1. 岸和田城画像
日本大百科全書
戦国期~江戸期の城。大阪府岸和田市岸城町にある。1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉からこの地を与えられた小出秀政(こいでひでまさ)が入封し築城した。小出
2. 岸和田城[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
大阪府岸和田市 ©岸和田市
3. きしわだ‐じょう[‥ジャウ]【岸和田城】
日本国語大辞典
大阪府岸和田市にあった平城。建武元年(一三三四)楠木正成の代官、和田高家が構えたのが最初といわれる。天正一三年(一五八五)小出秀政が整備。寛永一七年(一六四〇)
4. きしわだじょう【岸和田城】
国史大辞典
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千
5. きしわだじょうあと【岸和田城跡】大阪府:岸和田市/岸和田村地図
日本歴史地名大系
泉の下半国守護職は仁木義員から細川頼長に移ったが、細川系図の頼長の項に岸和田城主とあるので、当時の和泉下方守護所は岸和田城であったと思われる。その後細川氏に代わ
6. あかしもととも【明石元知】
国史大辞典
加増。同十一年二月から三月にかけて秀吉の柴田勝家攻撃に参陣。同十二年三月紀伊根来・雑賀一揆の和泉岸和田城攻撃に際し、城主中村一氏を救援。同年三月小牧の戦の秀吉陣
7. あたぎ-ふゆやす【安宅冬康】
日本人名大辞典
歌人。享禄(きょうろく)元年生まれ。三好長慶(みよし-ながよし)の弟。和泉(いずみ)(大阪府)岸和田城主。淡路(あわじ)の由良(ゆら)・洲本(すもと)・岩屋など
8. ありこやまじょうあと【有子山城跡】兵庫県:出石郡/出石町/出石城下
日本歴史地名大系
(吉政の所領はのち五万五千石となる)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で吉政は父秀政(和泉国岸和田城主)とともに西軍に加わり、丹波・但馬の諸将とともに丹後国田辺
9. いずしぐん【出石郡】兵庫県
日本歴史地名大系
与えられ、播磨龍野から移って有子山城主となる。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦では吉政は父秀政(和泉岸和田城主)とともに西軍に加わるが、戦後旧領を安堵された。有
10. 和泉国
世界大百科事典
年までの間,当国は尚順に占領されるという異常事態となった。1500年8月には,守護細川元有が岸和田城に敗死している。そのころから根来寺の僧兵勢力も当国に浸透し,
11. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
後処理のため桑山重晴を岸和田城に入れ、和泉国上二郡(大鳥・和泉二郡)の代官に羽田重兵衛を置き、同下郡(南・日根二郡)の代官に井上源吾を置いた。同年七月に小出秀政
12. 和泉国絵図[文献解題]大阪府
日本歴史地名大系
字形、岸和田城を中心に描く。四郡の郡枠組や郡界の線引きはないが、郡ごとに村落の色を変えて円形に描き、村名を円形の内に、村高を外に石以下まで記す。堺の町屋は民家の
13. いずみのくにきしわだはんしゅ【和泉国岸和田藩主】 : 岡部氏/(二)
国史大辞典
丹波亀山で三万四千石を領した。その子美濃守宣勝が寛永十七年(一六四〇)、摂津国高槻城から和泉国岸和田城に転封し、六万石を領した。行隆は弟高成・豊明に七千石を分封
14. いずみはんごくしゅごけかみしゅごけ【和泉半国守護家(上守護家)】 : 細川氏/(五)
国史大辞典
その弟常有から、その子政有・孫元有へと相続した。元有は明応九年(一五〇〇)畠山尚順と戦い、分国和泉国の岸和田城で敗死したが、守護職は遺子元常が継いだ。やがて細川
15. いなばむら【稲葉村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
牛滝川が北流し、牛滝街道も村の中央を南北に縦走する。永禄年間(一五五八―七〇)三好長慶の弟十河一存は岸和田城に拠って畠山高政および根来衆らと対戦したが、その頃山
16. えぼしがたじょうあと【烏帽子形城跡】大阪府:河内長野市/喜多村地図
日本歴史地名大系
守備軍の名は明らかではないが、当時河内を制圧していた三好三人衆方であろう。天正一二年(一五八四)八月、岸和田城(現岸和田市)の中村一氏が、折から小牧の陣最中の豊
