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  11. 北条氏康

北条氏康

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条氏康』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
北条氏康
ほうじょううじやす
一五一五 - 七一
戦国時代の武将。相模国小田原城主。通称は新九郎。従五位下左京大夫。隠居後は相模守、また御本城様・本城などと敬称され、太清軒と号した。永正十二年(一五一五)に生まれる。父は北条氏綱、母は養珠院宗栄とみられる。享禄三年(一五三〇)に上杉朝興の軍を破った小沢原(神奈川県川崎市多摩区)の戦が氏康の初陣。天文六年(一五三七)七月、北条氏が扇谷上杉氏の本拠となっていた河越城(埼玉県川越市郭町)を奪取したころから、氏康は北条家の家督を相承すべき一人として、父氏綱とともに政務に関与し始め、同十年七月の氏綱死没前後に家督を継ぎ、第三代当主の座についた。ときに二十七歳。その翌十一年と翌々十二年にかけて、相模の中央部、武蔵の東南部および南部、伊豆の韮山付近などで代替り検地を実施したが、同時に、新当主として、祖父早雲・父氏綱が承認していた公事の免除などを、先例に任せて安堵している。同十四年になると、河東一乱以来今川義元との間で小康を保っていた駿河の富士川以東の地域をめぐる紛争が再燃し、関東管領上杉憲政らが義元と結んだため、氏康は重大な危機に立たされた。しかし武田晴信の斡旋により、氏康と義元・憲政の間に講和が成立した。その結果、氏康は富士川以東の駿河を失うことになる。翌十五年四月、氏康は北条綱成らが守備する河越城の救援に向かい、その二十日に憲政らを撃って大勝した。この河越の夜討といわれる戦で、上杉朝定らは戦死し、憲政は上野の平井城(群馬県藤岡市西平井)に敗走し、足利晴氏は古河(茨城県古河市)に帰った。朝定らの敗死によって扇谷上杉氏は滅亡する。この河越の戦以後に、大石氏・藤田氏など北武蔵の武将らが氏康に服属することになる。十九年四月、税制を改革して領国経営の基礎を固めた。この改革では、諸点役と呼ばれた税を整理統合して税率六%の懸銭を創設したほか、棟別銭を一間当たり五十文から三十五文に減額し、また段銭の税率も八%にされたとみられるなど、税目の整理と税率の改正を行なっている。翌二十年、上杉憲政を上野の平井城に攻め、厩橋城(群馬県前橋市大手町)から白井城(群馬県北群馬郡子持村)へと追い詰め、二十一年正月ついに憲政を越後の守護代長尾景虎(のちの上杉輝虎、謙信)のもとへ走らせた。また二十一年十二月、古河公方足利晴氏に対し、その子義氏(母は氏綱の女、芳春院)に家督を譲らせている。こうした関東の経略が一段落し、二十三年二月に氏康が駿河へ軍を進めると、義元の軍師であった太原崇孚(雪斎)らの斡旋があり、氏康・義元・晴信の三大名が瀬古(静岡県富士市)の善徳寺で会見し、それぞれの子女の婚姻を条件に講和したとする「善徳寺の会盟」が行われたと伝えている。この会盟の有無は現在なお確認されないものの、氏康の駿河進軍を契機として三国同盟が締結されていることは事実である。氏康の駿河進攻は、天文十四年に割譲を余儀なくされた富士川以東の駿河を奪回するためとみられ、その結果は相甲駿の三国同盟が成立し、氏康は関東、義元は三河、晴信は北信濃の経略にあたることになる。