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ルター

ジャパンナレッジで閲覧できる『ルター』の世界大百科事典・日本大百科全書・世界文学大事典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
ルター
Martin Luther
1483-1546

ドイツの宗教改革者。農民の出で鉱夫であったハンス・ルターHans Lutherの子として中部ドイツのアイスレーベンに生まれる。のちマンスフェルトに移住し,事業に成功を収めた父の期待を受けて,同地,さらにマクデブルク,アイゼナハの学校を経て,1501年エルフルト大学に入学し,02年教養学士,05年修士となり,法学を学び始める。その年の7月2日シュトッテルンハイムで落雷に会い,そのおりの誓願に従ってアウグスティヌス隠修修道会に入る。07年司祭として聖別され,神学研究を始める。10-11年には修道会の要務でローマに旅行し,11年末にウィッテンベルクに移り,残りの生涯をほとんどそこに過ごすようになる。修道士生活の中で救いの確かさを求めて苦闘し,修道会ドイツ総長代理シュタウピッツの指導を受ける。12年神学博士となり,シュタウピッツの後任としてウィッテンベルク大学の聖書教授となり,翌年から《詩篇》,《ローマ人への手紙》などの講義を始める。これら初期の聖書講義の中で,ルターは,人間の救いが,イエス・キリストに示される神の恵みによるという宗教改革的認識に到達し,それを深めた。

 そのころザクセン選帝侯領境まで来て頒布されていたテッツェルによる贖宥状(免罪符)頒布に上述の認識と信仰によって反対する〈九十五ヵ条提題〉を--一説にはウィッテンベルク城教会の扉に掲示して--17年10月末公にしたことが,歴史上の事件としての宗教改革の具体的なきっかけとなり,多くの賛同とローマ・カトリック教会の反対とを招くことになった。18年にはアウクスブルクで枢機卿カエタヌスによる教会審問を受け,自説の取消しを拒否,19年にはエックとライプチヒで討論(ライプチヒ討論)して,教皇も公会議も無謬ではありえないと主張した。そのころからみずからの信仰と神学を,学者のためにはラテン語で,民衆のためにはドイツ語で著作して公にしはじめ,20年にはそれは一つの山を迎えて《キリスト者の自由》をはじめとする多くの著作が出版される。20年末には破門脅迫教勅を焼却して,21年初めには遂に破門とされる。4月ウォルムス国会に召喚されるが,重ねて自説撤回を拒否し,帝国追放刑(帝国内においていっさいの権利を奪われる刑)を宣告された。

 その帰途,選帝侯フリードリヒの保護検束によって以後9ヵ月ワルトブルク城にかくまわれる。騎士イェルクに身をかえたこの期間は著作活動とくに新約聖書のドイツ語訳という成果を残した(《ルター訳聖書》)。ウィッテンベルクでの改革の過激化と混乱の知らせを受けて,身の危険もかえりみず,22年3月そこに戻って,説教活動を基礎とした漸進的な具体的改革を指導し,礼拝改革,修道院解放,教会財産処理,貧民救済,学校教育確立のために働く。25年春,農民運動の高まりの中で農民団を訪れ,また著作を著して,福音を短絡的に社会的要求としないよう,また,正当な主張を暴力に訴えないよう訓戒するが,容れられず,農民戦争の事態となり,諸侯は団結してこれを鎮圧した。6月には元修道女カタリーナ・フォン・ボラKatharina von Boraと結婚(この結婚から3男3女が生まれる)。前年エラスムスが出した《自由意志論》に対する反論《奴隷的意志について》を同年末に公にして,神の恵みの絶対性を主張し,人文主義的キリスト教と袂を分かつことになった。

 27年には,選帝侯ヨーハンに働きかけ,その命で領内教会巡察に取りかかり,プロテスタント教会の組織化をはじめるが,これはまた以後ドイツの領邦教会体制の始まりともなった。教会巡察はメランヒトンなどによる各地の教会規則制定に至るが,ルターは29年に大小二つの教理問答書(《ルター大小教理問答》)を著して,民衆の信仰教育を心がけた。その年プロテスタントの政治的結集を求める諸侯の願いでもたれたチューリヒのツウィングリとの神学会談は,聖餐論において一致に至らなかったが,30年アウクスブルク国会には,いくつかのルターの信仰告白を基とした,メランヒトン起草の〈アウクスブルク信仰告白〉が提出され,これによってルター派教会がしだいに西欧各地に形成されていく。ルター自身も37年には〈シュマルカルデン条項〉によって重ねてみずからの信仰的立場を明らかにした。34年には全聖書のドイツ語訳出版をみるが,こうして死に至るまで大学での聖書講義(《ガラテヤ人への手紙》《創世記》など),著作活動,改革の指導や牧会活動を,弱まっていく健康にもかかわらずつづけていった。46年1月マンスフェルト諸侯の係争調停のためアイスレーベンに旅行し,2月18日心臓発作により死去,ウィッテンベルク城の教会に葬られた。

