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チャーチル

ジャパンナレッジで閲覧できる『チャーチル』の日本大百科全書・世界大百科事典・世界人名大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
チャーチル
ちゃーちる
Sir Winston Leonard Spencer Churchill 
[1874―1965]

イギリスの政治家。11月30日保守党政治家ランドルフ・チャーチルの長男として、名門貴族マールバラ公爵家に生まれる。サンドハースト陸軍士官学校で学んだのち、陸軍に入り、インドに赴任した。そこでの経験をもとに書いた『マラカンド野戦軍』The Story of the Malakand Field Force(1898)や、その後スーダンのオムデュルマンの戦いに参加してから著した『河畔の戦争』The River War(1899)で文名をあげた。1899年陸軍を辞め、保守党から補欠選挙に立候補したものの落選し、『モーニング・ポスト』紙の特派員としてブーア戦争の取材に赴いた。そこでブーア軍の捕虜となったが、収容所からの脱出に成功し、英雄扱いを受けた。
その勢いを駆って、1900年の総選挙で保守党下院議員に当選した。しかし、ジョゼフ・チェンバレンが関税改革運動を始めると、それに反対して保守党を離れ、自由党に鞍(くら)替えした(1904)。1905年末に成立した自由党内閣で植民地省政務次官となり、トランスバールへの自治供与によるブーア人との和解を推進した。1908年商務相に就任、ロイド・ジョージによる諸改革を助け、さらに内相(1910~1911)を経て、1911年海相となり、海軍の近代化に努めた。1915年、アスキス首相が保守党との連立内閣をつくるに際して、海相辞任を余儀なくされた。連立内閣でランカスター公領相を短期間務めたのち陸軍に復帰、フランスで従軍した。1917年ロイド・ジョージ内閣の軍需相として政界に戻り、陸相(1918~1921)、植民地相(1921~1922)を歴任した。陸相としてはロシア革命干渉戦争に力を入れ、植民地相としては中東の錯綜(さくそう)した状況を収拾してイギリスの勢力圏を確立するとともに、アイルランド南部への独立付与によってアイルランド民族運動の鎮静化を図った。自由、保守両党の連立が破れたあとの1922年の総選挙で落選、労働党の台頭に直面して自由党に見切りをつけて保守党に移り、1924年保守党下院議員に選ばれた。保守党ボールドウィン内閣では蔵相に就任(1924~1929)、金本位制への復帰を断行したが、第一次世界大戦前の旧平価での復帰はイギリス経済にとっての負担となり、1926年のゼネストを誘発した。このゼネスト期間中は、『ブリティッシュ・ガゼット』という新聞を編集し、スト攻撃に全力を注いだ。
1930年代には、インド民族運動への若干の譲歩を盛り込んだインド統治法にかたくなに反対し、保守党内で孤立していった。そのため、早くからナチス・ドイツの強大化について警鐘を鳴らし、ネビル・チェンバレンなどの追求する宥和(ゆうわ)政策に鋭い批判を加えたものの、十分な政治勢力を築きえなかった。しかし、宥和政策が失敗し第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するに及んで、政界での力を回復、海相(1939~1940)を経て、1940年5月首相の座についた。
大戦中はルーズベルトやスターリンと緊密な連絡を保ちつつ、政戦の両面にわたって強大な指導力を発揮し、連合国側の勝利に貢献した。その反面、戦争中に強まってきた社会改革を求める国民の声には冷淡であったため、戦争終結を目前にした1945年7月の総選挙では、改革を強調する労働党に敗北を喫した。1951年の総選挙後ふたたび首相となったが、高齢のための衰えが目だち、1955年イーデンに後を譲った。1965年1月24日死去。
20世紀のイギリスを代表する政治家であると同時に、文筆家、歴史家としても一家をなし、第一次世界大戦の歴史である『世界の危機』The World Crisis(1923~1929)や『第二次世界大戦史』The Second World War(1948~1954)などの著作は広く読まれている。1953年ノーベル文学賞受賞。また画家としても優れた才能をもっていた。
[木畑洋一]



改訂新版 世界大百科事典
チャーチル
Winston Leonard Spencer Churchill
1874-1965

イギリスの政治家。スペイン継承戦争に戦功をたてた初代マールバラ公の子孫。保守党蔵相を務めたランドルフ・チャーチルRandolf C.(1849-95)の長男。チャーチルは動乱期の指導者として最もよくその才能を発揮する型の政治家であり,90年におよぶ生涯は,大英帝国の栄光とその清算を象徴している。名門に生まれ軍人を経て議会人になった前半生は,精力的で豪胆なためむしろ不遇であった。だがナチス・ドイツと死闘するイギリスの運命を担ったとき,彼の強靱な戦闘意志と率直な雄弁は瀬戸際で国民を鼓舞し,5年にわたる政治と軍事の非凡な指導によって,反ナチス陣営を勝利へと導いた。

