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  11. ミケランジェロ

ミケランジェロ

ジャパンナレッジで閲覧できる『ミケランジェロ』の世界大百科事典・日本大百科全書・世界人名大辞典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
ミケランジェロ
Michelangelo Buonarroti
1475-1564

イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人。青年時代には彫刻,絵画における盛期ルネサンス様式の完成者として,壮・晩年期には彫刻,絵画,建築におけるマニエリスム様式の形成者として,また生涯を通じて,新プラトン主義の影響を強く受けた宗教上の思索者,詩人として,質量ともに西洋美術史上第一級の制作活動を続け,それまで一般に職人的存在とみなされていた芸術家の地位の確立に貢献した。父親はカプレーゼCapreseの行政長官で,フィレンツェの小貴族の末裔であった。ミケランジェロは己の血筋に対する誇りを生涯捨てなかったが,その一方では現実に経済力をもたぬ父親の執拗な金銭的要求に悩まされつづけた。こうした実人生上の苦悩や,彼の制作意欲をつねに阻害し続けたパトロンたちの意志との衝突などのさまざまな葛藤を,休むことのない制作と,宗教上の思索とによって昇華し,一個人としては悩みに満ちた,芸術家としては実り多い生涯を送った。

 1488年13歳のときに,当時フィレンツェ最大の工房の一つであったギルランダイオの工房の徒弟となるが,絵画を中心的活動としていたこの工房に飽き足らなかったためか,まもなくそこを出たらしい。このあと彼は,ロレンツォ・デ・メディチが若い芸術家の教育のために古代美術品を集めていた,サン・マルコ近くのメディチ家の庭園で,彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニBertoldo di Giovanniの指導を受けたといわれるが,この庭園の教育的機能の実情は明らかではない。いずれにせよこのころ,ロレンツォの庇護を受けて大理石彫刻家としての第一歩を踏み出すとともに,ロレンツォの邸館でのフィチーノやポリツィアーノなどの人文主義者や文学者との交友を通じて,新プラトン主義の洗礼を受けたのであった。また当時,おそらくロレンツォのために,古代ローマの浮彫の様式に倣って激しい動感に満ちた高浮彫《ケンタウロスの戦》を制作している。94年短期間ボローニャに滞在した後,96年にはローマに行き,《バッコス》および《ピエタ》の大作彫刻を仕上げる。前者は若いミケランジェロの完璧な技術と解剖学的知識を示しており,後者は盛期ルネサンスの古典主義彫刻の代表的作品である。1501年フィレンツェに帰還し,04年には共和国の理想を託した巨大な《ダビデ》を完成させ,また同年にはパラッツォ・ベッキオ(市庁舎)大広間にレオナルド・ダ・ビンチと競作で《カッシナの戦》壁画制作を依頼される。この壁画は,何点かの部分素描と実物大下絵(現存せず)のほかにはついに完成に至らなかったが,それらの下絵はラファエロなど次代の画家たちの裸体画の手本となった。一方,ミケランジェロの唯一のタブローである《聖家族》(別名《トンド・ドーニ》)もこの時代の作と思われる。

 05年,教皇ユリウス2世の招きでローマに赴き,40体以上の彫刻と建築的モティーフの複合体である教皇の墓廟の制作を命ぜられるが,翌年には早くも教皇との間に不和が生じ,仕事は中断する。教皇は08年システィナ礼拝堂天井画制作を彼に命じ,彫刻家をもって自認するミケランジェロは,不承不承ながらも,12年に《創世記》諸場面とその周辺の多数の画面をほとんど独力で描き上げる。この天井画の特質は,第1には無数の人体の彫塑的表現効果であり,第2にはその新プラトン主義的な聖書解釈であろう。13年にはユリウス2世が没し,教皇墓廟の計画案は教皇の相続者たちの意思によって,ミケランジェロの意図に反して何回も縮小され,45年に最終的に制作が停止されたとき,彼はこのモニュメントのために《モーセ》《レア》《ラケル》,そして2体の《奴隷》を仕上げていたにすぎなかった。だがこれらの像は,堂々たる肉体表現に深く激しい精神をこめた,ルネサンス彫刻の頂点を示す作品となっている。20年,フィレンツェのサン・ロレンツォ教会内メディチ礼拝堂に同家の墓所建立の依頼を受け,24年から10年間,建築と彫刻の複合体である2基の墓碑の制作に携わる。新プラトン主義の世界観に形を与えたとされるこれらの墓碑は未完に終わったが,それを構成するロレンツォとジュリアーノ・デ・メディチの像,その下に横たわる〈朝〉〈夕〉〈昼〉〈夜〉の4寓意像および聖母子像が制作された。これらの像は,それぞれ端正な形態のうちに深く沈潜する気分を表しており,晩年の彫刻の,苦悩に満ちた様式を暗示している。

