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松山城

ジャパンナレッジで閲覧できる『松山城』の国史大辞典・日本歴史地名大系のサンプルページ

国史大辞典
松山城
まつやまじょう

(一)

松山市丸之内および堀之内に中心部のある城。平山城。松山平野の中央に位置する勝山(標高一三二メートル)は室町時代ごろまでは味酒山と呼ばれた。南北朝時代に伊予の南朝方が、北朝方で湯築城を居城としていた河野氏を攻略するに際して、この山に築城し湯並城・奈古居城などと連絡していたことが記録にみえる。その後戦国時代までは当地は湯築城の前衛拠点として出城が置かれていた。関ヶ原の戦の後、東軍に属して功を認められた豊臣秀吉の旧臣加藤嘉明は伊予二十万石を与えられ、それまでの居城である伊予正木城を廃して勝山城跡に新たに築城することとした。嘉明は築城にあたってまず勝山南麓を流れる湯山川(現在は石手川)の大改修を行い、この方面を城下町とする基礎をつくった。そして慶長七年(一六〇二)に築城を始め、勝山山頂に本丸を置き、天守・小天守をはじめとする主要な建物を配した。筒井門と乾櫓は正木城から移した。南西麓に二ノ丸、その南西に三ノ丸を設け、さらにその外側を城下町とした。城下町建設にあたっては正木城下から町ぐるみの移転を行なったところもあるといわれる。城下北部には寺町を置いた。慶長八年には嘉明は新城に移り、この時地名を松山に改めた。加藤氏の後、城主は蒲生氏が継ぎ、寛永十二年(一六三五)以後は松平氏が在城し明治維新に至っている。なおはじめ五重六階であった天守は松平氏時代に三重四階に改められ、また天明四年(一七八四)に落雷のため焼失し、嘉永五年(一八五二)に再興した。小天守は昭和八年(一九三三)に焼失し、同四十三年に再建された。現在は本丸の建物・石垣、二ノ丸石垣、三ノ丸堀が遺存する。中でも二ノ丸から山腹を縫って本丸大手門付近に至る石垣は他に類例がない。天守はじめ建物十四棟、塀七基が重要文化財に、三ノ丸堀以内は国の史跡に指定されている。
[参考文献]
『加藤家譜』(水口加藤家蔵)、「松山城」編集委員会編『松山城』、村上節太郎「重信の計画した松山城下町の変容」(『伊予史談』二一六)
(石丸 煕)

(二)

岡山県高梁(たかはし)市内山下(うちさんげ)の臥牛(がぎゅう)山にある城。高梁城ともいう。典型的な山城。承久の乱(承久三年(一二二一))の軍功で備中有漢郷の地頭に任じられた秋庭重信が仁治元年(一二四〇)に大松山に築城したのがはじまりである。秋庭氏四代ののち、備中守護職の高橋宗康がさらに小松山に城域を拡張、文和四年(一三五五)ごろには北朝方の武将高師秀が在城したが、南朝方についた山名時氏の手に落ちた。その後再び秋庭氏を経て、戦国時代には備中守護代上野氏、在地領主の荘氏、三村氏、そして毛利氏配下の天野・桂両氏と城主は変転をきわめた。その後、天正十年(一五八二)には豊臣秀吉によって織田氏の支配下に置かれたが、天正十二年には再び毛利氏の掌握するところとなった。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で毛利氏敗北ののちは小堀・池田・水谷・安藤・石川・板倉の各氏が居城、水谷氏が天和元年(一六八一)より同三年にかけて連郭式の近世的な城郭を小松山に改築、同時に山下に根小屋の整備を行なった。本丸・二ノ丸・三ノ丸その他の諸曲輪の石垣、二重櫓、三の平櫓東土塀などが残る。平城にみられる桝形や、馬走り・武者走りの類がなく、場所によっては土塀の代りに木柵が用いられている点など、随所に中世的山城の面影がうかがわれる。二重櫓は昭和三年(一九二八)・同三十四年に修覆。天守、二重櫓、三の平櫓東土塀は重要文化財、城跡は史跡に指定されている。
[参考文献]
『高梁市史』、『岡山県史』六
(上原 兼善)

(三)

山形県飽海(あくみ)郡松山町松嶺(まつみね)にあった。松嶺城ともいう。標高二五メートルの平地に築かれた連郭式の平城。松山藩は正保四年(一六四七)庄内藩酒井氏の支藩として成立したが、はじめ無城。その後安永八年(一七七九)三代酒井忠休が加増されて二万五千石となり、天明元年(一七八一)築城が許され、同八年にかけて本丸・二ノ丸・三ノ丸が完成した。三ノ丸の広さは二万九百四十七坪。一度焼失した大手門が寛政四年(一七九二)酒田の豪商本間家の寄進により再建され現存する。
[参考文献]
『松山町史』上
(横山 昭男)


