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  10. 岸和田城
国史大辞典・日本歴史地名大系

国史大辞典
岸和田城
きしわだじょう
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまりというが、その規模や位置は明らかでない。以来細川・三好・松浦と城主をかえたが、織田信長の上洛後はその代官がいた。ついで豊臣秀吉は中村一氏をここに居らせ、紀州攻略の前線基地とした。天正十三年(一五八五)小出秀政が中村氏に替わり、大いに築城の工を起した。小出氏三代ののち丹波篠山からの松平康重を経て、寛永十七年(一六四〇)岡部宣勝が摂津高槻から六万石(のち五万三千石)を以て封じられ幕末に及んだ。この間文政十年(一八二七)落雷のため天守を焼失し、さらに廃藩置県後、旧建物は取り潰されたが、昭和二十九年(一九五四)本丸に鉄筋コンクリートの天守が再建された。城地は現在市庁舎・学校その他、この地方の政治文化の中枢となっている。
[参考文献]
『大阪府史蹟名勝天然記念物』四
(岡本 良一)


日本歴史地名大系
岸和田城跡
きしわだじようあと

[現]岸和田市岸城町

本丸・二ノ丸・三ノ丸(三曲輪)と惣曲輪からなる臨海の平城で、総面積は約七万二千坪。別称をちぎり(千亀利)城というのは、本丸とその北西に接する二ノ丸の形が織機の滕に、あるいは縄張りの滕に似ているところから名付けられたという。府指定史跡。城地は現在、市庁舎・学校その他、この地方の政治・文化の中枢となっている。

建武―延元(一三三四―四〇)の頃、楠木正成に属した和田高家が岸和田に城を構えたのがその始まりというが、その位置や規模は明らかでない。南北朝合一後、この「岸和田古城」から現在地に城が移されたとも伝えるが(拾遺泉州志)、これも確かでない。応永一五年(一四〇八)和泉の下半国守護職は仁木義員から細川頼長に移ったが、細川系図の頼長の項に岸和田城主とあるので、当時の和泉下方守護所は岸和田城であったと思われる。その後細川氏に代わって三好氏が台頭すると、三好長慶の腹心十河一存・安宅冬康が岸和田に在城した(畠山記)。一存の死後当城に拠った三好実休(義賢)は、永禄五年(一五六二)畠山高政との久米田合戦で討死し(細川両家記)、以後織田信長の上洛までは松浦・寺田などの岸和田衆が在城した。信長入洛後当城には織田信張が配置されていたが(「宇野主水日記」天正一〇年正月二二日条)、本能寺の変後の天正一一年(一五八三)豊臣秀吉は中村一氏を当城に配し(中村一氏記)、紀州攻略の前線基地とした。以後同一三年の紀州制圧まで、当城は根来衆・雑賀衆との戦いの拠点として重要な役割を果し、当城をめぐる戦いは「中村一氏記」「真鍋真入斎書付」「真鍋真入斎働覚書」「宇野主水日記」(同一二年三月一八日条ほか)などに詳しい。その頃の城域は後の二ノ丸までで、しかも「矢倉・石垣等も無き、屋敷構へに堀をホリテ麁相ナル体」の掻上城であった(岸城古今記)

天正一三年四月の紀州制圧後、中村氏に代わって小出秀政が城主となり、築城の工を起こした。小出氏は初め四千石にすぎなかったが、文禄三年(一五九四)には一万石に、翌四年には三万石に加増され(拾遺泉州志)、同年天守閣の造立に着工し、慶長二年(一五九七)に至って竣工した(岸城古今記)。天守閣(東西九間五尺六寸・南北一〇間五寸、ただし一間は六尺五寸)は、正保城絵図(内閣文庫蔵)以来五層であったが、文政一〇年(一八二七)一一月二〇日、落雷によって焼失したのちは再建されず(江戸藩邸日記)、三層の天守・二層の小天守という記録はあるが、天保年間(一八三〇―四四)の岸和田城図(横山家蔵)には隅櫓しか描かれていない。あるいは二ノ丸の北隅にあった伏見櫓が三層であったので、それを代用していたとも考えられる。明治維新期に破壊された岸和田城が昭和二九年(一九五四)に再建されたが、それは記録による復原とはいいがたいようである。

