1. カルバン画像
日本大百科全書
著作集』Corpus Reformatorum中に『カルバン著作全集』Calvini Opera Omniaとして収められている。 カルバンは教会権の自律性を確
2. カルバン(Jean Calvin)
世界大百科事典
時の教養人の例にならってラテン語化してカルウィヌスCalvinus,さらにフランス読みにしてカルバンという。 生涯 ピカルディーの中産階級の出。若年でパリ大学に
3. カルバン
日本国語大辞典
(Jean Calvin ジャン─)フランスの宗教改革者。キリスト教のカルバン派の祖。スイスのジュネーブで宗教改革を遂行し、一般市民にまで及ぶ一種の神権政治を
4. カルヴァン ジャン
世界文学大事典
フランスの宗教改革者。北フランスのピカルディー地方ノワイヨンに生まれ,パリ,オルレアン,ブールジュの各大学で神学,法学を修め,さらにフランソワ1世の創設した王立
5. カルバン‐しゅぎ【─主義】
日本国語大辞典
〔名〕カルバンの教説に基づくキリスト教のプロテスタント主義。聖書を最高の権威と考え、教会の建設を行ない、厳格な教会規程によって、近代社会の成立に貢献した。カルビ
6. カルヴァン主義
世界文学大事典
宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想またその流れを汲む宗教的・政治的・経済的・社会的思想。聖書を最高の権威とし,人間の罪を徹底して追求し,キリストの十字架による罪
8. ひかる‐ばん【光盤】
日本国語大辞典
〔名〕機械工作用具の一つ。平削盤(ひらけずりばん)の別称。鉋盤(かんなばん)。
9. ローカル‐ばん【─版】
日本国語大辞典
〔名〕新聞で、各地方のニュースをその土地の読者に伝えるために全国紙の一部に設けた紙面。地方版。
10. ローカル‐ばんぐみ【─番組】
日本国語大辞典
、特定の地域だけを対象に放送するテレビやラジオの番組。ロー
カルバンミ
11. アウクスブルクの宗教和議
世界大百科事典
た。しかし,これは一種の政治的妥協であり,ドイツ国民一般に信教の自由を保障したものではない。カルバン派など,ルター派以外のプロテスタントがこの取決めから排除され
12. アウクスブルクの和議
日本大百科全書
れることになっていた。この和議によってドイツの宗教的対立からくる紛争はいちおう解決されたが、カルバン派などルター派以外のプロテスタントを認めず、カトリック側にや
13. アルトゥジウス(Johannes Althusius)
世界大百科事典
exemplis sacris et profanis illustrati》(1603)は,カルバンの神学に立脚した自然法論,当時のドイツの身分制議会をふまえ
14. アルミニウス(Jacobus Arminius)
世界大百科事典
命中は決定的に否認されるに至らなかった。みずからはカルバンの神学を最良のものと考えていたが同一路線を継いだとは言いがたい点もある。またカルバン以後のカルビニズム
15. アルミニウス(Jacobus Arminius)
日本大百科全書
1519―1605)のもとで神学を学ぶ。1588年アムステルダムで牧師となり、教会当局の命令で、カルバンの厳格な二重予定説を弁護するために研究するが、しだいにこ
16. アンリ(4世)画像
日本大百科全書
ダルブレ(ナバール王妃)の子として、1553年12月13日ベアルンに生まれる。幼少のころからカルバン主義の教育を受け、第三次宗教戦争(ユグノー戦争)のとき新教徒
17. イザベラ・バード 極東の旅 2 83ページ
東洋文庫
も含まれています。 論文が読み終えられた後、会長から次のような挨拶があった。――かつての同志カルバン・ベイバー氏やギル大尉の亡き今、ビショップ夫人が最近訪れた山
18. イザベラ・バード 極東の旅 2 288ページ
東洋文庫
修整が施されていない点でもよい。本書第1巻の『極東の風景』訳注(43)参照。(53)エドワード・カルバン・ベイバー。一八四三年に生まれ一八六六年以後中国で活動し