1895年陸軍士官学校を卒業すると,第4軽騎兵連隊に入り,キューバ,インドで反乱鎮圧軍に参加,スーダン遠征,ボーア戦争にも軍人または記者として従軍し,これらの体験記を著して名声を得た。1900年保守党から下院に入り,独自の政治見解に基づき同党指導層を批判,ことに自由貿易主義を支持し保護関税政策に強く反対,04年自由党に移籍した。自由党内閣が発足すると06年以後植民相次官,商相,内相を歴任,その間ロイド・ジョージとともに多くの社会立法成立に努力した。11年以降は海相としてドイツの脅威に対抗し海軍力強化を鋭意断行して第1次世界大戦に備えたが,15年ダーダネルス海峡攻撃失敗の責任をとって辞職。しかし,17年ロイド・ジョージ連立内閣で再び軍需相に起用された。戦後は19年第2次同連立内閣の空相兼陸相,21年植民相を務めたが,22年総選挙の結果,自由党が保守党に敗れ,労働党が第二党に躍進して,チャーチル自身も議席を失った。下院に復帰した24年,反社会主義の立場から再び保守党に戻り,ボールドウィン内閣の蔵相として,物価を引き下げ,ポンドの価値を戦前の水準に回復させるため,金本位制復帰を実施した。この引締め策はデフレ,失業,賃金低下を招き,労働者の不満が募って26年ゼネストという事態に発展した。彼は政府機関紙《ブリティッシュ・ガゼット》を発行して,強硬姿勢を示したため,第2次世界大戦までの期間,労働陣営から敵視された。29年内閣辞職とともに下野してのちは,保守党主流派と見解を異にして,10年余り閣外にとどまった。この間ナチス・ドイツの脅威に対抗して再軍備の必要を強く訴え,また自治領の地位を認めるインド統治法にも反対した。A.N.チェンバレンの対独宥和政策を激しく攻撃し,英仏ソの同盟を主張した。

39年9月第2次世界大戦の開戦と同時に海相に任ぜられ,ノルウェー作戦失敗を機に辞職したチェンバレンの後を継いで40年首相となる。彼は労働党の協力を得て強力な戦時内閣を組織し,みずからは国防相を兼務,政軍両権を掌握した。困難な戦局にも,不屈の信念と力強い雄弁により国民および連合軍の士気を鼓舞し,F.D.ローズベルト,スターリンとともに6年間戦争の最高指導に当たった。しかし45年の総選挙で保守党は敗北し,同年のポツダム会談半ばにして労働党新首相アトリーにイギリス代表の席を譲ることになった。これは,偉大な戦時指導者としてのチャーチル個人の資質によりも,労働党の社会政策に戦後再建の期待をかけた国民感情の表れと見られる。この年すでに〈鉄のカーテンIron Curtain〉という言葉でソ連への警戒心を明らかにした彼は,翌年野党党首としてアメリカのフルトンで演説し,共産主義勢力に対抗する英米協力の必要を力説,一方スイスにおいては〈ヨーロッパ統合〉を提唱した。51年には再び政権に就き,53年エリザベス2世の戴冠式にあたりガーター勲章を授けられた。同年スターリンの死後,頂上会談による冷戦の緊張緩和を企図したが,健康を害し計画の実現を見ず,55年イーデンを後継者に指名して引退した。

その名演説における格調高い英語の語法は,数多くの著作にも反映し,53年度ノーベル文学賞を受賞している。おもな著作に,父や先祖マールバラ公の伝記をはじめ,第1次世界大戦の自伝的記録《世界の危機》4巻(1923-29),《わが半生》(1930),《第2次世界大戦》6巻(1948-53),《英語国民の歴史》4巻(1956-58)などがある。またポロ競技,絵画とくに水彩画など多方面に豊かな才能を発揮,最晩年には多くの名誉が与えられ,65年国葬が行われた。
[池田 清]

[索引語]
Churchill,W.L.S. チャーチル,R. ブリティッシュ・ガゼット 鉄のカーテン Iron Curtain 世界の危機 わが半生 第2次世界大戦 英語国民の歴史


岩波 世界人名大辞典
チャーチル
Churchill, Sir Winston Leonard Spencer
1874.11.30~1965.1.24

イギリスの政治家.

