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  11. レオナルド・ダ・ビンチ
日本大百科全書・世界大百科事典・世界人名大辞典・世界文学大事典

日本大百科全書(ニッポニカ)
レオナルド・ダ・ビンチ
れおなるどだびんち
Leonardo da Vinci 
[1452―1519]

イタリア・ルネサンス期の画家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者。したがってルネサンスにおける典型的な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と目されている。
[裾分一弘]

生涯

フィレンツェの近郊ビンチ村に、公証人ピエロと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれる(4月15日)。幼少時についてはバザーリほかにより才能の多彩が記されている以外、あまり知られておらず、14、15歳のころフィレンツェに出て、画家、彫刻家であるアンドレア・デル・ベロッキオの工房に徒弟として入り、美術家としての道を歩み始める。1482年、30歳のとき、ミラノの支配者ルドビコ・スフォルツァ(通称イル・モロ)Ludovico Sforza, Il Moro(1452―1508)のもとに自薦状を提出してミラノに移る。自薦状には、あらゆる種類の土木工事、築城、兵器の設計ならびに製造に関し、自らの多方面の才能を数えたてたあとに、平和な時勢にあっては、絵画ならびに石造彫刻、鋳造彫刻の技にたけていることを付け加えている。47、48歳のころ、フランスのルイ12世軍ミラノ侵攻(1499年10月)を機に20年近く滞在したミラノを去り、マントバで公妃イサベラ・デステIsabella d'Este(1474―1539)の肖像を素描し(1500年2月)、ベネチアに立ち寄り(同年3月)、フィレンツェに戻る。1502年の夏から約8か月間、チェーザレ・ボルジャの軍事土木技師としてロマーニャ地方に従軍。ボルジャの失脚でフィレンツェに戻るが、1506年54歳のとき、ミラノ駐在のフランス総督シャルル・ダンボワーズCharles Ⅱ d'Amboise(1473―1511)の招きで再度ミラノに赴き、ルイ12世の宮廷画家兼技術家として6年余仕えた。さらに1513年、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチGiuliano di Lorenzo de' Medici(1479―1516)の招きでローマに移るが、1516年にはフランソア1世の招きでフランスへ行き、1517年にはアンボアーズ王城の近郊クルー城館に移り、比較的平穏な余生を送り、さまざまな研究を続けていたが、1519年5月2日、同地で忠実な弟子フランチェスコ・メルツィFrancesco Melzi(1491―1570)にみとられて67歳の生涯を閉じた。
[裾分一弘]

美術作品

レオナルドの絵画作品で今日に残るものは数少ない。ベロッキオの工房にあった第一次フィレンツェ時代には、師および同門との協同作『キリストの洗礼』(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)、『ジネブラ・デ・ベンチの肖像』(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)、2点の『受胎告知』(ウフィツィとルーブル美術館)、ともに未完の『三博士の礼拝』(ウフィツィ)と『聖ヒエロニムス』(バチカン美術館)がある。第一次のミラノ時代にはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂食堂の『最後の晩餐(ばんさん)』のほか、サン・フランチェスコ教会無原罪懐胎礼拝堂のための祭壇画『岩窟(がんくつ)の聖母』(現、ルーブル)、素描のみが現存する彫刻『スフォルツァ騎馬像』を制作している。第二次フィレンツェ滞在中には、ミケランジェロと競作になるはずであったパラッツォ・ベッキオ内の大壁画『アンギアリの戦い』(素描や模写のみ現存)を手がけ、その後はミラノ、フィレンツェ、ローマなどを遍歴の時期に『モナ・リザ』(ルーブル)を描き、弟子プレディスGiovanni A. de Predis(1455―1508)の『岩窟の聖母』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)を指導、晩年近くには『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』(ともにルーブル)を手がけている。
 このほか、素描の段階に終わった彫刻『トリブルツィオ将軍騎馬像』その他を加えても、レオナルドの芸術上の遺作は非常に少ないが、美術史上に記した足跡はきわめて大きい。すなわち、絵画史のうえでは遠近法ならびに解剖学というクワットロチェント(15世紀)の精密な自然描写をさらに推し進めて、画面の統一構成ならびにスフマート(輪郭消失描法)による立体表現、明暗法を案出して、グラツィエ(優美)の表現を意図し、ルネサンス古典様式の典型とされる。彫刻では、残された多くの素描から判断すると、像は静止像でなく、人馬の躍動する姿を追求し、そのための構成上の手段が種々考えられたように見受けられるが、巨大なブロンズ作としては力学的に制作が困難で、前記2点とも完成していない。
 また建築上の仕事としては、これまた彼の設計になる建造物は実現されていないが、集中式の教会建築に特殊な興味を抱き、細部の力学的な構造を示す習作を数多く残している。さらに一種の都市工学に関する構想をもち、それによると、都市を二重構造にし、下の道路は生活物資の運搬に、上の道路は人の自由な歩行のために、また道路の幅に応じて建造物の高さを規制し、海か川に面した都市の設計を理想としていたことがわかる。
 以上でほぼ推測されるように、今日に残されたレオナルドの芸術上の作品は意外に少なく、他方それらの完成品のもととなった素描・エスキスの類は膨大な量に上り、彼が寡作の人であったことを証明している。大別すると、素描・エスキス約500枚、手稿5000ページが、今日、イギリス、フランス、イタリア、スペインなどに分散して収蔵されている。素描は前記美術的な遺作のもととなった準備的な習作の類であり、エスキスは200枚に及ぶ解剖図のほか、機械工学、水力学、築城、飛翔(ひしょう)などに関する考案・くふうに満ちている。彼はつねづね手製の小冊子を持ち歩き、おりに触れての断想や観察を記入し、図と文節を交えて書きとどめている。左利きであったレオナルドは、それらの手稿に記入する際、文字を全部裏返しにして右から左に向けて綴(つづ)った。鏡に写すことによって初めて正常な書体になるので鏡字とよばれたが、これは研究の秘密が露見することを恐れたくふうではなく、もともと彼が左利きであったことによる。
 この手稿類のなかから、絵画の理論と実技に関する部分を取り出して、弟子がレオナルドの『絵画論』1巻を編集したことは有名で、その原本は今日バチカンの教皇図書館に収蔵されている。
 なお、レオナルドの同時代人による伝記に、パオロ・ジョビオPaolo Giovio(1483―1552)、アノーニモ・マリアベッキアーノAnonimo Magliabechianoらによる断片的なもの、およびジョルジョ・バザーリによる2種の伝記(初版および2版)がある。
[裾分一弘]

