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エリザベス1世

ジャパンナレッジで閲覧できる『エリザベス1世』の世界人名大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

岩波 世界人名大辞典
エリザベス1
Elizabeth I
1533.9.7~1603.3.24

イングランドおよびアイルランド女王 [1558/1603].

ヘンリー8世アン・ブーリンの娘としてロンドンに生まれ,議会の承認を得た父の遺言により,異母弟エドワード6世および異母姉メアリ1世につぐイングランド(およびアイルランド)王位継承者となる.アスカムの薫陶を受けてギリシア,ラテンの古典を学び,また仏・伊両語に通じた.メアリのカトリック復帰政策に対しワイアット(Tomas Wyatt 1521頃~54)が反乱を起こすと,陰謀に加担した嫌疑を受けて投獄された [1554]が,間もなく釈放され,隠棲して勉学に没頭した.姉の死後25歳で即位,フランスとの戦争をおさめ [59],財政の基礎を確立した.宗教については父ヘンリーの政策に復帰し〈国王至上法Act of Supremacy〉および〈礼拝統一法Act of Uniformity〉を再び制定し [同],メアリのカトリック復帰の諸法を廃して国教制度を再建,カトリックおよびピューリタンの両極端派を抑圧して中道をとった.廷臣レスターエセックス(2nd Earl)らを寵愛したが,長い治世を通じて賢相W.セシルウォルシンガムらを重用して,慎重な派閥操縦で国内治安を保った.また,諸国家間の葛藤に巻き込まれることを警戒して,スペイン王フェリーペ2世をはじめ君主らの求婚を却け,一生を独身で通し,海外のプロテスタント同胞の直接支援にも消極的であった.大陸の対抗宗教改革の進展とともに,国内では,北部のカトリック諸侯の反乱 [69-70]や,亡命中のメアリ・ステュアート擁立の陰謀 [72,86]などが相次ぎ,不穏の種は尽きなかった.他方で,神に祝福されたプロテスタント処女王としての自己イメージ創出は,スペイン無敵艦隊の撃退 [88]により劇的な成功をおさめ,〈よきベス〉の黄金時代の神話のもととなった.晩年は,独占権その他の問題で議会と対立し,寵臣エセックスのアイルランドでの失態などに悩まされるが,最期まで主導権を握り続け,死の床でスコットランド王ジェイムズ6世(ジェイムズ1世)を後継者に指名,テューダー朝最後の君主となった.



改訂新版 世界大百科事典
エリザベス[1世]
Elizabeth Ⅰ
1533-1603

イギリス,チューダー朝の女王。在位1558-1603年。ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンの子。1536年母が刑死し非嫡出子とされたが,44年には王位相続権を認められた。ルネサンス新学芸の影響下に成長し,幼時から聡明をもって聞こえた。弟エドワード6世治下では,王位をねらうノーサンバーランド公の陰謀を排し,姉メアリーの即位を助けた。54年ワイアットの反乱では姉により連座を疑われて一時入獄したが,ほどなく釈放され,58年メアリーの没後即位した。この前後各国からの求婚者を退け独身を言明し,大権の護持を誓う。59年礼拝統一法を発布して,前代メアリー治下のカトリック再興を元に戻して英国国教会を確立した。また他国の新教徒を援助する一方,両カトリック大国フランスとスペインの対立を巧みに操った。当時最大の問題はスコットランド女王兼フランス王太子妃メアリー・スチュアートの執拗なイングランド王位の要求であったが,これを退けた。この間スコットランドでは宗教改革が進行し,60年夫に死別した女王メアリーが帰国したのを機に同国に内紛が起こり,メアリーはイングランドに逃亡,エリザベスはこれを幽閉した。

 62年フランスに宗教戦争が起こり,同国からの干渉はやみ,今や最大の敵はスペインとなった。69年北部でカトリック貴族の反乱が起こり,70年教皇ピウス5世はエリザベスを破門した。71年には女王の暗殺,スペイン軍の侵攻を企てたリドルフィの陰謀が露見する。一方,海外でもスペインの圧迫が強まり,68年サン・フアン・デ・ウルア事件が起こり,ホーキンズ,ドレークらの海事活動が阻害される。アイルランドでも69年にマンスターの反乱が起きている。こうして87年バビングトンの陰謀が発覚するに及び,エリザベスもついに世論に抗しきれずメアリーを処刑する。これを機にスペインは翌年無敵艦隊を派遣するが,これは失敗に終わる。同年,長年の寵臣レスターが死に,95年にはホーキンズ,ドレークもカリブ海に水死,98年重臣セシルも逝く。同世代中生存者は女王1人となった。そこに起こるのが独占をめぐる議会との紛糾,若き寵臣エセックスの反乱と刑死(1601)であった。この頃より女王も弱り1603年リッチモンドに没する。王位は処刑されたメアリーの遺児スコットランド国王ジェームズ6世に移る。イングランド国王としてはジェームズ1世,すなわちスチュアート朝がここに始まる。