またこの二十三年十一月には、足利晴氏・藤氏父子を捕えて相模の波多野(神奈川県秦野市)に幽閉し、義氏に家督を安堵させるとともに、義氏を北条氏の直轄領域であった鎌倉の葛西ヶ谷(かさいがやつ、神奈川県鎌倉市小町)に置いている。翌弘治元年(一五五五)、北武蔵の河越周辺でかなり大規模な検地を実施したが、この年にはまた段銭の増徴、正木棟別銭の創設賦課といった税制の調整を行なっている。北条氏の伝馬手形に押された伝馬専用印判(印文「常調」)は、永禄元年(一五五八)に初見されるから、この時期に北条氏の伝馬制が確立されたものと推測される。翌二年二月、氏康は太田豊後守ら三名に命じて、家臣らに対する普請役賦課の状況を主として調査させ、その基本台帳としての『小田原衆所領役帳』を作成させたが、その年の十二月に、家督を氏政に譲り、隠居した可能性が強い。ときに氏康は四十五歳、氏政は二十二歳。この代替り前後に、小田原城を本城とする支城制がほぼ固められたものとみられる。この二年にはまた、代物法度(だいもつはっと)を制定して、精銭(善銭)と地悪銭(中銭ともいう)の法定混合比率を百文中、精銭七十五文・地悪銭二十五文と規定する貨幣対策を実施したが、翌三年にはこの代物法度を改定して、精銭七十文・地悪銭三十文とし、北条氏における精銭と地悪銭の法定混合比率を確立している。氏康は隠居後もなお小田原城内の本城にいたので、御本城様などと呼ばれ、氏政の後見としてその政務を助けた。同四年三月、長尾景虎の小田原来攻を退けたが、七、八年ころからは将軍足利義輝らによって、北条・上杉両氏の講和が進められたこともあり、また対武田氏戦略などから、十二年閏五月に相越同盟が成立している。この同盟は、氏康の主導で行われた。これより前の九年から、氏康は印文「武栄」の印判と、印文「厳」の印判(当主が用いた「調」印判の類)を使用していた。氏康は元亀元年(一五七〇)の七、八月ごろから、中風を病んだらしく、これ以後は文書に花押を据えることなく、その代用として印文「機」の鼎形印判を用いているが、発病後一年余り経た同二年十月三日に没した。ときに五十七歳。法名は大聖寺殿東陽宗岱大居士。墓は神奈川県足柄下郡箱根町湯本の早雲寺にある。戦国大名北条氏の始祖となった早雲は、巧みな外交手腕によって領国を拡大するとともに、検地の実施、新基準の貫高制の採用など、土地制度の改革を推進し、戦国大名としての基礎を築いた。二代氏綱は、虎の印判などを使用し始め、それまでの郡代・代官まかせの支配から、領国民を直接把握するという新しい領国支配体制を整え、また武蔵への進出、北条改姓ののちに叙爵されて、確固とした戦国大名に成長している。そして三代氏康は、広範囲に検地を実施し、その結果を基礎に税制の改革を行い、また公定枡(榛原(はいばら)枡)の設定、貨幣制度の確立、伝馬制の確立など諸制度の整備を成し遂げている。さらに小田原城を本城とする支城制の確立などが挙げられ、氏康の時代に至って、北条領国は形成されているといえよう。税制改革実施の翌天文二十年から、虎の印判状が増大していることについては、民政充実の表れとみられている。四代氏政以降は、天下統一をめざした織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らと交渉をもつようになって、五代氏直のとき秀吉により滅ぼされた。
[参考文献]
『上杉家文書』一、『大日本史料』一〇ノ七 元亀二年十月三日条、『神奈川県史』通史編一、相田二郎「北条氏の印判に関する研究」(『相田二郎著作集』二所収)、佐脇栄智「後北条氏の検地」(『後北条氏の基礎研究』所収)、田辺久子・百瀬今朝雄「小田原北条氏花押考」(『戦国大名論集』八所収)
(佐脇 栄智)


