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  11. 王羲之

王羲之

ジャパンナレッジで閲覧できる『王羲之』の日本大百科全書・世界文学大事典・世界人名大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
王羲之
おうぎし
[307―365]

中国、東晋 (とうしん)時代の能書家。中国、日本において書聖として尊重される。東晋の建国に功労のあった王導 (おうどう)の従弟 (いとこ)王曠 (おうこう)の子。字 (あざな)は逸少 (いっしょう)。琅邪 (ろうや)臨沂 (りんぎ)(山東省臨沂県)の人。秘書郎(宮中の典籍をつかさどる)をはじめとし、会稽 (かいけい)王友、臨川大守、江州刺史 (しし)、護軍将軍を歴任した。名門の出身であったが、中央政府の地位を求めず、351年(永和7)には右軍 (ゆうぐん)将軍、会稽内史に任じられ、会稽郡山陰県(浙江 (せっこう)省紹興 (しょうこう)府)に赴任した。この官名により王右軍と称される。また353年3月、山陰県の名勝蘭亭 (らんてい)に時の名士謝安、孫綽 (そんしゃく)らと会合し、詩を賦したことは有名で、曲水 (きょくすい)の宴として後世に伝わる。4年間の在任ののち辞任して、以後は自然に心を寄せ隠逸生活を送った。

 書は幼少よりよくし、衞夫人 (えいふじん)や叔父王廙 (おうよく)から筆法を授けられ、さらに漢魏 (かんぎ)の遺品をも学んだ。学書が進むにしたがい、しだいに羲之の能書としての名声は高まっていった。また、彼が、漢代に萌芽 (ほうが)した楷 (かい)・行 (ぎょう)・草 (そう)の実用書体を芸術的な書体にまで完成させたことは特筆に値する。彼の書は在世中より尊重され、南朝の宋 (そう)・斉 (せい)・梁 (りょう)の各王朝においても王侯貴族により愛好、絶賛された。さらに、隋 (ずい)を経て唐代には能書帝太宗が羲之を尊重し、その書を広く収集したこともあって、羲之書法は大いに盛行した。以後、後世の書に果たした役割および影響は大きいものがある。

 日本においては、『扶桑略記 (ふそうりゃっき)』の754年(天平勝宝6)正月16日の記事が、鑑真 (がんじん)の渡来とともに羲之書法の伝来を伝える。その後も羲之書法の伝来は多く、平安時代の三筆、三蹟 (さんせき)によって完成された和様書道にも大きな影響を与えた。また、近世になって盛んに渡来した集帖 (しゅうじょう)などにより、さらに羲之書法は書の規範としての地位を高めていった。

 今日、羲之の真跡は伝存しないが、双鉤填墨 (そうこうてんぼく)(書写された文字の上に薄紙を置いてその輪郭をとり、その中を墨で塗抹する模写法)による『喪乱帖 (そうらんじょう)』(宮内庁)や『孔侍中帖 (こうじちゅうじょう)』(前田育徳会)、さらに『蘭亭序 (らんていじょ)』『十七帖』『集王聖教序 (しょうぎょうのじょ)』などの拓本が伝えられ、これらによって羲之書法とその尊重ぶりをうかがうことができる。

[島谷弘幸]



王羲之『十七帖』[百科マルチメディア]
王羲之『十七帖』[百科マルチメディア]


