イタリア,ルネサンスの画家,彫刻家,建築家,科学者。
フィレンツェの公証人セル・ピエロ・ダ・ビンチの私生児としてフィレンツェ近郊のビンチVinciに生まれ,少年時代をアルノ川上流の自然の中に過ごす。自然界の現象への好奇心は生涯を通じてもっとも根本的なものであったが,それはこの時期に培われたものと思われる。また,S.フロイトやE.ノイマンなどの心理学者は,生後直ちに生母から引き離され複雑な家庭状況に育てられたことが,母性コンプレクスの原因となり,成長後の芸術表現,とくに女性像に深い影響を与えたと考えた。いずれにしても,聖母がきわめて多く描かれ,母性なるものが彼の重要な主題であったことは確かである。父親がレオナルドを,15歳のころフィレンツェのベロッキオの工房に入れたのは,すでに少年が動物や植物や人間などを鋭く観察し描きとどめる才能に秀でていたからであった。ベロッキオの工房は,絵画のみならず彫刻,建築,各種の工芸デザインや工学的技術を擁する多角的工房であったため,レオナルドはそこでそれらの基礎的知識をすべて習得し,1472年画家組合に加入したのちも76年まで同工房にとどまった。この間,最も早い日付のある作品,アルノ川の素描をはじめ,ベロッキオの《キリストの洗礼》(1472-73ころ)の天使と風景の一部,《受胎告知》(1473ころ)などを描く。76年に,ベロッキオの他の弟子をも含めて,レオナルドは同性愛の罪で市当局に密告されるという事件があった。これは実証されず無罪となったが,彼が生涯独身であり,恋愛をしたとされる女性もいないところから,また手稿中にみられる性への嫌悪とも呼ぶべき冷淡さから,さらにはサライという美しい弟子への偏愛から,しばしばレオナルドの特異な性的傾向が問題となってきた。しかし,現在のところは,彼の同性愛を実証するものは何もない。だが,彼が通常の異性観をもっていたわけではないことは,作品にあらわれた女性や男性の両義的な表現および手稿中の文章によって推察できる。この点は,レオナルドの人間観や芸術表現における基本的な問題点の一つである。
78年ころ独立して仕事を引き受け始めた記録があるが,現存するものはいずれも未完の《三博士の参拝》(1481),《聖ヒエロニムス》(1482)などである。この両作品においてすでに,レオナルドを古典期の巨匠たらしめた特色,すなわち幾何学的な形体を基本とした画面構成と,人間をも含めた対象の外的形質の鋭敏な把握・描写と,現象の根本にある内面(人間ならば心的状態,風景ならば水流や重力,光の反射や反映など)の原理への洞察とが現れている。またこのころ,生涯つづく科学的・芸術的省察と観察を書きとどめた手稿の執筆が始まっている。
81年ミラノ公ルドビコ・スフォルツァの宮廷付画家,彫刻家,工学技術家としてミラノに移り,99年まで同地にあって,芸術制作のみならず,軍事,土木,治水,都市計画,宮廷のイベント企画等々にたずさわり,〈万能の天才〉としての力を縦横に発揮した。またこの時期に,解剖学,動物・植物学,数学,光学,機械工学,水力学に関するノートを書き,これに関する多数の素描を残した。ミラノ行きの主要な理由は先代の君主フランチェスコ・スフォルツァの記念騎馬像の建立であったが,これは多くの習作スケッチのみが残り,着工されずに終わった。現存する絵画作品のうち代表的なものは,《岩窟の聖母》(1483-86)と《最後の晩餐》(サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の食堂壁画。1495-97)である。これらはフィレンツェでの修業時代の探究の結実であり,遠近法,人体比例,シンメトリー,幾何学的構成などの古典主義の原理が完成されたばかりでなく,それらの形象によって表現される内容とその表現方法の結びつきの完璧さにおいて,イタリア・ルネサンスの最高の成果とされる。つまり,ここにおいて形象が完全に意味を担うことができたということができる。その表現は,15世紀に主流をなした外的現象を正確に叙述する絵画とは異なるもので,これ以後の画家に測り知れない影響を与えることとなった。
