イングランドおよびアイルランド女王 [1558/1603].
イギリス,チューダー朝の女王。在位1558-1603年。ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンの子。1536年母が刑死し非嫡出子とされたが,44年には王位相続権を認められた。ルネサンス新学芸の影響下に成長し,幼時から聡明をもって聞こえた。弟エドワード6世治下では,王位をねらうノーサンバーランド公の陰謀を排し,姉メアリーの即位を助けた。54年ワイアットの反乱では姉により連座を疑われて一時入獄したが,ほどなく釈放され,58年メアリーの没後即位した。この前後各国からの求婚者を退け独身を言明し,大権の護持を誓う。59年礼拝統一法を発布して,前代メアリー治下のカトリック再興を元に戻して英国国教会を確立した。また他国の新教徒を援助する一方,両カトリック大国フランスとスペインの対立を巧みに操った。当時最大の問題はスコットランド女王兼フランス王太子妃メアリー・スチュアートの執拗なイングランド王位の要求であったが,これを退けた。この間スコットランドでは宗教改革が進行し,60年夫に死別した女王メアリーが帰国したのを機に同国に内紛が起こり,メアリーはイングランドに逃亡,エリザベスはこれを幽閉した。
62年フランスに宗教戦争が起こり,同国からの干渉はやみ,今や最大の敵はスペインとなった。69年北部でカトリック貴族の反乱が起こり,70年教皇ピウス5世はエリザベスを破門した。71年には女王の暗殺,スペイン軍の侵攻を企てたリドルフィの陰謀が露見する。一方,海外でもスペインの圧迫が強まり,68年サン・フアン・デ・ウルア事件が起こり,ホーキンズ,ドレークらの海事活動が阻害される。アイルランドでも69年にマンスターの反乱が起きている。こうして87年バビングトンの陰謀が発覚するに及び,エリザベスもついに世論に抗しきれずメアリーを処刑する。これを機にスペインは翌年無敵艦隊を派遣するが,これは失敗に終わる。同年,長年の寵臣レスターが死に,95年にはホーキンズ,ドレークもカリブ海に水死,98年重臣セシルも逝く。同世代中生存者は女王1人となった。そこに起こるのが独占をめぐる議会との紛糾,若き寵臣エセックスの反乱と刑死(1601)であった。この頃より女王も弱り1603年リッチモンドに没する。王位は処刑されたメアリーの遺児スコットランド国王ジェームズ6世に移る。イングランド国王としてはジェームズ1世,すなわちスチュアート朝がここに始まる。
治世はしばしば黄金時代,偉大な治世といわれる。シェークスピア,ベーコン,スペンサーなどにも象徴されるように,文運も隆盛を極めた。しかし,以上の評価には若干の留保が必要である。まず政治的にみても,同時期イギリスは決して強国ではない。スペイン,フランスという2大国間に挟まれて虚々実々,薄氷を踏むような外交を展開したのが実情であった。経済的にも繁栄期とはいいがたく,前代からの混乱を引き継ぎ,海外貿易も前後の治世と比べても異常な不調を示している。思想的にも新旧両派の対立は厳しく,国論の統一にはほど遠かった。しかし,このような情勢の中にあって,女王と政策当路者が,慎重にかつ勇断をもってこの危機を乗り切った点が評価される。すなわち島国,小国の安泰を確保するため外交的には徹底して勢力均衡の立場を堅持したこと,国論も左右の極論を排して国教会という中道を押し立てたこと,しかしまた生存のためには,内には思いきった経済立法,労働立法を行う一方,新産業の育成にも力を入れたこと,また外には海賊行為をも許した積極的な発展策をとったこと,などが挙げられる。ただし全治世期間を通じ,イギリスはまだ植民地はもっていない。
女王が長い治世を全うしえたのは,長寿という天命であったかもしれない。しかし,この間独身を通し,権謀術数渦巻く派閥抗争の圏外に立ち,判断の自由を留保するには,相当の意志と知性を必要としたはずである。この困難な時代に大過なきをえたのは,やはり彼女の天稟であったと考えたい。文学もまたこのような人と社会を映す鏡であったればこそ,イギリス・ルネサンスの花,いや人類の知恵ともなったのである。
イギリスのチューダー朝5代目の女王(在位1558~1603)。愛称は「よき女王ベス」。9月7日に生まれる。父はヘンリー8世、母はアン・ブリン。幼少時から怜悧 (れいり)で、父王の寵愛 (ちょうあい)を受ける。アスカムRoger Ascham(1515―68)らについて人文主義の学問を修め、みごとな熟達度を示して、ルネサンス型君主の素地をつくった。フランス語、イタリア語なども早くから学習、自由に駆使できるだけの能力を備えた。3歳未満で生母を失い、同時に非嫡子とされる。1543年の議会制定法により、王位継承権を回復。弟エドワード6世の治世では、摂政サマーセット公の弟シーモアThomas Seymour(1508?―49)の陰謀に関係ありとみられ、姉メアリーのときにはワイアットの反乱に加担したとの嫌疑を受けて、苦境に陥る。1558年11月、姉死去の報をハットフィールド宮で入手、3日後に最初の枢密会議、セシルを秘書官長に任命、11月末ロンドン帰還、翌1559年1月戴冠 (たいかん)式を挙行、かくてエリザベスの治世が始まる。それはおおむね3時期に区分される。
