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  11. 吉川元春

ジャパンナレッジで閲覧できる『吉川元春』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・日本大百科全書

国史大辞典
吉川元春
きっかわもとはる
一五三〇 - 八六
戦国時代の武将。毛利元就の次男で通称少輔次郎、のち治部少輔・駿河守と称す。享禄三年(一五三〇)生まれる。母は吉川氏(法号妙玖)。天文十六年(一五四七)吉川興経と養子契約ができ、同十九年安芸国山県郡大朝新荘の火ノ山城に入り、吉川氏の当主となる。父を助けて毛利氏の芸備両国の征服に力を尽くし、弘治元年(一五五五)の厳島の戦には毛利軍の先鋒となり、陶晴賢の部将弘中隆兼を倒す。吉川氏は石見国に一族が広がり因縁が深いので、元春は同二年から同国の経略を任され、益田氏をはじめ国人武士の多くを降伏させ、毛利氏が出雲に軍を進め尼子氏を攻める基礎を築く。毛利氏を中心に吉川氏が山陰方面、小早川隆景が山陽方面の軍事を担当する「毛利両川」の体制はこのころから形成される。永禄五年(一五六二)から同九年にかけて毛利氏が尼子氏の本拠富田(月山)城(島根県能義郡広瀬町)を包囲攻撃するにあたり、先鋒となって尼子氏方の諸城を降し、また父とともに本営洗骸(松江市)にあって全軍の指揮をとり、同九年十一月に城を攻め落とし尼子義久らを降伏させた。同十一年河野通直を救援のため隆景とともに伊予に出征し、大洲城(愛媛県大洲市)の宇都宮豊綱を降した。翌十二年筑前立花城(福岡県粕屋郡粕屋町)を攻撃して大友氏の軍と交戦中、山中幸盛(鹿介)は尼子勝久を奉じて出雲に侵入し、大内輝弘は大友氏の援助を得て周防山口に乱入した。そのため元春はにわかに軍を返して輝弘を討滅した。また元亀元年(一五七〇)毛利軍の先鋒となって勝久を討ちかれを敗走させた。同二年に元就が死んだのちは隆景とともに輝元を補佐し、かれは伯耆・因幡を占領し山陰方面からの東上策を進めたが、西進する織田氏と衝突するようになる。天正六年(一五七八)尼子勝久が織田氏の援助を得てたてこもる播磨上月城(兵庫県佐用郡上月町)を包囲攻撃し、織田方の部将羽柴(豊臣)秀吉の救援軍を退けて城を落とし、勝久を自殺させ、山中幸盛を捕えて殺害した。その後秀吉の中国経略が成果をあげたため、元春は同九年吉川経家を守将に置いた鳥取城を救援することができず攻め落とされ、翌十年には輝元・隆景に協力して備中高松城(岡山市)を救援し、秀吉の包囲陣を破ろうとしたが果たせず、不利な条件で講和を結んだ。秀吉はやがて本能寺の変に死んだ織田信長の仇を討ち、代わって天下を統一した。元春は秀吉の下風に立つことを好まず、同十年十二月家を長子元長に譲って隠退した。しかし同十四年秀吉の意向を受けた輝元の懇請を入れて九州に出征し、同年十一月十五日豊前小倉の陣中に病没した。五十七歳。法名随浪院海翁正恵。広島県山県郡豊平町海応寺の海応寺墓所に葬られている。かれは実戦の名将であったが、文化的教養も深く、富田城包囲攻撃中、陣中の余暇に二十一ヵ月の歳月を費やして『太平記』四十巻を丹念に書写している。また大内氏の支族右田弘詮が苦心して収集整理した『吾妻鏡』が、吉川家に伝存したのもかれの努力の結果であるとみられる(この『太平記』と『吾妻鏡』は、ともに吉川重喜蔵、重要文化財指定)。
[参考文献]
瀬川秀雄『吉川元春』、『岩国市史』上、『吉川元春卿伝』(『長周叢書』)
(河合 正治)


吉川元春花押
キッカワモトハルカオウ
吉川元春花押



日本大百科全書(ニッポニカ)
吉川元春
きっかわもとはる
[1530―1586]