北条氏康花押
ホウジョウウジヤスカオウ
北条氏康花押

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


北条氏康印
ホウジョウウジヤスイン
北条氏康印

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


日本大百科全書(ニッポニカ)
北条氏康
ほうじょううじやす
[1515―1571]

関東の戦国大名、後北条(ほうじょう)氏第3代。氏綱(うじつな)の子。1541年(天文10)家督を継ぎ、翌年から相模(さがみ)、武蔵(むさし)の広い範囲で代替り検地を行った。52年上杉憲政(のりまさ)を越後(えちご)に追い、自分の甥(おい)の足利義氏(あしかがよしうじ)を古河公方(こがくぼう)にたて、前公方晴氏(はるうじ)父子を幽閉した。さらに河越(かわごえ)、松山(埼玉県川越市、東松山市)周辺に検地をし、滝山(たきやま)(東京都八王子市)、鉢形(はちがた)(埼玉県大里郡寄居(よりい)町)の支城に子の氏照(うじてる)、氏邦(うじくに)を入れた。そのほか、税制改革、軍役を定めた「小田原衆所領役帳」を作成するなど、領国経営の安定を図った。59年(永禄2)には氏政(うじまさ)に家督を譲ってこれを後見し、武田・今川氏との同盟をバックに上杉輝虎(てるとら)(謙信(けんしん))の進攻を退け、勢力を拡大した。晩年、駿河(するが)に進出した武田信玄(しんげん)を討つため、上杉氏との同盟締結に全力を傾け69年締結したが、死にあたっては、これを破棄して、ふたたび武田氏と結ぶよう遺言したといわれる。

[池上裕子]



改訂新版 世界大百科事典
北条氏康
ほうじょううじやす
1515-71(永正12-元亀2)

戦国時代の武将。後北条氏第3代。氏綱の子。左京大夫,相模守。1541年(天文10)に家督を継ぎ,その翌年と翌々年にかけて相模,南武蔵,伊豆等で代替り検地を実施し,50年には税制を改革して領国経営の基礎を固めた。この前の45年には駿河の富士川以東の地域をめぐり今川義元と争い,遂に駿河を失う。しかし翌46年,川越の夜討といわれる戦いに大勝し(河越城の戦),扇谷上杉氏を滅亡させた。さらに52年には山内上杉憲政を上野から越後に追い,54年駿河に攻め入ったが,結局,相甲駿三国同盟を結ぶ。またこの年,古河公方足利晴氏らを相模の秦野に幽閉したが,翌55年(弘治1)北武蔵で検地を実施するとともに税制の整備も行った。59年(永禄2)の初めに《小田原衆所領役帳》を作成させたが,その年末には家督を氏政に譲り,後見となる。69年に相越同盟を成立させ,71年10月3日没。法名は大聖寺殿東陽宗岱。
[佐脇 栄智]