1559年の「国王至上法」と「礼拝統一法」をもって父王が樹立したイングランド教会を再建、国民の最大多数を帰服させるため中道主義をとった。1563年には「三十九か条」を制定、公布して、国教会の教義的立場を明らかにした。外交面では、前女王以来の対フランス戦争に終結をもたらした(1559年4月)が、カレーの譲渡を余儀なくされた。その回復を図る意図もあって、1562年秋から翌年夏まで、ユグノー支援のためフランスに派兵したが、結局目的を果たさずに終わった。スコットランドでは、カルバン主義者の扇動に発した反乱に武力介入、エジンバラ条約を成立させて、フランスの勢力を一掃し、ブリテン島統一の礎 (いしずえ)を築いた。夫のフランス王の死後フランスからスコットランドに帰国したメアリー・スチュアートは、エリザベスとの対立意識が強烈だったが、不倫の恋が災いしてイギリスに亡命(1568年5月)、生涯捕らわれの身となり、その本国スコットランドには親英的政府が成立した。内政面でも、エリザベス的施策が種々試みられ、1560年グレシャムの提案により銀貨の改鋳を命じ、1563年には「囲い込み取締り法」「職人法」「救貧法」を制定、急激な変革を抑えて経済、社会の安定を目ざした。1568年末、スペインの軍資金奪取が因となって暫時両国の国交が危殆 (きたい)に瀕 (ひん)することがあり、また、1569年には「北方諸伯の反乱」が起こり、エリザベス体制への公然たる敵意が示された。1570年2月にはついに女王への破門状が公にされ、これに乗じてリドルフィの陰謀が企てられた。いずれも体制側に加えられた試練といえるが、無事にこれを切り抜けてその治世の堅固なことを実証しえた。
1560年代末以降の危機は、体制の安定とそれに伴う平和をもたらすことにかえって効果があり、1572年4月にスペインを仮想敵としてフランスと結ばれたブロア条約は、一つの指標たりうる。この間、女王は国民敬慕の的となり、毎年11月17日には、その即位を記念して盛大な式典が挙行された。内乱のおそれなく、対外戦争の大事もなく、ユグノー戦争のさなかにあるフランスと比べて禍福の差が顕著であったといえよう。1573~78年の5年間はとりわけ安穏であったとされる。しかし忍び寄る不安の影も否定しがたく、国教会に対する新旧両派の攻撃はしだいに激化し、メアリー・スチュアートの存在はやはり一つの禍根となった。外からはスペインの重圧が大きくなるのみで、女王の後継者は未定という状況であった。
女王の安危にかかわるバビングトン事件が発覚し、その一味であることが明らかになったメアリーは、ついに処刑された(1587年2月)。オランダの独立達成のため、イギリスの歩兵、騎兵がネーデルラントに派遣され、これがそれまでの海上における角逐と相まって、ついにイギリス・スペイン関係は戦争状態に突入した。1588年のスペインのアルマダ(無敵艦隊)に対する勝利により、女王の名誉は大いに高揚したが、戦争は長期化し、財政は苦しくなった。加えて、1594年から5年間連続して不作のため、穀物価格が騰貴して庶民の困窮が増大、戦争による過重な租税負担および仮借なき徴兵と相まって庶民の反抗心を刺激、諸所で暴動を引き起こした。老いたる女王を核とする政府側は、陳腐な理念より脱却しえず、そのため法令をつくっても有効適切なものになりえなかった。1595年アイルランド北部にスペインの使嗾 (しそう)に基づき反乱が勃発 (ぼっぱつ)、1598年ごろには全島に拡大して重大化した。さらに1601年2月、その鎮圧に失敗した寵臣 (ちょうしん)のエセックス伯が反逆し、女王を悲しませた。同年10月に開会された議会は、「独占特許」を論じて異常に興奮、女王の実質的な譲歩とみごとな演技とが事態を収拾しえた。その際の国民に対する献身的愛情を強調した名演説は治世の最後を飾るとされる。1603年3月24日、69歳の生涯を閉じた。女王の死とともにチューダー朝は終わり、スコットランドからメアリー・スチュアートの子ジェームズ6世が、ジェームズ1世として即位し、スチュアート朝を開いた。
エリザベスは、君主権の尊厳を重んじ、女王の威風あたりを払うことに意を用いた。統治にあたっては、つねに議会の協力を求めたが、大権事項にそれが関与することを許さなかった。人心の掌握には大いに努力するところがあり、しきりに試みられた巡幸はこのためのものである。好悪の情は著しいほうだったが、臣下の使い方を誤ることがなかった。生涯独身を通した。しかし、けっして木石の人ではなく、恋の炎に身を焦がすこともあり(ロバート・ダドリーとの恋は適例)、また多数の求婚者に言い寄られたが、自分と自国の立場からすべてを断念した。海上への発展に関心があり、ドレークらの海賊的行為を支援したのは公然の秘密である。
また、好学心の強い女王の下で、文運の隆盛をみたのはいうまでもないが、その治世はイギリス・ルネサンスの極盛期にあたり、すでにシェークスピアの登場がみられる。
©2024 NetAdvance Inc. All rights reserved.