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  10. 宇和島城
国史大辞典・日本歴史地名大系

国史大辞典
宇和島城
うわじまじょう
愛媛県宇和島市にある城。平山城。戦国時代に板島丸串城と呼ばれ、やがて来村(くのむら)西園寺氏の居城となった。西園寺氏滅亡の後、藤堂高虎が宇和郡を領有し、慶長元年(一五九六)から築城の工を起した。約六年の後、城郭がほぼ完備するに至った。富田信高を経て、同十九年に伊達秀宗が城主に封ぜられ、代々城池を継承して明治維新に及んだ。同城は五代伊達村候の時、鶴島城と名づけられた。宇和島城は高さ八〇メートルほどの丘陵(城山)を利用してつくられ、外郭は不等辺五角形をなし、西方および北方はもと海に面し、他の三方は海水を利用した濠によって囲まれていた。山頂に天守閣を中心とした本丸があり、その下部は二ノ丸・藤兵衛丸・長門丸・代右衛門丸・三ノ丸等に分かれていた。天守閣は伊達家第二代宗利の時代に改装せられ、細部は築城当時の様式と異なっているが、江戸時代初期の豪壮典雅な趣をよく現わしている。この建物は山頂部に狐立し、三層三重、本瓦葺で、土壇は一三メートル平方である。正方形の平面が二層および三層において等しく逓減しているばかりでなく、正面の最上層部に形の美しい唐破風、その下に大型の千鳥破風、これを受けて一対の千鳥破風、車寄に大型の唐破風がつけられ、各層の屋根の反りと相まって、安定と諧調がよく保たれていて、いっそう美観を呈している。天守閣が一基独立しているのも、古城郭のうち珍しく、小規模ながら優秀な建造物で、国指定の重要文化財となっている。
[参考文献]
『愛媛県編年史』五―八、『宇和島の自然と文化』
(景浦 勉)


日本歴史地名大系
宇和島城跡
うわじまじようあと

[現]宇和島市丸之内一丁目

宇和島市の中央にそびえる高さ八〇メートル、周囲一二四九メートルの通称城山しろやまに築かれた城郭跡。慶長年間(一五九六―一六一五)藤堂高虎によって築城され、寛文年間(一六六一―七三)伊達宗利によって改修された。元和元年(一六一五)の伊達秀宗入部以後明治維新に至るまで宇和島藩伊達氏の居城であった。一名鶴島つるしま城という。国指定史跡。

〔丸串城〕

中世には、板島丸串いたじままるぐし城ともよばれ、戦国期の天文―永禄年間(一五三二―七〇)豊後の大友勢が侵攻した頃には高串たかぐし村の土豪家藤監物が守っていたといい、天正三年(一五七五)来村くのむら殿西園寺宣久の居城となったという。豊臣秀吉の四国征伐後は、小早川隆景領時代に持田右京が、戸田勝隆領時代に戸田与左衛門がそれぞれ城代として在城したが、当時の丸串城が大規模な城郭であったとは考えられない。

宇和島城が近世城郭としての規模を備えはじめるのは、文禄四年(一五九五)七月藤堂高虎が宇和郡のうち七万石の領主となり、丸串城を本城と定めてからである。「宗国史」に「慶長元丙申年八月修〓板島城〓」とある。慶長元年八月に本格的な築城が始まり、同六年にほぼ完成した(高山公実録)

高虎は、慶長五年関ヶ原の戦功により、伊予国のうち二〇万石を与えられ、今治いまばり城を築造して同一三年に移転し、丸串城には城代を置いた。同年九月から同一八年一〇月まで富田信高が在城し、その後天領となり高虎が宇和郡の代官となった。慶長一九年大坂冬の陣に際し、城代の藤堂新七郎良勝が城の防備を厳重に固めたことが「高山公実録」の次の記事にうかがわれる。

国々の津々浦々船出入、関所を堅く命じ、国侍を吟味し、人質を取る、国侍屈強の者弐百人、町在々の鉄砲五六百挺、其外武器等板島の城中へ入、(中略)板島の総堀を浚へ、本丸切岸にし、木を切り、櫓十一ケ所拵へ、本丸堀裏にどう木釣る、又所々に弩を張る

城は平山城で、平面は五角形、二辺は海、三辺は城堀を隔てて城下町に接していた。城山下の三の丸には内堀をめぐらし、城主の館があった。城堀には海水が入っていた。

〔宇和島城〕

慶長一九年一二月、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡一〇万石の領主となり、翌元和元年三月、丸串城に入った。このころ板島の地名は宇和島と改められ、城も宇和島城とよばれるようになった。当時の城の構えは「北宇和郡誌」によると次のとおりである。

