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阿仁鉱山

ジャパンナレッジで閲覧できる『阿仁鉱山』の日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

日本歴史地名大系
阿仁鉱山
あにこうざん

阿仁金・銀・銅山の総称。北流する阿仁川上流の両岸、標高五六二メートルの九両きゆうりよう山の南・北・西麓、および標高七一〇メートルの芝森しばもり南・西麓一帯に分布する。板木沢いたきざわむかい七十枚しちじゆうまい小沢おざわ萱草かやくさまた真木沢まぎさわ三枚さんまいいちまた大沢おおさわ天狗平てんぐだいら黒滝くろたき糠内ぬかない深沢ふかざわの各鉱山を含む。

〔銀山〕

阿仁川左岸の湯口内ゆくちない銀山の開坑が最も古く、天正三年(一五七五)の発見と伝える。「梅津政景日記」慶長一九年(一六一四)には「幾口内」「いくちない銀山」などとみえる。文政年間(一八一八―三〇)の秋田領内諸金山箇所年数帳(鉱山紀年録)に「向銀山往古湯口内銀山と云、金鉱あり 大阿仁湯口内村 右は慶長元和之頃大盛致候、御遷方以前之山と申唱候」とあり、佐竹氏入部以前から開坑していたことはほぼ間違いない。まず銀山が開け、慶長一九年頃から金山を主とし、寛永(一六二四―四四)以降再び銀山となって寛文(一六六一―七三)に及んだと推定される。

板木沢銀山は慶長―元和(一五九六―一六二四)の頃、湯口内より産銀が多かったといわれ、「秋田風土記」にも「木立沢山 イタ木沢と云。此山金銀銅鉱共に出つ。真木山の内なり」とある。慶長一九年から七十枚・三枚三両さんまいさんりようの両金山が隆盛をきわめたが、寛永頃から板木沢・湯口内が注目を集め再び銀山主体となり、同八年、湯口内から三六五匁、慶安四年(一六五一)三貫三二〇匁をそれぞれ運上したという。

〔金山〕

慶長一九年七月、水無みずなしの山先五郎左衛門・七兵衛・太郎兵衛が七十枚山を見立て、ここに阿仁金山の開坑が始まる(梅津政景日記)。これを親間歩として三枚三両山を開坑。銀山町の建設にとりかかり、当時板木沢・湯口内などから金子持ちの山師が集中、家族を合わせ人口一万前後を数えたという。当時の山奉行は片岡八左衛門・町田小左衛門・若林掃部の三人(同書)

慶長一九年から幕府運上が始まり、元和二年(一六一六)六七枚、同三年三〇枚、同四年二八枚を計上する(梅津政景日記)。しかし寛永二年、前山が金五枚の運上山となっただけで衰退を始め、寛永中期頃から銀山と代わった。

〔銅山〕

銅山は小沢山の開発に始まり、宝永五年(一七〇八)の小沢銅山古来言伝之事録(東京大学図書館蔵)に、

往古小沢御銅山開発之儀者(中略)寛永十四乙丑之年(中略)円八郎大坂より小間物之長箱背負、羽州江下り、米白之港尋、夫より川上十四里登り候而(中略)極印沢と申所ハ、大沢材木山小沢材木山両所より出候御材木、(中略)此山嶽金色之光り沢一這ニ朝日照り輝く如く夥しく有之と申。依而円八郎其所ニ至、光る石を拾ひ取る。此石今の〓なり(中略)仍而、右石熊野江持行、段々聞合候所、岩見甚左衛門と申金掘、宜敷山色也。取立候ハハ宜敷金を儲け可申事故

とみえる。享保一〇年(一七二五)の秋田郡阿仁銀山之次第開書(秋田金山旧記)には、

右銀山開始之次第者、寛文十戌年、摂州大坂町人北国屋善右衛門高岡ナリ長盛与申者、其頃身上軽き町人にて、秋田江下り、茶船之宿仕候由、右手代八右衛門と申もの、野代奉行山方助右衛門に訴出候者、御当領阿仁山之内銅有之候間、御証文申請度由願によつて阿仁山中見立之事心得候由、証文指出候、然所ニ同年四月、小沢山之内日平山親山ニ而扇平与申山ニ而、始而銅〓鉱ニ当り、紀州熊野銅山より、金掘子呼置候故則銅ニ吹立申候、(中略)銅者、御当領ニ而始而出候故、不案内ニ付右山奉行石井清左衛門、山師北国屋ニ段々尋候得者、吹出候銅箇ニ致造立、上方江相廻候由申渡

