イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人。青年時代には彫刻,絵画における盛期ルネサンス様式の完成者として,壮・晩年期には彫刻,絵画,建築におけるマニエリスム様式の形成者として,また生涯を通じて,新プラトン主義の影響を強く受けた宗教上の思索者,詩人として,質量ともに西洋美術史上第一級の制作活動を続け,それまで一般に職人的存在とみなされていた芸術家の地位の確立に貢献した。父親はカプレーゼCapreseの行政長官で,フィレンツェの小貴族の末裔であった。ミケランジェロは己の血筋に対する誇りを生涯捨てなかったが,その一方では現実に経済力をもたぬ父親の執拗な金銭的要求に悩まされつづけた。こうした実人生上の苦悩や,彼の制作意欲をつねに阻害し続けたパトロンたちの意志との衝突などのさまざまな葛藤を,休むことのない制作と,宗教上の思索とによって昇華し,一個人としては悩みに満ちた,芸術家としては実り多い生涯を送った。
1488年13歳のときに,当時フィレンツェ最大の工房の一つであったギルランダイオの工房の徒弟となるが,絵画を中心的活動としていたこの工房に飽き足らなかったためか,まもなくそこを出たらしい。このあと彼は,ロレンツォ・デ・メディチが若い芸術家の教育のために古代美術品を集めていた,サン・マルコ近くのメディチ家の庭園で,彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニBertoldo di Giovanniの指導を受けたといわれるが,この庭園の教育的機能の実情は明らかではない。いずれにせよこのころ,ロレンツォの庇護を受けて大理石彫刻家としての第一歩を踏み出すとともに,ロレンツォの邸館でのフィチーノやポリツィアーノなどの人文主義者や文学者との交友を通じて,新プラトン主義の洗礼を受けたのであった。また当時,おそらくロレンツォのために,古代ローマの浮彫の様式に倣って激しい動感に満ちた高浮彫《ケンタウロスの戦》を制作している。94年短期間ボローニャに滞在した後,96年にはローマに行き,《バッコス》および《ピエタ》の大作彫刻を仕上げる。前者は若いミケランジェロの完璧な技術と解剖学的知識を示しており,後者は盛期ルネサンスの古典主義彫刻の代表的作品である。1501年フィレンツェに帰還し,04年には共和国の理想を託した巨大な《ダビデ》を完成させ,また同年にはパラッツォ・ベッキオ(市庁舎)大広間にレオナルド・ダ・ビンチと競作で《カッシナの戦》壁画制作を依頼される。この壁画は,何点かの部分素描と実物大下絵(現存せず)のほかにはついに完成に至らなかったが,それらの下絵はラファエロなど次代の画家たちの裸体画の手本となった。一方,ミケランジェロの唯一のタブローである《聖家族》(別名《トンド・ドーニ》)もこの時代の作と思われる。
05年,教皇ユリウス2世の招きでローマに赴き,40体以上の彫刻と建築的モティーフの複合体である教皇の墓廟の制作を命ぜられるが,翌年には早くも教皇との間に不和が生じ,仕事は中断する。教皇は08年システィナ礼拝堂天井画制作を彼に命じ,彫刻家をもって自認するミケランジェロは,不承不承ながらも,12年に《創世記》諸場面とその周辺の多数の画面をほとんど独力で描き上げる。この天井画の特質は,第1には無数の人体の彫塑的表現効果であり,第2にはその新プラトン主義的な聖書解釈であろう。13年にはユリウス2世が没し,教皇墓廟の計画案は教皇の相続者たちの意思によって,ミケランジェロの意図に反して何回も縮小され,45年に最終的に制作が停止されたとき,彼はこのモニュメントのために《モーセ》《レア》《ラケル》,そして2体の《奴隷》を仕上げていたにすぎなかった。だがこれらの像は,堂々たる肉体表現に深く激しい精神をこめた,ルネサンス彫刻の頂点を示す作品となっている。20年,フィレンツェのサン・ロレンツォ教会内メディチ礼拝堂に同家の墓所建立の依頼を受け,24年から10年間,建築と彫刻の複合体である2基の墓碑の制作に携わる。新プラトン主義の世界観に形を与えたとされるこれらの墓碑は未完に終わったが,それを構成するロレンツォとジュリアーノ・デ・メディチの像,その下に横たわる〈朝〉〈夕〉〈昼〉〈夜〉の4寓意像および聖母子像が制作された。これらの像は,それぞれ端正な形態のうちに深く沈潜する気分を表しており,晩年の彫刻の,苦悩に満ちた様式を暗示している。