13世紀の拓本。作品部各24.4×12.7cmメトロポリタン美術館所蔵

デジタル版 集英社世界文学大事典
王羲之 【おう・ぎし/ワン・シーヂー】
Wang Xi zhi
中国 307(永嘉1)頃-365(興寧3)頃
中国,東晋(とうしん)の文人。字(あざな)は逸少。琅邪臨沂(ろうやりんき)(山東省臨沂県)の人。六朝(りくちよう)随一の名門貴族の出身であり,20歳ごろ秘書郎となり,征西将軍庾亮(ゆりよう)のもとで参軍・長史を務め,寧遠(ねいえん)将軍・江州刺史・護軍将軍などを歴任し,最終の官は右軍(ゆうぐん)将軍・会稽(かいけい)内史。ために王右軍とも称される。355(永和11)年,49歳のとき父母の墓前に誓って官界を退いたのちは,二度と出仕しようとせず,道士の許邁(きよまい)らと交わり,会稽の逸民としての生涯を送った。
 東晋の貴族文化を代表する教養人であり,ことに書は古今第一と認められ,書聖の名を得ている。唐の太宗李世民(りせいみん)は彼の書を酷愛し,「蘭亭(らんてい)序」(解説後出)を昭陵に殉葬せしめ,また自ら『晋書』王羲之(おうぎし)伝の賛を撰(せん)するほどであった。ただ『晋書』は「年五十九にして卒す」と記すだけで,死んだ年を明らかにしないため,彼の生没年については諸説紛々としている。ここでは魯一同(ろいつどう)『右軍年譜』に従った。現行の『王右軍集』2巻は,明(みん)代の輯本(しゆうほん)であり,尺牘(せきとく)すなわち書簡の文章が大半を占める。『十七帖(じよう)』は特に名高い。流麗な草書体で書かれた尺牘は,書の手本として重要なだけでない。『晋書』『世説新語』などが伝える豪放磊落(らいらく)王羲之とは異なり,父・祖父として,あるいは友人として,親しい者たちの身を案じ,心を痛める彼の姿がうかがえて興味深い。それは風流の一語でかたづけられがちな東晋貴族の私的な生活を知る最良の資料であるとともに,『世説新語』とならぶ,当時の言語を研究するうえでの貴重な資料でもある。詩は由来に不安のある「蘭亭詩」のほか,「許詢(きよじゆん)に答う」の断句を残すだけである。許詢孫綽(そんしやく)に代表される玄言詩風の作品を創作したと推察される。「寥朗(りようろう)たり涯(はて)無き観(なが)め,目を寓(よ)すれば理は自(おの)ずと陳(つら)なる。大なり矣造化の功,万殊も均(ひと)しからざるは靡(な)し」(「蘭亭詩」)。また書法関係の論著として,「用筆の賦」「衛夫人の筆陣図の後に題す」などが伝わる。隋(ずい)代には文集9巻があった。伝は『晋書』巻80。
(矢淵孝良)


岩波 世界人名大辞典
おうぎし王羲之
Wáng Xīzhī
字:逸少
307[永嘉1]~65[興寧3]

中国東晋の政治家,書人.

瑯琊臨沂(現,山東臨沂)の人.生没年については諸説がある.303 [太安2]~61 [升平5],306 [光熙1]~64 [興寧2],321 [太興4]~79 [太元4].ここでは魯一同《王右軍年譜》の説によった.東晋建国の元勲王導の従子という.官ははじめ秘書郎となり,のち寧遠将軍,江州刺史に累遷したが,若くして逸民の志があり,地方官として外に出ることを望み,官界での最終官は右軍将軍・会稽内史であった.それ故,王右軍・王会稽と呼ばれることが多い.その人となりは,年少の頃は訥弁であったが,長じて雄弁となり骨鯁をもって称せられた.また,老荘を好み,退官後は友人の謝安らとともに山水に遊んだ.羲之の書については,当時においても極めて高く評価され,逸話も多い.その一つに,会稽内史を退いて,蕺(しゅう)山のふもとに住んでいたが,当地の道士が飼っていたみごとな鵝鳥が好きで,ほしくてたまらなかった.道士は譲らなかったが,河上公注の《老子道徳経》を府君が書いてくれれば,鵝鳥をさしあげよう,と言ったので羲之は半日とどまって,道士のために道徳経を書写して鵝鳥と交換し,喜び勇んで帰途についたという〈羲之換鵝経〉の故事がある.王献之の知遇をうけた羊欣(ようきん)は,羲之の書を評して,古今に並ぶものがないと絶讃した.唐の太宗(李世民)は羲之を酷愛し,《晋書》の本伝に論讃を書いた.かくして古今第一とする評価が定まり,書聖としての揺るぎない地位が確立された.作品は《蘭亭序》《十七帖》をはじめ,多くの法帖に見えるが,全て搨摹(とうも)や拓本の複製であって,真跡は1点も存在しない.

〖文献〗 晋書80.世説新語.虞龢:論書表.古来能書人名.書断(神品).