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1. 北条氏康
日本大百科全書
関東の戦国大名、後北条(ほうじょう)氏第3代。氏綱(うじつな)の子。1541年(天文10)家督を継ぎ、翌年から相模(さがみ)、武蔵(むさし)の広い範囲で代替り検
2. 北条氏康
世界大百科事典
1515-71(永正12-元亀2) 戦国時代の武将。後北条氏第3代。氏綱の子。左京大夫,相模守。1541年(天文10)に家督を継ぎ,その翌年と翌々年にかけて相模
3. ほうじょう‐うじやす【北条氏康】
日本国語大辞典
戦国時代の武将。氏綱の子。父のあとを継いで勢力拡大をはかり、しばしば今川義元・上杉憲政と戦う。また川越城の戦で八万の大軍をわずか八千の兵の夜襲攻撃によって破り、
4. ほうじょううじやす【北条氏康】画像
国史大辞典
一五一五―七一 戦国時代の武将。相模国小田原城主。通称は新九郎。従五位下左京大夫。隠居後は相模守、また御本城様・本城などと敬称され、太清軒と号した。永正十二年
5. 北条氏康
日本史年表
1542年〈天文11 壬寅③〉 この年から翌年にかけて 北条氏康 ,相模・武蔵・伊豆に代替り検地を実施(大川文書)。 1571年〈元亀2 辛未〉 10・3 没
6. ほうじょう-うじやす【北条氏康】
日本人名大辞典
1515−1571 戦国時代の武将。永正(えいしょう)12年生まれ。北条氏綱の長男。天文(てんぶん)10年,小田原城主北条氏3代となる。15年扇谷(おうぎがやつ
7. 北条氏康[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『北条氏康の武蔵野紀行の真偽に就て』田中義成
8. 北條氏康與上杉謙信講和 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 711ページ
9. 北條氏康與武田信玄戰 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 647ページ
10. 北條氏康使國安造鐵砲 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 882ページ
11. 北條氏康和歌 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
方技部 洋巻 第1巻 64ページ
12. 北條氏康河越夜軍 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 90ページ
13. 北條氏康河越夜軍 (見出し語:北條氏康)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 573ページ
14. 北条氏康印[図版]画像
国史大辞典
武栄 厳 機 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
15. 北条氏康花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
16. 北条氏康時代武州江戸之図(著作ID:4323368)
新日本古典籍データベース
ほうじょううじやすじだいぶしゅうえどのず 地図 
17. あおやぎのみくりや【青柳御厨】群馬県:前橋市/青柳村
日本歴史地名大系
現地に神使と目安を送り回復に努めようとしたが、「先御屋形氏康御代速雖被聞召分、菟角遅延之処也」と記し、北条氏康の支配下に入っていることがわかる。
18. あかさかだいまち【赤坂台町】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
北は同表三丁目。同年赤坂掃除町の本町部分に臨済宗大徳寺末種徳寺(狩野興以墓あり、天文一九年作成北条氏康検地帳を所蔵)・報土寺(現真宗大谷派、儒者井部香山墓・力士
19. あきるのし【あきる野市】東京都地図
日本歴史地名大系
分となり、その袖に北条家の虎朱印が捺されているのはそのことを端的に物語る。やがて道俊は家督を北条氏康の三男氏照に譲り、居城の滝山城(現八王子市)を明渡して戸倉に
20. あさいこむかいむら【浅井小向村】千葉県:市原市地図
日本歴史地名大系
文書)に真野郡内として「浅井村 卅貫文」とみえ、足利公方の母芳春(北条氏綱娘)の仰せにより、北条氏康が判物で当地を村上民部大夫に宛行っている。同年村上氏の所望に
21. あさかいむら【浅貝村】新潟県:南魚沼郡/湯沢町
