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  11. 鄭和

鄭和

ジャパンナレッジで閲覧できる『鄭和』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
鄭和
ていわ
[1371?―1434?]

中国、明(みん)朝の宦官(かんがん)で、七度にわたる南海への航海を指揮した。雲南省昆陽(こんよう)州の生まれで、姓は馬氏。代々のイスラム教徒の家系である。雲南が明朝の支配下に入ったとき、捕らえられて宦官にされた。燕(えん)王(永楽帝)に仕え、その即位とともに、宦官の長官である内官監太監に起用され、鄭姓を賜った。そして1405年から33年の間に、七度の大航海の司令官を務めた。「鄭和の西洋下り」は第1~3次(1405~07、1407~09、1409~11)がコジコーデ(カリカット)、第4~7次(1413~15、1417~19、1421~22、1431~33)がホルムズを最終地としたが、別働隊はアフリカ東岸から紅海沿岸に進出した。彼の率いる船団は宝船、西洋取宝船などとよばれた大型の商船(長さ150メートル、幅62メートル)六十数隻からなり、乗員も二万数千人に上った。このほか第6次と第7次の間の1424年彼はパレンバンに出使している。「鄭和の西洋下り」は中国史上最大の航海事業であったばかりでなく、世界史上にも例のないものであった。その主たる目的は政府直営の海外貿易の促進にあり、中国国内はもちろん、相手国の社会や経済にも大きな影響を及ぼした。
また、随行者の著作である『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』『星槎(せいさ)勝覧』などにより、中国人の東南アジア方面に関する知識が深まり、華僑(かきょう)の進出の端緒となったことも見逃せない。
[寺田隆信]



改訂新版 世界大百科事典
鄭和
ていわ
Zhèng Hé
1371ころ-1434ころ

中国,明代の宦官で武将。29年間に前後7回にわたる南海遠征を行い,〈鄭和の西洋下り〉と呼ばれ後世に知られる。雲南省昆陽(昆明市晋寧県)の人。姓を馬といい,その先祖は西域出身とされる。イスラム教徒で,燕王棣(てい)に仕えて武功があり,棣が永楽帝となるに及んで内官大監(宦官の最高職)に抜擢され,また1404年(永楽2)には鄭姓を賜った。三保(三宝)大監と通称される。

彼の南海遠征は第1回(1405-07)がベトナム,ジャワ,スマトラ,マラッカ,セイロンよりインド西岸まで,第2回(1407-09)はほぼ同様なコースをインド西岸まで,第3回(1409-11)がタイ,ジャワ,マラッカ,セイロン,インド西岸まで,第4回(1413-15)がほぼ同様のコースをインド西岸に出てペルシア湾方面まで,また別働隊はスマトラよりアフリカ東岸アラビア半島方面へ,第5回(1417-19)が,ほぼ同様のコースをアラビア湾口ホルムズまで,また別働隊はアラビア半島,アフリカ東岸へ,第6回(1421-22)がスマトラまで,別働隊はペルシア湾,アフリカ東岸方面へ,最後の第7回(1431-33)がベトナム,ジャワ,スマトラ,マラッカからインド西岸を経てホルムズまで,また別働隊はアラビア半島メッカへそれぞれ至っている。これら遠征艦隊の規模は,第1回が大船62隻,兵員2万7800余人,第7回が兵員2万7550人という大きなものであった。

この遠征の影響については莫大な費用を投じて無名の宝を持ち帰っただけで,国内経済を困窮させたとする批判がある一方,この遠征の結果,盛んとなった朝貢貿易が当時発展しつつあった蘇州の絹織物工業や景徳鎮の陶器工業に刺激を与え,資本制生産への移行を加速させたとする二つの見方に分かれる。それにしても,この遠征が原住民の首長に明朝の勢威を認めさせ,さらにジャワ,スマトラ方面に流寓していた華僑の状況を明らかにするとともに,これを統制して明朝に服せしめ,のちの東南アジアへの華僑の大進出のはるかな先駆となるものだったことはたしかであろう。
[船越 昭生]

