[現]松江市殿町
松江市街を南北に分ける大橋川西端、宍道湖との境の北側にある平山城跡。城は標高二八・四メートルの亀田山(現在の城山)とよばれる丘陵に築かれ、千鳥城ともいう。現在、城跡の大部分は城山公園となっている。慶長年間(一五九六―一六一五)に堀尾吉晴が築城し、以後堀尾・京極・松平三家の松江藩主の居城となった。城の郭には時代によって変化がみられるが、丘陵中央の最高所に本丸、その北から東にかけて腰曲輪、本丸の東に中曲輪、さらにその東に一段低い二の丸下ノ段(外曲輪)、本丸の南に二の丸上ノ段、本丸の西に後曲輪、その北に外曲輪、腰曲輪の北にも外曲輪を配し、これらを内堀が取巻き、南東端に大手門がある。さらに二の丸の一段下の南方に堀に囲まれた三の丸があった。正保城下図(内閣文庫蔵出雲国松江城下図)によると、城は平山城、本丸は東西三〇間・南北六八間、二の丸は東西五五間・南北五八間、三の丸は東西七一間・南北六二間、二の丸下ノ段は東西五三間・南北一八〇間。
松江藩の大工頭を勤めた竹内家に相伝された竹内右兵衛書付(松江城山事務所蔵)には、一七世紀末頃の松江城の実測の記録が載る。天守閣は高さ約三〇メートル、五層六重で前面に付櫓があり、下見黒板張りで白壁が少なく、壁面には隠狭間(鉄砲・弓矢用)が計九四ヵ所もある。石落しも多数設けられ、内部の階段は軽くて引上げやすい桐材が使われ、中央に深さ二四メートルの井戸が掘られるなど実戦を想定した構造で、安土・桃山期の様式を伝える城郭建築史上極めて貴重な遺構である。天守閣は国指定重要文化財、松江城跡地は国指定史跡となっているが、三の丸跡地は県庁舎の敷地となっている。
〔築城〕
松江築城は慶長八年に幕府の許可を得て同一二年から着工し、同一六年に一応の完成をみる(「雲陽大数録」など)。堀尾吉晴の普請上手はよく知られ、「太閤記」の著者小瀬甫庵が設計を担当し、土木工事の名手といわれた稲葉覚之丞も参画したといわれるなど、当時の築城技術の第一人者がかかわった。吉晴は亀田山北部に仮殿を造って工事全体の指揮監督に当たり、石工・大工・泥工・瓦工などは大坂築城の経験者を招いたといわれ、天守の瓦のなかには「大坂瓦師太右衛門」の銘のあるものも残っている。工事の第二年度は本丸の石垣工事などで、石材のほとんどは近隣の大海崎・矢田などから川舟で運び、扇面式前反法といわれる独特の積石技術で築造した。なお岩石学的な調査からは石材は矢田産と大海崎産の二種とされる。第三年度は天守閣の建築で、第五年度に至って完成。大手門付近には四つの櫓が配置してある。城内には二十数ヵ所の井戸が掘られ、内堀の北と西側には船着場が設けられ、城内に植えられた樹木のうち椿は刀の手入れ用油、樫は槍の柄、竹は弓の矢や目釘、楓は炭や焚火に、カクシミノは血止めに使うことを考えたもので、すべてが実戦本位につくられていた。二の丸は東と南の二段に分れ、高くなっている南には政務をとる御書院をはじめ月見御殿・御広間・長局が設けられ、松平家二代までは藩主の居所であった。二の丸下ノ段には米倉があった。三の丸は四周に石垣を築いて水濠をめぐらし、東に大手として三の丸表門を置き、北・西・南には橋があってそれぞれ二の丸・お花畑(現在の県立図書館・武道館などの一帯)、御鷹部屋(現在の県立博物館・県庁別館)に通ずるようになっており、三の丸の郭内にある建物に松平家三代からの藩主が居住していた。
〔堀尾氏・京極氏時代〕