 34年,フィレンツェから最終的にローマに移り住み,残る30年の生涯を教皇庁関係の仕事に費やす。35年新教皇パウルス3世は彼にシスティナ礼拝堂祭壇側の壁に《最後の審判》の壁画制作を命じ,老齢にさしかかっていたにもかかわらず,41年彼は独力でこの大画面を完成した。この作品はそれまでの絵解き的な《最後の審判》図とは異なり,正義の精神が骨肉を備えたごときたくましいイエス・キリストが,雷を投げるゼウスを思わせる激しい身ぶりで審判を下し,そのまわりには人間的苦悩をたたえた悪人たちや威厳を備えた善人たちが,バロック美術を予告する激しく旋回する構図と強烈な明暗によって描き出されている。《最後の審判》制作中のミケランジェロは,熱心なキリスト教徒で詩もよくした貴婦人ビットリア・コロンナVittoria Colonnaとの知的交友によって寂寥を慰められ,この愛に触発された詩を残している。ビットリアが47年に没して彼はますます孤独になったが,教皇庁の仕事はひきもきらず,老いた彼を休息させることはなかった。晩年の作品としては,バチカン宮殿パオリナ礼拝堂の《パウロの改宗》および《ペテロの磔刑》の壁画(1550)や,3体の未完の《ピエタ》(フィレンツェ大聖堂の《ピエタ》,パレストリーナの《ピエタ》,ロンダニーニの《ピエタ》)などがある。これらの像においては,長い制作活動と人生の闘争に疲れた老芸術家の苦悩と,そして彼がわずかに宗教に見いだしえた安らぎとが感じとれる。彫刻家,画家としてのミケランジェロは,一言で述べるならば,完璧な技巧と解剖学的正確さを備えた古典的な人体表現と,キリスト教的精神性との結合に成功し,その意味で初期ルネサンス時代からの芸術上の理想の達成者であったといえよう。

 建築の代表作としては,サン・ロレンツォ教会付属図書館入口の間の設計(1523-25),ローマのカンピドリオの丘の広場の整備(1536設計),サン・ピエトロ大聖堂の円蓋その他の計画案(1546)などがある。建築において彼は,個々のモティーフを彫塑的に扱い,古典主義建築に自由な発展の可能性を与えることによってマニエリスム建築への道を開いた。
[鈴木 杜幾子]

[索引語]
Michelangelo Buonarroti システィナ礼拝堂 最後の審判 ピエタ(ミケランジェロ


日本大百科全書(ニッポニカ)
ミケランジェロ
みけらんじぇろ
Michelangelo Buonarroti
[1475―1564]

イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。レオナルド・ダ・ビンチに遅れること23年、ラファエッロより8年早く、中部イタリアのカプレーゼに生まれ(3月6日)、イタリア・ルネサンス晩期に長らく活躍のすえ、89歳でローマに没(2月18日)。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂内に墓がある。芸術上の遺作は、彫刻作品約40点、絵画では4面の大壁画のほか、若干のタブロー、建築では教会や記念建造物などの設計や装飾を残し、また、これらの絵画、彫刻、建築に関するおびただしい習作、素描、エスキスのたぐい約800点が、世界各地に分散して伝えられている。また、詩作は若いころからおよそ300編があり、そのほか、親族や友人・知己にあてた500通を超える書簡が今日に伝わる。

[裾分一弘]

彫刻

初め、フィレンツェの画家ギルランダイヨに師事するが、14歳のときからメディチ家の保護を得て、彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニの門に入り、かたわらメディチ家収集の古代彫刻を研究、以来彫刻に専念して、彫刻家としての自覚を生涯もち続けることになる。徒弟時代の作品には、『階段の聖母』『ケンタウロマキア』(ともにフィレンツェ、カサ・ブオナロッティ)があり、フィレンツェの彫刻家ドナテッロや古代彫刻からの影響が顕著である。1496年、21歳でローマに出て、『ディオニソス』(フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館)、続いて『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)を制作。この『ピエタ』は、聖母の胸にかけられた襷(たすき)にミケランジェロの署名を残す唯一の作品である。