 治世はしばしば黄金時代,偉大な治世といわれる。シェークスピア,ベーコン,スペンサーなどにも象徴されるように,文運も隆盛を極めた。しかし,以上の評価には若干の留保が必要である。まず政治的にみても,同時期イギリスは決して強国ではない。スペイン,フランスという2大国間に挟まれて虚々実々,薄氷を踏むような外交を展開したのが実情であった。経済的にも繁栄期とはいいがたく,前代からの混乱を引き継ぎ,海外貿易も前後の治世と比べても異常な不調を示している。思想的にも新旧両派の対立は厳しく,国論の統一にはほど遠かった。しかし,このような情勢の中にあって,女王と政策当路者が,慎重にかつ勇断をもってこの危機を乗り切った点が評価される。すなわち島国,小国の安泰を確保するため外交的には徹底して勢力均衡の立場を堅持したこと,国論も左右の極論を排して国教会という中道を押し立てたこと,しかしまた生存のためには,内には思いきった経済立法,労働立法を行う一方,新産業の育成にも力を入れたこと,また外には海賊行為をも許した積極的な発展策をとったこと,などが挙げられる。ただし全治世期間を通じ,イギリスはまだ植民地はもっていない。

 女王が長い治世を全うしえたのは,長寿という天命であったかもしれない。しかし,この間独身を通し,権謀術数渦巻く派閥抗争の圏外に立ち,判断の自由を留保するには,相当の意志と知性を必要としたはずである。この困難な時代に大過なきをえたのは,やはり彼女の天稟であったと考えたい。文学もまたこのような人と社会を映す鏡であったればこそ,イギリス・ルネサンスの花,いや人類の知恵ともなったのである。
[越智 武臣]

[索引語]
Elizabeth Ⅰ メアリー・スチュアート リドルフィ エセックス伯 スチュアート朝


日本大百科全書(ニッポニカ)
エリザベス(1世)
えりざべす
Elizabeth Ⅰ
[1533―1603]

イギリスのチューダー朝5代目の女王(在位1558~1603)。愛称は「よき女王ベス」。9月7日に生まれる。父はヘンリー8世、母はアン・ブリン。幼少時から怜悧 (れいり)で、父王の寵愛 (ちょうあい)を受ける。アスカムRoger Ascham(1515―68)らについて人文主義の学問を修め、みごとな熟達度を示して、ルネサンス型君主の素地をつくった。フランス語、イタリア語なども早くから学習、自由に駆使できるだけの能力を備えた。3歳未満で生母を失い、同時に非嫡子とされる。1543年の議会制定法により、王位継承権を回復。弟エドワード6世の治世では、摂政サマーセット公の弟シーモアThomas Seymour(1508?―49)の陰謀に関係ありとみられ、姉メアリーのときにはワイアットの反乱に加担したとの嫌疑を受けて、苦境に陥る。1558年11月、姉死去の報をハットフィールド宮で入手、3日後に最初の枢密会議、セシルを秘書官長に任命、11月末ロンドン帰還、翌1559年1月戴冠 (たいかん)式を挙行、かくてエリザベスの治世が始まる。それはおおむね3時期に区分される。

[植村雅彦]

体制樹立期(即位時~1572年)

