アメリカ合衆国第16代大統領(在任1861~65)。開拓農民だった父トーマスと母ナンシーの第2子(第1子は長女セラ)として、2月12日にケンタッキー州のホッジェンビル付近の丸太小屋で生まれた。独立戦争が終わったころバージニア州から辺境のこの地方に移住してきた祖父(トーマスの父)の名前をとって、エイブラハム(アブラハム)と名づけられた。
その後、一家は当時の西方への開拓の波にのり、ケンタッキー州からインディアナ州へ、さらにイリノイ州へと移住した。リンカーンが幼年期を奴隷州で、青少年期以後を北西部の自由州で過ごしたことは、後年の彼の政治経歴に重要な影響を与えている。辺境での生活のため、彼は正規の学校教育をほとんど受けることなく自学自習した。川舟乗り、雑貨商、郵便局長、測量技師などの職を転々としたのち、1834年にイリノイ州の下院議員に選出され、42年まで連続4期、州の政治に関与した。また、この間に法律を修得し、37年に友人と共同してスプリングフィールドで弁護士業を始めた。42年にメアリー・トッドと結婚、46年にはホイッグ党から選出されて合衆国下院議員を一期務めた。
リンカーンはその後しばらく政治から遠ざかるが、1850年代に入って南北間の政治的緊張がいっそう激化し、54年にイリノイ州選出の民主党上院議員のスティーブン・A・ダグラスがミズーリ協定の原則に違反するカンザス・ネブラスカ法案を国会に上程すると、これに反対して政界に復帰した。58年の中間選挙では、奴隷制拡張反対を党是とした結成後まもない共和党から上院議員に立候補して民主党のダグラスと国会での議席を争った。このとき、8月から10月にかけてイリノイ州の7都市で行われた一連の立会演説会で奴隷制問題を主軸にした論戦が展開されたが、これは「リンカーン‐ダグラス論争」として有名である。リンカーンは当選こそ逸したが、この論争によって彼の政治的資質は全国的に知れわたり、敗北したこの選挙が2年後の大統領選挙で彼に勝利をもたらす地ならしとなった。
1860年11月、リンカーンの大統領当選が南部諸州の連邦分離の合図になったように、翌年4月、南部連合軍によるサムター要塞(ようさい)の攻撃が南北戦争の発火点となった。これに対し、リンカーンはただちに7万5000人の志願兵の募集や南部の海上封鎖を命じたものの、この戦争の目的はあくまでも連邦の統一を護持するための「防衛戦争」と受け止めていた。彼は奴隷制拡張には反対だったが、現存する奴隷制度に干渉するつもりはなかった。リンカーンが奴隷解放のことを真剣に考えるようになるのは、戦争が長期化し、奴隷解放を求める北部の世論が高まり、国際的にも連邦の大義を表明しなければ北部の軍事的勝利もむずかしいと悟った62年の夏近くになってからのことである。なによりも、南部連合に加担しなかった境界奴隷諸州への政治的配慮もあって、奴隷解放はその年の9月にまず予備宣言として発せられ、3か月余の猶予期間ののち、翌年の63年1月1日に奴隷解放宣言として公布された。この宣言は反乱諸州を対象にしたもので、連邦に忠誠だった奴隷州やすでに北軍の占領下にあった地域の奴隷には適用されないという限界をもっていたが、それにもかかわらず奴隷解放宣言の歴史的意義は大きかった。これを機に、以後、南北戦争は奴隷解放の革命戦争として展開されることになる。同年の11月、リンカーンはゲティスバーグで、「人民の、人民による、人民のための」政治の保持を訴えて国民の戦意を高揚し、64年の大統領選挙で再選をかちとった。
リンカーンの戦後再建計画は反乱諸州に対してきわめて寛大で和解的なものだったが、彼は自分の再建計画の実現をみる前に、1865年4月14日の夜、ワシントンのフォード劇場で観劇中に、狂信的な南部の同調者だった俳優J・W・ブースに狙撃(そげき)され、翌朝、56歳の生涯を閉じた。南北戦争終結の5日後のことである。
アメリカ合衆国第16代大統領。在職1861-65年。ケンタッキーの農民の子に生まれ,インディアナ,続いてイリノイに移り,1831年からニューセーラムに住んだ。雑貨店経営,測量技師,郵便局長などの職を経つつ法律を勉強して弁護士となり,37年州都スプリングフィールドに移って法律事務所を開いた。その間,1832年にブラック・ホーク戦争に志願してインディアン討伐に参加,34年にはホイッグ党員として州下院議員に当選して8年間務め,42年にはメアリー・トッドと結婚した。