 1501年フィレンツェに帰り、市当局の委嘱を受けて『ダビデ』像の制作にかかり、3年半ほどの歳月をかけて完成。この像の設置場所に関し種々の意見があったが、制作者の希望がいれられてパラッツォ・ベッキオ前に置かれ、自治都市フィレンツェの象徴とみなされた(現在原作は同市アカデミア美術館に収蔵)。像は古い失敗作の大理石塊を素材としており、したがって死せる大理石から生けるダビデを制作したことにより、文字どおりのデビュー作となった。トンドとよばれる2個の円形浮彫り『ピッティの聖母子』(バルジッェロ国立美術館)、『タッデイの聖母子』(ロンドン、ロイヤル・アカデミー)もほぼ同時期の制作である。

 ミケランジェロがユリウス2世廟(びょう)の制作を教皇から依頼されたのは、1505年30歳のときである。当初のプランでは、墓廟は7.6メートル×11.3メートルの長方形台座の上に立ち、それに等身大以上の彫像40体が置かれて、サン・ピエトロの堂内に安置されるはずの雄大な構想であった。『瀕死(ひんし)の奴隷』『反抗する奴隷』(ともにルーブル美術館)、『勝利』(パラッツォ・ベッキオ)、および今日フィレンツェのアカデミア美術館収蔵の『若い奴隷』『髭(ひげ)の奴隷』『アトラスの奴隷』『目ざめる奴隷』などは、このモニュメントを飾るために制作されたものである。ユリウス2世廟は、教皇なきあとその規模がしだいに縮小されて、今日その名で残る構想は第五次契約によるミケランジェロ67歳の制作で、ローマのサン・ピエトロ・イン・ビンコリ聖堂内にある。墓廟下段の3点(中央の『モーセ』、左の『ラケル』、右の『レア』)が彼の手になる彫像である。

 1513年、ユリウス2世の逝去に伴い、メディチ家から出たレオ10世が即位し、20年45歳のとき、メディチ家の菩提寺(ぼだいじ)サン・ロレンツォの新聖器室にメディチ家の墓廟の制作を依頼されることになる。以来ミケランジェロはユリウス2世の遺族であるローマのロベレ家と、フィレンツェのメディチ家の板挟みのなかで両市の間を行き来し、馬車馬のように彫像の制作に励む。『ミケランジェロ伝』の作者コンディビは、この時期のミケランジェロの状況を「墓廟の悲劇」とよんでいる。メディチ廟は、新聖器室の祭壇に向かって左にロレンツォ(ウルビーノ公)、右にジュリアーノ(ヌムール公)の彫像および石棺が置かれ、各石棺の上にそれぞれ2体の寓意(ぐうい)像がのる。すなわちロレンツォの石棺には『曙(あけぼの)』と『夕』、ジュリアーノには『昼』と『夜』の、いずれも体長約2メートルの彫像である。また祭壇の向かいには『聖母子』が置かれている。

 ミケランジェロは若いころからピエタ像の制作に執念を抱き、前記サン・ピエトロの『ピエタ』のほかに、フィレンツェ大聖堂の『ピエタ』、ミラノのカステロ・スフォルツェスコの『ロンダニーニのピエタ』を残している。フィレンツェの『ピエタ』は75歳のころの制作であるが、中途放棄され、のち弟子の手によって今日の状態に仕上げられたため、左端のマグダラのマリアは比例を失っている。後方中央のニコデモの顔は、ミケランジェロの自像であるという。『ロンダニーニのピエタ』は、ミケランジェロが死の6日前まで鑿(のみ)を振るっていたことが伝えられる未完の彫像で、磨かれているイエスの両脚と左腰、離れた位置に残されている右腕は当初の案による制作であろう。このピエタの像形は異例のもので、死せるイエスが生けるマリアを背負って立つポーズであり、巨匠晩年の信仰、芸術、哲学の結晶した境地を示すと思われる。

[裾分一弘]

絵画

ミケランジェロは1504年、『ダビデ』像を完成した年、フィレンツェのパラッツォ・ベッキオに『カッシーナの戦い』の大壁画を描く依頼を市から受けた。これは先輩レオナルドの『アンギアリの戦い』とともに、同じ会議室を飾る競作となるはずであったが、諸般の事情で双方とも進捗(しんちょく)しないまま中断し、今日では若干の素描と模写を残すのみである。

