1. コルテス(Hernán Cortés)
世界大百科事典
,47年12月,セビリャ近郊で没した。遺言に従い,遺体はメキシコに埋葬された(1566)。 コルテスは軍事的征服のみならず,〈新大陸のモーゼ〉とさえ評価されるほ
2. コルテス(Martín Cortés)
世界大百科事典
1533-89 アステカ王国の征服者H.コルテスの子。第2代オアハカ盆地侯。メキシコのクエルナバカに生まれ,1540年スペインへ渡り,国王カルロス1世,ついでフ
3. コルテス
世界大百科事典
。その成立年代は,レオン1188年,カタルニャ1214年など,いずれも12~13世紀である。コルテスは,基本的に課税協賛権,立法請願権,王位継承への干渉権を有し
4. コルテス
日本国語大辞典
(Hernán Cortés エルナン─)スペインのメキシコ征服者。一五一九年キューバ植民地総督の命でユカタン半島からメキシコに攻め入り、一五二一年アステカ帝国
5. コルテス(Cortés, Hernán)
世界人名大辞典
〔1485~1547.12.2〕 スペインのメキシコ征服者.下級貴族の家に生まれ,サラマンカ大学に学ぶ.サントドミンゴに渡り[1504],ベラスケス(Diego
6. コルテス(Hernán Cortéz)
日本大百科全書
地方は政情騒然としていたが、コルテスの征服軍に頑強に抵抗。一方キューバ総督ベラスケスとの関係が悪化し、ハイチ総督ディエゴ・コロンの仲裁も空しく、ベラスケスはコル
7. コルテス(スペインの身分制議会)
日本大百科全書
中世後半スペインの身分制議会。王と僧族・貴族代表からなる統治助言・承認機関「クリア・レヒア」に平民(都市自由民)代表が新たに加わって成立。1188年レオン王国で
8. コルテス エルナン
世界文学大事典
スペイン人征服者。1504年,エスパニョラ島へ渡り,のちキューバ島へ移る。19年,キューバ総督の命令を無視してメキシコへ遠征し,21年8月,アステカ王国を征服。
9. アレクサンドリア・オカシオコルテス(AOC)【2020】[アメリカ【2020】]
現代用語の基礎知識
2018年11月のアメリカ中間選挙において、連邦議会下院議員に民主党から史上最年少で当選した。6月の民主党予備選挙では下院議員を10期務めたベテラン現職を番狂わ
10. ドノソ・コルテス(Juan Donoso Cortés)
世界大百科事典
1809-53 スペインの政治家,外交官。19世紀前半,スペインに浸透しはじめた自由主義に対立する伝統的イデオロギーの中心人物。1832年に著した王制に関する論
11. ドノソ・コルテス(Donoso Cortés, Juan María de la Salud, Marqués de Valdegamas)
世界人名大辞典
〔1809.5.6~53.5.3〕 スペインの政治家,外交官,政治思想家.駐ベルリン公使[1849],駐パリ公使[51-53].フランスの正理論派自由主義に共感
12. ドノーソ=コルテス フアン
世界文学大事典
スペインの政治思想家。バダホス県バリェ・デ・ラ・セレーナに生まれ,サラマンカ,セビーリャなどで学び,自由主義詩人マヌエル・ホセ・キンタナの影響を受ける。のちに伝
13. プエルト・コルテス
日本大百科全書
中央アメリカ、ホンジュラス北西部の都市。人口4万4696(2001)。カリブ海のホンジュラス湾に面する同国最大の港湾都市で、後背地に主要輸出産品であるバナナ栽培
14. プエルト・コルテス
世界大百科事典
中央アメリカ,ホンジュラス北西部の都市。人口3万6000(2001)。ホンジュラス湾に面する。旧プエルト・カバジョス市(1525建設)を,鉄道建設にともない18
15. WORLD・WATCH N.Y. 民主党内で影響力拡大 社会主義者「コルテス」=橋本孝
週刊エコノミスト 2019-20
主な要因は優遇措置に反発した州議員やコルテス氏らの反対運動と見られている。民主の大物党員でもあるクオモ、デブラシオ両氏には大きな政治的敗北となった。 コルテス
16. アカプルコ【Acapulco】
国史大辞典
メキシコ合衆国西南部、太平洋に面した港。一五三一年コルテスによってはじめてヨーロッパ人に知られた。六五年以降新大陸とフィリピンのマニラとを結ぶイスパニアの定期