元和五年(一六一九)小出氏に代わって丹波篠山ささやまから松平(松井)氏が五万石で入城した。この頃には二ノ丸の石垣まできていた海水が退き、石垣下の葦原は乾地となったので、松平氏はここを開き、伝馬口から堺口門までの新郭を造り、町家を立並べ、城下の面目を一新した。諸事書留(牧村家文書)にも「其以前は二ノ丸石垣迄汐差込、芦原の所、段々海退候故、当時の伝馬口より坂口御門迄の新郭出来、町家等建候由、夫迄ハ南大手より東大手へ往還之処、当時の通往来成候由」とある。寛永一七年(一六四〇)岡部美濃守宣勝が松平氏に代わって摂津国高槻たかつき(現高槻市)から六万石で入城し、城地を整備し外郭を築いた。北は春木はるき川を自然の外郭とし、その内側の村とぬま村領新屋敷といわれた並松なんまつとを画するいな川を第二線とし、第一の枡形を紀州街道に施し、次に新屋敷一帯を整備し、下級武士を配置して固めた。さらに魚棚うおのたな(古城川)・外堀までのきた町一帯を、中堅武士の屋敷や寺屋敷を配した街道沿いの郭として整備した。南は津田つだ川を自然の防御線としたのみならず、さらにその上に長堤を築いて上田うえだ岸と称し、南の障壁とした。紀州街道沿いには清水しみず川で画した内側に土手と枡形を設け、そこから伝馬口門までの間を新屋敷とし、街道両側に武家屋敷を配した。外堀の前面には北と同じく寺院を配置した。西の海側には防潮堤を兼ねた石塞十数町を築いて石垣筋と称した。こうして当城は、洪積台地縁辺を利用した掻上城から近世城郭に成長していった。

岡部氏は宣勝以後、行隆・長泰・長敬・長著・長住・長修・長備・長慎・長和・長発・長寛・長職と襲封、明治に及んだ。入封当初は六万石であったが、行隆の襲封に際し弟高成に五千石、同じく弟豊明に二千石を分封し、以後岸和田藩は五万三千石であった。その所領は和泉国の南郡・日根郡にまたがっており、「寛文朱印留」によれば泉南(南)郡四七ヵ村・高二万三千八四九石余、日根郡四四ヵ村・高二万九千一五〇石余であった。以後藩領内の村数は時代により若干の変化がある。享保年間(一七一六―三六)の新田高二二九町九反余・新畑二八町四反余(「四季心得草」斎藤家文書)。岸和田藩の年貢率は、貞享元年(一六八四)七七・八一パーセント、元禄七年(一六九四)七九・六四パーセント、宝永三年(一七〇六)八〇・四八パーセント、正徳四年(一七一四)八一・三七パーセント、享保元年七七・四二パーセント、同一五年八〇・五一パーセント、寛保元年(一七四一)七九・六四パーセント、天保二年七四・二七パーセント、嘉永五年(一八五二)七二・一九パーセント(以上、分知二千石を加えた五万五千石の租率)、元治元年(一八六四)五八・四二パーセント、慶応三年(一八六七)五九・八九パーセント、明治元年(一八六八)四九・〇七パーセント(以上、岸和田藩五万三千石の租率)である(岸和田郷土資料館文書・岸和田藩志)

岸和田藩の地方統治は、藩の年寄に直属する郡代二人が最高責任者として政務を総轄し、その下に代官・地方・池川方の三職があった。代官は民政一般、地方は貢租・勧業、池川方は水利・土木関係に当たったが、おおむね小身の者がこれらの役を勤めた。村々には他の藩と同じように庄屋・年寄・組頭が置かれた。また松平氏時代の代官庄屋制―郷士代官三人・代官庄屋三人・筆頭庄屋二人―(拾遺泉州志)に代わるものとして、岡部氏入部後は大庄屋制が採用された。これは他の藩のように数ヵ村ないし十数ヵ村に一人ずつ置かれたのではなく、領内全般から七人の豪農が任用された。大庄屋七人衆は毎月数日岸和田の郷会所に詰めて郡代の民政諮問に応じたので、郷会所詰衆とも呼称された。例えば藩で新しい制令を発布しようとする時は、民情にそうようにまず七人衆の意見を聞き、しかる後に公布することにしていた。したがって七人衆の権威は相当大きく「時に硬骨の者ありて、藩政を批議し罵詈するあるも、役人は必ずしも之を威圧する能はざりしが如し」(岸和田藩志)といわれている。七人衆は世襲で苗字帯刀を許され、定期的に藩主に伺候したほか、鉄砲・剣術の稽古も許可されていた。なお郷会所は藩の役所というより領民側の会所で、その経費は村々で負担した(「諸用留」要家文書)。この大庄屋七人衆に対し、これに準ずる家格として江戸時代中期以降に七人格が設けられた。七人衆のうちでその職に堪えられない者が出たときの補充員として、あらかじめ定められたものである。やや重大な諮問案がある時には七人衆とともに郷会所に招集され、その諮問に応じた(岸和田藩志・貝塚市史)