思想

ルターの思想はキリスト教信仰に基づく。しかもその特徴は神中心の徹底的な思考にある。若い日の大学教育や修道院での体験をとおして彼が学んだ中世末の哲学と神学,とくにオッカムに由来するオッカム主義のそれは意志と能力と能動的経験による個への注目を特色とする。ルターが修道院入りしたときの問い〈私はいかにして恵みの神を獲得するか〉はまさしくその宗教的表現にほかならない。思考においても,修道院での苦行によっても,人間(自己)中心の,神に至る上昇の可能性が空しいことに絶望する中で,ルターは聖書がイエス・キリストの生と十字架の死と復活とによってまったく逆方向の道を示していることを発見する。すなわち,恵みの神はイエス・キリストにおいて罪人である人間のところに降ってきて,罪人を救うためにすべてのことをなしとげてくださる,ということである。ここに,神中心への徹底的な注目が始まり,彼の信仰と神学とはこれに貫かれることになる。神のみへの注目はキリストのみへの注目となり,ここから三つの〈のみ〉もまた導き出されることになる。すなわち,いわゆる宗教改革原理としての〈聖書のみ〉〈恵みのみ〉〈信仰のみ〉である。

 中世末の教会と神学は,聖書とならんで教会の伝統(伝承)や教皇の権威,公会議の権威をも,教会の教えや実践のよりどころとしていた。しかし,聖書によって神中心の発見へと導かれたルターは,神中心への徹底的な注目のゆえに,神の言葉としての聖書とならぶ,いかなる人間的な教えや権威も,教会の教えや実践の根拠として認めることはできなかった。神中心からする〈聖書のみ〉の原理の確立である。こうして,一方では,教皇や教会伝統に対する厳しい批判と反対とが叫ばれるとともに,他方では,聖書に示されている神の言葉を,人間に対する審(さば)きの言葉(律法)として,さらにより強く,人間に対する救いの言葉(福音)として心の中に聞き,受けとめていく真剣な取組みが続けられる。ルターの教授活動が聖書講義に終始したことも,みずから説教者でありつつ,教会の働きの具体的な中心が礼拝における神の言葉の生きた説教であると強調したこともその結果にほかならない。

 ルターの〈聖書のみ〉はたんなる形式的なものではない。聖書の中心であるイエス・キリストに焦点をあわせた理解である。そこからは聖書の字句への拘泥や,それによる束縛は生じてこない。むしろ,聖書は,人間に対する神の恵みを証しする書物であり,まさにそのようなものとして,神の〈恵みのみ〉を告げるものとなる。このように〈恵みのみ〉とは,人間の救いのために神が恵み,愛の心をもって,神おひとりですべてのことを成し遂げてくださったし,今もそのように働き続けておられるということの確認である。ルターはこのような神の恵みの働きの極限をキリストの十字架にみるから,ルターの神学はまた〈十字架の神学〉とも呼ばれうる。

 神の恵みはルターにとって圧倒的であり,一方的ですらある。人間の救いのために,人間がその意志においても,能力においても,実行においても,神と協力していささかなりとも貢献しうるといういっさいの可能性を拒否する。すなわち神の全能と全活動性の確認である。だから,どれほどキリスト教的にみえてもルターはエラスムスのキリスト教的人文主義を認めることはできなかった。人間の〈奴隷意志〉の主張は,神中心からの必然的な要請にほかならない。そして,神の恵みに相応じるのは,ただ信仰のみである。ルターによれば,信仰すらまず〈われわれのうちにおける神の働き〉であり,それゆえ〈神に対する固い信頼〉である。キリストの十字架による,神の救いの働きを神への感謝をもって受けいれ,受けとめることである。このようにして神中心の確立の中で,〈恵みのみ〉に〈信仰のみ〉が対応する。だがそれは決して,信仰者にとって安住坐臥や無為を意味しはしない。教会改革の実際においても,この信頼に徹したルターの日々をみてもこれはわかる。恵みに支えられ,動かされて,神から与えられた生の日々をこの世界の中で精いっぱい生きるキリスト者の生のありかたの積極的な示唆を,われわれはルターの信仰と神学の中に豊かに見いだすことができるであろう。

 このようなルターの思想は西欧思想史にも大きな影響を及ぼした。以後の西欧思想史はルターの理解と誤解を伴っている。例えばカントやヘーゲル,ゲーテを挙げ,さらにはナチズムを挙げて,それを暗示することもできよう。日本では,1911年に《キリスト者の自由》が訳されたのが邦訳の始めであるが,相前後して伝記の出版もみられた。翻訳や論文,著作によってルターを紹介し,研究を深めたのは石原謙と佐藤繁彦(とくに後者の《ローマ書講解に現れたルターの根本思想》)である。これにつづく岸千年のルターの《ヘブライ人への手紙》講義の研究(《ヘブル書講解におけるルターの神学思想》)や,すでに数ヵ国語に翻訳されている北森嘉蔵《神の痛みの神学》がある。近くは金子晴勇《ルターの人間学》が学士院賞を受け,年々,ルター研究の著作,論文は増えている。邦訳は《ルター著作集》全36巻(既刊10巻)のほか,徳善義和編《世界の思想家5--ルター》および類似のシリーズにも手ごろのものが多い。日本のルター研究家は日本ルター学会を組織し,世界の研究者たちとも国際的つながりをもっている。
→宗教改革 →ドイツ農民戦争 →プロテスタンティズム
[徳善 義和]

