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藤堂高虎

ジャパンナレッジで閲覧できる『藤堂高虎』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
藤堂高虎
とうどうたかとら
一五五六 - 一六三〇
江戸時代前期の伊勢国津藩主。幼名与吉、通称与右衛門。弘治二年(一五五六)生まれる。近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の地侍藤堂源助虎高の次男。母は多賀良氏の女とら(妙青夫人)。元亀元年(一五七〇)浅井長政に属し姉川の戦に従軍、その後阿閉政家、磯野員昌、佐和山城主織田信澄と主を変えた。天正四年(一五七六)羽柴秀長に仕え、播州三木城攻め、但馬の一揆退治に功を挙げ、さらに伊勢峯および亀山城攻略、賤ヶ岳の戦、小牧・長久手の戦等々の戦功で同十三年一万石、同十五年九州征伐の軍功で佐渡守、はじめて紀州粉河二万石の城主となった。秀長の没後は子秀俊に仕えたが、秀俊も没し、一時高野山に入った。しかし、豊臣秀吉の懇命によりその直臣となり文禄四年(一五九五)伊予板島(宇和島)七万石、文禄・慶長の朝鮮出兵に水軍を率いて従軍。慶長の役では巨済島の海戦で朝鮮水軍を全滅させたが、李舜臣が再び将となったため苦戦した。再出兵の際の功により伊予国で一万石加増。一方、高虎はすでに天正十五年徳川家康の伏見第築造を機として家康に接近、朝鮮出兵中も家康より手紙が寄せられ、慶長四年(一五九九)先んじて弟正高を江戸に人質に出すなど家康の信任篤く、同五年関ヶ原の戦に東軍左縦隊として小早川秀秋・大谷吉継の軍を破り、この戦功で同年十二万石加増、伊予今治二十万石の大名となった。同十一年備中国で二万石加増、和泉守、同十三年伊賀一国と中部伊勢で二十二万九百五十石津城主に転封、この転封は大坂表非利の際は家康は上野城へ引取、秀忠は彦根城に入り防御の配慮(『高山公言行録』)であったといわれる。高虎は伏見・丹波亀山城などの築城に従事したが、同十六年大坂方に備えて上野・津城の大修築を行なった。上野の五層の天守は暴風により倒壊したが同十八年竣工、津・上野の城下町も整備した。大坂夏の陣に河内路の先鋒となり、八尾で長宗我部盛親と苦闘し、真田幸村のため危険に瀕した家康を救うなど戦功を挙げ、元和元年(一六一五)伊勢国四郡のうちで五万石、さらに同三年多年の忠勤で伊勢田丸五万石増封され三十二万三千九百五十石、同五年徳川頼宣の和歌山転封に伴い、田丸領は大和・山城の内五万石と交換になった。また日光東照宮造営、徳川秀忠の女東福門院の入内などにも奔走し寛永三年(一六二六)少将となった。晩年失明し寛永七年十月五日没。七十五歳。高虎は家康・秀忠への忠勤と巧みな処世術により津藩祖として藩政の基礎を築いた。高虎時代の初期藩政の特色は年貢・夫役の確保のため定十三ヵ条、家・人・馬改め、百姓家付帳の作成、百姓逃散・一揆防止のため十人組組織、平(ならし)高実施、あるいは土着郷士懐柔のため伊賀出身の家臣保田采女に藤堂姓を与え、伊賀者と称せられた忍者を採用し、元和九年松平忠直の変に備えて農兵五十人を募り無足人と称する農兵隊組織の起源を作った。高虎は文学・茶の湯・能楽を嗜み、子の高次に与えた太祖遺訓十九条が知られる。藩祖高山公と称され、江戸上野の寒松院(東京都台東区上野動物園内)に葬る。法号寒松院殿道賢高山権大僧都。
[参考文献]
喜田村矩常編『公室年譜略』(東京大学史料編纂所蔵)、『高山公実録』(上野市立図書館蔵)、藤堂高文編『宗国史』、藤堂高兌『補註国訳聿脩録』、津坂孝綽編『太祖創業志』、『寛政重修諸家譜』九〇〇、新井白石『藩翰譜』七下(『新井白石全集』一)、『津市史』一、七里亀之助『ふじの生涯』、林泉『藤堂高虎公と藤堂式部家』
(杉本 嘉八)


