ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 世界史上の人物
  10. >
  11. コロンブス

ジャパンナレッジで閲覧できる『コロンブス』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本大百科全書・世界大百科事典・世界人名大辞典

日本大百科全書(ニッポニカ)
コロンブス
ころんぶす
Christopher Columbus 英語
Cristóbal Colón スペイン語
Christoforo Colombo イタリア語
[1451―1506]

スペイン語名クリストバル・コロン、イタリア語名クリストフォロ・コロンボ。イタリアのジェノバ生まれといわれる航海者、新大陸の「発見」者。生年月日は明確ではないが、1451年の8月26日から10月末日までの間に生まれたと推定される。
[飯塚一郎]

「計画」の実現まで

彼は、10代の終わりころには毛織物業者の父ドメニコの家業を手伝って織物やワインの売買で地中海を航海し、20代後半には頼まれてマデイラ島へ砂糖買付けのために出向いたこともあったらしい。1476年ポルトガル南西端サン・ビセンテ岬沖で、彼の船が海賊に襲われて沈没、板切れ一枚で陸に泳ぎ着き、ラゴスを経てジェノバ商人の居住区を頼ってリズボア(リスボン)へ行ったといわれる。彼はこの前後までの間に、マルコ・ポーロの『旅行記』、プトレマイオスの『コスモグラフィア』(宇宙誌)、ピエール・ダイイの『イマゴ・ムンディ』(世界の姿)、トスカネッリの手紙などを読み、西航して東洋(カタイ、ジパング)へ達することに確信を得たと考えられる。1479年フェリーパ・ペレストレロという上流階級の娘と結婚、翌年一子ディエゴが生まれた。1483年か84年に、彼は西航して東洋に達する「計画」をポルトガル王ジョアン2世に請願したようであるが、審議した「数学者委員会」(探検航海を審議する)はこれを否決。彼はついにスペイン国王に請願する決心をして、1485年夏ごろディエゴを連れスペインのパロス港へやってきた。このとき妻フェリーパはすでにこの世になかったようである。パロスのサンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院長マルチェーナ神父の計らいで1486年1月イサベル女王に初めて謁見、「計画」遂行の援助を請願。これは「特別審査委員会」にかけられ審査されたが、容易に結論が出なかった。結局グラナダ陥落の直後、「計画」は女王の援助で許可されることになった(サンタ・フェの協約、1492年4月)。
[飯塚一郎]

第1回航海

1492年8月3日早朝、コロンブス座乗のサンタ・マリア号のほか、ニーニャ号、ピンタ号の3隻でパロス港を出帆、カナリア諸島を経由して西航、多くの困難を克服して、10月12日未明、コロンブスがサン・サルバドル島と命名したバハマ諸島の一島を発見、上陸した。さらに付近の島々を巡航し、キューバ島、ハイチ島(イスパニョーラ島と命名)に至り、これをアジアの一部と判断し、ここに39人(ないし43人)を植民させて帰航の途についた(1493年1月)。彼は1493年3月13日リスボア(リスボン)、15日パロスへ帰港。彼の一行のなかに現地の珍奇な物産に加え、6人(あるいは7人)のインディオがいた。
[飯塚一郎]

第2回航海

第1回航海の報告を聞いたイサベル、夫のフェルナンド両王はただちに第2回航海を促し、17隻の船団に約1500人が加わり、1493年9月25日カディスを出帆、カナリア諸島から前回より南に進路をとり、小アンティル諸島中の一島に到達、ドミニカ島と命名、11月にはハイチ島に至った。前回残してきた植民者は全滅したが、その後モンテ・クリスティ湾の近くに植民地を再建し、イサベラと命名した。さらに金鉱と東洋への道を求めて探検したが、めぼしい発見ができず、1494年6月東方へ引き返し、9月末イサベラに帰着してみると、植民地は乱脈を極め、植民者相互の不和反目が著しかった。本国から弟バルトロメオがハイチにきており、コロンブスは彼を副総督として同島に残し、1496年3月2隻の船に225人とインディオ30人を乗せて帰国の途についた。
[飯塚一郎]

第3回航海

かなりの困難を経て、1498年5月末、6隻の船団でサンルーカルを出港、7月末日、小アンティル最南端の島を発見、トリニダー(トリニダード)Trinidadと命名した。しかし第3回航海では、本国および植民地でのコロンブスに対する嫉妬(しっと)反感、悪宣伝のため、ついにはイスパニョーラ島のサント・ドミンゴで捕らえられて監禁され、1500年10月本国へ送還された。本国につくと、やがて両王の彼に対する嫌疑は晴れたが、実際には彼の地位は回復されなかった。
[飯塚一郎]