[索引語]
Luther,M. ルター,H. Luther,H. 免罪符 九十五ヵ条提題 ライプチヒ討論 ルター訳聖書 ボラ,K.von Bora,K.von メランヒトン,P. ルター大小教理問答 アウクスブルク信仰告白 シュマルカルデン条項 聖書のみ 恵みのみ 信仰のみ キリスト者の自由 佐藤繁彦 岸千年 金子晴勇


日本大百科全書(ニッポニカ)
ルター
るたー
Martin Luther
[1483―1546]

ドイツ宗教改革の指導的神学者。

生涯と活動

1483年11月10日アイスレーベンに生まれる。農民出身の父はマンスフェルトで鉱夫になり、のちに鉱山業を営む。ルターは単純厳格な両親によりカトリックの信仰を学び、マクデブルクとアイゼナハで学校教育を受ける。1505年エルフルト大学で文学得業士となり、さらに法学部に進学する。同年旅行中に雷雨に突然襲われ、死の恐怖のため修道士になる誓願をたて、2年後に父の意志に反して修道院に入る。オッカム主義の神学教育を受け、1508年、当時新設のウィッテンベルク大学で一般教養科目を、さらに1512年神学博士となってから聖書学を担当する。この間、彼は自己の善行をもってしても心に平和を得ることができずに、己の罪に絶望するが、ただ信仰によってのみ神から授与される「神の義」を発見する。これが宗教改革的認識とよばれる新しい神学の出発点となる。このような認識に基づいて聖書の講義を行い、罪の赦しのために制定された悔い改めの礼典に疑問を抱き、ドイツのザクセン地方に販売され始めていた教皇の免罪証書(免罪符)について学問上の討論を開く目的で、1517年10月31日、有名な「九十五か条の論題」を当時大学の掲示板でもあった城教会の扉に提示した。この論題はたちまち全ドイツに広まり、宗教改革運動の発端となった。

 改革運動の初期はルターの人格を中心にして展開した。重要な事件をあげると、彼が所属する修道会の総会が1518年にハイデルベルクで開かれ、討論がなされ、アウクスブルクで教皇の使節カエタヌスの審問を受け自説の撤回を求められたが拒否し、1519年にはライプツィヒで神学者エックと討論し、教皇も過ちを犯しうると認めたため、ローマ・カトリックと分裂し、1520年教皇から破門勅令を受けるも焼き捨てた。1521年ウォルムスの国会に召喚され、自説の撤回を拒否したため、帝国追放処分を受けた。しかしザクセン選帝侯によりワルトブルク城にかくまわれたが、急進的革命家の騒擾(そうじょう)を抑えて福音(ふくいん)主義教会の確立に努める。その間、ドイツ農民戦争(1524~1525)に巻き込まれ、ヒューマニストのエラスムスと自由意志論争をなし、さらにマールブルク会談では聖餐(せいさん)について一致が得られず、スイス宗教改革者ツウィングリとも決裂し、プロテスタント同盟の夢が破れた。1530年アウクスブルクの国会で宗教問題がふたたび討議され、メランヒトンが代行となり、「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、皇帝との対立は激化した。ルターは最後まで説教、講義、勧告、著述に携わり、貴族たちの紛争和解のため郷里アイスレーベンに赴き、1546年2月18日同地で病を得て死去した。享年63歳であった。

[金子晴勇]2018年1月19日

著作と聖書講義

ルターの著作は空前絶後のもので、600ページ以上の大冊が100巻を超えている。そのなかで改革文書として重要なものをまずあげると、宗教改革の全プログラムを提示した『キリスト者の身分の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に』(1520)、カトリック教会の礼典について批判した『教会のバビロン捕囚』(1520)、および信仰と愛にたつ自由な人間の本質を論じた『キリスト者の自由』(1520)がある。またエラスムスとの論争で神の恩恵の絶対性を力説した『奴隷意志論』(1525)や、皇帝への抵抗権を説いた『愛するドイツ人への勧告』(1531)、教義を平明に説いた『大教理問答書』(1529)、信仰から生じる倫理を解明した『善いわざについて』(1520)などが優れている。

 次に、彼の本業である聖書講義は改革文書の母胎となっている重要なものであり、初期では「詩篇(しへん)」「ロマ書」「ガラテヤ書」「ヘブル書」と続き、完成期に入ると「ガラテヤ書」と「創世記」の講義がもっとも重要である。とくに「ロマ書」講義においては、宗教改革的認識にたつ思想がみごとに結実し、オッカム主義との対決のうちに信仰義認論が確立されている。

