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コルテス

ジャパンナレッジで閲覧できる『コルテス』の世界大百科事典・日本大百科全書・世界人名大辞典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
コルテス
Hernán Cortés
1485?-1547

スペインのコンキスタドール。イダルゴ(下級貴族)の子としてスペインのエストレマドゥラ地方に生まれ,一時サラマンカ大学に学ぶ。1504年イスパニオラ島へ渡り,11年ディエゴ・ベラスケスとともにキューバ島征服に参加。18年,キューバ総督ベラスケスより第3次メキシコ沿岸地域遠征隊の隊長に任じられた。19年2月,出航停止令を無視し,スペイン人,インディオ,黒人など総勢600人余りの部下を率いてハバナを出港。コスメル島を経てユカタン半島をメキシコ湾岸沿いに進み,タバスコでインディオ女性マリンチェを贈られた。4月,サン・フアン・デ・ウルアに達し,アステカ王国の情報を得て,ベラクルス市を建設後,国王カルロス1世にアステカ征服の許可を求める書翰を送る。8月,内陸へ進軍し,途中アステカ族と対峙するトラスカラ族を味方とし,チョルラでの激戦ののち,11月アステカ王国の首都テノチティトラン(現,メキシコ市)に入り,モクテスマ2世を幽閉。翌年4月,ベラスケスが派遣した追討軍を迎え討つためベラクルスに向かい,6月,追討軍を打破して味方とし,首都へ帰還するが,首都ではインディオの武装蜂起が起こっていた。7月30日,インディオの反乱鎮圧に失敗し,首都を退却。この事件は〈悲しき夜〉と呼ばれ,約1000名のスペイン人が死亡した。のちトラスカラ地方で軍を建て直し,21年夏テノチティトランを水陸両面から攻囲し,8月13日クアウテモックを捕らえ,首都を陥落させた(アステカ王国の滅亡)。22年10月,国王よりヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)の総督・総監に任じられる。のちエンコミエンダの分配等をめぐって王室官吏と対立し,27年自己の大義を主張するためスペインへ帰った。29年4月,国王よりオアハカ盆地侯に叙せられ,22ヵ村,2万3000名のインディオを与えられたが,征服地の統治権は授与されなかった。30年,メキシコに戻り,モレロス地方の領地を中心に製糖業や穀物・綿花・果樹栽培に大々的に乗り出し,ヌエバ・エスパーニャ最大の製糖業者,新大陸最大のエンコメンデロとなる一方,新しい発見事業にも着手し,36年,バハ・カリフォルニア(現,カリフォルニア半島の一部)を発見。しかし侯領の管轄権をめぐって王室側と対立し,40年自己の権利と財産を回復する目的でスペインへ帰るが,征服地に王権の確立を目ざす王室は,彼の主張を認めなかった。のちアルジェリア遠征に加わり,47年12月,セビリャ近郊で没した。遺言に従い,遺体はメキシコに埋葬された(1566)。

 コルテスは軍事的征服のみならず,〈新大陸のモーゼ〉とさえ評価されるほど,インディオの改宗にも熱意を示した典型的なコンキスタドールであった。なお,国王に書き送った《報告書簡Cartas de Relación》はアステカ王国の征服のみならず,当時のインディオの日常生活を知るうえでも貴重な史料となっている。
[染田 秀藤]

[索引語]
Cortés,H. アステカ王国 テノチティトラン ヌエバ・エスパーニャ オアハカ盆地侯 バハ・カリフォルニア 報告書簡 Cartas de Relación


日本大百科全書(ニッポニカ)
コルテス
こるてす
Hernán Cortéz
[1485―1547]

スペインのコンキスタドレス(征服者)。エストレマドゥーラの貴族の家に生まれ、サラマンカ大学に学ぶ。18歳で海を渡り、西インド諸島サント・ドミンゴへ来島(1504)。1511年ベラスケスのキューバ征服に参加、さらにメキシコ征服では指揮官に任命され、各地で兵員を増強し、11隻の船団に660人の兵員、砲14門を擁して1519年キューバ西端サン・アントニオ岬を出帆、ユカタン半島に向かった。暴風雨や先住民の反抗にあったりしたが、結局4万の先住民軍を降伏させて講和した。このときに贈られた20人の女奴隷の1人マリナルと結婚して航海を続け、アステカの首都に近い港にベラクルスを建設、命名し、永久植民地とした(1519)。モクテスマ2世のメキシコ地方は政情騒然としていたが、コルテスの征服軍に頑強に抵抗。一方キューバ総督ベラスケスとの関係が悪化し、ハイチ総督ディエゴ・コロンの仲裁も空しく、ベラスケスはコルテス追討のためナルバエスを派遣(1520)したが、コルテスは逆にこれを急襲、ナルバエスを配下に加えた。その後、メキシコ側と苦戦のすえ、アステカ文化を破壊、先住民を虐殺してこれを平定(1521)。ヌエバ・エスパーニャ植民地の経営に意を用い、さらに南方マヤ、西方の未開地を探検、アジアへの道を探索したが、大きな成果をみず、1540年帰国した。

[飯塚一郎]



岩波 世界人名大辞典
コルテス
Cortés, Hernán
1485~1547.12.2

スペインのメキシコ征服者.