したがって,99年スフォルツァの没落によってフィレンツェにもどった直後,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の祭壇用の《聖母子と聖アンナ》のカルトン(下図)は,このようなミラノでのレオナルドの芸術をフィレンツェにはじめて知らせた事件として,バザーリが記録するものとなった。ミケランジェロ,ラファエロをはじめ,多くのトスカナの画家が,レオナルドの芸術のもつ新しい特質から霊感を受けた。1502年の10ヵ月間,チェーザレ・ボルジアの軍事上の技術者として教皇領の各地を回り,運河開削のプランニングや都市計画等を行った。また,軍事目的で作られた地図は近代地図学の始原となった。
03年フィレンツェにもどり,パラッツォ・ベッキオ(市庁舎)の大広間の壁面に《アンギアリの戦》を依頼され,対壁のミケランジェロとの競作となったが,これはいずれも未完で,レオナルドの壁画の主要場面はルーベンスの模写のみで知られる。またミケランジェロの《カッシナの戦》の素描も散逸し,A.サンガロの版画によって知られるが,この幻の二大壁画は,この直後芸術界をにぎわせた〈パラゴーネparagone(絵画・彫刻優劣比較論争)〉の火付け役となった。すなわち,レオナルドが騎馬戦の阿鼻叫喚(あびきようかん)のアトモスフィアと激動のモメントを絵画的に把握したのに対し,ミケランジェロは水浴する兵士の休息という人体を主とした彫刻的表現の範をたてたからである。またこの両作はマニエリスムの発生に多大の刺激を与えた。同じころ,《モナ・リザ》および失われた《レダ》を描いた(《モナ・リザ》には異説あり)。この《モナ・リザ》についてバザーリは,フィレンツェ市民の妻ジョコンダの肖像であると注解したが,今日に至るまでそのモデルは特定されていない。それは信ずべき記録が残らないためと,この人物像の表現するものが,単なる肖像画を超えた,なんらかの深遠な意味を伝えていると直観されるためであり,現在では具体的人物の肖像説と,なんらかの思想の象徴説との両者が論議中である。しかし,多くの学者はこの絵の背景が,レオナルドの中心関心事たる大地と水の地質学的情景を描いている点について一致しており,背景をなす宇宙(マクロコスモス)と中心たる人間(ミクロコスモス)の理念上のかかわりがここに意味されていると考えてよいとしている。また《レダ》は明らかに母性と大地の豊饒についてのアレゴリーと考えられる。
06年から13年まで再度ミラノにあり,フランス王ルイ12世に招かれ,ミラノの統治者シャルル・ダンボアーズのために,彼の宮殿,サンタ・マリア・アラ・フォンターナの設計,トリブルツィオの記念騎馬像のためのプランニングなどを行った。またミラノとコモ湖を結ぶアッダ川の運河開削にたずさわり,これに関連して水力学の研究ノートと水の習作スケッチを数多く残した。さらに水の研究と並行して,人体解剖の研究も進展させている。これは,彼が大地の水を人体の血液と重ね合わせて考えていたことを示すノートからも知られるように,両者が相互に深く関連しあう関心事であったためである。この時期に《聖アンナと聖母子》を制作している。13年レオ10世の即位とともに,その甥ジュリオ・デ・メディチ枢機卿の保護を求めてローマに赴くが,15年同枢機卿が死に,ラファエロ,ミケランジェロの名声に押されてもっぱら孤独な科学的・工学的研究に集中。この時期の絵画作品は《洗礼者ヨハネ》である。
17年,フランソア1世の招きに応じてフランスへ移り,アンボアーズ近くのクルー城に居所を与えられ,王母の居城ロモランタンの設計をするほかは研究ノートの製作に没頭し,同地で没した。