藤堂高虎花押
トウドウタカトラカオウ
藤堂高虎花押



改訂新版 世界大百科事典
藤堂高虎
とうどうたかとら
1556-1630(弘治2-寛永7)

江戸初期の外様大名。伊勢津藩主。近江国に生まれる。浅井長政,織田信澄に仕えたあと,羽柴(豊臣)秀長の家臣となり,賤ヶ岳の戦をはじめとして数々の軍功を挙げる。1587年(天正15)従五位下佐渡守に叙任。文禄の役には秀長の子秀俊に代わって出兵し,水軍を指揮。95年(文禄4)秀俊の死にあって高野山に入るが,豊臣秀吉に召され伊予宇和島7万石を得た。慶長の役にも朝鮮に渡海。秀吉の死後は徳川家康に近づき,関ヶ原の戦では東軍に属し,福島正則らと岐阜城攻略にあたる。戦後,伊予半国20万石を得,今治を居城とした。1606年(慶長11)2万石を備中で加増され,この年官名を和泉守と改める。08年伊勢津22万石に転封。大坂の陣では,大和筋の先鋒として活躍,戦後,大和,山城,下総で加増され,伊勢,伊賀と合わせて32万石余を領した。加藤清正とともに当代きっての城普請の名人でもあり,居城となった諸城のほか,1601年には近江膳所(ぜぜ)城,06年には江戸城,08年には丹波篠山城,20年(元和6)には大坂城の縄張りを,家康,秀忠の命によって行っている。さらに大坂の陣の軍議にあずかったり,秀忠の娘和子(東福門院)の入内につき朝廷との交渉をまかされるなど,外様大名でありながら,家康,秀忠の信任はあつかった。25年(寛永2)侍従,26年少将に昇進。法号は高山道堅寒松院,墓所は上野寒松院。
[藤井 譲治]



日本大百科全書(ニッポニカ)
藤堂高虎
とうどうたかとら
[1556―1630]

安土 (あづち)桃山・江戸前期の大名。津 (つ)(安濃津 (あのつ))藩祖。父虎高は、近江 (おうみ)国(滋賀県)の郷士三井氏の次男で、犬上 (いぬかみ)郡藤堂村(現、同郡甲良 (こうら)町)の藤堂氏を継いだ。高虎は初め与吉 (よきち)と称し、浅井氏に属して15歳で初陣、21歳で木下秀長 (ひでなが)に300石を給され、与右衛門 (よえもん)となる。容貌 (ようぼう)偉大で身長6尺3寸(約190センチメートル)といわれた。やがて豊臣 (とよとみ)秀吉に認められ、1585年(天正13)紀州一揆 (いっき)鎮圧の功で1万石になり、87年島津征圧の功で2万石に上昇して紀州粉川 (こかわ)(和歌山県紀の川市粉河)の主となった。北条征圧、文禄 (ぶんろく)の役に参戦し、帰国して高野山 (こうやさん)に出家したが秀吉に下山を命じられ、伊予(愛媛県)宇和島 (うわじま)7万石の藩主になった。慶長 (けいちょう)の役にも出陣した。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して今治 (いまばり)城主20万石、従 (じゅ)四位下、和泉守 (いずみのかみ)となった。1608年(慶長13)伊賀(三重県)全国と伊勢 (いせ)国(三重県)安濃 (あの)・一志 (いちし)郡に20万石余を与えられ、安濃津(津市南部)に入城、15年(元和1)、17年伊勢国内で各5万石を増封され(のち5万石を山城 (やましろ)・大和 (やまと)国の一部と交換)、伊予国越智 (おち)郡内の2万石とあわせ計32万3951石の外様 (とざま)大名となった。居城を津に置いて領地を支配したが、伊賀上野 (うえの)にも城を築いて有事に備えた。

[深谷克己]



藤堂高虎[百科マルチメディア]
藤堂高虎[百科マルチメディア]

