1. 藤堂高虎画像
日本大百科全書
安土あづち桃山・江戸前期の大名。津つ(安濃津あのつ)藩祖。父虎高は、近江おうみ国(滋賀県)の郷士三井氏の次男で、犬上いぬかみ郡藤堂村(現、同郡甲良こうら町)の藤
2. 藤堂高虎
世界大百科事典
1556-1630(弘治2-寛永7) 江戸初期の外様大名。伊勢津藩主。近江国に生まれる。浅井長政,織田信澄に仕えたあと,羽柴(豊臣)秀長の家臣となり,賤ヶ岳の戦
3. とうどう‐たかとら【藤堂高虎】
日本国語大辞典
安土・桃山時代から江戸初期の武将。近江国(滋賀県)の人。藤堂藩初代藩主。浅井長政、羽柴秀長に仕え軍功をたてた。のち秀吉に招かれ、その死後家康につき、関ケ原の戦い
4. とうどうたかとら【藤堂高虎】画像
国史大辞典
新井白石『藩翰譜』七下(『新井白石全集』一)、『津市史』一、七里亀之助『ふじの生涯』、林泉『藤堂高虎公と藤堂式部家』 (杉本 嘉八)
5. 藤堂高虎
日本史年表
1598年〈慶長3 戊戌〉 5・‐ 宇喜多秀家 ・ 毛利秀元 ・ 蜂須賀家政 ・ 藤堂高虎 ら,朝鮮より帰国(萩藩閥閲録)。
6. 藤堂高虎(とうどうたかとら)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 323ページ
7. とうどう-たかとら【藤堂高虎】
日本人名大辞典
1556−1630 織豊-江戸時代前期の大名。弘治(こうじ)2年1月6日生まれ。浅井長政,羽柴秀長,豊臣秀吉につかえる。秀吉没後は徳川家康にちかづき,関ケ原の戦
8. 藤堂高虎[文献目録]
日本人物文献目録
百年祭紀要刊行会(編刊)『藤堂高虎并先賢三十人列伝』高山公三百年伊賀大祭会(編刊)『藤堂高虎』山東逸人『藤堂高虎小伝』富水散史『藤堂高虎と板島城』兵頭賢一『藤堂
9. 藤堂高虎[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
「藤堂高虎画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
10. 藤堂高虎花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
11. 藤堂高虎記(著作ID:1071018)
新日本古典籍データベース
とうどうたかとらき 高虎記 伝記
12. 藤堂高虎公書記(著作ID:474135)
新日本古典籍データベース
とうどうたかとらこうしょき 記録
13. 藤堂高虎二百箇条目書(著作ID:3621247)
新日本古典籍データベース
とうどうたかとらにひゃっかじょうもくしょ 高山様二百ケ条 法制
14. 虎
雑談(著作ID:195675)
新日本古典籍データベース
こよくぞうだん 藤堂高虎物語 藤堂高虎(とうどうたかとら) 雑記
15. 敢国神社
日本大百科全書
(織田信長の伊賀攻略戦)で一時衰退したが、慶長けいちょう年間(1596~1615)に津つ藩主藤堂高虎とうどうたかとらによって復興され、伊賀地方の中心神社として繁
16. 敢国神社
世界大百科事典
ち伊賀国の一宮とされる。中世,南宮菩薩とよばれ,近世藤堂氏が藩主として入国以来あつく崇敬し,藤堂高虎は1614年(慶長19)に107石余の黒印領を寄進,祭事も復
17. あえくにじんじゃ【敢国神社】
国史大辞典
として崇敬された。天正九年(一五八一)織田信長の攻略の兵火にあったが、慶長十三年(一六〇八)藤堂高虎が藩主として入国以来、上野城鬼門守護として崇敬、社殿を造営、
18. あえくにじんじゃ【敢国神社】三重県:上野市/一之宮村
日本歴史地名大系
口径一尺三寸八分の釜には本願猪田清蔵、大工は依那具屋七郎で慶長三年(一五九八)四月吉日とある。藤堂高虎は伊賀へ封ぜられた翌慶長一四年より本格的再興にあたり、一二
19. あおのむら【青野村】岡山県:井原市
日本歴史地名大系
慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)に村名がみえ、後月郡に属し、高四〇九石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。寛永備中国絵図では山崎家治先知とあ
20. あおむら【阿保村】三重県:名賀郡/青山町
日本歴史地名大系
に、本尊十一面観音像(国指定重要文化財)や写本大般若経六〇〇巻などは寺脇の宝厳寺に移された。藤堂高虎が入国した慶長一三年の一月五日に「国中万うりかひ之儀、上野町
21. あさくちぐん【浅口郡】岡山県
日本歴史地名大系
治され、支配は錯綜していた。慶長一〇年(一六〇五)浅尾藩が佐方村(現金光町)などを、同一一年藤堂高虎が郡西部の一〇ヵ村、高一万三千七一石余を領有。元和元年(一六
22. あしじんじゃ【葦神社】三重県:阿山郡/大山田村/上阿波村
日本歴史地名大系
を祀り粟皇神と称したが、のちに三社を合祀して葦神社七王子宮と称した。江戸時代になり、初代藩主藤堂高虎の芳書一紙を納めて藤神君と称し八王子宮・八王子明神と称した。
23. あじまむら【味間村】奈良県:磯城郡/田原本町
日本歴史地名大系
臣大野治長領。元和元年(一六一五)大坂落城で一時幕府領(代官角南主馬)となり、同五年に津藩(藤堂高虎)領に編入された。のち枝郷の出屋敷村が分れ、元禄郷帳の村高は
24. あたごじんじゃ【愛宕神社】三重県:上野市/上野城下/愛宕町
日本歴史地名大系
伊賀国愛宕山伏拝処也 本願小天狗大峰三十六度 于時慶長十七年甲子三月吉日」とある。元和二年(一六一六)藩主藤堂高虎が大檀那となり、勝軍地蔵権現をあらたに勧請し、
25. あのぐん【安濃郡】
国史大辞典
領した。文禄元年(一五九二)豊臣秀吉はこれを没収して富田知信に与えたが、慶長十三年(一六〇八)藤堂高虎が伊勢・伊賀二国を領して安濃津に入ることにより、明応七年(
26. あのぐん【安濃郡】 : 安濃郡/(一)
国史大辞典
領した。文禄元年(一五九二)豊臣秀吉はこれを没収して富田知信に与えたが、慶長十三年(一六〇八)藤堂高虎が伊勢・伊賀二国を領して安濃津に入ることにより、明応七年(
27. あべぐん【阿拝郡】画像
国史大辞典
文明五年(一四七三)一条兼良の『藤川の記』にみえる。徳川家康は慶長十三年(一六〇八)定次を退け、藤堂高虎を封じた。土地の名産は、川魚菜のほか特記するものがない。
28. あべむら【阿部村】奈良県:桜井市/安倍・多武峯地区
日本歴史地名大系
。元和二年(一六一六)別所氏改易でいったん幕府領(代官竹村九郎右衛門)となるが、同五年津藩(藤堂高虎)領となり、廃藩置県に至った。「宗国史」によると「阿部」の「
29. あまざきじょうあと【甘崎城跡】愛媛県:越智郡/上浦町/甘崎村
日本歴史地名大系
」)。甘崎城は慶長期(一五九六―一六一五)まで存続しており、板島(宇和島)城主、のち今治城主藤堂高虎の支城になった。「宗国史」慶長六年の記事に「命騎将須知定信水
30. あんぼうむら【安房村】鹿児島県:熊毛郡/屋久町
日本歴史地名大系
に再興された。本仏寺から出た泊如竹は京師に出て藤原惺窩、のち帰藩して文之玄昌に朱子学を学び、藤堂高虎や島津光久の顧問・侍講となった。光久に仕えていた頃屋久杉の伐
31. いあく の 臣(しん)
日本国語大辞典
主君のそばにいて、はかりごとをめぐらす臣。参謀。*露命〔1954〕〈中山義秀〉一〇「藤堂高虎は家康、秀忠の帷幄(ヰアク)の臣だ」
32. 帷幄(いあく)の臣(しん)
故事俗信ことわざ大辞典
補佐する下臣。参謀。帷幄をめぐらした陣の中にいることからいう。 露命(1954)〈中山義秀〉一〇「藤堂高虎は家康、秀忠の帷幄(ヰアク)の臣だ」
33. いうむら【藺生村】奈良県:山辺郡/都
村
日本歴史地名大系
慶長から元和元年(一六一五)にかけて旗本筒井正次(郡山城番)領。のち幕府領(代官間宮三郎右衛門)、同五年津藩(藤堂高虎)領、寛文九年(一六六九)久居藩(藤堂高通
34. 伊賀[市]
世界大百科事典
城したのが始まりであり,定次改易後,1608年に伊予国今治から伊賀・伊勢22万石に封じられた藤堂高虎が,現在に続く市街地の基盤をつくった。高虎は伊勢の津城を平時