愛弟子メルツィFrancesco Melzi(1493-1570ころ)に残された膨大な手稿のうち,きわめて多くが今日では散逸・紛失した。最も大きいものに,《アトランティコ手稿》(ミラノ,アンブロジアーナ図書館),貴重な素描(ノートを含む)のコレクションである《ウィンザー手稿》があり,このほか《解剖手稿》《マドリード手稿》《トリブルツィオ手稿》《絵画論》などがある。これらの,主として科学的な研究と省察を含む手稿の関心方向の広さとその集中の深さ,製作期間の長さは,彼の生涯を通じて一貫していたものが,これらの〈研究〉そのものであったことを知らせる。今日に残る芸術作品の真意を理解するには,彼の膨大なノートの研究が必要であり,彼の研究の生きた証明である芸術作品を解析することなしには,その精神の全容を明らかにすることもできない。旧来は,科学的または工学的関心によってレオナルドの手稿のみを重んずる専門家と,作品を孤立させて扱う専門家との分離があり,レオナルドの全体像を把握することが困難であったが,現在では,レオナルドを15世紀末のフィレンツェ思想史のコンテキストの中に位置付けて,新プラトン主義とアリストテレス主義の混在の中からレオナルドの思想が成長したとする見解が主流となっている。その結果,四大元素論を基本とするアントロポモルフィクな世界説・宇宙説を基底として万象の根本原理とその法則の探究に情熱を傾け,画家としてそれらを記録し,思想家としてこれを省察しようとしたレオナルドの業績の全容が明らかになりつつある。晩年の〈大洪水〉の素描シリーズは,現実の事象の観察から,しだいに,元素の結合としての世界がカタストロフィーを迎えるとの宇宙論の象徴的表現へと向かうレオナルドの思想と表現(芸術)とが不可分なものであることを証明する作例である。
レオナルド・ダ・ビンチは画家として最も著名である。もちろん《モナ・リザ》をはじめとする,彼のこの面での偉業になんらの異論もない。しかしレオナルド自身において,画家であることが最も重要なことであったかどうかは疑問である。彼の残したおびただしい手稿が発見・編集され--とくに1974年に出版された《マドリード手稿》と80年に刊行が完結した《アトランティコ手稿》により--ようやく彼の営為の全貌が明らかとなってきた今日において,レオナルドの最も大きな関心事が,力学,光学,天文学,水力学,測地学やさまざまな機械装置の設計など,科学や技術や自然研究にあったことがわかるのである。1万ページに達する手稿のうち,その4分の3はこうした問題をとり扱っており,絵画に関するものは残りの4分の1ほどである。今後はこうした自然探究者としてのレオナルドに研究の重心が移り,絵画はその一部として位置づけられるであろう。
レオナルドの手稿に見られる多彩な科学思想は,まず最初は近代科学の萌芽を示す驚くべく先駆的創見として称賛された。たとえば〈慣性の原理〉〈力の平行四辺形〉〈落体の法則〉〈槓杆(さおばかり)の原理〉〈斜面の原理〉〈重心〉や〈能率〉の概念などである。しかしその後中世科学史の研究が進展するに従って,レオナルドにより表現されているこれらの原理や概念は,P.M.M.デュエムが《レオナルド・ダ・ビンチ研究》3巻(1906-13)で明らかにしたように,すでに13世紀から14世紀にかけてヨルダヌスやビュリダンやザクセンのアルベルトやパルマのブラシウスBlasius(1345ころ-1416)により先取りされ定式化されていたものであり,アリストテレス,エウクレイデス(ユークリッド),アルキメデスのようなギリシア科学の遺産ともども,こうした中世科学の成果を,どのような経路でレオナルドが手に入れたかという事情も,今日ではしだいに明らかとなってきた。しかしだからといって,レオナルドを〈近代科学の先駆者〉から〈中世科学の剽窃者〉(デュエム)におとしめることがはたして正しいだろうか。レオナルドは中世のスコラ学者のように単に理論だけを観念的に問題にしたのではなく,まさに〈経験の弟子〉として,実際に自然を観察し,ものに触れ,測定し,機械をつくったのであり,そのことによって彼の科学思想は技術と結びつく実証的実際的な性格をもっている。彼は単なる頭の人ではなく,目の人であり,手の人である。このことは彼の解剖学の研究や植物の素描に最もよく現れている。これはデュエムの挙げている中世の先駆者にはみられない,レオナルドのまったく新しい特質である。