科学・技術史からみたレオナルド

レオナルドは、その生涯に膨大な数の手稿を残した。それらの手稿には、絵画、彫刻、建築ばかりでなく、天文、気象、物理、数学、地理、地質、水力、解剖、生理、植物、動物、土木工事、河川の運河化、物をあげたり移動したりする装置、灌漑(かんがい)用排水装置、兵器、自動人形、飛行のための装置など多彩な分野のものが含まれている。
 彼のそもそものスタートは絵画・彫刻であるが、その絵画・彫刻への関心を深めれば深めるほど、デッサンなどに精密さが要求され、おのずと観察力は鋭くなり、それが何事も徹底的に探究しなければ、事物に対する認識を深めることはできないとまで考えるに至ったのであろう。たとえば、人物を描くには人体に関する知識の必要性を感じ、その知識を修得するために解剖を必要とした。レオナルドは手稿のなかで次のように述べている。「正確かつ完全な知識を得んがため、私は10あまりの人体を解剖し、さまざまな肢体すべてを解き、そして毛細血管から出る目に見えない血のほかは、いささかの出血をもおこすことなくそれらの血管の周りにある肉を、ごく微細な切れ端に至るまですっかり取り除いてしまったのである。おまけに1個の死体だけではそんな長い時間に十分できなかったので、次から次へと数多くの死体によって継続する必要があった。こうしてやっと完全な認識に達したのであった」。
 このような姿勢で自然を観察し、自然を認識していったのである。絵の手法を修練する過程でも、遠近法の原理を取り入れようとすれば、それに伴って数学の知識も必要になる。徹底して探究していくことによって、いろいろな分野に論及せざるをえなくなっていくのである。
 鳥の飛び方についての研究では、重さと密度の関係、風圧が翼に及ぼす力の影響について実験し、力学運動について論じている。そして鳥とまったく同じ原理の器械をつくり、動力源に人間を使えば、人間が空を飛ぶことができるのではないかと考えるのである。空を飛ぶという夢を実現しようと、パラシュートやヘリコプターのようなものまで考案している。
 レオナルドは、鋭い観察によって自然界に対する認識を深めたが、同時に機械技術にも大きな関心をもっており、自然界は力学的・機械的運動をしているのではないかと考えたのである。そして、そのようななかから生まれた彼の哲学は「知恵は経験の娘である」ということばに代表されるものである。「二度三度それを試験して、その試験が同一の結果を生ずるか否かを観察せよ」「ただ想像だけによって自然と人間との間の通訳者たらんと欲した芸術家達を信じるな」といい、「実験から開始して、それによって理論を検証すること」が、一般法則をたてるためには重要であると主張する。すなわち、自然界の法則性を明らかにしていくとは、自然を観察し、認識を深め、それを客観的な理論に発展させていくことであるとし、その理論を絶えず実践と統一的にとらえることの重要性を強調しているのである。
 レオナルドは、手稿に書かれていることのすべてにわたって実験をしたり、実際にものをつくりあげたわけではないが、コペルニクスやガリレイが登場する以前に前述のような点を主張した。まさに近代科学を準備した「万能の人」というのも当然の評価であろう。
[雀部 晶]