[金子晴勇]2018年1月19日

思想

ルターの思想は、プロテスタントの三原理といわれているものに要約されている。それは「信仰によるのみ」「聖書のみ」「万人祭司性」であり、教皇主義者をさしていった「ローマ主義の三城壁」を攻撃するためにたてられたものである。そのなかでも「信仰によるのみ」の原理こそルターの信仰義認論を表明するもっとも重要なものである。彼はオッカム主義に従って義認のために諸々の準備をし、善いわざの功績を積んで救済に達しようと苦闘したが、「神の義」というのは、神が私たちに求める正しさではなく、信仰によって神が授与したまう正しさであることを知り、それがキリストの恩恵として与えられていることを理解した。こうして行為による義認に対決する、「信仰によるのみ」の義認が説かれた。したがって、もはや教会の授ける「免罪」はまったく不要であり、「悔い改め」も儀式ではなく、「心の転換」を意味すると主張された。この新しい神学は聖書を最高の権威とみなし、聖書に立ち返って宗教を改革してゆくもので、中世カトリック教会が定めた七つの礼典(洗礼、堅信(けんしん)、聖餐、悔い改め、終油(しゅうゆ)、叙任、結婚)も、洗礼と聖餐のほかは聖書的根拠を欠くものとして否定された。なお、ルターは、聖餐のパンとぶどう酒のなかに神の言と信仰によりキリストが現在すると説いたのに対し、スイスの宗教改革者ツウィングリは、聖餐はキリストの体を象徴しその受難を記念して行うと主張したため、その他の点では合意に達していたにもかかわらず、両者は分裂し、ヘッセン方伯フィリップPhilipp von Hessen(1504―1567)によるプロテスタント同盟は成立しなかった。

[金子晴勇]2018年1月19日



クラナハ『マルティン・ルター』[百科マルチメディア]
クラナハ『マルティン・ルター』[百科マルチメディア]