 ミケランジェロがシスティナ礼拝堂内にフレスコの大壁画を描くことになったのは、やはり教皇ユリウス2世の委嘱による。フレスコの技法に習熟せず、かつあおむいて天井に描くという難事業で、彼は肉親への手紙で「彫刻家ミケランジェロが壁画を描く」苦衷を訴えている。天井画の天地創造に始まる9場面(幅13メートル強、奥行40メートル強)は、33歳の1508年から約3年、また同じ堂内正面の『最後の審判』(約14.5メートル×13メートル)は約30年後、パウルス3世の依嘱により36年から41年まで5年半の歳月をかけて描かれたものである。巨人のような「怒れるキリスト」が中央に君臨する最終審判図では、諸聖者のほか、救われる魂、罰せられる魂、あわせて400名近くが描かれる。左の天国へ昇る魂と右の地獄へ落ちる魂との、大きく回転する群像の動的構図と動的表現は、ルネサンスの古典様式が解体し、激情的なバロック様式への推移をみせている。

 その他の壁画には、バチカンのパオリーナ礼拝堂の『パウロの改宗』(1545?)と『ペテロの磔刑(たっけい)』(1550)がある。また、1504~06年ごろのテンペラによる円形画『聖家族』(ウフィツィ美術館)は、綿密な構図上の配慮と入念な描法により、とくに注目すべき作品である。

[裾分一弘]

建築

ミケランジェロが建築の仕事に携わるのは、1516年41歳のとき、レオ10世からフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサード装飾を命じられたのが最初である。その後、サン・ロレンツォ内ラウレンティアーナ図書室の内装、階段の設計(1524~26ころ)に携わり、35年には教皇庁の建築、彫刻、絵画総監に任ぜられている。47年、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任となって、大円蓋(えんがい)の木製模型を制作し、そのほかローマでは、カンピドリオ広場、ポルタ・ピア、ファルネーゼ宮の設計にも関与している。

[裾分一弘]



岩波 世界人名大辞典
ミケランジェロ
Michelangelo Buonarroti
本名:Michelagniolo di Lodovico di Lionardo di Buonarroto Simoni
1475.3.6~1564.2.18

イタリアの彫刻家,画家,建築家,詩人.

カプレーゼでフィレンツェの古い市民の子として生まれる.13歳でフィレンツェのギルランダイオの工房に入るが1年ほどでやめ,メディチ家のロレンツォ(Lorenzo de' Medici 1449~92)の庇護を受け,サン・マルコ彫刻庭園で古代彫刻の研究に専念.ロレンツォの死後,ボローニャに1年滞在した後,ローマに行き [1496],〈バッコス〉(フィレンツェ)およびフランス人枢機卿の依頼で〈ピエタ, 1498〉(ローマ)を制作して名声を得る.フィレンツェに呼び戻され,共和国のシンボル〈ダビデ, 1501-04〉の巨像を完成,またパラッツォ・ヴェッキオの大評議会ホールにレオナルド・ダ・ヴィンチとの競作で戦争画〈カッシナの戦い〉の制作を委嘱された(未完).その後,教皇ユリウス2世によってローマに招かれ [1505],教皇自身の大墓碑の制作に着手するが,教皇と衝突して中断(この墓碑はその40年後,4回の計画変更を経て別の彫刻家によって完成され,彼自身は〈モーセ〉〈奴隷〉〈勝利〉など数点を作ったのみで終わった).ボローニャで教皇と和解し [同],同地で教皇のブロンズ坐像を完成,ついでローマに戻りシスティナ礼拝堂の大天井画の制作に没頭した [08-12].ユリウス2世の死後メディチ家出身の教皇レオ10世の依頼で,フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサード建造に着手するが,これが中止されると,同聖堂のメディチ家礼拝堂と墓碑の建造を依頼され [24],それに10年を費やした.この間,メディチ家が再び追放され [27],最後の共和政府が復活すると,築城監督として都市の防衛戦に参加.敗れてメディチ教皇クレメンス7世に許され,メディチ家礼拝堂の仕事を継続するが,ヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの墓碑をほぼ完成すると,ローマに亡命 [33].ローマでは,新教皇パウルス3世の依頼で,再びシスティナ礼拝堂に巨大な壁画〈最後の審判, 1534-41〉を制作.北ヨーロッパ宗教改革で動揺するカトリック教会の苦悩を神と人間の壮大な闘争図として描き出した.晩年は主として建築に専念し,サン・ピエトロ大聖堂の建築監督としてその建設作業を推進 [46-64].他にパラッツォ・ファルネーゼ,サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂,カンピドリオ広場の整備などを手がけた.詩人としてもすぐれ,愛や死を主題とした300編余りの詩を残している.