戦国末期・安土 (あづち)桃山時代の武将。毛利元就 (もうりもとなり)の二男、母は吉川国経 (くにつね)の女 (むすめ)。少輔次郎 (しょうじろう)、治部 (じぶ)少輔、駿河守 (するがのかみ)と称した。1547年(天文16)安芸 (あき)国大朝新庄 (おおあさしんじょう)の吉川興経 (おきつね)の養子とされ、弟の小早川隆景 (こばやかわたかかげ)とともに毛利氏勢力の一翼として中国地方の経略に活躍し、世に「毛利氏の両川」と称された。ことに山陰方面に対する征略には元春が主力となり、56年(弘治2)以来石見 (いわみ)国に出征、62年(永禄5)より尼子 (あまご)氏の本拠出雲 (いずも)国を攻め、66年富田 (とだ)城を陥れて尼子氏を降し、81年(天正9)には因幡 (いなば)国で羽柴 (はしば)(豊臣 (とよとみ))秀吉の軍と戦った。翌年、備中 (びっちゅう)国高松城の戦いで毛利輝元 (てるもと)が秀吉と和平ののち、織田信長の死を知るや元春は追撃を主張したが隆景らに止められ、秀吉政権の下にたつのを喜ばず同年隠居した。輝元の願いで秀吉の九州征服に参加、小倉 (こくら)(北九州市)で陣没した。勇猛の半面、文才もあり、出雲の陣中で書写した『太平記』44巻が伝わる。

[福尾猛市郎]



吉川元春[百科マルチメディア]
吉川元春[百科マルチメディア]

「吉川元春画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
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検索コンテンツ
1. 吉川元春画像
日本大百科全書
戦国末期・安土あづち桃山時代の武将。毛利元就もうりもとなりの二男、母は吉川国経くにつねの女むすめ。少輔次郎しょうじろう、治部じぶ少輔、駿河守するがのかみと称した
2. 吉川元春
世界大百科事典
1530-86(享禄3-天正14) 戦国時代の武将。毛利元就の次男。初め少輔次郎,1549年(天文18)吉川氏を相続して治部少輔,のち駿河守。元就没後も甥輝元を
3. きっかわ‐もとはる【吉川元春】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。駿河守。毛利元就(もとなり)の二男。吉川興経の養子。通称少輔次郎。法名随浪院海翁正恵。武勇にすぐれ、出雲の尼子氏を破り、山陰の平定に尽力。ま
4. きっかわもとはる【吉川元春】画像
国史大辞典
と『吾妻鏡』は、ともに吉川重喜蔵、重要文化財指定)。 [参考文献]瀬川秀雄『吉川元春』、『岩国市史』上、『吉川元春卿伝』(『長周叢書』) (河合 正治)
5. 吉川元春(きっかわもとはる)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 1283ページ
6. きっかわ-もとはる【吉川元春】
日本人名大辞典
1530−1586 戦国-織豊時代の武将。享禄(きょうろく)3年生まれ。毛利元就(もとなり)の次男。吉川興経(おきつね)の養子となり天文(てんぶん)19年安芸(
7. 吉川元春[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:3件 【逐次刊行物】:1件 『吉川元春卿伝』村田峰次郎(編)『吉川元春元長両公の御事蹟』瀬川秀雄『吉川元春』瀬川秀雄『戦国武将としての吉川元春』瀬川秀
8. 吉川元春[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
吉川元春画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
9. 吉川元春花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. きっかわもとはるきょかんあと【吉川元春居館跡】広島県:山県郡/豊平町/海応寺村
日本歴史地名大系
西禅寺跡、万徳院跡、洞仙寺跡、常仙寺跡、松本屋敷跡が含まれている。(発掘調査から見た吉川元春館跡の構造「吉川元春館跡の研究」広島県教育委員会・二〇〇一年)〈平成
11. きっかわ-もとはるの-つま【吉川元春妻】
日本人名大辞典
?−1606 織豊-江戸時代前期の女性。熊谷信直(くまがい-のぶなお)の娘。婚期を逸するほど容貌がすぐれなかったが,毛利元就(もとなり)の次男で吉川家をついだ元