岸和田藩士の分限は一〇〇石以上・給人・中小姓・歩行士の四つに分れ、給人は五〇石以上であり、中小姓はほぼ一〇石以上の者を称した。藩の分限帳で現存する最古のものは、元禄一三年一二月の辰年御家中物成切米扶持方帳(鬼洞文庫蔵)であるが、これによると、一〇〇石以上は筆頭家老の一千五〇〇石を最高に一二三人、五〇石以上が一六人、一〇石以上が一九四人、一〇石以下が八一五人、合計一千一四八人である。なおこのほかに五〇人の甲賀の侍組がいるが、これは平素は郷里の近江甲賀こうかに住み、事ある時だけ藩の人数に加わった。藩では嘉永五年講習館を創立して漢学を修めさせ、さらに慶応三年には修武館を設立して武術を錬磨させた(岸和田藩志)

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検索コンテンツ
1. 岸和田城画像
日本大百科全書
戦国期~江戸期の城。大阪府岸和田市岸城町にある。1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉からこの地を与えられた小出秀政(こいでひでまさ)が入封し築城した。小出
2. 岸和田城[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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3. きしわだ‐じょう[‥ジャウ]【岸和田城】
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大阪府岸和田市にあった平城。建武元年(一三三四)楠木正成の代官、和田高家が構えたのが最初といわれる。天正一三年(一五八五)小出秀政が整備。寛永一七年(一六四〇)
4. きしわだじょう【岸和田城】
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大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千
5. きしわだじょうあと【岸和田城跡】大阪府:岸和田市/岸和田村地図
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泉の下半国守護職は仁木義員から細川頼長に移ったが、細川系図の頼長の項に岸和田城主とあるので、当時の和泉下方守護所は岸和田城であったと思われる。その後細川氏に代わ
6. あかしもととも【明石元知】
国史大辞典
加増。同十一年二月から三月にかけて秀吉の柴田勝家攻撃に参陣。同十二年三月紀伊根来・雑賀一揆の和泉岸和田城攻撃に際し、城主中村一氏を救援。同年三月小牧の戦の秀吉陣
7. あたぎ-ふゆやす【安宅冬康】
日本人名大辞典
歌人。享禄(きょうろく)元年生まれ。三好長慶(みよし-ながよし)の弟。和泉(いずみ)(大阪府)岸和田城主。淡路(あわじ)の由良(ゆら)・洲本(すもと)・岩屋など
8. ありこやまじょうあと【有子山城跡】兵庫県:出石郡/出石町/出石城下
日本歴史地名大系
(吉政の所領はのち五万五千石となる)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で吉政は父秀政(和泉国岸和田城主)とともに西軍に加わり、丹波・但馬の諸将とともに丹後国田辺
9. いずしぐん【出石郡】兵庫県
日本歴史地名大系
与えられ、播磨龍野から移って有子山城主となる。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦では吉政は父秀政(和泉岸和田城主)とともに西軍に加わるが、戦後旧領を安堵された。有
10. 和泉国
世界大百科事典
年までの間,当国は尚順に占領されるという異常事態となった。1500年8月には,守護細川元有が岸和田城に敗死している。そのころから根来寺の僧兵勢力も当国に浸透し,
11. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
後処理のため桑山重晴を岸和田城に入れ、和泉国上二郡(大鳥・和泉二郡)の代官に羽田重兵衛を置き、同下郡(南・日根二郡)の代官に井上源吾を置いた。同年七月に小出秀政
12. 和泉国絵図[文献解題]大阪府
日本歴史地名大系
字形、岸和田城を中心に描く。四郡の郡枠組や郡界の線引きはないが、郡ごとに村落の色を変えて円形に描き、村名を円形の内に、村高を外に石以下まで記す。堺の町屋は民家の