日本歴史地名大系
松山城
まつやまじよう

[現]松山市丸之内

加藤嘉明が慶長七年(一六〇二)正月に築城の工を起こし、蒲生氏を経て、寛永一二年(一六三五)松平定行の入城以来明治維新まで、松山藩主松平氏の居城であった。重要文化財。

慶長六年に、加藤嘉明は徳川家康に対してかつ山に築城する旨を請願して、許可を受けた(内山家記、近江水口加藤家譜)。嘉明は本丸の位置について、あま山と御幸寺みきじ山とかつ山の三ヵ所を候補地として申請したところ、勝山が許可されたとの説話がある(松山俚人談)。この伝承は広く世に知られているが、これは伝説であって歴史上の根拠は発見されない。また勝山は南北の二峰あるいは三峰に分れていたが、築城に際して谷の部分を埋めたとの伝説がある。谷にあたるいまの郷土芸術館付近を小谷おたにと称したこと、またこの地にかつて小谷山雲祥寺があったことから想像すると、その埋立工事の規模の大小は別問題としても、この説話は信用してよいであろう。

翌七年正月一五日の吉日を卜して、勝山築城の工を起こした。普請奉行となってその局に当たったのは、足立半右衛門重信であった。まず本丸・二の丸・堀之内(三の丸を含む)の位置が決定され、石塁の構築に全力が集中された。この時使用された石材は、付近の山地から積み出されたものも少なくなかったであろうが、すでに廃城となっていた湯築ゆづき城および伊予郡正木まさき(松前)城から運搬されたものも多かった。

次に城郭の構造をみると山上(一三一・一メートル)に天守閣を中心とする本丸、西部の山麓に二の丸、さらにその西方に堀之内があり、二の丸の一部および堀之内に堀をめぐらした。北の山麓には出丸としてきたくるわを、東の山麓に東ノ郭を築いて防備にあてた。したがって、平山城の形態をもち、わが国の城郭のなかでも典型的なものといわれる。その広さは、

本丸分壱町六畝拾九歩
参百七拾九坪四合五勺建物坪
五拾弐坪火薬庫
二の丸壱町六反参畝拾歩
百九拾六坪建物坪
山林拾町弐反拾八歩
三の丸九町八反六畝拾八歩
五坪火薬庫
北郭五坪火薬庫
四百四拾坪五合建物坪
合計 弐拾参町四反壱畝拾五歩

となっていて(明治五年五月愛媛県報告書)、これに東ノ郭の面積二町六段一畝一歩(東雲学園記録)を加えると、総面積二六町二畝一六歩となる。

〔本丸〕

天守閣・小天守閣などを含む本丸の中心となる重要な部分を本壇という。本壇の広さは「東西三十六間、南北三十間二尺」(松山秘録)となっている。

天守閣は嘉明の創建当時は五層であったが、松平定行によって寛永一六年七月に幕府の許可を得て三層に改築された。ところが天明四年(一七八四)元旦に天守閣に落雷があり、火災のために本丸の主要部分を焼失した。その後、歴代藩主は城郭の復興に腐心したが、容易に実現しなかった。焼失後七〇年を経過して、苦心と経営によって嘉永五年(一八五二)一二月に城郭の復旧工事はようやく落成した。この時、本壇などは旧石塁の上に新たに構築されたから、その工事はきわめて大規模であったに相違ない。松山城は江戸時代の古城郭のなかで最も新しいものであるが、再建に当たって当事者は創建当時の構造を忠実に復元している。

天守閣は三層地下一階付であって、地下は俗に米蔵といい、内部の柱および梁には抗腐力のある樟の巨材を用いている。一階と二階には、中ノ間とその周囲に武者走がある。外側の窓は角格子の塗籠となっている。三階には床の間が設けられ、棹縁天井である。窓は四方に開き、回縁および手摺がめぐらされている。外部からみると、軒および破風がすべて直線であるのは、安政期(一八五四―六〇)の再建によるのであろうか。一、二階の屋根に円形の千鳥破風が重ねて置かれている形式は熊本城にもみられる古い様式である。一、二階の外部が下見板張りとなっているのも、慶長時代の面影を伝えたものであろう。ただ天守閣の基盤となる石垣がまったく新しい積み方であるのは、天明期の火災によって再使用に堪えられなかったのによると思われる。