一、天守閣 方角戌亥向土台より高さ七間
一、追手東向 搦手南向 両口なり
一、山高三十三間程 所により高下有之
一、本丸 二之丸 三之丸
一、郭廻り十六町
一、物狭間数 千五
一、丸之内小路 十三町
一、櫓数三十五
一、城内外番所 二十ケ所
本丸櫛形、二の丸門、長門丸門、井戸の丸門、搦手上り口門、三の丸桜の門、浜桝形、潮入門、追手門、搦手門、佐伯町口、本町口、追手下口、堀末、毛山村下口、樺崎、三の丸堀端、大工町口、大右衛門丸門、式部丸門

築城の名手藤堂高虎の手になった丸串城は、六〇余年後に宇和島藩二代藩主宗利によって大改修される。寛文二年四月二三日、宗利が幕府に提出した城郭改修の願書によると、(一)天守閣の取りこわしと復元、(二)搦手橋の復元、(三)九ヵ所の櫓の修復・復元、(四)堀端水落しの個所から桝形の海に入る所までの城堀の浚渫、(五)内堀全体の浚渫、以上五ヵ条の工事で、寛文一一年まで一〇年間を費やして行われた。その間、寛文五年七月、宗利はさらに本丸南方の土台の石垣修復など八ヵ所の工事を願い出ている。藤堂高虎の築造したものは、山骨の上に建てられて石垣がなく、腐朽が速かったためである。

延享年間(一七四四―四八)の宇和島城の古図によると、山頂の平地(本丸)に天守・御大所など九つの建物があり、その下に二の丸・太鼓矢倉・御書物矢倉、その下の城山中腹に井戸丸矢倉・藤兵衛丸・雷門・長門丸・代右衛門丸・焔硝矢倉、山麓には、東側の城堀の内側に御多門(大手門、追手門とも)、その西に侍屋敷・三の丸・月見矢倉・潮見矢倉・御厩があり、西方の海に面して黒門がある(現本町追手方面)。御多門から南の堀の内側に長矢倉・御倉・侍屋敷・西河裏角矢倉(現堀端町方面)、豊後橋から搦手門に入り、その右手に搦手門平矢倉、左手に材木倉、のぼち門の右手に御作事、左手に御番屋・山王社がある(現御殿町方面)。現桝形ますがた町方面は、侍屋敷が海に面して設けられている。

この古図の裏面に、城郭について次の記述がある。

御城御矢倉数覚
御本丸 御休息矢倉 御弓矢倉 ろくろ矢倉 右髪矢倉 御鉄砲矢倉 二重矢倉 御門左右に平矢倉二ケ所
二之丸 御算用矢倉 但二重左右の袖
帯廓 御書物矢倉 太鼓矢倉
藤兵衛丸 御宝蔵矢倉 北之矢倉
長門丸 北之矢倉 宇門矢倉 平矢倉
代右衛門丸 南之矢倉 西之矢倉 煙硝矢倉
井戸丸 平矢倉
三之丸 月見矢倉 桝矢倉 汐見矢倉
総廓 長矢倉追手門脇 遠見矢倉御厩之内 二重矢倉左右袖黒御門 笘矢倉内桝形御門脇 角矢倉外桝形 角矢倉汐分御門脇 角矢倉材木蔵之内 平矢倉搦手御門脇 矢倉西河郡右衛門屋敷裏 〆参拾参ケ所
御城御門数覚
御本丸 一之御門
二之丸 二之御門
三之丸 埋御門 桜御門
帯廓 三之御門 井戸丸御門
藤兵衛丸 雷御門 長門丸御門 代右衛門丸御門 上り立御門
総廓 追手御門 御蔵脇御門 黒御門 笘矢倉御門 内桝形御門 汐分御門 搦手御門 〆拾七ケ所

寛文の大改修以後の城郭の修理は、幕末までに二十数回に及んでいる。とくに安政元年(一八五四)の大地震の被害は大きく、万延元年(一八六〇)の天守閣工事は、三月から一一月までを要した。

明治四年(一八七一)宇和島城は兵部省の所管となったが、同二二年旧藩主伊達宗城が「旧城廓払下願」を政府に出し、翌年その所有となった。城郭内の建造物は、腐朽のため明治初年に撤去され、明治二〇年には天守閣・追手門等を残すのみとなった。城堀は三の丸の内堀が慶応二年(一八六六)、追手門前から追手通方面は明治三三年から翌年、追手門前から西河裏角矢倉下までの堀端通方面は明治四二年、同矢倉下から豊後橋下手までは大正二年(一九一三)、潮分角矢倉下から外桝形角矢倉下までは明治四二年から翌年にかけて埋め立てられた。