17. 悪魔の文化史 111ページ
文庫クセジュ
そこでさまざまな虚偽を撒き散らしたのだという。また、コルテス(1)の秘書であったロペス・デ・ゴマラ〔一五一〇~六〇年:スペインの歴史家。アメリカ大陸に渡り、コル
18. あさひかわろくじようきようかい【旭川六条教会】北海道:上川支庁/旭川市/旭川村
日本歴史地名大系
同二七年九月伝道師尾崎善蔵が赴任、コルテス宣教師の巡回伝道も行われた。同三〇年八月一条通五丁目の禅寺の跡を修理、聖書研究・伝道・説教などを開始。同三一年一月伝道
19. アステカ文化画像
日本大百科全書
圧倒して、1502年に即位したモクテスマ2世の治世に最盛期に達した。しかし1519年に侵入してきたコルテスの率いるスペイン軍のためモクテスマが捕らわれ、その後を
20. アステカ‐ぶんめい【─文明】
日本国語大辞典
用い、巨石建造物、暦法などが発達。宗教は多神教で、怪奇な宗教芸術が多い。一五二一年、スペインのコルテスにより征服、破壊される。アステカブンメ
21. アステカ文明
文庫クセジュ
メキシコの大地に広大なる勢力を誇ったアステカ族。壮麗な文化に彩られたその王国の起源から滅亡(スペイン人コルテスによる遠征)までをたどり、多くの遺跡や遺物を手がか
22. アステカ文明 5ページ
文庫クセジュ
第七章 アステカ王国の滅亡…一二六 一、最初のスペイン人遠征隊(一二六) ―― 二、フェルナンド・コルテス(一二八) ―― 三、戦闘(一三二) ―― 四、敗因(
23. アステカ文明 50ページ
文庫クセジュ
スペイン人の征服当時、不幸な王位候補者の一人、イシュトリルショチトルが、兄弟の一人と対立してフェルナンド・コルテスと同盟を結んだ例がある。 モクテスマ一世は、
24. アステカ文明 59ページ
文庫クセジュ
王たちの宮殿の豪華さはスペイン人の征服者を驚嘆させた。コルテス、ベルナル・ディアス、アンドレス・デ・タピア、そしてさらにのちには、テソソモック、イシュトリルシ
25. アステカ文明 61ページ
文庫クセジュ
こぞって公道の清潔さを認めている。全般的に、テノチティトランはよく秩序立った、衛生的な都市であった。コルテスもカルロス五世に宛てた手紙に、建物の美しさ、集団生活
26. アステカ文明 67ページ
文庫クセジュ
第6図 羽毛の冠(ケツァラパネカヨトル),モクテスマからコルテスに贈られ,さらにコルテスからカルロス5世に献上された贈り物.(ウィーン民族学博物館) [図版]
27. アステカ文明 69ページ
文庫クセジュ
はじめてその傑作に接したヨーロッパ人たち、特に、アントワープで、一五二〇年にモクテスマ王からコルテスに手渡され、さらに後者からカルロス五世(神聖ローマ帝国皇帝)
28. アステカ文明 113ページ
文庫クセジュ
半透明の硬玉製品や、琥珀、ガーネットを輸入していた。エメラルドも同じように用いられていた。モクテスマ二世からコルテスに献上された金や宝石の首飾りは一八三個のエメ
29. アステカ文明 114ページ
文庫クセジュ
それに大変な珍品としてトルコ石を象嵌した木製の面の断片もある。この面はモクテスマからコルテスに贈られ、さらにコルテスがカルロス五世に送ったものである。からみ合っ
30. アステカ文明 123ページ
文庫クセジュ
のスペイン人が生き残ったが、ついでマヤの一部族の捕虜となった。その一人、アギラールは八年後、コルテスに救出されることになったが、もう一人のゲレーロは、マヤの首長
31. アステカ文明 125ページ
文庫クセジュ
二 フェルナンド・コルテス グリハルバのあとをうけて、フェルナンド・コルテスは一五一九年(アステカ暦の「葦の一」の年、セ・アカトル)二月十日にキューバを出発し
32. アステカ文明 126ページ
文庫クセジュ
四月になって、のちにベラクルスの都市が建設された場所に到着したコルテスは、そこで首長や部下を引き連れたクェトラシュトラン国のアステカのカルピシュキの訪問を受け
33. アステカ文明 127ページ
文庫クセジュ
熱狂的にスペイン人を歓迎した。八月に、コルテスは、一万三、〇〇〇人のトトナカ人、兵士、荷役人などを率いて、中央高原へ進軍を開始した。 14図 フェルナンド・コル
34. アステカ文明 128ページ