1551年 木版画 メトロポリタン美術館所蔵


デジタル版 集英社世界文学大事典
ルター マルティン
Martin Luther
ドイツ 1483.11.10-1546.2.18
ドイツの宗教改革者。ハルツ山地東麓(とうろく)のマンスフェルト伯領アイスレーベンに生まれる。農家出身の父ハンスは当時の先端産業であった銅採掘・粗銅生産に従事,採掘夫から小規模経営者へと上昇してゆくが,マルティンの幼時,生活はつましく,躾(しつけ)は厳しかったという。1484年,生後1年でマンスフェルトに移住,90年ごろから97年まで市内のラテン語学校で最初の教育を受ける。
 続いて97~98年マクデブルク,1498~1501年母マルガレーテの一族の住むアイゼナッハで寄宿生。1501年エルフルト大学入学。1505年2月哲学修士取得後法学部に進むが,同年7月退学,アウグスティヌス隠修士会エルフルト修道院に入る。1507年の司祭叙階後神学を専攻。哲学教育,神学教育ともにオッカムの流れを引く後期ノミナリズム(唯名論)のものであった。1508年秋から1509年秋のヴィッテンベルク滞在の後,同修道院でペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を講義。そのメモと,ほぼ同時期のアウグスティヌスアンセルムス,オッカムほかへの書き込みが現在残る。哲学的神学を排撃し聖書と教父(特にアウグスティヌス)を重視する姿勢が目立ち,恩寵(おんちよう)理解にもかすかに新機軸が見られる。この間10~11年にかけての冬,修道会の組織問題上の陳情のためローマに派遣される。陳情は無効に終わるが,滞在中ローマでのみ得られる数々の〈恩寵〉を熱心に求めるとともに聖職者たちの実態も目にした。
 帰国後11年秋ごろ,ザクセン選帝侯が居城の一つを構え,大学を置いていたヴィッテンベルクに配転。以後ほぼ全生涯をここで過ごすことになる。12年10月神学博士,ヴィッテンベルク大学聖書学教授。13年春あるいは秋から15年春あるいは秋まで最初の講義として旧約聖書「詩編」を講解。伝統的解釈法を独自に組み替え,またヘブライ語の語法に注目しながら,キリストとキリスト者の実存との関係を軸とする解釈を展開した。
 のちに思想上の転機として回想される〈神の義の発見〉はこの時期のことと思われる。回想によれば,修道生活の規律を完全に守っていたにもかかわらず神を十全に愛せぬおのれの罪を深く感じ,秘跡が与えるという恩寵の力と償いの行為によっても神と和解しているとは信じられなかった修道士ルターは,むしろ罪人を裁く正義の神を憎まざるを得ず,その悪循環の中で絶望に陥ることしばしばであった。その状態が新約聖書「ローマの信徒への手紙」1章17節の述べる〈神の義〉の新理解によって一変した。その内実は,福音の中に啓示される〈神の義〉とは神の属性として人間を裁く正義ではなく,神のものであると同時に人間のものとなる〈義〉,すなわち人間が神人キリストの内に無条件に与えられている存在根拠であり,それをただ受け取ることが信仰である,ということであった。これは同時に,人間が自己の内には存在根拠を全く欠き,またいかなる行為あるいは意志によってもそれを獲得することができない,という認識を意味した。
 1515年から18年春にかけての「ローマの信徒への手紙」「ガラテヤの信徒への手紙」「ヘブライ人への手紙」の連続講解と学内討論の中でこの立場はスコラ神学批判とともに展開されていく。人間の根源的指向性の〈おのれへの屈曲〉(我性)として捉えなおされた〈原罪〉は克服不可能であり,信仰によって神の義をうける人間は〈義人にして同時に罪人〉にとどまる。自己を徹底して罪人と認識することと,自己の外に与えられる義を根拠とすることは表裏一体であり,人間は〈おのれの外〉へ呼び出され新たな主体として〈古い〉自己自身と関わる(〈霊と肉の争い〉)。したがって恩寵も秘跡によって魂に与えられる〈新たな質〉ではなく,〈神の義〉を与える言葉によって人間を〈おのれの外〉へ呼び出す神の働きと理解される。このような人間理解は,〈自由意志〉による恩寵獲得(準備)の可能性を全面否定することになった。こういった主張は学内で支持者を集め,聖書・教父研究と人文主義を中心とした大学改革運動を引き起こす。またこの時期,タウラーの説教集と,やはりドイツ神秘主義の流れをくむ『ドイツ神学』(この通称はルターによる命名にさかのぼる。14世紀後半ないし15世紀前半成立,著者不明)の写本に出会い,援用するとともに,自ら後者に序文をつけて16年に刊行。18年には別の写本に基づく新版も刊行している。続いて刊行された処女作『悔い改めの七詩編』Die Sieben pußpsalm(1517春)は,神秘主義の影響を色濃く見せながら,おのれを無として神から存在を求める〈悔い改め〉をめぐる思想をドイツ語で展開している。
 一方,〈悔い改めの秘跡〉は教会制度の重要な一部をなし,そのうちの〈行為による償い〉(現世と煉獄(れんごく)での罰)を免除するものが贖宥(しよくゆう)であった。それは事実上おもに寄進に対して与えられ,有力な資金調達手段となっていた。15年,ローマ・サンピエトロ聖堂新築に際する贖宥許可がドイツの相当部分を占めるマインツ・マクデブルク両大司教区に与えられると,贖宥説教師がきわどい説教によって寄進を集めて回った。贖宥の効力に関するいわゆる『九十五提題』Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(元来は無題。17年10月31日,大司教に送付と同時におそらくヴィッテンベルクの城(しろ)教会に掲示,その後知人に送付)は,これに対し悔い改め,贖宥制度の根拠と妥当範囲に関する専門討議を呼びかけるものであったが,教会批判にも触れており,各地で続々印刷されて急速に一般に広まる。反響に応じてラテン語論文とドイツ語パンフレットを公刊。神学者たちとの論戦が続くなか,異端審理が進行するが,18年10月教皇特使による主張撤回要求を拒否,ローマ教会体制の中心的教理・制度を矢継ぎ早に批判していくことになる。