R.H.S.チャーチルの長男.母はニューヨークの金融業者の娘.ハロー校に進み [1888],2度の入試失敗を経て陸軍士官学校に入学 [93].卒業して騎兵士官となり [95],インドで勤務 [96-99].一時スーダンでマフディー戦争に従軍 [98].帰国して退役 [99].ボーア戦争では従軍記者として一時捕虜となるが脱走.早くから政界も志しており,保守党から庶民院に当選 [1900].(Joseph)チェンバレンの帝国特恵関税構想に反対して自由党に移る [04].植民地省次官 [05-08]を経て商相 [08-10]として異例の若さで入閣し,ロイド・ジョージと協力しつつイギリス最初の最低賃金法 [09]など社会福祉政策を導入.内相 [10-11]を経て海相となり [11-15],ドイツ海軍の増強に対応するため,J.A.フィッシャーと協力して海軍を増強・近代化.アイルランド自治問題においては,自治を基本線で認めつつアルスターの自治反対派との妥協点を探った.第一次大戦勃発に際しては参戦を主張したが,ガリポリ攻撃失敗の責を負わされ海相辞任 [15].中佐として大隊を率いて西部戦線に出征 [16].軍需相として政府に復帰し [17-19],戦後は陸相兼空相 [19-21]として復員を速やかに完了する一方で,共産主義を敵視しロシア革命への干渉戦争の継続を主張.アイルランド独立戦争に際しては,当初は弾圧を主張したが,植民地相 [21-22]となってイギリス-アイルランド条約交渉の一員となる [21].さらにオスマン帝国解体後のパレスチナ,イラクの独立および委任統治の問題を処理するが,総選挙で落選 [22].執筆に専念し,《The world crisis, 6巻, 1923-31》を執筆.その後,保守党に戻って庶民院に選出され [24-64],蔵相として [24-29]金本位制に復帰を果たしつつ [25],自由貿易維持と歳出抑制に努めた.保守党在野期にはインドへの自治権付与に対して,イギリス支配の方が人民には望ましいとの理由で反対しつつ,ナチス・ドイツの危険を早くから警告.第二次大戦勃発とともに海相に復帰し [39-40],続いて首相 [40-45]として連立内閣を組織し,国防相を兼任.フランス降伏後もナチス・ドイツとの講和を拒否してほぼ単独で独伊と対峙しつつ総力戦を遂行し,アメリカとソ連の参戦もあって日独伊に勝利.しかし総選挙では敗れて退陣 [45].東西対立の時代を見越して〈鉄のカーテン〉の演説をアメリカで行う [46].また統一ヨーロッパ構想も発表し [同],欧州経済共同体(EEC)形成に向けた動きを後押しした.この間《第二次世界大戦:The Second World War, 6巻, 1948-54》を執筆し,ノーベル文学賞受賞 [53].51年の総選挙で再び首相となり [-55],アメリカとの〈特別な関係〉の再建に努める.老齢のため退陣.多くの栄典に浴し,ナイト爵に叙される [53]が,公爵位は拒否し,庶民院にとどまった.

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26. アラビアのロレンス 326ページ
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27. アラビアのロレンス 327ページ
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28. アルカディア会談
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29. アレグザンダー(Alexander, Albert Victor, Earl A. of Hillsborough)
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4],第2次内閣で海相となり[29-31],ロンドン海軍軍縮会議を成功に導く.W.L.S.チャーチル内閣で再び海相[40-45].C.R.アトリー内閣でも海相[
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32. イギリス国会議事堂
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知り、激しく反攻したため、ドイツ軍のほうがより多くの飛行機を失うことになった。イギリス首相チャーチルは、「人類の争いの場で、かくまで多くのことを、これほど多くの
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37. イスラムとヨーロッパ 前嶋信次著作選 2 309ページ
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のは一八三二年であるが、これはやはり官報であり、民間紙としては一八四〇年に英人ウィリヤム・チャーチルがはじめた週刊紙を最初のものとしてあげなくてはならぬ。トルコ
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39. インド省
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40. インナー・キャビネット
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1951年からまたも外相を務め、ジュネーブ会議(1954)の開催などで大きな役割を果たした。1955年4月チャーチルの後を継いで首相に就任。翌1956年エジプト
43. イーデン(Robert Anthony Eden)
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イギリスの保守党政治家。1938年ネビル・チェンバレン首相の対伊宥和政策に抗議して外相を辞したが,次のチャーチル首相の下で再び外相(1940-45,51-55)
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Anthony Eden サー=ロバート=アンソニー─)イギリスの政治家。保守党。伯爵。一九五五年チャーチルの後を継いで首相となったが、五七年スエズ出兵問題の責
45. イーデン(Eden, (Robert) Anthony, 1st Earl of Avon)
世界人名大辞典
-40],W.L.S.チャーチル内閣で陸相[40],続いて外相[同-45]となり,対独戦でのソ連との協力関係を維持しつつアメリカとの友好関係保持に努める.第2次
46. ウィルクス ジョン
世界文学大事典
イギリスの政治家。1757年より下院議員。62年政治週刊誌「ノース・ブリトン」を発刊。チャールズ・チャーチルの協力を得て政府を攻撃。翌年,同誌45号が政府の忌諱
47. ウェストミンスター寺院画像
日本大百科全書
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48. うえはら-とらしげ【上原虎重】
日本人名大辞典
昭和17年「東京日日新聞」(現「毎日新聞」)編集主幹,主筆。戦後退社したが,「毎日新聞」連載の「チャーチル大戦回顧録」の翻訳にあたった。昭和27年2月2日死去。
49. 改訂新版 英国史 89ページ
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自由な議会の召集を宣言し、解放者として迎えられた。トーリー党(および未来のマールバラー公ジョン・チャーチル)も国王を見捨てたため、ジェームズは戦うことができずに
50. 改訂新版 英国史 97ページ
文庫クセジュ
優れた指揮官であると同時に、巧みな外交官で、策にたけた政治家でもあったマールバラー公ジョン・チャーチル(その妻セアラ・ジェニングズは女王の女友達であった)に執行
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豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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