1. 北条氏康
日本大百科全書
関東の戦国大名、後北条(ほうじょう)氏第3代。氏綱(うじつな)の子。1541年(天文10)家督を継ぎ、翌年から相模(さがみ)、武蔵(むさし)の広い範囲で代替り検
2. 北条氏康
世界大百科事典
1515-71(永正12-元亀2) 戦国時代の武将。後北条氏第3代。氏綱の子。左京大夫,相模守。1541年(天文10)に家督を継ぎ,その翌年と翌々年にかけて相模
3. ほうじょう‐うじやす【北条氏康】
日本国語大辞典
戦国時代の武将。氏綱の子。父のあとを継いで勢力拡大をはかり、しばしば今川義元・上杉憲政と戦う。また川越城の戦で八万の大軍をわずか八千の兵の夜襲攻撃によって破り、
4. ほうじょううじやす【北条氏康】画像
国史大辞典
一五一五―七一 戦国時代の武将。相模国小田原城主。通称は新九郎。従五位下左京大夫。隠居後は相模守、また御本城様・本城などと敬称され、太清軒と号した。永正十二年
5. 北条氏康
日本史年表
1542年〈天文11 壬寅③〉 この年から翌年にかけて 北条氏康 ,相模・武蔵・伊豆に代替り検地を実施(大川文書)。 1571年〈元亀2 辛未〉 10・3 没
6. ほうじょう-うじやす【北条氏康】
日本人名大辞典
1515−1571 戦国時代の武将。永正(えいしょう)12年生まれ。北条氏綱の長男。天文(てんぶん)10年,小田原城主北条氏3代となる。15年扇谷(おうぎがやつ
7. 北条氏康[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『北条氏康の武蔵野紀行の真偽に就て』田中義成
8. 北條氏康與二上杉謙信一講和 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 711ページ
9. 北條氏康與二武田信玄一戰 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 647ページ
10. 北條氏康使三國安造二鐵砲一 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 882ページ
11. 北條氏康和歌 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
方技部 洋巻 第1巻 64ページ
12. 北條氏康河越夜軍 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 90ページ
13. 北條氏康河越夜軍 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 573ページ
14. 北条氏康印[図版]画像
国史大辞典
武栄 厳 機 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.
15. 北条氏康花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
16. 北条氏康時代武州江戸之図(著作ID:4323368)
新日本古典籍データベース
ほうじょううじやすじだいぶしゅうえどのず 地図
17. あおやぎのみくりや【青柳御厨】群馬県:前橋市/青柳村
日本歴史地名大系
現地に神使と目安を送り回復に努めようとしたが、「先御屋形氏康御代速雖被聞召分、菟角遅延之処也」と記し、北条氏康の支配下に入っていることがわかる。
18. あかさかだいまち【赤坂台町】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
北は同表三丁目。同年赤坂掃除町の本町部分に臨済宗大徳寺末種徳寺(狩野興以墓あり、天文一九年作成北条氏康検地帳を所蔵)・報土寺(現真宗大谷派、儒者井部香山墓・力士
19. あきるのし【あきる野市】東京都地図
日本歴史地名大系
分となり、その袖に北条家の虎朱印が捺されているのはそのことを端的に物語る。やがて道俊は家督を北条氏康の三男氏照に譲り、居城の滝山城(現八王子市)を明渡して戸倉に
20. あさいこむかいむら【浅井小向村】千葉県:市原市地図
日本歴史地名大系
文書)に真野郡内として「浅井村 卅貫文」とみえ、足利公方の母芳春(北条氏綱娘)の仰せにより、北条氏康が判物で当地を村上民部大夫に宛行っている。同年村上氏の所望に