改訂新版 世界大百科事典
レオナルド・ダ・ビンチ
Leonardo da Vinci
1452-1519

イタリア,ルネサンスの画家,彫刻家,建築家,科学者。

少年期~修業時代

フィレンツェの公証人セル・ピエロ・ダ・ビンチの私生児としてフィレンツェ近郊のビンチVinciに生まれ,少年時代をアルノ川上流の自然の中に過ごす。自然界の現象への好奇心は生涯を通じてもっとも根本的なものであったが,それはこの時期に培われたものと思われる。また,S.フロイトやE.ノイマンなどの心理学者は,生後直ちに生母から引き離され複雑な家庭状況に育てられたことが,母性コンプレクスの原因となり,成長後の芸術表現,とくに女性像に深い影響を与えたと考えた。いずれにしても,聖母がきわめて多く描かれ,母性なるものが彼の重要な主題であったことは確かである。父親がレオナルドを,15歳のころフィレンツェのベロッキオの工房に入れたのは,すでに少年が動物や植物や人間などを鋭く観察し描きとどめる才能に秀でていたからであった。ベロッキオの工房は,絵画のみならず彫刻,建築,各種の工芸デザインや工学的技術を擁する多角的工房であったため,レオナルドはそこでそれらの基礎的知識をすべて習得し,1472年画家組合に加入したのちも76年まで同工房にとどまった。この間,最も早い日付のある作品,アルノ川の素描をはじめ,ベロッキオの《キリストの洗礼》(1472-73ころ)の天使と風景の一部,《受胎告知》(1473ころ)などを描く。76年に,ベロッキオの他の弟子をも含めて,レオナルドは同性愛の罪で市当局に密告されるという事件があった。これは実証されず無罪となったが,彼が生涯独身であり,恋愛をしたとされる女性もいないところから,また手稿中にみられる性への嫌悪とも呼ぶべき冷淡さから,さらにはサライという美しい弟子への偏愛から,しばしばレオナルドの特異な性的傾向が問題となってきた。しかし,現在のところは,彼の同性愛を実証するものは何もない。だが,彼が通常の異性観をもっていたわけではないことは,作品にあらわれた女性や男性の両義的な表現および手稿中の文章によって推察できる。この点は,レオナルドの人間観や芸術表現における基本的な問題点の一つである。

 78年ころ独立して仕事を引き受け始めた記録があるが,現存するものはいずれも未完の《三博士の参拝》(1481),《聖ヒエロニムス》(1482)などである。この両作品においてすでに,レオナルドを古典期の巨匠たらしめた特色,すなわち幾何学的な形体を基本とした画面構成と,人間をも含めた対象の外的形質の鋭敏な把握・描写と,現象の根本にある内面(人間ならば心的状態,風景ならば水流や重力,光の反射や反映など)の原理への洞察とが現れている。またこのころ,生涯つづく科学的・芸術的省察と観察を書きとどめた手稿の執筆が始まっている。

ミラノへ

81年ミラノ公ルドビコ・スフォルツァの宮廷付画家,彫刻家,工学技術家としてミラノに移り,99年まで同地にあって,芸術制作のみならず,軍事,土木,治水,都市計画,宮廷のイベント企画等々にたずさわり,〈万能の天才〉としての力を縦横に発揮した。またこの時期に,解剖学,動物・植物学,数学,光学,機械工学,水力学に関するノートを書き,これに関する多数の素描を残した。ミラノ行きの主要な理由は先代の君主フランチェスコ・スフォルツァの記念騎馬像の建立であったが,これは多くの習作スケッチのみが残り,着工されずに終わった。現存する絵画作品のうち代表的なものは,《岩窟の聖母》(1483-86)と《最後の晩餐》(サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の食堂壁画。1495-97)である。これらはフィレンツェでの修業時代の探究の結実であり,遠近法,人体比例,シンメトリー,幾何学的構成などの古典主義の原理が完成されたばかりでなく,それらの形象によって表現される内容とその表現方法の結びつきの完璧さにおいて,イタリア・ルネサンスの最高の成果とされる。つまり,ここにおいて形象が完全に意味を担うことができたということができる。その表現は,15世紀に主流をなした外的現象を正確に叙述する絵画とは異なるもので,これ以後の画家に測り知れない影響を与えることとなった。

フィレンツェ帰還

したがって,99年スフォルツァの没落によってフィレンツェにもどった直後,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の祭壇用の《聖母子と聖アンナ》のカルトン(下図)は,このようなミラノでのレオナルドの芸術をフィレンツェにはじめて知らせた事件として,バザーリが記録するものとなった。ミケランジェロ,ラファエロをはじめ,多くのトスカナの画家が,レオナルドの芸術のもつ新しい特質から霊感を受けた。1502年の10ヵ月間,チェーザレ・ボルジアの軍事上の技術者として教皇領の各地を回り,運河開削のプランニングや都市計画等を行った。また,軍事目的で作られた地図は近代地図学の始原となった。

 03年フィレンツェにもどり,パラッツォ・ベッキオ(市庁舎)の大広間の壁面に《アンギアリの戦》を依頼され,対壁のミケランジェロとの競作となったが,これはいずれも未完で,レオナルドの壁画の主要場面はルーベンスの模写のみで知られる。またミケランジェロの《カッシナの戦》の素描も散逸し,A.サンガロの版画によって知られるが,この幻の二大壁画は,この直後芸術界をにぎわせた〈パラゴーネparagone(絵画・彫刻優劣比較論争)〉の火付け役となった。すなわち,レオナルドが騎馬戦の阿鼻叫喚(あびきようかん)のアトモスフィアと激動のモメントを絵画的に把握したのに対し,ミケランジェロは水浴する兵士の休息という人体を主とした彫刻的表現の範をたてたからである。またこの両作はマニエリスムの発生に多大の刺激を与えた。同じころ,《モナ・リザ》および失われた《レダ》を描いた(《モナ・リザ》には異説あり)。この《モナ・リザ》についてバザーリは,フィレンツェ市民の妻ジョコンダの肖像であると注解したが,今日に至るまでそのモデルは特定されていない。それは信ずべき記録が残らないためと,この人物像の表現するものが,単なる肖像画を超えた,なんらかの深遠な意味を伝えていると直観されるためであり,現在では具体的人物の肖像説と,なんらかの思想の象徴説との両者が論議中である。しかし,多くの学者はこの絵の背景が,レオナルドの中心関心事たる大地と水の地質学的情景を描いている点について一致しており,背景をなす宇宙(マクロコスモス)と中心たる人間(ミクロコスモス)の理念上のかかわりがここに意味されていると考えてよいとしている。また《レダ》は明らかに母性と大地の豊饒についてのアレゴリーと考えられる。