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2. 王羲之画像
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3. 王羲之
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4. おう‐ぎし[ワウ‥]【王羲之】
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中国、晉代の書家。字(あざな)は逸少。琅邪(ろうや=山東省)の人。官は右軍将軍で、官名によって王右軍ともいわれる。楷、行、草三体の書体を芸術的完成の域にまで高め
5. おうぎし【王羲之】
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三〇七―六五 東晋時代の能書家。字は逸少。西晋の永嘉元年(三〇七)、琅邪臨沂(山東省)に生まれる。土地の名族王氏の出身で、父曠は淮南太守。祖父は王正。導の従子
6. 王羲之(おうぎし)
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7. 王羲之 【おう・ぎし/ワン・シーヂー】
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得ている。唐の太宗李世民は彼の書を酷愛し,「蘭亭序」(解説後出)を昭陵に殉葬せしめ,また自ら『晋書』王羲之伝の賛を撰するほどであった。ただ『晋書』は「年五十九に
8. 【王羲之】おう(わう)ぎし
新選漢和辞典Web版
人名。晋(しん)の有名な書家。字(あざな)は逸少(いっしょう)。右軍(ゆうぐん)とも呼ばれる。草書・隷書(れいしょ)(今の楷書)にすぐれ、後世、書聖と仰がれた
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10. 王羲之書(著作ID:4369786)
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11. えいこう【衛恒】(Wèi Héng)
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13. えにん【懐仁】(Huáirén)
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14. おう【王廙】(Wáng Yì)
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15. おうきし【王徽之】(Wáng Huīzhī)
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16. おうけんし【王献之】(Wáng Xiànzhī)
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17. おうこう【王洽】(Wáng Qià)
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18. おうこくしょう【王穀祥】(Wáng Gǔxiáng)
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19. おうしゅう【王修】(Wáng Xiū)
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陽(現,山西太原市)の人.王濛(おうもう)の子.官は中軍司馬.書は隷書に巧みであった.友人の王羲之(おうぎし)が王導(おうどう)から賜与された鍾繇(しょうよう)
20. おうしょう【皇象】(Huáng Xiàng)
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21. おうじゅん【王珣】(Wáng Xún)
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徐邈らとともに孝武帝(司馬曜372/96)の厚遇を得た.彼の《伯遠帖》は,清の乾隆帝の時に,王羲之(おうぎし)の《快雪時晴帖》,王献之(おうけんし)の《中秋帖》
22. おうたく【王鐸】(Wáng Duó)
世界人名大辞典
とに董其昌(とうきしょう)と肩を比べて賞せられていた.楷書は魏の鍾繇(しょうよう)から東晋の王羲之(おうぎし)にいたる,いわゆる魏晋小楷をみごとに展開しながら,
23. おうちけい【王知敬】(Wáng Zhījìng)
世界人名大辞典
善くし双絶と称された.太宗(李世民)の時には,校書郎の官にあり,褚遂良(ちょすいりょう)とともに王羲之(おうぎし)の書の鑑定に当たった(《二王等書録》).則天武
24. おうちとう【王穉登】(Wáng Zhìdēng)
世界人名大辞典
少なく,今日では〈王穉登本十七帖〉の名によって知られる.同帖への跋,〈李公麟瀟湘臥遊図跋〉〈王羲之快雪時晴帖跋〉などの題跋をよく残している.著に《呉郡丹青志》が
25. おうちょ【王著】(Wáng Zhù)
世界人名大辞典
学び,とりわけ楷行書にすぐれた.彼の書風は当時を風靡し,翰林院の正書体である院体の模範として称せられ,また王羲之(おうぎし)になぞらえて〈小王の書〉ともいわれた
26. おうどう【王導】(Wáng Dǎo)
世界人名大辞典
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27. おうようじゅん【欧陽詢】(Ōuyáng Xún)
世界人名大辞典
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28. かいしん【解縉】(Xiè Jìn)
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いずれをもよくしたが,特に小楷にすぐれ,また草書を好んで狂草を善くした.書学にも造詣が深く,王羲之以後の名筆は,智永,蘇軾,米芾(べいふつ),趙孟頫(ちょうもう
29. かいそ【懐素】(Huáisù)