松江城に最初に入った城主は堀尾忠晴であるが、実際の藩政は富田城(現広瀬町)城主忠氏の時から始まっており、忠氏の死後藩主となった幼少の忠晴を補佐したのは祖父吉晴で、初期松江藩政は吉晴―忠氏―忠晴を堀尾三代一体のものとしてみることができる。堀尾期藩政が当面した最大の課題は築城ならびに城下町の建設とその莫大な工事費を含む財源確保のための検地であった。慶長三年段階の石高は出雲国一八万六千六五〇石・隠岐国四千九八〇石、計一九万一千六三〇石であるが(大日本租税志)、堀尾氏は出雲・隠岐両国二四万石(一説に二三万五千石)に封ぜられたため自力で増加を図るほかなかった。城下建設に先立って同七年から実施された領内検地は強引に石高の増加を図ったもので、結果的に年貢の増徴となり、領民にとっては従来に比して苛酷な検地であった。この検地によって出雲地方における中世的遺制の整理と近世的村落秩序の確立が進行し、松江藩政の基礎が固まった。
寛永一〇年(一六三三)堀尾忠晴が三五歳で病死、後継がなかったため御家断絶となり、翌年若狭小浜城(現福井県小浜市)城主京極若狭守忠高が松江城主となり出雲・隠岐二四万石を支配することになった。忠高入国の翌寛永一二年には中国山地から流れ出し出雲平野に至ってこれまで数条に分れながら大部分西流し日本海に注いでいた斐伊川があふれ、多くの水流が東流して宍道湖に注ぐようになったため、洪水時には湖の水位が上がって松江城下はしばしば水害に見舞われた。忠高は数条に分れた斐伊川を一本化せんとして、大坂から川口昌賢という水利巧者を招き、現在の出雲市武志町・中野町一帯の同川沿いに築堤させた。これを若狭守忠高の名をとって若狭堤とよんでいる。同年の台風期の集中豪雨は飯梨川・伯太川流域にも大洪水をもたらし、松江藩は両川を部分的に開削したり、流路を変えるなどの大改修を行った。このとき築かれた母里(現伯太町)―安来間の堤防も若狭堤とよばれたが、今は伯太町の母里―安田間にのみその名が残る。京極忠高の代はまさに水との闘いであった。斐伊川の本流が完全に東流して宍道湖にのみ注ぐようになるのは松平期の寛永一六年の洪水とされるが、それ以前と比べて格段に湖の水量が増加しても、吐出される水路は大橋川と天神川の二本しかないため十分排水できず、しばしば水が城下町にあふれ、松平期にも水害対策は重要な課題となった。
斐伊川の東流に伴ってしだいに干上ってきた出雲平野西部のもとの河川敷が沼沢地となり、すでに堀尾氏時代から領主の奨励のもとに小山村(現出雲市)の土豪三木与兵衛によって江田・八島・浜(現同上)、入南・菱根(現大社町)の五ヵ村からなる菱根新田が開発され、三木家は堀尾・京極・松平三家を通して歴代藩主にお目見えする地位を与えられた。老農が輩出し、領主の督励のもとに大規模開発を進めるのはこの地域の特徴である。
〔松平氏の入部と水害〕
京極氏の支配はわずか三年ばかりで終わり、寛永一五年に信州松本城(現長野県松本市)城主松平直政が松江城主となった。直政は松江藩主としては堀尾忠氏・同忠晴・京極忠高の跡を受けて四代目(松江城主としては三代目)にあたるが、松江松平藩の初代藩主である。徳川幕府が出雲の地へ堀尾氏・京極氏と旧豊臣系大名を配していたのを改め、一挙に親藩(家門)大名でしかも家門のなかでは逸材の誉れ高い松平直政を配したのは、その時期が寛永一四年一一月から同一五年二月にかけての島原の乱の真っ最中であることからして、徳川氏の西日本支配構造の改革の一環であった。松江城を山陰の要と位置付けたのである。そのため直政の代は重要地にこたえる家臣団の軍制改革とともに、前代に引続く治水や社領・寺領の寄進による民心の安定、新田開発の奨励、殖産(出身地越前からの製紙技術の取寄せ)など、藩政の基礎固めが図られた。松平氏の支配は出雲一八万六千石で、ほかに幕府領隠岐一国を預かったが(徳川諸家系譜)、ほぼ公称石高が太閤検地段階の石高に戻ったわけである。しかし直政入部時に松江城で京極家家老から受取った出雲国御成稼帳の合計高は二五万三千五九七石余で(松江藩祖直政公事跡)、公称高との間には乖離があり、余裕をもった知行であった。