晩年

06年から13年まで再度ミラノにあり,フランス王ルイ12世に招かれ,ミラノの統治者シャルル・ダンボアーズのために,彼の宮殿,サンタ・マリア・アラ・フォンターナの設計,トリブルツィオの記念騎馬像のためのプランニングなどを行った。またミラノとコモ湖を結ぶアッダ川の運河開削にたずさわり,これに関連して水力学の研究ノートと水の習作スケッチを数多く残した。さらに水の研究と並行して,人体解剖の研究も進展させている。これは,彼が大地の水を人体の血液と重ね合わせて考えていたことを示すノートからも知られるように,両者が相互に深く関連しあう関心事であったためである。この時期に《聖アンナと聖母子》を制作している。13年レオ10世の即位とともに,その甥ジュリオ・デ・メディチ枢機卿の保護を求めてローマに赴くが,15年同枢機卿が死に,ラファエロ,ミケランジェロの名声に押されてもっぱら孤独な科学的・工学的研究に集中。この時期の絵画作品は《洗礼者ヨハネ》である。

 17年,フランソア1世の招きに応じてフランスへ移り,アンボアーズ近くのクルー城に居所を与えられ,王母の居城ロモランタンの設計をするほかは研究ノートの製作に没頭し,同地で没した。

手稿--精神活動の記録

愛弟子メルツィFrancesco Melzi(1493-1570ころ)に残された膨大な手稿のうち,きわめて多くが今日では散逸・紛失した。最も大きいものに,《アトランティコ手稿》(ミラノ,アンブロジアーナ図書館),貴重な素描(ノートを含む)のコレクションである《ウィンザー手稿》があり,このほか《解剖手稿》《マドリード手稿》《トリブルツィオ手稿》《絵画論》などがある。これらの,主として科学的な研究と省察を含む手稿の関心方向の広さとその集中の深さ,製作期間の長さは,彼の生涯を通じて一貫していたものが,これらの〈研究〉そのものであったことを知らせる。今日に残る芸術作品の真意を理解するには,彼の膨大なノートの研究が必要であり,彼の研究の生きた証明である芸術作品を解析することなしには,その精神の全容を明らかにすることもできない。旧来は,科学的または工学的関心によってレオナルドの手稿のみを重んずる専門家と,作品を孤立させて扱う専門家との分離があり,レオナルドの全体像を把握することが困難であったが,現在では,レオナルドを15世紀末のフィレンツェ思想史のコンテキストの中に位置付けて,新プラトン主義とアリストテレス主義の混在の中からレオナルドの思想が成長したとする見解が主流となっている。その結果,四大元素論を基本とするアントロポモルフィクな世界説・宇宙説を基底として万象の根本原理とその法則の探究に情熱を傾け,画家としてそれらを記録し,思想家としてこれを省察しようとしたレオナルドの業績の全容が明らかになりつつある。晩年の〈大洪水〉の素描シリーズは,現実の事象の観察から,しだいに,元素の結合としての世界がカタストロフィーを迎えるとの宇宙論の象徴的表現へと向かうレオナルドの思想と表現(芸術)とが不可分なものであることを証明する作例である。
[若桑 みどり]

科学,技術,自然観

レオナルド・ダ・ビンチは画家として最も著名である。もちろん《モナ・リザ》をはじめとする,彼のこの面での偉業になんらの異論もない。しかしレオナルド自身において,画家であることが最も重要なことであったかどうかは疑問である。彼の残したおびただしい手稿が発見・編集され--とくに1974年に出版された《マドリード手稿》と80年に刊行が完結した《アトランティコ手稿》により--ようやく彼の営為の全貌が明らかとなってきた今日において,レオナルドの最も大きな関心事が,力学,光学,天文学,水力学,測地学やさまざまな機械装置の設計など,科学や技術や自然研究にあったことがわかるのである。1万ページに達する手稿のうち,その4分の3はこうした問題をとり扱っており,絵画に関するものは残りの4分の1ほどである。今後はこうした自然探究者としてのレオナルドに研究の重心が移り,絵画はその一部として位置づけられるであろう。

 レオナルドの手稿に見られる多彩な科学思想は,まず最初は近代科学の萌芽を示す驚くべく先駆的創見として称賛された。たとえば〈慣性の原理〉〈力の平行四辺形〉〈落体の法則〉〈槓杆(さおばかり)の原理〉〈斜面の原理〉〈重心〉や〈能率〉の概念などである。しかしその後中世科学史の研究が進展するに従って,レオナルドにより表現されているこれらの原理や概念は,P.M.M.デュエムが《レオナルド・ダ・ビンチ研究》3巻(1906-13)で明らかにしたように,すでに13世紀から14世紀にかけてヨルダヌスやビュリダンやザクセンのアルベルトやパルマのブラシウスBlasius(1345ころ-1416)により先取りされ定式化されていたものであり,アリストテレス,エウクレイデス(ユークリッド),アルキメデスのようなギリシア科学の遺産ともども,こうした中世科学の成果を,どのような経路でレオナルドが手に入れたかという事情も,今日ではしだいに明らかとなってきた。しかしだからといって,レオナルドを〈近代科学の先駆者〉から〈中世科学の剽窃者〉(デュエム)におとしめることがはたして正しいだろうか。レオナルドは中世のスコラ学者のように単に理論だけを観念的に問題にしたのではなく,まさに〈経験の弟子〉として,実際に自然を観察し,ものに触れ,測定し,機械をつくったのであり,そのことによって彼の科学思想は技術と結びつく実証的実際的な性格をもっている。彼は単なる頭の人ではなく,目の人であり,手の人である。このことは彼の解剖学の研究や植物の素描に最もよく現れている。これはデュエムの挙げている中世の先駆者にはみられない,レオナルドのまったく新しい特質である。