第4回航海

最後の航海は失意のうちに企てられ、1502年5月9日4隻の船隊でカディスを出港したが、1504年11月7日サンルーカルに帰着するまでたびたびの暴風雨で乗船が破損するなど苦難の連続であり、ハイチ総督オバンドに救助を求めたことさえあった。
 彼の晩年は栄光から見放され、病躯(びょうく)をセビーリャの船員宿舎に横たえるが、訪れる人もなかった。イサベル女王は1504年11月26日この世を去り、コロンブスはフェルナンド国王を追ってバリャドリードまで行き、植民地当局の不正と損害賠償を訴えたが、無駄に終わった。彼は失意のうちに1506年5月20日この世を去った。
[飯塚一郎]



改訂新版 世界大百科事典
コロンブス
Christopher Columbus
1451-1506

イタリアの航海者で,〈新大陸〉の発見者。コロンブスはラテン語の呼び名で,イタリア語ではコロンボChristoforo Colombo,スペイン語ではコロンCristóbal Colón。零細毛織物業者を父として,ジェノバに生まれ,同地の有力貿易商会に身を置いて,商いと航海の生活に入る。1474,75年,エーゲ海のキオス島への乳香の買付け航海に参加,76年5月,商船隊に乗船してフランドルへ向かった。だが,途中サン・ビセンテ岬沖でカスティリャ・ポルトガル戦争に巻き込まれ,炎上する甲板から海中に逃れて,泳ぎついたラゴスの浜からリスボンへ向かう。翌77年の初め,救援船に再乗船しイギリスへ,その後,再びリスボンでの生活に戻り,78年,砂糖の買付けのためマデイラ島を訪れる。この商旅行で大西洋の西方に強く魅せられたらしく,以後,未知の海に関する情報を収集する一方,ラテン語,スペイン語を学び,エネア・シルビオ・ピッコロミニ著《世界誌》やP.ダイイ著《世界像》などを渉猟して,西回り航路によるジパング,カタイ(アジアのこと)到達計画を作り上げ,フィレンツェの学者トスカネリの支持を得るにいたる。

 これと前後する80年ごろ,マデイラ諸島のポルト・サント島初代総督バルトロメウ・ペレストレロの娘フェリパと結婚,82,83年ごろ,アフリカ西海岸南下の航海に出かけ,外洋での航海に必要なデータをつかむとともに,訪れたエルミナ交易城砦では黒人奴隷取引の実際を見聞した。そして83年の末ごろ,航海計画案をポルトガル国王ジョアン2世に提案した。しかしアフリカ西海岸南下の航海が着実な成果を挙げているさなかでの交渉は,費用の負担や見返りの報償などが原因でまとまらず,85年春,息子ディエゴを連れ,隣国カスティリャへ去る。

 86年1月,コロンブスはカトリック両王にあらためて航海計画を提案した。提案はタラベラ神父が主査する委員会に付託されたものの,当時,カトリック両王はイスラム勢力最後の牙城グラナダの攻略に全精力を注いでおり,最終判断が出ぬまま数ヵ年が経過する。この間,ポルトガル王と再交渉したり,実弟バルトロメをイギリス王,フランス王のもとに派遣したり,自らもフランス王のもとに向かう決意もしたが,グラナダの陥落(1492年1月2日)で新たな展望が開け,アントニオ・デ・マルチェーナ,フアン・ペレス,ディエゴ・デ・デサなどの聖職者,ルイス・デ・サンタンヘル,ガブリエル・サンチェスらの宮廷人などの助力もあり,同年4月17日,ついに航海実施の合意が成立した(サンタ・フェの協約)。

 この協約により,コロンブスは世襲職として〈提督〉の地位が,また終身職として〈副王にして総督〉の地位が約束されたうえ,新しく発見される地域から得られるであろう利益の10分の1を取得する特権,今後の交易活動に対し最高8分の1の資本参加特権などが承認された。航海の準備はピンソン3兄弟の協力を得て進められ,同年8月3日,サンタ・マリア号,ピンタ号,ニーニャ号の3隻に120名の乗組員を乗せて,パロスの港から念願の航海に出発した。カナリア諸島に停泊したのち,9月6日,ゴメラ島を離れ,ほぼ北緯28°線上を一路西へと航行,初めて経験する磁針偏差やサルガッソー海の不安を克服して,10月12日,グアナハニと呼ばれたバハマ諸島中の一島(現,ワットリング島)に到着した。