寛文六年(一六六六)直政の死によって長男綱隆が松江藩を継いだ直後、次男近栄に新田三万石、三男隆政に新田一万石を分与し、それぞれ広瀬藩・母里藩を立藩した。延宝元年(一六七三)隆政の死により母里藩は直政の四男直丘が継ぐ(以上前掲系譜)。この両藩は松江藩の支藩として宗藩を頼りつつ宗藩を支えた。綱隆の代も水害が激しかった。広瀬藩立藩直後の八月豪雨で富田川(飯梨川)の堤が決壊し、富田の旧城下町を濁流が飲込んで町は川床になり、干上ったもとの流路の地に新たに町が建設された。これが今の広瀬町市街で、川筋と町並が入れ替ったのである。この富田川の氾濫は下流の安来平野にも多大の損害を与えた。延宝二年の豪雨では宍道湖があふれ、大橋が半壊、天神橋が全壊、三の丸でも玄関の三段目まで浸水し、藩内の害穀七万四千二三〇石、漂流家屋一千四五〇余戸、溺死者二二九人、死牛馬一〇三頭にも及んだ(出雲私史・雲陽秘事記)。これによって綱隆は家老が諫めるのも聞かず、山代村茶臼山へ城地を移す決意をしたが、願いを出す前に綱隆自身が死亡し、沙汰やみとなった。
〔殖産興業〕
延宝三年藩主の地位についた綱隆の四男綱近の代も水災続きで、就任二九年間に万石以上の穀害を被った水害だけで七回もある。元禄一五年(一七〇二)はとくにひどく、宍道湖が六尺も増水し、害穀八万四千二九四石、漂流家屋四千一五七戸、溺死者五〇人に及び、松江城の石垣の一部も崩壊した(出雲私史)。このような災害続きであったが、幕政そのものも本百姓体制の確立のもと農政に力点が置かれた時期にあたり、松江藩も殖産興業に力点を移し、古志原を藩は大根島(現八束町)などからの移民によって良好な畑地に転換させた。また老農大梶七兵衛が出て、日本海に面した長浜(現出雲市)の防風造林と荒木新田(現大社町・出雲市)の開発、高瀬川の開削、差海川・十間川の開削による大規模な新田開発が進んだ。さらに各地の造林の奨励、奥出雲における製鉄の奨励や保護が図られ、綱近が毛利氏に依頼して長州萩から招いた陶工倉橋権兵衛とその弟子加田半六によって松江城下近郊で楽山焼が始まったといわれる。しかし風水害に加え、延宝四年には松江城下白潟で寺院一二ヵ寺・町方八九軒もが焼失する大火があり(松江市誌)、江戸仕送り高の急増、元禄一〇年の江戸城北の丸普請手伝いなどの出費が膨れあがり、藩では延宝三年に藩札の発行、貞享三年(一六八六)には家臣に対する半知の実施、京・大坂町人からの借銀によって財政危機を乗切ろうとした。この間、元禄一四年に綱近は弟近憲(のちの吉透)に一万石を分封(前掲系譜)、松江新田藩が成立したが、実質は蔵米支給で封地は定められなかった。
綱近は中年になって眼疾に悩み、宝永元年(一七〇四)弟吉透が養子となって松江藩を継ぎ、これに伴って松江新田藩は廃藩となった。しかし翌年吉透が三八歳で死去したため吉透の次男荘五郎(のちの宣維)が藩主の地位についた。宣維の代も新田開発が盛んで、城下北東の入江を水田化した伊豆屋新田(現松江市菅田町南部)、仁多郡の鉄山師の家に生れた卜蔵孫三郎が移住して開いた荒島新田・門生新田・別石新田(現安来市)、羽入新田(現東出雲町)、老農周藤弥兵衛が自費で岩山開削・川違工事をやって開いた日吉村(現八雲村)古川跡の新田など、藩の奨励があったとはいえ民間の手による新田開発が目立っている。