 しかしまた逆にそれだからといって,レオナルドを単純に〈近代科学の祖〉であるとみることも,実のところ正しくない。たしかにレオナルドは自然を観察し,機械のデザインを行い,地球を全体として一つの機械であるとみなした。けれどもレオナルドのそれは〈生ける機械〉であり,デカルト以後の機械論におけるような〈死せる機械〉ではない。自然は地,水,火,空気の四大元素の互いにせめぎ合う有機体であり,この四大元素からなる人間の身体と同じく生きている。人体の血管に血が流れているように,大地の肉体は限りない水脈で満たされているのである。ここでは大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)は疑いもなく照応している。《鳥の飛翔》においても,鳥は一個の機械であるが,それは生命を吹きこまれた機械なのである。〈有機的な機械〉--この矛盾した表現で表すほかないものが,レオナルドの独自な自然観である。水力学の対象となる水の流れも,気象学の対象となる空気の動きも,力学の対象となる大砲から飛び出す砲弾すらもが生きている。たとえばレオナルドが最も注目した水の流れが,あたかも植物のごとく,髪の毛のごとく描かれているのも,それが同じ生命をもつ有機体の一部だからにほかならない。このことは彼の力の概念によって知ることができる。〈力とは精神的な性能,不可視の能力以外のものではない。それは偶有的な暴力によってつくり出され,感性的物体から非感性的物体へと注入され,もってその物体に生命に似たものを注ぎ込む。こうした生命は不思議な作用をする。それはいっさいの被造物を強制して場所と形態を変えさせつつ,自己の破滅に向かって驀進し,その原因を介してさまざまに変化してゆく〉(《アトランティコ手稿》folio 302v.)。これは近代科学の力の概念でなく,ルネサンスに特有な有機的生命力である。人間も動物も植物も,鉱物すらもこうした有機的生命力の流れの中にあり,世界は全体として,それをつくり上げる四大元素の内在的力の自己運動によって,最終的な終末へと向かってゆく。それが彼の晩年において描かれる〈大洪水〉のイメージ(《ウィンザー手稿》)なのである。レオナルドは世界のこの黙示録的終焉を信じ,それをある種の諦観をもって受け容れていたように思われる。いわゆる〈モナ・リザの微笑〉は,筆者の意見では,この終末の秘密を知るものの微笑であり,背景をなしている岩山と水と一体にとらえられねばならない。すでに《聖アンナ》の微笑は,キリストの死やその後の世界の運命を見通しているものの微笑であり,《モナ・リザ》のそれと連なる。《洗礼者ヨハネ》にいたれば,背景は暗黒となり,ついに終末は到来したのである。天をさす指はそのことを示している。

 かくしてレオナルドにとって,芸術も科学も技術も自然観も一体のものであった。そこでは科学は芸術であり,芸術は科学であり,この両者を離しては考えられない。この芸術と科学の一体性において,観念的にではなく,具象的に,世界が何であり,人間が何であるかを,彼は生涯探究し続けた。この営みにおいて彼の文化史上の意義は,言葉の最も原初的な意味においてユニークである。レオナルドの前にレオナルドが存在しないように,レオナルドの後にもレオナルドはいない。
[伊東 俊太郎]

[索引語]
Leonardo da Vinci ベロッキオ,A.del スフォルツァ,L. ミケランジェロ モナ・リザ(レオナルド・ダ・ビンチ) フランソア1世 メルツィ,F. Melzi,F. アトランティコ手稿 解剖手稿 マドリード手稿 トリブルツィオ手稿 デュエム,P.M.M.


岩波 世界人名大辞典
レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo(Lionardo) da Vinci
1452.4.15~1519.5.2

イタリアの画家,彫刻家,建築家,自然科学者,工学技術者.