とあり、小沢銅山は寛文一〇年頃から北国屋の手代八右衛門の経営になった。金掘大工・掘子は紀州熊野銅山から移住して吹立てを開始し、藩は運上銀取立てにより収益をはかった。運上高は「秋田金山旧記」では「銅百貫目ニ付、運上銀六拾目、炭竈一筒ニ付、役銀拾匁」「炭竈役銀者、上銀百目ニ付弐匁弐分相加ひ」となっている。

その後の諸山の開発は、同書に「奥州津軽之者、二階屋弥惣右衛門と申者、板木沢銅山見立、摂州大坂町人、大坂屋久左衛門手代、三枚見立申候、其以後、和泉屋長四郎、同茂兵衛、同勘右衛門抔与申者、山見立、北国屋を始、都而拾壱ケ山之山師拾壱人有之候」とある。小沢は寛永一四年、真木沢は宝永三年、三枚は寛文七年、一ノ又は宝永七年、萱草は寛文一二年の開発とされる(阿仁発達史)

元禄九年(一六九六)藩は小沢山を直山としたが、翌一〇年経営技術の不足から請山にもどし、態勢立直しのあと同一五年から直山制をとるとともに、統制の職務編成を完成、従来銅山が属していた惣山奉行を廃して木山方と金山方に分け、惣山方を表方奉行の配下とする(秋田県史)。金山方は支配人(銅山手代頭)・手代(主役)・銀銭請払役・本番役・〓方役・床屋役・炭木役・木方役・売場役・小回役・御廻銅役・外回役で構成。藩営初期の銅生産高は、正徳六年(一七一六)の記録に「元禄一五年より御直山ニ被遊、初年壱万四千箇程出申候。三ケ年目より段々御山直り、弐万六拾箇程出来高ニ御座候。其節抱人数弐千五百人程有之。床屋拾壱軒ニて吹申候。辰年より段々致出不足ニて、去年壱万七千箇之内出来仕申候」とある(「正徳六申年御本方吟味役阿可惣助銅山一体之儀尋ニ付、安藤幸左衛門菅原新兵衛答之条々」銅山木山方旧記)。元禄一六年の産銅額一五〇万―一六〇万斤(銅山の歴史)

正徳頃から衰退を始め、同六年の前記「安藤幸左衛門菅原新兵衛答之条々」に「三四年以前迄、金掘多人数居候由、然者稼之者、諸方より寄人も無之、人数減候様ニ相見江候。隣国山直り、それ江引ケ候哉、且又御当山諸色高直御給下直等之訳ニて、金掘居不申候哉」とみえる。

売先は享保(一七一六―三六)以前の場合、大坂の一七軒の吹屋および大津の銅宿などで、買入値は吹屋仲間の入札と銅商人の入札による(「御廻銅高調」秋田大学蔵)。享保元年には長崎廻銅定額が一七〇万斤に確定、御廻銅高之事(御廻銅高調)に「享保元申年より元文辰年迄、弐拾壱ケ年之間、弐百万斤より以下百弐拾六万斤迄、不同有之(中略)元文二巳年より延享元子年迄八ケ年百弐拾三万斤、翌丑年より百弐拾五万斤被差廻候」とある。一八世紀を通じ幕府御用銅総額の三八パーセント前後を占め、とくに寛延三年(一七五〇)以降一〇年余りは、御用銅額三一〇万斤に対し秋田銅の割当定額は一六五万斤に定められ、五三パーセントを占めた。明和元年(一七六四)幕府から阿仁銅山上知令が出されたが、田沼意次を介してその撤回を交渉し、一ヵ月後廻銅定額を一〇〇万斤に切り下げることで決着した。

