NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 遺跡
  8. >
  9. 日本の史跡・遺跡・遺物・史料
  10. >
  11. 楯築遺跡

楯築遺跡

ジャパンナレッジで閲覧できる『楯築遺跡』の世界大百科事典・日本歴史地名大系のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
楯築遺跡
たてつきいせき

岡山県倉敷市矢部にある楯築神社境内の弥生時代墳墓遺跡。神社御神体の通称〈亀石〉は特殊な弧状帯文様をもつ石造品として,頂部に立つ巨石群とともに著名であるが,最近になって神社が所在する円丘全体が弥生時代の墳丘墓であることが判明し,1976年,78年,79年の3回にわたり発掘が行われた。円丘は自然地形を利用し,盛土若干をもって整えられ,径約50m,高さ約5m。北東と南西に突出部をもっていたが,団地造成工事によって破壊除去された。墳斜面には石列2列とその間に円礫帯がめぐる。中心の埋葬は木槨に木棺を納めたもので,棺底には30kgをこえる朱がおかれ,副葬品として剣,勾玉(まがたま),管玉から成る首飾などがみられた。埋葬後その上部に積まれたおびただしい円礫の中から小型弧帯石,人形(ひとがた)土器,土製勾玉,管玉,特殊器台形土器,同壺形土器が発見され,盛大な祭祀が行われたことを示した。
[近藤 義郎]



日本歴史地名大系
楯築遺跡
たてつきいせき

[現]倉敷市矢部・日畑

楯築神社跡のある丘陵上にある。国指定史跡。確認されている限り、弥生時代最大の墳丘をもつ墳墓であり、この地域の同時代の各種の墳墓群のうちでも中心的な存在である。墳丘は、中央にほぼ円形を呈し広い墳頂面をもつ円丘があり、左右に長方形の張出し部を付している。その全景は、いわゆる中円双方墳に似た形を示し、一部破壊されてしまったが、全長は八〇メートルを超える。墳頂には巨大な立石と、それを囲む立石が残されている。墳丘には二重の列石がめぐり、墳頂面は玉砂利が敷きつめられていたようである。

この地に祀られていた楯築神社の神体と伝えられる弧帯石(亀石、国指定重要文化財)は、当遺跡に伴うものと考えられている。この石造物は、長径約九〇センチの石の全面に、立体的表現の組帯文が彫刻されている。石の平面形はほぼ菱形を呈しているが、その一角には突出部が作り出されて人面が彫刻されている。人面の表現は、眉から鼻にかけて立体的に彫り出され、目・口などは細い線描で表されている。このほか頬にも細い線描で縦線が描かれていて、弥生時代の人面表現にしばしばみられる表現に共通するものである。昭和五一年(一九七六)から発掘調査が行われ、墳丘中央部から木郭木棺墓が検出されている。