エンポリ近郊のヴィンチに公証人の庶子として生まれる.13歳の頃フィレンツェに出 [1465],ヴェロッキオの工房に入門.多才な師のもとで絵画,彫刻,建築などを習得し,師の作品〈キリストの洗礼, 1472頃〉中の天使像を描いて頭角を現す.1470年代には〈受胎告知〉(フィレンツェ,ウフィツィ),〈カーネーションの聖母〉(ミュンヘン,アルテ・ピナコテーク),〈ジネヴラ・ベンチの肖像〉(ワシントン,ナショナル・ギャラリー)等を描いて画才を発揮する一方,機械工学や解剖学の研究を開始する.サン・ドナート・ア・スコペート修道院のために着手した〈東方三博士の礼拝〉(ウフィツィ)を未完で残したままミラノに旅立つ [81].同地にはスフォルツァ家(ルドヴィーコ・イル・モーロ)の宮廷画家,軍事技術者として17年間滞在.〈岩窟の聖母, 1483-86〉(パリ,ルーヴル),〈最後の晩餐, 1495-98〉(ミラノ,サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会)などを描くかたわら,〈フランチェスコ・スフォルツァの巨大騎馬像〉(未完)の制作に15年を費やした.ミラノへのフランス軍の侵攻 [99]に伴い,翌年フィレンツェに帰還し,1506年まで滞在(02年にはC.ボルジアの軍事技師としてその遠征に随行).フィレンツェ政府の委嘱でパラッツォ・ヴェッキオ内に大戦争画〈アンギアーリの戦い, 1503-06〉(未完)を制作する一方,市民ジョコンド(Francesco del Giocondo)の妻の肖像〈モナ・リザ, 1503-06〉(ルーヴル)を描いた.フランス国王ルイ12世の要請で再びミラノに滞在し [06-13],〈聖母子と聖アンナ〉(ルーヴル)を制作.ローマ教皇となったレオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチ(Giuliano de' Medici 1479~1516)の招きでローマに滞在した [13-16]後,フランス新国王フランソワ1世によってアンボワーズに招かれ,そこで死去した.画家としては精緻なスフマート(ぼかし)技法を駆使して,深い精神性と生動感にあふれる人物像と宇宙的な自然空間の統一的表現を達成.また〈万能の天才〉として人体解剖学,動物学,植物学,光学,水力学,測地学,機械工学,数学,音楽等,広範な知的領域を探求し,約7000枚におよぶ手稿を残した.

〖作品〗 聖ヒエロニュムス, 1480頃(バチカン).白貂を抱く貴婦人, 1495頃(クラクフ,チャルトリスキ美術館).洗礼者ヨハネ, 1516-16(ルーヴル).〖著作〗 アトランティコ手稿(ミラノ,アンブロジアーナ図書館).ウィンザー手稿(ウィンザー城).パリ手稿(パリ,アカデミー・フランセーズ).マドリード手稿(マドリード,国立図書館).