「藤堂高虎画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
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藤堂高虎の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 627
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検索コンテンツ
1. 藤堂高虎画像
日本大百科全書
安土あづち桃山・江戸前期の大名。津つ(安濃津あのつ)藩祖。父虎高は、近江おうみ国(滋賀県)の郷士三井氏の次男で、犬上いぬかみ郡藤堂村(現、同郡甲良こうら町)の藤
2. 藤堂高虎
世界大百科事典
1556-1630(弘治2-寛永7) 江戸初期の外様大名。伊勢津藩主。近江国に生まれる。浅井長政,織田信澄に仕えたあと,羽柴(豊臣)秀長の家臣となり,賤ヶ岳の戦
3. とうどう‐たかとら【藤堂高虎】
日本国語大辞典
安土・桃山時代から江戸初期の武将。近江国(滋賀県)の人。藤堂藩初代藩主。浅井長政、羽柴秀長に仕え軍功をたてた。のち秀吉に招かれ、その死後家康につき、関ケ原の戦い
4. とうどうたかとら【藤堂高虎】画像
国史大辞典
新井白石『藩翰譜』七下(『新井白石全集』一)、『津市史』一、七里亀之助『ふじの生涯』、林泉『藤堂高虎公と藤堂式部家』 (杉本 嘉八)
5. 藤堂高虎
日本史年表
1598年〈慶長3 戊戌〉 5・‐ 宇喜多秀家 ・ 毛利秀元 ・ 蜂須賀家政 ・ 藤堂高虎 ら,朝鮮より帰国(萩藩閥閲録)。
6. 藤堂高虎(とうどうたかとら)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 323ページ
7. とうどう-たかとら【藤堂高虎】
日本人名大辞典
1556−1630 織豊-江戸時代前期の大名。弘治(こうじ)2年1月6日生まれ。浅井長政,羽柴秀長,豊臣秀吉につかえる。秀吉没後は徳川家康にちかづき,関ケ原の戦
8. 藤堂高虎[文献目録]
日本人物文献目録
百年祭紀要刊行会(編刊)『藤堂高虎并先賢三十人列伝』高山公三百年伊賀大祭会(編刊)『藤堂高虎』山東逸人『藤堂高虎小伝』富水散史『藤堂高虎と板島城』兵頭賢一『藤堂
9. 藤堂高虎[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
藤堂高虎画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
10. 藤堂高虎花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. 藤堂高虎記(著作ID:1071018)
新日本古典籍データベース
とうどうたかとらき 高虎記 伝記 
12. 藤堂高虎公書記(著作ID:474135)
新日本古典籍データベース
とうどうたかとらこうしょき 記録 
13. 藤堂高虎二百箇条目書(著作ID:3621247)
新日本古典籍データベース
とうどうたかとらにひゃっかじょうもくしょ 高山様二百ケ条 法制 
14. 虎〓雑談(著作ID:195675)
新日本古典籍データベース
こよくぞうだん 藤堂高虎物語 藤堂高虎(とうどうたかとら) 雑記 
15. 敢国神社
日本大百科全書
(織田信長の伊賀攻略戦)で一時衰退したが、慶長けいちょう年間(1596~1615)に津つ藩主藤堂高虎とうどうたかとらによって復興され、伊賀地方の中心神社として繁
16. 敢国神社
世界大百科事典
ち伊賀国の一宮とされる。中世,南宮菩薩とよばれ,近世藤堂氏が藩主として入国以来あつく崇敬し,藤堂高虎は1614年(慶長19)に107石余の黒印領を寄進,祭事も復
17. あえくにじんじゃ【敢国神社】
国史大辞典
として崇敬された。天正九年(一五八一)織田信長の攻略の兵火にあったが、慶長十三年(一六〇八)藤堂高虎が藩主として入国以来、上野城鬼門守護として崇敬、社殿を造営、
18. あえくにじんじゃ【敢国神社】三重県:上野市/一之宮村
日本歴史地名大系
口径一尺三寸八分の釜には本願猪田清蔵、大工は依那具屋七郎で慶長三年(一五九八)四月吉日とある。藤堂高虎は伊賀へ封ぜられた翌慶長一四年より本格的再興にあたり、一二
19. あおのむら【青野村】岡山県:井原市