また水害も多く、宣維の代二六年間に万石以上の損穀を出した水害は五度以上あり、ことに享保六年(一七二一)と同七年には連続して城下の水深四尺を超え、両年とも領内四万石を超える穀物が被害を受けた(出雲私史)。同二年に中国船が美保関(現美保関町)に来てからは頻繁に山陰海岸に出没し、藩では警備態勢を整えて砲丸を撃込むなどして対応したが、綱近の代の貞享四年以来返上していた隠岐国預りが享保五年に復活し、幕命で隠岐国における異国船警備に力を入れることになった。これも松江藩財政を圧迫した理由の一つである。
〔延享の藩政改革〕
享保一六年宣維が死亡すると、わずか三歳の嗣子幸千代(のちの宗衍)が襲封したが、新藩主は幼少で江戸在住のため、翌一七年幕府は堀直好(旗本三千石、御使番)・土屋安直(旗本二千石、御書院番)を松江藩国目付として派遣し、藩政を監察させた。同年は西日本一帯が長雨と蝗害による凶作の年で、松江藩領でも一七万四千石余の被害を受け、九月には神門郡松寄下村(出雲市)伊助・荒木村(大社町)源兵衛らを指導者とした百姓一揆が起こり、立毛検見を要求して松江城下に強訴した(島根県史)。伊助・源兵衛両名は処刑されたが、幕府は一万二千両を松江藩に貸与して石見にある官米四万俵の購入を許し、藩はそれを飢民一〇万人に分与したので松江藩内は飢饉の惨状を免れたといわれる(「出雲私史」など)。藩主宗衍は一七歳の延享二年(一七四五)に初めて松江城に入ったが、当時の藩財政は宗衍の入国費用さえ領民の先納銀によって賄うほど窮迫していた。宗衍は質素倹約を督励するとともに、同四年自ら政務を執るとして重役を退け、中老小田切備中尚足を抜擢し、彼を補佐役として藩政改革に乗出した。これが「御直捌」といわれる延享の藩政改革である。
改革の内容は、まず財政難打開策として泉府万(富裕者から資金を集め、藩が融資を行い、利益を銀主と折半する)・義田方(富豪の占有田に対し一時に多額の米または銭を納めさせ、一定期間年貢免除とする)・新田方(新田開発者に一時金を上納させ、年貢免除地とする)の設置、殖産興業政策として木実方(蝋燭の原料である櫨の栽培を奨励し、生蝋を製造し専売する)・釜甑方(鍋・釜などの鉄鋳物を鋳造する)の設置などである。この改革には藩祖以来の農本主義から商品経済化への変換が認められ、幕政享保改革の後半期の影響を思わせる。一方、支出の面では小田切の家臣荒井助市の献策を入れて藩士の俸禄の制を改め、従来四斗入り俵一一二俵半を一〇〇石としていたのを三斗入り一〇〇俵を一〇〇石とした(島根県史)。これを荒井三斗俵といい、家臣たちの不満は大きく、改革政治をあからさまに批判する者も出た。改革は当面の財政難打開策で、義田方・新田方は永続的効果なく、領民から原料を安く買上げ製品を高く売付ける木実方のやりかたは領民の不満を招き、宝暦元年(一七五一)頃には泉府方の銀主の不信表明で資金の回転に行詰り、さしたる成果のないまま改革は終わった。
一方で幕命による杵築大社(出雲大社)の造営、将軍名代としての上洛(女御入内の奉賀使)などによって支出が膨れあがり、加えて宝暦一〇年末には比叡山山門および本地堂・横川中堂などの修復費用約五万両のうちの助成を命じられ、財政難に追打ちをかけた。前代につぐ災害も多く、万石以上の損害をもたらした風水害は宗衍の代に一二回に及んだ。藩政に行詰り、宝暦一〇年参勤以来江戸にとどまって松江に帰らなかった宗衍は、明和三年(一七六六)先に総奉行として比叡山山門等修復を成功させた家老朝日丹波茂保(のちの郷保)を仕置役に任じて難局の打開にあたらせ、自らは翌年三九歳の若さで隠退を余儀なくされた。