デジタル版 集英社世界文学大事典
レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo Da Vinci
イタリア 1452.4.15-1519.5.2
イタリア・ルネサンス期最大の画家,発明家,科学者,〈万能の天才〉。フィレンツェ近郊の村ヴィンチの公証人の私生児として生まれ,フィレンツェのヴェッロッキオの工房で修業し,ミラーノのロドヴィーコ・スフォルツァに仕えて,絵画制作,兵器発明,祝典演出,土木建築設計などに活躍しながら,人体解剖や自然観察にも熱中した(1482−99)。ロドヴィーコ失脚後は数年間マントヴァ,ヴェネツィア,フィレンツェなどを遍歴し,一時期チェーザレ・ボルジアにも仕え,再びフィレンツェよりミラーノ(1506),ローマ(13),そしてフランスに赴きフランソワ1世の庇護(ひご)下に入り(17),晩年を過ごす。「受胎告知」「洞窟(どうくつ)の聖母」「最後の晩餐(ばんさん)」「ジョコンダ(モナ・リザ)」「聖アンナ」などの作品は世に名高い。文学的には,彼の死後忠実な弟子フランチェスコ・メルツィに贈られた,鏡文字で記されている膨大な手稿が重要で,メルツィはその中から絵画に関する記述のみを抜粋して『絵画論』Trattato della pitturaを編纂(へんさん)した。その刊行は遅れたものの(1631パリ),草稿の存在が画家仲間に知られて,多少は同時代人にも影響しえたが,それ以外の部分は世に知られぬまま,メルツィの死後散逸しはじめ,一部は「地中海手稿」Codex Atlanticus,「トリヴルツィアーノ手稿」Codex Trivulzianusなどとしてミラーノに残ったものの,大部分は国外に流出した。『絵画論』中の4分の3の出典が照合不可能という事実からも失われた部分の大きさがわかる。1965年スペインで発見された「マドリード手稿」Codex Madrid (I et II)2編は,レオナルドの知的達成と自然科学者としての先駆性および独創性を根本的に見直させた。
(米山喜晟)
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検索コンテンツ
1. レオナルド・ダ・ビンチ画像
日本大百科全書
イタリア・ルネサンス期の画家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者。したがってルネサンスにおける典型的な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と目されている。裾
2. レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)
世界大百科事典
)とが不可分なものであることを証明する作例である。若桑 みどり 科学,技術,自然観 レオナルド・ダ・ビンチは画家として最も著名である。もちろん《モナ・リザ》をは
3. レオナルド‐ダ‐ビンチ
日本国語大辞典
(Leonardo da Vinci )イタリアの美術家、科学者。フィレンツェ、ミラノ、フランスで活動。絵画においては、厳しい観察に基づいた人体・空間表現と深い
4. レオナルド・ダ・ヴィンチ
世界文学大事典
イタリア・ルネサンス期最大の画家,発明家,科学者,〈万能の天才〉。フィレンツェ近郊の村ヴィンチの公証人の私生児として生まれ,フィレンツェのヴェッロッキオの工房で
5. レオナルド・ダ・ビンチ(年譜)
日本大百科全書
14524月15日午前3時ビンチ村に生まれる(祖父アントニオの日記による)1466この前後、父とともにフィレンツェに移住。ベロッキオの工房に入る1472フィレン
6. レオナルド・ダ・ビンチの生家[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
トスカナ地方の丘陵地帯に残る石造の家屋。当時の家具や所持品などを展示している。イタリア フィレンツェ近郊 ©Shogakukan
7. レオナルド・ダ・ビンチ・ディ・フィウミチーノ空港
日本大百科全書
・国内線の大部分を取り扱う、イタリア最大の空港である。空港名はルネサンス時代の科学者レオナルド・ダ・ビンチにちなむ。ローマにはこのほかにチアンピーノ空港が都心部
8. 圧延画像
日本大百科全書
は中世教会のステンドグラス用鉛縁(H形断面)を成形加工する手動圧延機であったらしい。レオナルド・ダ・ビンチは鉛縁用およびスズ板用の2種の圧延機のスケッチを残して
9. 圧延機画像
世界大百科事典
間で材料を薄く延ばすことがその基本である。 沿革 圧延機と名づけられる最初のものは,レオナルド・ダ・ビンチの発明したものにさかのぼる。彼は1495年に手回しの2
10. アルプス画像
日本大百科全書
ィルらによって登頂されており、このときザイルが用いられたという。さらに1511年にはレオナルド・ダ・ビンチがモンテ・ボーに登っている。徳久球雄近代登山の幕開きア
11. アルベルティネリ(Mariotto Albertinelli)
世界大百科事典
さ,モニュメンタリティ,気品と節度がみなぎっている。その作風は,ペルジーノの宗教性とレオナルド・ダ・ビンチの優美さを併せたものと考えられる。しかし彼の古典様式は
12. アレゴリー
世界大百科事典
ラトン主義的な存在の2種のあり方(パノフスキー)など,種々のアレゴリーが指摘される。レオナルド・ダ・ビンチの《白貂を抱く婦人の肖像》のように,誇り高い白貂の性質
13. アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto)
世界大百科事典
Francesco。ピエロ・ディ・コジモ,フランチャビジョFranciabigioに学ぶ。レオナルド・ダ・ビンチ,ミケランジェロ,ラファエロの美点を総合し,バザ
14. アンナ
世界大百科事典
抱くか,娘となったマリアに教育を施している。イエスを加えて三位一体の形をとった表現には,マサッチョとレオナルド・ダ・ビンチらの作例がある。祝日は,ヨアキムととも
15. アンボアーズ
日本大百科全書
1563年には新教徒に対して信仰の自由を許可するための勅令がここで宣告された。また、レオナルド・ダ・ビンチがこの地で晩年を過ごした。現在は、工作機械、光学機械な
16. アンボアーズ
世界大百科事典
城内の聖ユベール礼拝堂には,近くのクロ・リュセの館で亡くなったレオナルド・ダ・ビンチの墓がある。稲生 永 Amboise アンボアーズの陰謀 レオナルド・ダ・ビ
17. 医学
世界大百科事典
で,リアリズムを進めようとする芸術家たちも,人体解剖に関心をもった。ミケランジェロ,レオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロらがそうである。このような芸術家たちよりや
18. 医学史
日本大百科全書
著し、これが各地の医学教育の代表的な教科書となった。15世紀末になると、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ビンチらの芸術家たちも解剖を行った。なかでもダ・ビンチの
19. イタリア画像
日本大百科全書
メディチ家の事務所としてバザーリが設計したウフィツィ美術館にはルネサンスの巨匠ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロなどの作品が、ピッティ家の
20. イタリア映画
日本大百科全書