[索引語]
Zhèng Hé
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鄭和の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1192
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検索コンテンツ
1. てい【鄭和】(Zhèng Hé)
世界人名大辞典
まで達した.第7回航海の成果に基づいて製作された海図が,《鄭和航海図》と題して現存する.〖文献〗 明史304.〖参考〗 楊文衡:鄭和, 1993(杜石然主編,
2. 鄭和画像
日本大百科全書
監に起用され、鄭姓を賜った。そして1405年から33年の間に、七度の大航海の司令官を務めた。「鄭和の西洋下り」は第1~3次(1405~07、1407~09、14
3. 鄭和画像
世界大百科事典
1371ころ-1434ころ 中国,明代の宦官で武将。29年間に前後7回にわたる南海遠征を行い,〈鄭和の西洋下り〉と呼ばれ後世に知られる。雲南省昆陽(昆明市晋寧県
4. てい‐わ【鄭和】
日本国語大辞典
中国、明の武将。雲南出身のイスラム教徒。姓は馬氏。永楽帝に鄭の姓を賜わる。大艦隊を率いてインド、ペルシア、アフリカ、アラビア、スマトラ、シャム、メッカなど諸地に
5. 【鄭和】ていわ*じょう(ぢゃう)わ
新選漢和辞典Web版
人名。明(みん)時代の通商使節。
6. 鄭和の西洋下り[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
7. 鄭和 : 図-鄭和の航海図画像
世界大百科事典
8. こうせいそう【黄省曽】(Huáng Xǐngzēng)
世界人名大辞典
強く受けた.著作分野は多方面にわたり,文学以外に生業や趣味に関わる《理生玉鏡稲品》《藝菊書》および鄭和(ていわ)の航海記録を再整理した地理書《西洋朝貢典録》など
9. しゅせんき【朱瞻基】(Zhū Zhānjī)
世界人名大辞典
の上都に置かれていた開平衛を長城の内側に移し,長城をもって防衛線にするに留めた.永楽帝が始めた鄭和の遠征の7度目を実施した[30-33]が,これが彼の代の最初で
10. しゅてい【朱棣】(Zhū Dì)
世界人名大辞典
断行した[21].対外関係では,モンゴル遠征のため5度にわたって自ら長城外に出陣するとともに,太監鄭和を南海の諸国に派遣して朝貢体制を確立した.内政面では,洪武
11. かん【馬歓】(Mǎ Huān)
世界人名大辞典
汝欽 中国明代初めの旅行家.紹興(浙江)の人.ムスリムで,太監鄭和の第4次[1413-16:永楽11-14]の南海遠征に通訳兼書記として同行した.福建の五虎門
12. しん【費信】(Fèi Xìn)
世界人名大辞典
[1403-24]から宣徳年間[26-35]にかけて,太監鄭和が派遣された南海遠征に随行して,その記録を《星槎勝覧》にまとめた.鄭和の遠征には,第3次と第4次,
13. りゅうだいか【劉大夏】(Liú Dàxià)
世界人名大辞典
ちょく)が安南(ベトナム)と老撾(ラオス)との紛争に介入し出兵しようとするのを阻止した.一説に鄭和の南海遠征関係の記録もこの時に処分されたといわれる.弘治年間[
14. アフリカ史画像
日本大百科全書
ッコ人地理学者アル・イドリーシーが記している。1417~1419年には、中国(明(みん)朝)の鄭和(ていわ)が大艦隊を率いて東アフリカ海岸に来航している。これら
15. アフリカ探検画像
日本大百科全書
アル・イドリーシーが、海岸諸都市の繁栄について記しており、1417~1419年には明(みん)の鄭和(ていわ)が大艦隊を率いて来航している。その後1498年にはポ
16. イエズス会士中国書簡集 5 紀行編 213ページ
東洋文庫
明の宣徳の間、大監王三保(通志鄭和に作る)西洋に舟下し、風に因りてここに泊す」とある。伊能嘉矩『台湾文化志』昭和三年、刀江書院によれば、この王三保は三保大監鄭和
17. インド洋画像
日本大百科全書