 この島はゴメラ島から計算して1128リーグの地点にあり,この数字はまさしくコロンブスが予定していた数字でもあった。彼は上述のダイイの著書から,地球の経緯度1°を562/3マイルとする9世紀のアラブの地理学者ファルガーニーの説を採用して,地球の一周長を2万0400マイル,すなわち5100リーグと算出し,陸地と海面の比率については,同書に収録されている《エスドラス書》の記事に従い,6:1と考え,ヨーロッパの西端からジパング周辺の群島地域までを730~750リーグとした。これにマルコ・ポーロの記述によるジパング~大陸間1500マイル,つまり,375リーグを加算すると,計1105~1125リーグとなる。こうした計算の中で,コロンブスはファルガーニーが使用したアラビア・マイル(1973.5m)をイタリア・マイル(1477.5m)と誤解したため,地球の一周長は約3万kmとなり,実際より25%も短いものと受け取られたわけで,これが航海の成功を確信させた一因となっている。

 このようにして予想と現実とが偶然にも合致した結果,コロンブスはインドの一角に到着したと確信し,神への感謝の意をこめて,この島をサン・サルバドル島(〈聖なる救済者〉の意)と命名した。そして早速〈インディオ〉と呼んだ原住民から黄金と香料の地について情報を聞き出しながら,キューバ島からイスパニオラ島(現,ハイチ島)へと航行した。しかしクリスマスの夜,サンタ・マリア号が座礁,難破したため,急きょナビダー居留区を設営,約40名を残留させたのち,帰還の途につき,93年3月15日,パロスに帰着した。

 完全な成功と映った第1回航海にひかれて,第2回航海(1493年9月25日出発)には17隻に1500名が競って乗船した。しかしイスパニオラ島に到着するや,一行の夢と期待は失望から不満へと転じていく一方,金鉱労働に徴発され始めた原住民の反乱も慢性化していく。コロンブスは黄金や香料に代わる富として,反乱を起こした原住民を奴隷として本国に送り出す(1495)が,イサベル女王の怒りを買ってしまう。こうした苦境を打開するため,第3回航海(1498年5月30日出発)に出て,香料諸島への入口を探すが,これが徒労に終わるころ,島ではコロンブスの支配からの独立を掲げてフランシスコ・デ・ロルダン一派の反乱が起こる。1500年8月,コロンブスは彼の統治能力を問うため来島した査察官ボバディーリャにより鉄鎖をつけられて本国に送還され,ここに事実上コロンブスの時代は終了する。02年ニコラス・デ・オバンドが新総督に任命されたのち,最後の第4回航海に出発(5月9日)し,パナマ地峡地帯を徘徊するが,太平洋を目にすることなく,空しく帰国(1504年11月7日)。この航海の無理が高じて急速に健康を害し,06年5月20日,アジアに到達したと信じたままバリャドリードの地で他界した。
[青木 康征]

[索引語]
Columbus,C. コロンボ,C. Colombo,C. コロン,C. Colón,C. サンタ・フェの協約 サンタ・マリア号 グアナハニ島 ワットリング島 ファルガーニー サン・サルバドル島


岩波 世界人名大辞典
コロンブス
〔ラ〕Columbus, Christophorus
〔イタ〕Cristoforo Colombo〔スペ〕Cristóbal Colón〔英〕Christopher Columbus
1446頃~1506.5.20

イタリアの航海者,アメリカ〈発見〉者.

