[現]楢川村大字奈良井
宿の長さは元禄五年(一六九二)の「高木伊勢守様御通ニ付福島ヘ宿々ヨリ書上写」(亀子文書)では六町二〇間、天保一四年(一八四三)の中山道宿村大概帳では八町五間となっており、幕末には宿が拡張されている。文化二年(一八〇五)の「木曾路名所図会」には「贄川まで一里半又楢井とも書す、駅中東西七町余、相対して巷をなす、其余民家散在す、此宿繁昌の地にして木曾駅中の甲たり」とあって、田畑は少なく、純粋の消費都市として繁栄していた宿場町であった。中山道宿村大概帳には「本陣一、脇本陣一、旅籠五(大一、小四)、問屋二、年寄役二、帳付二、馬指二、人足指二、宿継人馬二五人二五疋」とあり、天保九年の「木曾巡行記」には「宿内并出郷平沢は、往古より檜物・がらく細工・塗物等職業にいたし、先年は夫々利徳有之故土着の人数も相増凡三千人余も有之夫々渡世せし也」とあって、宿の繁栄ぶりを具体的に物語っている。
明治九年(一八七六)の「奈良井村誌」には物産として「膳・重箱・弁当箱・飯櫃・通シ盆・広蓋・塗櫛等なり。東京、大阪、其の他諸国に輸出す」とあるが、塗櫛が大正になって衰微したほかはますます発展し、現在作業場をもつ家が三〇余軒ある。
明治の国道改修からはずされたことから、旧十一宿中、最も宿場時代の町並の面影をとどめており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。
例年八月一二日に
©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo
©2021 NetAdvance Inc. All rights reserved.