1559年の「国王至上法」と「礼拝統一法」をもって父王が樹立したイングランド教会を再建、国民の最大多数を帰服させるため中道主義をとった。1563年には「三十九か条」を制定、公布して、国教会の教義的立場を明らかにした。外交面では、前女王以来の対フランス戦争に終結をもたらした(1559年4月)が、カレーの譲渡を余儀なくされた。その回復を図る意図もあって、1562年秋から翌年夏まで、ユグノー支援のためフランスに派兵したが、結局目的を果たさずに終わった。スコットランドでは、カルバン主義者の扇動に発した反乱に武力介入、エジンバラ条約を成立させて、フランスの勢力を一掃し、ブリテン島統一の礎 (いしずえ)を築いた。夫のフランス王の死後フランスからスコットランドに帰国したメアリー・スチュアートは、エリザベスとの対立意識が強烈だったが、不倫の恋が災いしてイギリスに亡命(1568年5月)、生涯捕らわれの身となり、その本国スコットランドには親英的政府が成立した。内政面でも、エリザベス的施策が種々試みられ、1560年グレシャムの提案により銀貨の改鋳を命じ、1563年には「囲い込み取締り法」「職人法」「救貧法」を制定、急激な変革を抑えて経済、社会の安定を目ざした。1568年末、スペインの軍資金奪取が因となって暫時両国の国交が危殆 (きたい)に瀕 (ひん)することがあり、また、1569年には「北方諸伯の反乱」が起こり、エリザベス体制への公然たる敵意が示された。1570年2月にはついに女王への破門状が公にされ、これに乗じてリドルフィの陰謀が企てられた。いずれも体制側に加えられた試練といえるが、無事にこれを切り抜けてその治世の堅固なことを実証しえた。

[植村雅彦]

体制安定期(1572~85年)

1560年代末以降の危機は、体制の安定とそれに伴う平和をもたらすことにかえって効果があり、1572年4月にスペインを仮想敵としてフランスと結ばれたブロア条約は、一つの指標たりうる。この間、女王は国民敬慕の的となり、毎年11月17日には、その即位を記念して盛大な式典が挙行された。内乱のおそれなく、対外戦争の大事もなく、ユグノー戦争のさなかにあるフランスと比べて禍福の差が顕著であったといえよう。1573~78年の5年間はとりわけ安穏であったとされる。しかし忍び寄る不安の影も否定しがたく、国教会に対する新旧両派の攻撃はしだいに激化し、メアリー・スチュアートの存在はやはり一つの禍根となった。外からはスペインの重圧が大きくなるのみで、女王の後継者は未定という状況であった。

[植村雅彦]

体制苦難期(1585年以降)

女王の安危にかかわるバビングトン事件が発覚し、その一味であることが明らかになったメアリーは、ついに処刑された(1587年2月)。オランダの独立達成のため、イギリスの歩兵、騎兵がネーデルラントに派遣され、これがそれまでの海上における角逐と相まって、ついにイギリス・スペイン関係は戦争状態に突入した。1588年のスペインのアルマダ(無敵艦隊)に対する勝利により、女王の名誉は大いに高揚したが、戦争は長期化し、財政は苦しくなった。加えて、1594年から5年間連続して不作のため、穀物価格が騰貴して庶民の困窮が増大、戦争による過重な租税負担および仮借なき徴兵と相まって庶民の反抗心を刺激、諸所で暴動を引き起こした。老いたる女王を核とする政府側は、陳腐な理念より脱却しえず、そのため法令をつくっても有効適切なものになりえなかった。1595年アイルランド北部にスペインの使嗾 (しそう)に基づき反乱が勃発 (ぼっぱつ)、1598年ごろには全島に拡大して重大化した。さらに1601年2月、その鎮圧に失敗した寵臣 (ちょうしん)のエセックス伯が反逆し、女王を悲しませた。同年10月に開会された議会は、「独占特許」を論じて異常に興奮、女王の実質的な譲歩とみごとな演技とが事態を収拾しえた。その際の国民に対する献身的愛情を強調した名演説は治世の最後を飾るとされる。1603年3月24日、69歳の生涯を閉じた。女王の死とともにチューダー朝は終わり、スコットランドからメアリー・スチュアートの子ジェームズ6世が、ジェームズ1世として即位し、スチュアート朝を開いた。

[植村雅彦]

統治の特色

エリザベスは、君主権の尊厳を重んじ、女王の威風あたりを払うことに意を用いた。統治にあたっては、つねに議会の協力を求めたが、大権事項にそれが関与することを許さなかった。人心の掌握には大いに努力するところがあり、しきりに試みられた巡幸はこのためのものである。好悪の情は著しいほうだったが、臣下の使い方を誤ることがなかった。生涯独身を通した。しかし、けっして木石の人ではなく、恋の炎に身を焦がすこともあり(ロバート・ダドリーとの恋は適例)、また多数の求婚者に言い寄られたが、自分と自国の立場からすべてを断念した。海上への発展に関心があり、ドレークらの海賊的行為を支援したのは公然の秘密である。