無名時代の経歴は不詳の点が多く,生年を含め異説がある.父(Domenico Colombo)はジェノヴァの毛織物業者.船乗りとなり,リスボンに住みつき [1476],アイスランド,アイルランド,マデイラ諸島などへ航海し,結婚 [79]後,西アフリカへ航海して熱帯貿易風を体験した.トスカネッリらと書簡をやりとりし自分でも文献を調べた結果,大西洋を5000km足らず西航すればインディアス(大インド圏,東アジアを含む)に到達できると考えた.ポルトガル王ジョアン2世に後援を求めた [84]が,断られてスペインに移り [86],カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王フェルナンド5世を兼ねる)を頼った.交渉は長引いたが,グラナダ征服が成ると両王は積極的となり,契約が締結された [92.4].サンタ・マリア号など3隻の船,150人の乗組員を得てパロス港を出港 [同.8.3],カナリア諸島に寄港 [同.9]後一路西航し,バハマ諸島の一島嶼に上陸した [同.10.12].キューバ,エスパニョーラ両島を探査して翌年帰還し [93.3.15],契約どおり発見地の総督に任ぜられた.第2回航海は,エスパニョーラ島の入植と開発を目的として船20隻,1500人を率い出発 [同.9.24],小アンティル諸島,ジャマイカなどを探検したが,植民地経営が難航し協議のため帰国した [96].第3回航海 [98.5-1500.8]ではオリノコ河口で初めて南米大陸本土に到達したが,入植者の反乱の責任を問われ逮捕・送還された.無罪放免となり第4回航海 [02.3-04.11]に出て,ホンジュラス,パナマを探査したが,入植には失敗しジャマイカで遭難,ようやく帰国したがイサベル没 [04]後の宮廷はもはや彼を顧みず,失意のうちに死んだ.死にいたるまで彼は自分の発見地は東アジアだと主張し続けた.

〖参考〗S.E.Morison:Admiral of the ocean sea, 2巻, 1942.