12. あかえごう・あかえのしょう【赤江郷・赤江庄】島根県:安来市
日本歴史地名大系
福寺(現鹿島町)を与え、改めて裁定を行うこととした(六月一一日「毛利元康書状」・九月二八日「吉川元春書状」・一一月二八日「毛利輝元書状」同書)。赤江庄(郷)関係
13. あかさきちょう【赤碕町】鳥取県:東伯郡
日本歴史地名大系
数多くの寺跡が残っている。元弘三年(一三三三)には後醍醐天皇を奉じて名和長年が拠っており、戦国時代にも吉川元春が陣を布いている。天正一三年(一五八五)当地は羽衣
14. あがわむら【阿川村】山口県:豊浦郡/豊北町
日本歴史地名大系
申候」とある。天正一九年(一五九一)吉川元春の次男繁沢元氏(阿川毛利氏の祖)が殿居(現豊田町)境の竜山城を預るとともに、この地方は元氏の支配となったが
15. 安芸国
世界大百科事典
山名煕重 武田元繁 大内義興 尼子経久 友田興藤 毛利氏 尼子詮久 大内義隆 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利輝元 広島城 福島正則 浅野氏 浅野
16. あこだむら【赤子田村】鳥取県:鳥取市/旧高草郡地区
日本歴史地名大系
原町)城主西尾伯耆守の子孫が分家して来住したと伝える(因幡志)。天正八年(一五八〇)一〇月の吉川元春の裏判がある田公高次所領目録写(岩国徴古館蔵)に惣領又三郎領
17. あさごぐん【朝来郡】兵庫県
日本歴史地名大系
に占領され、山名祐豊や太田垣氏ら但馬の国人も信長の制圧下に入った。しかし天正元年(一五七三)吉川元春が因幡に進攻し因幡守護山名豊国が降伏するに及んで情勢は変わり
18. あさやまごう【朝山郷】島根県:出雲市
日本歴史地名大系
山)の二つに分断されるかたちとなったようである。永禄九年(一五六六)二月一六日の小早川隆景・吉川元春連署寄進状(秦家文書)によれば「朝山上分五貫之地」とみえ、こ
19. あしやじょうあと【芦屋城跡】兵庫県:美方郡/浜坂町/芦屋村
日本歴史地名大系
六ヵ所の要害を構えて守備しており、当地が軍事上の要地として重要視されていたことがうかがえる(七月二七日「吉川元春等連署書状案」吉川家文書)。同八年五月、羽柴長秀
20. あせりぐん【汗入郡】鳥取県:伯耆国
日本歴史地名大系
る。元亀二年(一五七一)八月、尼子氏再興を目指す山中幸盛が拠った末石城(現大山町)は毛利方の吉川元春軍によって攻略され、幸盛は吉川方に捕らえられた。羽柴秀吉と毛
21. あといちむら【阿刀市村】島根県:江津市
日本歴史地名大系
現川本町)城主小笠原長徳夫人の発願により毛利・尼子両軍戦死者慰霊のため建立されたという。のち吉川元春により寺領を安堵された。浄土宗西方寺は慶長年間(一五九六―一
22. あとべっぷ【阿刀別符】島根県:江津市
日本歴史地名大系
しかしこの間の福屋氏による所領支配の実態を伝える史料は不明である。福屋氏滅亡後この地は毛利氏の支配下に入り、吉川元春の所領となった。天正一〇年(一五八二)一一月
23. あとむら【阿戸村】広島県:広島市/安佐南区
日本歴史地名大系
天文一九年(一五五〇)七月一五日付の毛利元就同隆元連署状(吉川家文書)では、「阿土乙熊」の地が吉川元春に与えられ、同二一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注文(
24. ありふくむら【有福村】島根県:江津市
日本歴史地名大系
旧村社の八幡宮は建久元年(一一九〇)宇佐八幡宮からの勧請という。天正一〇年(一五八二)兵火にあい焼失し、吉川元春により再建された。臨済宗福泉寺は建武四年の開山と
25. ありまむら【有間村】広島県:山県郡/千代田町
日本歴史地名大系
百姓四三・浮過一三・職人二、人数は二九八(男一五四・女一四四)。氏神は天文二一年(一五五二)吉川元春・元秀勧請という棟札を伝える有間八幡宮。毎年八月一五日の祭礼
26. いじりむら【井尻村】島根県:邇摩郡/温泉津町