 また、好学心の強い女王の下で、文運の隆盛をみたのはいうまでもないが、その治世はイギリス・ルネサンスの極盛期にあたり、すでにシェークスピアの登場がみられる。

[植村雅彦]

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1. エリザベス(1世)
日本大百科全書
イギリスのチューダー朝5代目の女王(在位1558~1603)。愛称は「よき女王ベス」。9月7日に生まれる。父はヘンリー8世、母はアン・ブリン。幼少時から怜悧れい
2. エリザベス[1世](Elizabeth Ⅰ)
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1533-1603 イギリス,チューダー朝の女王。在位1558-1603年。ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンの子。1536年母が刑死し非嫡出子とされたが,
3. エリザベス1世(Elizabeth I)
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〔1533.9.7~1603.3.24〕 イングランドおよびアイルランド女王[1558/1603].ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘としてロンドンに生まれ,議会
4. アスカム(Ascham, Roger)
世界人名大辞典
12.30〕 イギリスの人文学者.母校ケンブリッジ大学ギリシア語講師[1538頃],のちエリザベス1世の家庭教師[48],メアリ1世のラテン語秘書[53]となる
5. あだ名
日本大百科全書
その容貌から「リャボイ」(あばた面)とよんでいた。バージン・クイーンの名のある独身のイギリス女王エリザベス1世にちなんで名づけられたアメリカ合衆国のバージニア州
6. アメリカ合衆国画像
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南部はアメリカのなかでもっとも古い歴史をもち,また近年きわめてめざましい発展を続けている地域である。エリザベス1世にちなんで名づけられた北アメリカ最初のイギリス
7. アルマダ
日本大百科全書
スペインとイングランドは北ヨーロッパと大西洋の2方面でことごとくその利害が衝突した。1587年2月、エリザベス1世がカトリックのスコットランド女王メアリー・スチ
8. アレン(Allen, William)
世界人名大辞典
イギリスの聖職者.オックスフォード大学に学び,そのセント・メアリズ・ホール学寮長となった[1556]が,エリザベス1世即位[58]の後,カトリック信仰の故に大陸
9. アングリカン・チャーチ
世界大百科事典
維持する教会の基礎を固めた。メアリー1世の時代に一時ローマ教会に復帰した英国国教会は,8年エリザベス1世の登位によって,ふたたびローマより独立した国民教会として
10. アンドリューズ(Andrewes, Lancelot)
世界人名大辞典
英国教会の神学者.チチェスター[1605],イーリー[09],ウィンチェスター[18]の主教となる.エリザベス1世,ジェイムズ1世②の信任が厚く,また多方面の才
11. アン・ブリン
日本大百科全書
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12. アン・ブーリン(Anne Boleyn)
世界大百科事典
アンは33年1月ひそかに国王と結婚し,5月クランマー大主教はこの結婚を合法と宣言した。9月には女児(のちのエリザベス1世)が誕生する。しかし男児出生を望む国王は
13. アン・ブーリン(Anne Boleyn)
世界人名大辞典
離婚しようとして教皇庁と対立し,イングランド宗教改革の発端をなした.王と結婚[33]後,まもなく娘(のちのエリザベス1世)を生んだが,流産が続き,男子後継者の誕
14. アーガイル(Argyll, Archibald Campbell, 5th Earl of)
世界人名大辞典
に寄与した.初期にはギーズのメアリのプロテスタント暴動鎮圧を支援する[1559]が,のちエリザベス1世と結託[同-60].スコットランドのメアリ・ステュアート治
15. イギリス画像
日本大百科全書
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16. イギリス
世界大百科事典
ッパ大陸の西岸に近接する人口の多い小島国であることによって,長年にわたり規定されてきた。エリザベス1世(在位1558-1603)以降のイギリスは海外に発展し,巨
17. イギリス音楽
日本大百科全書
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18. イギリス音楽
世界大百科事典