その際,根拠となったのは,神学と教会の基準は聖書のみであり,しかも聖書は教権によってではなく,それ自体から解釈されねばならない(「聖書は自らおのれを解釈する」)とする立場であった。それに基づいて18~19年にかけて,教皇・教会公会議の無謬(むびゆう)性と教皇の教会首長としての地位を否定。さらには教皇を,終末時に現れるとされる〈反キリスト〉と同定するに至る。この時代把握は,真理をめぐる闘争の真の相手は悪魔であるとする意識を強めたと思われる。神学的対立はすべて妥協を許さぬ性格を帯びることになる。20年には聖職者の宗教的特権を否定し世俗諸侯に教会改革を呼びかけるいっぽう(『ドイツ国キリスト信徒貴族にあてて』An den Christlichen Adel deutscher Nation),教会の秘跡を洗礼・聖餐(せいさん)の2種に限定するとともに,罪の赦(ゆる)しを約束する神の言葉とそれを聴き取る信仰とを軸とした新理解を打ち出し,旧来の秘跡理解,特に神に捧げる犠牲としてのミサを排撃した(『教会のバビロン捕囚』De captivitate Babylonica ecclesiae)。これは伝統的宗教心の根幹に触れるとともに,聖職者の聖禄(せいろく),魂救済のための寄進,命日の供養,宗教兄弟団など,経済問題と深くからんだ宗教制度の神学的根拠を奪うものであり,大きな社会的意味をもった。この2書は,同年末の『キリスト者の自由』(解説後出)とあわせて〈宗教改革三大文書〉と称される。
 同年破門威嚇教書発布,著作の焚書(ふんしよ)が始まる。対抗するように12月10日,教書とともに教会法・スコラ神学書と論敵の著書を公に焼却。21年1月破門される。4月,ヴォルムス帝国会議に召喚。5月,帝国追放に処されるが,あらかじめザクセン選帝侯によってヴァルトブルク城に保護される。滞在中『教会暦説教集』Kirchenpostille第1部,修道制の理論的清算『修道誓願論』De votis monasticisほかを執筆。また新約聖書をドイツ語に翻訳(22年9月刊,解説後出)。
 1522年3月初頭ヴィッテンベルクに帰還。教会改革の具体的推進とともに,改革運動諸派への対応を迫られる新たな時期を迎える。聖像破壊,新礼拝形式導入などを信仰上の必須(ひつす)事項として主張・実行したカールシュタットをはじめとする急進改革派に対しては,信仰の強制・律法主義と暴力的変革を否定。外面的形式の自由と,伝統的心情への顧慮とを強調して,言葉による啓発を原理とした漸進的改革を主導する。礼拝改革ではドイツ語典礼とならんで会衆のためのドイツ語賛美歌を導入,自ら作詞,また一部作曲を行った(23−24年以後)。改革運動の一部にみられた公権力の倫理的忌避,ミュンツァーの革命主義,反改革諸侯による弾圧などによって焦点の一つとなった公権力・法秩序の問題については,福音と法それぞれの性格,教会と世俗権力の権能を厳密に区別し,法秩序は世界維持のため神によって立てられたものだとして公権力への積極的参画を主張。また福音の名による秩序変革要求を退けるいっぽう,信仰あるいは心の領域に対する支配には抵抗しなければならない,と説く(23年刊行の『世俗権力について』Von weltlicher Obrigkeitほか)。25年,聖書を引用し〈神の法〉を旗印とした農民蜂起(ほうき)の際は,当初,諸侯の圧政を強く批判するいっぽうで農民の福音理解と法意識を誤りとし,平和的解決を訴えるが,無秩序状態の現出を前にして公権力の法秩序維持義務を強調,鎮圧を呼びかける。その激越な論調はすでに当時多くの批判を招いた。同年6月,元修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚。秋,エラスムスの『自由意志論』への反論『奴隷意志論』De servo arbitrio執筆。神に対する,また自己の根源的指向に関する,〈自由意志〉の存在を徹底的に否定し,神による救いの絶対性を強調した。
 改革運動の核心の一つであったミサ(聖餐)の改革は多様な理解と形態を生むが,ツヴィングリほかの改革者は,聖餐を精神的(〈霊的〉)にのみ理解する立場を取る。一方ルターは聖書の〈文字どおりの〉解釈を根拠に〈キリストの肉と血〉の聖餐における実在を主張。1520年代後半はこの問題をめぐって,聖書の解釈法,〈霊〉理解,救済理解,キリストの神性と人性の関係の把握などに及ぶ激しい論争が焦点となる。ルターにとってはツヴィングリほかの〈霊〉理解はキリスト受肉の信仰と相いれぬものであった。29年のマールブルク宗教会談も決裂して,プロテスタント陣営の統一はならずに終わるが,30年,アウクスブルク帝国会議でルター派諸侯・諸都市は『アウクスブルク信仰告白』Die Augsburgische Konfessionを提出,続いて軍事同盟(シュマルカルデン同盟)を結成して,一応の安定期を得る。以後ルターは,聖書全訳の完成と改訂,聖書講義と学術討論による後進の育成,説教を中心に活動。また食卓に同僚や学生を招いての談論も1530年代初めから筆記され,ドイツ語ラテン語の交ざった談話の貴重な直接資料となっている。
 1530年代後半からは,教皇による公会議招集と,シュマルカルデン同盟対旧教側(皇帝側)の軍事対立によって緊張が高まり,旧教側論難の執筆活動を行う。そのなか,周囲の人々の手によって39年には最初のドイツ語著作全集第1巻,45年3月には同じく最初のラテン語著作全集第1巻刊行。後者によせた序文は,上記〈神の義の発見〉の経緯を詳しく述べる。そしてそれから1年に満たぬ46年2月18日早暁,マンスフェルト伯一族の紛争調停のため滞在していた生地アイスレーベンで客死。持病の心臓疾患のためと思われる。旧教会側による対抗宗教改革の口火を切ることになるトリエント公会議が開始されて3カ月,新教側の惨敗に終わるシュマルカルデン戦争を間近にひかえた時期のことであった。
(松浦 純)
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検索コンテンツ
1. ルター画像
日本大百科全書
