阿仁金・銀・銅山の総称。北流する阿仁川上流の両岸、標高五六二メートルの
阿仁川左岸の
板木沢銀山は慶長―元和(一五九六―一六二四)の頃、湯口内より産銀が多かったといわれ、「秋田風土記」にも「木立沢山 イタ木沢と云。此山金銀銅鉱共に出つ。真木山の内なり」とある。慶長一九年から七十枚・
慶長一九年七月、
慶長一九年から幕府運上が始まり、元和二年(一六一六)六七枚、同三年三〇枚、同四年二八枚を計上する(梅津政景日記)。しかし寛永二年、前山が金五枚の運上山となっただけで衰退を始め、寛永中期頃から銀山と代わった。
銅山は小沢山の開発に始まり、宝永五年(一七〇八)の小沢銅山古来言伝之事録(東京大学図書館蔵)に、
とみえる。享保一〇年(一七二五)の秋田郡阿仁銀山之次第開書(秋田金山旧記)には、
とあり、小沢銅山は寛文一〇年頃から北国屋の手代八右衛門の経営になった。金掘大工・掘子は紀州熊野銅山から移住して吹立てを開始し、藩は運上銀取立てにより収益をはかった。運上高は「秋田金山旧記」では「銅百貫目ニ付、運上銀六拾目、炭竈一筒ニ付、役銀拾匁」「炭竈役銀者、上銀百目ニ付弐匁弐分相加ひ」となっている。
その後の諸山の開発は、同書に「奥州津軽之者、二階屋弥惣右衛門と申者、板木沢銅山見立、摂州大坂町人、大坂屋久左衛門手代、三枚見立申候、其以後、和泉屋長四郎、同茂兵衛、同勘右衛門抔与申者、山見立、北国屋を始、都而拾壱ケ山之山師拾壱人有之候」とある。小沢は寛永一四年、真木沢は宝永三年、三枚は寛文七年、一ノ又は宝永七年、萱草は寛文一二年の開発とされる(阿仁発達史)。
元禄九年(一六九六)藩は小沢山を直山としたが、翌一〇年経営技術の不足から請山にもどし、態勢立直しのあと同一五年から直山制をとるとともに、統制の職務編成を完成、従来銅山が属していた惣山奉行を廃して木山方と金山方に分け、惣山方を表方奉行の配下とする(秋田県史)。金山方は支配人(銅山手代頭)・手代(主役)・銀銭請払役・本番役・方役・床屋役・炭木役・木方役・売場役・小回役・御廻銅役・外回役で構成。藩営初期の銅生産高は、正徳六年(一七一六)の記録に「元禄一五年より御直山ニ被遊、初年壱万四千箇程出申候。三ケ年目より段々御山直り、弐万六拾箇程出来高ニ御座候。其節抱人数弐千五百人程有之。床屋拾壱軒ニて吹申候。辰年より段々致出不足ニて、去年壱万七千箇之内出来仕申候」とある(「正徳六申年御本方吟味役阿可惣助銅山一体之儀尋ニ付、安藤幸左衛門菅原新兵衛答之条々」銅山木山方旧記)。元禄一六年の産銅額一五〇万―一六〇万斤(銅山の歴史)。
正徳頃から衰退を始め、同六年の前記「安藤幸左衛門菅原新兵衛答之条々」に「三四年以前迄、金掘多人数居候由、然者稼之者、諸方より寄人も無之、人数減候様ニ相見江候。隣国山直り、それ江引ケ候哉、且又御当山諸色高直御給下直等之訳ニて、金掘居不申候哉」とみえる。
売先は享保(一七一六―三六)以前の場合、大坂の一七軒の吹屋および大津の銅宿などで、買入値は吹屋仲間の入札と銅商人の入札による(「御廻銅高調」秋田大学蔵)。享保元年には長崎廻銅定額が一七〇万斤に確定、御廻銅高之事(御廻銅高調)に「享保元申年より元文辰年迄、弐拾壱ケ年之間、弐百万斤より以下百弐拾六万斤迄、不同有之(中略)元文二巳年より延享元子年迄八ケ年百弐拾三万斤、翌丑年より百弐拾五万斤被差廻候」とある。一八世紀を通じ幕府御用銅総額の三八パーセント前後を占め、とくに寛延三年(一七五〇)以降一〇年余りは、御用銅額三一〇万斤に対し秋田銅の割当定額は一六五万斤に定められ、五三パーセントを占めた。明和元年(一七六四)幕府から阿仁銅山上知令が出されたが、田沼意次を介してその撤回を交渉し、一ヵ月後廻銅定額を一〇〇万斤に切り下げることで決着した。