明らかである。 黄金時代 16世紀を通じて栄えたチューダー朝は,音楽好きのヘンリー8世とエリザベス1世を生み出し,イギリス音楽史上最大の黄金時代を迎えた。ヘンリ
19. イギリス史画像
日本大百科全書
ューダー朝に絶対主義の時代を迎える。以上の中世史から近代への移行期に位置づけられるのが、エリザベス1世の治世とスチュアート朝である。 17世紀に戦われた二つの革
20. イギリス史(年表)
日本大百科全書
修道院解散(~1539)1549ロバート・ケット一揆1555メアリー1世のプロテスタント処刑始まる1558エリザベス1世即位(~1603)1559国王至上法、礼
21. イギリス美術
世界大百科事典
ルネサンス様式と後期ゴシック(垂直様式)の混交した16世紀前半の〈チューダー様式〉の後,エリザベス1世の時代(1558-1603)には,イタリア風のシンメトリー
22. イギリス文学
世界大百科事典
品にはイタリアの空の明るさと世俗性,フランス宮廷の優美と洒脱がたっぷり見られる。 展開 エリザベス1世の治世は,イギリス・ルネサンスをその絶頂期に導く。英詩も,
23. イタリア戦争画像
世界大百科事典
,1559年,アンリ2世とスペイン王フェリペ2世,そしてフランスと結んでいたイギリス女王エリザベス1世との間にカトー・カンブレジの和約が結ばれ,幕を閉じることに
24. イングランド教会
日本大百科全書
1554年、メアリー1世治世下に国教会のローマ・カトリック教会への復帰が実現したが、58年のエリザベス1世(在位1558~1603)の登位とともに、ふたたび「教
25. ウィンザー(イギリス)
日本大百科全書
~87)の時代につくられた城はテムズ川の南岸に位置する。16世紀にはペストの流行を避けたエリザベス1世がこの城に滞在した。またビクトリア女王夫妻をはじめ多くの歴
26. ウィンザーの陽気な女房たち
日本大百科全書
イギリスの劇作家シェークスピアの喜劇。時のイギリス女王エリザベス1世の「恋に悩むフォルスタッフが見たい」との要望にこたえ、わずか2週間で書き上げたといわれる。1
27. ウェントワース(Wentworth, Peter)
世界人名大辞典
l W. 1533~93)と共に庶民院の権利や発言の自由を主張,王位継承問題について女王エリザベス1世を批判して数度入獄,獄中死した.
28. ウォルシンガム(Walsingham, Sir Francis)
世界人名大辞典
学[1548-50],グレイ法曹学院[52]で学び,メアリ1世の治世は海外に亡命するが,エリザベス1世即位と共に帰国して庶民院議員となり[59],W.セシルを助
29. 改訂新版 英国史 217ページ
文庫クセジュ
;ルターの宗教改革 1534 ヘンリー8世の国王至上法成立(イギリス国教会の独立始まる) 1558 エリザベス1世(~1603)即位. 1588 スペイン無敵艦
30. 英語の語彙 6ページ
文庫クセジュ
ケ教授の学界での地位を確固たらしめたものは『アルフレッドの時代における動詞文の構造』と『エリザベス1世の同時代人トーマス・サックヴィル ―― 人と作品』の2大著
31. 英語の語彙 197ページ
文庫クセジュ
82, 86, 88, 92 エラスムス Erasmus, Desiderius 81 エリザベス1世 Elizabeth I 4 エリフスリス Ælfthry
32. エジャトン(Egerton, Thomas, Baron Ellesmere, Viscount Brackley)
世界人名大辞典
イギリスの法学者,政治家.オックスフォード大学,法曹学院に学び,法廷弁護士となる[1575].エリザベス1世に認められて勅選弁護士となり,法務次官[81],法務
33. エセックス(Essex, Robert Devereux, 2nd Earl of)
世界人名大辞典
ンダに出征して勇名を得[1586],主馬頭に任ぜられ[87],レスター伯に代わって老年のエリザベス1世の寵臣となった.F.ドレイクらとスペインに遠征[89],フ
34. エセックス(Robert Devereux, 2nd Earl of Essex)
日本大百科全書
1586年オランダでスペイン軍と戦い、勇名をはせ、翌年主馬頭に任じられて、継父レスター伯にかわってエリザベス1世の晩年の寵臣ちょうしんとなる。フランスでプロテス
35. エセックス伯(Robert Devereux, 2nd Earl of Essex)
世界大百科事典
1566-1601 イギリスの軍人。ケンブリッジ大学卒。エリザベス1世の晩年,若くして宮廷の寵児となる。終始,対スペイン戦における強硬派を代表。1590年秘密結
36. エリザベス朝演劇[演劇]
イミダス 2018
経て、イギリスが政治的安定を得、経済の発展と海外進出を果たした時期に、演劇も盛んになった。エリザベス1世とその後継者のジェームズ1世はともに演劇を保護したので、
