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  11. 北海道庁旧本庁舎
日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
北海道庁旧本庁舎
ほつかいどうちようきゆうほんちようしや

[現]中央区北二条西五―六丁目・北三条西五―六丁目

赤煉瓦(庁舎)として親しまれた北海道庁の旧庁舎。明治一九年(一八八六)七月に着工し、同二一年一二月に完成した。設計は北海道庁土木課。間口六一・二メートル、奥行三六・四メートル、建坪は一六五四平方メートル、延床面積は四九二五平方メートル。建築当時は屋根裏に二階があり、塔も含めると六階建であった。様式はアメリカ風ネオバロック様式、屋根はスレート葺、壁面に使用した煉瓦は白石しろいし村の鈴木煉化製造所(現白石区)製、石材は山鼻やまはな村の硬石こうせき山で産出したものを使用した。屋上の塔屋は建築の途中に付加されたものといわれ、不安定であったことから同二八年に撤去された。同四二年失火により煉瓦の壁を残してほぼ全焼したが、同四四年に復旧工事を完了した。この工事では煉瓦の壁はそのまま利用したが、両側の玄関を廃するなど、一部構造を変更している。昭和四三年(一九六八)に新庁舎が西側にできるまで、本庁舎として利用されていた。同年開道一〇〇年事業として復元工事を行い、塔屋を付加するなど外形を創建当時に復元。同六〇年以降はおもに北海道立文書館として利用されている。昭和四二年に開拓使札幌本庁庁舎跡および旧北海道庁本庁舎の名称で国の史跡に指定され、同四四年には国の重要文化財に指定された(「新札幌市史」・重要文化財北海道庁旧本庁舎復元改修工事報告書など)

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