35. 伊賀(市)画像
日本大百科全書
られる。中世は神宮領、山城石清水八幡宮領、南都興福寺領などがあった。 1608年(慶長13)藤堂高虎が伊勢国の津に入部、交通の要衝に位置する上野城(城址は国指定
36. いがぐん【伊賀郡】
国史大辞典
た。同十三年豊臣秀吉は筒井定次を伊賀に封じたが、徳川家康は慶長十三年(一六〇八)これを退けて藤堂高虎を領主とした。二代目高次は寛文十年(一六七〇)当郡阿保と上野
37. 伊賀国画像
日本大百科全書
の世には1585年筒井つつい定次が封ぜられ、初めて上野に築城、かわって1608年(慶長13)藤堂高虎とうどうたかとらが入封した。かくて上野は、津藩伊賀10万石の
38. 伊賀国
世界大百科事典
に居城を築いた。定次は関ヶ原の戦で東軍に属したが,1608年(慶長13)改易となり,伊予から藤堂高虎が入封した。同年9月に高虎は上野城に入ったが,本城を伊勢津城
39. いがのくに【伊賀国】画像
国史大辞典
同十三年には、豊臣秀吉は筒井定次を伊賀の大名に封じ上野城を築かせた。慶長十三年(一六〇八)定次にかわって藤堂高虎が、伊予国今治から三十二万石の大名として、伊賀お
40. いがのくに【伊賀国】三重県
日本歴史地名大系
具申され、ついに同一三年改易された。〔藤堂氏時代〕慶長一三年外様大名とはいえ、家康の信望厚かった藤堂高虎が伊勢・伊賀の大名として移封された。高虎は伊賀は西藩の咽
41. 伊賀者
日本大百科全書
屋敷から後の南・北伊賀町に替地移転を命ぜられた。 一方、故地の伊賀は、1608年(慶長13)藤堂高虎とうどうたかとらの所領となった。高虎は、大坂夏の陣に伊賀者5
42. 伊賀焼画像
日本大百科全書
天正9)の『天王寺屋会記』であり、この時期この地方を領有した筒井定次さだつぐ、そして交替した藤堂高虎とうどうたかとら・高次父子の時代、天正てんしょう・文禄ぶんろ
43. 伊賀焼
世界大百科事典
まきやま),丸柱,伊賀城内にあり,1585年(天正13)に筒井定次,1608年(慶長13)に藤堂高虎が領主として入部してからは,俗に〈筒井伊賀〉とか〈藤堂伊賀〉
44. いけのうちむら【池ノ内村】奈良県:桜井市/安倍・多武峯地区
日本歴史地名大系
山右近領。村高四二六・六二石は文禄検地と同じ。検地奉行は御牧景則。元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領に編入され廃藩置県に至る。「宗国史」には「池内村」とあり
45. 生駒騒動
日本大百科全書
松藩主生駒家で起こった御家おいえ騒動。4代藩主高俊たかとしは幼少で家督相続をしたため、外祖父藤堂高虎とうどうたかとらが後見役を務めていた。重臣前野助左衛門、石崎
46. 生駒騒動
世界大百科事典
ついだ。後見役に外祖父にあたる伊勢津藩主藤堂高虎が命じられた。その後藩政の主導権をめぐって,国家老生駒将監と前野助左衛門・石崎若狭とが争い,前野と石崎は藤堂高虎
47. いこまそうどう【生駒騒動】
国史大辞典
六二一)六月五日、父正俊のあとを嗣いだ。年わずかに三歳(一説に十一歳ともいう)。勢州津の城主藤堂高虎は、外祖父の故をもって幕府より後見を命ぜられた。生駒家では正
48. いこま-たかとし【生駒高俊】
日本人名大辞典
生駒正俊の子。父の死により元和(げんな)7年11歳で讃岐(さぬき)高松藩主生駒家3代となり,母の父藤堂高虎とその子高次が後見した。家臣間の対立抗争(生駒騒動)が
49. いこま-まさとし【生駒正俊】
日本人名大辞典
1586−1621 江戸時代前期の大名。天正(てんしょう)14年生まれ。生駒一正の長男。妻は藤堂高虎の娘。天正20年から豊臣秀吉にしたがう。関ケ原の戦いでは祖父
50. 射込み
日本大百科全書
シソの葉と実などを細かに切って詰め込み、みそ漬けにしたもので、1年後に用いる。戦国時代の武将藤堂高虎とうどうたかとらが創作した陣中食であるという。宮崎県の郷土料