イタリアの航海者で,〈新大陸〉の発見者。コロンブスはラテン語の呼び名で,イタリア語ではコロンボChristoforo Colombo,スペイン語ではコロンCristóbal Colón。零細毛織物業者を父として,ジェノバに生まれ,同地の有力貿易商会に身を置いて,商いと航海の生活に入る。1474,75年,エーゲ海のキオス島への乳香の買付け航海に参加,76年5月,商船隊に乗船してフランドルへ向かった。だが,途中サン・ビセンテ岬沖でカスティリャ・ポルトガル戦争に巻き込まれ,炎上する甲板から海中に逃れて,泳ぎついたラゴスの浜からリスボンへ向かう。翌77年の初め,救援船に再乗船しイギリスへ,その後,再びリスボンでの生活に戻り,78年,砂糖の買付けのためマデイラ島を訪れる。この商旅行で大西洋の西方に強く魅せられたらしく,以後,未知の海に関する情報を収集する一方,ラテン語,スペイン語を学び,エネア・シルビオ・ピッコロミニ著《世界誌》やP.ダイイ著《世界像》などを渉猟して,西回り航路によるジパング,カタイ(アジアのこと)到達計画を作り上げ,フィレンツェの学者トスカネリの支持を得るにいたる。
これと前後する80年ごろ,マデイラ諸島のポルト・サント島初代総督バルトロメウ・ペレストレロの娘フェリパと結婚,82,83年ごろ,アフリカ西海岸南下の航海に出かけ,外洋での航海に必要なデータをつかむとともに,訪れたエルミナ交易城砦では黒人奴隷取引の実際を見聞した。そして83年の末ごろ,航海計画案をポルトガル国王ジョアン2世に提案した。しかしアフリカ西海岸南下の航海が着実な成果を挙げているさなかでの交渉は,費用の負担や見返りの報償などが原因でまとまらず,85年春,息子ディエゴを連れ,隣国カスティリャへ去る。
86年1月,コロンブスはカトリック両王にあらためて航海計画を提案した。提案はタラベラ神父が主査する委員会に付託されたものの,当時,カトリック両王はイスラム勢力最後の牙城グラナダの攻略に全精力を注いでおり,最終判断が出ぬまま数ヵ年が経過する。この間,ポルトガル王と再交渉したり,実弟バルトロメをイギリス王,フランス王のもとに派遣したり,自らもフランス王のもとに向かう決意もしたが,グラナダの陥落(1492年1月2日)で新たな展望が開け,アントニオ・デ・マルチェーナ,フアン・ペレス,ディエゴ・デ・デサなどの聖職者,ルイス・デ・サンタンヘル,ガブリエル・サンチェスらの宮廷人などの助力もあり,同年4月17日,ついに航海実施の合意が成立した(サンタ・フェの協約)。
この協約により,コロンブスは世襲職として〈提督〉の地位が,また終身職として〈副王にして総督〉の地位が約束されたうえ,新しく発見される地域から得られるであろう利益の10分の1を取得する特権,今後の交易活動に対し最高8分の1の資本参加特権などが承認された。航海の準備はピンソン3兄弟の協力を得て進められ,同年8月3日,サンタ・マリア号,ピンタ号,ニーニャ号の3隻に120名の乗組員を乗せて,パロスの港から念願の航海に出発した。カナリア諸島に停泊したのち,9月6日,ゴメラ島を離れ,ほぼ北緯28°線上を一路西へと航行,初めて経験する磁針偏差やサルガッソー海の不安を克服して,10月12日,グアナハニと呼ばれたバハマ諸島中の一島(現,ワットリング島)に到着した。
この島はゴメラ島から計算して1128リーグの地点にあり,この数字はまさしくコロンブスが予定していた数字でもあった。彼は上述のダイイの著書から,地球の経緯度1°を562/3マイルとする9世紀のアラブの地理学者ファルガーニーの説を採用して,地球の一周長を2万0400マイル,すなわち5100リーグと算出し,陸地と海面の比率については,同書に収録されている《エスドラス書》の記事に従い,6:1と考え,ヨーロッパの西端からジパング周辺の群島地域までを730~750リーグとした。これにマルコ・ポーロの記述によるジパング~大陸間1500マイル,つまり,375リーグを加算すると,計1105~1125リーグとなる。こうした計算の中で,コロンブスはファルガーニーが使用したアラビア・マイル(1973.5m)をイタリア・マイル(1477.5m)と誤解したため,地球の一周長は約3万kmとなり,実際より25%も短いものと受け取られたわけで,これが航海の成功を確信させた一因となっている。
このようにして予想と現実とが偶然にも合致した結果,コロンブスはインドの一角に到着したと確信し,神への感謝の意をこめて,この島をサン・サルバドル島(〈聖なる救済者〉の意)と命名した。そして早速〈インディオ〉と呼んだ原住民から黄金と香料の地について情報を聞き出しながら,キューバ島からイスパニオラ島(現,ハイチ島)へと航行した。しかしクリスマスの夜,サンタ・マリア号が座礁,難破したため,急きょナビダー居留区を設営,約40名を残留させたのち,帰還の途につき,93年3月15日,パロスに帰着した。
完全な成功と映った第1回航海にひかれて,第2回航海(1493年9月25日出発)には17隻に1500名が競って乗船した。しかしイスパニオラ島に到着するや,一行の夢と期待は失望から不満へと転じていく一方,金鉱労働に徴発され始めた原住民の反乱も慢性化していく。コロンブスは黄金や香料に代わる富として,反乱を起こした原住民を奴隷として本国に送り出す(1495)が,イサベル女王の怒りを買ってしまう。こうした苦境を打開するため,第3回航海(1498年5月30日出発)に出て,香料諸島への入口を探すが,これが徒労に終わるころ,島ではコロンブスの支配からの独立を掲げてフランシスコ・デ・ロルダン一派の反乱が起こる。1500年8月,コロンブスは彼の統治能力を問うため来島した査察官ボバディーリャにより鉄鎖をつけられて本国に送還され,ここに事実上コロンブスの時代は終了する。02年ニコラス・デ・オバンドが新総督に任命されたのち,最後の第4回航海に出発(5月9日)し,パナマ地峡地帯を徘徊するが,太平洋を目にすることなく,空しく帰国(1504年11月7日)。この航海の無理が高じて急速に健康を害し,06年5月20日,アジアに到達したと信じたままバリャドリードの地で他界した。
イタリアの航海者,アメリカ〈発見〉者.
無名時代の経歴は不詳の点が多く,生年を含め異説がある.父(Domenico Colombo)はジェノヴァの毛織物業者.船乗りとなり,リスボンに住みつき [1476],アイスランド,アイルランド,マデイラ諸島などへ航海し,結婚 [79]後,西アフリカへ航海して熱帯貿易風を体験した.
〖参考〗S.E.Morison:Admiral of the ocean sea, 2巻, 1942.
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