[現]松山市丸之内
加藤嘉明が慶長七年(一六〇二)正月に築城の工を起こし、蒲生氏を経て、寛永一二年(一六三五)松平定行の入城以来明治維新まで、松山藩主松平氏の居城であった。重要文化財。
慶長六年に、加藤嘉明は徳川家康に対して
翌七年正月一五日の吉日を卜して、勝山築城の工を起こした。普請奉行となってその局に当たったのは、足立半右衛門重信であった。まず本丸・二の丸・堀之内(三の丸を含む)の位置が決定され、石塁の構築に全力が集中された。この時使用された石材は、付近の山地から積み出されたものも少なくなかったであろうが、すでに廃城となっていた
次に城郭の構造をみると山上(一三一・一メートル)に天守閣を中心とする本丸、西部の山麓に二の丸、さらにその西方に堀之内があり、二の丸の一部および堀之内に堀をめぐらした。北の山麓には出丸として
甲 | 本丸分 | 壱町六畝拾九歩 | |
内 | 参百七拾九坪四合五勺 | 建物坪 | |
五拾弐坪 | 火薬庫 | ||
乙 | 二の丸 | 壱町六反参畝拾歩 | |
内 | 百九拾六坪 | 建物坪 | |
丙 | 山林 | 拾町弐反拾八歩 | |
丁 | 三の丸 | 九町八反六畝拾八歩 | |
内 | 五坪 | 火薬庫 | |
戊 | 北郭 | 五坪 | 火薬庫 |
四百四拾坪五合 | 建物坪 | ||
合計 | 弐拾参町四反壱畝拾五歩 |
となっていて(明治五年五月愛媛県報告書)、これに東ノ郭の面積二町六段一畝一歩(東雲学園記録)を加えると、総面積二六町二畝一六歩となる。
天守閣・小天守閣などを含む本丸の中心となる重要な部分を本壇という。本壇の広さは「東西三十六間、南北三十間二尺」(松山秘録)となっている。
天守閣は嘉明の創建当時は五層であったが、松平定行によって寛永一六年七月に幕府の許可を得て三層に改築された。ところが天明四年(一七八四)元旦に天守閣に落雷があり、火災のために本丸の主要部分を焼失した。その後、歴代藩主は城郭の復興に腐心したが、容易に実現しなかった。焼失後七〇年を経過して、苦心と経営によって嘉永五年(一八五二)一二月に城郭の復旧工事はようやく落成した。この時、本壇などは旧石塁の上に新たに構築されたから、その工事はきわめて大規模であったに相違ない。松山城は江戸時代の古城郭のなかで最も新しいものであるが、再建に当たって当事者は創建当時の構造を忠実に復元している。
天守閣は三層地下一階付であって、地下は俗に米蔵といい、内部の柱および梁には抗腐力のある樟の巨材を用いている。一階と二階には、中ノ間とその周囲に武者走がある。外側の窓は角格子の塗籠となっている。三階には床の間が設けられ、棹縁天井である。窓は四方に開き、回縁および手摺がめぐらされている。外部からみると、軒および破風がすべて直線であるのは、安政期(一八五四―六〇)の再建によるのであろうか。一、二階の屋根に円形の千鳥破風が重ねて置かれている形式は熊本城にもみられる古い様式である。一、二階の外部が下見板張りとなっているのも、慶長時代の面影を伝えたものであろう。ただ天守閣の基盤となる石垣がまったく新しい積み方であるのは、天明期の火災によって再使用に堪えられなかったのによると思われる。
天守閣の西方に内門櫓を経て玄関多聞・北隅櫓があり、この方面を防衛する重要な建造物である。北隅櫓は重層・入母屋造で
次に本壇に対する
さらに進むと太鼓門・同続櫓・太鼓櫓(重層隅櫓)跡および
搦手の防衛についてみると、まず乾一ノ門(跡)があり、その内側に乾櫓が厳然として存在する。乾櫓は重層・入母屋造の隅櫓であって、正木から移築されたと伝えられる。これに接して乾門および同東続櫓(跡)があった。さらに本壇に向かって進むと左方に重層屋根本瓦葺の野原(騎馬)櫓がある。この櫓は乾櫓とともに築城当時のもので、豪放な面影を伝えている。右方に紫竹門および続塀があり、これを入ると本壇の入口に通ずる。この門・塀によって、大手と搦手とが仕切られる。
勝山の南山麓にある二の丸邸を中心とした地帯をいい、東は本丸の大手門(跡)から下方の平坦部に向かって石塁を構築して二の丸邸(跡)に達し、さらにその南方を回って北折して
二の丸邸の東南隅には巽櫓(跡)があり、南側に南隅櫓(跡)と西南隅櫓(跡)があり、渡廊下で連結されていた。さらに西南隅櫓から槻門続櫓(跡)の間にも渡塀があり、その下には内堀がめぐらされていた。黒門の入口の左側に石塁を高く築いて、ここに大砲台(跡)が設けられていた。門を入ると
二の丸邸は初め加藤嘉明によって築かれ、蒲生忠知が居住し、松平氏も初めここにいたが、貞享四年(一六八七)九月に三の丸邸の新築が完成したので、そこに移った。その後、二の丸は世子の住宅として使用された。二の丸邸の北側には、高い石塁が構築されていて、弓櫓(跡)・小谷門(跡)および三個の仕切門(跡)と倉庫・武器庫などが置かれていた。二の丸の地域内における櫓門などの建造物はすべて取り払われ、石塁が昔の面影を伝えているにすぎない。
勝山の麓の南西部を占め、平坦地に構築され、東は黒門によって二の丸に通ずる。その南方から土塁ならびに堀がつくられ、折れ曲って西方に延び、さらに西北端で折れて北上し、再び山麓に達する。これらの土塁・堀に囲まれた地域をひろく堀之内とよび、その規模は「松府秘記」によると「堀之内東西三町四十七間、南北四町十七間二尺、外堀折廻し十三町十二間、幅二十間、濠の深七尺」と記されている。この地域には、六〇余人の上級家臣が居住し、外部との出入口は東ノ門と北ノ門との二ヵ所に限定されていた。松平定直の時、北部に位置する三の丸邸が落成し、さらに元禄七年(一六九四)一二月に東山麓に西の丸邸が完工した。その南方に接して勘定所・会所・小普請所・米蔵などが設置された。堀の幅は西堀端・南堀端で二〇間、北側で一八間半であった(文久四年の松山城図)が、明治末および昭和初期における電車線路の敷設・道路の拡幅のために埋め立てられて縮小している。
勝山の西北麓に構築された出城であって、周囲は北・西・東方を高さ四間の石垣で囲まれていた。その規模については「松府秘記」のなかに「東西七十九間一尺、南北十八間乃至三十二間半、面積六段四畝歩」と記されている。その中央部に
加藤嘉明は信頼の厚かった佃十成に命じてこの郭に居住させたので、一般に
勝山の東麓(現大街道三丁目)に構築された出城であって、その規模は北ノ郭よりやや大きく、その面積は二町六段一畝一歩となっている(東雲高等学校沿革史)。まず正面の出入口に城門があり、その左右に八メートル余の石塁が造営され、その上に東隅櫓・中櫓・西隅櫓(ともに重層)が建てられていた。これらの城櫓は渡廊下で連結され、防備線を形成していた。
加藤嘉明の時代には河村権七が、蒲生忠知の治世には本山豊前が居住した。松平氏になってから初め家老の奥平氏、のちに同役の水野氏の邸となった。明治時代に入って県立松山病院となったが、大正初期に私立松山女学校(現東雲学園)が設置され、現在に至っている。
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