0日アイスレーベンに生まれる。農民出身の父はマンスフェルトで鉱夫になり、のちに鉱山業を営む。ルターは単純厳格な両親によりカトリックの信仰を学び、マクデブルクとア
2. ルター(Martin Luther)
世界大百科事典
ている。邦訳は《ルター著作集》全36巻(既刊10巻)のほか,徳善義和編《世界の思想家5--ルター》および類似のシリーズにも手ごろのものが多い。日本のルター研究家
3. ルター
日本国語大辞典
二〇年破門されたが、ザクセン選帝侯の庇護の下に聖書をドイツ語訳。農民戦争では諸侯に協力し、のちルター派教会の確立に努めた。(一四八三~一五四六)
4. ルター(Luther, Hans)
世界人名大辞典
〔1879.3.10~1962.5.11〕 ドイツの政治家.エッセン市長[1918-22],食糧相[22-23],蔵相[23-25],首相[25-26]を歴任し
5. ルター(Luther, Martin)
世界人名大辞典
〔1483.11.10~1546.2.18〕 ドイツの宗教改革者.アイスレーベンに生まれ,マンスフェルト,マクデブルク,アイゼナハで少年時代を過ごし,エアフルト
6. ルター マルティン
世界文学大事典
深く感じ,秘跡が与えるという恩寵の力と償いの行為によっても神と和解しているとは信じられなかった修道士ルターは,むしろ罪人を裁く正義の神を憎まざるを得ず,その悪循
7. ルター大小教理問答
世界大百科事典
宗教改革者ルターによって,いずれも1529年に著された二つの教理問答。キリスト教会初期以来の信徒信仰教育の伝統を,聖書中心,神中心,信仰中心の宗教改革的立場によ
8. ルター派教会
世界大百科事典
キビラ監督である。 日本のルター派教会は1893年アメリカの教会の日本伝道によって始められ,これは日本福音ルーテル教会となっているが,第2次大戦後アメリカの他の
9. ルターは‐きょうかい[‥ケウクヮイ]【─派教会】
日本国語大辞典
〔名〕プロテスタント‐キリスト教の一派。ルターに始まる。ルターハキョーカイ〓[キョ]
10. ルター訳聖書
日本大百科全書
宗教改革者ルターの訳したドイツ語聖書。新約は1522年、新・旧約の完訳は1534年の刊行。ドイツ語聖書は印刷術が発明されてから十数種出版されたが、すべてラテン語
11. ルター訳聖書
世界大百科事典
000部が出版されたので,《9月聖書》と呼ばれる。ルター以前にも,部分訳を含め少なくも14種のドイツ語訳聖書が存在していたといわれるが,ルターのそれは多くの読者
12. ルターの「九十五か条の論題」(抄)
日本大百科全書
むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない〔使徒14.22〕。   ルター著作集委員会編『ルター著作集 第一集第一巻』(聖文舎刊)所収、
13. ルター派教会
日本大百科全書
→ルーテル派教会
14. CRTフィルター[欧文略語]
イミダス 2018
連用語】【コンピューター】CRT(ブラウン管)ディスプレーへの光の映り込みを減らすためのフィルター
15. NDフィルター[欧文略語]
イミダス 2018
filter]【IT関連用語】【コンピューター】【写真】デジタルカメラなどで,光量を調節するためのフィルター
16. アウレル ターゲ
世界文学大事典
スウェーデンの作家。ノルウェーのオスロで生まれ,スウェーデンのカールスタードで育ち,のち長年外国に住んだ。地方新聞の記者をしたのち,1930年ごろから示唆に富む
17. アニマルシェルター[ペット]
イミダス 2018
アメリカやドイツなどには大規模なシェルターがあるが、日本では民間の愛護団体が運営する小規模なものがほとんど。阪神・淡路大震災では獣医師会などが中心となって被災動
18. アニマルシェルター[カタカナ語]
イミダス 2018
[animal shelter]【社会・生活】【動物】飼育放棄されたり,迷子になったり,虐待から救い出されたりした犬や猫などを保護して飼養する施設. 2013
19. アビッシュ ウォルター
世界文学大事典
アメリカのユダヤ系作家。ヴィーンに生まれ,少年時代を中国で過ごし,のちアメリカへ移住し,女性彫刻家として著名なセシル・アビッシュとニューヨークに住む。文壇へのデ
20. アルターナティーフの文学
世界文学大事典
取り,反体制思考を日常の生活スタイルの変革によって実現しようとする若い世代の文化・生活様式をアルターナティーフ(代案提示運動)という。60年代アメリカのカウンタ
21. アルターレ ジュゼッペ
世界文学大事典
バロック期南イタリアの文人貴族。騎士道を夢想した幼少期,決闘と僧院への隠栖を経験した少年時代,天涯孤独の身でクレタ島における対トルコ攻防戦に出陣,聖ゲオルギオス
22. アレン ウォルター
世界文学大事典
イギリスの小説家,文芸評論家。1934年バーミンガム大学卒業後,アメリカ各地の大学で客員教授を歴任するが,その間59年から3年間にわたって「ニュー・ステーツマン
23. アンヌ・ド・ブルターニュ(Anne de Bretagne)
世界人名大辞典
〔1477.1.26~1514.1.9〕 フランスの王妃.ブルターニュ公フランソワ2世(François II, Duc de Bretagne 1435~88
24. アンブルシュ・ゾルターン
世界文学大事典
ハンガリーの作家,批評家。法律を修め銀行員となるが,同僚の詩人アラニュ・ラースローの影響でパリへ留学(1885)。帰国後,文芸誌「ヘート(週)」,次いで「ニュガ
25. イェンス ヴァルター
世界文学大事典
omosの筆名でテレビ番組批評を寄稿。ギリシャ古典と「マタイによる福音書」の翻訳もある。ヴァルター・フライブルガーWalter Freiburgerの筆名による
26. インベルターゼ
日本国語大辞典
促すヂヤスターゼとなり、〈略〉インベルターゼ、プロテアーゼ、チマーゼ等の栄養酵素体が醸成されて居るので」*紋章〔1934〕〈横光利一〉一八「生松葉には〈略〉イン