19. イザベラ・バード 極東の旅 2 445ページ
東洋文庫
フランス ②95,235,238,249 フリドルフ ②158 フルダーズベ ②194 ベイバー氏,カルバン ②50,76,83 白河 ②14,257,260
20. 市
世界大百科事典
ときに宴会や祭り,喜捨,寄進という形で蕩尽し,彼岸における救いを祈願した。このような関係は16世紀にルターとカルバンの出現によって破られることとなる。現世におけ
21. ウェストファリア条約
日本大百科全書
教会領については、1624年の状態に戻すことが決められ、また1555年のアウクスブルクの和議で否認されたカルバン派もルター派と同じ資格で承認された。そのほか、ド
22. ウェストファリア条約
世界大百科事典
基準の年としてその原状に戻すことが決められ,また1555年のアウクスブルクの宗教和議で認められなかったカルバン派は,ルター派と同等の資格で承認された。ドイツの帝
23. ウェストミンスター信仰告白
日本大百科全書
聖書原理に始まり最後の審判までキリスト教のほとんどすべての教義に及んでおり、その神観、予定説などにカルバン主義の信仰が強調されている。曽根暁彦
24. ウェストミンスター信仰告白
世界大百科事典
した長老主義に立つ信仰告白(議会承認は1648年)。スコットランド教会の影響を受け,正統的なカルバン主義を表明しているが,アイルランド聖公会の信仰告白の影響も示
25. ウェーバー(Bruce Weber)
日本大百科全書
スタートさせ、ボストンのメーカーに依頼されたカタログが広告写真の年度賞を受賞したことで認知されると、カルバン・クラインやラルフ・ローレンといったアメリカを代表す
26. ウォルケルス
日本大百科全書
父親の権威と敬虔けいけんな信仰に反発する息子の自由への欲求と空想がテーマ。窒息しそうに息苦しいカルバン派新教の生活環境にあっては、空想だけがそこから逃避する唯一
27. エグモント
日本大百科全書
スペイン人総督アルバ公の圧政に苦しむネーデルラントのためにこれに抗議、フェリペ2世に直訴に及んだ。カルバン派との協力も辞さないこの抵抗運動のために同志ホールン伯
28. エグモント伯(Lamoraal, Graaf van Egmond)
世界大百科事典
退去させ,65年国務評議会を代表してスペインに使いし,大貴族の意向を王に伝えた。66年下級貴族やカルバン派市民による反抗運動が激化してからは,ひたすら王に恭順の
29. エコランパディウス(Johannes Oecolampadius)
世界大百科事典
する教会指導者であり,宗教改革の一致をはかり,教会の国家からの自立のために努力した。その思想はカルバンに引き継がれた。渡辺 信夫 Oecolampadius,J
30. エティエンヌ父子
世界大百科事典
庇護を受け,その工房は人文主義者たちの交流の場となったが,宗教改革弾圧の激化と共に1550年カルバン指導下のジュネーブに亡命。同地で印刷出版をおこなう一方,風刺
31. エリザベス(1世)
日本大百科全書
、ユグノー支援のためフランスに派兵したが、結局目的を果たさずに終わった。スコットランドでは、カルバン主義者の扇動に発した反乱に武力介入、エジンバラ条約を成立させ
32. エルランゲン
日本大百科全書
周囲のより大きな都市に挟まれ、長い間小都市として甘んじてきたが、1686年のフランスのユグノー(カルバン派の新教徒)の大量移住以降、発展した。道路網は格子状で、
33. オラニエ公ウィレム(1世)画像
日本大百科全書
のネーデルラント統治のやり方に反抗したが、反抗の主導権はしだいに多数の中・下層貴族、市民層、カルバン派らに移り、1566年聖像破壊運動が勃発ぼっぱつした。反乱鎮
34. オランダ画像
日本大百科全書
とくにEU内での調整的役割は重要である。生活水準は高いが、自然との戦いやカルビニズム(宗教改革者カルバンの神学から発展したプロテスタントの思想)を反映して、国民
35. オランダ画像