21. あさかいむら【浅貝村】新潟県:南魚沼郡/湯沢町
日本歴史地名大系
一日の上杉輝虎書状(豊岡つる氏蔵)に「当地浅貝着陣、則頓速沼田へ可打着候」とあり、武田信玄・北条氏康勢の上野・武蔵攻略に対し、輝虎(謙信)は沼田(現群馬県沼田市
22. 足利晴氏
日本大百科全書
同年10月上杉憲政(のりまさ)らとともに北条側の武蔵(むさし)河越(かわごえ)城を攻めたが、北条氏康(うじやす)軍のために敗れ古河に帰った。以後体制の立て直しを
23. あしかが‐はるうじ【足利晴氏】
日本国語大辞典
室町後期の武将。高基の子。別名、藤氏。古河公方。晩年北条氏康のために相模波多野に幽居。のち下総関宿に隠居。法名永仙院、妙泰院糸山道統。永祿三年(一五六〇)没。
24. あしかがはるうじ【足利晴氏】画像
国史大辞典
定)とともに北条綱成の守る武蔵河越城を囲んだが、攻城六ヵ月に及んで陥せず、河越城救援に赴いた北条氏康の奇襲にあい、敗れて古河に帰った。この戦いで武蔵は北条氏の勢
25. あしかが-はるうじ【足利晴氏】
日本人名大辞典
をつぐ。北条氏綱の援助をえて,7年叔父の小弓(おゆみ)御所足利義明をやぶる。氏綱の死後は子の北条氏康と対立し,関東管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)に味方して
26. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
幼名梅千代王丸。同二十一年十二月家督をつぎ、同二十三年十一月、父晴氏が北条氏康に攻められて古河城が没落したとき、母の縁によって北条氏康の庇護を得て、鎌倉の葛西ヶ
27. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(二)
国史大辞典
幼名梅千代王丸。同二十一年十二月家督をつぎ、同二十三年十一月、父晴氏が北条氏康に攻められて古河城が没落したとき、母の縁によって北条氏康の庇護を得て、鎌倉の葛西ヶ
28. あしかが-よしうじ【足利義氏(2)】
日本人名大辞典
戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)10年生まれ。足利晴氏の子。母は北条氏綱の娘芳春院。足利氏姫の父。伯父北条氏康の庇護(ひご)のもと,天文21年家督をつぎ,
29. あしがらじょうあと【足柄城跡】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
日本歴史地名大系
原防衛の重要な役割を果していたらしく、度々大規模な普請が加えられた。とくに同一二年二月六日の北条氏康朱印状(県史三)に「十人石切衆、右此度御国之御大事之間、(中
30. あしがらじょうあと【足柄城跡】静岡県:駿東郡/小山町/竹之下村
日本歴史地名大系
る。同一二年二月六日、北条氏康は石切左衛門五郎・同善左衛門に石切衆一〇人を連れて「明日七日足柄峠ヘ罷上、肥田・二宮播磨相談、小屋を懸御番可勤」ことを命じており(
31. あしがらやま【足柄山】神奈川県:南足柄市地図
日本歴史地名大系
)二月六日、北条氏は十人石切衆に「御国之御大事候間」足柄峠へ罷出て尽力するよう命じている(「北条氏康朱印状」県史三)。天正一〇年(一五八二)五月八日の北条家定書
32. あじろむら【網代村】埼玉県:川越市地図
日本歴史地名大系
[現]川越市山田 宿粒村の北、入間川と赤間川に挟まれた低平地に立地。永禄四年(一五六一)四月八日の北条氏康・同氏政連署書状写(古今消息集)に「河越庄内網代郷」と
33. あずむら【阿須村】埼玉県:飯能市地図
日本歴史地名大系
吉江新左衛門勢と戦っている。この「阿須垣原」も当地とみられる。永禄年間(一五五八―七〇)と推定される六月三日の北条氏康判物(山口県金子文書)によると、氏康は金子
34. あだちぐん【足立郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
(現足立区)などがあり、当郡を上・下に分ける呼称も用いられていた。同五年一月から二月にかけて北条氏康の軍兵が当郡内に侵入し、水判土(現大宮市)の慈眼房や蕨・篠目
35. あだちぐん【足立郡】東京都:武蔵国
日本歴史地名大系
永禄五年(一五六二)には水判土(現さいたま市)・篠目(佐々目、現さいたま市・戸田市)・蕨などに北条氏康の軍勢が進攻した(氷川女体神社蔵大般若経識語)。しかし、太