天守閣の西方に内門櫓を経て玄関多聞・北隅櫓があり、この方面を防衛する重要な建造物である。北隅櫓は重層・入母屋造でいぬい門および北ノ郭方面の防備に当たる。北隅櫓から南へ十間廊下を通ると南隅櫓がある。南隅櫓の東に多聞櫓があり、そこを通って小天守閣に連結する。小天守閣は初め着見つきみ櫓といい、城郭に着到する人数を点検することから名付けられたといわれる。小天守閣は重層・入母屋造で、天守閣に次ぐ重要な建造物で、追手方面の防衛に当たった。天守閣から北隅櫓―南隅櫓―小天守閣へと相通じ、さらに筋鉄すじがね門によって天守閣に連絡しているので、一巡することができる。このように二基以上の天守閣が並立していて、それらが城櫓によって連結し、そのなかに中庭がある。この様式を連立式城郭といい、松山城はその典型的な一例である。

次に本壇に対する大手おおての防備についてながめてみよう。まず大手の入口にあたる揚木戸あげきど(跡)があり、次に待合番所(跡)があり、さらに大手門(跡)があった。大手門は二の丸・堀之内に通ずる重要な通路であった。この仕切しきりを登って行くと、戸無となし門・筒井つつい門・かくれ門があり、本丸大手の正門にあたる要害堅固な場所である。戸無門は一門一戸高麗門、屋根本瓦葺で、戸がないため戸無門とよばれている。筒井門は正木(松前)城より移築されたもので、城郭のうち最古の建造物であった。

さらに進むと太鼓門・同続櫓・太鼓櫓(重層隅櫓)跡およびたつみ(重層隅櫓)跡の前に出る。これらの櫓門は一直線に構築され、重要な防衛線を形成する。太鼓門を入ると広場となり、そこに馬具櫓(重層屋根本瓦葺)およびうしとら(跡)・艮門(跡)があり、本壇に接する仕組となっていた。

搦手の防衛についてみると、まず乾一ノ門(跡)があり、その内側に乾櫓が厳然として存在する。乾櫓は重層・入母屋造の隅櫓であって、正木から移築されたと伝えられる。これに接して乾門および同東続櫓(跡)があった。さらに本壇に向かって進むと左方に重層屋根本瓦葺の野原(騎馬)櫓がある。この櫓は乾櫓とともに築城当時のもので、豪放な面影を伝えている。右方に紫竹門および続塀があり、これを入ると本壇の入口に通ずる。この門・塀によって、大手と搦手とが仕切られる。

〔二の丸〕

勝山の南山麓にある二の丸邸を中心とした地帯をいい、東は本丸の大手門(跡)から下方の平坦部に向かって石塁を構築して二の丸邸(跡)に達し、さらにその南方を回って北折してけやき(跡)・黒門(跡)に至っている。また北は本丸の乾門から山麓へ下り、鉄砲櫓(跡)から一直線に槻門に達する。なお黒門は堀之内に通ずる重要な地点にあたる。

二の丸邸の東南隅には巽櫓(跡)があり、南側に南隅櫓(跡)と西南隅櫓(跡)があり、渡廊下で連結されていた。さらに西南隅櫓から槻門続櫓(跡)の間にも渡塀があり、その下には内堀がめぐらされていた。黒門の入口の左側に石塁を高く築いて、ここに大砲台(跡)が設けられていた。門を入るとつがの(跡)があり、黒門との間は長方形を形成し、枡形となっていた。その奥に槻門があり、その北側にも大砲台が置かれていた。

二の丸邸は初め加藤嘉明によって築かれ、蒲生忠知が居住し、松平氏も初めここにいたが、貞享四年(一六八七)九月に三の丸邸の新築が完成したので、そこに移った。その後、二の丸は世子の住宅として使用された。二の丸邸の北側には、高い石塁が構築されていて、弓櫓(跡)・小谷門(跡)および三個の仕切門(跡)と倉庫・武器庫などが置かれていた。二の丸の地域内における櫓門などの建造物はすべて取り払われ、石塁が昔の面影を伝えているにすぎない。