日本歴史地名大系
慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)に村名がみえ、後月郡に属し、高四〇九石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。寛永備中国絵図では山崎家治先知とあ
20. あおむら【阿保村】三重県:名賀郡/青山町
日本歴史地名大系
に、本尊十一面観音像(国指定重要文化財)や写本大般若経六〇〇巻などは寺脇の宝厳寺に移された。藤堂高虎が入国した慶長一三年の一月五日に「国中万うりかひ之儀、上野町
21. あさくちぐん【浅口郡】岡山県
日本歴史地名大系
治され、支配は錯綜していた。慶長一〇年(一六〇五)浅尾藩が佐方村(現金光町)などを、同一一年藤堂高虎が郡西部の一〇ヵ村、高一万三千七一石余を領有。元和元年(一六
22. あしじんじゃ【葦神社】三重県:阿山郡/大山田村/上阿波村
日本歴史地名大系
を祀り粟皇神と称したが、のちに三社を合祀して葦神社七王子宮と称した。江戸時代になり、初代藩主藤堂高虎の芳書一紙を納めて藤神君と称し八王子宮・八王子明神と称した。
23. あじまむら【味間村】奈良県:磯城郡/田原本町
日本歴史地名大系
臣大野治長領。元和元年(一六一五)大坂落城で一時幕府領(代官角南主馬)となり、同五年に津藩(藤堂高虎)領に編入された。のち枝郷の出屋敷村が分れ、元禄郷帳の村高は
24. あたごじんじゃ【愛宕神社】三重県:上野市/上野城下/愛宕町
日本歴史地名大系
伊賀国愛宕山伏拝処也 本願小天狗大峰三十六度 于時慶長十七年甲子三月吉日」とある。元和二年(一六一六)藩主藤堂高虎が大檀那となり、勝軍地蔵権現をあらたに勧請し、
25. あのぐん【安濃郡】
国史大辞典
領した。文禄元年(一五九二)豊臣秀吉はこれを没収して富田知信に与えたが、慶長十三年(一六〇八)藤堂高虎が伊勢・伊賀二国を領して安濃津に入ることにより、明応七年(
26. あのぐん【安濃郡】 : 安濃郡/(一)
国史大辞典
領した。文禄元年(一五九二)豊臣秀吉はこれを没収して富田知信に与えたが、慶長十三年(一六〇八)藤堂高虎が伊勢・伊賀二国を領して安濃津に入ることにより、明応七年(
27. あべぐん【阿拝郡】画像
国史大辞典
文明五年(一四七三)一条兼良の『藤川の記』にみえる。徳川家康は慶長十三年(一六〇八)定次を退け、藤堂高虎を封じた。土地の名産は、川魚菜のほか特記するものがない。
28. あべむら【阿部村】奈良県:桜井市/安倍・多武峯地区
日本歴史地名大系
。元和二年(一六一六)別所氏改易でいったん幕府領(代官竹村九郎右衛門)となるが、同五年津藩(藤堂高虎)領となり、廃藩置県に至った。「宗国史」によると「阿部」の「
29. あまざきじょうあと【甘崎城跡】愛媛県:越智郡/上浦町/甘崎村
日本歴史地名大系
」)。甘崎城は慶長期(一五九六―一六一五)まで存続しており、板島(宇和島)城主、のち今治城主藤堂高虎の支城になった。「宗国史」慶長六年の記事に「命騎将須知定信水
30. あんぼうむら【安房村】鹿児島県:熊毛郡/屋久町
日本歴史地名大系
に再興された。本仏寺から出た泊如竹は京師に出て藤原惺窩、のち帰藩して文之玄昌に朱子学を学び、藤堂高虎や島津光久の顧問・侍講となった。光久に仕えていた頃屋久杉の伐
31. いあく の 臣(しん)
日本国語大辞典
主君のそばにいて、はかりごとをめぐらす臣。参謀。*露命〔1954〕〈中山義秀〉一〇「藤堂高虎は家康、秀忠の帷幄(ヰアク)の臣だ」
32. 帷幄(いあく)の臣(しん)
故事俗信ことわざ大辞典
補佐する下臣。参謀。帷幄をめぐらした陣の中にいることからいう。 露命(1954)〈中山義秀〉一〇「藤堂高虎は家康、秀忠の帷幄(ヰアク)の臣だ」
33. いうむら【藺生村】奈良県:山辺郡/都〓
日本歴史地名大系
慶長から元和元年(一六一五)にかけて旗本筒井正次(郡山城番)領。のち幕府領(代官間宮三郎右衛門)、同五年津藩(藤堂高虎)領、寛文九年(一六六九)久居藩(藤堂高通
34. 伊賀[市]
世界大百科事典
城したのが始まりであり,定次改易後,1608年に伊予国今治から伊賀・伊勢22万石に封じられた藤堂高虎が,現在に続く市街地の基盤をつくった。高虎は伊勢の津城を平時
35. 伊賀(市)画像
日本大百科全書