13. いずみのくにきしわだはんしゅ【和泉国岸和田藩主】 : 岡部氏/(二)
国史大辞典
丹波亀山で三万四千石を領した。その子美濃守宣勝が寛永十七年(一六四〇)、摂津国高槻城から和泉国岸和田城に転封し、六万石を領した。行隆は弟高成・豊明に七千石を分封
14. いずみはんごくしゅごけかみしゅごけ【和泉半国守護家(上守護家)】 : 細川氏/(五)
国史大辞典
その弟常有から、その子政有・孫元有へと相続した。元有は明応九年(一五〇〇)畠山尚順と戦い、分国和泉国の岸和田城で敗死したが、守護職は遺子元常が継いだ。やがて細川
15. いなばむら【稲葉村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
牛滝川が北流し、牛滝街道も村の中央を南北に縦走する。永禄年間(一五五八―七〇)三好長慶の弟十河一存は岸和田城に拠って畠山高政および根来衆らと対戦したが、その頃山
16. えぼしがたじょうあと【烏帽子形城跡】大阪府:河内長野市/喜多村地図
日本歴史地名大系
守備軍の名は明らかではないが、当時河内を制圧していた三好三人衆方であろう。天正一二年(一五八四)八月、岸和田城(現岸和田市)の中村一氏が、折から小牧の陣最中の豊
17. 大阪[府]画像
世界大百科事典
国で,和泉山脈とその前山,泉北丘陵,和泉台地,海岸低地の地形で構成される。堺,泉佐野の港町,岸和田城下町,貝塚寺内町,信達市場町(現,泉南市)が,この地方の歴史
18. おおつ【大津】大阪府:泉大津市
日本歴史地名大系
と伝える(和泉志)。「宇野主水日記」によると天正一二年(一五八四)三月一八日、紀伊国雑賀衆は岸和田城(現岸和田市)攻めのため、海・陸両路で大津辺へ出動、翌一三年
19. おかべし【岡部氏】画像
国史大辞典
丹波亀山で三万四千石を領した。その子美濃守宣勝が寛永十七年(一六四〇)、摂津国高槻城から和泉国岸和田城に転封し、六万石を領した。行隆は弟高成・豊明に七千石を分封
20. かいづかし【貝塚市】大阪府地図
日本歴史地名大系
豊臣秀長によってはじめて検地も行われた。当市域では福田村の指出帳がこの頃のものと推定される。同年七月、岸和田城(現岸和田市)城主中村一氏は移封され、小出秀政が入
21. かいづかじない【貝塚寺内】大阪府:貝塚市地図
日本歴史地名大系
た。当時、貝塚をはじめ泉南諸村は紀州根来寺の支配下にあったが一向宗徒が多数を占めていた。また岸和田城(現岸和田市)には十河一存が三好長慶の部将として在城し、根来
22. かしいがわこせんじょう【樫井川古戦場】大阪府:泉佐野市/樫井村地図
日本歴史地名大系
将とする二万余(一説では四万ともいう)は大坂城を出て住吉・堺に放火しつつ、徳川方小出吉英の守る岸和田城(現岸和田市)を兵の一部を割いて囲ませ、本隊は貝塚(現貝塚
23. かねちかむら【包近村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
では六二四石余、岸和田藩領が三九七石余、常陸土浦藩領が二二六石余。天正一五年(一五八七)以降岸和田城主小出氏の領分であったが、元和五年(一六一九)に過半の三三四
24. かもりむら【加守村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
[現]岸和田市加守町一―四丁目・宮前町 岸和田城下の北東方、野村に南西で接し、加守川左岸、紀州街道の東方に位置する。加守川は北流し、春木村との村境に至って西流し
25. きしきじんじゃ【岸城神社】大阪府:岸和田市/岸和田村地図
日本歴史地名大系
[現]岸和田市岸城町 岸和田城に東隣して鎮座。祭神は素盞嗚命・品陀別命。旧郷社。通称は「岸城さん」「ちぎりのお宮」。現社名になったのは明治維新後で、それ以前は牛
26. きしゅうかいどう【紀州街道】大阪府:総論
日本歴史地名大系
南北に縦貫する紀州街道を、堺町では大道とよぶ。堺の南橋から湊村(現堺市)に出て、宇多大津村(現泉大津市)を経て岸和田城下(現岸和田市)に達し、貝塚寺内(現貝塚市
27. きしゅうせいばつ【紀州征伐】
国史大辞典
特に小牧・長久手の戦では、織田・徳川両氏に応じて羽柴秀吉の本拠大坂を衝く形勢を示した。秀吉は和泉岸和田城に中村一氏を置き、僧徒・一揆に備えたが、同十二年織田・徳
28. 岸和田(市)画像
日本大百科全書