〔明和―寛政の藩政改革と百姓一揆〕
明和四年の宗衍隠居により次男治郷(のち隠居して不昧と号す)が藩主の地位に就き、そのもとで朝日丹波による藩政改革が始まり、天明元年(一七八一)の丹波引退後は子千助(のちの丹波保定、恒定)が改革を引継いだ。これが御立派といわれる明和―寛政の藩政改革である。朝日丹波の政策は小田切備中のそれと違い、復古的な勧農抑商政策を前面に出し、江戸藩邸の経費節減、江戸・京都・大坂の借銀返済の軽減(江戸廻米による年賦償還)、銀札の廃止、下郡・与頭(大庄屋)らの更迭、闕年と称する領内藩債の破棄、義田の廃止・没収、本田に悪影響を与える新田開発の禁止、検地による石高増と年貢増徴、常平倉・義倉法の再興、鉄穴流し場(砂鉄採集)数の極端な縮小、農村商業の抑制、酒店の抑制、茶店の禁止などの諸政策が次々と実施されていった。丹波は「御金外よりは出不申、皆御国の百姓をしぼり候外無御座候」(「塩見小兵衛宛朝日千助書簡」島根県史)と常々話していたという。
この改革は藩財政立直しに急で、財源をもっぱら農民からの年貢増徴に頼り、藩の債務は破棄する、義田は没収する、商品生産は抑制するという徹底した年貢増徴抑商政策であったので、財政状態を好転させたとはいえ、領民の不信と不満を鬱積させた。加えて天明二年には五万石近い穀害を受けた水害に見舞われ、翌年一月領民の不満は百姓一揆となって爆発した(「雲国民乱治政記」新修島根県史)。飯石郡三〇余ヵ村を主とする一万数千人が三刀屋村(現三刀屋町)付近に集まり、同村の富豪宮内屋市兵衛宅を襲って打毀し、同日神門郡でも一万人余が大津村(現出雲市)に集まって富豪森田源兵衛宅を打毀し、その勢いで松江城下へ強訴しようとした。神門郡の下郡大津村森広幾太は一揆を押しとどめ、代表となって七項目の農民の要求を携えて城へ越訴したが、藩はその場では聞入れず、飯石郡関係で三人、神門郡関係で森広幾太以下一六人を捕縄し、七人を牢舎、九人を郡外追放に処した。しかし三月には藩でも御恵みと称して鳥目二万五千貫文の下付、飢扶持米の下付、前年に増す凶作となったその年の秋には畑上納減免の特例実施、銀札の通用再開など農民の苦悩の緩和を図り、また月照寺住職弁誉の注進で翌年一月から二月にかけて幾太以下全員が赦免となった。
天明三年は長雨と冷害による全国的な凶作の年で(天明の飢饉)、松江藩では一四万五千石余の被害があった。宍道湖をあふれた洪水は松江城下を飲込み、三の丸も浸水して城主治郷自ら避難する騒ぎであった。その翌年も五万石以上を害する洪水があり、三年連続の水害に悩んだ松江藩では、同五年家老三谷権太夫長逵の斡旋で軽輩清原太兵衛の長年の提案を採用し、宍道湖の水を島根半島を横切って直接日本海に排水する大工事に着手した。佐陀川開削工事である。清原太兵衛を先頭に二年九ヵ月を要した難工事は成功し、その後の洪水を緩和したばかりでなく、従来の潟湖や沼沢をかなり水田化し、日本海と松江城下を結ぶ水運が開けるという経済的効果をもたらした。後年佐太神社(現鹿島町)境内に清原太兵衛の頌徳碑が建立されている。
〔不昧流茶道〕