明和二年、藩営を廃止し御山師岩谷新助・見上新右衛門・吉川庄助・川村嘉六・伊多波武助ら領内商人に請け負わせ振興をはかり、翌三年からは余銅の市場売りが認められる(秋田県史)。明和二年の銅産額予定請負高は、小沢四五万斤、真木沢・板木沢三〇万斤、三枚山・黒滝山二〇万斤、萱草一五万斤、一ノ又・二ノ又一五万八〇〇斤(同書)

寛政元年(一七八九)幕府は勘定方・御普請役を派遣して銅山を実地検証、同三年から改革に着手、今林文書に

御廻銅之儀何れも存知之通近年御定例壱万箇之外御年賦銅被差加、山模様不都合也、箇高強而差出候様諸積故、無是非山元仕上り増減之沙汰具サならさる故、欠銅ニ相至第一銅仕上りと銅代銀甚引違、年々御損銀相嵩自ラ上方問屋銀繰差支、至而御難渋之御当用向より種々御助成被成候得共、全御当用御相続難被為成次第ニ被為至候、依而去年中より重御願を以 公辺并上方問屋御借財、惣而年賦等ニ被相仰付候上は以来御願筋并御拝借之御手筋を以

とある。結局藩営策が不振を招いたという反省のもとに同四年仕法を改め、

一、先年より小沢真木沢両山江支配人相立差置候得とも、吟味形不行届之儀有之ニ付、槇沢之内三枚市之又と申字所(中略)小沢、三枚、真木沢、市之又、四ケ山ニ仕分、支配人壱ケ山限相立諸事山中一躰之儀、精細為取扱候。
一、山中支配人手代共、其外之者共迄も、以前壱万箇余出銅有之節之人数ニ而罷在去二月中相改一統人数相減申候。

と統制機構を強化する。寛政以降の前記四ヵ山の産銅は、同三年七四万斤、文化元年(一八〇四)七〇万斤余、同一二年一一四万二千斤、文政二年一〇一万六千斤、天保元年(一八三〇)一一二万斤、同一〇年九三万三千斤余、弘化元年(一八四四)七三万八千斤余、安政元年(一八五四)八〇万三千斤余、文久元年(一八六一)七〇万三千斤余、慶応三年(一八六七)七二万六千斤余とあり、明治以降も一〇年頃まではほぼ六五万斤以上を維持した(「寛政三年以降出銅高」昭和三年阿仁山林業の情勢)

人口の推移は、寛政三年の切支丹調で、小沢・萱草・二ノ又は二千三二二人、三枚は六一四人、大沢は一三七人、真木沢は一千三四七人、市之又は四五七人(銅山改革前後諸書付)。明治七年の阿仁鉱山戸数人員調(鉱山要記)によれば、小沢山戸数二七八戸、人員一千七七一人、うち六八戸金工検断、三〇戸支配人諸手代、一八〇戸床大工諸中間鉱夫日雇まで。槇沢山戸数一四四戸、人員一千一四人、うち二二戸支配人手代、六〇戸金工検断、六二戸床大工中間日雇まで。三枚山戸数一一二戸、人員七三三人、うち一二戸主役手代、三七戸金工検断、六三戸床大工中間日雇鉱夫。一ノ又山戸数九五戸、人員七三三人、うち一五戸主役手代、三三戸金子検断、五二戸床大工中間日雇鉱夫。萱草山戸数六二戸、人員四一二人、うち五戸主役手代、三四戸金子検断、二三戸諸中間日雇鉱夫。二ノ又山戸数五五戸、人員三五七人、うち五戸主役手代、二八戸金子検断、二二戸諸中間日雇鉱夫。戸数合七四六戸、人員合四千九〇二人。

〔銅山片付山・掛山〕

銅の製錬に必要とする大量の薪炭のため、周辺山林を銅山片付山に指定、大坂・長崎への廻銅にも船底に保太木を積み込むため、大量の木材を必要とした。薪炭量は正徳期(一七一一―一六)の記録(秋田県林業史)