1846年連邦下院議員に選ばれたが,対メキシコ戦争に反対し,そのうえメキシコから獲得する領土に奴隷制を認めないという〈ウィルモット条項〉に賛成したため,選挙民の不評を買い,1期でワシントンを去らなければならなかった。しかし54年のカンザス・ネブラスカ法の成立とともに,同法に反対して政治活動を再開し,56年にはホイッグ党から共和党に移った。
そして58年,イリノイ州連邦上院議員のいすを争って,民主党のS.A.ダグラスと7回にわたる公開討論会を開いた。リンカンの立場は,既存の奴隷州には干渉しないが,準州へのこれ以上の奴隷制拡大には反対する,というものであった。ちなみに,奴隷制をめぐって分裂する連邦の未来を憂えた〈分かれたる家は立つことあたわず〉という演説は同年の州党大会で行われたものである。この選挙で敗北したものの,彼は一躍全国に名を知られ,60年共和党は比較的穏健な彼を大統領候補に指名,リンカンは北部票の支持を得て当選した。
しかし,リンカンの当選を南部奴隷制への攻撃とみた南部各州は次々に連邦を脱退し,61年2月アメリカ南部連合を結成した。彼は強くこれに反対し妥協せず,ここに南北戦争が始まった。〈私の最高の目的は連邦を救うことであって,奴隷制を救うことでも滅ぼすことでもない〉とする彼は,軍人によるかってな奴隷解放を厳禁した。しかし62年9月22日,軍司令官の権限で63年1月1日を期して占領地域の奴隷を解放する〈奴隷解放予備宣言〉を公布した。これは彼の指導力を批判しはじめた北部を結束させると同時に,イギリスの南部連合承認の動きを中止させたすぐれて政治的な行動であった。
彼の政治手腕とU.S.グラント,W.T.シャーマン,P.H.シェリダン将軍らの軍事的活躍に助けられ,64年リンカンは大統領に再選される。65年3月4日の就任演説では,南北戦争の責任は南北両方にあると説き,〈何人に対しても悪意を抱かず,すべての人に慈愛をもって〉と,博愛と寛容の精神を訴えた。連邦維持を念願する彼の関心は,脱退した南部諸州の早期連邦復帰であり,南部に寛大な再建策を用意し,共和党急進派の厳しい再建策〈ウェード=デービス法案〉を拒否した。南部降伏直後の最後の演説で南部へ寛大であるように訴えたリンカンは,その2日後,65年4月14日,ワシントンD.C.のフォード劇場で観劇中,南部出身の俳優ブースJohn Wilkes Boothに撃たれ,翌日死亡した。
リンカンは,合衆国の分裂を防いだ指導者,〈ゲティスバーグの演説〉にみられるようなアメリカ民主主義を体現する人物,最もすぐれた大統領として尊敬され評価されている。彼の死を悼んだホイットマンの《先ごろライラックが前庭に咲いたとき》(1866)をはじめ,サンドバーグの《エーブラハム・リンカン》全6巻(1926-39)など彼をテーマとした文学作品も多数あり,1922年には彼を記念するリンカン・メモリアルがワシントンD.C.に完成した。日本では,最初の国定教科書《高等小学修身書》(1904年使用開始)第2学年用で,〈勉学〉〈正直〉〈同情〉〈人身の自由〉の各項で描かれているように,〈丸太小屋からホワイト・ハウスへ〉を実現した立身出世の人,奴隷を解放した正義の人,あるいは南北戦争に勝利をおさめた直後に暗殺された悲劇の人として知られている。しかし,とくに子ども向きに描かれたリンカン像は多分に道徳化,神話化されたものが多い。
→南北戦争
アメリカ合衆国第16代大統領 [1861/65].
ケンタッキー州ハーディンの貧しい大工兼農夫の家に生まれる.インディアナに移る [1816].学校教育は生涯を通して1カ年に満たなかったが,継母の指導と読書により独学した.イリノイのメーコンに移り [30],ついでスプリングフィールド近くに落ち着いた [31].雑貨商を営んだが失敗し,村の郵便局長となり測量も行った.のち弁護士となる [36].巧みな話術で人気を集めて州議会議員に選ばれ [34-41],ホイッグ党員として活躍.下院議員に当選した [47-49]が,米墨戦争に反対した.一時政界を引退して弁護士を業としたが,奴隷制度拡大問題をめぐり南北の対立が深刻化したとき,
〖著作集〗R.P.Basler編, The collected works of Abraham Lincoln, 9巻, 1953-55.
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