日本歴史地名大系
一日の上杉輝虎書状(豊岡つる氏蔵)に「当地浅貝着陣、則頓速沼田へ可打着候」とあり、武田信玄・北条氏康勢の上野・武蔵攻略に対し、輝虎(謙信)は沼田(現群馬県沼田市
22. 足利晴氏
日本大百科全書
同年10月上杉憲政(のりまさ)らとともに北条側の武蔵(むさし)河越(かわごえ)城を攻めたが、北条氏康(うじやす)軍のために敗れ古河に帰った。以後体制の立て直しを
23. あしかが‐はるうじ【足利晴氏】
日本国語大辞典
室町後期の武将。高基の子。別名、藤氏。古河公方。晩年北条氏康のために相模波多野に幽居。のち下総関宿に隠居。法名永仙院、妙泰院糸山道統。永祿三年(一五六〇)没。
24. あしかがはるうじ【足利晴氏】画像
国史大辞典
定)とともに北条綱成の守る武蔵河越城を囲んだが、攻城六ヵ月に及んで陥せず、河越城救援に赴いた北条氏康の奇襲にあい、敗れて古河に帰った。この戦いで武蔵は北条氏の勢
25. あしかが-はるうじ【足利晴氏】
日本人名大辞典
をつぐ。北条氏綱の援助をえて,7年叔父の小弓(おゆみ)御所足利義明をやぶる。氏綱の死後は子の北条氏康と対立し,関東管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)に味方して
26. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
幼名梅千代王丸。同二十一年十二月家督をつぎ、同二十三年十一月、父晴氏が北条氏康に攻められて古河城が没落したとき、母の縁によって北条氏康の庇護を得て、鎌倉の葛西ヶ
27. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(二)
国史大辞典
幼名梅千代王丸。同二十一年十二月家督をつぎ、同二十三年十一月、父晴氏が北条氏康に攻められて古河城が没落したとき、母の縁によって北条氏康の庇護を得て、鎌倉の葛西ヶ
28. あしかが-よしうじ【足利義氏(2)】
日本人名大辞典
戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)10年生まれ。足利晴氏の子。母は北条氏綱の娘芳春院。足利氏姫の父。伯父北条氏康の庇護(ひご)のもと,天文21年家督をつぎ,
29. あしがらじょうあと【足柄城跡】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
日本歴史地名大系
原防衛の重要な役割を果していたらしく、度々大規模な普請が加えられた。とくに同一二年二月六日の北条氏康朱印状(県史三)に「十人石切衆、右此度御国之御大事之間、(中
30. あしがらじょうあと【足柄城跡】静岡県:駿東郡/小山町/竹之下村
日本歴史地名大系
る。同一二年二月六日、北条氏康は石切左衛門五郎・同善左衛門に石切衆一〇人を連れて「明日七日足柄峠ヘ罷上、肥田・二宮播磨相談、小屋を懸御番可勤」ことを命じており(
31. あしがらやま【足柄山】神奈川県:南足柄市地図
日本歴史地名大系
)二月六日、北条氏は十人石切衆に「御国之御大事候間」足柄峠へ罷出て尽力するよう命じている(「北条氏康朱印状」県史三)。天正一〇年(一五八二)五月八日の北条家定書
32. あじろむら【網代村】埼玉県:川越市地図
日本歴史地名大系
[現]川越市山田 宿粒村の北、入間川と赤間川に挟まれた低平地に立地。永禄四年(一五六一)四月八日の北条氏康・同氏政連署書状写(古今消息集)に「河越庄内網代郷」と
33. あずむら【阿須村】埼玉県:飯能市地図
日本歴史地名大系
吉江新左衛門勢と戦っている。この「阿須垣原」も当地とみられる。永禄年間(一五五八―七〇)と推定される六月三日の北条氏康判物(山口県金子文書)によると、氏康は金子
34. あだちぐん【足立郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
(現足立区)などがあり、当郡を上・下に分ける呼称も用いられていた。同五年一月から二月にかけて北条氏康の軍兵が当郡内に侵入し、水判土(現大宮市)の慈眼房や蕨・篠目
35. あだちぐん【足立郡】東京都:武蔵国
日本歴史地名大系
永禄五年(一五六二)には水判土(現さいたま市)・篠目(佐々目、現さいたま市・戸田市)・蕨などに北条氏康の軍勢が進攻した(氷川女体神社蔵大般若経識語)。しかし、太
36. あだのしんでん【阿多野新田】静岡県:駿東郡/小山町
日本歴史地名大系