現在、城山は市有地となり、山上の本丸をはじめ山中の各曲輪の跡、城塁・石垣などはほぼ完全に保存されている。特筆すべきは城山の樹叢で、九六科四五三種の植物が亜熱帯性植物を中心に繁茂し、市街地に三〇〇―五〇〇年も経た喬木から小草木までが残されているのは、全国にその類例をみないといわれる。

宇和島城は、五代藩主村候むらときによって別称鶴島城と命名された。それは戦国の時代も過ぎた平和な時代に改修されたため、石垣が低く、建物の周囲に犬走りがあり、石落しや銃眼もない無防備な城郭であった。

宇和島城天守(重要文化財)は、独立式の天守で、三重三層、白壁の総塗込造で、土台から棟までの高さ一五・八メートル、平面は正方形で、一重から二重、二重から三重と二メートルほどずつ短くなっており、塔風の形態となっている。正面最上層の屋根には大きな唐破風、二層の屋根には大きな千鳥破風、一層には二つの千鳥破風、その下の玄関には唐破風がつけられている。玄関には式台がある。上り立ち門(市指定有形文化財)は、現存する唯一の城門で、建築様式は薬医門(役居門)形式である。

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16. うわちょう【宇和町】愛媛県:東宇和郡
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日本歴史地名大系
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18. おうかしゅく【相可宿】三重県:多気郡/多気町/相可村
日本歴史地名大系
にて、をくりのことどもととのへて、けふぞ山田につき侍りぬる」とあり、天正四年(一五七六)伊予宇和島城主西園寺宣久の「伊勢参宮海陸之記」(神宮文庫蔵)にも「伊勢の
19. おうてどおり【追手通】愛媛県:宇和島市/宇和島城下
日本歴史地名大系
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20. おえのきどおり【大榎通】愛媛県:宇和島市/宇和島城下
日本歴史地名大系
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21. おおうら【大浦】愛媛県:宇和島市
日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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24. かごのもりじょうあと【川後森城跡】愛媛県:北宇和郡/松野町/松丸村
日本歴史地名大系
された。当城跡の下にある永昌寺の鐘楼門は当城の城門を移建したものと伝えられ、また板島丸串城(宇和島城)の月見櫓は、「宇和旧記」によると慶長九年(一六〇四)に藤堂
25. かみにがきむら【上仁柿村】三重県:飯南郡/飯南町
日本歴史地名大系
通り、多気から多気郡相可(現多気町)へ抜けている(さののわたり)。天正四年(一五七六)伊予国宇和島城主西園寺宣久は参宮の帰途に同街道を通り、仁柿に三日滞在し櫃坂
26. きたうわぐん【北宇和郡】愛媛県
日本歴史地名大系
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27. くじらだいし【鯨大師】愛媛県:宇和島市/九島浦
日本歴史地名大系
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28. くのむら【来村】愛媛県:宇和島市
日本歴史地名大系
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29. くのむらごう【来村郷】愛媛県:宇和島市
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32. こじまいけん【児島惟謙】
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33. 御当代記 将軍綱吉の時代 332ページ
東洋文庫
許されたもの。先代の遺品献 上先に、綱吉夫人(御台様)と母(桂昌院)があるのは、この頃例が多い。伊予宇和島城主伊達 遠江守宗替が、分知後七万石となった所領を新田
34. ささまち【笹町】愛媛県:宇和島市/宇和島城下
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35. しもむら【下村】愛媛県:宇和島市
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36. しろがたにむら【四郎谷村】愛媛県:東宇和郡/野村町
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37. じょうかく【城郭】
国史大辞典
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39. じんでんがわらどおり【神田川原通】愛媛県:宇和島市/宇和島城下
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40. すがうら【須賀浦】愛媛県:宇和島市
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41. たかぐしむら【高串村】愛媛県:宇和島市
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42. たてしんまち【竪新町】愛媛県:宇和島市/宇和島城下