名所・史跡には牛滝山と修験(しゅげん)道場の霊地大威徳寺(だいいとくじ)、久米田池と久米田寺、岸和田城(千亀利(ちぎり)公園、天守閣に市立郷土資料館がある)、桃
29. 岸和田[市]
世界大百科事典
和田高家が入ったことから〈岸の和田〉と呼ばれるようになったという。室町期に岸和田荘,戦国期に岸和田城があり,1640年(寛永17)以後岡部氏の城下町として明治に
30. きしわだ【岸和田】
国史大辞典
『石清水文書』に「岸和田庄」がみえるので知られる。豊臣秀吉は天正十一年(一五八三)中村一氏を岸和田城代とし根来・雑賀衆にあたらせた。城はこれ以前二ノ丸まであった
31. きしわだし【岸和田市】大阪府地図
日本歴史地名大系
)部将中村孫平次(一氏)を岸和田城に配し、和泉の国衆寺田又右衛門らを付け、根来・雑賀の一揆に備えた。同一二年三月小牧の戦に際し、織田信雄・徳川家康は根来勢に岸和
32. 岸和田藩
世界大百科事典
和泉国(大阪府)岸和田の城に拠った藩。松平(松井)氏以後は譜代。1583年(天正11)豊臣秀吉の部将中村一氏が岸和田城主になったのに始まる。一氏が85年に近江国
33. きしわだはん【岸和田藩】
国史大辞典
和泉国(大阪府)岸和田を藩庁とした藩。譜代。城持。豊臣秀吉のとき中村一氏が岸和田城主になったのに始まり、一氏が天正十三年(一五八五)に近江水口に移封された後、
34. きしわだむら【岸和田村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
和泉平野の海辺、春木川と津田川の間に位置し、岸和田城の所在地。近世には村方・町方(岸和田城下)・浜方の三郷からなっていた。魚棚川(古城川)が村の中央を北西流し、
35. きのしまごう・きのしまのしょう【木島郷・木島庄】大阪府:貝塚市
日本歴史地名大系
焼払い帰陣したという(粉河寺旧記)。永禄元年(一五五八)、三好長慶が根来衆と泉南で戦ったとき、岸和田城から出撃した十河一存の兵が、木島谷へ侵入して同地の百姓らと
36. くろだながまさ【黒田長政】画像
国史大辞典
百五十石の領地を与えられた。同十二年小牧・長久手の戦のときには大坂にあって中村一氏らと和泉国岸和田城を守り、根来・雑賀一揆の来襲を撃退して二千石の加増を受けた。
37. けたぐん【気多郡】兵庫県:但馬国
日本歴史地名大系
のうちで五万三千二〇〇石を与えられた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦では吉政は父秀政(和泉岸和田城主)とともに西軍に加わるが、戦後旧領を安堵された。同六年段階
38. 小出氏
世界大百科事典
,姓としたという。のち,尾張国愛知郡中村に移り小出と改姓。1585年(天正13)秀政は和泉国岸和田城主となる。関ヶ原の戦ではその嫡子吉政(但馬国出石城主)と次子
39. 小出秀政
世界大百科事典
妻とし,その1字を授けられて秀政と名のったという。1582年(天正10)播磨姫路城の留守居。85年,和泉国岸和田城主(3万石)に取り立てられる。秀吉は死に際して
40. こいでひでまさ【小出秀政】画像
国史大辞典
天正十年(一五八二)播磨姫路城の留守居の筆頭。なおこの時は甚左衛門。同十三年中村一氏のあとを受けて(五月以降)岸和田城主となり三万石を領す。慶長三年(一五九八)
41. こいで-ひでまさ【小出秀政】
日本人名大辞典
天文(てんぶん)9年生まれ。豊臣秀吉につかえる。天正(てんしょう)13年(1585)和泉(いずみ)(大阪府)岸和田城主となり,3万石を領する。関ケ原の戦いで長男
42. こいでよしひで【小出吉英】
国史大辞典
同十八年三月、父の死により岸和田城に移り、和泉・但馬の内で五万石を領す。同十九年大坂冬の陣では東軍に加わり、弟吉親とともに天王寺口を攻める。翌元和元年(一六一五
43. こいでよしまさ【小出吉政】画像
国史大辞典
の命で東軍細川勝孝の丹後国田辺城を攻めたが、弟秀家が東軍に属したので戦後も所領を安堵。同九年岸和田城に移り三万石を領し、同十七年播磨守に任ぜられた。同十八年二月
44. こうざんじ【甲山寺】愛知県:岡崎市/岡崎城下/六供
日本歴史地名大系
この時前立の不動明王本像・二童子木像・十二天像が、桑名城主松平定重・松山城主松平定直・秋田城主佐竹義処・岸和田城主岡部宣就・遠州横須賀城主西尾忠就・今治城主松平
45. 近木荘
世界大百科事典