明和二年、藩営を廃止し御山師岩谷新助・見上新右衛門・吉川庄助・川村嘉六・伊多波武助ら領内商人に請け負わせ振興をはかり、翌三年からは余銅の市場売りが認められる(秋田県史)。明和二年の銅産額予定請負高は、小沢四五万斤、真木沢・板木沢三〇万斤、三枚山・黒滝山二〇万斤、萱草一五万斤、一ノ又・二ノ又一五万八〇〇斤(同書)。
寛政元年(一七八九)幕府は勘定方・御普請役を派遣して銅山を実地検証、同三年から改革に着手、今林文書に
とある。結局藩営策が不振を招いたという反省のもとに同四年仕法を改め、
一、 | 先年より小沢真木沢両山江支配人相立差置候得とも、吟味形不行届之儀有之ニ付、槇沢之内三枚市之又と申字所(中略)小沢、三枚、真木沢、市之又、四ケ山ニ仕分、支配人壱ケ山限相立諸事山中一躰之儀、精細為取扱候。 |
一、 | 山中支配人手代共、其外之者共迄も、以前壱万箇余出銅有之節之人数ニ而罷在去二月中相改一統人数相減申候。 |
と統制機構を強化する。寛政以降の前記四ヵ山の産銅は、同三年七四万斤、文化元年(一八〇四)七〇万斤余、同一二年一一四万二千斤、文政二年一〇一万六千斤、天保元年(一八三〇)一一二万斤、同一〇年九三万三千斤余、弘化元年(一八四四)七三万八千斤余、安政元年(一八五四)八〇万三千斤余、文久元年(一八六一)七〇万三千斤余、慶応三年(一八六七)七二万六千斤余とあり、明治以降も一〇年頃まではほぼ六五万斤以上を維持した(「寛政三年以降出銅高」昭和三年阿仁山林業の情勢)。
人口の推移は、寛政三年の切支丹調で、小沢・萱草・二ノ又は二千三二二人、三枚は六一四人、大沢は一三七人、真木沢は一千三四七人、市之又は四五七人(銅山改革前後諸書付)。明治七年の阿仁鉱山戸数人員調(鉱山要記)によれば、小沢山戸数二七八戸、人員一千七七一人、うち六八戸金工検断、三〇戸支配人諸手代、一八〇戸床大工諸中間鉱夫日雇まで。槇沢山戸数一四四戸、人員一千一四人、うち二二戸支配人手代、六〇戸金工検断、六二戸床大工中間日雇まで。三枚山戸数一一二戸、人員七三三人、うち一二戸主役手代、三七戸金工検断、六三戸床大工中間日雇鉱夫。一ノ又山戸数九五戸、人員七三三人、うち一五戸主役手代、三三戸金子検断、五二戸床大工中間日雇鉱夫。萱草山戸数六二戸、人員四一二人、うち五戸主役手代、三四戸金子検断、二三戸諸中間日雇鉱夫。二ノ又山戸数五五戸、人員三五七人、うち五戸主役手代、二八戸金子検断、二二戸諸中間日雇鉱夫。戸数合七四六戸、人員合四千九〇二人。
銅の製錬に必要とする大量の薪炭のため、周辺山林を銅山片付山に指定、大坂・長崎への廻銅にも船底に保太木を積み込むため、大量の木材を必要とした。薪炭量は正徳期(一七一一―一六)の記録(秋田県林業史)に
とみえる。元文五年(一七四〇)能代の留山のうち大阿仁大又沢・小又沢、小阿仁の留山数十ヵ沢を銅山掛山に指定した(「材木山盛衰並取扱諸考大略」秋田県林業史)。寛政六年の御留山并ニ銅山片付山書上帳には、
江戸時代後期になると、周辺村落は銅山相手の木炭生産に従事したが、銅山方から米銭を借り受け、そのさい返済は木炭の代価で精算する方法がとられ、文化五年の七日市村外七ケ村願書控(秋田県林業史)にも
とある。木炭の運搬に銅山方から支払われる駄賃もまた農民収入源の一つとなっていた(「慶応三年銅山木山方より七日市肝煎長百姓あて覚書」秋田県林業史)。
鉱山で消費する米および産銅の輸送はもっぱら阿仁川を利用した。阿仁川舟運の終着点は、現
とある。
明治以降は鉱山直属の阿仁舟が御直舟として運行、その数は、上流の
北流する阿仁川上流右岸、九両山の西麓部に位置し川に面する。享保一五年の「六郡郡邑記」水無村の項に「新町元禄十丑開、民家四十七軒。水無村と荒瀬村との間に銀山在り、御山方支配」とみえる。七十枚金山の開坑を契機に、板木沢より転住の稼行者を構成分子として建設されたという。