日本歴史地名大系
永禄五年(一五六二)三月二六日、井尻村一五貫文の地が吉川経安に与えられた(「毛利元就・同隆元・吉川元春連署充行状写」石見吉川家文書)。しかし実質的な支配はできな
27. いずわごう【出羽郷】島根県:邑智郡/瑞穂町
日本歴史地名大系
」吉川家文書)、当地は安芸―石見―出雲を結ぶ要衝に位置していた。永禄元年(一五五八)毛利方の吉川元春らは温湯城(現川本町)の小笠原長雄追討のため出羽経由で軍を進
28. いちぎ【市木】島根県:邑智郡/瑞穂町
日本歴史地名大系
を支配したと推測される。そして吉川元春は天正七年(一五七九)二月一三日に山県越前守裁判の地であった市木村のうちの麦尾を宮庄次郎五郎(吉川経言)に与え(「吉川元春
29. いちなかやむら【市中屋村】島根県:能義郡/伯太町
日本歴史地名大系
宮慶長一九年(一六一四)のものには井尻保内八幡とみえる。また天正一六年(一五八八)の棟札には吉川元春、慶長一九年のものには堀尾忠晴、正保四年(一六四七)のものに
30. いちやまむら【市山村】島根県:邑智郡/桜江町
日本歴史地名大系
衛・米原東市介・寺本玄蕃允・米原右衛門尉らであった(一二月一日「吉川元春神文」藩中諸家古文書纂)。これに対し、同月二日の吉川元春書状(同古文書纂)では「対今度此
31. いっしきふじなが【一色藤長】
国史大辞典
同十一年六月、紀伊粉河寺に対し、藤孝と連署で義昭に忠功をはげむように命じている。同十二年三月、将軍義昭が吉川元春に与えた御内書には、藤長と上野信恵が奉書をそえて
32. いなばのくに【因幡国】鳥取県
日本歴史地名大系
同五年頃から織田信長の中国侵攻が開始されて、その部将羽柴秀吉が因幡・伯耆へと迫り、一方、毛利方は吉川元春が因伯二国支配を担当した。同八年六月、因幡に侵攻した羽柴
33. いなみつほんごう【稲光本郷】島根県:那賀郡
日本歴史地名大系
福屋氏方の中核として活躍している。その旧領が福屋氏滅亡後に吉川元春から市山(現桜江町)の井下新兵衛に与えられている(推定永禄五年五月九日「吉川元春判物」藩中諸家
34. いのむらごう【井村郷】島根県:那賀郡/三隅町/井野村
日本歴史地名大系
ことにかかわると考えられる(同年一一月二一日「吉川元春自筆書状案」吉川家文書)。弘治三年(一五五七)当地は三隅氏に返されたが(八月一四日「吉川元春書状」閥閲録)
35. いまむら【今村】鳥取県:米子市
日本歴史地名大系
ている。天正一一年(一五八三)以降と推定される二月二五日付の吉川広家書状(同書)では、同地は吉川元春・杉原盛重裁判の節より重正知行であることは承知していると述べ
36. いわくにじょうか【岩国城下】山口県:岩国市
日本歴史地名大系
その上方口の押えとして吉川広家を岩国に封じた。広家は安芸国山県郡日の山城(現広島県山県郡大朝町新庄)城主吉川元春の三男。天正一九年(一五九一)出雲三郡、伯耆三郡
37. 岩国藩画像
日本大百科全書
実際は藩でありながら形式的には藩として認められなかった原因は、始祖吉川広家ひろいえ(毛利元就もとなりの次男吉川元春もとはるの第3子)が関ヶ原の戦いのとき東軍に呼
38. いわくにはん【岩国藩】
国史大辞典
周防国(山口県)岩国を藩庁とした藩。藩主吉川氏。毛利元就の次男吉川元春の第三子広家を初代とし、広正・広嘉・広紀・広逵・経永・経倫・経忠・経賢・経礼・経章・経幹
39. いわくらじょうあと【岩倉城跡】鳥取県:倉吉市/岩倉村
日本歴史地名大系
平田城を守っていた湯原元綱に在番を申付け、吉川経兼に万事相談するよう命じている(同月一一日「吉川元春・元長連署書状」閥閲録)。なお同年六月には兵粮がまったくなく
40. いわさかごう【石坂郷】島根県:八束郡/八雲村
日本歴史地名大系
但馬守が伯耆外江(現鳥取県境港市)の代所として「岩坂之内別所針屋給四十貫文地」を与えられ(「吉川元春書状」閥閲録)、また同一三年三月二一日には平原にある福間元明
41. いわどむら【岩戸村】広島県:山県郡/大朝町
日本歴史地名大系