治郷は不昧流茶道の祖、茶道具類の収集家としても著名である。当初伊佐幸琢に石州流(怡渓派)を学んだが、焼失した小堀遠州ゆかりの京都大徳寺孤篷庵の復興に肩入れするなど遠州を深く私淑し、当時細分化していた諸流派の統合のうえに個性的な茶道を追求した。治郷は通俗的数寄屋趣味の時流に堕することなく、古典のなかに創造性を発揮しようとした茶道史のうえでも特異な存在であった。茶道具類の収集は藩政改革の進展とともに始まった。朝日丹波が改革の成果として治郷に金銀山積みになった藩の蔵を見せたことから、高価な名物道具を買集め始め、丹波は蔵を見せたことを後悔したという。現在大徳寺孤篷庵に伝わる喜左衛門銘の井戸茶碗(国宝、朝鮮李朝時代のもの)は安永年間(一七七二―八一)に治郷が五五〇両で手に入れて以来最も愛好した名物で、治郷の死後、夫人の手によって孤篷庵に寄進された。なお、一揆の起こった天明三年でさえ一千六〇〇両で油屋肩衝(茶壺)を購入している。文化八年(一八一一)の治郷自筆の道具帖(松平不昧伝)によれば彼の収集した天下の名品は五一八点に上る。これらの収集のための財力は朝日丹波・千助親子の改革の賜物であったが、その根底にあったのは藩内農民の汗と膏の結晶であった。
〔災害の多発と藩の対応〕
松平治郷は文化三年隠退し、晩年は茶道の研究に没頭した。一六歳の長男斉恒が藩主の地位に就いたが、治世は一七年。その間文化一一年の日光修復の出費、文政三年(一八二〇)の松江城下白潟の大火、同年の大水害などで二度まで家臣の禄を減じるなど多難な時期で、同五年三二歳の若さで病死した。時に長男鶴太郎(のち斉貴、隠居して斉斎)は八歳でしかも病弱であったので襲封は危ぶまれたが、幕府はこれを認め、幼少藩主のため目付として旗本赤松左衛門・滝川源作を松江藩へ送り込んだ。斉貴の代も災害の多い時期であった。文政八年の松江城下石橋町の大火、天保八年(一八三七)の白潟の大火をはじめ領内意宇郡宍道町(現宍道町)、能義郡安来町、意宇郡揖屋村・意東村(現東出雲町)、島根郡野波村・大蘆村(現島根町)、同郡水浦(現鹿島町)、大原郡大東村(現大東町)、三刀屋村など、いずれも一〇〇戸を超す家屋を焼失する大火があり、また文政八年・同九年・同一一年・同一二年、天保三年・同六年・同七年・同九年、弘化元年(一八四四)・同二年・同三年・同四年、嘉永元年(一八四八)・同二年・同三年というように慢性的ともいえる水害があり、さらに蝗害・気候不順による凶作三回が加わった。ことに嘉永三年の暴風雨による凶作は穀害一五万七千三八〇石余に及び、松江藩にとっては享保一七年以来未曾有の凶荒であった。一方では、天保五年に五万両、同七年には三万両を幕府へ献金し、また嘉永二年には異国船が隠岐に来航して一時上陸したのをはじめ異国艦船の航行が多く、隠岐における警備の強化も財政を圧迫した。そのため藩ではしばしば家臣の減禄を行った。
度重なる水害への対処の一つとして、天保二年から翌年にかけ斐伊川の流れをよくするため出雲郡出西村(現斐川町)で同川の水を引き庄原村(現同上)で宍道湖へ落す新川の開削(拡幅)工事が多額の費用をかけて行われた。領内一〇郡から動員された人夫は延べ五六万五千五〇〇人に上る。新川の完成によって上流から運ばれる多量の流砂を利用した新田開発が河口付近で広範囲に進んだ。他方、宗衍の代に始まった木実方の蝋製造と専売はその後も順調で藩の財政を補完した。治郷の代に古志原で試作した薬用人参の栽培が斉恒の代にようやく軌道に乗り、役所(常平方付属)を置いて藩外へ専売していたが、文政八年役所を松江城下寺町の南に移して製造場・土蔵を大幅に増やし、弘化四年には組織も常平方から離れ人参方として独立した。その頃、人参は大量に生産され価格も高騰し、雲州人参の名も高まって販売は順調に伸びたため、幕末の内外多難で厳しい藩財政はこの人参専売事業によって支えられたといっていい。