17. 大阪[府]画像
世界大百科事典
国で,和泉山脈とその前山,泉北丘陵,和泉台地,海岸低地の地形で構成される。堺,泉佐野の港町,岸和田城下町,貝塚寺内町,信達市場町(現,泉南市)が,この地方の歴史
18. おおつ【大津】大阪府:泉大津市
日本歴史地名大系
と伝える(和泉志)。「宇野主水日記」によると天正一二年(一五八四)三月一八日、紀伊国雑賀衆は岸和田城(現岸和田市)攻めのため、海・陸両路で大津辺へ出動、翌一三年
19. おかべし【岡部氏】画像
国史大辞典
丹波亀山で三万四千石を領した。その子美濃守宣勝が寛永十七年(一六四〇)、摂津国高槻城から和泉国岸和田城に転封し、六万石を領した。行隆は弟高成・豊明に七千石を分封
20. かいづかし【貝塚市】大阪府地図
日本歴史地名大系
豊臣秀長によってはじめて検地も行われた。当市域では福田村の指出帳がこの頃のものと推定される。同年七月、岸和田城(現岸和田市)城主中村一氏は移封され、小出秀政が入
21. かいづかじない【貝塚寺内】大阪府:貝塚市地図
日本歴史地名大系
た。当時、貝塚をはじめ泉南諸村は紀州根来寺の支配下にあったが一向宗徒が多数を占めていた。また岸和田城(現岸和田市)には十河一存が三好長慶の部将として在城し、根来
22. かしいがわこせんじょう【樫井川古戦場】大阪府:泉佐野市/樫井村地図
日本歴史地名大系
将とする二万余(一説では四万ともいう)は大坂城を出て住吉・堺に放火しつつ、徳川方小出吉英の守る岸和田城(現岸和田市)を兵の一部を割いて囲ませ、本隊は貝塚(現貝塚
23. かねちかむら【包近村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
では六二四石余、岸和田藩領が三九七石余、常陸土浦藩領が二二六石余。天正一五年(一五八七)以降岸和田城主小出氏の領分であったが、元和五年(一六一九)に過半の三三四
24. かもりむら【加守村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
[現]岸和田市加守町一―四丁目・宮前町 岸和田城下の北東方、野村に南西で接し、加守川左岸、紀州街道の東方に位置する。加守川は北流し、春木村との村境に至って西流し
25. きしきじんじゃ【岸城神社】大阪府:岸和田市/岸和田村地図
日本歴史地名大系
[現]岸和田市岸城町 岸和田城に東隣して鎮座。祭神は素盞嗚命・品陀別命。旧郷社。通称は「岸城さん」「ちぎりのお宮」。現社名になったのは明治維新後で、それ以前は牛
26. きしゅうかいどう【紀州街道】大阪府:総論
日本歴史地名大系
南北に縦貫する紀州街道を、堺町では大道とよぶ。堺の南橋から湊村(現堺市)に出て、宇多大津村(現泉大津市)を経て岸和田城下(現岸和田市)に達し、貝塚寺内(現貝塚市
27. きしゅうせいばつ【紀州征伐】
国史大辞典
特に小牧・長久手の戦では、織田・徳川両氏に応じて羽柴秀吉の本拠大坂を衝く形勢を示した。秀吉は和泉岸和田城に中村一氏を置き、僧徒・一揆に備えたが、同十二年織田・徳
28. 岸和田(市)画像
日本大百科全書
名所・史跡には牛滝山と修験(しゅげん)道場の霊地大威徳寺(だいいとくじ)、久米田池と久米田寺、岸和田城(千亀利(ちぎり)公園、天守閣に市立郷土資料館がある)、桃
29. 岸和田[市]
世界大百科事典
和田高家が入ったことから〈岸の和田〉と呼ばれるようになったという。室町期に岸和田荘,戦国期に岸和田城があり,1640年(寛永17)以後岡部氏の城下町として明治に
30. きしわだ【岸和田】
国史大辞典
『石清水文書』に「岸和田庄」がみえるので知られる。豊臣秀吉は天正十一年(一五八三)中村一氏を岸和田城代とし根来・雑賀衆にあたらせた。城はこれ以前二ノ丸まであった
31. きしわだし【岸和田市】大阪府地図
日本歴史地名大系
)部将中村孫平次(一氏)を岸和田城に配し、和泉の国衆寺田又右衛門らを付け、根来・雑賀の一揆に備えた。同一二年三月小牧の戦に際し、織田信雄・徳川家康は根来勢に岸和
32. 岸和田藩
世界大百科事典
和泉国(大阪府)岸和田の城に拠った藩。松平(松井)氏以後は譜代。1583年(天正11)豊臣秀吉の部将中村一氏が岸和田城主になったのに始まる。一氏が85年に近江国
33. きしわだはん【岸和田藩】
国史大辞典
和泉国(大阪府)岸和田を藩庁とした藩。譜代。城持。豊臣秀吉のとき中村一氏が岸和田城主になったのに始まり、一氏が天正十三年(一五八五)に近江水口に移封された後、