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。
コロンブスの関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 823
検索コンテンツ
1. コロンブス画像
日本大百科全書
8月3日早朝、コロンブス座乗のサンタ・マリア号のほか、ニーニャ号、ピンタ号の3隻でパロス港を出帆、カナリア諸島を経由して西航、多くの困難を克服して、10月12日
2. コロンブス(Christopher Columbus)
世界大百科事典
口を探すが,これが徒労に終わるころ,島ではコロンブスの支配からの独立を掲げてフランシスコ・デ・ロルダン一派の反乱が起こる。1500年8月,コロンブスは彼の統治能
3. コロンブス
日本国語大辞典
イタリア語名はクリストフォロ=コロンボ(Christoforo Colombo )。英語名はクリストファー=コロンブス(Christopher Columbus
4. コロンブス(〔ラ〕Columbus, Christophorus)
世界人名大辞典
〔イタ〕Cristoforo Colombo〔スペ〕Cristóbal Colón〔英〕Christopher Columbus〔1446頃~1506.5.20
5. コロンブス就職[新語流行語]
イミダス 2018
94年)予定者の就職。大企業ではなく、小さくても将来を託せる未知の会社をと、あたかも新大陸を目指すコロンブスのような意気込みにあやかった就職状況。
6. コロンブスの航路(第1回~第4回航海)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
7. コロンブス の 卵(たまご)
日本国語大辞典
968〕〈木山捷平〉四「わかってしまえばコロンブスの卵に似ていたが」「尋常小学国語読本‐八・一九」に載るコロンブスの逸話には、「一人の男が『大洋を西へ西へと航海
8. 閣竜略伝/亜墨利加州開発記(著作ID:4361638)
新日本古典籍データベース
ころんぶすりゃくでん/あめりかしゅうかいはつき 
9. 愛書趣味 102ページ
文庫クセジュ
ついでクリストフォルス・コロンブスが来る。現存する彼の最初の航海記はラファエル・サンチェス宛の手紙で、ラテン語に訳されている。 ・『我等の時代が多大の恩恵を蒙り
10. 愛書趣味 103ページ
文庫クセジュ
 コロンブスの前記の手紙は数度にわたって刷られた。あまり気難しくなってもいけないが、手当たり次第に入手するのもよくない。六枚の木版画を入れた三十六葉のもっと完全
11. 愛書趣味 192ページ
文庫クセジュ
Jean-Baptiste Camille 55 コロンナ COLONNA, Francesco 22 コロンブス COLOMBO, Cristóforo 80
12. 愛書趣味 305ページ
文庫クセジュ
Anacharsis 8, 35, 132 我等の時代が多大の恩恵を蒙りたるクリストフォルス・コロンブスの手紙,ガンジス河の彼方にて近時発見せられたるインド諸島
13. アイスランド画像
日本大百科全書
、ビンランド(ヴィンランド。葡萄(ぶどう)の地)とよんだ。カナダ東部でその跡地が発見され、コロンブスより500年早い北米大陸発見として、1930年にアメリカ合衆
14. あおき-すいざん【青木翠山】
日本人名大辞典
び,山本琴谷(きんこく),福島柳圃(りゅうほ),田崎草雲らとまじわる。明治26年シカゴでのコロンブス博覧会で受賞。晩年失明したが創作をつづけ,墨絵の竹を得意とし
15. アザラシ画像
世界大百科事典
アザラシさえも大きな経済的価値をもつに至る。 人類によって最初に絶滅させられたアザラシは,コロンブスをはじめ航海者によって乱獲されたカリブカイモンクアザラシであ
16. アジア
世界大百科事典
発達し,ここにアジアという称呼が現在とほぼ同じ意味をもつ言葉として使われるようになった。 コロンブスの第1回探検行と同年に作られたベハイムの地球儀は,プトレマイ
17. アステカ文明 123ページ
文庫クセジュ
最初のスペイン人遠征隊  一四九二年十月十二日、バハーマス諸島の一つに到着したクリストファ・コロンブスは、インド、すなわち黄金豊かなおとぎの国、アジアに着いたと
18. アゾレス[諸島]
世界大百科事典
貿易風の影響により,南・北アメリカ,アフリカ方面からポルトガルに向かう航路上の重要な中継地点となり,コロンブス,バスコ・ダ・ガマをはじめ,多くの航海者が寄港した
19. アゾレス諸島
日本大百科全書
その象徴的事例として1493年2月18日、第1回航海からの帰途、大時化(しけ)にみまわれたコロンブスはサンタ・マリア島に避難入港した。スペインが制海権を失った1
20. アデランタード
世界大百科事典
事実上アデランタードは発見・征服地において,政治・軍事および司法面で絶大な権力を行使した。コロンブスをはじめ,太平洋の発見者バルボア,インカ帝国を征服したアルマ
21. アトランティス伝説
世界文学大事典
幻の大陸アトランティスの話は人々の想像力を何世紀にもわたってかき立て,エデンの園の所在地とする説や,コロンブス以前のアメリカ文明の発祥地とする説など空想に近いも
22. アビス朝画像
日本大百科全書
その時期は1487年バルトロメウ・ディアスが喜望峰(暴風岬)を迂回(うかい)し、1492年コロンブスが新大陸を発見し、1494年トルデシリャス条約がカスティーリ
23. アメリカ画像
日本大百科全書
れる。しかしその存在が西欧社会に広く知られるようになったのは、著名な探検家クリストファー・コロンブスが東洋(インド)の航路を発見すべく大西洋を西へ向かい、149
24. アメリカ
世界大百科事典
ったのが最初であったが,本格的・系統的な植民運動が始まったのは,1492年のコロンブスの航海以後である。コロンブスは第1回航海でバハマ諸島,キューバ,イスパニオ
25. アメリカ・インディアン画像
日本大百科全書
アメリンディアンAmerindian、アメリンディオAmerindioともいう。アメリカ大陸に初めてコロンブスが到達したとき、彼はそこがインディアス(当時のスペ
26. アメリカ・インディアン画像
世界大百科事典