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43. たるやまち【樽屋町】愛媛県:宇和島市/宇和島城下
日本歴史地名大系
[現]宇和島市本町追手一丁目・愛宕町三丁目 元禄一六年(一七〇三)七月の城下町絵図には木挽町とある。宇和島城の東方、本町一丁目の南に続く町。樽屋が居住していたの
44. だいくまち【大工町】愛媛県:宇和島市/宇和島城下
日本歴史地名大系
[現]宇和島市愛宕町一―二丁目 宇和島城の東方、樽屋町の南に続く町。御作事奉行の配下の下士に属する大工が居住したのでこの名が生れた。大工町・樽屋町・本町通は一本
45. だてひでむね【伊達秀宗】
国史大辞典
により伊予国宇和郡十万石を拝領した。二十四歳。翌元和元年(一六一五)三月十八日、板島丸串城(宇和島城)に入り、初代宇和島藩主となる。大広間詰。明暦三年(一六五七
46. だてむねただ【伊達宗紀】
国史大辞典
主。諱は宗紀、幼名は扇千代丸・扇松丸、長じて主馬、号は春山。寛政四年(一七九二)九月十六日、宇和島城内で父第六代藩主村寿の長男として誕生。母は田中氏。妻は鍋島治
47. 天守
世界大百科事典
城,越前丸岡城,尾張犬山城,近江彦根城,播磨姫路城,備中松山城,出雲松江城,伊予松山城,伊予宇和島城,讃岐丸亀城,土佐高知城の12城である。そのうち最古は天正年
48. とうがくじ【等覚寺】愛媛県:宇和島市/毛山村
日本歴史地名大系
[現]宇和島市野川 宇和島城の東の丘陵地にある。竜華山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。「宇和旧記」によると、開山は京都妙心寺開山関山国師一三世の法孫である
49. とみたし【富田氏】画像
国史大辞典
江戸時代初期の伊予国宇和島城主。宇多源氏、佐々木氏庶流を称す。師泰以降、出雲国富田城に住したが、重知のとき尼子経久のため没落したという。知信は近江国に生まれ、
50. とめぐん【登米郡】宮城県
日本歴史地名大系
をあげたが、南部和賀忠親の乱の責任を負い寺池城に領地替された。その後、元和元年(一六一五)に宇和島城(現愛媛県宇和島市)の受取りに功があり、翌年伊達の姓を賜り一
「宇和島城」の情報だけではなく、「宇和島城」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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日本歴史地名大系/平凡社/[現]東区大阪城。東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。
伏見城跡(日本歴史地名大系)
伏見山(桃山丘陵)に豊臣秀吉によって築かれた城。関ヶ原の合戦に伴う東軍と西軍の攻防戦で被害を受けた後、徳川家康の手で大規模な修築復興がなされたが、元和九年(一六二三)廃城になった。
井伊谷城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷の盆地北側、標高一一四メートルの城(しろ)山の山頂とその南東方向の麓にあった居館。井伊(いい)城ともいい、井伊氏の居城。なお史料上、南北朝期にみえる井伊城は三岳(みたけ)城をさす。
三岳城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町三岳・川名。三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷(いいのや)の井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは
(日本大百科全書(ニッポニカ))
塁、堀、柵など外敵の侵入を防ぐために設けられた軍事的構築物のことをいい、さらにそれによって防衛された地域もいう。城郭という語も城と同義に用いられる。しかし火器の発達した近代に構築された軍事的防衛施設は城とよばず要塞とよばれる。最初は自然の地形を利用して防衛のためにのみ築城したが
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岸和田城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまり
平戸城(国史大辞典)
長崎県平戸市岩の上町所在。亀岡城・朝日岳城・玄武城ともいう。平山城。平戸藩主松浦氏の居城。宝永四年(一七〇七)松浦棟が築城、以後明治維新に至る。実はこれ以前、同地には慶長年間築城の日之岳城があった。しかし、これは慶長十八年(一六一三)
高山陣屋跡(日本歴史地名大系)
[現]高山市八軒町城山の西方、宮川に架かる中橋を西に渡った地点に東に向いて位置する。敷地は一千一九二坪で、陣屋門(天保三年築造)・表玄関、広間(書院造)・白洲・庭園・収納米蔵などがあり、現存する唯一の郡代陣屋跡として国指定史跡
奈良井宿(日本歴史地名大系)
[現]楢川村大字奈良井鳥居峠(一一九七メートル)の北麓に位置し、中山道の中で最高所の宿である。「西筑摩郡誌」によると「天文元年、木曾義在奈良井に専念寺を建つ。同二年、義在木曾に宿駅を定む」とあり、永禄一一年(一五六八)の相州文書にも宿駅として
韮山反射炉(日本歴史地名大系)
[現]韮山町中字鳴滝(なるたき)にある幕末に築造された反射炉。国指定史跡。一九世紀ヨーロッパにおいて高炉が発達し、銑鉄の大量生産が可能になると、銑鉄を溶融して大砲を鋳造するために反射炉が考案された。天保(一八三〇―四四)末年オランダより入った技術書
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