36. あだのしんでん【阿多野新田】静岡県:駿東郡/小山町
日本歴史地名大系
越え、御厨地方に侵攻した。足柄城の北条勢はその状況を北条氏康に「敵本陣を払、滝之沢を取越、あたの原へ打出」と注進している(一二月一八日「北条氏康書状」岡部文書)
37. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
将軍となる1569(永禄12) 5月今川氏真、掛川城を徳川家康に譲る。閏5月上杉輝虎と北条氏康和睦1570(元亀1) 1月信長、義昭と不和になる。6月信長、
38. あぼごう・あぼしやかた【安保郷・安保氏館】埼玉県:児玉郡/神川町/元安保村地図
日本歴史地名大系
忠の知行地となっており、永禄六年(一五六三)五月一〇日北条氏康・氏政は上州足利領内の地を安保晴泰・泰通に宛行っていることから(「北条氏康・氏政連署判物」安保文書
39. あらかわ【荒川】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
渡河する際落馬して急死している(「石川忠総留書」内閣文庫蔵)。天文一三年(一五四四)四月一五日の北条氏康感状写(諸名将等感状集記)は荒川端における志村弥四郎の戦
40. ありよしむら【有吉村】千葉県:千葉市/緑区地図
日本歴史地名大系
駒崎村の北東に位置し、村の北部を土気往還が通る。天文七年(一五三八)の第一次国府台合戦のあと北条氏康が同綱成に築かせた有吉城は里見氏との攻防地点になったとされる
41. 安房国
世界大百科事典
のだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。義尭の子義弘は64年(永禄7)再度国府台で北条氏康と合戦して敗れ,これ以後の里見氏は南房総に局限された勢力を保
42. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
を呼掛けた。義弘はこれに応じて翌七年一月市川に布陣したが、謙信の来援前に勝負を決めようとする北条氏康と国府台で戦い、再び敗れている(第二次国府台合戦)。合戦後、
43. あんよういん【安養院】神奈川県:鎌倉市/大町村地図
日本歴史地名大系
にかけ、当院の玉運が夢想によって鶴岡八幡宮浜の大鳥居建立を本願し、勧進・建立したことを記す。北条氏康は同一六年一〇月一二日に敷地一貫六〇〇文分を寄進し、同二二年
44. いいずみむら【飯泉村】神奈川県:小田原市地図
日本歴史地名大系
元亀三年(一五七二)九月三日の北条氏政判物(県史三)によれば、「相州西郡飯泉郷肥田分百貫文地」が北条氏康の菩提所に寄進されている。また天正一三年(一五八五)と推
45. いいづかむら【飯塚村】新潟県:柏崎市
日本歴史地名大系
含む新田三ヵ所計二七石二斗余がある。八幡神社には永禄六年(一五六三)七月一八日と同七年五月一三日の武田晴信・北条氏康退治祈願の上杉輝虎願文が伝わる。
46. いけがみほんもんじ【池上本門寺】東京都:大田区/池上村地図
日本歴史地名大系
寺文書)。この両寺の関係は戦国時代に入り北条氏によっても承認された(天文一九年閏五月二一日「北条氏康書状」・天正一五年七月六日「北条氏直掟書」妙本寺文書)。なお
47. いけむら【池村】群馬県:多野郡/吉井町
日本歴史地名大系
字御門に多胡碑が存し、「和名抄」多胡郡の大家郷に比定される。永禄六年(一五六三)五月一〇日の北条氏康・氏政連署知行宛行状(安保文書)で「上州河北足利領内」として
48. いしつかじょうあと【石塚城跡】茨城県:東茨城郡/常北町/石塚村
日本歴史地名大系
佐竹宗義始て築けり。其先刑部大夫義篤の二子此地に食邑し、石塚氏といふとぞ。宗義の孫大膳義胤、北条氏康と宇都宮の地に戦、矢にあたりて死せり。義胤の子義衡、佐竹氏に
49. いしとじょうあと【石戸城跡】埼玉県:北本市/石戸宿村地図
日本歴史地名大系
石戸城は岩付領内にあって岩付城(現岩槻市)と松山城(現吉見町)の中継的な位置にあった。永禄六年(一五六三)春、北条氏康・武田信玄連合軍の包囲下にあった松山城救援
50. いずさんじんじゃ【伊豆山神社】静岡県:熱海市/伊豆山村
日本歴史地名大系
連歌師谷宗牧は天文一四年二月一四日、神事前日の社頭の賑いを記している(東国紀行)。同一九年閏五月一八日、北条氏康は東明寺に鎌倉浄智寺の鐘を寄進した(「鐘銘」佚亡