〖作品〗 トンド・ドーニ(聖家族)(フィレンツェ).聖ペトロの磔刑.聖パウロの回心(ローマ)(以上,絵画).ロンダニーニのピエタ(ミラノ)(彫刻).

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世界大百科事典
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世界大百科事典
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文庫クセジュ
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文庫クセジュ
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41. イタリア美術
世界大百科事典
ラファエロは,教皇ユリウス2世の古代ローマ再建の壮大な意志を表現する大構図作者であったが表面的に過ぎ,ミケランジェロは初期には古代彫刻を超える肉体の官能性を表現
42. イタリア文学
世界文学大事典
ルッツァンテ,また抒情詩の分野では,ジョヴァンニ・デッラ・カーサ,万能の芸術家でもあったミケランジェロ・ブオナッローティ,女性詩人ガスパラ・スタンパなどがいる。
43. イタリアーナ百科事典
日本大百科全書
でに7巻ある。国内外の大家に執筆させ、自由に評論させたので、文化史上では高く評価される。ミケランジェロやダ・ビンチなどの項目解説はそのまま単行本としても出版され
44. ウィトコウアー(Wittkower, Rudolf)
世界人名大辞典
後はワシントン国立美術館[69-71]とケンブリッジ大学[70-71]で特別講義を行う.ミケランジェロ研究を出発点として,その学識は広くヨーロッパ近世の美術の諸
45. ウィンザー城
日本大百科全書
王室墓廟(ぼびょう)としてウェストミンスター寺院に次いで重要。付属王立図書館はレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロなどの素描コレクションで名高い。篠塚二三男
46. ウォルフ(Hugo Philipp Jakob Wolf)
日本大百科全書
より世に広まっていったが、その病(梅毒)はしだいに重くなり、オペラ『お代官様』や歌曲集『ミケランジェロの三つの詩』を作曲したのち、ウィーンの精神科病院で1903
47. 歌麿 114ページ
東洋文庫
化粧した瞼の下の目を堅く閉じ、顔には「小さな死」の表情を浮かべた女の忘我。さらに陰茎を描く力強い線描は、ミケランジェロ作とされるルーヴル美術館の素描に匹敵する力
48. 映画
日本大百科全書
問題にする作家が現れ、フェデリコ・フェリーニの『道』(1954)、『甘い生活』(1960)、ミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(1960)、『太陽はひとり
49. 映画監督
日本大百科全書
映画監督を映画作品の「作家」とみなす作家主義がフランスで興り一世を風靡(ふうび)したこと、ミケランジェロ・アントニオーニやフェデリコ・フェリーニ、イングマール・
50. エジプトの神々 169ページ
文庫クセジュ
フランス絵画史専攻 主要著書 「世界美術」近代一~四 「マネとモネ」他 主要訳書 「文学者と美術批評」 「ミケランジェロ」 「古代エジプト」
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ナポレオン[改訳] 文庫クセジュ79 アンリ・カルヴェ著/井上 幸治訳 歴史・地理・民族(俗)学 第一章 ナポレオンの出身、青年時代 ボナパルト家 いま知られるところで、ナポレオンのもっとも古い祖先は、十五世紀末にあらわれたフランソワ・ボナパルトである。
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
范寛(世界人名大辞典・世界大百科事典)
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イブン・スィーナー(世界人名大辞典・世界大百科事典)
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ウィリアム1世(世界人名大辞典・世界大百科事典)
1027(28)~87.9.9イングランド王 [1066/87].ノルマンディー公ロベール1世(悪魔公)(Robert I le Diable †1035)の庶子.父が没するとノルマンディー公ギヨーム2世(Guillaume II)となり [1035-87],ハロルド2世がイングランド王に即位する [66]と,先王エドワード(証聖王)による
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豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
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アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
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