34年,フィレンツェから最終的にローマに移り住み,残る30年の生涯を教皇庁関係の仕事に費やす。35年新教皇パウルス3世は彼にシスティナ礼拝堂祭壇側の壁に《最後の審判》の壁画制作を命じ,老齢にさしかかっていたにもかかわらず,41年彼は独力でこの大画面を完成した。この作品はそれまでの絵解き的な《最後の審判》図とは異なり,正義の精神が骨肉を備えたごときたくましいイエス・キリストが,雷を投げるゼウスを思わせる激しい身ぶりで審判を下し,そのまわりには人間的苦悩をたたえた悪人たちや威厳を備えた善人たちが,バロック美術を予告する激しく旋回する構図と強烈な明暗によって描き出されている。《最後の審判》制作中のミケランジェロは,熱心なキリスト教徒で詩もよくした貴婦人ビットリア・コロンナVittoria Colonnaとの知的交友によって寂寥を慰められ,この愛に触発された詩を残している。ビットリアが47年に没して彼はますます孤独になったが,教皇庁の仕事はひきもきらず,老いた彼を休息させることはなかった。晩年の作品としては,バチカン宮殿パオリナ礼拝堂の《パウロの改宗》および《ペテロの磔刑》の壁画(1550)や,3体の未完の《ピエタ》(フィレンツェ大聖堂の《ピエタ》,パレストリーナの《ピエタ》,ロンダニーニの《ピエタ》)などがある。これらの像においては,長い制作活動と人生の闘争に疲れた老芸術家の苦悩と,そして彼がわずかに宗教に見いだしえた安らぎとが感じとれる。彫刻家,画家としてのミケランジェロは,一言で述べるならば,完璧な技巧と解剖学的正確さを備えた古典的な人体表現と,キリスト教的精神性との結合に成功し,その意味で初期ルネサンス時代からの芸術上の理想の達成者であったといえよう。
建築の代表作としては,サン・ロレンツォ教会付属図書館入口の間の設計(1523-25),ローマのカンピドリオの丘の広場の整備(1536設計),サン・ピエトロ大聖堂の円蓋その他の計画案(1546)などがある。建築において彼は,個々のモティーフを彫塑的に扱い,古典主義建築に自由な発展の可能性を与えることによってマニエリスム建築への道を開いた。
イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。レオナルド・ダ・ビンチに遅れること23年、ラファエッロより8年早く、中部イタリアのカプレーゼに生まれ(3月6日)、イタリア・ルネサンス晩期に長らく活躍のすえ、89歳でローマに没(2月18日)。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂内に墓がある。芸術上の遺作は、彫刻作品約40点、絵画では4面の大壁画のほか、若干のタブロー、建築では教会や記念建造物などの設計や装飾を残し、また、これらの絵画、彫刻、建築に関するおびただしい習作、素描、エスキスのたぐい約800点が、世界各地に分散して伝えられている。また、詩作は若いころからおよそ300編があり、そのほか、親族や友人・知己にあてた500通を超える書簡が今日に伝わる。
初め、フィレンツェの画家ギルランダイヨに師事するが、14歳のときからメディチ家の保護を得て、彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニの門に入り、かたわらメディチ家収集の古代彫刻を研究、以来彫刻に専念して、彫刻家としての自覚を生涯もち続けることになる。徒弟時代の作品には、『階段の聖母』『ケンタウロマキア』(ともにフィレンツェ、カサ・ブオナロッティ)があり、フィレンツェの彫刻家ドナテッロや古代彫刻からの影響が顕著である。1496年、21歳でローマに出て、『ディオニソス』(フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館)、続いて『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)を制作。この『ピエタ』は、聖母の胸にかけられた襷(たすき)にミケランジェロの署名を残す唯一の作品である。
1501年フィレンツェに帰り、市当局の委嘱を受けて『ダビデ』像の制作にかかり、3年半ほどの歳月をかけて完成。この像の設置場所に関し種々の意見があったが、制作者の希望がいれられてパラッツォ・ベッキオ前に置かれ、自治都市フィレンツェの象徴とみなされた(現在原作は同市アカデミア美術館に収蔵)。像は古い失敗作の大理石塊を素材としており、したがって死せる大理石から生けるダビデを制作したことにより、文字どおりのデビュー作となった。トンドとよばれる2個の円形浮彫り『ピッティの聖母子』(バルジッェロ国立美術館)、『タッデイの聖母子』(ロンドン、ロイヤル・アカデミー)もほぼ同時期の制作である。
ミケランジェロがユリウス2世廟(びょう)の制作を教皇から依頼されたのは、1505年30歳のときである。当初のプランでは、墓廟は7.6メートル×11.3メートルの長方形台座の上に立ち、それに等身大以上の彫像40体が置かれて、サン・ピエトロの堂内に安置されるはずの雄大な構想であった。『瀕死(ひんし)の奴隷』『反抗する奴隷』(ともにルーブル美術館)、『勝利』(パラッツォ・ベッキオ)、および今日フィレンツェのアカデミア美術館収蔵の『若い奴隷』『髭(ひげ)の奴隷』『アトラスの奴隷』『目ざめる奴隷』などは、このモニュメントを飾るために制作されたものである。ユリウス2世廟は、教皇なきあとその規模がしだいに縮小されて、今日その名で残る構想は第五次契約によるミケランジェロ67歳の制作で、ローマのサン・ピエトロ・イン・ビンコリ聖堂内にある。墓廟下段の3点(中央の『モーセ』、左の『ラケル』、右の『レア』)が彼の手になる彫像である。