27. ウエルター‐きゅう[‥キフ]【─級】
日本国語大辞典
ンド(六三・五〇~六六・六八キログラム)のことをいう。ウエルターキュー〓[0]
28. ウォルター(Walter, Thomas Ustick)
世界人名大辞典
〔1804.9.4~87.10.30〕 アメリカの建築家.アメリカのグリーク・リヴァイヴァル建築の代表作の一つである〈ジラルド孤児大学, 1833-48〉を設計
29. ウォルター(John Walter)
日本大百科全書
Daily Universal Registerとした。初めは権威のある新聞ではなかったが、二男のウォルター2世(1776―1847)がその経営を引き継いでから
30. ウォルター・アネンバーグ[「TVガイド」誌創刊者、死去]
イミダス 2018
ウォルター・アネンバーグ。Walter Hubert Annenberg。出版人。 10月1日、「TVガイド」誌を創刊したことで知られる、ウォルター・アネンバ
31. ウォルター・クロンカイト[「最も信頼できる男」と呼ばれたニュースキャスター、死去]
イミダス 2018
ウォルター・クロンカイト。Walter Cronkite。ジャーナリスト。 2009年7月17日、アメリカCBSテレビの「イブニング・ニュース」の元キャスター
32. ウォルター・トンプソン
日本大百科全書
アメリカの広告会社。1864年に設立されたカールトン・アンド・スミス社が前身。1878年にJ・ウォルター・トンプソンが事業を継承し、1890年代にアメリカで支配
33. ウルタード(Hurtado Cruchaga, Alberto)
世界人名大辞典
〔1901.1.22~52.8.18〕 チリのカトリック聖職者.ビニャ・デル・マルに生まれ,イエズス会に入会[1923].法律を学び,ついでスペインで哲学と神学
34. ウルタード・デ・メンドーサ(Hurtado de Mendoza, Diego)
世界人名大辞典
〔1503~75.8.14〕 スペインの人文主義者,詩人.サンティリャーナ侯爵の曽孫.イギリス,ヴェネツィア,ローマなどで外交使節として活躍,トリエント公会議[
35. エアフィルター[カタカナ語]
イミダス 2018
[air filter]【機械・工業製品】空気中のちりやほこり,花粉などをろ過する装置.エアコンなどで外気を導入する場合などに用いる.
36. エアー‐フィルター
日本国語大辞典
〔名〕({英}air filter )《エアフィルター》繊維の層などを濾過材とする集塵装置。
37. オステルターク(Ostertag, Robert von)
世界人名大辞典
〔1864.3.24~1940.10.7〕 ドイツの獣医学者.ベルリン大学教授[1892-].獣医衛生学の権威.〖主著〗Handbuch der Fleisch
38. オットー ヴァルター・フリードリヒ
世界文学大事典
ドイツの古典文献学者。テュービンゲン,ボン両大学に学び,1911年以降ヴィーン,バーゼル,フランクフルト,ケーニヒスベルク(現ロシア,カリーニングラード),テュ
39. オリバーフィルター
世界大百科事典
真空回転円筒型ろ過機の一種で,本来アメリカのDorr-Oliver社の商品名であったが,現在はこの種のフィルター全体を指すことが多い。水平回転円筒の壁面にろ(濾
40. オルターナティブ[カタカナ語]
イミダス 2018
[alternative] (1)二者択一.代案.代替物 (2)もう一つの.代わりの.オルタナティブ.オールタナティブ.オルタナ.
41. オルターナティブ【2019】[外来語・カタカナ語【2019】]
現代用語の基礎知識
二者択一(の)。選択肢。代案。(確立された、もしくは伝統的な制度・価値・思想に対して)代わり得る、代替の、新しい。
42. オルターナティブ スクール[カタカナ語]
イミダス 2018
[alternative school]【教育】個々の子供に合った多様な教育課程のノウハウをもち,自学自習による教育を目標としている学校.
43. オルターナティブ ツーリズム[カタカナ語]
イミダス 2018
[alternative tourism]【社会・生活】途上国を訪れる先進国からの観光客が,伝統文化や自然環境を壊さないようにしようという観光方法.
44. オルターナティブ メディシン[カタカナ語]
イミダス 2018
[alternative medicine]【医学・生理】薬を使わないで,健康づくりやよい体調を維持するために行う医療技術.
45. オルターナティブ・メディスン【2019】[外来語・カタカナ語【2019】]
現代用語の基礎知識
代替医療。病気の治療ではなく予防に重きをおいた医学。ビタミン剤や朝鮮人参、生姜などの補助栄養剤を日常的に服用することなど。AM 。
46. オルターナティブ ロック[カタカナ語]
イミダス 2018
[alternative rock]【音楽】ロックの主流に含められない傾向・動向をもつロック音楽.
47. オング ウォルター・J.
世界文学大事典
アメリカの思想・文化史家,教育者。ハーヴァード大学卒業,セントルイス大学教授。イエズス会の司祭でもあった。レトリックの文化的意味に関心をもち,『ラムス,方法,対
48. オールターナティブ[カタカナ語]
イミダス 2018
[alternative] (1)二者択一 (2)代案.もう一つの.オルターナティブ.
49. かく‐シェルター【核─】
日本国語大辞典
〔名〕(シェルターは{英}shelter )核攻撃に備えるために設けられる避難所。〓[シェ]
50. カスタム スメルター[カタカナ語]
イミダス 2018
[custom smelter]【経営・企業】【鉱物】鉱石をほとんど他から買い入れる金属精錬業者.
「ルター」の情報だけではなく、「ルター」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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