統を生かした「ミニ・シリーズ」の制作であった。その代表作はレナート・カステラーニの『レオナルド・ダ・ビンチの生涯』(1971)である。もう一つは作家主義を核にし
21. イタリア史画像
日本大百科全書
マサッチョ、ブルネレスキなど遠近法や古典様式の研究に基づく彫刻、絵画、さらにラファエッロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロの理想主義的美術などは、広くヨー
22. イタリア哲学
日本大百科全書
とくにテレジオに端を発し、宇宙を無限と観じるブルーノ、『太陽の都』の著者カンパネッラへと連なる。さらにレオナルド・ダ・ビンチやガリレイは近代自然科学の先駆となり
23. イタリア美術画像
日本大百科全書
15世紀末期になると美術表現に若干の注目すべき新機軸がもたらされる。建築にはドナート・ブラマンテやレオナルド・ダ・ビンチによる集中式プランのクーポラを中心とする
24. イタリア美術
世界大百科事典
差を指摘できよう。ジョット以後,15世紀のマサッチョ,ピエロ・デラ・フランチェスカ,レオナルド・ダ・ビンチまで,ルネサンスの画家は幾何学的遠近法,解剖学,人体比
25. インテリゲンチャ
日本大百科全書
あますところなく自己のなかに吸収して、調和的な精神態度を獲得した者とし、その代表として、たとえばレオナルド・ダ・ビンチをあげている。ガイガーの場合、この両者とは
26. ウィンザー城
日本大百科全書
築で、王室墓廟(ぼびょう)としてウェストミンスター寺院に次いで重要。付属王立図書館はレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロなどの素描コレクションで名高い。篠塚二
27. ウフィツィ美術館
日本大百科全書
シモーネ・マルティーニの『受胎告知』、ボッティチェッリの『春』『ビーナスの誕生』、そしてレオナルド・ダ・ビンチ、ティツィアーノと続く作品は、絢爛(けんらん)と花
28. 運河画像
世界大百科事典
設け,そこに付設された閘門lockによって船を上下させるもので,閘門はヨーロッパにおいては,レオナルド・ダ・ビンチによって広く実用化の道が開かれたといわれる。な
29. 運搬機械画像
日本大百科全書
ている。16世紀になると、運河工事や築城などに起重機が盛んに用いられるようになった。レオナルド・ダ・ビンチは、高さ24メートル、幅20メートルもある大きな起重機
30. 映画
世界大百科事典
投影する光学装置としての幻灯機が発明されたのは46年とされる。ただし,その2世紀前にレオナルド・ダ・ビンチが照明器具,集光レンズを発案していた。プラトンは《国家
31. 永久機関画像
世界大百科事典
なしうる機械が努力目標となった。この種の永久機関が不可能であることは,すでに16世紀にレオナルド・ダ・ビンチやステビンらによって指摘されており,17世紀に入って
32. エイゼンシテイン(Sergei Mikhailovich Eizenshtein)
世界大百科事典
。チャップリンと並んで世界映画史上の〈天才〉,あるいは〈巨人〉といわれ,多彩な才能がレオナルド・ダ・ビンチにもたとえられたが,ソ連の政治状況の中で映画監督として
33. エネルギー画像
日本大百科全書
今日に至っている。 歴史上、最初に「仕事の量」を問題にすることで、エネルギー概念への端緒を与えたのはレオナルド・ダ・ビンチであり、てこ、滑車などの器具を用いた場
34. エネルギー
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。このこと,すなわち機械は仕事を伝達するものであって生みだすものではないということもレオナルド・ダ・ビンチの時代にははっきり認識されていた。例えば,S.ステフィ
35. 遠近法
日本大百科全書
あるいは2点透視や3点透視法による構図の変化などもそれであり、また遠近法を逆用した隠し絵などもある。 レオナルド・ダ・ビンチも遠近法に深い関心をもち、その探究に
36. 遠近法
世界大百科事典
られる(2世紀のガレノスは,人間の眼は球面であることから,曲面遠近法の理念を示した。レオナルド・ダ・ビンチもまた視錐は曲面で切るべきだという考えをもっていた。実
37. 黄金分割画像
日本大百科全書
アテネのパルテノン神殿の輪郭は黄金比長方形に近い。また、ルネサンス期イタリアの万能人であったレオナルド・ダ・ビンチは黄金比の長方形を活用して絵を描いたともいわれ
38. 応力画像
世界大百科事典
も力の面密度,すなわち応力を用いるのが適切であると考えられるからである。応力の概念はレオナルド・ダ・ビンチのノートにもその萌芽が見られるが,本格的な発展はガリレ
39. 絵画画像
日本大百科全書
ブルネレスキやアルベルティは遠近法の数理的構造を明らかにし、マサッチョ、ウッチェロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエッロらはこれを精力的に研究して優れた成果をあ
40. 階段画像
世界大百科事典
ん階段が建築家の知的関心を集め,上昇感を表現するためのさまざまなくふうが凝らされた。レオナルド・ダ・ビンチの創案になるという,互いにからまりあって上昇する二重ら
41. 回転翼航空機
日本大百科全書
がある。 回転翼航空機は原理が簡単なため、発想は固定翼航空機より古く、1490年ごろレオナルド・ダ・ビンチの数々の発明のなかに、すでにそのスケッチが残されている
42. 解剖学
日本大百科全書
これら芸術家は、人の形態を正確に表現するために解剖の経験をもっていた。もっとも有名なのがレオナルド・ダ・ビンチで、人体解剖に基づいた正確な解剖図譜を残している。
43. 解剖学
世界大百科事典
たのは解剖学者でなく画家であった。ベロッキオ,レオナルド・ダ・ビンチ,ミケランジェロらのルネサンス画家がそれである。なかでもレオナルド・ダ・ビンチの解剖は詳細に
44. 解剖図
世界大百科事典
よりも美術家のほうが一足先に開始していた。A.ポライウオロ,ベロッキオ,シニョレリ,レオナルド・ダ・ビンチ,ミケランジェロ,ロッソらである。ルネサンスの人間中心
45. 海流画像
日本大百科全書
海面での蒸発・降水による塩分の違いなので、対流説は熱塩効果説、あるいは熱塩循環説といいかえてもよい。レオナルド・ダ・ビンチは、「赤道海域の海水は太陽によって強く
46. 鏡画像
世界大百科事典
うにはっきりとありのままに映す〉という比喩は近代リアリズムのためにあったといえよう。レオナルド・ダ・ビンチは彼の理想の美術のために,シェークスピアのハムレットは
47. カステラーニ
日本大百科全書
こうしたネオレアリズモの史劇映画作法は、イタリア放送協会ほかのテレビと映画の積極的合作『レオナルド・ダ・ビンチの生涯』(1971)でさらに深化された。レオナルド
48. 化石画像
日本大百科全書
う考えが支配的であった。化石の成因について最初に科学的な説明を与えたのは、イタリアのレオナルド・ダ・ビンチと、同じく16世紀のイタリアの医師・科学者・詩人であっ
49. カニグズバーグ
日本大百科全書
賞」のオナーブックとなった)。歴史物語には、もう一つ、有名なモナ・リザの肖像を描いたレオナルド・ダ・ビンチを、召使の小悪党サライの目を通して語った『ジョコンダ夫
50. カノン(美術用語)
日本大百科全書
カノンの研究はさらにローマ美術やビザンティン美術にも受け継がれた。またルネサンスではレオナルド・ダ・ビンチやデューラーらによって実測的な人体比例の詳しい研究が進
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