上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


楯築遺跡の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 16
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 楯築遺跡画像
日本大百科全書
岡山県倉敷市矢部の丘陵頂、旧楯築神社境内にある弥生(やよい)時代の大墳丘墓。主丘は円形で径43メートル、高さ4~5メートルで、北東と南西に突出部があり、円礫(え
2. 楯築遺跡
世界大百科事典
岡山県倉敷市矢部にある楯築神社境内の弥生時代墳墓遺跡。神社御神体の通称〈亀石〉は特殊な弧状帯文様をもつ石造品として,頂部に立つ巨石群とともに著名であるが,最近に
3. たてつきいせき【楯築遺跡】岡山県:倉敷市/旧都窪郡地区/矢部村
日本歴史地名大系
[現]倉敷市矢部・日畑 楯築神社跡のある丘陵上にある。国指定史跡。確認されている限り、弥生時代最大の墳丘をもつ墳墓であり、この地域の同時代の各種の墳墓群のうちで
4. 楯築遺跡
日本史年表
この前後から 大型弥生墳丘墓 が出現する.墳丘の平面形は、瀬戸内周辺では双方中円形(岡山県 楯築遺跡 )や前方後円形(京都府 園部黒田遺跡 )、山陰では四隅突出
5. 楯築遺跡[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国指定史跡 岡山県倉敷市©倉敷市
6. うまやごう【駅家郷】岡山県:備中国/都宇郡
日本歴史地名大系
されているが、従うべきであろう。推定郷域内には弥生後期の墳丘墓としては全国的にも珍しい巨大な楯築遺跡(日畑・矢部)があり、往時の吉備勢力をしのばせている。また白
7. 大型弥生墳丘墓
日本史年表
この前後から 大型弥生墳丘墓 が出現する.墳丘の平面形は、瀬戸内周辺では双方中円形(岡山県 楯築遺跡 )や前方後円形(京都府 園部黒田遺跡 )、山陰では四隅突出
8. きび【吉備】岡山県:総論
日本歴史地名大系
このような結合関係のなかで備中南部が中心的位置を占めたことは遺跡数からも明らかであるが、とくに楯築遺跡(倉敷市)はその墳丘墓としての規模や構造などから、弥生後期
9. くらしきし【倉敷市】岡山県
日本歴史地名大系
松山山頂から出土した銅鐸、瑜伽山付近で発見された銅剣が知られている。弥生時代終末期の遺跡では楯築遺跡・向木見遺跡などから特殊器台を伴う埋葬遺跡が発見されて注目を
10. 園部黒田遺跡
日本史年表
この前後から 大型弥生墳丘墓 が出現する.墳丘の平面形は、瀬戸内周辺では双方中円形(岡山県 楯築遺跡 )や前方後円形(京都府 園部黒田遺跡 )、山陰では四隅突出
11. つうぐん【都宇郡】岡山県:備中国
日本歴史地名大系
意味すると考えられ、古代吉備の海上交通上の要地でもあった。郡域内には、弥生時代最大の墳丘をもつ墳墓である楯築遺跡(倉敷市日畑・矢部)や、弥生墳丘墓(同市西尾・矢
12. つくぼぐん【都窪郡】岡山県
日本歴史地名大系
期の大集落跡(上東遺跡)、同遺跡北側の丘陵地(倉敷市矢部・日畑西山)の弥生後期の巨大な墳墓(楯築遺跡)などの存在は当地域が早くから開けていたことをうかがわせる。
13. 西上免遺跡
日本史年表
この前後から 大型弥生墳丘墓 が出現する.墳丘の平面形は、瀬戸内周辺では双方中円形(岡山県 楯築遺跡 )や前方後円形(京都府 園部黒田遺跡 )、山陰では四隅突出
14. 西谷遺跡
日本史年表
この前後から 大型弥生墳丘墓 が出現する.墳丘の平面形は、瀬戸内周辺では双方中円形(岡山県 楯築遺跡 )や前方後円形(京都府 園部黒田遺跡 )、山陰では四隅突出
15. びっちゅうのくに【備中国】画像
国史大辞典
墓である墳丘墓と、その埋葬儀礼にかかわる特殊器台形土器や特殊壺形土器が集中的に分布する。特に楯築遺跡は代表的事例で、この時期の吉備大首長の墳墓である。古墳時代に
16. 200年
日本史年表
この前後から 大型弥生墳丘墓 が出現する.墳丘の平面形は、瀬戸内周辺では双方中円形(岡山県 楯築遺跡 )や前方後円形(京都府 園部黒田遺跡 )、山陰では四隅突出
「楯築遺跡」の情報だけではなく、「楯築遺跡」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

楯築遺跡と同じ日本の史跡・遺跡・遺物・史料カテゴリの記事
大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面


「楯築遺跡」は遺跡に関連のある記事です。
その他の遺跡に関連する記事
大森貝塚(日本大百科全書・世界大百科事典・日本歴史地名大系)
アメリカの動物学者エドワード・S・モースが1877年(明治10)6月、横浜から東京・新橋(しんばし)へ向かう汽車の車窓から発見した貝塚。東京都品川区大井6丁目、東海道本線の線路ぎわに「大森貝塚」の碑がある。また大田区山王1丁目地内に「大森貝墟(きょ)
佐渡金山(世界大百科事典)
新潟県佐渡郡(佐渡国)相川町(現,佐渡市)を中心とした金銀山。天文年間(1532-55)鶴子(つるし)(現同市,旧佐和田町)で発見された銀山は,文禄(1592-96)から慶長(1596-1615)にかけて坑道掘りの技術の導入にともない,その中心が
楯築遺跡(世界大百科事典・日本歴史地名大系)
岡山県倉敷市矢部にある楯築神社境内の弥生時代墳墓遺跡。神社御神体の通称〈亀石〉は特殊な弧状帯文様をもつ石造品として,頂部に立つ巨石群とともに著名であるが,最近になって神社が所在する円丘全体が弥生時代の墳丘墓であることが判明し,1976年,78年
弥生土器(世界大百科事典)
弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。1884年に東京本郷の弥生町向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)で採集された土器がもとになって,90年代から〈弥生式土器〉の名称が生まれた。最近では,細別するときに
日立鉱山(国史大辞典・世界大百科事典)
茨城県日立市にあった近代有数の銅山。天正年間(一五七三―九二)の発見と伝えられるが、文久・元治の交、常陸の人大塚源吾衛門が水戸藩の許可を得て三年間稼行し休業したのち、明治六年(一八七三)以降、数人の鉱業人を経て同三十四年末に赤沢鉱業合資会社の経営に


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