〔堀之内・三の丸〕

勝山の麓の南西部を占め、平坦地に構築され、東は黒門によって二の丸に通ずる。その南方から土塁ならびに堀がつくられ、折れ曲って西方に延び、さらに西北端で折れて北上し、再び山麓に達する。これらの土塁・堀に囲まれた地域をひろく堀之内とよび、その規模は「松府秘記」によると「堀之内東西三町四十七間、南北四町十七間二尺、外堀折廻し十三町十二間、幅二十間、濠の深七尺」と記されている。この地域には、六〇余人の上級家臣が居住し、外部との出入口は東ノ門と北ノ門との二ヵ所に限定されていた。松平定直の時、北部に位置する三の丸邸が落成し、さらに元禄七年(一六九四)一二月に東山麓に西の丸邸が完工した。その南方に接して勘定所・会所・小普請所・米蔵などが設置された。堀の幅は西堀端・南堀端で二〇間、北側で一八間半であった(文久四年の松山城図)が、明治末および昭和初期における電車線路の敷設・道路の拡幅のために埋め立てられて縮小している。

〔北ノ郭〕

勝山の西北麓に構築された出城であって、周囲は北・西・東方を高さ四間の石垣で囲まれていた。その規模については「松府秘記」のなかに「東西七十九間一尺、南北十八間乃至三十二間半、面積六段四畝歩」と記されている。その中央部に火除ひよけ(三層の櫓門)があり、その西方に西中櫓・西隅櫓(ともに重層)があった。また東方には東隅櫓があり、これらはすべて渡廊下で連続されていた。

加藤嘉明は信頼の厚かった佃十成に命じてこの郭に居住させたので、一般につくだ郭とよんだ。蒲生忠知は重臣蒲生源左衛門に住まわせたので、この当時は源左げんざ郭とよばれていた。松平氏の代となり、藩主の一族の松平定之・同定澄らの邸宅となったが、彼らが江戸に居住したので留守番のいる番郭となった。明治期に入って獄舎に使用されたことがあった。大正時代に建造物を取り除き、小学校が設置されたが、今は石垣も取り払われ住宅地となっている。

〔東ノ郭〕

勝山の東麓(現大街道三丁目)に構築された出城であって、その規模は北ノ郭よりやや大きく、その面積は二町六段一畝一歩となっている(東雲高等学校沿革史)。まず正面の出入口に城門があり、その左右に八メートル余の石塁が造営され、その上に東隅櫓・中櫓・西隅櫓(ともに重層)が建てられていた。これらの城櫓は渡廊下で連結され、防備線を形成していた。

加藤嘉明の時代には河村権七が、蒲生忠知の治世には本山豊前が居住した。松平氏になってから初め家老の奥平氏、のちに同役の水野氏の邸となった。明治時代に入って県立松山病院となったが、大正初期に私立松山女学校(現東雲学園)が設置され、現在に至っている。