一、壱ケ年焼木入方、凡弐千八百棚
但、壱丈四方
内弐千百拾九棚 小沢
但、辰年分入方帳面〆高
同弐百拾棚 三枚山
同弐百三拾棚 板木沢
同百三拾棚 大沢山
同百拾棚ほと 弐野又山
右入附買値段、小沢分去戌年勘定帳、卯年残薪直段取合、平均壱棚ニ付三拾七匁七分弐厘八毛余、

とみえる。元文五年(一七四〇)能代の留山のうち大阿仁大又沢・小又沢、小阿仁の留山数十ヵ沢を銅山掛山に指定した(「材木山盛衰並取扱諸考大略」秋田県林業史)。寛政六年の御留山ニ銅山片付山書上帳には、七日市なのかいち品類しなるい両村の水無・笹原ささはら湯津内沢ゆつないさわのうち「上ケの沢・五郎左衛門・黒石川・名治兵衛山・長・一の又・立又・大曲・畑の・今右衛門・猿ケ・又右衛門・銀岩・向の・金堀」、松沢まつざわのうち「大漆・小漆・小松取・大松取・黒滝・矢杉・畑の・一通」の各沢が銅山片付山であったと記している。

江戸時代後期になると、周辺村落は銅山相手の木炭生産に従事したが、銅山方から米銭を借り受け、そのさい返済は木炭の代価で精算する方法がとられ、文化五年の七日市村外七ケ村願書控(秋田県林業史)にも

銅山片付山之儀、宝暦十二年被仰付候其節、御銅山支配人石田久太郎申含候、御受形疑之儀尤候得共、全以迷惑相掛候事ニ無之候、被居置候山所被出候木炭他売差留メ、御銅山方ニ一ト手ニ御買立被成置候迄之事ニ、不作等之年ハ御米銭御貸付可被成下、諸品御値段宜被成置、翌年御買上代ニ御利足なし御差引可被成下

とある。木炭の運搬に銅山方から支払われる駄賃もまた農民収入源の一つとなっていた(「慶応三年銅山木山方より七日市肝煎長百姓あて覚書」秋田県林業史)

〔輸送〕

鉱山で消費する米および産銅の輸送はもっぱら阿仁川を利用した。阿仁川舟運の終着点は、現水無下浜みずなししたはまで能代・土崎つちざきから米・諸品が運ばれた。明和八年の「覚」(県立秋田図書館蔵)には「阿仁銅山仕送之米銭諸品共に秋田郡増沢村五郎八右仕送請負申付、能代より銅山迄川目通り諸運上指免運送致候に付船々者吟味役処合判渡置候間引合無難渋可為致通船候」とある。また「梅津政景日記」に、元和六年(一六二〇)頃のこととして仙北せんぼくの米を土崎湊つちざきみなとまで回送し、能代を経由して能代から小舟により米代川を上った様が記されている。能代からの川舟運送は、おもに阿仁川下流地域の農民が舟・労力を負担し、寛永二年の運賃は米二石半に付き六匁五分であったという。中期の運送賃に関し寛政三年銅山改革前後諸書付には

六百三拾弐貫文
米七千九百石能代湊より運送賃之内、壱石ニ付八拾文宛相減候分
弐千八百八拾貫文
年々米七千九百石、能代湊より銅山飯料運賃仕候処、去亥年より弐千七百石相廻し、銭五千五百石麓郷ニ相備候ニ付、此分壱石ニ付銭五百四拾文宛相減候分

とある。

明治以降は鉱山直属の阿仁舟が御直舟として運行、その数は、上流の米内沢よないざわ寄延よりのぶ大淵おおぶち浦田うらた前田まえだ神成かんなり五味堀ごみぼりなどでおよそ一〇〇艘、下流の増沢ますざわ木戸石きどいし八幡やはた川井かわい新田目あらため本城ほんじようなどでは六〇艘であったという。

〔銀山町〕

北流する阿仁川上流右岸、九両山の西麓部に位置し川に面する。享保一五年の「六郡郡邑記」水無村の項に「新町元禄十丑開、民家四十七軒。水無村と荒瀬村との間に銀山在り、御山方支配」とみえる。七十枚金山の開坑を契機に、板木沢より転住の稼行者を構成分子として建設されたという。