世界大百科事典
ーデルラントに波及し,ことに南部のフランドル(フランデレン),ブラバント地方の市民のあいだにカルバン主義が普及し,旧教を守護するカールは新教を禁止した。この時期
36. オランダ共和国画像
世界大百科事典
的なネーデルラントに集権的な統一的支配を導入しようとし,また,当時この地方に普及しつつあったカルバン主義を禁止してカトリック教会を擁護した。1555年カール5世
37. オランダ語
世界大百科事典
ラント支配が始まると,オランダ独立戦争(八十年戦争)が起き,南部はスペインの支配に下ったが,カルバン主義の根強い北部諸州は1581年独立を宣言する。ここで,ネー
38. オランダ史画像
日本大百科全書
独立を達成してネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)を建設した。共和国時代のオランダではカルバン主義(改革派教会)が正統的な信仰だったが、19世紀中にカトリ
39. オランダ独立戦争
日本大百科全書
設け、諸州に総督を配して中央集権的統治を推進し、またネーデルラントに浸透しつつある新教ことにカルバン主義を厳しく禁止した。1555年、カールは息子フェリペ2世に
40. オランダ美術
世界大百科事典
優位である。この国における彫刻芸術の全般的な不振については,良質の石材の欠如,16世紀後半のカルバン派の聖像破壊運動(イコノクラスム)による甚大な痛手,17世紀
41. オルレアン
日本大百科全書
令を公布する役割を果たした。宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発ぼっぱつすると、各地からユグノー(カルバン派の新教徒)が集結したので、旧教派のギーズ公フランソアの攻囲
42. オルレアン
世界大百科事典
,これに発する知的中心としての伝統は,1306年の大学の設立で頂点に達する。宗教改革の指導者カルバンも,ここで法学を学んだ。カペー朝のもとでは王領地に編入され,
43. 改革派教会画像
日本大百科全書
さすが、一般的には宗教改革の諸教会のうちで、スイスのツウィングリ、ことにカルバンの神学的伝統を継ぐ教会の流れの総称。一般に、カルバン派教会とよぶこともあるが、ど
44. 改革派教会
世界大百科事典
→宗教改革渡辺 信夫 Reformed Church カルバン派 ツウィングリ,H. ブツァー,M. エコランパディウス,J. カルバン,J. ブリンガー,J.
45. かいかくは‐きょうかい[‥ケウクヮイ]【改革派教会】
日本国語大辞典
〔名〕カトリック教会に対し、宗教改革の原理に基づくプロテスタント教会の総称。狭義には、ルター派教会に対し、カルバン主義の信仰に基づく教会をさす。カイカクハキョー
46. カイペル(Abraham Kuyper)
世界大百科事典
1837-1920 オランダのカルバン主義神学者,政治家。1863年以後ベーストBeesd,ユトレヒト,アムステルダムで牧師。72年,創設まもない反革命党の機関
47. カステリヨン
日本大百科全書
ジュネーブに亡命し古典語・聖書の教育に従事したが、聖書解釈についてカルバンと対立、バーゼルに移って苦しく孤独な生を送る。斬新ざんしん平易な聖書仏訳のほか、カルバ
48. カステリヨン(Sébastien Castellion)
世界大百科事典
宗教改革思想を抱いてジュネーブのカルバンのもとに身を寄せ,その創立にかかる高等学院(アカデミー)で古典語と聖書の教育に当たったが,旧約《雅歌》の解釈についてカル
49. カトリック改革
世界大百科事典
ルターやカルバンの宗教改革以前から存在していた,カトリック教会独自の自己改革,革新運動。カトリック改革は,ルターの出現以後,ルターに反対する反動としての反(対抗
50. カドワース
日本大百科全書
彼の認識論にはデカルトの影響が強いが、物心の二元論ではなく、精神的形成力の存在をも認めた点で異なる。道徳説ではカルバン派の主意説を退け、永遠なる道徳法の存在を認