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国史大辞典
この年勅使公卿の御馳走役を勤めた。元禄六年(一六九三)水谷勝美の末期養子の急逝による改易の際、その居城備中国松山城を守り、同七年弟長広に私墾田三千石を分与した。 ...
40. あすかむら【飛鳥村】山形県:飽海郡/平田町
日本歴史地名大系
水行の困難なときは馬で坂本から与蔵峠を越える道(与蔵越)を使ったと思われる。近世には酒田から松山城下を通り清川(現東田川郡立川町)に至る最上街道が当村を通り、村 ...
41. あだちしげのぶ【足立重信】
国史大辞典
このように彼は草創期の松山藩の土木行政に、卓越した手腕をふるった。同二年(一六二五)十一月十七日松山城下にて没。山越来迎寺に葬る。 [参考文献]西園寺源透編『足 ...
42. あだち-しげのぶ【足立重信】
日本人名大辞典
,嘉明の転封(てんぽう)により伊予(いよ)松山藩の家老となる。伊予川(のちの重信川)大改修や松山城の築造につくした。寛永2年11月17日死去。66歳?美濃(みの ...
43. あだちしげのぶのはか【足立重信墓】愛媛県:松山市/北西海岸地域(旧和気郡地区)/山越村/来迎寺
日本歴史地名大系
明による松山城下建設に当たっては、普請奉行となり、湯山川(のちの石手川)の付替、松山城の本丸(五層の天守閣をはじめ二七の楼櫓)の造営に当たった。寛永二年一一月に ...
44. あべむら【阿部村】岡山県:高梁市
日本歴史地名大系
成羽八幡宮(現川上郡成羽町)神職渡辺氏(三村家親家臣)の八幡旧記(渡辺文書)に、天正一三年三月のこととして、松山城下の市場に夜討に来た「阿部牢人」井上新九郎を討 ...
45. あまざきじょうあと【天崎城跡】長崎県:西彼杵郡/西海町/天窪村
日本歴史地名大系
[現]西海町天久保郷 天崎 城山(一二〇メートル)に築かれた中世の城の跡。天久保郷の萩原城・松山城とともに天久保氏の居城とされる。同氏は戦国期に大村氏の勢力下に ...
46. あらたままち【新玉町】愛媛県:松山市/松山城下
日本歴史地名大系
[現]松山市千舟町六―七丁目・湊町七丁目・花園町 松山城下町の西南端に位置し、末広町・花園町に平行する南北の町筋とその周辺を含む。東は花園町、西と南は藤原村、北 ...
47. あらつむら【新津村】福岡県:京都郡/苅田町
日本歴史地名大系
った。旧高旧領取調帳では上新津村高八〇三石余、下新津村高三〇二石余。字寺屋敷の浄土宗清林寺は松山城主の菩提所であったという(京都郡誌)。天明六年(一七八六)の末 ...
48. 安藤信友[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『備中松山城主安藤冠里侯』西村燕々『安藤冠里侯』西村燕々 ...
49. あんようじ【安養寺】愛媛県:温泉郡/中島町/二神村
日本歴史地名大系
明和七年(一七七〇)一月、二神藤右衛門尉種章が仏像・仏具などを寄進再興した(中島町誌)。寛永一九年(一六四二)松山城を改築した用材の残りで本堂を建立したと口碑に ...
50. アーネスト・サトウ 神道論 70ページ
東洋文庫
落としたこともあった。かくして四、五年を艱難辛苦のうちに過ごした。一八〇〇年、二五の歳に備中松山城主の「大名」[板倉侯]の家臣平田藤兵衛の養嗣子となり、江戸神楽 ...
「松山城」の情報だけではなく、「松山城」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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大坂城跡(日本歴史地名大系)
日本歴史地名大系/平凡社/[現]東区大阪城。東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。
三岳城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町三岳・川名。三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷(いいのや)の井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは
(日本大百科全書(ニッポニカ))
塁、堀、柵など外敵の侵入を防ぐために設けられた軍事的構築物のことをいい、さらにそれによって防衛された地域もいう。城郭という語も城と同義に用いられる。しかし火器の発達した近代に構築された軍事的防衛施設は城とよばず要塞とよばれる。最初は自然の地形を利用して防衛のためにのみ築城したが
姫路城(日本大百科全書(ニッポニカ))
南北朝期~江戸期の城。兵庫県姫路市本町にあり、白鷺(しらさぎ/はくろ)城ともよばれる。姫路平野の中央、高さ45メートルの姫山を本丸とした平山城の典型である。城の歴史は古く、1331年(元弘1)の元弘の乱のとき、播磨守護赤松則村が陣を構えたのに始まり、1346年(正平1・貞和2)則村の子貞範が築城したと伝えられる。
弘前城(国史大辞典)
青森県弘前市下白銀町に中心部のある城。築城当初は高岡城と呼ばれた。平城。津軽平野南部の盆地状地形の中の台地北端に位置する。慶長八年(一六〇三)に大浦(津軽)為信が起工し同十六年為信の子信枚の時に一応の完成を見た。為信はもと大浦城におり元亀二年(一五七一)ごろから津軽統一への歩みを開始したが
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大念仏(日本大百科全書・日本国語大辞典)
大ぜい集まって念仏を唱える行事。世阿弥(ぜあみ)作の能『百万』の背景となった嵯峨釈迦(さがしゃか)堂清凉寺(せいりょうじ)(京都市右京区)の大念仏は1279年(弘安2)に、また壬生寺(みぶでら)(京都市中京区)の大念仏は1300年(正安2)に円覚上人
岸和田城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまり
釜石製鉄所(日本歴史地名大系)
[現]釜石市鈴子町西に食込む釜石湾奥の西岸に位置する。明治七年(一八七四)二月、工部省工部卿伊藤博文の「陸中国閉伊郡に熔鉱炉を設置」の発議に基づき、同年五月工部省鉱山寮釜石支庁が置かれ、橋野・大橋・栗林、佐比内(現遠野市)の鉱山が官営に移管、翌八年一月工場建設に着手した
渡月橋(日本歴史地名大系)
桂川(大堰川・保津川)に架かる橋で、嵐(らん)橋ともいう。承和三年(八三六)に僧道昌によって大堰(おおい)川の修築が行われたが(弘法大師弟子伝)、その時架設されたのに始まるともいう。橋の南に法輪寺があったため法輪寺橋・法輪橋の名もあり
松山城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
(一)松山市丸之内および堀之内に中心部のある城。平山城。松山平野の中央に位置する勝山(標高一三二メートル)は室町時代ごろまでは味酒山と呼ばれた。南北朝時代に伊予の南朝方が、北朝方で湯築城を居城としていた河野氏を攻略するに際して
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