しかしまた逆にそれだからといって,レオナルドを単純に〈近代科学の祖〉であるとみることも,実のところ正しくない。たしかにレオナルドは自然を観察し,機械のデザインを行い,地球を全体として一つの機械であるとみなした。けれどもレオナルドのそれは〈生ける機械〉であり,デカルト以後の機械論におけるような〈死せる機械〉ではない。自然は地,水,火,空気の四大元素の互いにせめぎ合う有機体であり,この四大元素からなる人間の身体と同じく生きている。人体の血管に血が流れているように,大地の肉体は限りない水脈で満たされているのである。ここでは大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)は疑いもなく照応している。《鳥の飛翔》においても,鳥は一個の機械であるが,それは生命を吹きこまれた機械なのである。〈有機的な機械〉--この矛盾した表現で表すほかないものが,レオナルドの独自な自然観である。水力学の対象となる水の流れも,気象学の対象となる空気の動きも,力学の対象となる大砲から飛び出す砲弾すらもが生きている。たとえばレオナルドが最も注目した水の流れが,あたかも植物のごとく,髪の毛のごとく描かれているのも,それが同じ生命をもつ有機体の一部だからにほかならない。このことは彼の力の概念によって知ることができる。〈力とは精神的な性能,不可視の能力以外のものではない。それは偶有的な暴力によってつくり出され,感性的物体から非感性的物体へと注入され,もってその物体に生命に似たものを注ぎ込む。こうした生命は不思議な作用をする。それはいっさいの被造物を強制して場所と形態を変えさせつつ,自己の破滅に向かって驀進し,その原因を介してさまざまに変化してゆく〉(《アトランティコ手稿》folio 302v.)。これは近代科学の力の概念でなく,ルネサンスに特有な有機的生命力である。人間も動物も植物も,鉱物すらもこうした有機的生命力の流れの中にあり,世界は全体として,それをつくり上げる四大元素の内在的力の自己運動によって,最終的な終末へと向かってゆく。それが彼の晩年において描かれる〈大洪水〉のイメージ(《ウィンザー手稿》)なのである。レオナルドは世界のこの黙示録的終焉を信じ,それをある種の諦観をもって受け容れていたように思われる。いわゆる〈モナ・リザの微笑〉は,筆者の意見では,この終末の秘密を知るものの微笑であり,背景をなしている岩山と水と一体にとらえられねばならない。すでに《聖アンナ》の微笑は,キリストの死やその後の世界の運命を見通しているものの微笑であり,《モナ・リザ》のそれと連なる。《洗礼者ヨハネ》にいたれば,背景は暗黒となり,ついに終末は到来したのである。天をさす指はそのことを示している。
かくしてレオナルドにとって,芸術も科学も技術も自然観も一体のものであった。そこでは科学は芸術であり,芸術は科学であり,この両者を離しては考えられない。この芸術と科学の一体性において,観念的にではなく,具象的に,世界が何であり,人間が何であるかを,彼は生涯探究し続けた。この営みにおいて彼の文化史上の意義は,言葉の最も原初的な意味においてユニークである。レオナルドの前にレオナルドが存在しないように,レオナルドの後にもレオナルドはいない。
イタリアの画家,彫刻家,建築家,自然科学者,工学技術者.
エンポリ近郊のヴィンチに公証人の庶子として生まれる.13歳の頃フィレンツェに出 [1465],
〖作品〗 聖ヒエロニュムス, 1480頃(バチカン).白貂を抱く貴婦人, 1495頃(クラクフ,チャルトリスキ美術館).洗礼者ヨハネ, 1516-16(ルーヴル).〖著作〗 アトランティコ手稿(ミラノ,アンブロジアーナ図書館).ウィンザー手稿(ウィンザー城).パリ手稿(パリ,アカデミー・フランセーズ).マドリード手稿(マドリード,国立図書館).
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