慶長一九年、梅津政景は山奉行真崎兵庫とともに新町しんまちの町割をすすめ、山先五人は一番くじ、板木沢一三人の山師は二番くじ、せり対手一三人の山師は三番くじ、各所より来住の五〇人・三〇人の金子持の山師は四番くじ、その他の金子は勝手次第という形で定着させる(梅津政景日記)。同時に町人の町割をも実施したが、およそ半数の一千八〇人に割り渡しただけであった。当時の推定口数は一万という。質屋・鉛座・天秤屋は表七間の屋敷を与えられた。

久保田領郡邑記では銀山町家居四〇〇、口数二千といわれ、「秋田風土記」にも「畑町 上新町 下新町 家四百戸(昔此銀山町千戸アリシトゾ)」とみえる。現下新町御蔵小路しもしんまちおくらこうじに米二万石を収納する蔵があり、御米蔵兼帯支配目附吟味役所も併置、米蔵役は二年交代、吟味役は六〇日交代であった(秋田風土記)。明治以降も銀山町は、阿仁川沿いに北から南にかけて下新町しもしんまち上新町かみしんまち畑町はたまちの三町から構成され、現水無には上新町西裏・同東裏・畑町西裏・同東裏・大町・新町等の小字名を残す。



国史大辞典
阿仁鉱山
あにこうざん
秋田県北秋田郡阿仁町に散在する金・銀・銅山を総称していう。明治初年には、小沢・真木沢・三枚・一ノ又・二ノ又・萱草の六銅山と、向山金銀山とよりなっていた。はじめ金銀山として開け、金山は延慶二年(一三〇九)、銀山は天正三年(一五七五)から、それぞれ始められたという。十七世紀半ば以降、小沢山をはじめとして銅山が開発され、十八世紀前半には阿仁十一ヵ山と称された。金銀山時代は、山師による請負によって経営され、秋田氏・佐竹氏は、これに運上金銀を賦課するとともに、産金銀の強制買い上げを行なって、領主財政の重要な基礎とした。銅山の中心であった小沢山は、寛文十年(一六七〇)から、続いて開発された他の諸山も開発時から、それぞれ商人の請負経営であったが、元禄九年(一六九六)一年間と、同十五年以降は、秋田藩の直山(じきやま)とされた。明和二年(一七六五)・三年の受山仕法の期間を除いて、幕末まで秋田藩営であったが、明治八年(一八七五)官営に移され、さらに同十八年古河市兵衛に払い下げられて古河鉱業会社の経営となった。荒銅の年間生産量は、十七世紀末七十~百五十万斤、藩営初期百四十万斤、宝永五年(一七〇八)三百六十万斤を最盛期とし、それ以後一時的な立ち直りの時期を除いては、藩営期では四十~百万斤を上下していた。明治に入って漸増し、明治末―大正初年には二百万斤を超えている。藩政時代、阿仁鉱山は秋田銅山とも呼ばれて、長崎御用銅の生産に重要な位置を占め、またそのための御用銅生産・鋳銭事業・殖産興業政策としての銀加工業などを通じて、秋田藩財政と深い結びつきをもっていた。
(佐々木 潤之介)


改訂新版 世界大百科事典
阿仁鉱山
あにこうざん

秋田県北秋田市の旧阿仁町にある金・銀・銅鉱山の総称。板木沢,向,七十枚,小沢,萱草,二ノ又,真木沢,三枚,一ノ又,大沢,天狗平その他の鉱山よりなっており,阿仁十一ヵ山とも阿仁六ヵ山とも呼ばれる。鉱床は第三紀中新世の堆積岩,火成岩中の数十条の鉱脈からなっている。

沿革

1575年(天正3)湯口内に銀山が発見され,つづいて,1614年(慶長19)山先(やまさき)(惣山中の長)が七十枚山で金鉱を発見して,鉱山として急速に発展した。17世紀半ばに至って,金・銀山は衰退に向かったが,代わって,そのころから小沢山を中心に,有力な銅鉱脈があいついで発見され,以後銅山として稼行されることとなった。阿仁銅山は秋田銅山とも称され,18世紀初めには,2万0060個(2万0060ピクル=200万6000斤=32万0960貫匁=120万3600kg)の荒銅を生産したと記録されている。しかし,その後銅産額も低迷を続け,18世紀半ばには100万斤前後,幕末には70万斤前後にまで減少した。