1513年、ユリウス2世の逝去に伴い、メディチ家から出たレオ10世が即位し、20年45歳のとき、メディチ家の菩提寺(ぼだいじ)サン・ロレンツォの新聖器室にメディチ家の墓廟の制作を依頼されることになる。以来ミケランジェロはユリウス2世の遺族であるローマのロベレ家と、フィレンツェのメディチ家の板挟みのなかで両市の間を行き来し、馬車馬のように彫像の制作に励む。『ミケランジェロ伝』の作者コンディビは、この時期のミケランジェロの状況を「墓廟の悲劇」とよんでいる。メディチ廟は、新聖器室の祭壇に向かって左にロレンツォ(ウルビーノ公)、右にジュリアーノ(ヌムール公)の彫像および石棺が置かれ、各石棺の上にそれぞれ2体の寓意(ぐうい)像がのる。すなわちロレンツォの石棺には『曙(あけぼの)』と『夕』、ジュリアーノには『昼』と『夜』の、いずれも体長約2メートルの彫像である。また祭壇の向かいには『聖母子』が置かれている。
ミケランジェロは若いころからピエタ像の制作に執念を抱き、前記サン・ピエトロの『ピエタ』のほかに、フィレンツェ大聖堂の『ピエタ』、ミラノのカステロ・スフォルツェスコの『ロンダニーニのピエタ』を残している。フィレンツェの『ピエタ』は75歳のころの制作であるが、中途放棄され、のち弟子の手によって今日の状態に仕上げられたため、左端のマグダラのマリアは比例を失っている。後方中央のニコデモの顔は、ミケランジェロの自像であるという。『ロンダニーニのピエタ』は、ミケランジェロが死の6日前まで鑿(のみ)を振るっていたことが伝えられる未完の彫像で、磨かれているイエスの両脚と左腰、離れた位置に残されている右腕は当初の案による制作であろう。このピエタの像形は異例のもので、死せるイエスが生けるマリアを背負って立つポーズであり、巨匠晩年の信仰、芸術、哲学の結晶した境地を示すと思われる。
ミケランジェロは1504年、『ダビデ』像を完成した年、フィレンツェのパラッツォ・ベッキオに『カッシーナの戦い』の大壁画を描く依頼を市から受けた。これは先輩レオナルドの『アンギアリの戦い』とともに、同じ会議室を飾る競作となるはずであったが、諸般の事情で双方とも進捗(しんちょく)しないまま中断し、今日では若干の素描と模写を残すのみである。
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂内にフレスコの大壁画を描くことになったのは、やはり教皇ユリウス2世の委嘱による。フレスコの技法に習熟せず、かつあおむいて天井に描くという難事業で、彼は肉親への手紙で「彫刻家ミケランジェロが壁画を描く」苦衷を訴えている。天井画の天地創造に始まる9場面(幅13メートル強、奥行40メートル強)は、33歳の1508年から約3年、また同じ堂内正面の『最後の審判』(約14.5メートル×13メートル)は約30年後、パウルス3世の依嘱により36年から41年まで5年半の歳月をかけて描かれたものである。巨人のような「怒れるキリスト」が中央に君臨する最終審判図では、諸聖者のほか、救われる魂、罰せられる魂、あわせて400名近くが描かれる。左の天国へ昇る魂と右の地獄へ落ちる魂との、大きく回転する群像の動的構図と動的表現は、ルネサンスの古典様式が解体し、激情的なバロック様式への推移をみせている。
その他の壁画には、バチカンのパオリーナ礼拝堂の『パウロの改宗』(1545?)と『ペテロの磔刑(たっけい)』(1550)がある。また、1504~06年ごろのテンペラによる円形画『聖家族』(ウフィツィ美術館)は、綿密な構図上の配慮と入念な描法により、とくに注目すべき作品である。
ミケランジェロが建築の仕事に携わるのは、1516年41歳のとき、レオ10世からフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサード装飾を命じられたのが最初である。その後、サン・ロレンツォ内ラウレンティアーナ図書室の内装、階段の設計(1524~26ころ)に携わり、35年には教皇庁の建築、彫刻、絵画総監に任ぜられている。47年、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任となって、大円蓋(えんがい)の木製模型を制作し、そのほかローマでは、カンピドリオ広場、ポルタ・ピア、ファルネーゼ宮の設計にも関与している。
イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人.
カプレーゼでフィレンツェの古い市民の子として生まれる.13歳でフィレンツェの
〖作品〗 トンド・ドーニ(聖家族)(フィレンツェ).聖ペトロの磔刑.聖パウロの回心(ローマ)(以上,絵画).ロンダニーニのピエタ(ミラノ)(彫刻).
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