られる。中世は神宮領、山城石清水八幡宮領、南都興福寺領などがあった。 1608年(慶長13)藤堂高虎が伊勢国の津に入部、交通の要衝に位置する上野城(城址は国指定
36. いがぐん【伊賀郡】
国史大辞典
た。同十三年豊臣秀吉は筒井定次を伊賀に封じたが、徳川家康は慶長十三年(一六〇八)これを退けて藤堂高虎を領主とした。二代目高次は寛文十年(一六七〇)当郡阿保と上野
37. 伊賀国画像
日本大百科全書
の世には1585年筒井つつい定次が封ぜられ、初めて上野に築城、かわって1608年(慶長13)藤堂高虎とうどうたかとらが入封した。かくて上野は、津藩伊賀10万石の
38. 伊賀国
世界大百科事典
に居城を築いた。定次は関ヶ原の戦で東軍に属したが,1608年(慶長13)改易となり,伊予から藤堂高虎が入封した。同年9月に高虎は上野城に入ったが,本城を伊勢津城
39. いがのくに【伊賀国】画像
国史大辞典
同十三年には、豊臣秀吉は筒井定次を伊賀の大名に封じ上野城を築かせた。慶長十三年(一六〇八)定次にかわって藤堂高虎が、伊予国今治から三十二万石の大名として、伊賀お
40. いがのくに【伊賀国】三重県
日本歴史地名大系
具申され、ついに同一三年改易された。〔藤堂氏時代〕慶長一三年外様大名とはいえ、家康の信望厚かった藤堂高虎が伊勢・伊賀の大名として移封された。高虎は伊賀は西藩の咽
41. 伊賀者
日本大百科全書
屋敷から後の南・北伊賀町に替地移転を命ぜられた。 一方、故地の伊賀は、1608年(慶長13)藤堂高虎とうどうたかとらの所領となった。高虎は、大坂夏の陣に伊賀者5
42. 伊賀焼画像
日本大百科全書
天正9)の『天王寺屋会記』であり、この時期この地方を領有した筒井定次さだつぐ、そして交替した藤堂高虎とうどうたかとら・高次父子の時代、天正てんしょう・文禄ぶんろ
43. 伊賀焼
世界大百科事典
まきやま),丸柱,伊賀城内にあり,1585年(天正13)に筒井定次,1608年(慶長13)に藤堂高虎が領主として入部してからは,俗に〈筒井伊賀〉とか〈藤堂伊賀〉
44. いけのうちむら【池ノ内村】奈良県:桜井市/安倍・多武峯地区
日本歴史地名大系
山右近領。村高四二六・六二石は文禄検地と同じ。検地奉行は御牧景則。元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領に編入され廃藩置県に至る。「宗国史」には「池内村」とあり
45. 生駒騒動
日本大百科全書
松藩主生駒家で起こった御家おいえ騒動。4代藩主高俊たかとしは幼少で家督相続をしたため、外祖父藤堂高虎とうどうたかとらが後見役を務めていた。重臣前野助左衛門、石崎
46. 生駒騒動
世界大百科事典
ついだ。後見役に外祖父にあたる伊勢津藩主藤堂高虎が命じられた。その後藩政の主導権をめぐって,国家老生駒将監と前野助左衛門・石崎若狭とが争い,前野と石崎は藤堂高虎
47. いこまそうどう【生駒騒動】
国史大辞典
六二一)六月五日、父正俊のあとを嗣いだ。年わずかに三歳(一説に十一歳ともいう)。勢州津の城主藤堂高虎は、外祖父の故をもって幕府より後見を命ぜられた。生駒家では正
48. いこま-たかとし【生駒高俊】
日本人名大辞典
生駒正俊の子。父の死により元和(げんな)7年11歳で讃岐(さぬき)高松藩主生駒家3代となり,母の父藤堂高虎とその子高次が後見した。家臣間の対立抗争(生駒騒動)が
49. いこま-まさとし【生駒正俊】
日本人名大辞典
1586−1621 江戸時代前期の大名。天正(てんしょう)14年生まれ。生駒一正の長男。妻は藤堂高虎の娘。天正20年から豊臣秀吉にしたがう。関ケ原の戦いでは祖父
50. 射込み
日本大百科全書
シソの葉と実などを細かに切って詰め込み、みそ漬けにしたもので、1年後に用いる。戦国時代の武将藤堂高虎とうどうたかとらが創作した陣中食であるという。宮崎県の郷土料
「藤堂高虎」の情報だけではなく、「藤堂高虎」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
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一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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