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よばれ,張旭(ちょうきょく)と合わせて〈張顛素狂〉とよばれる.従兄に当たる鄔彤(おとう)から王羲之(おうぎし)の《悪渓》《小王》《騒労》の三帖を授かり,張旭の古
30. がんしんけい【顔真卿】(Yán Zhēnqīng)
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で,各体の書をよくしたが,とりわけ楷書に優れた.筋骨たくましい重厚な書は,当時の主流であった王羲之(おうぎし)の貴族的な感性とはかなり異質で,革新的なものであっ
31. きょうりつこう【姜立綱】(Jiāng Lìgāng)
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32. きょじゅん【許詢】(Xǔ Xún)
世界人名大辞典
かず,生涯任官しなかったため,許徴士とも呼ばれる.山水を好み,会稽(現,浙江紹興)に隠居して王羲之(おうぎし),劉惔(りゅうたん),謝安らと交遊し,清談家として
33. きょまい【許邁】(Xǔ Mài)
世界人名大辞典
遍歴して仙道修行に励み,去世後には地仙となったとされる.山陰県(紹興)で逸民の生活を楽しんでいた王羲之(おうぎし)は親密に付き合い,その霊異の事績を述べた伝記を
34. けいこう【啓功】(Qǐgōng)
世界人名大辞典
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35. けいとう【邢侗】(Xíng Tóng)
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36. げんけん【阮研】(Ruǎn Yán)
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梁鵠(りょうこく)らとともに名があげられており,庾と同時かそれ以前の人であろう.その行・草は王羲之(おうぎし)から出ており,特に筋力が最もすぐれると評され,また
37. こうていけん【黄庭堅】(Huáng Tíngjiān)
世界人名大辞典
を作ることにあり,南宋になってからは江西詩派の祖として仰がれるようになった.書も多くを学び,王羲之(おうぎし)を高く評価したが,欧陽詢(おうようじゅん),虞世南
38. じゅうぎ【顧従義】(Gù Cóngyì)
世界人名大辞典
研山を得たのでその号がある.居を玉泓館という.書に巧みで,楷書は鍾繇(しょうよう),行草書は王羲之・王献之を学んだ.書画・古法帖・古印等の収蔵に富み,諸帖をよく
39. きょ【呉琚】(Wú Jū)
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得た.諸官を経て,鎮安軍節度使,判建康府となった.文集に《雲壑集》がある.書では鍾繇(しょうよう),王羲之(おうぎし)を学んだが,特に米芾(べいふつ)の書を完璧
40. さいけい【蔡京】(Cài Jīng)
世界人名大辞典
形成する面があったことは否めない.書は徐浩,沈伝師(しんでんし),欧陽詢(おうようじゅん)を学び,晩年は王羲之(おうぎし)を法とし,書の正統を身につけた.元来,
41. さいじょう【蔡襄】(Cài Xiāng)
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助けて反対派を厳しく攻撃した.文化人としては茶を嗜み,《茶録》《荔枝譜》の著を残している.書は王羲之(おうぎし)を慕い,顔真卿(がんしんけい)を学んで,楷書・行
42. しきどうじん【識道人】(Shídàorén)
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作って売り,人々はそれを宝とした.《書断》(妙品)に,欧陽通(おうようとう)の言として,識道人は王羲之(おうぎし)の甥であって,その書は伯父にそっくりであると述
43. とん【支遁】(Zhīdùn)
世界人名大辞典
》巻8)はその成果で,大小2種の《般若経》を対比しつつ,般若思想の本質を明らかにした.謝安や王羲之などの名流貴族と交遊し,都建康(南京)で清談の座に加わっては,
44. しゃあん【謝安】(Xiè Ān)
世界人名大辞典
)の人.王氏とともに東晋の望族.官は吏部尚書に至った.40歳頃までは出仕せず,会稽に幽棲して王羲之(おうぎし),支遁(しとん)らの名士と交遊し,はなはだ人望があ
45. しゃどううん【謝道韞】(Xiè Dàoyùn)
世界人名大辞典
りゅうじょ)の風に因(よ)りて起こるに若(し)かず」の句でこれをしのいだ話が知られる.のちに王羲之の子,王凝之に嫁した.孫恩の乱[399:隆安3]で夫や子を失っ
46. しゅうはくき【周伯琦】(Zhōu Bóqí)
世界人名大辞典
ほしいままにした.篆書は殊にすぐれ,奎章閣を宣文閣と改名したとき,勅命によりその篆額を書した[41:至正1].王羲之の《蘭亭序》,智永の《千字文》を臨模させ,石
47. しょうとん【章惇】(Zhāng Dūn)
世界人名大辞典
徹底的に弾圧し,高太后が立てた孟皇后を廃位に追い込んだ.しかし徽宗(きそう)即位後,弾劾・左遷された.書は王羲之風の伝統派を学んだ.〖文献〗 宋史471.東都事
48. しょうよう【鍾繇】(Zhōng Yáo)
世界人名大辞典
書壇の大宗であって,王羲之(おうぎし)は,漢の張芝(ちょうし)とともに鍾繇を尊崇し,この2者の他は見るに足らずと評し,また庾肩吾(ゆけんご)の《書品》は,張芝・
49. しん【沈度】(Shěn Dù)
世界人名大辞典
1366~1418)らはみな書に巧みだったが,永楽帝は特に沈度の書を好んで寵愛し,「我が朝の王羲之」と称えて重要な詔勅はみな書かせたという.弘治帝も沈度の書を酷
50. じょこう【徐浩】(Xú Hào)
世界人名大辞典
予)が即位すると再び中書舎人となり,吏部侍郎,集賢殿学士となった.書を善くし,それが伝統派の王羲之(おうぎし)の流れを汲むものであったことは,経歴からも作品から
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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