南に一宮、北に二宮の本殿、一宮南に三―九宮の四男神の南四宮本殿、二宮北に四―十宮の四女神の北四宮本殿が少し後方に並ぶ。これと直角に向い合って、北四宮本殿脇に南面して十一宮、南四宮本殿脇に北面して十二宮の本殿が配置され、正面の回廊に続く。回廊は二階建ての楼門を中心に、その北に神幸門、南に還御門の脇門が並び、神輿はこの両脇門より神幸・還御する。現在の神殿・三門は江戸時代末造営のもので回廊の構成は三門と変わらないが、明治四一年の官幣中社阿蘇神社境内之図(阿蘇神社蔵)によると、一宮をはじめ奇数六神を祀る神殿と、二宮をはじめ偶数六神を祀る神殿が並び、その中間に後退して全国名社諸神を祀る神殿が配置される省略された形である。このような社殿が造営されたことは、元徳四年(一三三二)六月八日の阿蘇社檜皮惣指日記(阿蘇家文書)で明らかである。阿蘇十二神は夫婦神の場合が多いが、これらは男女一対の形でなく、男神と女神はそれぞれ別に祀られていることに特色がある。
これら神殿を中心に、その他祭祀や社の行政に必要な建物が、周辺に位置していたことが想像される。阿蘇家文書からそれらを拾い上げると、(一)神事祭祀に関与する建物、(二)神仏習合と関係する仏教系の建物、(三)社務行政に関係する建物に大別できよう。(一)に属するものには拝殿・権殿・御供屋・籠屋・舞殿・宝殿・楽所・馬屋があり、(二)に属するものは経坊本堂・食堂・鐘楼であり、(三)に属するものは庁屋(荘屋)・宮倉・対面所であろう。このうち、経坊本堂・食堂・鐘楼・庁屋は前掲阿蘇社頭絵図写にみられる。本堂は回り縁・瓦葺で、これと並ぶ食堂は回り縁・檜皮葺とみられる。鐘楼は二階・板葺の建物であろう。また庁屋は荘屋とよばれるものと同一で、社の祭政経理実務処理の役所であろう。図は建武二年(一三三五)風なくして屋根が倒壊したさまを描いたとされるが、この建物の柱間を一間とすれば四間と八間で回り縁を有する板葺の建物であったとみられる。
元徳二年から建武元年にかけて、一宮・二宮・南四宮・北四宮・金凝宮・国造宮の計六本殿が造営されている(「阿蘇社造営文書写并記録」阿蘇家文書)。また正平一五年(一三六〇)国造社を火元とする火災で焼失し、同一九年造営が始まり、日田・高良・住吉の宮大工が各本殿の棟梁となっている。また元徳の造営では、神官と供僧が郡内郷村について、料木催促責任者の役目を分担しているが、正平の造営では一般郷村が単独で責任者となる場合、二ヵ郷以上の寄合で納入される場合がある一方、大宮司御料所や有力領主・特定個人による責任納入の場合、寺社や公文などの責任納入に属するものなど、社領内の支配関係の変化に応じた収取が行われている。さらに応永九年(一四〇二)・正長二年(一四二九)にも造営料木注文がみられるが、これは前代のように全社殿の改築ではなかった可能性も強い(応永九年四月日「阿蘇社造営料木郷村支配注文案」・正長二年八月二一日「阿蘇社八社并国造金凝社造営料木注文」同文書)。文安五年(一四四八)の阿蘇社の造営では、木屋で料木の製材を行う人夫を阿蘇谷の郷村より徴発している。この作業は各郷村を知行する給人を納入責任者として、四〇人の給人を二三番に編成して割当て、造営が終了するまでこの順番で何度も繰返されるものであった。全体の作業は作事奉行の管轄になり、人夫は斧を持参し、一日交替で早旦より夕べに至るまでの労働で、しかもこれを果せない場合は、給人自身の地位を罷免されることを覚悟せよという定めであった(同年八月一八日「阿蘇社造営木屋勤仕人数番定」同文書)。
文明四年(一四七二)阿蘇社十二宮と阿蘇山上本堂造営のため、肥後国一国平均の棟別銭が賦課されている。律令制下では官社の社殿造営や神宝造替は一国の負担として国衙の責任において果されていた。また鎌倉時代には一国平均役として「阿蘇社上分稲」があり、地頭・御家人の対捍が大宮司によって訴えられているが、この上分稲は神宝造替料の伝統を引いている可能性がある。しかし一五世紀後半に至った肥後国では、阿蘇社造営に一国平均の賦課の伝統は継承されておらず、菊池氏内部では古い者たちは先例を知らないと反対したと、守護大名菊池重朝は述べている。しかし、阿蘇家内部の対立を解消し、惟武系の大宮司惟歳の養父としての隠然たる実力を保っていた阿蘇惟忠は、先代の菊池持朝以来の親密な関係をも利用し、「神之御為、守護・当家之為肝要」なことであると、重朝を説得したとみられる。重朝は文明四年一〇月壁書を作り、家屋一棟につき三文の棟別銭の徴収を定め、その案文を送ったことを一〇月二三日の阿蘇惟忠宛菊池重朝書状(阿蘇家文書)に述べるとともに、国内各地のおもな国人たちに、棟別銭徴収奔走を指示した。このことは守護家にとっても従来独立割拠していた各地の国人を、神への勤役の名で一国平均役の馳走を強いた実績を作るという政治効果を含むものであったといえようし、惟忠も隠居ながら社領内への権威の向上をねらったものであった。