ところが藩主斉貴の所業は不評であった。彼は鷹狩を好み、神門・出雲両郡をはじめ松江近在に多くの鷹場を新たに設け、また相撲が好きでたくさんの力士を召抱え、そのため町家富裕の家に扶持を命じた。さらに江戸から狆を取寄せ三味線に合せて踊らせたり、江戸の芸人を雇入れ酒宴の席で囃子を演奏させたりした。世人はこれを馬鹿囃と冷笑したという。また江戸では砂村(現東京都江東区)の新田を二万両で購入し、贅を凝らした豪華な屋敷をしつらえるとともに鷹場を設けたりした。斉貴は大酒家で酒癖が悪いため、仕置役神谷源五郎・仙石城之助らが諫めたがきかず、ついに嘉永四年藩主を諫めるため家老塩見増右衛門が切腹した。これによってしだいに藩主を支持する派と批判する派に藩論が二分されることになる。翌年松江藩松平家の親戚にあたる越前福井・美作津山・肥前佐賀の藩主が相談し、斉貴を隠退させることにしたが、当時斉貴に男子がなかったため、美作津山藩の隠居(前藩主)松平斉孝の七男済三郎を斉貴の長女の婿養子とし、松江藩を継がせた。これが松江藩最後の藩主となる定安である。
〔幕末の松江藩〕
定安が藩主の地位に就いた嘉永六年九月はその三ヵ月前にペリーの率いる米艦四隻が浦賀(現神奈川県横須賀市)に到着した時期で、人心は上下とも騒然としていた。そのためまず軍備を整え、軍制改革を行い、軍事訓練を実施することが急務であった。また世情は攘夷論・開国論に分れ、攘夷論が尊王論と結び付いて尊攘派を形成し、それはやがて討幕派に脱皮していく。その間公武合体派との間に政争が展開し、世論と情勢は目まぐるしく変化し、幕府の権威は相対的に低下した。そのような状況のもとで親藩である松江藩は微妙な立場にあって、情勢の推移のなかで絶えず揺れ動かされ、藩の内政にほとんどみるべきものはない。元治元年(一八六四)の第一次長州戦争に松江藩も動員され兵を進めたが、長州藩(文久三年以降は周防山口藩)が一応の恭順を示したため戦闘にまでは至らなかった。
しかし、慶応元年(一八六五)からの第二次長州戦争では長州藩が石見国に兵を進めたため、浜田藩を援護していた松江軍も敗れ、同二年七月には浜田城が落城、さらに幕府領石見銀山も長州軍の手に落ち、石見全体が長州軍の軍政下に置かれた。そのため松江軍は出雲国境に防戦の陣を布いたが、幕府から諸軍引揚げの命令が届き戦争は中止された。この戦争は松江藩に大きな衝撃を与え、親藩大名としてひたすら佐幕的態度をとることに疑問を抱かせることになった。
維新の政変は急速に進展し、慶応三年一〇月一四日の大政奉還、同一二月九日のクーデター、王政復古、翌年一月の鳥羽・伏見の戦によって歴史の流れは決定的となった。松江藩ではその頃になってようやく藩論が勤皇に統一されていたが、徳川親藩であることから明治新政府の藩に対する疑いはなかなか解けず、鎮撫使事件・隠岐騒動とゆさぶりをかけられ、その度に新政府への忠誠を示しつつ、明治二年(一八六九)の版籍奉還を迎えるに至った。版籍奉還後、定安はそのまま松江藩知事となり、同四年廃藩によって知事職を免ぜられた。
〔近代の松江城〕
廃藩置県に先立つ明治四年四月松江城は廃城と決定された。同年七月の廃藩とともに陸軍省広島鎮台の管轄下に置かれ、同八年民間に払下げられることになった。入札が行われ、天守閣は一八〇円で落札された。このとき坂田村(現斐川町)の豪農の勝部家七代目本右衛門は旧藩士の高城権八らと城の保存に立上がり、広島鎮台に働きかけて天守閣のみの落札を停止させた。なおその他の建造物は解体され、なかには薪になったものもあるという。同二三年松平家は三千円で国から城一帯を払下げてもらい、県知事籠手田安定の提唱によって設立された松江城旧観維持会の手で、同二七年に大規模な修復が行われた。昭和二年(一九二七)松平家は城を松江市に無償寄付し、現在は城山公園として松江の観光名所となっている。