17世紀の阿仁鉱山は山師の請負経営であったが,1670年ころから銅山も大坂商人北国屋高岡善右衛門が経営していた。これにたいし,秋田藩は,96年(元禄9)いったん直営として失敗,請負経営にもどしたが,1702年から直営とすることに成功した。64年(明和1)幕府は阿仁銅山とその周囲1万石を銅山領として幕領にしようとする阿仁銅山上知令を出したが,藩の抵抗にあって撤回した。つづいて藩は,翌65年から鉱山改革に着手,これまでの藩営に領内の山師の請負を結びつけた準藩営形式をとることとしたが,それによっても鉱山の根本的回復はできなかった。維新後,秋田県営となり,1875年に官営に移管され,ドイツ人メツゲルAdolph Mezgerらの外人技師を中心に,鉱業・冶金技術の改善が進められた。85年に,古河市兵衛に払い下げられ,つづいて技術改善と経営合理化が進められ,新しい金・銅鉱脈の発見もあって,一時活況をとりもどしたが,1931年に休山。33年金・銅山として再開したが,第2次大戦後は休山,再開をくりかえした。細脈が多い鉱山で,主としてシュリンケージ採掘法により採掘され,盛期には銅品位1.01%の鉱石1万2000t/月の生産(1967)を行っていたが,79年閉山した。

17世紀については不明だが,18世紀初頭には,小沢山で2500人の労務者がおり,1791年(寛政3)には小沢山はじめ六ヵ山の人口4877,1874年には小沢山の戸数278,人口1771を含めた六ヵ山で746の戸数,4902の人口を擁していた。

安永(1772-81)以前は,阿仁銅山の荒銅は大坂に送られ,銅吹職仲間で精錬され,竿銅に仕立てられて,長崎輸出銅などに向けられていたが,1774年からは,籠山(秋田県能代市の旧二ッ井町)に設けられた藩営銀絞所で精錬されることとなった。この銀絞所は,阿仁銅山の銅と太良鉛山の鉛とを原料に,南蛮絞法による冶金で銀と銅とを生産,その産銀量は1812年(文化9)には35貫匁(1万3125kg)に達した。この銀絞所の経営も,明治に入って,阿仁銅山と同じ経緯をたどったが,1904年,東雲精錬所(秋田県能代市)の新設に伴って廃止された。
[山口 梅太郎+佐々木 潤之介]