確実な資料では、明(みん)の鄭和(ていわ)による。永楽帝の命を受け、1405~33年の間に7回にわたりインド洋を航海し、インド西岸、ペルシア湾、アフリカ東岸など
18. インド洋画像
世界大百科事典
が用いられたことは元代のマルコ・ポーロやイブン・バットゥータらが証言している。15世紀になると鄭和の7次にわたる遠征隊(1405-33)がホルムズ,南アラビアの
19. ウィクラマワルダナ(Wikramawardhana)
世界人名大辞典
死後,王位を継いだ.東王宮に住む異母弟ウィーラブーミ(Wīrabhūmi)とは対立を深めたが,鄭和遠征隊がジャワを訪れた1406年の内戦でウィーラブーミを殺害し
20. 瀛涯勝覧
日本大百科全書
中国、明(みん)代「鄭和(ていわ)の西洋下り」(1405~33。南海遠征)に参加し、その見聞をまとめた著作。著者は馬歓で、浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)県
21. 永楽帝画像
日本大百科全書
(あしかがよしみつ)を日本国王に封じて、日本を朝貢国とするに至った。さらに南方諸国に対しては、鄭和(ていわ)の率いる大船団を七度も派遣し、東南アジアから、インド
22. 永楽帝
世界大百科事典
臣属国とし,室町幕府の3代将軍足利義満を日本国王に封じて,日本を朝貢国とするにいたった。さらに,宦官鄭和の率いる大船隊を,東南アジアの国々から,インド洋・ペルシ
23. えいらく‐てい【永楽帝】
日本国語大辞典
自ら帝位について年号を永楽と改め、北京に遷都。韃靼(だったん)部を討ち、また宦官(かんがん)の鄭和(ていわ)を南海に派遣して諸国を従わせた。内政では、中央集権を
24. えいらくてい【永楽帝】
国史大辞典
源道義)との間に朝貢貿易と倭寇禁止とを条件に、日明間の国交を回復した。ついで同三年に始まる宦官鄭和らに命じた南海遠征は、帝一代で七回に及んだ。翌四年には安南(ベ
25. 華僑
日本大百科全書
もたらしたのは元から明(みん)の中期にかけての、王朝による海外遠征(元・世祖(せいそ)の東南アジア遠征、明・鄭和(ていわ)による7回に及ぶ南海遠征が著名)と、「
26. 華僑
世界大百科事典
家に上って,さながら独立国の観を呈したという。1405年(永楽3)から明の成祖が数回にわたって鄭和を南海遠征に派遣したのは,これらの海賊を鎮定して政府による貿易
27. 〈華麗島〉台湾からの眺望 前嶋信次著作選 3 400ページ
東洋文庫
読めば「成程」と思うだろう。「史蹟」としるして、「開墾の年代を知るものなし。相伝う明の三保大監鄭和〔一三七一-一四三四年頃〕、艦隊を率いて西洋に赴く途中この井戸
28. 宦官
日本大百科全書
地方には税使となって民政にも強く干渉した。 永楽帝のとき、宦官鄭和(ていわ)に大船団を率いさせ、前後7回、南海諸国を経略させたが、鄭和がよくその歴史的使命を果た
29. 宦官
世界大百科事典
中国の歴史上にはなはだしい害毒を流したが,時には立派な人物もないわけではなく,後漢の蔡倫,明の鄭和などはその代表である。 つぎに宦官の供給源についていえば,古代
30. 義経記 1 4ページ
東洋文庫
〈修羅の夢〉謝ライラとマジュヌーン 〈アラブの恋物語〉段今村高 田昨暁成 式 撰与志雄訳注淳編訳劇鄭和訳著"横ハジババの冒険12 全二巻糊アラビア
31. 景徳鎮陶録 1 198ページ
東洋文庫
帯びることになった。元末の戦乱期を経て明朝になると、陸路交通は再び杜絶に近く衰微するが、永楽期の鄭和の下海によって復活した南海貿易を介して西方青料の輸入は続く。
32. 景徳鎮陶録 2 62ページ
東洋文庫
都市9ぎ昌を中国では古里の字面で写した。倶藍 国内包きの領域に属する。明朝では永楽・宣徳朝の鄭和の遠征によりその朝貢国とした。
33. ケーララ[州]
世界大百科事典
われる。下っては13世紀にはマルコ・ポーロが,14世紀にはイブン・バットゥータが,15世紀には鄭和とバスコ・ダ・ガマが来航した。現在の州は1956年に,旧トラバ
34. 支那史学史 2 13ページ