の原住民をインディオと呼ぶのが日本では普通である。インディオという呼称は,新大陸を発見したコロンブスが,そこをインディアスと信じ,スペイン国王への報告書に原住民
27. アメリカ‐インディアン
日本国語大辞典
ン》南北アメリカ大陸に住む、エスキモー、アレウトなどを除く先住民の総称。「インディアン」はコロンブスがアメリカ大陸をインドの地と誤認したところからの称。現在では
28. アメリカ合衆国画像
日本大百科全書
アメリカが歴史に登場するのはコロンブスによる西インド諸島の発見(1492)以降であるが、それ以前にもヨーロッパの北方人種(ノルマン)が大西洋を横断していた形跡は
29. アメリカ合衆国画像
世界大百科事典
が,新大陸に最初に定着したのは1607年のジェームズタウンの建設においてであった。その点,コロンブスの新大陸到着につづいて,植民地化をすすめたスペイン,ポルトガ
30. アメリカ合衆国の地理 82ページ
文庫クセジュ
術によって、元来大湖地方や北東部大西洋岸 ―― シカゴ、トレド、アクロン、クリーブランド、コロンブス、ニューヨーク、ボルチモア、フィラデルフィア ―― の自動車
31. アメリカ史画像
日本大百科全書
までの、アメリカ合衆国の歴史を取り扱う。それ以前の南北アメリカにおける先住民の歴史、およびコロンブスの大陸「発見」(1492)以後17世紀に至るまでの両大陸の歴
32. アメリカ神話
日本大百科全書
物語性、無名性、伝承性にフォークロアとしての共通項をもつ。 採集されたもっとも古いものは、コロンブスの時代(15世紀末)にさかのぼり、カリブ海のバハマ諸島先住民
33. アメリカ大陸先住民
世界大百科事典
いては議論がある。なお,コロンブス到達以前の10世紀には,すでに北欧のヨーロッパ人がグリーンランドやニューファウンドランドに進出しており,また,ポリネシア人もコ
34. アメリカ彦蔵自伝 1 26ページ
東洋文庫
アメリカ合衆国から日本に来た最初の探検隊も、一八四六年に浦賀の港にはいったのであった。それは、戦艦コロンブス号とコルヴエット型のヴィンセンス号とで構成され、合衆
35. アメリカ彦蔵自伝 1 27ページ
東洋文庫
通じて次のように言った。すなわち、大尉の叔父というのが、一八四六年にフリゲート艦コロンブス号に乗って浦賀を訪れた提督であったが、そのコロンブス号とヴィンセンス号
36. アメリカ彦蔵自伝 1 53ページ
東洋文庫
ヨ①出-訂)」だけだった。私たちのなかに、数年前(一八四六年か、そのころ)、アメリカの軍艦コロンブス号とヴィセンス号が浦賀にやってきて、その本国の名を聞いたのを
37. アメリカン・ドリーム
世界文学大事典
アメリカはコロンブスの航海時代から,〈黄金郷〉の探険がなされる土地だった。原始的な自然や無垢な先住民の存在が,行き詰まった旧大陸の文明から脱出するにふさわしい土
38. あらかわ-きさい【荒川亀斎】
日本人名大辞典
象眼も得意とした。明治10年「紫檀(したん)製書棚」が第1回内国勧業博覧会で受賞,26年シカゴでのコロンブス博覧会に「櫛稲田姫命」(出雲(いずも)大社蔵)を出品
39. アリオスト ルドヴィーコ
世界文学大事典
南下する大航海時代が始まっていて,1492年には,ジェーノヴァの航海者クリストーフォロ・コロンボ(コロンブス)が新世界へ達した。同じ年に,メーディチ家の大ロレン
40. アレクサンドロス大王 42ページ
文庫クセジュ
、いつから彼はインドを征服するという計画をあたためていたか、である。  アレクサンドロスにコロンブスを重ねて見ることは、まったくの誤りである。この王は、未知の土
41. アンティグア・バーブーダ画像
日本大百科全書
る。三つの島はいずれも熱帯気候に属し、気温の年較差は少ない。 アンティグア島は1493年、コロンブスの第二次航海で「発見」され、スペインとフランスが植民地化を試
42. アンティグア・バーブーダ
世界大百科事典
行する東カリブ・ドル,また司法では東カリブ裁判制度に属している。 アンティグアは1493年コロンブスによって発見され,17世紀前半にイギリス植民地となり,17世
43. アンティル[諸島]
世界大百科事典
ヨーロッパでは,中世から大西洋の向こうにはアンティリアAntiliaと呼ばれる土地があると想像されていたが,コロンブスの新世界発見後,スペイン人がハイチをアンテ
44. アードリック(Erdrich, (Karen) Louise)
世界人名大辞典
medicine, 1984》をはじめ,1990年代初めまで夫と共同創作するが,2人の名前が記されたのは《コロンブス・マジック▼:The crown of Co
45. アービング(Washington Irving)
日本大百科全書
『一旅行者の物語集』(1824)を発表した。1826年から3年間、スペインのアメリカ公使館に勤務しながら、『コロンブス伝』(1828)、『グラナダ征服』(182
46. アーヴィング ワシントン
世界文学大事典
この時期にマドリードで書誌学者オバダイア・リッチの家に滞在したせいもあって,コロンブスに関する資料を集め,その結果が『クリストファー・コロンブスの生涯と航海の歴
47. アーヴィング(Irving, Washington)
世界人名大辞典
Sleepy Hollow》は,英米両国で好評を得た.外交官としてスペインに赴き[26],《コロンブスの生涯▼:The life and voyages of
48. イェンセン(Johannes Vilhelm Jensen)
日本大百科全書
1910)で地位を確立。『王の没落』『マダム・ドラ』などを経て、『失われた大陸』に始まり『コロンブス』で終わる六巻の文化史小説『長い旅』(1908~1922)で
49. 医学
世界大百科事典
よび平時では監獄でしばしば流行した発疹チフス,それに1493年アメリカ発見の航海から帰ったコロンブスの一行によってもちこまれた梅毒も,たちまちヨーロッパをまきこ
50. イギリス映画
世界大百科事典
モーム原作によるオムニバス映画《四重奏》(1948),ハリウッドから招いたフレドリック・マーチ主演《コロンブスの探険》(1949)等々。スリラーとメロドラマが多
「コロンブス」の情報だけではなく、「コロンブス」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