守護の催促に応じ、名和顕忠・隈部忠直・城為冬・宇土為光・高瀬泰朝・肥前徳鶴丸・詫磨重房・相良為続がそれぞれ棟別銭進納に奔走している書状を発しているが、徴収実態は不明である。ただし阿蘇氏支配下にある阿蘇・益城両郡を中心とする阿蘇本社領・甲佐社領・健軍社領・郡浦社領より棟別銭が徴収されている様子が、阿蘇谷の場合三〇貫二五〇文と示され、郷内の屋敷ごとの棟数の確認が行われている
「阿蘇家伝」によれば、天文年間に社殿災滅し、以後仮殿を続け、現存の正殿の復旧は弘化三年(一八四六)大宮司惟治の時であるとされている。天文年間の焼失については当時の記録を欠くが、年月日未詳の阿蘇社家中上代居屋敷注文(同文書)によれば、中世末・近世初頭頃の社家離散の様子が推定される。慶長四年(一五九九)一一月二九日の加藤清正判物(西巌殿寺文書)は「先年太閤御所御下向之砌、郡中之者共邪心を相構儀、神主一人之科ニ究、御成敗候、其付而当社も被破滅候、彼邪心之者御成敗之上者、阿蘇大明神破滅不仕様ニ被仰付哉と達上聞、当社造宮并坊中をも取立、社領等可申付と雖念願候」と、神主成敗後神社が破滅したので、改めて造宮の意志を述べたものである。この太閤下向を天正一五年(一五八七)の秀吉九州出兵とみるか、梅北の乱の阿蘇惟光成敗をさすかは不明だが、この段階で一度阿蘇社が衰微し、社家離散とともに社殿も失われていたことが推測され、江戸時代に阿蘇惟善の神主復帰・宮地居住・社家再編成が行われたものの社殿は旧観を復するに至らず、仮殿のまま江戸時代の大半を経過したといえよう。
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熊本県阿蘇市の旧一の宮町に鎮座。健磐竜(たけいわたつ)命を主神とする十二神をまつる。式内社,肥後国の一宮,旧官幣大社。《隋書》倭国伝には,阿蘇山噴火と禱祭の記事があり,《日本後紀》は噴火と神霊池の奇瑞の異変をもって,託宣神としての霊威を朝廷が重視していることを示している。この火口神健磐竜命が阿蘇地域の農業共同体の祖神と合体して,阿蘇火口原の開拓神としての性格を兼ね,現一の宮の地に社地が設定されて,十二神の神系とその祭祀が整えられていったとみられる。この社殿を下宮と称し,《延喜式》の肥後国式内社の4座のうち,大神1座,小神2座までが阿蘇社の祭神で占められている。従来の火口は上宮とされて,後には天台系の最栄読師(とくし)にはじまる僧侶たちの寺坊が発生し(古坊中(ふるぼうちゆう)),祈禱・練行が行われるようになった。社殿は宮地四面8丁四方の神域の中に,1335年(建武2)の絵図では,左の健磐竜命の一宮と,右の阿蘇比咩(あそひめ)神の二宮の両本殿を中心に,三・五・九神合祀の社殿が一宮の左方に,四・六・八・十神合祀の社殿が二宮の右方に並び,十一神と十二神はその両端にカギ形に向き合って正面楼門に続く回廊とつながっている。後代には日本有名22社をまつる諸神社殿もこれに加えられている。中世の祠官は,大宮司の下に社家21人,神人(じにん)15人をはじめ巫,伶人などがおり,社家は﨟次(ろうじ)制の十二宮の祝(はふり)の山部氏12人と,権大宮司以下の世襲各氏の権官9人より成る。神宮寺は青竜寺で,社殿奉仕の供僧は,一和尚以下6人の殿上供僧と,同丸以下9人の九坊に分かれ,彼らは阿蘇山上宮(古坊中)の衆徒(しゆと),行者らの僧徒集団とは別のものであった。
奈良・平安時代には,律令国家による封戸と神田によって,阿蘇社の祭祀・造営はまかなわれていたが,平安中期より律令制が衰退すると,阿蘇郡の神田・封戸の荘園化,大宮司の荘官化によって本社の維持がはかられ,また,国内の有力社である益城郡の甲佐社,託麻郡の健軍社,宇土郡の郡浦社を末社として勢力の拡大をはかった。中世には大宮司は武士化し,南北朝期以来,神領の聖俗を支配する封建領主化して祭祀の実務から遠ざかった。近世に至り,阿蘇氏は再び神主として阿蘇社の地に移り,火口より麓の黒川に移った坊中の諸坊と併せて,1000石前後の知行を加藤・細川の両大名から与えられて存続した。
おもな神事は,室町期の《阿蘇社年中神事次第写》によれば,踏歌節会(とうかのせちえ)(1月,以下旧暦),下野(しもの)の狩り,田作りの祭(2月),風逐(かぜおい)の祭(4月),御田植(おんだうえ)の祭(6月),駒取の祭(12月)など,農耕神事,官社としての神事,狩猟神事,火山神・牧場神の神事など多彩であるが,第一の大祭は御田植の祭(7月28日)で,現在,県重要無形文化財に指定されている。そのほか,本社社家内部の年禰(としね)の神の祭や末社霜宮の火焚(ひたき)の神事なども有名である。また《阿蘇文書》は中世史料として著名である。
→阿蘇氏 →阿蘇山[信仰]
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