神前氏の台頭は著しく,根来寺大福院の院主として子弟を送りこみ,1562年(永禄5)畠山政高が岸和田城に三好実休,安宅冬康を攻めたときには先鋒をつとめた。85年(
46. こつみむら【木積村】大阪府:貝塚市地図
日本歴史地名大系
寄進した記録などが残る(井手家文書)。肥前守の後、松浦孫五郎が城主となり、永禄元年(一五五八)三好長慶一族で岸和田城(現岸和田市)城主十河一存が、当時紀伊根来勢
47. 雑賀一揆
日本史年表
攻撃(多聞院日記)。 1584年〈天正12 甲申〉 3・21 雑賀一揆 と 根来衆 ,堺を襲うが,岸和田城の秀吉勢に撃退される(宇野主水日記)。 1585年〈天
48. ささやまじょうあと【篠山城跡】兵庫県:篠山市/旧篠山町地区/篠山城下
日本歴史地名大系
千九五七石余、摂津国太田郡(島下郡)内一千一八六石余の都合五万二〇石と記される。同五年和泉国岸和田城に転封、上野高崎城(現群馬県高崎市)から藤井松平信吉が入封し
49. しこくせいばつ【四国征伐】
国史大辞典
それに病気になり、みずから渡海することができなくなった。そのため出兵の日を六月十六日に延期し、自分は岸和田城にあって弟秀長を将帥とし、諸将に命じて三方面から進撃
50. しゃくぜんじじょうあと【積善寺城跡】大阪府:貝塚市/橋本村地図
日本歴史地名大系
取込んだ地にあり、北西部を通る熊野街道を押える要地に位置する。永禄元年(一五五八)紀伊根来衆が岸和田城(現岸和田市)にいた三好勢に対抗する砦として、郡吉長者の持
「岸和田城」の情報だけではなく、「岸和田城」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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[現]引佐町井伊谷。井伊谷の盆地北側、標高一一四メートルの城(しろ)山の山頂とその南東方向の麓にあった居館。井伊(いい)城ともいい、井伊氏の居城。なお史料上、南北朝期にみえる井伊城は三岳(みたけ)城をさす。
三岳城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町三岳・川名。三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷(いいのや)の井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは
(日本大百科全書(ニッポニカ))
塁、堀、柵など外敵の侵入を防ぐために設けられた軍事的構築物のことをいい、さらにそれによって防衛された地域もいう。城郭という語も城と同義に用いられる。しかし火器の発達した近代に構築された軍事的防衛施設は城とよばず要塞とよばれる。最初は自然の地形を利用して防衛のためにのみ築城したが
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岸和田城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまり
平戸城(国史大辞典)
長崎県平戸市岩の上町所在。亀岡城・朝日岳城・玄武城ともいう。平山城。平戸藩主松浦氏の居城。宝永四年(一七〇七)松浦棟が築城、以後明治維新に至る。実はこれ以前、同地には慶長年間築城の日之岳城があった。しかし、これは慶長十八年(一六一三)
高山陣屋跡(日本歴史地名大系)
[現]高山市八軒町城山の西方、宮川に架かる中橋を西に渡った地点に東に向いて位置する。敷地は一千一九二坪で、陣屋門(天保三年築造)・表玄関、広間(書院造)・白洲・庭園・収納米蔵などがあり、現存する唯一の郡代陣屋跡として国指定史跡
奈良井宿(日本歴史地名大系)
[現]楢川村大字奈良井鳥居峠(一一九七メートル)の北麓に位置し、中山道の中で最高所の宿である。「西筑摩郡誌」によると「天文元年、木曾義在奈良井に専念寺を建つ。同二年、義在木曾に宿駅を定む」とあり、永禄一一年(一五六八)の相州文書にも宿駅として
韮山反射炉(日本歴史地名大系)
[現]韮山町中字鳴滝(なるたき)にある幕末に築造された反射炉。国指定史跡。一九世紀ヨーロッパにおいて高炉が発達し、銑鉄の大量生産が可能になると、銑鉄を溶融して大砲を鋳造するために反射炉が考案された。天保(一八三〇―四四)末年オランダより入った技術書
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