越え、御厨地方に侵攻した。足柄城の北条勢はその状況を北条氏康に「敵本陣を払、滝之沢を取越、あたの原へ打出」と注進している(一二月一八日「北条氏康書状」岡部文書)
37. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
将軍となる1569(永禄12)  5月今川氏真、掛川城を徳川家康に譲る。閏5月上杉輝虎と北条氏康和睦1570(元亀1)  1月信長、義昭と不和になる。6月信長、
38. あぼごう・あぼしやかた【安保郷・安保氏館】埼玉県:児玉郡/神川町/元安保村地図
日本歴史地名大系
忠の知行地となっており、永禄六年(一五六三)五月一〇日北条氏康・氏政は上州足利領内の地を安保晴泰・泰通に宛行っていることから(「北条氏康・氏政連署判物」安保文書
39. あらかわ【荒川】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
渡河する際落馬して急死している(「石川忠総留書」内閣文庫蔵)。天文一三年(一五四四)四月一五日の北条氏康感状写(諸名将等感状集記)は荒川端における志村弥四郎の戦
40. ありよしむら【有吉村】千葉県:千葉市/緑区地図
日本歴史地名大系
駒崎村の北東に位置し、村の北部を土気往還が通る。天文七年(一五三八)の第一次国府台合戦のあと北条氏康が同綱成に築かせた有吉城は里見氏との攻防地点になったとされる
41. 安房国
世界大百科事典
のだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。義尭の子義弘は64年(永禄7)再度国府台で北条氏康と合戦して敗れ,これ以後の里見氏は南房総に局限された勢力を保
42. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
を呼掛けた。義弘はこれに応じて翌七年一月市川に布陣したが、謙信の来援前に勝負を決めようとする北条氏康と国府台で戦い、再び敗れている(第二次国府台合戦)。合戦後、
43. あんよういん【安養院】神奈川県:鎌倉市/大町村地図
日本歴史地名大系
にかけ、当院の玉運が夢想によって鶴岡八幡宮浜の大鳥居建立を本願し、勧進・建立したことを記す。北条氏康は同一六年一〇月一二日に敷地一貫六〇〇文分を寄進し、同二二年
44. いいずみむら【飯泉村】神奈川県:小田原市地図
日本歴史地名大系
元亀三年(一五七二)九月三日の北条氏政判物(県史三)によれば、「相州西郡飯泉郷肥田分百貫文地」が北条氏康の菩提所に寄進されている。また天正一三年(一五八五)と推
45. いいづかむら【飯塚村】新潟県:柏崎市
日本歴史地名大系
含む新田三ヵ所計二七石二斗余がある。八幡神社には永禄六年(一五六三)七月一八日と同七年五月一三日の武田晴信・北条氏康退治祈願の上杉輝虎願文が伝わる。
46. いけがみほんもんじ【池上本門寺】東京都:大田区/池上村地図
日本歴史地名大系
寺文書)。この両寺の関係は戦国時代に入り北条氏によっても承認された(天文一九年閏五月二一日「北条氏康書状」・天正一五年七月六日「北条氏直掟書」妙本寺文書)。なお
47. いけむら【池村】群馬県:多野郡/吉井町
日本歴史地名大系
字御門に多胡碑が存し、「和名抄」多胡郡の大家郷に比定される。永禄六年(一五六三)五月一〇日の北条氏康・氏政連署知行宛行状(安保文書)で「上州河北足利領内」として
48. いしつかじょうあと【石塚城跡】茨城県:東茨城郡/常北町/石塚村
日本歴史地名大系
佐竹宗義始て築けり。其先刑部大夫義篤の二子此地に食邑し、石塚氏といふとぞ。宗義の孫大膳義胤、北条氏康と宇都宮の地に戦、矢にあたりて死せり。義胤の子義衡、佐竹氏に
49. いしとじょうあと【石戸城跡】埼玉県:北本市/石戸宿村地図
日本歴史地名大系
石戸城は岩付領内にあって岩付城(現岩槻市)と松山城(現吉見町)の中継的な位置にあった。永禄六年(一五六三)春、北条氏康・武田信玄連合軍の包囲下にあった松山城救援
50. いずさんじんじゃ【伊豆山神社】静岡県:熱海市/伊豆山村
日本歴史地名大系
連歌師谷宗牧は天文一四年二月一四日、神事前日の社頭の賑いを記している(東国紀行)。同一九年閏五月一八日、北条氏康は東明寺に鎌倉浄智寺の鐘を寄進した(「鐘銘」佚亡
「北条氏康」の情報だけではなく、「北条氏康」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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