37. エリザベス様式
日本大百科全書
エリザベス1世の治政時代(1558~1603)に流行したイギリスの建築様式。チューダー様式とジェームス1世様式との間に挟まれた過渡的様式。依然としてゴシックの垂
38. エリザベス様式
世界大百科事典
エリザベス1世の治世(1558-1603)にイギリスの工芸・装飾にみられる様式。イギリスへのルネサンス様式の採り入れはヘンリー8世以来,H.ホルバイン(子)を宮
39. 扇
日本大百科全書
また1593年、フランス王アンリ4世妃は、12本のスペイン扇を残したことが記されている。イギリスの女王エリザベス1世(1533―1603)は箒型扇を愛好した。 
40. オニール(O'Neill, Hugh, 3rd Earl of Tyrone)
世界人名大辞典
支配権を認められる[80年代]が,次第にイングランドと対立,カトリックのスペインと通じてエリザベス1世に対する大規模な反乱を組織した[95-].ゲール氏族を率い
41. オニール家
世界大百科事典
た。息子のシェーン・オニールShane O'Neill(1530-67)は,コンの庶子でエリザベス1世が相続人と認めたマシューを滅ぼし,イギリス軍との戦いを続け
42. オラニエ公ウィレム(1世)画像
日本大百科全書
国の基礎が置かれた。ウィレムは、同盟を率いてスペインと戦い、ドイツ新教諸侯、イギリス女王エリザベス1世、フランスのユグノー派の援助を求めて外交交渉にあたり、新国
43. オランダ史画像
日本大百科全書
)の政治的指導とウィレムの息子、総督マウリッツの軍事的活躍などにより、さらにイギリス女王エリザベス1世の支援を受けて7州の軍事的解放に成功し、1609年スペイン
44. オランダ独立戦争
日本大百科全書
フェリペ2世に対する臣従拒否宣言をし、フランス王アンリ3世の弟アンジュー公やイギリス女王エリザベス1世を主権者に迎えようとしたが失敗し、結局7州が各自、州主権と
45. 音楽画像
世界大百科事典
改革によっても助長された。イギリスでは1534年の英国国教会成立に伴い,ヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけて,サービスserviceやアンセムanthe
46. オンス
日本大百科全書
)の16分の1で、28.35グラムである。トロイポンドは5760グレーンとして、16世紀エリザベス1世のとき法令として制定され、貴金属と薬品専用とされた。別に7
47. 海上保険
世界大百科事典
が移住し貿易を営んでいたが,海上保険も彼らによってイギリスに移入された。その後海上保険はエリザベス1世の手によってイギリス人の経営に移され,やがてイギリスの海外
48. 花卉園芸画像
日本大百科全書
1597年にはジョン・ジェラルドJohn Gerard(1545―1612)が独自の本草書を出した。彼はエリザベス1世に仕えて多くの園芸種のコレクションをもって
49. カクトアール
世界大百科事典
される。名はフランス語の〈caqueter(おしゃべりをする)〉に由来する。イギリスでもエリザベス1世のころ,ファージンゲール・チェアと呼ばれる肘掛けのない椅子
50. 仮装舞踏会
世界大百科事典
のヘンリー7世やヘンリー8世の時から祝祭が派手になり,イタリアの仮装舞踏会も入ってくる。エリザベス1世の時代にはページェントと呼ばれる市民的祝祭が最高潮に達し,
「エリザベス1世」の情報だけではなく、「エリザベス1世」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
范寛(世界人名大辞典・世界大百科事典)
名:中正 字:中立(仲立)中国北宋の画家.華原(現,陝西銅川)の人.性格が温厚で度量が大きかったことから「寛」とあだ名されるようになったという.在野の山水画家で,天聖年間 [1023-32]には,なお在世していたとされる
イブン・スィーナー(世界人名大辞典・世界大百科事典)
イスラーム哲学者,医学者.ブハラ(現ウズベキスタン)でサーマーン朝のペルシア人官吏の子として生まれ,イスラーム,ギリシア,インドの諸学,特に哲学,医学,数学,天文学などを極めた.サーマーン朝の王子を治療して宮廷に出入りし
ウィリアム1世(世界人名大辞典・世界大百科事典)
1027(28)~87.9.9イングランド王 [1066/87].ノルマンディー公ロベール1世(悪魔公)(Robert I le Diable †1035)の庶子.父が没するとノルマンディー公ギヨーム2世(Guillaume II)となり [1035-87],ハロルド2世がイングランド王に即位する [66]と,先王エドワード(証聖王)による
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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