東洋文庫
り、永楽年間には成和は二度も蒙古征伐をした。またこの時代には使者を西洋に出すことをも企て、即ち鄭和はアラビアよりアフリカに往き、陳誠は中央亜細亜に往ぎ、かかるこ
35. 支那史学史 2 328ページ
東洋文庫
知る上に役立つ。その記事は明代又は清代では荒唐不稽のやうに考へられてるた。永楽の時に太監(宦官)の鄭和がその地方へ派遣されたが、そのことが、三保太監下西洋として
36. 支那史学史 2 329ページ
東洋文庫
その実際の事実は確実なことで、今から十四五年前にセイ・ン島で鄭和の碑が発見され、それには鄭和が仏堂に金を寄附したことが、漢文とタミール語とアラビア語とで記されて
37. 支那史学史 2 358ページ
東洋文庫
H-205程敦 H-232鄭黙 1-200程謡田 H-119鄭和 H-328f雀昔年 1-330
38. しなんこうぎ【指南広義】
国史大辞典
人舵工が、針法の書を琉球の舵工に授けた。これは永楽元年(一四〇三)永楽帝から大航海を命ぜられた鄭和の過海の要訣を書いたものであったという。程順則は、これをもとに
39. 市舶司
世界大百科事典
,社会の商業化がさかんになって登場,宋・元に制度が整って財政上も重視された。明の永楽帝のとき,鄭和(ていわ)の遠征で頂点に達した海上発展は,同帝が海禁(鎖国)に
40. 書物と旅 東西往還 前嶋信次著作選 4 465ページ
東洋文庫
『395年から1081年までの東方世 界』五6窺oη4607ぎ6窃召146395ク 1081②371鄭和③400テオドシウス(修道僧)Theodosius
41. 清俗紀聞 2 181ページ
東洋文庫
建の民間信仰の混入した浄土宗と習合し、さらに密教の要素も加わる)である。 明の鄭和も航海の安全を祈って金剛経、観音経、弥陀経、摩利支天経、そし
42. 清俗紀聞 2 224ページ
東洋文庫
宋代には金に対して揚子江と南方海岸線防衛のため,,元代には燕都へ江南の米を海上輸送するため,明代には鄭和の南洋遠征により,清代には台湾征討により船舶保護神として
43. 清朝史通論 78ページ
東洋文庫
それが海外に向っての近年の支那人の発展であります。それを幾らか証拠立てる材料として「華夷通語」と「新建鄭和碑」とを挙げまし
44. 清朝史通論 79ページ
東洋文庫
ります。それで馬来語というても馬来文字で書いてあるのではありませぬ。次の鄭和碑といふのは、一寸申しては分りませぬが、鄭和といふ者が明の永楽から宣徳年間に十数回南
45. 清朝史通論 266ページ
東洋文庫
琉球国志略 華夷通語 新建鄭和碑 四訳館訳語 八紘訳史六、外交 露国との関係 参照 羅刹方略
46. 真臘風土記 アンコール期のカンボジア 4ページ
東洋文庫
『武備志』に載せる鄭和航海図(明代)左頁に温州衛(元代では温州路)が見える
47. 真臘風土記 アンコール期のカンボジア 87ページ
東洋文庫
南部ヴェトナムのバ リア海岸かサン・ジャック岬地方に比定されている(高橋注、七七頁)。明朝の『鄭和航海 図』を見ると、占騰(真臓)国を記し、その下流、すなわちメ
48. ジャンク画像
世界大百科事典
も可能にした。指南針の発明とともに遠洋航海を実現させた大型ジャンクを代表する〈宝船〉は,15世紀初め明代の鄭和(ていわ)の7次に及ぶ南洋航海のために建造されたも
49. 水運
世界大百科事典
との接触交流は飛躍的に進み,マルコ・ポーロをはじめとするヨーロッパ人の来訪もあると同時に,明の鄭和(ていわ)にみられるように,中国人も南海へ進出していった。これ
50. スリランカ
世界大百科事典
開発など,さまざまな説がたてられている。しかし,いずれも定説とはなっていない。 15世紀初頭に鄭和の船隊が来島し,中国(明朝)の朝貢国となるが,植民地として実質
「鄭和」の情報だけではなく、「鄭和」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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