[索引語]
秋田銅山 高岡善右衛門 メツゲル,A. Mezger,A. 古河市兵衛
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14. いくのぎんざんあと【生野銀山跡】兵庫県:朝来郡/生野町
日本歴史地名大系
た。ただし産銅量は増大し、正徳年間(一七一一―一六)の幕府の買入銅高では生野銀山は出羽秋田(阿仁鉱山、現秋田県阿仁町)・伊予別子(現愛媛県別子山村)・立川(現同 ...
15. 黄銅鉱画像
日本大百科全書
足尾町(現、日光市足尾町)足尾鉱山(閉山)、秋田県北秋田郡阿仁(あに)町(現、北秋田市阿仁)阿仁鉱山(閉山)の良晶はよく研究された。英名はギリシア語のchalk ...
16. おくでらしんでん【奥寺新田】
国史大辞典
これは近世前期の東北日本に多い後進地型の藩営新田の特色である。用水路の上堰と下堰は藩費を支出し、工事に阿仁鉱山の鉱夫を利用した。また近村の豪農を利用し、資金の支 ...
17. 上小阿仁[村]
世界大百科事典
山林が占め,耕地は3%にすぎない。中心の小沢田には五城目街道(現,国道285号線)が通り,近世,秋田と阿仁鉱山を結ぶ交通の要地であった。山間僻村であるが,一帯は ...
18. 北秋田(市)画像
日本大百科全書
掘は停止となった。鉱山の歴史や地域の文化を紹介する阿仁郷土文化保存伝承館がつくられている。旧阿仁鉱山に残る外国人官舎(異人館)は国の重要文化財、縄文遺跡の伊勢堂 ...
19. 北秋田[市]
世界大百科事典
ないざわ)は,近世に阿仁鉱山と能代湊を結ぶ舟運の中継地として発達,1795年(寛政7)鷹巣へ移るまで郡奉行所も置かれ,阿仁地方の中心地であった。南部の前田はかつ ...
20. 鉱山
世界大百科事典
では駿河梅ヶ島・富士,伊豆土肥(伊豆金山),甲斐黒川(黒川金山),陸中白根,出羽院内・阿仁(阿仁鉱山),佐渡相川(佐渡金山),能登宝達など,銀山では石見大森(石 ...
21. ごじゅうめむら【五十目村】秋田県:南秋田郡/五城目町
日本歴史地名大系
上町村・下町村と称した文禄(一五九二―九六)の頃から市が始まったという(ひなの遊)。梅津政景は五十目を通って阿仁鉱山(現北秋田郡阿仁町)に度々往復し、慶長二〇年 ...
22. ごじょうめかいどう【五城目街道】秋田県:南秋田郡
日本歴史地名大系
浅見内は山越えの中継地点であった。峠を越えて小阿仁川上流の沖田面村(現北秋田郡上小阿仁村)へ出、阿仁鉱山(現北秋田郡阿仁町)へ通じている。「梅津政景日記」元和三 ...
23. ごみぼりむら【五味堀村】秋田県:北秋田郡/森吉町
日本歴史地名大系
こし米持参候ハハ、御番所へ切手を」と山小屋へ米を持参することを禁じていた。明治―大正を通じ、阿仁鉱山に直属する直舟が当村からも出されていたという。 ...
24. 菅江真澄遊覧記 5 283ページ
東洋文庫
これはいま図絵集だけだが、もとは本文をともなった日記であろう。 大阿仁川沿いに川上に進んで、北秋田郡阿仁鉱山(阿仁町)をみた。 小型本、全絵四十五図。明徳館本、 ...
25. 菅江真澄遊覧記 1 34ページ
東洋文庫
院内銀山のもようや開発の伝説などがあるとして、これは清書しなかった。〔阿仁の沢水〕には、北秋田郡の阿仁鉱山の記事があったらしいが、この日記の本文は全部とり除いて ...
26. 菅江真澄遊覧記 1 75ページ
東洋文庫
いで湯〕。六月 大館付近にえのしがらみ〕。一月北秋田郡川井(合川町)にあり〔浦第一部。二月末阿仁鉱山をみる〔阿仁(夏に五城目街道をとおり秋田に出る〈小づ〉。八月 ...
27. 菅江真澄遊覧記 1 227ページ
東洋文庫
あるいて「鹿島ながし」のさまを見たらしい。 それから西木村をとおり、大覚野峠を越えて、北秋田郡の阿仁鉱山をみていた。〔粉本稿〕には阿仁の銅山を写した図がおさめら ...
28. 仙北[市]
世界大百科事典
現在は用材,山菜などを産する。檜木内川の谷から大覚野(だいかくの)峠を経て阿仁地方に至る阿仁街道は,近世は阿仁鉱山への物資の輸送路であったが,鉱山の衰退以降,交 ...
29. 鷹巣盆地
世界大百科事典