34. きしわだむら【岸和田村】大阪府:岸和田市地図
日本歴史地名大系
和泉平野の海辺、春木川と津田川の間に位置し、岸和田城の所在地。近世には村方・町方(岸和田城下)・浜方の三郷からなっていた。魚棚川(古城川)が村の中央を北西流し、
35. きのしまごう・きのしまのしょう【木島郷・木島庄】大阪府:貝塚市
日本歴史地名大系
焼払い帰陣したという(粉河寺旧記)。永禄元年(一五五八)、三好長慶が根来衆と泉南で戦ったとき、岸和田城から出撃した十河一存の兵が、木島谷へ侵入して同地の百姓らと
36. くろだながまさ【黒田長政】画像
国史大辞典
百五十石の領地を与えられた。同十二年小牧・長久手の戦のときには大坂にあって中村一氏らと和泉国岸和田城を守り、根来・雑賀一揆の来襲を撃退して二千石の加増を受けた。
37. けたぐん【気多郡】兵庫県:但馬国
日本歴史地名大系
のうちで五万三千二〇〇石を与えられた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦では吉政は父秀政(和泉岸和田城主)とともに西軍に加わるが、戦後旧領を安堵された。同六年段階
38. 小出氏
世界大百科事典
,姓としたという。のち,尾張国愛知郡中村に移り小出と改姓。1585年(天正13)秀政は和泉国岸和田城主となる。関ヶ原の戦ではその嫡子吉政(但馬国出石城主)と次子
39. 小出秀政
世界大百科事典
妻とし,その1字を授けられて秀政と名のったという。1582年(天正10)播磨姫路城の留守居。85年,和泉国岸和田城主(3万石)に取り立てられる。秀吉は死に際して
40. こいでひでまさ【小出秀政】画像
国史大辞典
天正十年(一五八二)播磨姫路城の留守居の筆頭。なおこの時は甚左衛門。同十三年中村一氏のあとを受けて(五月以降)岸和田城主となり三万石を領す。慶長三年(一五九八)
41. こいで-ひでまさ【小出秀政】
日本人名大辞典
天文(てんぶん)9年生まれ。豊臣秀吉につかえる。天正(てんしょう)13年(1585)和泉(いずみ)(大阪府)岸和田城主となり,3万石を領する。関ケ原の戦いで長男
42. こいでよしひで【小出吉英】
国史大辞典
同十八年三月、父の死により岸和田城に移り、和泉・但馬の内で五万石を領す。同十九年大坂冬の陣では東軍に加わり、弟吉親とともに天王寺口を攻める。翌元和元年(一六一五
43. こいでよしまさ【小出吉政】画像
国史大辞典
の命で東軍細川勝孝の丹後国田辺城を攻めたが、弟秀家が東軍に属したので戦後も所領を安堵。同九年岸和田城に移り三万石を領し、同十七年播磨守に任ぜられた。同十八年二月
44. こうざんじ【甲山寺】愛知県:岡崎市/岡崎城下/六供
日本歴史地名大系
この時前立の不動明王本像・二童子木像・十二天像が、桑名城主松平定重・松山城主松平定直・秋田城主佐竹義処・岸和田城主岡部宣就・遠州横須賀城主西尾忠就・今治城主松平
45. 近木荘
世界大百科事典
神前氏の台頭は著しく,根来寺大福院の院主として子弟を送りこみ,1562年(永禄5)畠山政高が岸和田城に三好実休,安宅冬康を攻めたときには先鋒をつとめた。85年(
46. こつみむら【木積村】大阪府:貝塚市地図
日本歴史地名大系
寄進した記録などが残る(井手家文書)。肥前守の後、松浦孫五郎が城主となり、永禄元年(一五五八)三好長慶一族で岸和田城(現岸和田市)城主十河一存が、当時紀伊根来勢
47. 雑賀一揆
日本史年表
攻撃(多聞院日記)。 1584年〈天正12 甲申〉 3・21 雑賀一揆 と 根来衆 ,堺を襲うが,岸和田城の秀吉勢に撃退される(宇野主水日記)。 1585年〈天
48. ささやまじょうあと【篠山城跡】兵庫県:篠山市/旧篠山町地区/篠山城下
日本歴史地名大系
千九五七石余、摂津国太田郡(島下郡)内一千一八六石余の都合五万二〇石と記される。同五年和泉国岸和田城に転封、上野高崎城(現群馬県高崎市)から藤井松平信吉が入封し
49. しこくせいばつ【四国征伐】
国史大辞典
それに病気になり、みずから渡海することができなくなった。そのため出兵の日を六月十六日に延期し、自分は岸和田城にあって弟秀長を将帥とし、諸将に命じて三方面から進撃
50. しゃくぜんじじょうあと【積善寺城跡】大阪府:貝塚市/橋本村地図
日本歴史地名大系
取込んだ地にあり、北西部を通る熊野街道を押える要地に位置する。永禄元年(一五五八)紀伊根来衆が岸和田城(現岸和田市)にいた三好勢に対抗する砦として、郡吉長者の持