平田八幡神社・弥栄神社を合祀し、翌年現社名に改称。社蔵の棟札によれば、天正一二年(一五八四)吉川元春・元長父子により再建され、宝永六年(一七〇九)にも社殿を再建
42. いわみぎんざん【石見銀山】画像
国史大辞典
反復され、銀山に山吹城があり、西南には矢滝城があり銀山の押えにあたった。弘治二年(一五五六)吉川元春が石見に入り銀山を領し、そののち尼子氏が一時銀山を占領したが
43. いわみぎんざんあと【石見銀山跡】島根県:大田市/佐摩村
日本歴史地名大系
入で活況を呈した温泉津湊(現温泉津町)と合せて「温泉銀山」ともいわれた(元亀二年六月二六日「吉川元春等連署状」毛利家文書)。銀山は「中書家久公御上京日記」天正三
44. いわみちょう【石見町】島根県:邑智郡
日本歴史地名大系
上・中野を支配し、日和の日野城山に拠る日野氏が福屋氏に協力した。永禄年間(一五五八―七〇)に吉川元春・毛利元就勢に攻略され、その後は毛利氏領となった。関ヶ原合戦
45. いわやうら【岩屋浦】兵庫県:津名郡/淡路町
日本歴史地名大系
同年一一月には本願寺顕如が吉川元春に足利義昭を奉じて上洛し、岩屋に軍勢を置くことを要請し(一一月二〇日「本願寺顕如書状」吉川家文書)、翌五年三月には足利義昭から
46. いんとくたいへいき【陰徳太平記】
国史大辞典
完成は元禄八年(一六九五)で、正徳二年(一七一二)に刊行された。正矩の曾祖父光景は毛利元就、祖父春継は吉川元春の部将として活躍、父家景も文禄・慶長の役で武功があ
47. いんべほ【忌部保】島根県:松江市/旧意宇郡地区
日本歴史地名大系
忌部の陣へ奉書が出されたという(「武家御寄進年代記」秋上家文書)。同年と思われる三月二七日の吉川元春書状(閥閲録)では、野村信濃入道が忌部の普請が整ったので一両
48. うえきのしよう【植木庄】福岡県:直方市
日本歴史地名大系
小早川隆景らは当庄に在郷して往反するものを注進するよう元実に命じている(九月五日「小早川隆景・吉川元春連署書状」萩藩閥閲録三)。同月当庄から人質二名を出すことと
49. うえしじょう【羽衣石城】
国史大辞典
得た。以来天正のころまで毛利氏に従ったが、天正三年(一五七五)春、宗勝(宗光)が出雲富田城に吉川元春を訪ねたあと病臥して死没すると、嗣子元続(もとつぐ)は深く吉
50. うえしじょうあと【羽衣石城跡】鳥取県:東伯郡/東郷町/羽衣石村
日本歴史地名大系
五月一〇日、吉川元春は小田草城(現岡山県鏡野町)への取付けが終わったならば、当地へ発向することとしている(「吉川元春書状」吉川家文書)。同年七月二一日、末吉(現
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上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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一五六九 - 一六三三 江戸時代前期の臨済宗の僧侶。金地院崇伝・伝長老ともいわれる。足利義輝の臣一色秀勝の子で、足利氏が滅亡したのち、南禅寺に赴いて玄圃霊三に師事した。醍醐の三宝院に学んだこともあるが、のちに南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法をついだ
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一八〇〇 - 六〇 江戸時代末期の常陸国水戸藩主。第七代治紀(武公)の三男。母は烏丸資補の女。幼名敬三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに斉昭。兄の第八代藩主斉脩(なりのぶ、哀公)の嗣子となる。字は子信、号は景山・潜竜閣。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子
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