慶長一九年、梅津政景は山奉行真崎兵庫とともに
久保田領郡邑記では銀山町家居四〇〇、口数二千といわれ、「秋田風土記」にも「畑町 上新町 下新町 家四百戸(昔此銀山町千戸アリシトゾ)」とみえる。現
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秋田県北秋田市の旧阿仁町にある金・銀・銅鉱山の総称。板木沢,向,七十枚,小沢,萱草,二ノ又,真木沢,三枚,一ノ又,大沢,天狗平その他の鉱山よりなっており,阿仁十一ヵ山とも阿仁六ヵ山とも呼ばれる。鉱床は第三紀中新世の堆積岩,火成岩中の数十条の鉱脈からなっている。
1575年(天正3)湯口内に銀山が発見され,つづいて,1614年(慶長19)山先(やまさき)(惣山中の長)が七十枚山で金鉱を発見して,鉱山として急速に発展した。17世紀半ばに至って,金・銀山は衰退に向かったが,代わって,そのころから小沢山を中心に,有力な銅鉱脈があいついで発見され,以後銅山として稼行されることとなった。阿仁銅山は秋田銅山とも称され,18世紀初めには,2万0060個(2万0060ピクル=200万6000斤=32万0960貫匁=120万3600kg)の荒銅を生産したと記録されている。しかし,その後銅産額も低迷を続け,18世紀半ばには100万斤前後,幕末には70万斤前後にまで減少した。
17世紀の阿仁鉱山は山師の請負経営であったが,1670年ころから銅山も大坂商人北国屋高岡善右衛門が経営していた。これにたいし,秋田藩は,96年(元禄9)いったん直営として失敗,請負経営にもどしたが,1702年から直営とすることに成功した。64年(明和1)幕府は阿仁銅山とその周囲1万石を銅山領として幕領にしようとする阿仁銅山上知令を出したが,藩の抵抗にあって撤回した。つづいて藩は,翌65年から鉱山改革に着手,これまでの藩営に領内の山師の請負を結びつけた準藩営形式をとることとしたが,それによっても鉱山の根本的回復はできなかった。維新後,秋田県営となり,1875年に官営に移管され,ドイツ人メツゲルAdolph Mezgerらの外人技師を中心に,鉱業・冶金技術の改善が進められた。85年に,古河市兵衛に払い下げられ,つづいて技術改善と経営合理化が進められ,新しい金・銅鉱脈の発見もあって,一時活況をとりもどしたが,1931年に休山。33年金・銅山として再開したが,第2次大戦後は休山,再開をくりかえした。細脈が多い鉱山で,主としてシュリンケージ採掘法により採掘され,盛期には銅品位1.01%の鉱石1万2000t/月の生産(1967)を行っていたが,79年閉山した。
17世紀については不明だが,18世紀初頭には,小沢山で2500人の労務者がおり,1791年(寛政3)には小沢山はじめ六ヵ山の人口4877,1874年には小沢山の戸数278,人口1771を含めた六ヵ山で746の戸数,4902の人口を擁していた。
安永(1772-81)以前は,阿仁銅山の荒銅は大坂に送られ,銅吹職仲間で精錬され,竿銅に仕立てられて,長崎輸出銅などに向けられていたが,1774年からは,籠山(秋田県能代市の旧二ッ井町)に設けられた藩営銀絞所で精錬されることとなった。この銀絞所は,阿仁銅山の銅と太良鉛山の鉛とを原料に,南蛮絞法による冶金で銀と銅とを生産,その産銀量は1812年(文化9)には35貫匁(1万3125kg)に達した。この銀絞所の経営も,明治に入って,阿仁銅山と同じ経緯をたどったが,1904年,東雲精錬所(秋田県能代市)の新設に伴って廃止された。
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