下級貴族の家に生まれ,サラマンカ大学に学ぶ.サントドミンゴに渡り [1504],ベラスケス(Diego Velázquez 1465頃~1524)総督のもとキューバ征服に参加 [11-14].メキシコ湾方面の探検を命じられ,船11隻,兵500人を率いて出発 [19.2].ユカタン,タバスコ沿岸を航海し,ベラクルス市を建設,そこから内陸へ進軍し,トラスカラ人と同盟し,アステカ人の首都テノチティトラン(現メキシコシティ)に入り [同.11],アステカ皇帝モテクソマ2世を人質とした.ベラスケスが派遣したP.ナルバエス率いる追討軍を迎えうち破ったが,テノチティトランに残した部下アルバラードに対しアステカ人が蜂起し,一度は撤退を余儀なくされたが,包囲戦のすえ陥落させた [21.8].カール5世によりメキシコ総督に任命されたが,ホンジュラス遠征 [24-26]が長引く間に権威失墜した.帰国して復職を訴えたがかなわず,代わりにバリェ・デ・オアハカ侯爵に叙せられた.再びメキシコに渡り [30-40],クエルナバカに居館を構えて砂糖産業を興し,太平洋岸探検に出てバハカリフォルニア半島に到達するなど活動した.帰国後アルジェリアに遠征 [41],不遇のうちに没した.

〖主著〗 報告書簡:Cartas de relación(自身がカール5世に宛てて征服の途中経過を逐次書き送った5通の長大な書簡.第2-4書簡は1522-32年だけで14版を重ねた).

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1. コルテス(Hernán Cortés)
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,47年12月,セビリャ近郊で没した。遺言に従い,遺体はメキシコに埋葬された(1566)。 コルテスは軍事的征服のみならず,〈新大陸のモーゼ〉とさえ評価されるほ
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16. アカプルコ【Acapulco】
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19. アステカ文化画像
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20. アステカ‐ぶんめい【─文明】
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27. アステカ文明 69ページ
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38. アメリカ
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40. アルバラド(Pedro de Alvarado)
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42. イスパノアメリカの征服 11ページ
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43. イスパノアメリカの征服 12ページ
文庫クセジュ
下ろすことなどほとんどなかった。彼らは力の及ぶかぎり、新しい冒険へ乗り出していったのである。例えば、コルテスの盟友、ディエゴ・デ・オルダスはメキシコにあった私有
44. イスパノアメリカの征服 13ページ
文庫クセジュ
そのうちかなりの人びとがアンティール諸島へ向かった。  船隊はそれぞれ相当数の水夫を必要とした。コルテスが指揮した四五〇名の一団には一〇〇名の水夫がいた。スペイ
45. イスパノアメリカの征服 15ページ
文庫クセジュ
うに、コルテス自身は富よりも現実の権力の方を望んだ。現実の権力は副王に与えられ、征服者、つまりコルテスには与えられなかった。以前は身分の低い、貧しい郷士であった
46. イスパノアメリカの征服 17ページ
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隊長たちは浅くにせよラテン文学をかじっており、彼らの中には、軍功をたてて、古代に思いを馳せた者もいた。例えば、コルテスは乗ってきた船を沈めながら、まるでルビコン
47. イスパノアメリカの征服 18ページ
文庫クセジュ
らない。それは必ずしも第一の動機ではなかったが、冒険家たちの武勲に宗教的な彩りを添えていた。コルテスが真摯な、また、戦闘的な信仰心に鼓舞されたのは明白な事実であ
48. イスパノアメリカの征服 23ページ
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リカの兵士との間にみられる数の上での不均衡は、驚くほどのものではない。  メキシコにおいて、コルテスは、もしその同盟者であるトラスカラ族(ベルナル・ディアス・デ
49. イスパノアメリカの征服 26ページ
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ルドバ、のちに、グリハルバに与えられた協約がそれで、彼ら両名はユカタン半島の沿岸を探検した。コルテスがまず第一に託された使命も同じく「交換」であった。インカ帝国
50. イスパノアメリカの征服 27ページ
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月間平和裡に行なわれた交易のあとで発生したコルテスの仲間同士の紛争について報告している。コルテスは私たちを欺いた、と彼らは言った。すなわち、「コルテスはキューバ
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