文庫クセジュ
横断した。モクテスマ王は、テスココの王を含むたくさんの貴族を従えて、都市の入口にコルテスを出迎えた。モクテスマ王はコルテスに歓迎の辞を述べて、次のようにはっきり
35. アステカ文明 129ページ
文庫クセジュ
キューバから到着した彼の競争者、ナルバエスと一戦を交えるために海岸地帯へ急いでおもむかねばならなくなったコルテスの留守中、スペイン人はウィツィロポチトリの祭礼を
36. アステカ文明 130ページ
文庫クセジュ
一般に吉日と見なされている日であるが、「家の三」は凶年にあたる。この日、クァウテモツィンはついにコルテスの軍門に降った。かくしてアステカ王国は最期をとげた。
37. アステカ文明 133ページ
文庫クセジュ
コルテスは、その外交政策、力関係に対する鋭い感覚、政治的手腕によって、専制都市に向けられたもろもろの怨恨と野心を、おのれの利益のために巧みに操る術を心得ていた
38. アメリカ
世界大百科事典
スペイン人はエル・パソに退き,サンタ・フェが回復されたのは90年代である。カリフォルニアも,コルテスのメキシコ征服後ただちにスペイン人の探検するところとなったが
39. アメリカ・インディアン画像
日本大百科全書
1492年のコロンブス到来は、アメリカ・インディアンの運命を一変させることになった。アステカは1522年コルテスによって、インカは1532年ピサロによって征服さ
40. アルバラド(Pedro de Alvarado)
世界大百科事典
スペイン人コンキスタドール。1518年フアン・デ・グリハルバによる第2次メキシコ遠征に参加。20年H.コルテスのメキシコ遠征に加わり,その右腕として活躍するが,
41. アルバラード(Alvarado, Pedro de)
世界人名大辞典
uan de Grijalva 1489頃~1527)とともにメキシコ湾を探査[1518].コルテスのメキシコ征服に従軍[19-21].グアテマラ,エルサルバド
42. イスパノアメリカの征服 11ページ
文庫クセジュ
ペドラリアス・ダビラを後援したフォンセカ(通商院総監)派や当初コルテスを支持したベラスケス派などがそうである。 若くしてアメリカへ渡った人びとの中には、コルテ
43. イスパノアメリカの征服 12ページ
文庫クセジュ
下ろすことなどほとんどなかった。彼らは力の及ぶかぎり、新しい冒険へ乗り出していったのである。例えば、コルテスの盟友、ディエゴ・デ・オルダスはメキシコにあった私有
44. イスパノアメリカの征服 13ページ
文庫クセジュ
そのうちかなりの人びとがアンティール諸島へ向かった。 船隊はそれぞれ相当数の水夫を必要とした。コルテスが指揮した四五〇名の一団には一〇〇名の水夫がいた。スペイ
45. イスパノアメリカの征服 15ページ
文庫クセジュ
うに、コルテス自身は富よりも現実の権力の方を望んだ。現実の権力は副王に与えられ、征服者、つまりコルテスには与えられなかった。以前は身分の低い、貧しい郷士であった
46. イスパノアメリカの征服 17ページ
文庫クセジュ
隊長たちは浅くにせよラテン文学をかじっており、彼らの中には、軍功をたてて、古代に思いを馳せた者もいた。例えば、コルテスは乗ってきた船を沈めながら、まるでルビコン
47. イスパノアメリカの征服 18ページ
文庫クセジュ
らない。それは必ずしも第一の動機ではなかったが、冒険家たちの武勲に宗教的な彩りを添えていた。コルテスが真摯な、また、戦闘的な信仰心に鼓舞されたのは明白な事実であ
48. イスパノアメリカの征服 23ページ
文庫クセジュ
リカの兵士との間にみられる数の上での不均衡は、驚くほどのものではない。 メキシコにおいて、コルテスは、もしその同盟者であるトラスカラ族(ベルナル・ディアス・デ
49. イスパノアメリカの征服 26ページ
文庫クセジュ
ルドバ、のちに、グリハルバに与えられた協約がそれで、彼ら両名はユカタン半島の沿岸を探検した。コルテスがまず第一に託された使命も同じく「交換」であった。インカ帝国
50. イスパノアメリカの征服 27ページ
文庫クセジュ
月間平和裡に行なわれた交易のあとで発生したコルテスの仲間同士の紛争について報告している。コルテスは私たちを欺いた、と彼らは言った。すなわち、「コルテスはキューバ