コロンブスと同じ世界史上の人物カテゴリの記事
ナポレオン [改訳](文庫クセジュ ベストセレクション)
ナポレオン[改訳] 文庫クセジュ79 アンリ・カルヴェ著/井上 幸治訳 歴史・地理・民族(俗)学 第一章 ナポレオンの出身、青年時代 ボナパルト家 いま知られるところで、ナポレオンのもっとも古い祖先は、十五世紀末にあらわれたフランソワ・ボナパルトである。
范寛(世界人名大辞典・世界大百科事典)
名:中正 字:中立(仲立)中国北宋の画家.華原(現,陝西銅川)の人.性格が温厚で度量が大きかったことから「寛」とあだ名されるようになったという.在野の山水画家で,天聖年間 [1023-32]には,なお在世していたとされる
イブン・スィーナー(世界人名大辞典・世界大百科事典)
イスラーム哲学者,医学者.ブハラ(現ウズベキスタン)でサーマーン朝のペルシア人官吏の子として生まれ,イスラーム,ギリシア,インドの諸学,特に哲学,医学,数学,天文学などを極めた.サーマーン朝の王子を治療して宮廷に出入りし
ウィリアム1世(世界人名大辞典・世界大百科事典)
1027(28)~87.9.9イングランド王 [1066/87].ノルマンディー公ロベール1世(悪魔公)(Robert I le Diable †1035)の庶子.父が没するとノルマンディー公ギヨーム2世(Guillaume II)となり [1035-87],ハロルド2世がイングランド王に即位する [66]と,先王エドワード(証聖王)による
朱熹(世界人名大辞典・世界文学大事典)
1130.10.18[建炎4.9.15]~1200.4.23[慶元6.3.9]中国南宋の思想家,儒者.一般に朱子と呼ばれる.本籍は徽州の婺源(ぶげん)だが,福建尤渓(ゆうけい)(現,福建三明)で生まれた.科挙に合格,地方官として各地をまわるが,地元の福建で教育と学問に携わる期間が長かった
世界史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「コロンブス」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
服部半蔵(世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・日本大百科全書)
徳川氏の部将。半三とも書く。石見守,名は正成(まさなり)。父保長(石見守),子の正就(まさなり)(石見守)・正重(伊豆守)兄弟も半蔵(半三)を通称とする。服部氏は伊賀を本国とし,保長のときに三河国に至り徳川(松平)氏の家臣となった
石川五右衛門(世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・日本大百科全書)
安土桃山時代の盗賊の頭目。豊臣政権に反発する義賊というのは江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎において粉飾された説で,《言経卿記》《豊臣秀吉譜》,アビラ・ヒロン《日本王国記》などによれば凶悪な窃盗である。1594年8月23日親子党類ともに京都三条河原で極刑に
与謝野晶子(国史大辞典・日本大百科全書)
一八七八 - 一九四二 明治から昭和時代にかけての歌人・詩人。本名しよう。明治十一年(一八七八)十二月八日、堺県甲斐町(大阪府堺市甲斐町)に生まれる。生家は菓子商駿河屋。父鳳(ほう)宗七・母つねの三女。堺女学校補修科卒。はやくから古典に親しみ
横山大観(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八六八 - 一九五八 明治から昭和時代にかけての日本画家。明治元年(一八六八)九月十八日、水戸城下三ノ町(水戸市城東二丁目)に酒井捨彦の長男として生まれる。幼名秀蔵、秀磨。のち母方の横山家を継ぐ。明治二十二年新設の東京美術学校に入学
山県有朋(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八三八 - 一九二二 明治・大正時代の政治的、軍事的最高指導者の一人。号、含雪。天保九年(一八三八)閏四月二十二日長州萩城下川島村(山口県萩市川島)の下級武士の家に生まれる。父は有稔、母は松子。幼名は辰之助、小助、小輔。少年期から槍術に励んだ
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る