本格的開拓は第2次世界大戦後に持ち越された。近世は米代川,阿仁川の水運が盛んで,阿仁川上流の阿仁鉱山から搬出される銅や木材の運送に利用された。鷹巣(現北秋田市, ...
30. 大日本産業事蹟 2 285ページ
東洋文庫
考とす。方今は製造家の数も少なからずして其産額もやや多きに至れりと云う。 四 羽後阿仁鉱山採掘の濫觴 阿仁鉱山の地位は羽後国北秋田郡水無村にあり、その西に一流あ ...
31. 出羽国画像
日本大百科全書
た。国内の産物では、庄内米、最上紅花(べにばな)、米沢絹、秋田杉、院内(いんない)鉱山の銀、阿仁鉱山の銅などが著名であった。 明治維新後の1868年(明治1)に ...
32. でわのくにあきたはんりょうてんぽうごねんいっき【出羽国秋田藩領天保五年一揆】
国史大辞典
余米を一切藩が買い上げる強行策を実施した。凶作の被害が比較的軽いとみられた仙北郡は、領内最大の阿仁鉱山への廻米の実施のためとりわけきびしかった。天保五年正月二十 ...
33. 銅画像
世界大百科事典
的発展を遂げた。この経過で中国,九州などの西日本の銅山は比較的早期に開かれたが,尾去沢鉱山,阿仁鉱山が銅山として発足したのは1660年代,足尾の開坑はやや古いが ...
34. 鉛画像
世界大百科事典
),長棟(ながと)(越中)があり,やがて十和田,細倉(陸奥)などが開かれ,生野銀山(但馬),阿仁鉱山(出羽)なども鉛を産した。しかし国産のみでは不足し,外国鉛が ...
35. 能代[市]
世界大百科事典
上方への搬出を契機に活況を呈し,近世に入り17世紀の西廻海運の発達とともに繁栄した。この地は阿仁鉱山をはじめとする数多くの鉱山に物資を供給する基地,秋田杉の集散 ...
36. はちまんだいしんでんむら【八幡台新田村】秋田県:北秋田郡/合川町
日本歴史地名大系
安永三年(一七七四)の舟数は七艘で、うち二艘が朽船、結局五艘で舟役銭五〇〇文を負担した。明治以降は阿仁鉱山の御直舟が就航、大正初期には当村ほか木戸石など四ヵ村合 ...
37. ふるかわ-いちべえ【古河市兵衛】画像
日本人名大辞典
小野組の番頭として生糸取引に従事。小野組清算後,明治10年足尾銅山を買収。さらに官営の院内・阿仁鉱山の払い下げをうけて事業を拡大。鉱山王とよばれ,古河財閥の基礎 ...
38. みずなしむら【水無村】秋田県:北秋田郡/阿仁町
日本歴史地名大系
[現]阿仁町水無 北流する阿仁川の上流域、九両山(五六二メートル)の西北麓に位置し、阿仁鉱山の入口にあたる。「梅津政景日記」によれば慶長一九年(一六一四)八月四 ...
39. 森吉山
世界大百科事典
信仰で知られる森吉(八幡)神社の奥宮がある。近世には杉,ブナなどの産地として秋田藩が重視し,阿仁鉱山に製錬用の焼木や坑内照明用のともし竹を供給した。一帯は県立自 ...
40. やまじんじゃ【山神社】秋田県:北秋田郡/阿仁町/水無村
日本歴史地名大系
[現]阿仁町水無 畑町 旧阿仁鉱山町の一部である畑町東裏にあり、阿仁鉱山の鎮守社で、現祭神は金山毘古大神・天照大神・倉稲魂大神・武雷神・火産霊大神。「さんじんさ ...
41. 米代川
世界大百科事典
蔵地帯で,小坂鉱山,尾去沢鉱山(おさりざわ),花岡鉱山,松峰鉱山,釈迦内鉱山(しやかない),阿仁鉱山などの鉱山が開発された。 鉄道開通前は県北地方の物資輸送路と ...
42. よねしろがわ【米代川】秋田県:総論
日本歴史地名大系
小坂川上流や鹿角盆地南部は鉱山地帯で、長木川・岩瀬川・早口川流域は森林地帯である。阿仁川は上流に阿仁鉱山をもち、米代川支流中最も長い流路をもつ。またその支流小阿 ...
43. 【総論】秋田県
日本歴史地名大系
。〔地下資源〕出羽山地は豊富な地下資源を埋蔵していた。南部の院内鉱山(雄勝郡雄勝町)、北部の阿仁鉱山(北秋田郡阿仁町)、大葛鉱山(北秋田郡比内町)、藩政時代は盛 ...
44. 足尾鉱毒事件 : 年表画像
世界大百科事典
傍諸山の樹木立ち枯れる.‥‥.12- 古河,院内鉱山の払下げを受ける.1885.3- 古河,阿仁鉱山の払下げを受ける.この年,渡良瀬川の魚類の大量死はじまる.1 ...
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